流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2025年04月

 古田史学では、上記の記事から、九州王朝の残党が反乱を起こし、ヤマト王権による制圧が行われたという解釈がある。しかし、はたしてそのような理解が妥当なのであろうか。以下この点について述べてみたい。

1.続日本紀の記述

《文武四年(七〇〇)六月庚辰(戊寅朔三)》薩末比売。久売。波豆。衣評督衣君県。助督(すけ)衣君弖自美。又肝衝難波。従肥人(くまひと)等、持兵(武器を持って)。剽劫(おどしてものをうばう)覓国使刑部真木(くにまぎのつかいのおさかべのまき)等。於是勅竺志惣領。准犯决罸(犯罪の場合と同じように処罰させた)。

 ここで疑問を感じて検討したことを列記したい。
①薩末比売の比売は、あとの久売、波豆と同等の名詞と違うのか
岩波書店版の注に「比売。久売。波豆は人名。薩末は薩摩で薩摩国薩摩郡の隼人の土豪の姓か。」とある。そもそも、まずは、ここから検討しなければならないのではなかろうか?
 「比売」は人名と解釈されているが、鹿児島県の地名に、姫城がある。現在も姫姓の人が10名ほどいる。この箇所の薩末は比売だけでなく久売、波豆にもかかり、薩摩久売、薩摩波豆が普通の理解ではなかろうか。すなわち、薩末比売は、薩摩プリンセスと言えないのではなかろうか。
②「持兵剽劫」は、脅迫と解釈され、武器は持っているが、相手を殺傷したわけではない。とても朝廷への反逆行為とはならないのではないか。
③准犯决罸とあり、罰を受けている。
岩波注には、養老律では、詔使に対捍することは八虐の大不敬に当り(名例律6)、その刑は絞(職制律32)とある。つまり実行されていれば、死刑である。これ以降記事がないことからも薩末比売は処刑されたと考えられる。
 だがこの点について、処分が保留にされたと解釈されておられる。それは、同じ年の10月に石上朝臣麻呂を筑紫総領とする記述から、処罰の遂行ができなかった前任者を解任したのだと説明される(正木2019)。だがそうであれば、新任者の石上朝臣麻呂の手でサツマヒメは絞首刑にされたのではなかろうか。もし勅命を執行しなければ、彼自身が重大な処罰を受けることになるが、後に右大臣にまで登りつめている。
④また本当に薩末比売が天智の妃の大宮姫=倭姫であれば、由々しき事態となろう。
 続日本紀の記事からはそのようなことは何も読み取れない。もし本当に天智の妃なる大宮姫が窃盗団に加わっていたとしたら、大スキャンダルのはず。逆に朝廷は、なかったことにしようともみ消しをはかるのではないか。続日本紀に、わざわざ名前を変えて記載するというのも奇妙である。
⑤従肥人(くまひと)等
 古賀達也氏は「薩摩の比売も衣評督らを従えており」(『最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析』1988)とされているが、この解釈も違うのではないか。
「従えて」というのは、「又肝衝難波。従肥人」のところであり、「又」とあるように、いったん区切って、難波という人物が肥人を従えた、ということであろう。「又」は漢和辞典では、さらに、そのうえ、ほかにといった語義をもつ。薩末比売は先頭に記されているが、あくまでメンバーの一人であり、肥人等を従えたとは読めないのではないか。この箇所も、通説の解釈をまずは吟味すべきであろう。
 なお、古田武彦氏は『盗まれた神話』「補章 神話と史実の結び目」で次のように述べている。
《けれどもこの記事の歴史的意義は、つぎの一点にあった。「七世紀末(文武元年、六九七)、『郡制』を創始した近畿天皇家側の使者(「覔国使」)と、現地(薩摩近辺)の『比売』『評督』『助督』といった、旧『評制』に立つ勢力との武力衝突・・・」》
 古田氏も「比売」は他の人物と同列に見ておられるが、さらに、ここでは、「従肥人等」を、「肥人等に従いて」と読むことを提起しておられるが、これに関しての検討もされていないのではなかろうか。
⑥覔国についての一般的解釈への吟味も必要かと。住むのに適するよい国土をさがして歩くこと、という説明があるが、要は新たな支配のための先発隊であろうか。これに対する反発があったのではないか。
 以上のような問題があるにもかかわらず、
「大宮姫に比定しうる人物とは、大和朝廷への恭順を武力でもって拒否した、九州南部の国々の代表者『薩摩の比売』この人である」(古賀1998)などと言えるのであろうか。

2.薩摩比売は姫ではなく、大宮姫、倭姫とは無関係
 
 古賀氏は次のように述べておられる。 
「『縁起』(『開聞古事縁起』)によれば、大宮姫の生涯でそのハイライトとも言うべき事件は二歳で入京し、十三歳で天皇妃となったことである。このような人物に比定しうる存在をこの時代に見いだすことは、はたして可能なのだろうか。もしできなければ「大宮姫伝説」は定説通り俗信に過ぎないとされるであろう。が、しかし幸いにも一人だけ大宮姫に比定しうる人物がいる。」(『最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析』)
 つまり、「この時代に見出すこと」が可能でないならば「定説通り俗信」と明言されておられる。しかし、これは言い過ぎであろう。薩末比売とは無関係であっても、九州に残る数多くの伝承には、何らかの事実が反映しているとすると、そこに九州王朝の片鱗、倭姫の残影は存在するかもしれない。
 もし、どうしても続日本紀の記述と関係させたいということであれば、一般的な解釈に対して、まずは文法的なことも含めた吟味をしていただくことを望む。そうでなければ、支持を得られるものにはならないと思われる。
 余談だが、鹿爪姫伝承には、玉依姫や鹿に中臣鎌足も登場する。これらも検討の余地があると思われる。

3.続日本紀の反乱記事は、九州王朝の残党勢力の者なのか?
 
 続日本紀の薩末比売の一節は、九州王朝の残党の反乱とは考えにくいと思われるが、他にも隼人の反乱など多数記載されている。これを、九州王朝の残党の動きと見るのであれば、これもまた、一般的な解釈に対する説明も必要と思われる。 
 以下に、博物館のブログ記事を掲載する。福岡県みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」 《このように相次いで隼人の乱の起こった主な原因は乱がほぼ造籍年の前年かその年に起きていることで、造籍や班田収授に対する反抗と考えられている。『続日本紀』の天平二年(七三〇)三月条に大宰府言(もう)さくとして次のような記事がある。 「大隅・薩摩の両国の百姓(はくせい)、国を建ててより以来、曾て田を班(あか)たず。その有(も)てる田は悉く是れ墾田なり。相承(あひう)けて佃(たつく)ることを為して、改め動すことを願はず。若し班授(はんじゅ)に従はば、恐)らくは喧(かしま)しく訴(うるた)ふること多(おほ)けむ」とまうす。是に、旧(もと)に随ひて動さず。各、自ら佃(たつく)らしむ。」
 これを見ると隼人の住む国々では田がすべて墾田の私有地であり、これを公地化して班田収授するという土地制度の中央集権化に強く反対している様子がうかがえる。この記事は養老四年(七二〇)の大隅隼人の大規模な反乱から一〇年も経過したこの時期になってさえ班田収授の実施できないことを示している。》
 以上のように、国家的な政策に対する不満からの反発と説明されている。このような見方にたいして納得できる説明も思われる。
 
4.評制と年号の問題

 ①「文武四年六月の記事でも明らかなように、薩摩の比売に従った人物が九州王朝の官名「評督」「助督」を名乗っていることは示唆的・・」(古賀1988)
 つまり、評を名乗っていることが九州王朝の残存勢力を意味しているとされたいようだ。しかし、郡木簡が出現するのは、702年のことで、文武4年(700)にはまだ徹底されていないので、この評が使われていても不思議でないのでは?
 実際に藤原京跡の木簡に己亥(699)10月上捄国阿波評松里が出土。一方で郡の表記木簡は、大宝二年(703)尾治国知多郡が最古のものとなっている。つまり、702年までは評の表記がされた役職などがあってもおかしくはなく、700年に評が使われていても、九州王朝の勢力とはならないのではなかろうか。
②大長年号に関して、読み手には、ダブルスタンダードと受け取られる。
「また、『縁起』ではこの年を大長元年とも記しているので、そちらが正しければ六九二年のこととなる。これ以上のことは『縁起』からは推測することはできない。既に述べたことだが、『縁起』に大長年号が使用されていることは重要である。最後の九州年号が九州南端の地の神社縁起に見えることは、大宮姫伝説における「天智天皇」が九州王朝最後の天子であることの証拠とも言えるからだ。」(古賀1988)しかし、どうしてこのようなことが言えるのでしょうか。
 『縁起』には天武10年を白鳳元年にあてる別系統の九州年号も使われるなど、九州年号をよく知る寺社、修験者によるものの作成文書と考えられ、「大長」があるからといって、九州王朝と関連付けるのは疑問。
 そもそも権力を譲った集団が、独自の年号にこだわるのであろうか。たとえば、九州年号の使用は義務付けられていなかったとする説が有力であり、寺社関係者が利用、記録していた程度なのが実態ではなかろうか。そのような年号に、大和朝廷との抗戦の旗印のように大長年号を使うなどとは考えにくく、史料においては、白鳳年のなかで存在したように書かれおり、この点からも大宝以降の改元などとても考えにくいと思われる。
 また、「天智」(九州王朝の天子)が薩摩帰還(遷都)によって704年に改元したとするならば、ではどうして、慶雲3年(706)に崩御した時に、改元は行わなかったのかという疑問もわく。
 以上のように、続日本紀の薩末比売をサツマ姫とし、伝説の大宮姫や九州王朝の倭姫と関係づけることは無理であると思われる。倭姫の動向は、薩末比売以外の史料、伝承で検討されることを望む。

参考文献
正木裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」(倭国古伝・古田史学論集22)明石書店2019
古賀達也「最後の九州王朝 鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」市民の古代第10集1988
大下隆司「検証“最後の九州王朝「大宮姫伝説」の分析”」2020 

1.疑わしい万葉歌や事績

 万葉歌の長歌2首、短歌4首が、すべて持統天皇の作歌とできる確証たるものはない。中西進氏は、長歌の159番「やすみしし・・」は「詞人の代作」、162番「明日香の浄御原・・・」も形式上大后の作とされる。160番「燃える火も」と161番「北山(向南山)にたなびく雲」は、用字に異様なものが多いとし、陰陽師による代作と厳しい評価だ。28番「春すぎて」はこちらで説明しているように、藤原宮で香具山を見て歌われたものではない。
 明確に持統の歌であることを示すものはなく、後付けで解釈されているにすぎない。
 160番の「燃える火も」については、説明の困難な歌と言われているが、これについてはあらためて取り上げたい。
 風土記に持統天皇は登場しない。また地域伝承の記事もない。豊川市に三河行幸に関わる「持統帝御行在宮跡」があるが、これは現代の3名の研究者による「遺跡考証」を拠り所に、当地に記念碑が建立されたもので、古来からの言い伝え、痕跡があってのことではない。

 日本書紀に記される吉野行幸と伊勢行幸もあやしい。
 30回を超える行幸ならば、しかもそれが大和の吉野山の宮へ通ったというのであれば、その道中で何らかの言い伝えなどがあってもよさそうであるが、うかがい知れない。
 また改めてふれるが、この吉野行幸、さらには伊勢行幸も別の人物、伊勢王の事績でと考えられる。詳しくは古田史学の会論集第25集『古代史の争点』「九州王朝と大化の改新―盗まれた伊勢王の即位と常色の改革―」[正木裕] をご覧ください。 
 「吉野」も「伊勢」も九州に存在していたのである。 

 持統紀には、吉野行幸以外にも、広瀬・龍田の祭祀の記事も繰り返し頻出しているが、これも実は大和ではなく九州の地でのことである。こちら

2.日本書紀の持統は則天武后などがモデルの可能性

 武則天の武照、いわゆる則天武后は、高宗の後継であった中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を擁立するも、後に皇太子に格下げさせて自らが即位する。その年が、天授元年(690年)
 かたや持統天皇は、天武の死後、称制を行い、天皇に即位するのは持統4年(690年)
 これは偶然でしょうか? 
 655年に高宗は唐三代皇帝に即位も病弱の為、則天武后は並んで二聖政治を行い、人材登用に手腕を発揮する。
 持統の場合は、次のような記事がある。
天武二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。
 皇后、始(はじめ)従(より)今にいたるまで、天皇を佐けて天下を定め、毎(つね)に侍執(つかえまつる)際(あいだ)に、輙(すなわち)言、政事に及びて毗(たすけ)補う所多し。
 この「始従り」は壬申の乱の時からという意味と思われる。つまり、則天武后の二聖政治と類同している。

 また、政敵や皇位継承候補の排除については、他にも事例がある。
もう一人の候補となるのが北魏の馮太后。北燕二代目君主馮弘の孫で、二度にわたる臨朝(第一次、二次)を行った。
 465年12歳の献文帝の元で政務を執る。(第一次臨調)467年に退く。
 471年その献文帝は18歳で皇太子の孝文帝に譲位し、太上皇帝となる。しかし476年に23歳で死去。馮氏による毒殺といわれている。孝文帝は10歳だったために馮氏が太皇太后となって実権を掌握。(第二次臨調) 重要な制度を施行し、その中に均田制もあった。馮太后が孝文帝の生母との説もある。 
 そうであるならば、馮太后が、実子ではない献文帝を殺害して、実子の孝文帝に即位させて自分は太皇太后となって政務を執ったことになる。 
 持統の場合は、大津皇子の排除、高市皇子の死後(殺害の可能性)、皇太子に禅位し、持統は大上天皇となった。
 
 本人の出生、万葉歌、書紀の記事、風土記や地域伝承の希薄なこと、則天武后の事績を真似た記述、など、持統の存在は疑わしいことが多いのである。

 律令制国家の礎を築いた女性天皇として、評価の高まりつつある持統天皇だが、そもそも、その存在自体が、あやしい点がある。
 よくいわれることだが、『懐風藻』では、天皇ではなく皇太后とされ、『扶桑略記』では、持統は不比等の私宅を宮にしていたとのことから、即位していなかったとも考えられている。
 持統は、天武の死去後に、即位せずに称制を行ったとある。しかし称制とは、本来の皇帝(天皇)が存在して、その代行として政務をとることであり、持統の場合は、別に正当な天皇がいたことを示すのではないか、の指摘もある。そしてそれは高市皇子が有力候補とされている。
 いくつか、持統が天皇であったのかどうかの疑問点を述べてみたい。
図1

1.持統の系図と不可解な日本書紀の記述
 天智紀では、蘇我倉山田石川麻呂の長女の越智娘が、持統の母。次女が元明の母となる。ところがこれがおかしい。実は皇極紀では、蘇我入鹿殺害計画の準備の中で、鎌足のすすめで中大兄は蘇我倉山田石川麻呂の長女と嫁ぐはずが、「一族に盗まれて?」次女が代わりとなった、という経緯が述べられている。皇極紀が正しいのであれば、越智娘は長女ではなく、次女である。天智紀ではこの女性の別の名も記されている。
 蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘或本云美濃津子娘
 或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰芽淳娘
 建皇子、大田皇女、鸕野皇女を生んだ母の名は、越智娘、美濃津子娘、芽淳娘と三つ記されている。この三つの名を持つ女性は同一人物なのだろうか。山田石川麻呂には他にも娘がいたのだろうか。
これは、日本書紀の編集のミスなのか、後から持統を系図に付け加えた際の行き違いであろうか。
 すでに、説明しているが(こちら)、 乙巳の変の実行前の説話の中大兄と鎌足の蹴鞠や石川麻呂の娘との婚姻話は、新羅の金春秋と金庾信の関係をモデルに作られた話と考えられる。
 持統は天智の子で天武の妃というのもあやしいのではないか。

2.ウノサララという名前
  持統天皇とされる高天原廣野姫天皇の少名(わかきときのみな)、つまり幼名は鸕野讚(うののさら)良(らの)皇女(ひめみこ)とある。
「さらら」だが、これは渡来系を意味するのではとも考えられる。
書紀の持統8年に百済土羅羅女とあり、「つららめ」という百済の女性がいたようだ。
 また、推古8年に、加耶諸国の中に割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々六城以請服 あららという国があった。
天武紀12年に、娑羅羅馬飼造、菟野馬飼造 馬を扱う「さらら」に「うの」なる人物がいた。 
 欽明紀23年には、秋七月己巳朔、新羅遣使獻調賦。其使人、知新羅滅任那、恥背國恩、不敢請罷。遂留、不歸本土。例同國家百姓、今河內國更(さら)荒(ら)郡鸕鷀野邑新羅人之先也。
 「新羅は使いを遣わして調をたてまつった。その使いは新羅が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らなかった。日本人民同様に遇され、いま、河内国更荒郡鸕鷀野さとの新羅人の先祖である。」(宇治谷孟訳)  
 移住民が「さらら」こおりの「うの」という地域名にいた。ここから名付けられたのであろうか。
 持統紀8年:河內國更荒郡獻白山鶏。賜更荒郡大領・小領位人一級幷賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國、幷賜物。
 「河内国更荒郡から、白い山鶏をたてまつった。 (中略) これを捕らえた刑部造韓国に進広貳の位と物を賜った。」
 更荒郡にカラクニという人物がいた。渡来人の居住者の多い国であることを示す。
 以上から、持統なる鸕野讃良はその名前から渡来人の可能性が高い。  ちなみに福岡県にも早良(さら)地名があることも関係するであろうか。
 このサララの意味だが、サンスクリット語でSarasは水、サーラは水が流れるといった意味。大乗仏教でサラは儀式をするための湖、池。ギリシャ語でサラサは海。ヒンズー教のサラスヴァティは川や湖の神である。水の音は、さらさら、とは聞こえないので、擬音語とは考えにくいことから、大陸からの言葉に起因すると思われる。
 鵜野讃良は、水を祀る祈雨祈晴のシャーマンではないか。書紀2年7月に大いに雨乞いをしたという記事。また5年6月には水害に対する対策として、政事の姿勢を悔い改めることや、各地の僧への読経を命じるなど、効果を願う詔を出している。さらに、頻繁に記載のある広瀬大忌神も治水の神だ。皇極天皇は雨乞いを自ら行って効果があったという記事もあるので、両者とも祈雨祈晴の祭祀者であろうか。

 次に、持統の万葉歌や中国の女帝などにふれたい。

 
河尻
古事記の神武東征でよく議論になるところである。
「その八咫烏の後(しり)より幸(いで)行(ま)しせば、吉野河の河尻に到りましとき、筌を作りて魚を取る人あり」
 吉野川で筌を使って漁をしていたのである。
 しかし、河尻は川下ではない。なぜなら神武は吉野川で筌を使う漁夫と出会っているのだ。魚を取る筌(うけ・うえ)は竹などで作った筒状の漁獲器で、漏斗状の口に魚が入って閉じ込めるものだ。この筌は上流や川幅の狭いところで使うものであり、河口とか川下の川幅の広いところでは効率は悪く普通は使わないだろう。
 ただ出雲国風土記にも筌が登場する。島根郡の朝酌の促(せ)戸(と)の渡りで筌を使っている。位置的には河口部になるが、解説では宍道湖と中海の中間の間が狭い水路となっているところで、そこは当然急流となり筌に入った魚は抜け出せないから効率よく獲ることができる。やはり川上と同じ条件となり、ゆったり流れる川下では使わないと考えていいだろう。古代の筌は弥生時代の太宰府市の雛川遺跡や北九州市の辻田遺跡などで発掘されているが、佐賀の東名遺跡では縄文時代の編組製品が多数見つかっており、吉野ケ里に近いこの地で古くから筌も作られていたのではないか。さらに古事記には河下が一か所だが登場する。垂仁記のホムツワケが言葉を発したセリフに河下がある。
 そうとなれば、おのずと神武が漁夫と出会ったのは、吉野川とされた本来の嘉瀬川の山間地やそのふもとあたりと考えてもいいのではないか。ではなぜ尻を川の上流と考えたのか。尻の意味は、古田武彦氏も地形の表現とされているが、私も尻の形、ラインを表していると考えるので、つまりは川の湾曲するところや蛇行しているところを地名にしたのではないか。そこは大雨の際には洪水になりやすい地域であろう。
 たびたび被害に見舞われる木津川のほぼ直角に流れるところの南西部あたり、JR西木津駅周辺に川ノ尻がある。図のように、木津川が大きく蛇行しており、これはお尻のように曲がったところを意味するのではないか。他にも兵庫県朝来市生野町川尻はそのエリアの真ん中を市川が蛇行している。熊本市の加勢川も蛇行に沿った範囲が川尻である。広島県世羅郡の芦田川など他にもいくつもあるのではないか。「尻」はその多くが後方や末端などを意味するが中には出尻(でっちり)のように状態の表現もある。川の尻は湾曲や蛇行した箇所を意味することもあると考えたい。

 
米占い
  
 筑後国風土記逸文として筑紫の名の由来が三つ挙げられているが、その一つに甕依姫の登場する説話がある。この人物を、古田武彦氏は「みかよりひめ」と訓じて、卑弥呼と同一人物との可能性が高いとされたが、まだまだ検討すべき余地があると思われるので、この点について述べていきたい。注1)

1.風土記の中の荒ぶる神
 「三に云はく、昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半は死にき。其の数極多(いとさは)なりき。因りて人の命尽しの神と曰ふ。時に、筑紫君・肥君等占ふるに、筑紫君等が祖なる甕依姫(みかよりひめ)して、祝祭(まつ)らしめき。こゆ以降(のち)、路行く人、神に害はるることなし。ここを以て、筑紫の神と曰ふ。」(小学館「風土記」)

 筑紫の名の由来を語るものの一つだが、後述するように、類似の筋立ての説話に較べて簡略化されており、まさに逸文であって情報量の少ないものである。
 まずは、「此の堺の上」の「此の」をどう見るかである。この逸文の筑紫の名の由来の二つ目の説として、筑後国はもと筑前国と合わせた国だったが、この両国の間に急峻な山があって、狭い坂を人が往来する馬のシタクラ(馬の鞍の下に敷く布)がすりきれたので「したくら尽くしの坂」との記述から、筑前と筑後の境と考えられる。さらに、筑紫の君と肥の国が占うとあることから、肥国の境界とも接するとすれば、基山から現在の筑紫神社のある筑紫野市筑紫あたりと考えられ、「堺の上」とあることから、峠と考えられる。この峠の道行く人々の通行を妨げる神がいたということであろう。
 次に命尽くしの神とは、手ごわい存在であったので、両国の指導者が兵力では太刀打ちできないと考えたから、その解決策を占ったわけであり、人間の力を超越したものには、祭祀、呪術で対応するしかないのである。神は人を守ってくれるだけではなく、場合によっては恐ろしい敵になるのである。
 そして、巫女である甕依姫に白羽の矢が立ち、どのような祭祀行為があったかは不明だが、無事に神の怒りを鎮めることができたのである。その神の名が筑紫(ちくし)の神と呼ばれたという。ここで明確なのは筑紫の君と筑紫の神は別物ということである。ただし、筑紫の君の筑紫から、人の命を奪うという意味の名前を持つことになる。
ではこの神の人命を根絶やしにするほどの行いとは、どのようなことを意味するのであろうか。実は神が道行く人々を半生半死にしてしまうという説話は他にも類似のものがある。

2.風土記における半生半死説話
 以下に、類似の説話を列記してみる。各原文は一部だけ記載。
①播磨国風土記揖保郡 意此(おし)川 出雲御蔭大神 坐於枚方里神尾山 毎遮行人半死(半)生
  いつも旅人の道を遮り通る人の半数を殺し半数を殺さないで通した。その時、伯耆の小保弖(をほて)らが心憂えて朝廷に訴え、神の殿舎を作り楽しんだと見せかけて櫟(いち)山の柏を帯にかけ腰に差しはさんで川を下って鎮めた。
② 同  佐比岡 出雲之大神 在於神尾山 此神 出雲国人経過此処者 十人之中留五人 五人之中留三人
  出雲の国の人でここを通り過ぎる者の、十人のうち五人を引き留め、五人のうち三人を引き留めて殺した。岡を祀ったが、うまくいかず、それは女神が男神を祭らなかったから恨んだとのことだが、河内の国の枚方の里の漢人が祭って鎮めることができた。
③ 同 神前郡 生野  此処在荒神 半殺往来之人 由此号生野
  昔此処に荒ぶる神在りて 往来の人を半数殺した。これによって死に野と名付けた。
④肥前国風土記基肆郡 姫社郷(ひめこそのさと) 有荒神 行路之人 多(さは)被殺害 半凌半殺
  通行する人がたくさん殺され、半数は助かったが半数は殺された。占って筑前の国宗像郡の珂是古を祭らせた。捧げた幡が飛ぶ様子と見た夢によって織物の女神とわかり社をたてて祭った。
⑤ 同  神崎郡 昔者 此郡有荒神 往来之人 多被殺害
  昔、荒々しい神に道を行き来する人がたくさん殺された。景行天皇が巡狩(巡視)した時にこの神は穏やかになった。
⑥ 同  佐嘉郡 此川上有荒神 往来之人 生半殺半
  この川上に荒々しい振る舞いをする神がいて、その道を行き来する人の、半数は殺さないで半数は殺した。県主らの祖である大荒田が占って神意を問うと、土蜘蛛の大山田女・狭山田女という二人の女子が、人の形・馬の形を作って祭るようにと言ったので、大荒田はそのように従って神を鎮めた。 
⑦逸文 摂津の国 下樋山 昔有大神 化為鷲而下止此山 十人往者 五人去五人留
  天津鰐という大神が鷲の姿になって、この山に居着いた。十人通行したら、五人は通り過ぎ、五人はつかまってしまった。久波乎(くはお)が、この山にきて、下樋(暗渠)を使って天津鰐のもとに行き、ここを使って通行してはお祭りをした。
⑧逸文 筑後の国 昔 此堺上 有麁猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神
  昔、国堺の山の上に荒々しい神がいて、行き来の人の半分は通行できたが半分は命を失う有様であった。死亡する人の数はとても多かった。よって命尽くしの神と呼んだ。(本稿の既出のもの)
⑨播磨国風土記賀古郡 鴨波(あわわ)里 此里有舟引原 昔神前村有荒神 毎半留行人之舟 於是 往来之舟
  この里に舟引原がある。昔、神前の村に荒れすさんだ悪神いて、通行人の舟を半数妨害して通さなかった。そのために船を上流にさかのぼり、山越えで船を曳いて迂回して別の川を下った。⑨は人ではなく船ではあるが、その内容は同じものと考えられる。注2)  

 以上のように、簡略化されたものもあるがこれらの半生半死の説話は、荒ぶる神への対策として占いを行い、祭祀者を招き、なんらかの祭祀行為を行い鎮めることができたという同じモチーフが使われている。注3)共通するもののひとつに、通行に使われる道や山の峠に荒ぶる神が現れるというのがあるが、これをどう理解すればよいであろうか。
 荒ぶる神については、国つ神であるとの定説があり、天つ神の侵攻にたいして抵抗する集団をまつろわぬ神とされている。しかし、常陸国風土記の久慈郡の条には、人々を苦しめる立速男(たちはやをの)命は天より降った天つ神とあり、秋本吉徳氏の解説にあるように異例の神とされている。支配される側の反乱にもとづく説話とは異なるものもあるのではないだろうか。

3.人知を越えた畏怖すべき観念からつくられた説話
 ちなみに出雲国風土記の出雲郡宇賀の郷では、脳(なづき)の磯というところの窟(いはや)の内に穴があり、夢でこの磯の岩窟のあたりに行くと、必ず死ぬ、と言う話が見られる。萩原千鶴氏の解説では、この洞窟がかって墓地として利用されていたことから、黄泉の穴と考えられてその世界に入ることが死につながるとされたとの解説がある。そうすると、山の上の荒ぶる神も、人の通り道の付近に黄泉の穴を作っていた、というように人々が考えていたかもしれない。
 また、日本書紀と古事記の崇神天皇の段には、半生半死ではないが似た筋立ての説話がある。古事記では「伇病多起、人民死爲盡」、書紀では、「國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣」、すなわち、疫病が大流行して国民が絶滅しそうになり、民の死亡するもの半ば以上という。これは半生半死と同じ意味であろう。崇神天皇はこれを憂いて、八十万(やそよろず)の神々を招いて占いをされる。そして神意を聞いて大田田根子に祭祀をさせると疫病は収まったのである。これが原型かと思えるような同じモチーフの物語ではなかろうか。疫病への対応ではあるが、古代人にとっては疫病も荒ぶる神の仕業であったと考えられていた。
 いずれにしても、人知の及ばない神のおこないに対する死への怖れに苦慮する人々の観念からつくられ、伝承されてきたものであろう。具体的には、伝染病の他に通行を妨げるという点では、洪水、土砂崩れといった自然の猛威の体験談が根底にあったかもしれない。こういったことが、各地の地名譚につながったこともあったと考えたい。
 
4.古代の戦争は、命を尽くすようなものだったのであろうか。
 先の甕依姫の説話に戻るが、この「半死半生」によって人の命が尽きるような状態であったということは、つまりはほぼ皆殺しということである。
 古田武彦氏は、この甕依姫を卑弥呼のこととされて、半死半生は、弥生時代の内乱といった解釈をされた。しかし、これが戦いの話なら、筑紫国と肥国のリーダーが揃って占いをするというのは奇妙であり、まずは、荒ぶる相手に自国の兵力をぶつけるべきであろう。だが、類似の説話含め、最初から力で抑えることはしていないのである。どの説話も、最初から神意を問うことで解決を図ろうとしている。これを弥生時代の内乱、戦争のようにとらえることに疑問が生じる。先ほどの荒ぶる神が国つ神側の集団で、侵略した側の集団に反撃を挑んだとしても、通行する人々の無差別的な殺人は行わないのではないだろうか。古代の戦争というよりは、古代人が畏怖しているものへの祭祀行為として理解してよいのではなかろうか。
  ⑤のエピソードも、景行天皇は戦闘行為を行ってはおらず、あくまで巡視の結果、鎮めることができたのである。省略されてはいるが、天皇によるなんらかの祭祀行為があったのではないだろうか。
 また、古田氏は甕依姫を「甕(みか)」を依り代とする、甕棺の盛行した弥生時代の筑紫の巫女と考えられた。同じく弥生時代(三世紀)の卑弥呼と同時代の人であったというのだが、別のことも考えられる。そもそも、甕棺墓が弥生時代の末まであったかどうかは今のところ不明だ。注4)卑弥呼が甕棺墓に眠っているとは考えにくいのである。  
 古墳時代には祭器として須恵器の甕がよく使われている。沖ノ島祭祀遺跡でも、須恵器甕が据え置かれた状態で出土しているのである。ここは棺としての甕というよりは、古墳時代の甕で祭祀を行う巫女としての甕依姫と考えたほうがよさそうではないか。タケミカヅチも日本書紀では武甕槌と表記されており、これを甕棺に結びつけることは出来ないであろう。また崇神紀の大田田根子は武甕槌の子なのである。さらに書紀には、武甕槌は、イザナギが斬った軻遇突智(カグツチ)から生まれた甕速日神の孫とされている。こういったところの検討も必要ではなかろうか。

5.甕依姫の行う祀りとは?
 以下は、同じ古田史学会員の方のご教示による。
 甕依姫がどのような祭祀を行っていたのかは、風土記逸文には何も語られていないので想像するしかない。甕依姫と関係する筑紫神社は、由緒によると祭神が筑紫の神、後に竈神社より玉依姫を勧請したとある。その祭祀に粥占(かゆうら)という独特の行事がある。粥占は、釡や鍋で炊いた米の粥や小豆粥を器に盛り、一定期間神前に供えて置いた後、粥に生えたカビの状況を見極め、神慮を伺うという。同じ祭祀を行う神社が、北部九州の福岡県の背振山麓北側の福岡平野や南東側の平野部、筑後川流域に見られる。
 およそ45カ所の神社で確認できるようだが、その中には高良大社末社の大学稲荷神社、竈門神社、老松神社など、九州王朝との関係が考えられる神社もこの粥占行事を行っているというのは興味深い。現在、文化庁の「大原八幡宮の米占い行事」注5)において、詳しい説明が写真入りでみることができる。発生したカビの状態で川筋の異変を的確に占うというのは、洪水被害に対する人々の切実な思いからくるものであろう。
 粥占に共通するのは、はじめに土製もしくは金属製の竃や甕でグツグツと小豆や米を煮るという行為で、これを、「甕依姫」が執り行っていたのかもしれないのだ。あくまで一つの例ではあるが、神事に欠かせない祭器の甕を扱う巫女が妥当としたい。なお、筑紫神社の由緒にある祭神の筑紫の神は他に見られない神名であり、その正体も気になるところである。

 以上をまとめると、
 類例の多い半生半死の説話は、古代人の死生観、信仰という視点でとらえることも必要と思われること。
 荒ぶる神も、崇神紀の例のように被支配者の抵抗という側面以外の視点もあると考えられること。
 甕を古墳時代以降の信仰上の祭器とも想定できること。
 記紀には甕の名を持つ神が複数存在しており、この検討も必要であり、さらに筑紫神社の祭祀なども考慮が必要であること。
 甕棺墓は、現在のところ、卑弥呼の時代まで存続したとは言い難いこと。
 このようなことから、甕依姫を卑弥呼と断定することや、その説話から卑弥呼の都の所在地の傍証にするというのも無理があると思われ、甕依姫については、まだまだ検討の余地があると考えたい。

注1.本誌掲載の谷本茂氏の《「多元史観」からみた『風土記』論 ―その論点の概要―》に詳細な解説がある。
注2.半死半生については、こちらで半殺しのことと説明しています。
注3.なお、古田氏は、筑紫風土記に、重大な「原文改定」が行われていたとして、「令(改定)」は「今(原文)」とする解釈を提示されたが、2.の①では、額田部の連久等々を遣りて祈らせている。その箇所に「令禱」とある。また、2.の④でも、「令筑前国宗像郡人珂是古祭吾社」さらに「珂是古令祭神社」とある。これら一群の説話との共通性から、令の字は適切であると思われる。ただ、「今」であった可能性は否定できないが、その場合も本稿の結論を左右するものとはならないと考えられる。
注4.「桜馬遺跡甕棺の時期は、後期前半中頃」となるが、後期後半代に出土する遺物から、「弥生時代後期の期間を通じた重要な墓地」(片岡2019)とされる。しかし、甕棺墓を条件に卑弥呼の墓を探ることは出来ないであろう。
注5. 文化庁HP「大原八幡宮の米占い行事」表題写真が表紙
リンクはこちら  ページ数が多いですが、ぜひ写真、解説の図などをご覧ください。

参考文献
「風土記 日本古典文学全集5」小学館1997
萩原千鶴「出雲国風土記全訳注」講談社学術文庫1996 (解説を参照)
秋本吉徳「常陸国風土記 全訳注」講談社学術文庫2001
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫
片岡宏二「邪馬台国論争の新視点―遺跡が示す九州説―増補版」雄山閣2019
古田武彦「よみがえる卑弥呼―日本国はいつ始まったか」古代史コレクション ミネルヴァ書房2011
寺前 直人/設楽 博己【編】「Q&Aで読む弥生時代入門」吉川弘文館2024

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