流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2025年05月

生々しい和田キヨヱさんの証言
 古賀達也氏(古田史学の会代表・今回の「東日流外三郡誌の逆襲」の編集主幹)は、偽作説への反論、真作であると主張する論考に、よく誰々の証言、を持ち出される。それが決定的証拠になるとお考えのようだが、その証言者に担ぎ出されている人の中には、どうも第三者的な立場の人というよりも、いわば喜八郎の旧知の仲の人物も含まれる。
 この点に関しては、また改めてふれるが、その一方で、和田キヨヱさんという、もっとも喜八郎をよく知る人物については、なぜか話題にされていない。古田史学の会のHPや古田武彦古代史研究会(こちらは登録さえすれば検索画面は使えます)で「和田キヨヱ」で検索しても、まったく何も出てこない。東日流外三郡誌、和田家文書について、真書として様々に論じられており、特に古田史学の会のHPでは古田氏、古賀氏以外の論考も多数掲載されているにもかかわらず、彼女について取り上げる記事は一つもない。自分に不利な人物の証言については完全にスルーということであろうか。
 今後の説明にも関係する予備知識ともなるので、そんな彼女の証言を、斎藤光政氏「偽書東日流外三郡誌事件」(新人物往来社)の記事から4点掲載する。 途中の私のコメントは黒字にしておく。

和田キヨヱ氏の証言
 【絵が上手だった喜八郎
IMG-6642編集
P55 和田家の隣に住む和田キヨヱだった。1930年生まれのキヨヱは、和田の父方のいとこにあたり、家庭の事情から十代の後半を和田の家で過ごしていた。『外三郡誌』が「発見」されたとされる和田の家は、三歳年上の和田とともに育ったわが家同然の建物だった。それゆえに、キヨヱが語る『外三郡誌』の世界はあまりにも克明だった。
「喜八郎さんは小さいころから絵を描くのがうまくて、よく家の中で描いていました。特に、凧絵(武者絵のこと)が上手でした。大人になってからは、障子紙に自分で書いたものを天井からつるし、すすをつけてはもみ、古く見せるようなことをしていました。その時は何をやっているんだろうと思って見ていました。最近のことですが、ある人から和田家文書の中の一つだという『東日流六郡誌絵巻』と呼ばれるものを見せられました。その中に掲載されている挿絵を見てやっぱり、と思いました。喜八郎さんが書いていたものと同じだったからです。字も同じでした」

 この写真の襖絵を見て、キヨヱさんと同じように、あっ、やっぱりと思ってしまった。これが動かぬ証拠であろう。
 喜八郎は、それなりに器用なのである。さらに口も達者だから、相手を信じ込ませるのはお手のものだったのであろう。

 【骨董品の工作
P297「喜八郎さんは若いころから、よく物を書いていました。いろりの上にわらじをほすための火棚というものがありましたが、そこについた煤を自分が書いたものにこすりつけて、古く見せるようにしたりしていました。私はその場面を目撃しましたよ。」
 また、和田の親類の一人はこうも語った。「喜八郎さんの父親から聞いた話ですが、喜八郎さんは仏像や陶器を味噌に漬けて土中にしばらく置き、古く見えるようにしては売っていたということです」

 これも生々しい証言だ。こういった具体的な詐欺的行為を知ることができるのは貴重だ。世に骨董品などの偽造は絶えないが、喜八郎も同業者であるということだ。

 【天井からは落ちていない
P306「本当に、はんかくさい(おかしいの意)。私が最初から言っているじゃないですか。すべて、喜八郎さんの作り話だと。もともと、この家には何もなかったんです。古い巻物とか書き物なんか、一切伝わっていなかったんです。それも、よりによって何千巻もだなんて・・・。それなのに、なんで、頭のいいはずの学者さんたちがコロッとだまされたんでしょうか。不思議でしかたがありません。いいですか、聞いてください。古文書が落ちてきたという1947年ごろ、私はこの家に暮らしていましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。原田さんの言うとおり、1947年にはまだ天井板を張っていませんでした。ありもしない古文書が、ありもしない天井板を突き破って落ちてきたなんて。本当にもう、はんかくさい話ですよ」

おっしゃるとおり、「頭のいいはずの学者さんたちがころっとだまされ」てしまったんですね。はんかくさい、残念です。

役小角の墓発見騒動
P214 「盃が見つかった場所から、今度は仏像が出るといううわさが立ったので、飯詰の村人数人が喜八郎さんと一緒に石の塔の山に行きました。その時、一緒に行った人から聞いた話ですが、現地では、あまり土を掘らないうちに仏像が出てきたそうです。でも掘りだしたとたん仏像の首がもげてしまった。村人の一人が、キハチさん首がもげたと言うと、キハチさんは「うん、それは前からもげそうだったんだ」・・・・
 みんなで笑うしかなかった、と言ってました。出る(仏像が)といううわさを広めたのもキハチさん。」 

 確かにこれはもう笑うしかない。油断したのであろうか、ついうっかりホントのことを口走ってしまった。潮干狩りでは、事前に貝を仕込んでおくそうだが、まあそれで参加者の子供たちや家族が楽しめたらよいかとは思うが、この場合は、役小角の墓の証拠にしようとした詐欺的行為であり許せるものではない。旧石器捏造事件の偽装工作と同じレベルのものだ。喜八郎は、このような行為、工作を繰り返していたのだろう。

 この和田キヨヱさんの証言こそ、たいへんリアルであるといえる。もし「逆襲」しようと目論むならば、まずこの証言に別の証拠で彼女の発言はでたらめだ、といった反論する必要があるだろう。しかしそれができないから一言もふれないのではないか。こんなことでは「逆襲」などと言う資格はないであろう。

 参考文献
斎藤光政『偽書東日流外三郡誌事件』新人物文庫(新人物往来社) 2009  冒頭写真も利用させていただいた。

th_kiuso
1.「石」の説明はない

 『東日流外三郡誌の逆襲』という本を準備していると聞いた時、唖然としたのだが、そのタイトルに笑ってしまった。逆襲?ではなく逆ギレではないのかと。
 私は、参加している古田史学の会の集まりの中で、この件については質問し、意見も述べてきた。私自身はまだ新参者で、古田武彦氏との面識などもまったくなかった。そして、この問題で騒がれていた時のことも何も知らないで遅くにこの会に参加した身であった。そういう中で、時に話題となるこの件で質問したのだが、会の代表の古賀達也氏や、当時のベテランの方も、その返事が「玉石混交」という説明であった。石も混じっているが、本物もあるのだというのである。
 だがその後も、この件については、語られる内容において「石」についての説明は聞いたことがない。同じ趣旨で運営されている関東の組織の定期発行紙の記事に、ピラミッドやらシュメールが登場するのを見て、これはどう考えても「石」じゃないのかと思った。まあ、言論の自由だから何を言っても構わないのだろうけど、これでは、新たな会員は増えないのではなかろうか。
 私は、『東日流外三郡誌』の内容で、これを信じて記事を書かれて、会誌に掲載されたものを批判したことがあるのだが、どうも右から左に流されてまともに受け止めてもらえなかった。最近では、何を言っても無駄だと思うようになってきたが、今回の『東日~の逆襲』なる本の目次を見ても、「石」についてはふれようとしていないように見える。もちろん、まだ完成本を見たわけではないが、これまでに発表されてるものや古賀氏のブログから、およその内容は判断できる。自分に有利な話ばかり載せてもフェアではないと思う。

2.原本なしでも話はすすんだ

 あと、さらに不信となるのが、この件での古田武彦氏の対応だ。この文書が初めて持ちかけられた時の古田氏の言葉は次のようであった。 
 古田史学会報81号 寛政原本と古田史学 昭和63年(1988)年頃    
【 (一)「寛政原本」問題の出発点
 わたしは青森市における講演において、講演終了後、控室において一人の中年紳士の訪問を受けた。
 「東日流外三郡誌の研究をしていただきたいのです。』
 「しかし、わたしは活字本ではなく、原本を見ないと、研究できません。」
 「原本をお見せいたします。」
 これが、藤本光幸氏との、最初の会話だったのである。】以上
 
 ここから話が始まるわけだが、当時の古田氏は、「原本なしでは研究できない」と明言しているのである。ところが、その後は、原本などないままに、「活字本」を読んで、これにのめり込まれたのである。話が違うのではなかろうか。
 藤本氏は、原本を見せる、と言われたそうだが、実際はそれから20年以上たってから寛政原本なる物などが登場したという。(これもかなりあやしいのだが)
 また、引用した記事の最初には、亡くなる直前の和田喜八郎と古田氏のやりとりが記されている。
【 「あった、あった、あったよ。」(これは喜八郎)
 「何があった。」
 「寛政原本だよ、寛政原本。」
 「そうか、見せてくれ。」
 「うん、また連絡する。」
爾来、二十有余年。事態は一変した。肝心の『寛政原本』が出現したのである。】
 
 和田喜八郎の亡くなる直前なので、1999年頃のやりとりだろう。この時点でさえ、古田氏は原本を見ていないということだ。「事態は一変した」などとよく言えるなあと思う。しかも、「そうか見せてくれ」とはどういうことだ。今まで見せてもらえなかったことを変だとは思われなかったのか?

 古田氏は、当時の古代史関係の学者さんと激しい論争を行い、かなりきつい調子で、相手を非難するようなことをおやりになった。そのうち、誰も氏を相手にしないようになるのだが。しかも、相手が学者だけでなく、自主的に運営する古田史学の会の会員の研究発表でも、その内容が気にくわないと、相手がやる気をなくしてしまうほどのかなり厳しい批判をされていたようだ。
 他人には大変厳しい古田先生だが、こと喜八郎に対しては、すべて信じてしまっているのだ。既に、銅鏡の件については(こちら)説明したが、ちょっとぐらい疑うことはされなかったのかと呆れてしまう。「原本を見ないと研究しない」というのは何だったのか。人にはきつく、自分には甘いということであろうか。

 この本の出版については、あまり騒ぎ立てることなく、静観して終わらせたいのだが、これから古代史に関心をもっていこうとされる人たちに、こういった類いのものを信じることのないように、「石」の説明は、今後もしていきたいと思う。
 
写真は大宰府の木うそ  Webマガジン『コロカル』より

伊勢市猿田彦神社
       三重県猿田彦神社の火打による火鑽習俗

『常陸国風土記』 久慈郡に次の記事がある。
  「北有小水 丹石交錯 色似㻞碧 火鑽尤好 因似號玉川」
 現代語訳「北に小川がある。赤い石が入り混じっている。色は、|琥碧《クハク》に似ていて、火打石に使うのに大変良い。それで玉川と名づけている。」
 小学館風土記の注の火鑚の箇所に、「ここでは石を打って発火させる意」とあるが、これはやや不十分な説明。
 メノウなど硬度のある石(鉄より硬い)で、火打金に打撃を加えても、その石自体が破損しないから、強打しても、火花が出やすいので火打石に適しているということだ。
すなわち風土記は、火打金で火花を出すのにとてもよい石だとしているのだ。この記事から、8世紀の初めには、火打で発火させることを行う人たちが少なからず存在したことを示している。実際に、7世紀頃に隣県の千葉県我孫子市で火打ち金出土している。8世紀以降には関東一円で見つかるようになる。

 火打石による発火は、占いや縁起担ぎに使われている。
『栄花物語』に、藤原道長が、火打ちによって点火した時、一度目で点火することを願い、それが叶ったことを記しており、火打金による発火はしばしば占いにも使われ、それが平安時代には行われていたのである。

 神社の神事では、摩擦法による発火が一般的と思ったが、神官が火打による発火を行っている神社も少なからずあるようだ。
神事で火花式発火法が行われている神社は、以下のようだ。
・宮城県塩竃神社 1/14ドント焼き
・三重県猿田彦神社 大晦日大祓式 ドント焼き
・奈良県龍田神社 2/3護摩祈願
・島根県大田市物部神社 9/1田面祭  美保神社
・広島県福山市沼前神社 旧暦6月頃 お手火神事
・山口県防府市磯崎神社 7月中伏日 お礼祭
・武蔵国二宮 金鑚(カナサナ)神社  埼玉県児玉郡
 金鑚神社の元禄年間(1688-1704)につくられた「金鑚大明神縁起」や明治35年(1902)の「金鑚神社鎮座之由来記」によると、 金鑚神社の創始は 「景行天皇41年に日本武尊が東国遠征の折に、倭姫命より授けられた草薙剣とともに携えてきた 火鑽金(火打金)を御霊代として山中に納めて、天照皇太神と素戔嗚尊の二柱の神を祀ったことによる」と伝えられている。
 ここでは、ヤマトタケルは古事記の通りに火打金を所持していたとの記事になっている。

 同じような伝承が、酒折宮にもある。
 甲斐国を訪れたヤマトタケルが、酒折宮を発つとき、「吾行年ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言って、火打嚢を塩海足尼(塩見宿禰)に授けた。その勅を奉戴した塩海宿禰がこの火打囊を御神体として、月見山の中腹に社殿を建てたことが神社の創建となった。
 古事記、日本書紀のいずれも酒折宮と記しているが、火打などの記事はない。また、御神体だからなのかわからないが、火打を使った火鑽神事はないようだ。

まだまだ、火打に関する祭事、伝承はあるかもしれない。

 「風土記逸文」の裁判の情景を描いたといった解釈は、後世の後付けと考えられる。現在確認できる石造物から、そのような判断はできない。
 資料館に収蔵された石製品100点。人物形は、武人、文人、力士、裸体の男女など。武具では、剣、靫、盾。動物形は馬、鶏、小型の鶏、猪か?他に壺形、笠など。柳沢一男氏は、こうした石製の器種構成は、群馬県保渡田八幡塚古墳内堤上の埴輪配列区のA区と近似する配列が予想されるとする。今城塚古墳の埴輪列とも共通するものだったのではないか。阿蘇ピンク石石棺からも関連を見る必要があり、その埴輪列は、裁判とは無関係であろう。
 現存の石造物が全国の埴輪と大きく異なる性格を示すものはない。
また、破壊が磐井の乱による征伐軍、または8世紀の九州勢力への討伐軍の意図的破壊とする根拠はない。後者の場合、岩戸山の石造物が8世紀初頭に破壊されているという根拠も不明。
石馬
 鳥取県石馬谷古墳の石馬(写真右側)の破損はどう説明できるであろうか?臀部も割られており、脚部は不明。石材確保といったなんらかの目的で割られた可能性が強い。
 石馬谷古墳では、石人の一部も見つかっており、岩戸山と同様に埴輪のように石造物が配置されていた可能性がある。九州以外ではここだけ。今城塚古墳のピンク石石棺が橋の板材に使われていた例もある。
 
 次のような石造物の後世の破損の事例の紹介 
 八女郡広川町石人山古墳 「福岡県史跡名勝天然記念物調査報告書」第8輯1933
「迷信の為に木槌にて敲打する風あるを以て、損傷甚だしく、殊に面部は殆ど面目を損せり。」
 これは、眼病に効くからといって石人の顔部などを叩いて砕き、粉末を服用することがあったらしい。
 山鹿市長岩横穴墓群の108号横穴墓でも、人物の胸部が左右2カ所深く抉られている。乳が出ない婦人が削り煎じて服用したという。
 実は行基墓の石塔も抉られた様な箇所があり、病気回復のために削って煎じて飲んでいたという。かえって健康には良くない行為かもしれないが、古代の人々の藁にもすがるつもりでの行為であろう。
 現在見られる破壊、破損の状況も、こういった人々の行いによる可能性も見ないといけないのでは。
 以上のように、岩戸山古墳などの石造物の制作の目的は風土記逸文の裁判の光景ではなく埴輪と共通するものと考えられ、敵対勢力による意図的な破壊も考えにくい。

参考文献
 橋本裕之『装飾古墳の民俗学』国立歴史民俗博物館研究報告1999 
 柳沢一男『筑紫君磐井と「磐井の乱」新泉社 2014 

 

図1イザナギの火
1.イザナギはどうやって櫛に火をつけたのか
 イザナギは、亡くなったイザナミを連れ戻そうと黄泉の国に出向いて説得するのだが、なかなか現れないイザナミの様子を見ようと、自分の櫛の先に火を灯して覗き見ようとした。そこでイザナミの醜い姿を見てしまい、慌てて逃げだすのであるが、ここで疑問に思うことがあった。イザナギはどうやって櫛に火をつけたのであろうか。記紀ともに、その方法についての記述はない。神事にあるように、火きり臼に火きり杵を回して火を起こしたのであろうか。それとも、火打ち石と鉄を使った方法で発火させたのだろうか。
 東国征討に向かったヤマトタケルは、相模国で敵にだまされて野に火を放たれてしまう。そこで、火打石で向火をつけて難を逃れている。その火打石は、姉のヤマトヒメから渡された囊(ふくろ)に入っていたものだ。袋ではなく、むずかしい漢字の囊をわざわざ使っているのだが、なぜか日本書紀では古事記の該当の場面にこの囊の記述はない。他に雄略紀には「負嚢者(ふくろかつぎびと)」とあるが、この場合は、大国主と同じく、大きな荷を背負うものの意であろうか。(日本書紀では、中段に口二つの嚢とㇵの嚢があるが口のある囊に統一させていただく。なお播磨国風土記には美囊郡がありミナギと読ませている。)
 古事記では、この囊がもう一カ所登場する。それは、怒り狂ったイザナミから逃げおおせたイザナギが、禊を行う場面である。ここでイザナギは、身に着けていたものを次々と投げ捨てる。その中に、「次於投棄御囊所成神名、時量師神」とある。投げ捨てた嚢がトキハカシの神になったという。ではその囊を彼はどのようにして身に着けていたのか。囊を捨てる前に、「次於投棄御帶」とある。するとこの御帯に囊を着けていたのではなかろうか。つまりこれは腰につけるポシェットのようなものではないか。するとヤマトタケルも、火打石の入った囊を自分の帯にポシェットのように着けていたと考えられる。そうであるならば、イザナギが櫛に火を点けたのは、この腰に巻いた帯に付けていた囊に入っていたものとなろう。
 同じ漢字で小物を入れる嚢として使われるのは、神代紀の海幸が釣り針を返せと責められて落ち込む場面で、「老翁卽取嚢中玄櫛投地」、老翁が嚢の中の櫛をとって地に投げる、とある。老翁も櫛を入れていた囊も腰に付けたポシェットであったかもしれない。実はこの老翁はイザナギの子であると、書紀神代の天孫降臨の一節で記している。 
 「事勝國勝神者、是伊弉諾尊之子也、亦名鹽土老翁」コトカツクニカツ神はイザナギの子であって、亦の名はシホツツノオジだという。つまりイザナギ親子は、腰に巻いた帯に囊をつけてそこに火打石や櫛を入れていたのである。
 以上から、イザナギとオジは、渡来の移住民の特徴をモデルとして描いている側面もあると考えられる。

2.ユーラシアの民が腰に吊るす囊
 それにしても、なぜ袋ではなく、囊と難しい漢字を使ったのか。中国にこの字の使用例があるからであろう。
 中国では鞶囊(はんのう)と記して隋書などにも登場し、これも腰のベルトにぶら下げるポシェットのようなものだ。
滝関税村隋代壁画墓
 田林啓氏によると、滝関税村隋代壁画墓の出行儀仗図のすべての人物は、腰に革帯を締めて、その右に革袋の鞶囊と左腰に布袋の布嚢と儀刀を垂らしているという。熊本県上天草市の広浦古墳の石材の線刻は、この三点セットを描いたものと考えられる。
 
広浦古墳
「装飾古墳ガイドブック」の柳沢一男氏は垂下する紐がついた円文と説明されているが、それでは意味がわからない。その三つの図は、いずれも本体を吊り下げる表現であることから、いずれも腰の帯に下げていたものであり、あの世でも必要な道具として描いたのであろう。
突厥のポシェット
 このポシェットの実物が、突厥の1世紀から5世紀の遺跡で出土しているが、日本でも出土しており、奈良県葛城市三ツ塚古墳群から飾りの入った黒漆塗革袋として復元されている。
三ツ塚古墳革袋
 唐代の墓に副葬される胡人俑にも円形で黒色の袋を付けている表現が見られる。胡人とはソグド人のことである。彼らは、シルクロードの商人であって、サマルカンドの壁画には、彼らの腰に付けた嚢にお金の入った財布との現地の解説がある。
サマルカンド壁画
 このような大陸文化を持つ移住者が、記紀説話の作成に関わっていると考えられよう。

↑このページのトップヘ