生々しい和田キヨヱさんの証言
古賀達也氏(古田史学の会代表・今回の「東日流外三郡誌の逆襲」の編集主幹)は、偽作説への反論、真作であると主張する論考に、よく誰々の証言、を持ち出される。それが決定的証拠になるとお考えのようだが、その証言者に担ぎ出されている人の中には、どうも第三者的な立場の人というよりも、いわば喜八郎の旧知の仲の人物も含まれる。
この点に関しては、また改めてふれるが、その一方で、和田キヨヱさんという、もっとも喜八郎をよく知る人物については、なぜか話題にされていない。古田史学の会のHPや古田武彦古代史研究会(こちらは登録さえすれば検索画面は使えます)で「和田キヨヱ」で検索しても、まったく何も出てこない。東日流外三郡誌、和田家文書について、真書として様々に論じられており、特に古田史学の会のHPでは古田氏、古賀氏以外の論考も多数掲載されているにもかかわらず、彼女について取り上げる記事は一つもない。自分に不利な人物の証言については完全にスルーということであろうか。
この点に関しては、また改めてふれるが、その一方で、和田キヨヱさんという、もっとも喜八郎をよく知る人物については、なぜか話題にされていない。古田史学の会のHPや古田武彦古代史研究会(こちらは登録さえすれば検索画面は使えます)で「和田キヨヱ」で検索しても、まったく何も出てこない。東日流外三郡誌、和田家文書について、真書として様々に論じられており、特に古田史学の会のHPでは古田氏、古賀氏以外の論考も多数掲載されているにもかかわらず、彼女について取り上げる記事は一つもない。自分に不利な人物の証言については完全にスルーということであろうか。
今後の説明にも関係する予備知識ともなるので、そんな彼女の証言を、斎藤光政氏「偽書東日流外三郡誌事件」(新人物往来社)の記事から4点掲載する。 途中の私のコメントは黒字にしておく。
和田キヨヱ氏の証言
【絵が上手だった喜八郎】
P55 和田家の隣に住む和田キヨヱだった。1930年生まれのキヨヱは、和田の父方のいとこにあたり、家庭の事情から十代の後半を和田の家で過ごしていた。『外三郡誌』が「発見」されたとされる和田の家は、三歳年上の和田とともに育ったわが家同然の建物だった。それゆえに、キヨヱが語る『外三郡誌』の世界はあまりにも克明だった。
「喜八郎さんは小さいころから絵を描くのがうまくて、よく家の中で描いていました。特に、凧絵(武者絵のこと)が上手でした。大人になってからは、障子紙に自分で書いたものを天井からつるし、すすをつけてはもみ、古く見せるようなことをしていました。その時は何をやっているんだろうと思って見ていました。最近のことですが、ある人から和田家文書の中の一つだという『東日流六郡誌絵巻』と呼ばれるものを見せられました。その中に掲載されている挿絵を見てやっぱり、と思いました。喜八郎さんが書いていたものと同じだったからです。字も同じでした」
この写真の襖絵を見て、キヨヱさんと同じように、あっ、やっぱりと思ってしまった。これが動かぬ証拠であろう。
喜八郎は、それなりに器用なのである。さらに口も達者だから、相手を信じ込ませるのはお手のものだったのであろう。
【骨董品の工作】
P297「喜八郎さんは若いころから、よく物を書いていました。いろりの上にわらじをほすための火棚というものがありましたが、そこについた煤を自分が書いたものにこすりつけて、古く見せるようにしたりしていました。私はその場面を目撃しましたよ。」
また、和田の親類の一人はこうも語った。「喜八郎さんの父親から聞いた話ですが、喜八郎さんは仏像や陶器を味噌に漬けて土中にしばらく置き、古く見えるようにしては売っていたということです」
これも生々しい証言だ。こういった具体的な詐欺的行為を知ることができるのは貴重だ。世に骨董品などの偽造は絶えないが、喜八郎も同業者であるということだ。
【天井からは落ちていない】
P306「本当に、はんかくさい(おかしいの意)。私が最初から言っているじゃないですか。すべて、喜八郎さんの作り話だと。もともと、この家には何もなかったんです。古い巻物とか書き物なんか、一切伝わっていなかったんです。それも、よりによって何千巻もだなんて・・・。それなのに、なんで、頭のいいはずの学者さんたちがコロッとだまされたんでしょうか。不思議でしかたがありません。いいですか、聞いてください。古文書が落ちてきたという1947年ごろ、私はこの家に暮らしていましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。原田さんの言うとおり、1947年にはまだ天井板を張っていませんでした。ありもしない古文書が、ありもしない天井板を突き破って落ちてきたなんて。本当にもう、はんかくさい話ですよ」
おっしゃるとおり、「頭のいいはずの学者さんたちがころっとだまされ」てしまったんですね。はんかくさい、残念です。
【役小角の墓発見騒動】
P214 「盃が見つかった場所から、今度は仏像が出るといううわさが立ったので、飯詰の村人数人が喜八郎さんと一緒に石の塔の山に行きました。その時、一緒に行った人から聞いた話ですが、現地では、あまり土を掘らないうちに仏像が出てきたそうです。でも掘りだしたとたん仏像の首がもげてしまった。村人の一人が、キハチさん首がもげたと言うと、キハチさんは「うん、それは前からもげそうだったんだ」・・・・
みんなで笑うしかなかった、と言ってました。出る(仏像が)といううわさを広めたのもキハチさん。」
確かにこれはもう笑うしかない。油断したのであろうか、ついうっかりホントのことを口走ってしまった。潮干狩りでは、事前に貝を仕込んでおくそうだが、まあそれで参加者の子供たちや家族が楽しめたらよいかとは思うが、この場合は、役小角の墓の証拠にしようとした詐欺的行為であり許せるものではない。旧石器捏造事件の偽装工作と同じレベルのものだ。喜八郎は、このような行為、工作を繰り返していたのだろう。
この和田キヨヱさんの証言こそ、たいへんリアルであるといえる。もし「逆襲」しようと目論むならば、まずこの証言に別の証拠で彼女の発言はでたらめだ、といった反論する必要があるだろう。しかしそれができないから一言もふれないのではないか。こんなことでは「逆襲」などと言う資格はないであろう。
参考文献
斎藤光政『偽書東日流外三郡誌事件』新人物文庫(新人物往来社) 2009 冒頭写真も利用させていただいた。
参考文献
斎藤光政『偽書東日流外三郡誌事件』新人物文庫(新人物往来社) 2009 冒頭写真も利用させていただいた。









