武烈天皇は、跡継ぎがいないので、自分の名が忘れられないようにと小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を設けるという記事がある。そのため、継体紀では次の天皇の擁立に苦労する経緯が描かれるのである。ところが、武烈7年には、百済国の斯我君(シガキシ)が遣わされ、その後に子が生まれて法師君(ホフシキシ)といい、これが倭君(ヤマトノキミ)の先祖になったという記述がある。注1)
七年四月百濟王遣期我君、進調、別表曰「前進調使麻那者非百濟國主之骨族也、故謹遣斯我、奉事於朝。」遂有子、曰法師君、是倭君之先也。
つまり、跡継ぎのいない人物と、子が生まれた別の人物が存在することになる。その人物は恐らく○○の君と称されているところから上位の人物であろう。武烈紀には、書紀の語る武烈なる人物と、後に倭君につながる別の人物のことが合わさって描かれていると考えられるのである。
この一節から、百済王が献じた斯我君が法師君を生んだと理解できる。先に百済は麻那という人物を送っているが、百済の骨族(血縁)ではなかったので、あらためて斯我君を送ったという。この斯我君は、通説では男性と考えられている。注2)しかし、武烈紀7年の記事をよく見ると、「謹遣斯我、奉事於朝謹」(つつしみてみかどに仕えたてまつる)、としている。将軍を謹んで送るというのも奇妙であり、斯我君を送ったという記述の後に、「遂に子が生まれた」とあることからも、この斯我君が出産したと理解するのが自然であろう。(冨川2008)
そして、武烈紀6年10月に、麻那が派遣された時に、百済の貢物が久しくなかったとの記事がある。これは、蓋鹵王が差し止めた朝貢(女性の)が復活したことを意味している。これで麻那も斯我も女性と考えて問題ないのではなかろうか。
2.蓋鹵王が停止した女性の派遣とこれを復活させた武寧王
先に述べたとおり、日本書紀から消された毗有王は8人の媛の派遣を行っている。ところが、雄略紀2年に百済の池津媛が不義により焼殺される。この池津媛は8人の媛の一人であろう。その後、毗有王の次の蓋鹵王が、この報せに憤慨し、倭国への女性派遣を禁ずるのである。そして、子の昆支(弟の説も)に本人の希望から身重の女性を与えて倭国に派遣するが、その途中で武寧王が生まれたとなるのである。
それから半世紀後に状況が変わる。475年高句麗侵攻により漢城陥落で蓋鹵王は刑死する。そのあとを継いだ2名の王も短命で、次に東城王(末多王)が即位する。そして、502年(武烈4年)に斯麻王こと武寧王が即位する。その三年後の武烈7年に、斯我君を派遣し、倭君の先(おや)の法師君の誕生記事となる。そうすると、この女性を送った百済王は武寧王となる。さらには、前に送った麻那は骨族(王族)ではなかったとあるように、斯我君は毗有王の場合と同じように百済王族の女性となる。
ここまでを簡単に年表にすると次のようになる。
允恭16年(427)毗有王即位(三国史記)Ⓖ
允恭17年(428)新齊都媛等8人の女性派遣Ⓧ
允恭18年(429)己巳年蓋鹵王即位は毗有王のこと。しかもこの年は宋への貢遣記事で即位は2年前Ⓨ
安康 2年(455)毗有王崩御、蓋鹵王即位(三国史記)Ⓗ
雄略 2年(458)石河楯と通じた百済の池津媛を共に焼殺
雄略 5年(461)蓋鹵王憤慨して女性派遣中止 昆支を倭国へⓏ 武寧王誕生譚
雄略19年(475)高句麗により漢城陥落 蓋鹵王刑死Ⓘ
武烈 4年(502)斯麻王こと武寧王即位
武烈 6年(504)百済麻那君派遣 百済は長く貢物がなかった。
武烈 7年(505)百済骨族の斯我君派遣 法師君誕生 ⇦ 女性派遣復活 武寧王による
以上のように、祖父の毗有王が行っていた女性の派遣を父の蓋鹵王は差し止めたが、孫の武寧王が復活させた、という流れになるのである。
では、この斯我君はいったい誰の子を生んだのであろうか?それが、後に倭君につながる倭国の上位者との間で生まれた法師君である。この倭国の上位者が、続日本紀の純陀太子にあたるのではないだろうか。これによって、続日本紀に記された桓武の生母高野新笠の父親である和乙継(ヤマトオトツグ)につながるということになる。「后の先は百済王の子純陀太子より出づ」というのは、武寧王の子の純陀太子と同族の斯我君の間に武烈紀にいう法師君が、「純粋な」百済王族の血を引き継ぐ骨族として生まれたのだ。このようにして、武寧王から高野新笠、その子桓武天皇へとつながることになる。ただ、法師君から乙嗣のあいだのおよそ200年ほどの系譜は残念ながら不明だ。
それにしても、この系譜からも、百済王族と倭国王権(九州王朝)との深い関係が見えてくる。列島で生まれた武寧王は、百済王として即位するまでの40年間は不明である。おそらく倭国に長く滞在していたのではないかと考えられる。
注1. この斯我君の君をキシと訓じているのは、百済の王族であるからと考えられている。百済王の王もコキシとの訓みが振られている。
注2. 岩波注にあるように、継体紀23年3月の百済将軍麻那甲背という同名があることから、百済の将軍と理解するのが一般的な見方であった。しかし、後から送った斯我君については、同じ表記の人物は見当たらない。また、雄略紀に記された池津媛焼殺事件を聞いて怒った蓋鹵王がもう女性を送らないとした記事もあって、なおさら、斯我を女性と考えにくくしている。よって、冨川氏の指摘にもあるように、斯我君は女性であり、九州王朝と関係する人物との子を生むのである。
参考文献
冨川ケイ子「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学論集第十一集 2008 明石書店