流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年11月

武寧王は倭国に王族の女性を送った  武寧王と倭の五王⑸

対照年表.png
1.跡継ぎのいない天皇と跡継ぎが生まれたという武烈紀の奇妙な記事

 武烈天皇は、跡継ぎがいないので、自分の名が忘れられないようにと小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を設けるという記事がある。そのため、継体紀では次の天皇の擁立に苦労する経緯が描かれるのである。ところが、武烈7年には、百済国の斯我君(シガキシ)が遣わされ、その後に子が生まれて法師君(ホフシキシ)といい、これが倭君(ヤマトノキミ)の先祖になったという記述がある。注1)
 七年四月百濟王遣期我君、進調、別表曰「前進調使麻那者非百濟國主之骨族也、故謹遣斯我、奉事於朝。」遂有子、曰法師君、是倭君之先也。
 つまり、跡継ぎのいない人物と、子が生まれた別の人物が存在することになる。その人物は恐らく○○の君と称されているところから上位の人物であろう。武烈紀には、書紀の語る武烈なる人物と、後に倭君につながる別の人物のことが合わさって描かれていると考えられるのである。
 この一節から、百済王が献じた斯我君が法師君を生んだと理解できる。先に百済は麻那という人物を送っているが、百済の骨族(血縁)ではなかったので、あらためて斯我君を送ったという。この斯我君は、通説では男性と考えられている。注2)しかし、武烈紀7年の記事をよく見ると、「謹遣斯我、奉事於朝謹」(つつしみてみかどに仕えたてまつる)、としている。将軍を謹んで送るというのも奇妙であり、斯我君を送ったという記述の後に、「遂に子が生まれた」とあることからも、この斯我君が出産したと理解するのが自然であろう。(冨川2008)
 そして、武烈紀6年10月に、麻那が派遣された時に、百済の貢物が久しくなかったとの記事がある。これは、蓋鹵王が差し止めた朝貢(女性の)が復活したことを意味している。これで麻那も斯我も女性と考えて問題ないのではなかろうか。

2.蓋鹵王が停止した女性の派遣とこれを復活させた武寧王
 
 先に述べたとおり、日本書紀から消された毗有王は8人の媛の派遣を行っている。ところが、雄略紀2年に百済の池津媛が不義により焼殺される。この池津媛は8人の媛の一人であろう。その後、毗有王の次の蓋鹵王が、この報せに憤慨し、倭国への女性派遣を禁ずるのである。そして、子の昆支(弟の説も)に本人の希望から身重の女性を与えて倭国に派遣するが、その途中で武寧王が生まれたとなるのである。
 それから半世紀後に状況が変わる。475年高句麗侵攻により漢城陥落で蓋鹵王は刑死する。そのあとを継いだ2名の王も短命で、次に東城王(末多王)が即位する。そして、502年(武烈4年)に斯麻王こと武寧王が即位する。その三年後の武烈7年に、斯我君を派遣し、倭君の先(おや)の法師君の誕生記事となる。そうすると、この女性を送った百済王は武寧王となる。さらには、前に送った麻那は骨族(王族)ではなかったとあるように、斯我君は毗有王の場合と同じように百済王族の女性となる。
 
 ここまでを簡単に年表にすると次のようになる。
允恭16年(427)毗有王即位(三国史記)Ⓖ
允恭17年(428)新齊都媛等8人の女性派遣Ⓧ  
允恭18年(429)己巳年蓋鹵王即位は毗有王のこと。しかもこの年は宋への貢遣記事で即位は2年前Ⓨ
安康 2年(455)毗有王崩御、蓋鹵王即位(三国史記)Ⓗ
雄略 2年(458)石河楯と通じた百済の池津媛を共に焼殺
雄略 5年(461)蓋鹵王憤慨して女性派遣中止 昆支を倭国へⓏ  武寧王誕生譚
雄略19年(475)高句麗により漢城陥落 蓋鹵王刑死Ⓘ
武烈 4年(502)斯麻王こと武寧王即位
武烈 6年(504)百済麻那君派遣 百済は長く貢物がなかった。   
武烈  7年(505)百済骨族の斯我君派遣 法師君誕生  ⇦ 女性派遣復活 武寧王による 

 以上のように、祖父の毗有王が行っていた女性の派遣を父の蓋鹵王は差し止めたが、孫の武寧王が復活させた、という流れになるのである。
 では、この斯我君はいったい誰の子を生んだのであろうか?それが、後に倭君につながる倭国の上位者との間で生まれた法師君である。この倭国の上位者が、続日本紀の純陀太子にあたるのではないだろうか。これによって、続日本紀に記された桓武の生母高野新笠の父親である和乙継(ヤマトオトツグ)につながるということになる。「后の先は百済王の子純陀太子より出づ」というのは、武寧王の子の純陀太子と同族の斯我君の間に武烈紀にいう法師君が、「純粋な」百済王族の血を引き継ぐ骨族として生まれたのだ。このようにして、武寧王から高野新笠、その子桓武天皇へとつながることになる。ただ、法師君から乙嗣のあいだのおよそ200年ほどの系譜は残念ながら不明だ。
 それにしても、この系譜からも、百済王族と倭国王権(九州王朝)との深い関係が見えてくる。列島で生まれた武寧王は、百済王として即位するまでの40年間は不明である。おそらく倭国に長く滞在していたのではないかと考えられる。

斯我君系譜

上図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの
武烈紀の武寧王から法師君の系譜が、続日本紀の純陀太子から高野新笠へつながるのであろうか。

注1. この斯我君の君をキシと訓じているのは、百済の王族であるからと考えられている。百済王の王もコキシとの訓みが振られている。
注2. 岩波注にあるように、継体紀23年3月の百済将軍麻那甲背という同名があることから、百済の将軍と理解するのが一般的な見方であった。しかし、後から送った斯我君については、同じ表記の人物は見当たらない。また、雄略紀に記された池津媛焼殺事件を聞いて怒った蓋鹵王がもう女性を送らないとした記事もあって、なおさら、斯我を女性と考えにくくしている。よって、冨川氏の指摘にもあるように、斯我君は女性であり、九州王朝と関係する人物との子を生むのである。

参考文献
冨川ケイ子「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学論集第十一集 2008 明石書店

藤ノ木古墳のもう一人は女性、「金銅製筒形品」は頭飾りだった。

藤ノ木古墳金銅製筒形品
 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製筒形品の復元品

1.筒形品に残存していた繊維質は髪の毛だった。

 報道(2024.11.20)によれば、金銅製筒形品は長さ約40センチ、最大径6センチ。中央が細くなる形状で、表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる飾りが多数付けられ、被葬者の頭部付近から見つかっている。保存処理に伴って、表面に付着する繊維質を分析したところ、「毛髄質(もうずいしつ)」に相当する構造が確認され、毛髪の可能性が高まった、とのことだ。
 藤ノ木古墳の説明パネルには、この筒形品の一部に繊維質が残っており、何かに括りつけていた、という解説がされている。これが、髪の毛であったというのだ。ということは、埋葬時に髪を巻いて括るようにつけていたのではないかと思われる。おそらく、きちんと固定できるように、紐のようなもので結んでいたのかもしれない。すると、この被葬者はきらびやかな多数の歩揺のついた髪飾りを着けた女性ということになろう。
 従来、二人めの被葬者の性別については、議論があったが、残存する足の骨から男性と判定されたこともあって、二人の被葬者を日本書紀の崇峻天皇紀のはじめに登場する、皇位継承者候補でありながら殺害された穴穂部皇子と宅部皇子とする説があった。
ただ男性二人がいっしょに埋葬されることには、いぶかる声もあったが、日本書紀の記述の「宅部皇子は、穴穗部皇子に善(うるは)し」との箇所の、善は、仲が良い、間柄がきちんと整っている意、とする岩波の注もあり、この箇所をとらえて、男性同士の二人は特別な関係であった、といった解釈をされる研究者もいた。しかし、残念ながらそうではなかった。
 男性であるとの鑑定結果に反論されていたのが、玉城一枝氏だ。氏は、二人の被葬者の間での異なる装飾品に注目された。女性と考えられる人物に手玉・足玉が着装されて、一方で美豆良飾りがないと指摘されている。人物埴輪の事例で説明され、説得力のあるものである(玉城2019)。ほかにも剣と刀子の問題など、男女の副葬品の違いを指摘しておられる。
 今回、用途不明であった金銅製筒形品に付着していたものが髪の毛の可能性が高いということで、藤ノ木古墳の被葬者はおそらくは夫婦の男女であったことから、新たな検討が必要となるのではないか。

藤ノ木古墳金銅製鞍金具後輪把手
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製馬具の後輪(しずわ)

2.把手の付いた金銅製馬具は、女性用の可能性。

 藤ノ木古墳の石棺の外側の奥のすき間には馬具が置かれていた。その鞍金具の後輪の後ろ側には把手がついている。同様の資料が韓国慶州江南大塚北墳から出土して、女性の墓であることが判っているという。すると、把手がついているのは女性用であり、横すわりで把手を片手でつかんで乗るものであったようだ。ならば藤ノ木古墳のもう一人の被葬者のための女性用の馬具であったことになり、このことからもやはり女性が埋葬されていたことを示していると言えよう。
 また、鞍橋(くらぼね)の前輪と後輪が平行して居木(すわるところ)にほぼ直角に取りつく形態は、北方騎馬民族の鮮卑の鞍のスタイル(前園2006)であるという。

筒形銅器
 関西大学博物館展示筒形銅器

 藤ノ木古墳の豪華な副葬品の中にある金銅製冠が、西方文化と関係することが早くから指摘されてきた。馬具もしかりだが、筒形品も外来の関係でみることも必要であろう。藤ノ木古墳のものは、中央が狭まったいわば鼓型のものだが、形は異なるが用途不明の筒形銅器は、棒状の柄に装着したものといった解釈もされていた。だが、江上波夫氏は、軽いものは女の人が頭の上に立てた冠だと述べておられる(江上1990)。実際に、列島では70本を超え、半島でも70本近く出土している。
 藤ノ木古墳の場合は、頭頂部に横に寝かせて結びつけていたのであろうが、他の筒形銅器が女性の頭に立てて着けていたとは考えにくい。どうやって頭に固定したのかもわからないが、それでも下図のスキタイの王妃の服飾推定復元図が事実であれば、時代は離れるが頭飾りの可能性も検討が必要であろう。


アルタイ王妃頭飾り
 図はアルタイ・アルジャン1号墳(前8世紀前後)の王と王妃の服飾推定復元図 林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」より
 
参考文献
玉城一枝「藤ノ木古墳の被葬者と装身具の性差をめぐって」大阪府立近つ飛鳥博物館図録46 など、ネットで閲覧可能。
日高慎「東国古墳時代の文化と交流」雄山閣2015
前園実知雄「斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳」新泉社2006
江上波夫・佐原真「騎馬民族は来た?来ない」小学館1990 
田中晋作「筒形銅器と政権交代」学生社2009
林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」講談社2017

日本書紀から消された百済毗有王  武寧王と倭の五王⑷

毗有王年表
 図は、日本書紀の神功皇后から雄略紀までの、百済の毗有(ヒユウ)王に関係する書紀と三国史記などの記事だけを抜粋して表にしたものである。この時期の年代が明確な百済王の記事は、日本書紀では干支二運、120年遡って記述され、雄略紀で実年に合うようになっている。そのためここでは、ずらされた記事と元の時代の記事を重複するが表記させた。また百済王の表記は書紀では肖古王が三国史記では近肖古王に、直支王が三国史記では腆支王などと異なることが多くある。
 毗有王とは、蓋鹵王の父であり、武寧王はその孫となる。実は、高野新笠と武寧王との関係を考えるうえで、この毗有王の事績が重要な問題となると思われるので、この図を用いながら説明していきたい。

1.肖古王から威徳王までの記事に、毗有王だけ記載のない日本書紀

 書紀は、卑弥呼を神功になぞらえて、中国史書『梁書』の景初3年卑弥呼朝貢記事の239年を神功39年にあてている。この年を基準として、以降の記事の年代が想定されることになった。その一方で、七支刀など百済との友好を強調するなど、半島関連の記事が多くみられる中に、神功、応神紀に百済王即位と没年の記事がはめ込まれている。Ⓐ肖古王薨貴須王即位からⒻ久爾辛王即位まで、三国史記の記事より合わない場合もあるがだいたいは二運120年ずらして記載している。しかしなぜかⒼ久尓辛王薨毗有王即位(427 年丁卯)の三国史記の記事は書紀には記載されていない。本来なら応神39年に記載すべきところだが、その代わりに、既に死去したはずの王の名にした記事が掲載されている。
 ①卅九年春二月、百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。爰新齊都媛、率七婦女而來歸焉
 百済王が倭国に新齊都媛(シセツヒメ)ら8人もの女性を送り込んでいる。だがその直支王は応神25年に崩御記事があり、次に即位した久爾辛王は427年に崩御しており、その後を毗有王が即位する。応神38年(307)に120年のずれで記載されるはずであった毗有王が即位しており、その翌年の応神39年に8名の女性を送ったというのが本来の記事であった。「其妹」とあるように、毗有王の実娘を送っているのだ。さらに奇妙な記事がある。
 ②雄略2年に、百済池津媛焼殺の記事の後に百濟新撰云「己巳年、蓋鹵王立・・」の(己巳年は429年)は蓋鹵王の即位とは考えられないので、本当は消された毗有王(三国史記では427年即位)のこととなる。2年のずれは、宋書南宋貢遣が429年とあるところを即位年とした可能性がある。よって、蓋鹵王ではなく毗有王の記事であった。
 さらに、三国史記のⒽ毗有王薨蓋鹵王即位(455 年乙未)の記事を、本来ならば安康2年(455)に記載すべきところ、Ⓖの記事と同様に無視しているのである。

 修正した年次と記事を示すと以下のようである。
允恭16年(427)Ⓖ毗有王即位(三国史記) ← 書紀はカット
允恭17年(428)Ⓧ新齊都媛等8人の女性派遣  書紀は直支王としたが毗有王のこと
允恭18年(429)②己巳年蓋鹵王即位は毗有王のこと。しかもこの年は宋への貢遣記事で即位は2年前Ⓖ
安康 2年(455)Ⓗ毗有王崩御、蓋鹵王即位(三国史記) ← 書紀はカット

2.日本書紀は、毗有王だけ消してしまった。

 その後は欽明紀の威徳王まで百済王の崩御と即位記事はもれなく掲載しているのである。つまり、日本書紀は、毗有王の名前だけ記していないのである。これは単なる記入漏れとかではなく、明らかに意図して書き換えや不記載を行っていると考えられる。この毗有王は、新羅との友好関係を結び、羅済同盟によって、高句麗を牽制し、彼の在位期間には高句麗との紛争はなかったようだ。また、「其妹」とあるように自分の娘を含む8人の女性を倭国に派遣しているのである。
 ところが、不慮の死を遂げたことが関係するか不明だが、百済遺民にとっては存在を消してしまいたい人物であったようだ。その名も蓋鹵王に変えられ、記事も直支王の事績であるかのように改竄されたのであり、これは、書紀編纂に関わった百済系の人物たちによるものであろう。決して、書紀編者がたまたま毗有王の記載だけをもらしたなどとは考えられないのである。この事例から、他にも半島系の編者が、意図的な書き換えやカットを行っていることは十分あり得ることである。武寧王が謎めいた存在になっているのも同じような事情があると考えられる。また半島関連の記事は、七国平定、四県割譲など、この点を踏まえて読み解く必要があると思われる。
 「任那四県の割譲は、百済の下韓(南韓)への侵攻以前に、倭から百済へ新たな地域を賜与したとすることで、百済による加耶侵略との辻褄を合わせた記事」(仁藤2024)といった最近の研究者の指摘もある。実際は、百済による加耶(任那)地域への侵攻を、倭国からの割譲といった表現に変えてしまっているのである。
 三国史記の百済本紀によれば毗有王は新羅に良馬二匹を送る記事があるなど、新羅との関係を強化していった。だがこれは、新羅を敵視する日本書紀の筆法に反するものであり、このことが消された要因であったとも考えられる。
 さて、以上のように毗有王が、倭国に女性を送っていたわけだが、同じことがその後も行われて武寧王から高野新笠につながることを、次に説明していきたい。

 参考文献
仁藤敦史「加耶/任那 ―古代朝鮮に倭の拠点はあったか」中公新書2024

桓武天皇の母の高野新笠につながる武寧王 武寧王と倭の五王⑶

新笠陵
写真は京都市西京区の桓武天皇生母高野新笠の大枝陵

1.平成天皇の記者会見で語られた、「韓国とのゆかり」 

 平成13年(2001)12月18日に、平成天皇の記者会見が行われ、記者の質問(ワールドカップ日韓合同開催にちなんで)に対して、次のように述べられた。以下は、宮内庁HPで現在も見ることができる。
「歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下が持っておられる関心,思いなどをお聞かせください。」
 天皇陛下
「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。
 宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。
 私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
 武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」

 以上であるが、当時は、新聞ではあまり大きく取り上げられることはなかったが、韓国ではかなり注目されたニュースであった。
 天皇は、武寧王の名を含め百済からもたらされた文化について述べられたが、古代の倭国と百済との関係は、かなり深いものがあった。日本にいた百済の王子を帰国させる際には、多数の倭兵を護衛につけていた。百済と共に高句麗、新羅との紛争にも協力していたが、7世紀の半ばの663年には、白村江戦で多大な犠牲を招くことになってしまい、百済も滅亡することになってしまった。このような背景を考えるうえで、この桓武の母である高野新笠につながる武寧王がどのような存在であったのかも、古代史にとって重要な課題となるのである。

2.武寧王と高野新笠

 桓武の父は、天智系の白壁王=光仁天皇であった。天武系最後の称徳に後継がなかったことで、その死後に即位した。母の高野新笠の元の姓は「和(ヤマト)」で、和乙継あった。 
 延暦8年(789)死去。母は土師真妹(妹は原文では姝とする説もある)だが、この土師氏は後に大枝朝臣と称することになる。河内地域の土師氏とわかれ、京都の大枝の地を拠点としたようだ。新笠の墓は大枝陵(京都市西京区大枝沓掛)だが、ちょっと立ち寄るにはいささか不便な地域にある。
 続日本紀には、新笠の葬儀の誅(しのびごと)として「后の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」 さらに、「その百済の遠祖都慕王は、河伯の女、日精に感(め)でて生めるところなり。」と記され、よりて「天高知日之子姫尊」という諡号(しごう・死後に送る名)をもつ。古代の外国にはよくある、貴人は尋常でない生まれ方をするという始祖伝説のひとつである。
 延暦9年(790)に桓武天皇は、前年に完成した和氏に関する系図を編纂した「和氏譜」を受け、百済王氏を「朕の外戚」と宣言した。当時は、百済などを「蕃国」という扱いがされていたが、桓武は、堂々と外戚だとする百済との関係を強調し、みずからも百済王族との関係を強めていたという。

 さて、先ほどの「和氏譜」は現存しておらず、その内容も定かではない。よって、武寧王から続くその子孫たちが、どのように後の新笠の父親である乙継につながるのかは不明だが、この武寧王が倭国の当時の支配者たる王族集団と深い関係にあったとは想像できる。それは具体的どのようなものであったのであろうか。

継体天皇までの年齢と在位期間、及び紀年記事の次の記事との間隔について  つくられた万世一系⑸

天皇紀年記事年差
 上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。図はクリックして御覧ください。
 たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の崩御年の数値から76年となります。そして、紀年記事では、即位後の次の紀年記事が2年にあります。そしてその次が4年に記事がありますので、前の記事から2年の差があります。ところが、4年の記事の次は31年の記事となり、27年も期間が飛ぶことになります。その次も、42年で前の記事から11年の差があります。そして、崩御年が76年ですので、前の記事から34年後になります。これを、継体天皇まで一覧にしました。
 特に百歳を超える天皇が多い前半では、欠史八代など、記事がとぼしく、即位後は、跡継ぎ、すなわち立太子の記事と崩御年ぐらいになりますので、間隔が大きくあいた記述になります。これによって、日本書紀の紀年記事が、在位年数に合わせて、間隔が調整されているようにも見えてきます。

1.いくつも見られる奇妙な年齢、紀年記事

・一番奇妙なのは、天皇の年齢が、古事記と書紀でほとんど合っていないということである。表を見ると2人が同一のように見えるが、神功は割注に書かれたもので、仲哀だけが唯一同一年齢となる。
また、古事記の年齢が書紀より半分近く少ない天皇が4人、20年以上少ないのは4人、逆に書紀の方が少ないのは、崇神・垂仁・景行・応神の4人。記紀の年齢差は2倍年暦とは別の問題とはいえないだろうか。
・仁徳では、各年代の記事がたくさん見られるが、それでも、崩御年の前の記事は20年前になる。つまり最後の具体的な記事が67年で、20年後の崩御まで記事が何もないのである。成務や允恭も同じで、長い在位年に合わせるために、間隔をあけたように見える。
・既に⑵や⑶で説明させていただいたが、景行紀の40年にヤマトタケルの東征記事が12年もあいてから挿入されたり、神功紀36年には前回記事から26年も飛んだ後に突然、中国史書の女王遣使の記事が入り込んでいる。
・書紀は允恭から武烈まで年齢不詳。また、継体は日本書紀では82歳であるが、古事記の方は43歳となっている。これは⑴で取り上げたように、そもそも、古事記の方が古式の伝承を伝えているのであれば、どうして書紀より早く通常の年暦に変えたことが疑問となる。何らかの操作の可能性がある。
・さらに継体の次の安閑から崇峻までの6代の天皇の年齢も不詳。
・安閑は70歳で2年の在位、宣化も73歳で4年の在位というのも奇妙。どちらも髙齢で短期間だけ即位したというのも奇妙である。
・日本書紀では、欽明から崇峻の4人の年齢も不詳である。

2. 年代に大きな差がなく、おしなべて記されている雄略紀

 雄略紀は11年に記事がない以外は、すべて一年ごとの記事が記されるという、特異な様相を呈している。ここはどのように考えればよいであろうか。実は、雄略天皇についても不可解なことがある。
 雄略天皇は、古事記には124歳とされているが、これは2倍年暦による年齢とできそうである。なぜか書紀では天皇の年齢は記されておらず、在位年数は23年である。さぞや応神と同じく、歳を経てから即位したのかと思われるが、これが2倍年齢であるならば、62歳として在位年数が23年ならば、39歳の時に即位したことになる。ところが、葛城山で出くわした一言主神に、自分は幼武尊(わかたけのみこと)と名乗っているのは妙だ。
 神功紀では、二運120年遡らせた百済王の記事を対応させたが、雄略紀には、蓋鹵王の記事を登場させ、雄略5年(461)の百濟新撰云「蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王」の記事や、高句麗侵攻による蓋鹵王の殺害記事をちょうど干支の紀年合わせて、それまでのずれを解消させたのである。そのために、二倍年暦が関係しないような記事の描かれ方である。つまり、操作をする必要はなくなったということである。古事記で124歳とされた雄略は、日本書紀では紀年と実年代を合わせた記事とするために、年齢は意図的に不記載にしたのであろうか。

3. 記事の日付が月の前半に集中している欠史八代

 書紀の欠史八代の記事は、日付が月の前半に集中している。ただ、孝安即位の日が辛亥で27日とされるが、これも岩波注では底本に辛卯7日とあるので、すべて月の半分の日数を一か月としていたと考えられ、これは2倍年暦が反映したものとは考えられる。だがこの場合は、月の日数は半分としながらも、1年は12ケ月で経過させている。神武から欠史八代まで、たいていは、春に即位記事があるのは、通常の時間経過が1年であることを示すのではないか。1年が6カ月ならば、秋に即位があってもいいはずが、実際には秋は崩御記事ばかりである。天皇の年齢、在位年が2倍年暦であったならば、それが、書紀の記事とどのように対応するのかという説明がほしいところである。
 特に仁徳までが高年齢になっているが、これは、高句麗長寿王の97歳(在位:413年 - 491年)の例から、古期の天皇の年齢、在位が長期間となっても不思議ではなく、対抗するように長寿の天皇を設定したともとれなくもない。
 よって、日本書紀の万世一系の記事を、2倍年暦の要素はあるとしても、実年で系統的に記事が配置されているとは考えにくく、逆算して神武を紀元前後に考える根拠は弱いと言える。
 日本書紀の記事は、その多くが該当の天皇の事績や言葉は少なく、その天皇と直接は関係しないものである。よって、書紀の後半にも記事の年代移動が多く行われているように、前半にも割り振られたものがあって、特定の天皇と結びつかないものが多いのではないか。たとえば、垂仁28年の人や馬の埴輪を作るという記事は、早くても4世紀後半であり、考古学の認識からも合わないのである。
 以上のように、日本書紀の紀年には、2倍年暦の要素はあるにしても、それだけでは説明しづらく、年代移動や年齢を隠すなど恣意的な操作による編集で、万世一系の史書に作り上げたものと考えた方が良いと思われる。

天皇崩御年が記紀で異なるのは一人の天皇が複数のモデルで記された可能性  つくられた万世一系⑷

記紀崩御年
 図は、古事記に記された天皇崩御年の干支と日本書紀との対照表。右側に干支の順番の番号をつけて、年差がわかるようにしました。たとえば、崇神天皇は、古事記は戊寅で15、日本書紀で辛卯は28。よって13年も異なることになります。このように崇神から継体まで崩御年が異なっています。

1.古事記と日本書紀の天皇崩御干支年の表記について

 古事記には、崩御年に干支が記されている天皇が15人あるが、干支の番号で年差を示すようにした表にあるように、日本書紀と合致するのは5人であとの10人は、数年から20年こえる誤差がある。
例えば、古事記の履中天皇は壬申で432年の崩御だが、反正も丁丑が437年で書紀の天皇では允恭の時代になる。その允恭は甲午454年で書紀の安康の即位年にあたる。雄略は己巳489年で仁賢の在位期間となる。
 年差で見ると、応神は22年、履中は26年、反正は34年と大きく異なる。ただこの干支番号で差を見る場合、どちらを先の年代と見るかで異なるので、例えば雄略の場合、60-57+6で9年の差となるが、逆でみると、57-6ならば51年異なる。雄略天皇の年齢が124歳で書紀で想定されている年齢が62歳とあることから、崩御年が51年の差があっても不思議ではないことになる。
 こういった崩御年の食い違いは、年齢の異なる史料の存在が想定されるが、他の事情も考えられるのではなかろうか。

2.一人の天皇紀に複数のモデルとなる人物が当てはめられた可能性
 
 継体天皇に関しては、記紀の年齢、崩御年が異なるのだが、さらに、日本書紀の記述の中に複数の崩御年が記されるという特異なケースになっている。書紀の本文には、継体25年(531)に崩御であるが、「或る本」に28年(534)の崩御とあるが、これについては、正木裕氏が説明されているように、前者は別の「天皇」であって、後者が日本書紀が語る継体なる人物の崩御年であり、後者の534年をとれば、次の安閑天皇と空白なくつながるのだという。つまり継体紀には、異なる人物の記事が混在しているということである。こういったことが、武烈紀にも見られるのである。
 武烈天皇の記述も、国中の人々が恐れるような悪事をおかす人物と表現される一方で、次の継体天皇の24年の詔には、
 爰降小泊瀬天皇之王天下、幸承前聖、隆平日久、俗漸蔽而不寤、政浸衰而不改
 「武烈天皇が天下を治められてより、長い太平のために人民はだんだん眠ったようになり、政治の良くないところも改めようともしなくなった。」(宇治谷孟訳)というのはどういうことであろうか。聖人君主とはいえないが、無難に天下を治めた天皇であるかのようである。
 さらに、武烈天皇は、跡継ぎがいないので、自分の名が忘れられないようにと小泊瀬の舎人を設けるという記事がある。そのため、継体紀では次の天皇の擁立に苦労する経緯が描かれている。ところが、武烈7年には、百済国の斯我君が遣わされ、その後、子が生まれて法師君といい、これが倭君の先祖になったというのである。つまり、跡継ぎのいない人物と、子が生まれた別の人物が存在することになる。武烈紀には、書紀の語る武烈なる人物と、後に倭君につながる別の人物のことが合わさって描かれていると考えられるのである。
 以上のように、各天皇紀に複数のモデルがあって、それを一人の天皇として描くといった編集が、典型的な神功紀をはじめとして、幾人もの天皇のところで行われているのではなかろうか。その結果、古事記と書紀の崩御年、年齢が異なるという現象が起こったとも考えられる。

正木裕「倭の5王時代の終焉から磐井へ」20241022@奈良県立図書情報館    古田史学フェイスブックで閲覧できます。こちら


景行紀の不自然に間隔のあいた記事の違和感   つくられた万世一系⑶

埴輪武人
                     群馬県高崎市綿貫観音山古墳武人埴輪

 景行天皇も116歳と長寿であるが、古事記ではさらに137歳となっており、偶然なのか神武と同じ年齢になっている。ただ書紀の神武は127歳と違っている。天皇としての在位期間も60年と長いが、開化、成務も同じく60年である。たまたまなのか、いやひょっとすると、計算がしやすいように干支の一運の60年に合わせたのかどうかはわからないが。
 その景行の年齢もさらにおかしなところがある。垂仁37年に皇太子となり、21歳とある。垂仁15年に日葉酢媛が第一に景行を生む記事と合うのだが、垂仁が99年崩御で翌年に景行が即位するのは63年後の84歳。景行紀60年で崩御なので、21+63+60で144歳のはずが、書紀は116歳と記す。実は古事記では景行は137歳となっている。なんらかのミスがあったのであろう。
 この天皇の長寿も、二倍年暦だと58歳であり、在位年も30年なら、景行は28歳で天皇に即位したことになり、断定はできないが不自然ではない年齢とはなる。だが、書紀の編者は、通常の年暦で編纂を行っているから、こういった長寿の天皇の記事では、どうしても辻褄を合わせるための無理な紀年の記事が現れる。

 景行紀では、28年の記事の次が40年と12年もあいている。しかし、この両者の記事は、12年の時間の差があるとは思えない記事となっている。ヤマトタケルは景行紀28年に熊襲征伐を行う。その次の記事は40年となり、東夷の征伐を命じられ、絶命するまでの長い物語が続いている。その際のヤマトタケルの台詞は、「熊襲既平(熊襲すでにたいらぎて)、未經幾年(いまだいくばくの年もへずして)、今更東夷叛之(いままたひむがしのひなそむけり)・・」といって東国に向かうのだから、「いくばくの年」が12年とは奇妙である。
 書紀継体紀にも「幾年」が使われている。継体6年夏4月「況爲異場、幾年能守」(〔任那四県を百済と切り離しておいたのでは〕何年ともたない)とあるように、数年のこととなる。ヤマトタケルの場合は本当は翌年あたりの記事ではなかったであろうか。これは、60年と長い景行紀の記事を引きのばして埋めていく際に、間隔のあく年代を設定する箇所を間違えて、連続するような記事の中を離して、12年も伸ばした年代に設定してしまったのではないだろうか。  
 他の天皇記事にも見られることだが、本来、天皇が主役の記事であるはずが、天皇以外の記事が多く見えることも奇妙であり、景行紀においても天皇よりもヤマトタケルが主役のような扱いの記事が、差し込まれたようにみえることからも、日本書紀の万世一系には疑問が生じるのである。

神功皇后紀の不自然な紀年記事  つくられた万世一系⑵

神功年表
 図は神功皇后紀の百済・中国史書との記事対照年表
 百済王の崩御即位記事は、二運120年ずらして神功紀にはめ込まれている。(画像はクリックして御覧ください)
 日本書紀の中にあって、奇妙な存在のひとりが神功皇后こと気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)である。急死した仲哀天皇の皇后として、69年間も摂政として統治を行っていたとあるのだが、年齢の百歳というのも疑問であるが、新羅征伐のあとに九州に戻って生まれた応神は、60年以上も天皇としての即位がなかったのだが、これが二倍年暦としても35歳まで皇太子のままであったというのも不自然であろう。                                                                                                                                                                 
 この神功紀は13年の記事あとに、26年も飛んで、魏志の女王遣使の記事が挿入されている。
「卅九年、是年也太歲己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等」
 これは、一般的に言われているように、神功という人物を卑弥呼に見立てようとしたのであろう。そしてこの翌年、さらに43,46年と関連記事を載せ、次は66年に泰初2年の貢献記事を記している。これは岩波注にもあるように、卑弥呼の次の女王である臺与のことのはずが、どうも書紀編者は神功に見立てたようである。そのために、百歳まで生かしたように設定したのであろう。この箇所も、2倍年暦で説明できないのであって、あくまで通常の年数経過で記事が入れ込まれているのである。
 逆に言えば、両者の記事の女王を神功という一人の人物に見立てるために長寿にしたと言えるのではないか。特に後半はほとんどが半島関係の記事であり、とても一人の実在の人物の記録とは考えにくい。複数の人物の記事を、まとめて作り上げたとしか考えられないのである。
 この中国への43年の遣使記事のあとに、百済王の没年と次の王の即位記事が3回記されている。これが、ちょうど一般的な解釈にあるように、干支が二運120年繰り上げて記されるのである。そしてここから、かなりくわしく、倭国と百済の通交の開始が述べられており、七支刀に関する記事も盛り込まれているのである。もちろん、銘文にある泰和四年(372)からも120年ずれているのである。
 日本書紀編者は、神功皇后を卑弥呼という存在にあてて、さらには、百済との国交をすすめた指導者としたのではなかろうか。また臨月であった皇后は、腹の帯に石を挟んで新羅討伐に向い、凱旋後に九州の地で応神を生んだというのも、説話であって史実とはとても考えられない。
 神功という存在一つをとっても、万世一系が作りものであることを示しており、応神誕生につなぐための造作にすぎないのである。
 
 なお、常陸国風土記に気になる記事がある。
「多祁許呂命仕息長帯比売天皇之朝、当至品太天皇之誕時、多祁許呂命有子八人・・・」
 茨城の郡の一節に、茨城国造の遠い祖先の多祁許呂は、息長帯比売の天皇の朝廷に仕え、品太天皇の生まれた時まで仕えた、という割注があるのは興味深い。神功は摂政ではなく天皇とし、しかも即位してからしばらくの期間の後に応神が生まれたようになっている。風土記と日本書紀に大きな食い違いのある事例であろう。

※お詫び スマホの画面では、文章の途中に空白がありますが原因がわからず修正できません。