流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年12月

脱皮しない蛇は生きられない。茅の輪くぐりの意味 大山崎町離宮八幡宮

離宮八幡茅の輪くぐり

京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮 年末年始にすえられる茅の輪くぐり。
 ここは中世のエゴマからなる油の製造販売発祥の地であり、そのエゴマで輪が作られている。

1.茅の輪くぐりは、蛇の脱皮を擬(もど)くものだった。

 茅の輪くぐりは、たいていの神社では、6月の晦日、つまり6月30日に行われる「夏越の祓」の前後に設置される。しかし、大山崎の離宮八幡宮は、年末年始に据えられるが、神社によっては年2回のところもあるようだ。この茅の輪くぐりは、古くから無病息災を願う神事であったが、人が輪の中を通ることが、脱皮を意味するとも考えられている。
 亡くなったイザナミに黄泉の国まで会いに行ったイザナギだが、最後は大げんかとなり決別する。そのイザナギは、「自分はなんとけがらわしい汚い国に行ってしまったのか」と言って、体を清めるみそぎを行う。このみそぎに関して吉野裕子氏は次のように述べている。
 『祭りの原理』の末尾の註⑸に、「伊邪那岐命が阿波岐原(あわきはら)でみそぎされるに際して身につけられたもの、杖・帯・ふくろ・衣・褌・冠などを次々に投げすてる描写がある。何故こうまで詳細にしるす必要があるのだろう。それは、身につけたものを身からとってゆくことが「身殺(みそ)ぎ」つまり「みそぎ」だったのではなかろうか。みそぎは御禊で、身条(みすす)ぎからの言葉と考えられている。『古事記』成立期にはすでに穢れの観念が確立していたので、みそぎもまたこの視点からとらえられ、みそぎが清浄にすることの線に強く結びつけられたのではなかろうか・・・」とし、これは、蛇の脱皮の擬き、まね事として行われたのではないかとされた。禊とかかれると難しい言葉になるが、元の意味が、身を削ぐことと捉えれば納得できる。
 古代より日本人は、本来人間にはない脱皮を呪術として人為的に行い、永生をはかろうとしており、そういうことを日本人は好んだという。そのため、一年の折目節目に行われる年中行事の中に脱皮を擬くものが数多く織り込まれているという。
 年の初めの若水汲み
 年の暮れの大祓い
 三月上巳の雛の節供
 六月一日(ムケノツイタチ)
 六月十五日 祇園祭(水神祭)
 六月晦日 夏越の節句(茅の輪くぐり)
 七月 盆祭り(七夕の竹を流す)
 七月十四日 盆ガマ(屋外にカマドを築く)

 例えば雛祭りの起源は、人形(ヒトガタ)をつくってこれに身のけがれを負わせて水に流すことだったと一般に説明されている。しかし、吉野氏はこれを、人形は本来の人にそっくりで、しかも死物であることから一種の抜け殻であって、脱皮の代用ではないかとされる。
 この三月の節供は、上巳(初めの巳)、つまり蛇の日ということがほぼ室町時代にはさだまったとされる。このことからも、蛇の脱皮を擬くものであったことを内包しており、神事と蛇信仰には深い関係があると理解できる。

2.みそぎとしての脱皮に重要な意味をもたせたニーチェ

 「脱皮できない蛇は滅びる。その意見をとりかえていくことを妨げられた精神も同様だ。」(曙光)

 このニーチェの言葉が持つ意味は深く、その為に様々なところで使われ、企業研修でも好まれる。過去の成功体験に固執していては、環境の激変については行けず、その組織は凋落していく。組織に関わる個々人が、このことに留意する必要があるのだ。何か新しいことにチャレンジしようとする機運を、過去の経験に縛られた人が足を引っ張って前に進まなくすることもよくあることであり、組織の動脈硬化の元凶となろう。
 これは、企業という組織だけでなく、人の関わる組織全般にも言えることだろう。私の関わる古代史会の組織も少しでも脱皮してくれたらとよく思うことがある。ちょうどパソコンに随時更新作業があるように、どんなものでも、過去にこだわらず刷新しないと生き残れないのではなかろうか。
 みそぎとは、脱皮のことであるが、中には身を削ぐようなことはしていないのに、選挙で再選されると、「みそぎは終わった」などと言って、過去の悪事はなかったかのように振舞う政治家さんもおられる。これは、言葉の誤用、悪用だと思ってしまう。その面(ツラ)の皮を、本気ではがしてほしいものだ。
 ニーチェの言葉の真意を真摯にとらえて、一人一人が、脱皮をしたつもりで気持ちを新たにすることが、人生の節目に必要な事かもしれない。

 一年のけがれを削ぎ落すという点からすると、茅の輪くぐりを年末年始に行うのは、理にかなっていると言えるであろうか。
新年にあたって、茅の輪くぐりで、心と体のリフレッシュをされてもいいかもしれません。
 離宮八幡宮はJR山崎駅からは東に徒歩ですぐのところ。 阪急大山崎駅からも改札口前の西国街道を西へ3分。茅の輪くぐりは1月13日どんと祭りまでです。
 なお、東京の五條天神社や横浜市の神明社などでも正月に茅の輪くぐりは行われるようです。

参考文献
吉野裕子『蛇―日本の蛇信仰』講談社学術文庫1999
吉野裕子『祭りの原理』(吉野裕子全集1)人文書院2007

蓋鹵王と昆支はともに百済にいた問題  武寧王と倭の五王⑽

1.済と世子興のあいだに王名のない遣使記事がある

 雄略紀5年(461)に、蓋鹵王が子の昆支を派遣している。その際、昆支は蓋鹵王の身重の女性を手に入れて渡海するのである。これは既に説明した武寧王誕生譚につながるのだが、その翌年の462年、『宋書』の大明6年に世子興を安東将軍と為す、との記事がある。すなわち、昆支は列島に渡って入京(みやこにまゐる)のだが、その翌年には、世子興が中国に使いを派遣していることが、同一人物の事績としてつながるのである。
 これと同様に、『梁書』天監元年(502)の記事では、倭王武は征東大将軍に進号されているが、百済王は前代の餘大(東城王)である。これはタイムラグであって、東城王は501年12月に殺害されて、すぐに武寧王が即位している。よって、倭王武はこの年末に百済に戻り、百済武寧王として即位するのである。このことは「武寧王と倭の五王⑺」で説明させていただいた。

 だが、ここまではよかったが、蓋鹵王を済、昆支を世子興とした場合の済と世子興の即位期間はスムーズにはつながらず、蓋鹵王の即位は455年、昆支の倭国への派遣は461年であって、およそ6年もの差があるのである。そして、前回に記したように蓋鹵王と昆支は、昆支が倭国に派遣される前までいっしょに百済に滞在しているのである。これでは、百済・倭王の三王同一人物説は成り立たない。これについては次のように考えたい。
 済の退任後、世子興の即位まで倭王の座は空白のままであった、もしくは、別の人物が即位したかのどちらかとなる。この場合、後者の方が可能性は高いが、ではその人物の出自はというと、百済関係とも言い切れない。あくまで推論だが、仮にこの人物をXとさせていただく。この時期に、中国側の倭国からの遣使記事は、『宋書』倭国伝には記されていないが、同じ『宋書』孝武帝本紀大明4年(460)に「倭國遣使獻方物」とあり、済とも世子興とも記されていない王名不明の遣使記事がある。私はこれを、別のX王が遣使させたのではないかと考えた。この点については根拠と言えるほどではないが、可能性を示唆する日本書紀の記事がある。

2.蓋鹵王が昆支を派遣することになった倭国の事情

 ここで、上記に関連する簡易な年表を記載しておく。
443 元嘉20年 倭王済遣使   ※この前年あたりに倭王済は即位 
451 元嘉28年 倭王済進号安東将軍、23人軍郡に除す
455 孝建2年 毗有王崩・蓋鹵王即位 
458 雄略紀2年 池津媛焼殺      
460 大明4年 倭国遣使記事 王名不明
461 雄略紀5年 蓋鹵王、池津媛焼殺に憤慨、昆支を倭へ派遣         
462 大明6年 世子興遣使 安東将軍倭国王  倭国王世子興は前年に即位か
        
 蓋鹵王の百済王即位と興の遣使は7年も空白となる。百済の毗有王は事情は不明だが急死している。そのため、恐らく当時倭国王だった蓋鹵王は急ぎ帰国する。想定外のことであったが、ここで仮にXとさせていただくが、倭国では、新たな人物Xが即位する。このX王の即位期間中に、何かしらの事件が起こったのではなかろうか 
 日本書紀雄略紀2年に、百済の池津媛は、天皇が宮中に入れようとしたにもかかわらず、石川楯と通じたために、天皇は激怒し、大伴室屋大連に命じて、来目部を使い、夫婦の四肢を木に張りつけて、桟敷の上に置かせて、焼き殺したという、なんとも残酷な記事がある。これを額面通りに受け止めてよいのかという問題はあるが、当時の為政者に異常な行動があったことの反映と解釈してよいであろう。
 この焼き殺された池津媛は、蓋鹵王の父で前任の毗有王が送った8人の女性の一人と考えられる。注1)これを知った蓋鹵王は、「昔、女を貢(たてまつ)って采女としたが、しかるに礼に背きわが国の名をおとしめた。今後女を奉ってはならぬ」と憤慨している。日本書紀は、この発言に続いて、弟の昆支注2)に天皇に使えるように命じる。書紀では「大倭侍天王」とされており、この点については後述したい。
 倭国への派遣を命じられた昆支は、蓋鹵王の身重の女性を同行させるという条件をつける。これが武寧王誕生譚につづくのだが、ここからも、急に進んだ話のようにとれる。つまり、蓋鹵王は、池津媛の焼殺事件、あるいは事件に絡む何らかの政変があって、急いで立て直しをする必要性に迫られたのではなかろうか。
 済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったと考えたい。

注1.池津媛については、「武寧王と倭の五王」⑷と⑸に関連記事があります。
注2.昆支は三国史記では長子、さらに日本書紀では軍君でコニキシとの訓みが付されている。

蓋鹵王も即位前に倭国にいた  武寧王と倭の五王⑼

1.蓋鹵王は、倭国に滞在したことがあるのであろうか?
 
 蓋鹵王は、日本書紀の雄略5年に昆支に倭国派遣を申し渡しており、それは百済本国でのこととであろう。蓋鹵王が済であるならば倭国に滞在していた痕跡がないと、同一人物説は成り立たない。蓋鹵王も日本にいたと考えられることを2点あげる。
 一つは、百済から王子を倭国に送り出すときの言い回しである。応神紀8年では、直支王に対して「以脩先王之好」とあり、雄略紀5年では、昆支を派遣の際に、「以脩兄王之好」となっている。この先王や兄とのよしみ(友好?)をおさめる(脩)とはどういうことであろうか。これについては、岩波注に「『好』は日本との『好』であるから、百済を主体とした表現で、書紀撰者の加筆訂正が及ばなかった部分」としており、岩波の編者は奇妙な一文なので書紀編者が見過ごしたとしたいようだ。つまりここは、書紀の作為のない事実表現ではないか。先王や兄王がおこなってきたように行えということであって、その先王や兄王の一人は蓋鹵王で倭国に派遣されていたことになるのではなかろうか。なお、「脩」については、後日改めて説明させていただく。
 もう一つは、書紀の奇妙な表現が関係する。

2.百済王に「君」とつけてセシと訓ませた理由

 日本書紀では、雄略紀の百済王に「王」ではなく「君」と付されているのだが、永井正範氏は、冨川論考の麻那君・斯我君が女性であるという指摘を受け、百済の蓋鹵王を「加須利君」、昆支を「軍(コニ)君」、武寧王の「嶋君」の三人に、「きし」の訓が振られていることに着目する。
【この「きし」とは、通常「吉士」の「漢字」が当てられる。そして、「百済」の「王」の語には「こにきし」あるいはその略の「こきし」の訓がふられている。ところが百済の上記三人の王については、『書紀』の編者が、「~王(きし)」の「王」字を、倭風に「君」字に代えただけで、それを元音(げんおん)通りに「きし」と読んでいた。これは奇妙なことではないか。私の推測だが倭国では九州王朝の君の可能性があるので、「君」をつけたが、三人とも百済の人物であるから「きし」と読んだといえるのではなかろうか。】
 以上のように、特定の百済王に、日本書紀は、わざわざ「君」をつけており、さらには、訓みを「セシ」と記しているのは奇妙な事であり、三人の王は日本に滞在していたことがあるから、としてこそ説明がつくのではなかろうか。
 では斯我君の場合はというと、永井氏はシガキシを日本書紀編者が、蓋鹵王などと同じ王族の人物と考えて「君」の字をあてて百済称号の「キシ」と読ませたとされている。このように、昆支や武寧だけでなく蓋鹵王も加須利君として、書紀編者は倭国にいたことを記していることになる。「先王」として倭国に派遣されていたのである。  
 ちなみに、孝徳紀の白雉の儀での記事には、百済の豊璋を「君」として、「セシム」との訓みが付けられている。この豊璋についても、また、改めて論じたい。
 以上のように、倭国に派遣する際の「先王」、そして、倭国滞在者に「君」としながらキシと読ませていることから、蓋鹵王も武寧王と同様に百済王としての即位までは、倭国に滞在していたことがあったと考えられる。その倭国の地で、重要な役割を果たしていたと考えてよいのではなかろうか。

参考文献
永井正範「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学会報№七十九 2007
冨川ケイ子「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学論集第十一集 2008 明石書店

ゾロアスター教の葬送儀礼がわかるソグド人の史君墓石堂 大シルクロード展

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 史君墓石堂 複製 陝西省西安市より出土579年に亡くなった史君と妻の康氏(ソグド語ではウィルカークとウィヤーウシー)ために造られた精緻な浮彫が見事な石堂。いわば豪華な家形石棺と言えようか。

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 正面入り口の上部にある銘文は、ソグド語で記されたもの。

石堂正面
 入口の左右には、半人半鳥の神官が、火の祭壇の前で儀式を行う様子が描かれている。楽器(琵琶やハーブ、笛など)を演奏する人たちもいる。

石堂背面
 左側面と裏面には、生前の夫妻の暮らしぶりが描かれている。もちろん裏側は見えないが、その図が図録にあり転載させていただく。(図をクリックしていただくと拡大して見れます)史君は薩保の台形のフェルト帽を被ったり、鳥翼冠を載せていることもある。これだけの立派な石堂であることからも、ソグド人キャラバンのリーダーであり、胡王であったといえる。

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 そして、右側面も重要なのだが、夫妻が渡ろうとするチンワット橋の場面が描かれている。展示室の壁とのすき間から、斜めに見るしかないので、図も掲載して、簡単に説明する。

史君墓チンワト橋
 石槨(石堂)の東壁に、故人の魂がチンワトの橋の上を進んでいく様子が描かれている。右下に二人のゾロアスター教の祭司がバダーム(マスク)をつけて橋の方を向いて立っている。そこで使者の魂を来世に送る儀式をとりしきる役割だという。史と彼の妻が行列を率いて橋を渡っている。あとに子供と馬2頭、ラクダなど動物が続く。重要なのは史と妻が橋の下にいる牙をむき出した怪物を無事にやりすごしたことにある。
 ゾロアスター教の教えによれば、真実を話し、正しい行いをした者だけが、無傷で向こう岸まで渡れる。そうしなかった者は、橋がどんどん狭まって刃1枚ほどになり、最後は下に落ちて死んでしまうという。この話、何か似たものが・・・
 松本清張氏も言及しているので、引用させていただく。
「死んで四日目になると死者の魂は『チンワットの橋』のたもとまで風に運ばれ、アフラ・マズダ神によって生前の行為を秤にかけられる。悪なる魂は橋の下にひろがる地獄へ落され、善なる魂は橋の向こうの天国へ行く。どちらにも行けない魂は、天国と地獄の間にあって最後の審判の日まで待たねばならない。
 ゾロアスター教(拝火教)は中国に入り祆教となり、密教では護摩、東大寺二月堂の修二会の松明、鞍馬の火祭り、民間行事のどんど焼きなどになる。
 またゾロアスター教の『チンワットの橋』の裁きは仏教に入って閻魔大王の裁判、キリスト教の『最後の審判』に変化する。」(松本1990)
 そう、嘘をつけば下を抜かれる閻魔様と三途の川の話の元となるものではないか。半島に胡僧が仏教を伝えたというが、日本にもソグド人が、仏教にゾロアスター教やマニ教などの要素含めた宗教文化を伝えっていったのではないだろうか。

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 正面の階段の左右にも人物が描かれている。泣く人の表現が見られ、なにやら、人の顔にもみえるが体つきは動物?を囲むように悲しんでいる様子も両側にみられる。説明がないので想像だが、この造形は、おそらく人面鎮墓獣かもしれない。一対の鎮墓獣を墓に副葬する習慣が北魏の時代から唐まであったようだ。そういえば武寧王陵からも鎮墓獣が出土している。

江田船山古墳石室
 最後に、このような立派な石堂は日本に例はないが、これも想像ではあるが、熊本県の江田船山古墳の石室は、墓室と棺を兼ねたようなもので、この石堂のイメージで渡来工人が簡略化して作ったものと思っているが、どうであろう。
 まずは、直接ご覧いただいたらと思う。

参考文献
ヴァレリー・ハンセン『図説シルクロード文化史』田口未和訳 原書房2016
松本清張『過ぎゆく日暦』新潮社1990
大シルクロード展図録 発行東京富士美術館

大シルクロード展の図録のおすすめ 卓越した金製品の細線粒金技法や細かい装飾文様などがよくわかる。

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 スマホでいくつか撮影したが、あとで図録を見て、さすがというか、やはりプロの写真は違うということを痛感した。また、ショーケースに展示された中で、小ぶりの器物は肉眼では細かいところは、よほど視力のいい人でない限り見ることは出来ないと思う。特に金製品の模様などの良さはわかりにくいのではないか。コインの展示のブースでは、すべてに拡大した図版が手前に一緒に並べられているのだが、金製品もこのようなものが必要だったかもしれないが、図録ではその細密な文様を確認できる。また、展示品の色合いなども図録の写真はすぐれている。専門家の解説もあり、ぜひ、展示品を直接見ていただいた後に、図録も見てほしいと思う。けっして主催者側の回し者ではありませんが(笑)
 いくつか、そういった事例を説明します。

 まずは、冒頭写真の図録の表紙の六花形脚付杯だが、小さめのお茶碗ほどの大きさであり、肉眼では、ここまでよく図柄を見ることはできない。この金製品に人物も馬も丁寧に描かれていることに感心するが、内側の底に描かれた魚の様子もよくわかる。さらには、描かれた図の外側がびっしりと魚々子(ななこ)という小さな円文で埋められており、それは脚のところにも施されている。気の遠くなるような作業だ。図録の写真でぜひ確認してほしい芸術品の一つだ。蛇足だが魚々子文様は、漢委奴国王の金印の蛇にも施されています。

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 耳環 北魏5世紀の金とトルコ石の象嵌による耳飾りだが、上のスマホ写真ではよく見れないが、これも図録の拡大写真で、見事な工芸技術を見ることができる。小さな耳環の表面をしかも3列にわたってトルコ石がはめ込まれている様子もわかるが、そのすき間にロウ付けした直径が1ミリにもみたない粒金が並べられているのは驚きだ。
 この粒金の制作とロウ付けの技法は、かなり複雑で高度なものであることを、由水常雄氏は『ローマ文化王国―新羅』で力説されている。細線粒金細工の技法で、まずは鋳造した金の棒を技術的操作をくり返して細くする。その細線を複雑な工程を経て溶融させる。その金属片は、表面張力によって金の細粒となる。ロウ付けの方法は、緑青を擦り下して糊と水を加えてペースト状にしたもので、細線や粒金を接着させる。その加熱処理も複雑。私の説明ではちんぷんかんぷんなので、参考文献の由水氏の解説を末尾に抜粋させていただいたので、ご覧いただきたい。
 とにかく、この金製の小さな装飾品は相当な手間と技術が詰まった一品であることに間違いない。この技術はギリシャにあったものが東伝していったとのことだ。

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 この粒金細工がよくわかるのが、2個の管状飾だ。これも長さ2.7cmと3cmで、ショーケース越しでは、視認しづらい。よく博物館の展示では、拡大ルーペを設置していることがあるが、それが必要なレベル。図録では、この細線と粒金の様子が明瞭である。

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 龍文帯金具 前1~後2世紀 金とトルコ石 いわばバックルだが、金の薄板を打ち出して成形した見事なものだが、これも、スマホ写真ではきれいには見れない(自分の技術不足もあろう)が、図録では鮮明に文様やトルコ石の象嵌も見られる。大龍と小龍が7匹という文様もすごいが、ここに先ほどの細線とこれまた極小の粒金が施されているのには驚嘆するしかない。いい仕事してますねぇ。


 金製品ではないが、図録写真で細部まで美しさを堪能できるものを紹介しておく。

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 原作は7世紀の阿弥陀仏説法図の模写だが、右脇侍(向かって左側)の観音菩薩の拡大図では、よくここまで微細に描いたものだと思うが、装飾文様とその美しさをたっぷり堪能できる。

 この図録はちょっと豪華で値が張るものなので、今更ですがもう少し廉価にしてほしかったとは思う。図録はその見本が館内に置かれているので、見学中に参照されてもいいかもしれない。

◆細線粒金細工の技法 (『ローマ文化王国―新羅』より抜粋
 まず、鋳造した金や銀の棒を、二枚の石板やブロンズ板の間に挟んで、圧力をかけてころがしながら少しずつ細く伸ばしていく。所定の太さになったら、先端部分を細かく作って、瑪瑙やブロンズの塊に穿けた穴の中に差し込んで、ゆっくりと抽き出してゆく。この操作を何回かくり返して、細い金線や銀線を作る。
 粒金の作り方。細い金銀線を、ほぼ直径と同程度の長さに切って、堅炭の粉末の中に並べ、さらにその上から炭の粉末をかける。再び金線片を並べて、その上から炭の粉末をかける。こうした工程を幾層か重ねて、これを加熱し、金線片が熔融するまで熱を上げる。熔融した金線片は、表面張力によって金の粒となる。これを洗浄して、再び石板等の間で研磨処理を加えて、粒金に仕上げる。
 蠟付けの方法。緑青を擦り下して糊と水でペースト状に作り、粒金や細線を、基板の上に接着する。摂氏100度で緑青は酸化銅になり、摂氏600度で糊は炭化する。さらに摂氏850度まで上げると、炭は酸化銅の酵素を奪い取って、純銅の被膜を基板の上に残し、炭酸ガスとなって消失する。そして、そのまま加熱して摂氏890度に達すると、被膜となった銅は、基板の金や細線粒金の金などと反応して合金化する。いわゆる蠟付けの終了。


参考文献
由水常雄『ローマ文化王国―新羅』新潮社2001

大シルクロード展 京都文化博物館の紹介

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駱駝さんがお出迎え。本物、というか剥製。名前が付いてます。
中国の敦煌研究院から東京富士美術館創立者の池田大作氏に寄贈されたものだそうです。

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生きてるようにみえます。体毛はけっこうふさふさです。これを見ると、「田道間守の非時香菓、橘はナツメヤシのデーツだった」で説明しました、『漢書』司馬相如伝下の顔師古注にあります「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」の毛車こそは、毛だらけの乗り物で駱駝のことだと実感できます。

大シルクロード展は2025年2月2日(日)まで開催
京都文化博物館:京都市中京区高倉通り三条上る東片町623-1
開室時間 10:00〜18:00(金曜日は19:30まで)入場料一般1600円
休館日 月曜日(1/13は開館)、12月28日(土)~1月3日(金)、1月14日(火) 
主催 京都府、京都文化博物館、中国文物交流中心、毎日新聞社、京都新聞、MBSテレビ

 実は、なんと、会場に入ってからわかったんですが、撮影OKなんです。事前に知ってたらカメラ持っていったのに、と思いましたが、携帯で撮りまくりました。でも・・・図録の方がとても綺麗。(^_^;) それに、こまかい器物が多く、拡大されたものが見れますのでなおさらです。
 平日に行きましたが、それでもたくさんのご来場。高校生たちが、レポート用紙を持って懸命に美術課題?に取り組んでいました。
 大きなシルクロードの遺跡マップの前で、老夫婦が指で示しながら長いこと語り合っておられたのが印象的。きっと以前にご旅行されたんでしょうね。
 
 入口で音声ガイドを650円で利用しました。石坂浩二さんのナレーションですから、当然、雰囲気出ます。少々高いですが。
 では、ほんの一部を私の拙い写真でご紹介します。

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瑪瑙象嵌杯 5~7世紀 ウイグル自治区 金と瑪瑙  虎がついてます。

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マニ教ソグド語の手紙  ソグド語は縦書きで日本語みたいだが左から右に読むところが違います。彩色の絵の中央は金箔。

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草花文綴れ織り履  砂漠化したニヤ遺跡で1~5世紀頃のミイラとなった被葬者のものですが、複製ではなく色の鮮やかさが残っているのがすごい。

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史君(しくん)墓石堂 複製品 元は北周大象2年(580)ソグド人の墓から見つかったもの。ソグド語の銘文があり夫妻のために造られたもの。浮彫が見事です。 

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車馬儀仗隊  後漢1~3世紀 青銅  馬が曳く車の構造もよくわかります。

男子跪坐像
男子跪坐像  青銅 サカと呼ばれた民族か。尖り帽子が特徴

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樹下美人図  唐8世紀 正倉院の鳥毛立女屏風の女性とそのスタイルなど似ています。

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女子俑 唐8世紀 三彩、加彩  当時の女性の最先端のファッションがうかがえるとか。履の先が上に反っているのも注目です。

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駱駝 唐8世紀 三彩 こぶの間に獣面文の革袋、荷物が詰まっています。

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下からのぞくと大きな穴が。中は空洞なんですね。

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騎馬胡人俑  唐7~8世紀 三彩、加彩  ひげをたくわえたソグド人

胡人俑  いずれも唐7~8世紀 三彩、加彩  頭に山高のフェルト帽

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連珠対鹿文錦帽子 7~9世紀 文様はわかりにくい。つばに35本の絹布が垂れ下がってますが、用途は不明。見学者からかぶったら前がじゃまではとの声も上がってました。

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巨大なシルクロードの風景パネルも雰囲気が感じられていいですね。

 また、後日紹介していきます。



宋書倭国伝の倭王武の不可解な上表文  武寧王と倭の五王⑻

百済王と倭王の関係

1.百済のために高句麗を非難する倭王武
 
 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができなかった、という状況の説明と、宋からの支援を要請するものであった。
 これは、既に指摘されていることだが、「上表文では済が怒り、大挙せんと欲すとあるが、これでは次の倭王である興の存在を飛ばしている」(河内春人2018)ということになるのはもっともなことである。
 さらに、高句麗から被害を受けているのは百済国であって倭国ではない。『三国史記』に475年漢城陥落の後に使を遣わして宋に謁見しようとしたが、高句麗に阻まれた、という記事があり、あくまで妨害を受けたのは百済国である。実際に百済蓋鹵王は、北魏延興二年(472)に、中国の北魏に対して次のような訴えを行っている。        
 「百済は魏との間に豺狼(山犬・狼すなわち高句麗)が立ちふさがって路を隔てているために、魏の外藩となる機会をもてない。臣は高句麗に深い憤りを抱いており、このような片田舎の臣であっても、なお、万代の信義を募っております。どうして、小豎(しもべ、こわっぱの意。ここでは高句麗)に王道をはばませてよいことがありましょう。」
 これは武の上表文とよく似ている、というか、実際はその逆で、蓋鹵王の訴えと同じような表現を、上表文にも取り入れたということではなかろうか。だが、百済の言い分を北魏は疑って対応しなかったようだ。このように、蓋鹵王の高句麗への怒りが、武王の上表文に引き継がれているのではないか。倭王武は、百済に成り代わって、高句麗非難をおこなったのである。「句麗無道」などと高句麗への怒りが強く表されているのだが、他国の王がよその国のために感情込めた上表文を、自国の遣使に持たせたというのは不可解としか言いようがない。さらに、重要な問題がある。

2.「奄喪父兄」(にわかに父兄をうしない)とは?

 この上表文の一般的な解説で、苦労をされているのが、倭王武が自分の父と兄を亡くし、喪中に入ったので兵を出せなかった、と述べているところである。武の父は済であり、兄は世子興となるのだが、済の死後に世子興が倭王を継いだはずなのに、これでは理解不能になるのである。では、どのように考えればよいのであろうか。それは、先述の高句麗非難の姿勢の謎と同様に、済が蓋鹵王、興が昆支、武が武寧王とすれば説明が可能となるのである。
 475年、高句麗侵攻によって、百済の漢城は陥落、蓋鹵王は殺害される前に、次の王となった文周王を逃がす。
 文周王は新羅に救援を求め、兵一万を得て戻る。これは間に合わなかったのだが、百済は南下して熊津(広州)を都として再建をすすめる。そして、宋に朝貢しようとした時に高句麗の妨害に合う。この文周王は3年ほどで亡くなり、次に三斤王が即位するがこれも短命で479年に死去。次に倭国にいた東城王が帰国して即位する。
 その前の477年に、倭国にいた昆支は百済に帰国して文周王を支援するも、この年に死去している。事情は不明だが、昆支は、蓋鹵王刑死の2年後に亡くなっている。これが「にわかに父兄を失い」となるのではなかろうか。
 昆支については、蓋鹵王の弟か子であるのか、意見の分かれるところだが、仮に昆支が蓋鹵王の弟で、武寧王の兄にはならないとした場合でも、高句麗侵攻で、蓋鹵王と共に妃や王子などの王族も多数殺害されており、その中に、武寧王の兄弟にあたる人物がいたとすると、父の蓋鹵王といっしょに刑死したとも考えられる。つまり、昆支が兄でなくても、武寧王にとっては、父と兄弟がにわかに亡くなってしまったことになるのである。
 このようにとらえると、宋への上表文にある倭王武の怒りと哀切きわまる訴えの背景、すなわち百済王族の刑死や中国への遣使の妨害の元凶である高句麗への怒りが説明できるのである。
 さらに、済が怒って兵を準備したのは、興を無視しているという河内春人氏の疑問も解消できる。倭王済であった蓋鹵王が、高句麗に対し戦闘準備をしていた時には、世子興である昆支は、倭国に派遣されていたのである。
 また、河内春人氏の、「蓋鹵王が処刑された際に倭国の百済救援の資料的痕跡はない」との指摘についても、武である武寧王が、おそらくは3年にわたる喪に服したから、百濟応援の軍事行動をすぐに起こせなかったという事情の説明もつく。ちなみに羅済同盟を結んでいた新羅は、すぐに百済支援に向けて出兵していたのである。
 
3.「世子興」の謎も解ける。

 またこの説によって、『宋書倭国伝』にある「世子興」についての説明しがたい問題も氷解する。倭の五王の中で、興だけが世子、すなわち世継ぎと記されている。既に「武寧王と倭の五王⑵」で説明しているが、この中国史料には、済が死んで世子興が遣使と記されている。済が死んでから後を継いだとされるが、中国側は、きちんと調査をしたわけではないので、次の王の遣使であるならば、当然、前の王は死んだと判断しただけではないか。
 また、この記事の後半にある武の上表文には、父兄がにわかに亡くなったと書いてあることとも矛盾するのだが、中国側は、所詮、東夷の蛮国のことであり、細かい点まで熟慮せずに記載したと考えられ、必ずしも、済が死んでからの即位と断定しなくてもよいであろう。
 なお、世子については、中国の『晋書』本紀太元11年(386)4月条に餘暉(辰斯王)が百済王世子として使者を派遣し、使持節都督鎮東将軍百済王に任命されたという記事がある。中国側は、直接使者から事情は確認したであろうが、何も世子と名乗っても問題にしていないのである。
 以上から、本来の済は倭国王が世子興になっても、百済で蓋鹵王として生存したと考えてもおかしくはない。もともとは、昆支である興は、蓋鹵王の後継ぎであったので、倭国に渡っても世子興であった。倭国滞在中に高句麗侵攻による蓋鹵王殺害で、急遽、文周王が即位する。後に昆支も帰国するが、何らかの事情で王になれないまま亡くなってしまう。こういうわけで、世継ぎであるはずの世子興が、後を継がないまま、次の東城王や武寧王が王位を継承するとなれば、不自然ではなくなる。だがこれを、倭国の中だけで考えると回答不能の問題となるのである。

 蘇鎮轍氏は倭王武だけを百済王とされたが、済が蓋鹵王、世子興が昆支とすれば、上表文に描かれた、まるで百済の立場での高句麗非難と、にわかに父兄が亡くなって喪に服するという記述、さらには、世子興の意味も矛盾なく説明できるのではないかと考えている。引き続き、他の事例もみていきたい。 

 以下は宋書の倭の上表文        順帝昇明二年,遣使上表曰:
「(略)臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟,實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,(略)」

 上表文の現代語訳       
臣(武)は下愚ではあるが、かたじけなくも先緒(先人の事業)をつぎ、統べるところを駆り率い、天極(天道の至り極まるところ)に帰崇(かえりあつめる、おもむきあがめる)し、道は百済をへて、もやい船を装いととのえた。
 ところが句驪は無道であって見呑をはかることを欲し、辺隷をかすめとり、虔劉(ころす)してやまぬ。つねに滞りを致し、もって良風を失い、路に進んでも、あるいは通じ、あるいは通じなかった。臣の亡考(亡父)済はじつに仇が天路(宋に通じる路)をとじふさぐのを怒り弓兵百万が正義の声に感激しまさに大挙しようとしたが、にわかに父兄をうしない、垂成(まさにならんとする)の功もいま一息のところで失敗に終わった。
 むなしく喪中にあり兵甲を動かさない。このために相手に打ち勝つことができなかったのである。いまになって甲を練り兵を治め父兄の志をのべたいと思う。
(日本書紀現代語訳は講談社学術文庫、原文と解説は岩波文庫版使用 宋書も岩波文庫版)※一部改変

参考文献
河内春人「倭の五王」 中公新書2018
蘇鎮轍 「海洋大国大百済 百済武寧王の姿」彩流社2007


倭王武と武寧王は、同時に存在していない  武寧王と倭の五王⑺

二中歴武烈
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある.

 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあってのことだが、該当の記事をよく見れば、誤解であることがわかる。この点を説明する。

⑴中国、半島の史料に、二人が同時に存在したとする記述はない
  
 同時に存在しているのではとされる根拠となる天監元年の倭王武の進号記事には、合わせて高句麗王と百済王の進号記事が記されている。『梁書』には、次のようにある。
天監元年(502)戊辰,車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍。鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。安西將軍宕昌王 梁 彌𩒎進號鎮西將軍。鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍。
 よく見るとこの時の百済王の名前は「餘大」となっている。これは武寧王のことではない。というのは、同じ梁書には、
普通二年(521),王餘隆始復遣使奉表  
普通五年(524)隆死、とある。
 つまり梁書は「隆」を武寧王と認識している。
 すると餘大は武寧王の前代の王、すなわち東城王となる。その東城王は501年に死去している。ちなみに梁書の武寧王の没年も墓誌年より一年遅くなっている。
 よって、天監元年(502)の記事は、倭国は倭王武と百済は東城王という認識での進号記事となる。なおこの記事に百済も倭国も遣使をしたという記述はない。中国の認識していた時期の前後に事態は急変し、東城王は殺害され、そのあとを日本にもいた可能性のある斯麻こと武寧王が即位したと考えられる。以上を年表にすると、

501年 12月百済東城王(餘大)死去      武寧王(餘隆)即位(月日不明)
502年 梁建国(梁書)高句麗王高雲、百済王餘大、倭王武に進号の記事 
503年 隅田八幡神社人物画像鏡癸未年  ← 斯麻こと武寧王が男弟王に贈る
504年 武烈紀6年 百済王(武寧)が麻那君を派遣
521年 普通2年(梁書)百済王餘隆(武寧王)遣使
524年 普通5年(梁書)隆(武寧王)死 (墓誌では523年)

 このように二人は同時に存在しておらず、『梁書』の餘大を東城王でなく武寧王と誤解されてのことであった。

⑵二人は「将軍仲間」ではなかった
 
 古田武彦氏の『古代は輝いていたⅡ』では、その第六部第一章の隅田八幡神社銅鏡に関する一節の中で次のように述べておられる。
「㊃百済の『斯麻王』(武寧王)は、南朝の梁朝下の『寧東大将軍』だった。同じく、この梁朝から『征東将軍』に任命されていた倭王武(天監元年五〇二)は、前述来の検証のように、筑紫の王者だった。すなわち、武寧王と筑紫の王者とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされている。
 倭王武が筑紫の王者であることに全く異論はない。しかし、「将軍仲間」として、武寧王と同時に存在していたかのような表現には同意できない。よくみると、梁朝下の武寧王の記事は先述のように普通二年(521)の記事。一方で倭王武の記事は502年のものであり、二〇年近い差のある記事だ。つまり503年以降に倭王武の記事はない。よって「将軍仲間」という一定の期間、同時に存在していたとする表現は正確ではないといえる。「武寧王と筑紫の王者(倭王武)とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされる根拠となるものは提示されていない。
 同じ論説の中に古田氏は、倭の五王全資料として二十二項目挙げておられる。その最後に『襲国偽僭考』の「継体一六年(522)武王 年を建て善記」の記事については、史料の信憑性については別に論ずる、とされているのだがその後に該当するものの確認はできない。この「武王」が倭王武ならば、彼は宋への貢献記事の478年からおよそ40年以上も倭国王として君臨していたことになる。さすがにこれは考えにくいことであり、作成者の鶴峯戊申も二中歴(注1)を参考にしたとあり、ここは転記の誤りが考えられる。この箇所の「武」は実際は「武烈」であったようだ。
 その二中歴(上図参照)には次の記事がある。「善記四年元壬寅三年発護成始文善記 以前武烈即位」とある。壬寅は522年)で善記元年にあたる。それより以前に武烈が即位したということであり、彼は九州王朝の王者であった。前にもふれたが、日本書紀の武烈紀は、跡継ぎがいない人物と後継ぎが生まれた人物が描かれており、後者が、書紀では隠されている本当の武烈であったと考えられる。
 よって、503年以降に倭王の武が、存在していたという資料はないのである。このことからも、二人は別人ではなく、倭王武が、武寧王になったという説を否定することにはならないのである。

注1.鎌倉時代初期に成立した百科全書的な書物。そこに、九州年号の総覧が記載されており、古田武彦氏はこれを原型本とされた。

図は、内倉武久氏の、吾平町市民講座 2022 年 12 月用 「九州年号について」 よりコピーさせていただいたものを、一部加工しました。

参考文献
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」古代史コレクション⑳ミネルヴァ書房2014