流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2025年03月

IMG_1144
図は古田武彦氏の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』(ミネルヴァ書房 2016)のP236に掲載の和田喜八郎の所有していたという鏡である。
 ※タイトルの東日流外三郡誌は「つがるそとさんぐんし」です。
 古田氏はこの鏡について次のように書いている。
「和田喜八郎氏の収蔵品(発掘物)中に,一個の前漢式鏡がある(図2︱36。注=なお銘文は本書一〇三ページ参照)。立岩出土のものと酷似している。学問的発掘でないため、その出土位置や出土状況が判明しないのは、残念であるけれど、「津軽︱筑紫」のつながりを暗示するもの、として注目されよう。」以上。

 私はこの図をみて気になったので調べてみたが、すぐに出所がわかった。古田氏は、「立岩出土のものと酷似している」と書かれておられるが、それもそのはず、これは、福岡県飯塚市立岩遺跡の連弧文「日有喜」銘鏡(1号鏡)のレプリカなのである。
福岡県飯塚市立岩遺跡の連弧文「日有喜」銘鏡

福岡県飯塚市立岩遺跡の連弧文「日有喜」銘鏡(1号鏡)
 飯塚市デジタルミュージアムで写真の閲覧可能だ。その図を利用させていただいて比較してみた。なお、図を合わせるために本物の図は回転させて掲載した。

本物との比較
 上図は、和田氏の物(左)と本物の図を合わせたものである。
比較してみると細部の違いがよくわかる。
 鈕の周囲の12個ある円文が小さい。他の内行花文鏡を見ても、円文の小さいものはない。
 その円文を取り巻く3列ある斜線(櫛歯文)の間隔があいており本数が少なく、非常に雑だ。 下の拡大図を見ていただくと一目瞭然であろう。右が本物。
比較拡大

 銘文も異なる。銘文の彫りが浅いのか弱弱しく、文字そのものは合っていても全く違う彫り方だ。
 おわかりいただけたであろうか。和田喜八郎のものが偽物、レプリカであることは明白である。しかも、最近のネット掲載のレプリカよりも質が悪い。調べてみると、これと全く同じ図柄の鏡の複製品がネット販売されているものを見つけた。(これも怪しいサイトです)
 
IMG_1177 (1)
 この最近のネットでの複製品と本物と比較すると、和田喜八郎所有のものよりも、はるかにリアルである。喜八郎はいつどこで仕入れたのか不明だが、現代のものより質が落ちるものを手にしたのだ。 

 これを古田氏に見せて、信じ込ませたというのも恐れ入る。もしこれが本物なら、重大な問題であり、大きな話題になるはず。疑うことなく信じた、あるいは騙されたというのも残念だ。とてもではないが、「筑紫と津軽」の関係など言えるものではないのである。
 古田氏は他の教授に対して、さらに研究会のメンバーの発表するものには、厳しいことをよく言われたようだが、自分自身は、疑うことをされず、喜八郎の言うがままを盲信してしまった。他にも室見川の銅板(こちら)もだが、古文書の一字一句に厳しい目を注がれていたはずの古田氏が、その一方で、安易に信じ込まれるというのは、どうしたことであろうか。
 そして、この写真の数ページあとのP240に、本物の鏡が「連弧文銘帯鏡」として掲載されている。同書は編集本なので、時間差のあるものが連続するのであるが、この写真と喜八郎所有の図が酷似していることに気が付かなかったのであろうか。この図を掲載した出版社も、校正作業の中で、確認することはされなかったのか、残念である。

DSC_0646
 縄文土器には、把手なのか、文様なのかよくわからない眼鏡状とか、橋状とも言われている双環突起がついています。土器によっては、そこに腕のようなものが伸びていたり、蛙や蛇の頭のような表現ともとれるものもあります。そして、いわゆる出産文土器にも少し大きめの双環突起が口縁部についています。
 この奇妙な突起の意味を、あくまで想像ですが、出産と関係あるものと考えました。note版流砂の古代 こちら にアップいたしました。ひょっとすると、人体の骨格と関係しているのでは? ぜひご覧ください。


風土記の天皇

 図は各風土記に登場する天皇名を表にしたもの。 
以下は、各風土記の中に登場する天皇とその地名を抽出したものである。記載された天皇名は、漢風諡号ではないのだが、現在に通用している解釈の天皇で分類した。
 皇極、斉明は同一人物となる。
 欠史八代の天皇は既述なく表からは消している。
 応神天皇は、播磨国風土記では多数登場するので一部だけ記載した。
 出雲国風土記は、ほぼ完全本であるのに、天皇が3名しか登場しないのも面白い。独自の世界が描かれているということだろうか。
 また、日本書紀では天皇ではない人物が風土記では天皇の扱いになっているものが倭武天皇など数名あり、各風土記の末尾に記載した。さらに、同じ天皇を日本書紀とは異なる天皇名で記してあることも多くあるのは興味深い。
 もともと、持統天皇の記事があるのかが気になったのでチェックをしたのだが、やはり登場していない。もちろん、他にも登場しない天皇はあるが、推古から天武までは何らかの風土記に記載されているのに、日本書紀最後の天皇の記述がないのが、気になるところである。あくまで参考程度の資料です。

◆播磨国風土記
(仲哀)穴門豊浦宮:赤石郡印南浦、   帯中日子:赤石郡大国里、
(神功)息長帯日女:赤石郡大国里、  息長帯比売:餝磨郡因達里(韓国平)、  大帯日売:揖保郡言挙阜, 宇須伎津、宇頭川、 息長帯日売:揖保郡御津、萩原里、讃容軍中川里(韓に渡る)、
(応神)品太:賀古郡、餝磨郡麻跡、賀野里、幣丘、安相、(以下略) 
(景行)大帯日子:賀古郡日岡、赤石郡益気里、酒山、  大帯日古:小嶋、 大帯比古:琴坂、
(成務)志我高穴穂宮:賀古郡、
(仁徳)難波高津御宮:含藝里、 大雀天皇御世:餝磨御宅、 難波高津宮天皇:栗栖里、揖保郡佐岡、讃容郡弥加都岐原、 難波高津宮御宇天皇之世:賀毛郡猪養野
(履中)大兄伊射報和気命:賀毛郡美嚢郡、美嚢郡志深里、
(雄略)大長谷天皇御世:餝磨郡胎和里、
(顕宗・仁賢)意奚・袁奚:玉野村、美嚢郡志深里
(安閑)勾宮天皇之世 越部里、
(欽明)志貴嶋宮 餝磨郡大野里   志貴嶋 少川里
(孝徳)難波長柄豊前:揖保郡石海里、宍禾郡比治里、難波豊前於朝庭 讃容郡、
(斉明)小治田河原天皇之世 揖保郡大家里、
(天智)近江天皇:讃容郡中川里、船引山、
(天武)浄御原朝廷:讃容郡中川里、
息長命(帯比売弟):賀古郡、
宇治天皇之世:揖保郡上筥岡、
市辺天皇命:美嚢郡志深里
聖徳王御世:原の南、

◆出雲国風土記
(景行)纏向檜代宮御宇天皇:出雲郡
(欽明)志貴嶋宮御宇天皇御世:意宇郡舎人郷、神門郡日置、
(天武)飛鳥浄御原宮御宇之御世:意宇郡安来、

◆豊後国風土記
(景行)纏向日代宮御宇大足彦天皇:総記、日田郡、日田郡鏡坂、 纏向日代宮御宇天皇:直入郡祢疑野、大野郡海石榴市、海部郡、大分郡、速見郡、国埼郡、
(欽明)磯城嶋宮御宇天国拝開広庭天皇之世:日田郡靫編郷
(天武)飛鳥浄御原宮御宇天皇:日田郡五馬山、

◆肥前国風土記
(崇神)磯城瑞籬宮御宇御間城天皇:総記
(景行)纏向日代宮御宇天皇:総記、基肄郡、養父郡、日理郷、神埼郡、神埼郡三根郷、三根郡米多郷、同船帆郷、同蒲田郷、松浦郡大家嶋、同値嘉郷、杵島郡、同嬢子山、同託羅郷、彼杵郡、同浮穴郷、高来郡 
 大足彦天皇:神埼郡琴木岡、同宮処郷、松浦郡賀周里、
(神功)気長足姫尊:松浦郡(新羅征伐) 同逢鹿駅(新羅征伐)同登里駅(男装)、彼杵郡周賀郷、
(応神)軽嶋明宮御宇誉田天皇之世:鳥樔郷
(宣化)檜隈廬入野宮御宇武少広国押楯天皇:松浦郡鏡渡、
(推古)小墾田宮御宇豊御食炊屋姫天皇:三根郡物部郷
(日本武尊)巡幸:佐嘉郡 小城郡(不明の天皇あり)、

◆常陸国風土記
(崇神)美麻貴天皇馭宇之世:新治郡、 美麻貴天皇之世:筑波郡、久慈郡、 新貴満垣宮大八洲所馭天皇之世:行方郡香澄里、 初国所知美麻貴天皇之世:香島郡、
(垂仁)伊久米天皇ノ世:行方郡白鳥里、
(景行)大足日子天皇:信太郡、行方郡香澄里、
(成務)斯我高穴穂宮大八洲照臨天皇之世:多珂郡
(神功)息長帯比売天皇之朝:茨城郡(多祁許呂は品太誕生まで仕える) 息長帯日売皇后之時:行方郡田里
(孝徳)難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世:総記、行方郡、多珂郡  難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世:行方郡
  難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世:香島郡、 難波天皇之世:香島郡、 
(倭武天皇):総記、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡、久慈郡、多珂郡、
(継体)石村玉穂宮大八洲所馭天皇之世:行方郡
(天智)淡海大津朝:香島郡、 淡海大津大朝光宅天皇之世:久慈郡、
(天武)飛鳥浄御原大宮臨軒天皇之世:行方郡麻生里、 飛鳥浄御原天皇之世:同板来村

◆逸文
(神武)宇祢備能可志婆良宮御宇天皇世:摂津国土蜘蛛、 神倭石余比古之御前立坐:山背国  神倭磐余彦:伊勢国
(崇神)美麻紀天皇御世:越国  大倭志紀弥豆垣宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(垂仁)巻向珠城宮御宇天皇:尾張国、陸奥国、
(景行)大足日子天皇:常陸国河内郡、 巻向日代宮大八洲照臨天皇:常陸国、 巻向日代宮御宇天皇時:陸奥国、大帯日子天皇:伊予国、
(倭武)日本武命:尾張国、 日本武尊:陸奥国(征伐東夷)、美作国、  倭健天皇命:阿波国 
(仲哀)帯中日子天皇:伊予国
(神功)息長帯比売天皇世:摂津国風土記、 神功皇后時:摂津国(美奴売前神)、 息長帯日売命:播磨国
    大后息長帯姫命:伊予国
(応神)軽嶋豊阿伎羅宮御宇天皇世:摂津国風土記裏書
(仁徳)難波高津宮天皇之御世:播磨国、伊予国、
(雄略)長谷朝倉宮御宇天皇御世:丹後国日置里
(継体)石村玉穂宮大八洲所馭天皇之世:常陸国
(宣化)檜前伊富利野宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(孝徳)難波長楽豊前宮御宇天皇世:摂津国久牟知川、  御宇難波長柄豊前宮之天皇御世:常陸国、 難波長柄豊前大朝撫馭宇天皇之世:常陸国  難波高宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(不明)天皇:備中国、 淡路国、

 既に、『百済本記』に、百済が倭国に王を派遣したといった記事がない、とのご意見に対して、この百済本記には、蓋鹵王から武寧王まで、更には他の多くの王の記事もだが、即位以降の事績しか書かれておらず、即位までどのような活動をおこなっていたのかは、ほとんどわからないのであり、即位前に倭国に渡っていた、というような記事はないのである。
 他にも、百済の王族が倭王であるならば、中国史書は必ず記載するはずだ、とのご意見もあるが、この点について説明する。

1. 中国も周辺国に王子を相手国の王として派遣していた可能性

 倭五王=百済王同一人物説に対する反対意見として、これが事実なら、中国は問題にしないわけはなく、史書にも記するはずだとのご意見に対して、実は中国も同族の男子を他国に派遣しようとする考えがあったことを説明する。
 『三国史記』「新羅本紀」善徳王12年(643)高句麗、百済との戦いに救援を求める新羅の使者に対して、太宗は三策を示し、その一つが次のようなもの。「爾が国、婦人を以て王と為し、隣国に軽侮せらるる・・・・我,一宗枝を遣わし、与えて爾が国守となさん。」
 訳「そなたの国は女を王としているので、隣国に侮られるのだ、・・・我が一族の男子を遣わして王としよう。」
 『冊府元亀』 「爾が国、婦人を以て主と為し、隣国に軽侮せらる・・・我、一宗枝を遣わし、以て爾が国主となさん」と、中国史書にも同様の記事がある。
 使者は返事をしなかったが、翌年唐に特産物を献じ、その功あってか唐は高句麗に使者を送って、新羅を攻撃するなら出兵すると伝えている。
 中国が、周辺国、いわゆる夷蛮の国々の中に、自国の王族を指導者として送るようなことが、実際にあったから、女王の代わりに自分の王子を派遣すると提案したのではないか。百済が王族を倭国に派遣しても、それは特異な例などでないので、特に中国は問題にすることではなかったといえる。

2.倭国にやってきた百済王族の事績の説話 神戸市明要寺  丹生山縁起
 
 縁起によれば、赤石(明石)に上陸した百済聖明王の王子『恵』が一族と明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てたという。 王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」としたそうだ。現在は明要寺の鎮守丹生神社を残すだけだ。ただ、百済の年号としたのは面白いが、この「明要」は九州年号541~551である。九州年号についてはこちら。九州年号を寺院名にしたのはめずらしいものだ。
 恵は百済威徳王の弟だが、昆支王も、自分が関与したかは不明だが、昆支王を祀る飛鳥戸神社がある。百済に限らないが、渡来してきた人々の痕跡はいくつも残されていると言える。

        古代史講演会のご案内です。

チラシ

和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 

 持統天皇の万葉歌の有名な「春すぎて~」は、実はその解釈に疑問がもたれている歌なのです。 また、燃える火を包む袋~、という歌も不思議な歌なのです。謎の歌にふれながら、日本書紀の記述などをふまえて、持統天皇という存在に疑問がもたれる状況があることを説明いたします。
 お気軽にご参加ください。

石の宝殿 中尾山
1.兵庫県生石(おうしこ)神社石の宝殿の謎
 
 播磨国風土記の賀古郡大国の里に「作石、形、屋のごとし  聖徳王御世、弓削の大連の造る石」とある。これが石の宝殿の造営に関係することは間違いなかろうが、ではその年代が明確になるかと言えばそうはいかない。これが石槨であるならば、その製作技法は七世紀のもので、守屋の時代とは合わない。ただ風土記は「守屋」と記しているわけではなく、物部氏は守屋の後も子孫らは弓削の名で残っている。
 正木裕氏は「もう一人の聖徳太子」注1)を論じられ、一人目は阿毎多利思比孤であり、二人目の聖徳太子である利歌彌多弗利の事績の中で629年から634年に聖徳年号があったとされる。これは二中歴の九州年号にはない年号である。仁王元年・623年即位~命長七年・646年崩御すると利歌彌多弗利の治世こそ聖徳の世であった可能性がある。ならば風土記の大石は七世紀の半ばに作られて、何らかの理由で途中で放置されたと考えられるのではないか。そして用途不明とされた石造物は、今では繰り抜き式石槨との考えもある。
 八角形の墳丘から文武天皇陵と考えられるようになった中尾山古墳は、巨大な台石に磨かれた石を組み合わせて石槨にしたものだ。その石槨の全景が、石の宝殿を横倒しにした様と類似していることが分かる。松本清張氏がゾロアスター教の拝火檀と考えた益田岩船も同様の未完成の石槨なのだ。下に向かって石室を彫り、完成後に横倒しにして設置しようとしたのかもしれない。ただし、中尾山の場合は巨大な台石の上に加工した石室を組み合わせて重ねている。横口式石槨ともいわれるが、石の宝殿や益田岩船の場合は、台石を含んだ石室として完成させようとしたのであろうか。

2.現段階での石槨の編年では、少し後になる。
 
 この繰り抜き式石槨も類似の系統があり、寝屋川市の高良大社の敷地の裏の石宝殿古墳が七世紀前半であり、その後、藤ノ木古墳に近い斑鳩町御坊山三号墳、そして有名な鬼の俎板・雪隠の古墳が7世紀半ばとなり、次に牽牛子(けんごし)塚古墳、越塚御門古墳となるようだ。707年崩御の文武天皇の真陵とされるようになった中尾山古墳は時代が8世紀初頭になってしまうが、周辺の遺構から出土する須恵器は7世紀後半とずれている問題はある。牽牛子古墳と隣接の越塚御門古墳は版築で造成されていることや、いずれも横口式石槨であることなど、九州との関係がうかがわれる。播磨や斑鳩の地域、九州式の石槨や版築の古墳などこの点についても聖徳太子との関係がみられるのである。
 問題は、この系統の中に石の宝殿と益田岩船があるとするならば、何らかの理由で工事が中断されたとする時期が聖徳の世の7世紀前半では、少し早いのである。また放棄された理由も推測しづらい。
 ここは横口式石槨の編年を繰り上げるような根拠を見出さないと、石の宝殿は「利歌彌多弗利の聖徳御世」の7世紀前半のものとはできない。これが7世紀後半のものであるならば、途中で作業が停止された要因に壬申の乱や王朝交代時の政変とする要素も検討できるが、この時期に聖徳の世とされた根拠が必要となる。
 つまり、中尾山古墳の石槨が、文武ではなく須恵器の出土から7世紀第4四半期になるのであれば、その前の斉明とされる牽牛子塚古墳が寿陵とした場合に650~660年代となり、そうすれば、益田岩船や石の宝殿が640年代で、利歌彌多弗利の時代と関係するならば、物部守屋の末裔の墓の造営とはなる。ただこれは、恣意的な解釈にすぎず、現段階では、石の宝殿と益田岩船も7世紀前半とはならず、石槨の編年の見直しがされることが重要となるのではなかろうか。

注1.正木裕氏「もう一人の聖徳太子」こちらのYoutubeをご覧ください。

↑このページのトップヘ