流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2025年01月

正面
背後斜め
現地案内板

岡山県恵庭市に大谷1号墳という階段ピラミッド状の方墳があります。山奥の斜面に造られた珍しい形状のものです。合わせて、その周辺の古墳群も紹介します。
 詳しくは、最近始めだしました、投稿サイト「note」の「ヒデチャコ」名でアップしております。以下をクリックしてください。
 
 斜面にある階段ピラミッド状の大谷1号墳と定古墳群

 「noteヒデチャコ」←こちらをクリックしていただき、「斜面にある階段ピラミッド状の大谷1号墳と定古墳群」をご覧ください。は、しばらくは、リメイクしました既発表のものが多くなりますが、特にスマホでご覧の方は、こちらが見やすいかと思います。よろしければ、ご登録お願いいたします。
 もちろん、ブログ「流砂の古代」も引き続きアップしていくつもりです。 今後ともよろしくお願いいたします。

空海の風景
 日本人は、遣唐使や鑑真の渡航の苦労話などがあって、古代における海外との交流については容易ではないように小学生から思い込まされているのではないかと思われる。そのために大陸、半島からの渡来者、移住民の存在が過小評価され、交易や文化的交流など古代史の解釈にも否定的な影響を与えている。
 例えば、ある教科書には、「鑑真、苦難の旅 何度も航海で難破し、その間に失明」とある。ほとんどの日本人は義務教育で同様の内容を学んでいる。とにかく日本への渡来、航海は困難を伴うものであるという、先入観が早くから植えつけられるのだ。
 研究者も、少数の渡来は認めても、日本で定着した文化は、彼らからその情報を受容したもの、との説明がよくなされている。近年でも次のような例がある。『渡来系移住民』(岩波書店2020)の中で朴天秀は「遣唐使は260年間で長安に到達できたのは13回であり、全員が無事に帰国できたのは1回にすぎない」とし文物の交流は新羅経由を強調されている。全く史実とは異なる説明だ。これは極端な例であろうが、こういったことが訂正もされずにまかり通っているのが今の現状であろう。

1.遣唐使は危険な船旅であったとの誤解の始まり

 そもそも、この誤解の始まりは、上田雄氏の『遣唐使全航海』によると、ある著作からはじまったようだ。
森克己氏の『遣唐使』(1955)は古典的著作とされているが、「帆に頼るよりも人力によって漕ぐ場合が多かった」と記されているところがあって、これが定説のようになってしまった。しかし、平均横断日数は7日ほどで、終始帆走している。しかし、渡海の困難さが強調され、これに影響を受けた著作も現れた。
司馬遼太郎氏の『空海の風景』に、次のような一節がある。
 「‥‥夏は風は唐から日本へ吹いている‥‥遣唐使船は‥‥わざわざ逆風の季節をえらぶのである。」 
 「この当時の日本の遠洋航海術は、幼稚という以上に、無知であった」と記されておられる。しかし、これは作者の勘違いであった。
 夏は、大陸が暖められ低圧になり、太洋は比較的低温で高圧となるので、風は日本側から大陸へ吹く。
 冬は、大陸は冷やされ高圧になり、太洋は比較的高温で低圧になるので、風は大陸側から日本側へ吹くのである。
 残念ながら、司馬氏は過去の研究の少ない分野の、しかも間違った説を参考にされていたようだ。だが、この小説の影響は大きく、人々に渡海の困難さばかりがイメージされ、教科書でも同様の記述がされて、多くの国民の常識のような状態に至ったのである。
 実際には、入唐僧円仁の精密な記録である『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)に、7月下旬、南東の風を受けての航海は、夏の季節風を利用したもので、博多の那の津を出てから、長江デルタ座礁まですべて帆走していたとのことだ。「人力によって漕いだ方が多かった」という説は当てはまらないのだ。

2.遣唐使の解説に誇張はなかったか。
 
 この点に関しても上田雄氏は明快に述べておられる。「二百年余りの間に日本から発遣された遣唐使船は三十六隻、そのうち二十六隻は無事に帰国し、七割強が往復に成功。人員では八割強が帰国を果たした。ほとんどの航海で遭難して漂流し多くの犠牲者を出したというのは、極めて自虐的な大袈裟な表現で事実を正確に見ていない」というのだ。百名余りが死んだ記事も海上で亡くなったわけでなく、上陸先で賊に襲われたり疾病によるものなのだ。
 これは鑑真の来日の苦労話も同様だ。弟子や唐の官憲の妨害で船を出せずに三回挫折し、漂流は一回なのに、何度も苦労して失明もしたなどという話が、義務教育等で植え付けられたのだ。
 記録では早い時には三日、遅くても八日ほどで東シナ海を横断している。中国の文物も大量に持ち帰っているのに、暗いイメージが刷り込まれていったのだ。子供のうちから、遣唐使も鑑真も渡航での苦労が誇張されたことがその後の思考に影響していると考える。

3.鑑真の失明にも疑問が
 
 鑑真は渡海する前から眼を患っていたようで、先ほどにもふれたように、航海の苦労がたたった結果、失明したというわけではない。また、訪日の時点で既に完全に失明していたとすることにも疑問があるようだ。  
 『続日本紀』には、鑑真は留学僧の栄叡の死去を悲しんで失明したと記している。来日していた時には完全に失明していたというわけではないようだ。『東征伝』には、渡海の際の炎熱を経て視力失ったとある。他に、白内障が原因とする学者もおられる。
 鑑真は来日後、一連の行事、受戒のための戒壇の設置、孝謙天皇をはじめ多数の僧に受戒を行っている。受戒と戒律の教授を行える多少の視力はあったということであろう。(米田雄介2022)
 ネットでの記事にも見受けられるが「五度の渡海失敗にめげず失明の身で来朝」、などというのは不正確なのである。

3.菅原道真の遣唐使の廃止提言の理由

 寛平6年(894)に参議左大弁菅原朝臣は遣唐大使に任命された。しかし、本人は宇多天皇に遣唐使の廃止を提言する書をたてまつっている。そこには、唐の現状を見ると、唐国内の旅行もきわめて危険であると、渡海の苦難よりも唐国内に入ってからの安全保障がないことを指摘し、最後に自分の身の安全のために言っているのではないことを付け加えている。
 つまり道真は、自分が遣唐使に任命されたのを機に、唐の政情不安を理由として、廃止を唱えたのであり、その結果、遣唐使は一か月あまりの後に停止されたのである。
 このように、道真は遣唐船の航海の危険を理由に廃止提言をしたわけではないのである。

 以上のように、悪天候に遭遇するなどの事故もあったであろうが、古代における船の移動は、我々の想像以上に、活発におこなわれていたと考えられるのである。渡海の困難さばかりが誇張されることがないようになることを願いたい。
 
参考文献
『中学社会 歴史的分野 ともに学ぶ人間の歴史 文科省検定済み』(学び舎2017)
司馬遼太郎『空海の風景』中央公論社1975  表紙写真はAmazon.comより
上田雄氏『遣唐使全航海』草思社2006
米田雄介氏は『日本におけるソグド人安如宝の足跡』(NARASIAvol.22奈良県立大学2022)

博物館復元
大林組の復元モデルがメインのように展示されている

1.復元案は意見がまとまらないまま、巨大スロープ案がもてはやされた。

2000年に現在の本殿の南側で鎌倉時代のものと推定される三本一組の巨大な柱根、いわゆる宇豆柱が発掘され、「高層神殿」の存在を示唆する発見となった。そして、これを機に古文書の記録や「金輪造営図」注1)などから復元プランが検討されたが、高さの問題、図面の階段の長さなどでの論争の決着はつかず、島根県立古代出雲歴史博物館では、5人の学者さんの自説に基づく復元模型(1/50)が博物館に展示されることになった。
 ところが、その展示の横には、新たに福山敏男氏監修による大林組プロジェクトチームの案による復元模型が1/10という他の5点よりはるかに大きなサイズでこの隣に展示されているのである。そうすると、6種類の復元モデルとなるが、この展示の扱い方からしても、巨大スロープをもつ復元案が何か正当な復元であるかのような印象を受けざるを得ない。インパクトがあるので、マスコミにとっても注目してしまう構造であり、当の博物館のHPでも巨大スロープの神殿がメインとして扱われている。
 しかし、この109mの長さで170段の階段という構造の復元は実在したのであろうか。このようなものが造られたとはとても言えないことを説明する。

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5人の学者さんの自説に基づく復元モデル

2.神殿の高さを断定することはできない。
 
 まずは、巨大神殿の本当の高さはいかほどであったのかという問題だ。実は、残念ながら建物の全高が書かれたものはないのだ。大林組の復元では高さ16丈(48m)となっている。これは、平安時代の源為憲の記した口遊(くちずさみ・児童向け学習書)の「雲太・和二(大仏殿)・京三(平安京本殿)」から、本殿の高さは、焼き討ち前の大仏殿が15丈であったので、大社は16丈あったとみなされたのである。しかし、これには異論があり、この歌は順位を示したものでなく、神社なら大社、大仏は東大寺、建物は平安京を示すとの解釈もある。
 さらに、丈・尺、町の現代換算の長さは妥当なのか、という問題もある。養老令・延喜式では、1尺29.8cm 1歩6尺179cm、1町60歩107mとなっているのだが、古田史学の会の服部静尚氏から、「ものさし」の出土品および伝承品の寸法と、大宝律令の記載からみて、当時の日本においても中国唐と同じく、23〜25㎝の小尺と、28〜30㎝の大尺が並存していたものと考えられる、とのご教示があった。  
 すなわち1尺が23cmであった可能性もあるのだ。この場合だと、高さは36.8mとなり、11mほど低くなる。復元モデルの中では、左端の三浦正幸氏のプランの27.3mよりは9m高く、ちょうど、復元モデルの右隣との中間の高さと考えることもできる。
 実際には、高さ16丈と言うこと自体が推測にすぎず、実際はもっと低かった可能性もありえる。

3.大きな問題は、階段の図面を正しく理解していないのではということ。

 高さが10mあまり低いということであれば、巨大スロープも必要なくなるのである。金輪造営図に、引橋長さ一町と記されていることから、100m余りのスロープが想定されたのだが、実はこれには問題があることが指摘されている。

金輪造営図
金輪造営図 階段の図に「引橋長一町」とある

 引橋の長一町は、誤解による後の記入との説もある。実際に階段部分の痕跡は見つからず、また100mもあれば境内を突き抜けてしまう。さらに金輪造営図は、出土した柱跡から正確に描かれた、まさに設計図であったと考えられるので、引橋の上から見た階段部分も正確な長さを示していると判断するのが適切だ。つまり傾斜は急となるが、距離は短い階段とするのが妥当なのである。

大林組図面
大林組の復元図 平面図では長い階段が描かれている

 実際に大林組の図面では、その平面図に長い階段が描き込まれているのである。このことから、階段の問題では、復元モデルの左側の3点が妥当と言えるのだ。
 長いスロープに50m近い高さの巨大神殿というイメージが強調され、博物館でもこの大林組の復元モデルが「目玉」のようになっているが、こういった行為は、三内丸山6本柱の建物と同様で、古代史に虚構のイメージを植え付けることになるのである。両者には共通する問題点がある。縄文時代に20mもの長さで直径が80cmを超える太い柱をどのように立てることができたのかも納得できる説明はない。同様に、出雲大社の場合、棟持ち柱は42mだという。そのような長さの材木を確保することができたのであろうか。もしあったとしても、はたしてその巨木を立てることができるのであろうか。
 大林組プロジェクトチームさんには、重機でなく人力でどのように立てることができるのかを実験で説明してほしいところである。

4.巨大スロープの根拠に日本書紀の誤読がある。
 
 大林組の解説では、「大国主神の宮殿を造営するにあたり、海に遊びに行くときのための高い階段と、浮橋、そして天の鳥船をつくる約束が交わされたことが述べられているとして、これが100mを超える階段の根拠として説明されている。しかし、これは都合のいい誤読にすぎない。該当の原文を以下に掲げる。

其造宮之制者、柱則高大、板則廣厚。又將田供佃。又爲汝往來遊海之具、高橋・浮橋及天鳥船、亦將供造。又於天安河、亦造打橋。

 宮は、柱を高く太く、板は広く厚くとしている。その後は、田を作って与える、という宮とは別の条件の説明であり、さらに引き続いて、海で遊ぶために、高橋・浮橋などを用意すると言っているのだ。宮殿に高橋を付けるとするのは無理な解釈であって、巨大スロープの根拠にはならないのである。ここは、監修をされた方のアドバイスによるものかと思われるが、あまりに都合よすぎる解釈ではないだろうか。

 以上から、鎌倉時代にあったと考えられる巨大神殿は、三浦正幸氏の左端のモデルが適正であると考えたい。巨大スロープのモデルは、何の根拠もない物であり、かつ図面の誤解によるものであるので、これを中心にアピールすることは見直してほしいと思う。

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手前が三浦正幸氏の復元模型

注1. 「金輪御造営差図」は出雲国造家に伝えられた図面で、本居信長の「玉勝間」に、写し取った図面が載せられた。直径1.3m、3本まとめた棟持柱―宇豆柱が出土したことで、正確な図面であることが明らかとなった。

参考文献
瀧音能之『出雲大社の謎』朝日新書2014
浅川滋男『出雲大社の建築考古学』島根県古代文化センター編 同成社2010
大林組プロジェクトチーム編著『よみがえる古代大建設時代』東京書籍2002

寺社建築文化財の探訪<TIAS>出雲大社の起源と歴史
http://masa4534.blog.fc2.com/blog-entry-125.html
※こちらのHPはこの問題に関して、詳しく説明されておられます。ぜひご参照ください。

蓋鹵王から武寧王

 百済・倭王同一人物説では、倭国では済であった蓋鹵王は、倭国から百済に戻った後に昆支を倭国に派遣し、その彼が世子興となる。すなわち、世子興はまだ生存している済から後を継いだ形になる。しかし、興の即位記事の前に済が死んだと「宋書・梁書」ともに記載されている点からして、同一人物説は成り立たないのでは、との疑問がある。この点については以下のように考えたい。
 
 この問題では、私は、宋書上表文にある武が、「にわかに父兄が死んだ」とする記事を重要視したい。そこには、倭王武の即位前後に父の済と兄の興が亡くなったと受け取れる表現がある。
 
 方欲大舉、奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇 
(大挙しようとしたが、にわかに父兄をうしない(中略)失敗に終わる。むなしく喪中にあり兵甲を動かさない。)

 ここは無視できないところであって、これについて説得力ある説明が必要であろう。逆に、宋書の本文では、このことに注意が払われていないことに疑問が生じるので、新たな仮説を立てて検討することは無意味ではないと考えたい。
 なお、古田史学の会の正木裕氏より、「奄喪父兄」の「奄」が、通説では、「にわかに」、と訳されるが、「ともに」、という意味が考えられる、とのご教示をえた。この場合も、高句麗の侵攻で、蓋鹵王とともに多数の王族、王子たちも刑死しているので、武寧王にとっては、「ともに父兄が死んだ」と理解できるのである。
 次に、宋書、梁書の関連記事については、いくつも問題があると考えられる点を説明したい。

①宋書には、最初の讃は倭讃とは書かれているが、倭王とも倭国王ともされていない。その一方で、梁書には、倭王賛と記されているものの、残りの4王は「王」の記述は見当たらない。

②宋書では、珍は死んだという言葉は書かれておらず、ここから二系列の王族説も出されることになる。

③宋書では「世子興」とされているが、梁書には「子」とだけあり、「世子」が無視されている。

④宋書での珍は、梁書には彌(ビ、ミ)と記されている。ここから別の王がいたのではという解釈もある。これは、時期はずれるが、私見の済と興の間にX王という設定もあながち無理ではないと思える。ちなみに卑弥呼の弥は、魏志倭人伝も後漢書も彌である。
 余談だが、卑は漢音がヒ、呉音がビである。彌は漢音でビ、呉音でミである。すると、漢音ならヒビコ、呉音ならビミコとなろうか。

⑤梁書には、「有倭王賛。賛死,立弟彌。彌死,立子濟。濟死,立子興。興死,立弟武」とあるように、なにやら機械的に記述をしたかのように見えてくる。つまり、新しい王の使者が来たら、前王は死んだから、と考えて、前王死、と書いた可能性はあると思われる。

⑥そもそも梁書の倭の五王の記事の直前には、卑弥呼から臺與の記事があり、次に倭王武の記事の直後に侏儒国や黒歯国が登場している。以下は該当箇所の引用。

 梁書 邪馬台国記事の途中より
正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。
(ここから倭の五王の記事)
晉安帝時,有倭王賛。賛死,立弟彌。彌死,立子濟。濟死,立子興。興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督 倭 新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東大將軍。
(ここより邪馬台国記事の続き)
其南有侏儒國,人長三四尺。又南黑齒國、裸國,去 倭四千餘里,船行可一年至。又西南萬里有海人,身黑眼白,裸而醜。其肉美,行者或射而食之。

 上記のように、魏志倭人伝の記事の途中で、倭の五王の記事が差し込まれているわけで、きわめて適当に編集されたものといえ、信憑性という点では問題がある。

⑦宋書の場合は、上表文に父兄がにわかに死んだとあるわけであり、本来ならば、そこのところを確認すべきだったところ、そのようなこともなく、「済死、世子興」と機械的に記入した、ということではないかと考える。

⑧宋書の大明四年(460)、昇明元年(477)に王名の記載のない遣使記事がある。
 
 以上から、私は、上表文の記述を尊重し、同一人物説はこの点では否定できないと考える。すなわち、世子興は倭王済の死後ではなく、生存中に即位したと考えることは可能であろう。

  ご意見の中には、百済王が別の国でも王になっているなら、外国史書に何らかの記事が書かれるはずだ、との否定論がある。  
 だが、中国史料に関しては、先ほど説明させていただいた通り、わずかな情報の記事しか書かれておらず、しかも、機械的に他の史書の抜粋をなぞっているだけというのが実際のところだ。そもそも東夷の海を隔てた国のことを、細部にわたって調査して記録するようなことは、魏志倭人伝以降は、隋書の裴世清の訪問記までないのである。しかも、隋書の記事も簡単なもので、その為に、当時の都がどこにあったのか、など議論の絶えないものになっているのである。
 また、三国史記の百済本紀にも、百済王子が倭国の王になったなどとはまったく書かれていないが、それを言い出すと、歴代の百済王の記事も、実は、即位以降の記事しか書かれておらず、蓋鹵王が即位前にどこで何をしていたのかなどは全く分からないのである。
 書かれた史料がないから、限られた史料のわずかな記述と、古墳などの発掘資料などから、推測していくしかないのではないか、と考えている。

 先に、倭王の済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在したと想定し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったとの考えを示したが、倭の五王の最後の倭王武の後に、継体紀に薨去記事だけ残された純陀太子が、倭王武の次の倭王であったとの考えを述べる。

純陀太子も倭王であった可能性を「太子」の意味から解く

 武烈紀7年 百濟王遣斯我君進調(中略)故謹遣斯我奉事於朝 遂有子、曰法師君、是倭君之先也。
 百済王が斯我君(キシ)を遣わして調をたてまつった。(略)故に謹んで斯我を遣わして朝廷にお仕えさせます、という。その後、子が生まれて法師君という。これが倭君の先祖である。(宇治谷訳)

武烈紀系図
 上記では、法師君の父親はわからないが、冨川氏は、「系図で示した《?》は「朝(みかど)」であり、「倭君」とは単なる「倭」姓にとどまらず、「倭国」の君主を指すにちがいない」とされた。
 一方の続日本紀では「后(高野新笠)の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」とあり、武寧王の子の純陀太子が、新笠の父親の和(ヤマト)乙継につながるのである。
 では、武烈紀の斯我君の相手は誰になるのであろうか。倭君が、続日本紀の和乙継につながるのであれば、それは純陀太子(書紀では淳陀)となる可能性が高い。ただ問題が二点あった。まず、斯我君と百済王の関係である。毗有王が送った新齊都媛は、「其妹」とあるところから、近親の女性であり、毗有王の実娘である可能性がある。斯我君の場合も、書紀に記された百済王は、時期から判断して武寧王となるので、斯我君も実娘の可能性があるが、相手が同じ王の子であるならば、近親婚となるので、おそらくは、血縁のやや離れた百済王族の女性と考えられる。
 
 次の問題は、その相手が「太子」と称していることである。武烈紀では、ミカドに奉事するわけであり、それが即位前の太子であれば、遂に後継ぎが生まれたとはできない。もしも父親となる《?》が、純陀太子に違いないとするならば、どうして太子とされているのか。
 これについては、宋書の倭の五王の世子興と同じ状況と考えてよいのではなかろうか。「世子興」は、倭国においては王であったはずだ。しかし世継ぎの意味である「世子興」を宋書は、二か所で記載している。奇妙な事であるが、あまりこの点について関心が払われていない。「世子」は中国や半島では使われる用語であるが、これが何故、倭王であるはずの興に使われたのかは不可解であり、本来は蓋鹵王の後継ぎであったからとせざるをえない。本来はいずれ百済王を継ぐ人物であったが、高句麗の侵攻による混乱で、半島に戻るも即位することなく亡くなってしまう。
 ならば、この純陀太子の場合も、武寧王の子であり、百済王の世継ぎであったので、それを日本書紀側の表現として「太子」と記したのではなかろうか。つまり純陀太子は、倭国では王となる存在であったが、継体紀にあるように、状況は全く不明のまま崩御(薨)したのである。同じ武寧王の子の聖明王が次に即位することになり、純陀は太子のままで世を去ったのである。
 すると、純陀太子が、世子興と同じように倭国王の位置にいたことになり、斯我君との間に法師君が誕生することになる。だが、法師君、及びその末裔は、純陀太子を継いで、倭国王の地位にとどまることはなかった、と考えられる。継体7年(513)淳陀太子薨との記事に、その死因は記されていないが、なんらかの政変があったことも考えられる。
 
 これまでのところをまとめると以下のような図となる。
蓋鹵王から武寧王
443年 倭王済は宋に遣使 
455年 百済毗有王の急死で、済は蓋鹵王として即位。 かわりに不  
   明のX王が倭王継承
460年 X王が宋に遣使
461年 蓋鹵王は昆支を倭国に派遣。彼が世子興として遣使をおこな
   うが、高句麗の襲来の後に帰国後急死。
477年 世子興の昆支が帰国し、斯麻こと武寧王が倭王武として即
   位。翌年に遣使、上表文を渡す。
502年 斯麻は、東城王の急死で帰国し、武寧王として即位。子の純 
   陀太子が倭王即位。
513年 純陀太子薨去

参考文献
冨川ケイ子「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学論集第十一集 2008 明石書店

1. 百済三王と倭の三王の同一人物説
 
 蘇鎮轍氏らの倭王武と武寧王同一人物説を検討する中で、前代の済が蓋鹵王、世子興が昆支と考えるように至ったが、簡単にその根拠を述べる。なお、讃と珍は材料がとぼしく、検討課題としておく。もちろん、日本書紀の記す天皇とは全く無関係である。
①倭王武の上表文の内容に対する疑問。直接の影響のない倭国が高句麗を非難しているが、高句麗の被害に遭っているのは百済であり、中国への遣使を妨害されている。
②上表文の済が高句麗征討の準備をするというのでは、次の興の存在を飛ばしている。
③上表文のにわかに父兄が亡くなるのは、漢城落城で刑死する蓋鹵王と王子のことと考えられる。
④武は、百済支援の兵を喪中で出せなかったのも、蓋鹵王刑死のこととすれば符合する。
⑤宋書倭国伝の「世子興」の「世子」は半島で使われる表現。しかも世継ぎが倭王になるのも不審である。
⑥蓋鹵王の指示で昆支が渡海した翌年に、世子興は宋に朝貢している。
⑦昆支の百済帰国の翌年に倭王武は遣使をしている。つまり昆支は武に引き継いで帰国したことになるのでは。
⑧日本での古墳などの出土遺物と武寧王、百済との深い関係が見られる。
⑨斯麻は日本で誕生してから、百済王に即位するまでの40年間の足跡は不明。蓋鹵王も即位前の事績は不明。
⑩日本に渡った昆支の事績も不明だが、飛鳥戸神社の祭神に祀られ、「新撰姓氏録」に飛鳥戸氏の祖とされる。
⑪百済と倭国の深い関係。日本にいた東城王の帰国の際には筑紫国軍士500人の護衛。彼らのその後は不明。
⑫日本に滞在した百済の王子が、帰国して百済王になっている。直支王、東城王、武寧王、恵王(聖明王次男、威徳王の次に即位)、豊璋(百済最後の王)。他に昆支は帰国後に死去。阿佐も帰国したかは不明。
⑬日本書紀には肖古王薨、貴須王即位から威徳王即位までの11名(毗有王は不記載)の百済王名を記載している。これは異例のことであり、なぜ百済王だけ記しているのか。
⑭白村江戦で倭国軍が多大な犠牲を払うことになった原因も、百済との深い関係を物語る。
⑮武寧王の子の純陀太子が、桓武天皇の母の高野新笠につながる、和(ヤマト)氏の祖というつながりのあること。

2.神社に祀られる昆支王
 昆支の16年あまりの倭国滞在時の事績は不明であるが、わずかな情報がある。書紀の雄略5年秋七月に軍君(昆支)京(みやこ)に入る、との記事の後に、既に五人の子があったと記している。そのうちの子の一人が東城王となる。
 『新撰姓氏録』は、飛鳥戸氏の祖とし、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に祭神になっている。日本の神社の祭神に個人の名のある百済王が祭られるというのは禎嘉王を祀る宮崎県神門神社があるぐらいでめずらしい物であろう。倭国の地で、一定の実績を収めたからこそ崇められたのは間違いない。昆支の末裔は、河内飛鳥の首長、飛鳥戸氏で、後に改姓して百済宿禰となる。
 高井田山古墳(大阪府柏原市)は近畿の初期横穴式石室の採用や武寧王陵出土例に似る火熨斗の出土から、被葬者が百済王族の人物であるのは確実であろうが、これを安村俊史氏は、昆支の墓との説を出されている。百済に帰国してそこで亡くなったという確実な根拠もないから、可能性は否定できない。しかし、別の案もある。
武烈紀3年に、百濟意多郎(おたら)卒、葬於高田丘上、との記述があり、私はこの人物の可能性が高いと考えるが、この高田は大和国の地名との意見もある。
 昆支の足跡としては、高井田山古墳の被葬者が証明されるまでは、あまり多くの情報はないが、武寧王については、日本の古墳などの遺物から、倭国との深い関係を物語るものが存在している。

3.武寧王陵と倭国との深い関係を思わせる古墳の遺物
 
 武寧王の記事も多くはないが、その事績は評価されている。前代の東城王を殺害した苩加を征伐し、即位後には高句麗、靺鞨と交戦し撃退させている。512年には高句麗を大破し、強国として復活させている。栄山江への進出、支配も推進した。前方後円墳の絡む問題だが、この点については別の機会にしたい。
 521年に梁に朝貢し、使持節都督諸軍事寧東大将軍となる。523年には双峴城築く、といった程度の記事があるだけだ。そして「百済本記」に即位前の記事はまったくない。あとは、日本書紀に書かれた半島記事と、列島と半島での関係する出土品から推測するしかない。
 日本書紀には、重出の生誕記事と、武烈4年(502)に即位記事、継体17年(523)百濟國王武寧薨とあり、これは墓誌の記述と整合するが他に記事はない。
 武寧王陵は1971年に発見された未盗掘の墳墓であった。ここに葬られた夫婦と見られる二つの棺は半島には自生しない日本産のコウヤマキが使われていた。ちなみに、高井田古墳の棺もコウヤマキ製であったが、ここからほぼ同型の火熨斗(ひのし:アイロンのようなもの)が出土している。武寧王本人が、日本滞在時に高野槙の品質の良いことを知って、送ったのであろうか。さらに銅鏡も重要な問題を持つ。
 王妃の冠飾りの下に置かれていた後漢鏡モデルの獣帯鏡の踏み返しといわれる同型鏡が、滋賀県甲山古墳、群馬県綿貫観音山古墳から出土している。そもそも半島に銅鏡を副葬するという例は少ない。
 森浩一氏の指摘だが、半島にはあまり見かけない習慣であり、倭人社会からの影響とされている。「王の方の銅鏡は棺外の長軸上に一面ずつ、王妃のほうは頭部付近に一面、という出土状況も日本の古墳の銅鏡出土状況に比すべきもの」としている。
 銅鏡の問題では、隅田八幡宮銅鏡の銘文に斯麻とあり、武寧王のことであるのはほぼ定説になっている。
 武寧王陵は見事な磚室墳(レンガ造り)であるが、そこに鉤状鉄製品が認められ、石室や棺を布幕で覆う際に使用したと想定される。同様のものが同型鏡のある綿貫観音山古墳、甲山古墳からも見つかっている。さらには、藤ノ木古墳にも認められる。豪華な金銅製品や銅鏡だけでなく、埋葬儀礼に直接かかわるような金具のセットも同じというのは大変重要と考える。同族の葬送儀礼であるからこそ、同じようなしきたりや形式があるのではないか。綿貫観音山古墳の鉤状鉄製品については、こちら
 さらに、単龍・単鳳環頭太刀だが、梁の高祖が斯麻王に節刀(中国からの任命の印)として下賜したのではという説があるが、この模造刀が倭の古墳から出土している。福岡県日拝塚、茨木市海北塚、大阪府一須賀1号墳などがあり、関係の深さを物語る。
 他に滋賀鴨稲荷山古墳の耳飾りは、武寧王陵王妃の耳飾りと構成(主環、中間飾鎖、)が共通。さらに、熊本江田船山古墳の冠帽、飾り履、長鎖耳飾、馬具は百済との関係は深い。
 武寧王陵の北西7㎞にある横穴墓群が倭人墓の可能性と指摘され、帰国の際の「護衛」の倭兵の可能性がある。

参考文献
新納泉『単竜・単鳳環頭大刀の編年』京都大学ネット掲載1982
「百済武寧王と倭の王たち」実行委員会編『秘められた黄金の世紀展』六一書房2004

松川町土器
長野県下伊那郡松川町資料館 顔面把手付土器 
頭部がマムシのように造形されている。生きたマムシが土器を這っているように見える。

1.マムシの生態についての迷信のようなお話

 以前に、次のような信じがたい記述があるのを見つけた。縄文時代と蛇に関するものだが、以下のような説明があった。
「マムシは生命の誕生と死に深くかかわる。さらにマムシの胎生の子は、母の腹を食い破って出てくる。縄文人はこうしたマムシを地母神の象徴として崇拝した。梅原猛氏も人の命を一瞬にして奪う恐ろしい敵としてのマムシを、神にすることによって、蛇の害から人間を守ろうとした。」(安田1991)
 母蛇のお腹を食い破って子供の蛇が誕生?まさかと思ったが、どうもこの著者は別の書物からの記事を参考にされたようだ。それは藤森栄一氏の『縄文農耕』で、次のような一節がある。
「マムシは春、土の中から忽然として現れる。すなわち霊である。そして、特に秋口、藪の中など、いや竪穴内にもネズミなどを追って入ってきて、忽然と人の生を奪う。(中略)マムシが生まれるとき、母マムシはもがき苦しみ、胎生の仔マムシは丸々と肥って、母の腹を食い破って出てくる。原始の植物嗜食民たる縄文中期人が、そうしたものに地母なる神の具現を感じたことは、当然すぎるほど当然である。」(藤森1979)
 どうも蛇の神秘性を強調するあまりの勇み足ではなかろうか。子蛇が腹を食い破って生まれ出るなどと書かれた爬虫類図鑑でもあったのだろうか。そもそも蛇は卵生であり、それはマムシも同様のはず。ただ、蛇はすべて卵から生まれる卵生ではなく、2割は胎生だということだが、それらは外国種のようだ。(JPスネークセンター2024)。
 また、生き物で親が子を食べる、子が別の子を食べる事例はあるのだが、現在のところ、母親を食べるケースとして、昆虫や線虫、それにクモ形類の一部の種にあるという(National Geographicのネット記事)ことだが、まあ、特殊な事例だろう。
 では、藤森氏は、どこでこのような情報を得られたのか?別の参考にされた文献に同様の記述があったからであろう。その元ネタと思われるものに、最近になって気が付いた。
 それはヘロドトスの『歴史』だった。

2.ヘロドトスは、信じがたい逸話、「たわ言」ももれなく記載している。
 
 『歴史』巻三ダレイオスの記事の109のところに次のようにある。
「・・・この蛇は一番(つがい)ずつ交尾して雄が受精に入り、精液を射出すると、雌は雄の頸元に噛みついて離れず、これを食い尽くして終うまで離さない。雄蛇は右のようにして死ぬのであるが、雌も雄に対して犯した罪の罰を次のようにして受ける。それはまだ母の胎内にある子蛇が、父の仇とばかり母の体を食うのであって、胎内の子は母胎を食い破って外へ出てくるのである。」
 「父の仇」?かのように母の体を食い破るというのは、話を面白くしたのであろうが、この記述を信用して、ご自分の著作に採用されたとすると、残念というか、どうして信用したのかと思う。おそらくは、別に引用された著書があって、そこから孫引きされたと思いたいのだが。
 実は、この箇所の直前に、ライオンの出生に関する似たような記述がある。
「・・・ライオンの牝は、一生に一度、しかも一頭しか子を産まない。ライオンは仔を産むと同時に子宮をも体外に出してしまうからで、その原因は・・・ライオンの仔は母の胎内で動き始める頃になると、他のどの獣よりも遥かに鋭いその爪で子宮を掻きむしり、成長するにつれてますます深く爪を立てる。分娩が近づく頃になれば、子宮で無事な部分は一つも残らなくなるのである。」
 一頭しか生まない子に胎を食い破られていたら、ライオンという種はすぐに絶滅してしまうではないか。この箇所には訳注があって、「アリストテレスはこの部分の記述を『たわ言』だと評している」とある。偉大な哲学者でなくてもわかりそうなものであり、この記述も見ていれば、蛇の場合の記事も信じがたいと思うのが普通であろう。
 この『歴史』には、重要な歴史的事項が豊富に描かれているが、一方で、迷信のような記事も多く混ざり込んでいる。ただこれも、当時の古代の人々がそのように信じていたこと、考えていた逸話の貴重な資料として参考にすればいいものであろう。ただ、事実だったのか、作り話かの見極めの難しそうな話も多いようではあるが。

3.蛇が神になったのは、獰猛だったからではない。
 
 虚偽を引用された方々は、マムシの神聖たる根拠の説明するにうってつけの事例として取り込まれたのだと思うが、残念ながら事実ではない作り話であった。縄文時代における蛇との関係を強調することは首肯するのだが、いささか安易な引用であった。また、縄文時代の蛇信仰の説明に、ことさらマムシを危険な生物として強調するのも不正確と言え、一瞬にして人の命を奪うという先ほどの説明も正確ではない。実は、マムシの毒性はハブに較べると弱く、人が噛まれて死亡するのは処置に問題があった場合だという。ヤマカガシの方がはるかに毒性が強く危険だという。
 どうも、先ほどの方々は、マムシが獰猛であることが神となった理由と理解されているようなふしがある。吉野裕子氏は、蛇の神たるゆえんを、毒性以外に、その形状、脱皮などを挙げておられる。私は、それらに加え、決定的な理由は、出産時の臍の緒が古代人には蛇のように見えたことだと考えている。こちらをご覧ください。

 このように誤解、迷信の類いのものをその出典を吟味することなく引用するのは誤情報の連鎖となるもので気をつけたいものと思う。

参考文献
藤森栄一『縄文農耕』(藤森栄一全集弟9巻)学生社1979
安田喜憲『大地母神の時代』角川選書1991
ジャパン・スネークセンター『ヘビ学: 毒・鱗・脱皮・動きの秘密 』(小学館新書 481)2024
ヘロドトス『歴史』松平千秋訳 岩波書店1971

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