流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年09月

大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑵

3.火に囲まれた大国主が落ちて助かった穴の謎
 
 古事記には、スサノオによる大国主への試練の一節に野原で火に囲まれてしまう場面がある。
 鼠來云「內者富良富良、外者須夫須夫」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。
 鼠来て曰く、「内はほらほら、外はすぶすぶ」といひき。かく言う故にそこを蹈みしかば、落ち隠り入りまし間に、火は焼けすぎぬ。(「古事記」次田真幸読み下し)
 鼠が現れて、「内はうつろで広い、外はすぼまっている」と教えた。そう鼠がいうのでそこを踏んだところ、下に落ち込んで、穴に隠れひそんでおられた間に、火は上を焼けて過ぎた。(同現代語訳)
 大国主はその地面を踏んだことで穴に落ちている。なぜ、都合よく野原に人が隠れられるほどの穴があったのだろう。これは、猟の仕掛けとしての落し穴ではないだろうか。火を放たれたのも、古代に火で獣を追い立てる、火入れで植生を変化させて動物が集まりやすくなる環境を作り、そこに柵をめぐらして誘導しやすくする、といった火も使った古代の追い込み猟が説話に取り入れられたのではないか。
 ただ、縄文時代に数万と検出される落し穴は、弥生時代には見当たらなくなる、といわれている。それだと、古事記の落し穴を使った説話は、はるか縄文時代の伝承を参考にしたのかと疑問が起こる。しかし、7世紀にも落し穴猟があったと考えられる記事が日本書紀にある。
 天武4年4月 自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類
「諸の漁猟者をいさめて、檻穽(をりししあな)を造り、機槍の等(ごと)き類をおくことまな」
「漁業や狩猟に従事する者は、檻や落し穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。」(宇治谷孟)
 天武4年とは675年となるが、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食してはならないという期間限定の勅命が下されたのである。ということは、7世紀末後半まで、実際には落し穴猟があったということになるのではないか。注1)そうであるならば、古事記の大国主が落ちた穴も同時代にあった罠猟のものと考えられ、縄文時代の民俗例が千年も後まで語り継がれたと考えなくてもよいのである。
 なお、落し穴の形状には、フラスコ型と言われる上部がせばまったものも見受けられるので、この場合は「内は広く、外はせまい」という鼠の言葉に整合するのであるが、他の解釈は考えられないであろうか。スポンジは、ギリシャ語のスポンゴスに由来しているそうだが、鼠の発した「すぶ」は穴を覆う蓋が海綿のような、スカスカの状態を意味する可能性がないかは検討していきたい。

注1. 天武四年の「殺生・肉食禁断令」は、実は34年動かされた命長2年(641)の利歌彌多弗利による放生会の事績の記事を大和朝廷が消して天武期に移動させたものである。正木裕氏「古田史学会報171号」『「壹」から始める古田史学(三十七)「利歌彌多弗利」の事績』参照 (こちら

4.野原に火を放たれたヤマトタケル

 ヤマトタケルの場合は、大国主とは違って試練といったものではなく、まつろわぬ敵との戦いの中で火に囲まれてしまう。そこで、向火を起こして難を逃れるのだが、ここには落し穴はないが、野原への放火で相手を追い込むのは共通している。この野火によって、植生が変化し、動物が好むような景観がつくられる。ここに意図して罠を仕掛けるのである。火は、植生を変えるためだけではなく、獲物を追い詰めるためにも使われたという。
 初期の人類は、「弓と矢が登場するずっと前(およそ2万年前)に、火を使って動物の群れを崖から追い落としたり、象を穴へ突き落したりしていたことが示唆されている」(スコット2020)そうだ。その後も、火や誘導柵も使って落とし穴に追い込むこともあったのであろう。
 こういった事例から、相手を火で追い込むという話が作られたのではなかろうか。古事記では、沼に凶暴な神がいるからと誘い出された野原で火攻めに遭うのだが、日本書紀では、ヤマトタケルは賊から大鹿がいるからと狩りをすることをすすめられて、野に入ったところで火を放たれてしまう。つまり、火攻めの説話に猟が関係しているのである。(続)

参考文献
ジェームズ・C・スコット 「反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー」立木勝 (翻訳)みすず書房2011

大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑴ 

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   写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型

 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。

1. 落し穴猟の底にある杭の目的は?

 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想されている。しかも単発的でなく、同じエリア内に連続的に落し穴を設けている状況が見てとれる。一つや二つの落し穴では、獲物はかかってくれないからだろう。博物館には、よく上図のような落し穴に落ちてしまった獲物が描かれる。先端を尖らした杭が落し穴の底部に差し込まれており、そこに落ちた獲物の胴部に突き刺さって仕留めるというという様子の再現だ。やや残酷とも思ってしまうのだが、ただこの場合、仕掛けをしたあとに人は待機せずに放置して、動物が落ちた後に確認して確保するやり方だ。実際に、縄文時代の落し穴を調査すると、底部に1カ所から複数の杭跡のような穴が見受けられる。そこから、獲物が落ちた瞬間この先がとがった杭に刺さるというものだが、これについては異論が出されている。
 「一見、槍のような殺傷目的を思わせるが、なかには深く地面に刺さり込んでいない例もある(中略)槍が機能した場合に、血のにおいを嗅ぎつけた他の動物に狙われる可能性があるので落し穴にむかない。開口部の覆いを下から支えるための棒あるいは、陥し穴にかかったシカが坑底に脚がついた場合跳躍して逃げるのを防ぐため、体を宙にうかす可能性」(大泰2007)があるという。
 納得できる指摘であろう。たしかに、落ちた獲物が尖った杭に刺さって出血したら、カラスや他の肉食獣などが真っ先にやって来るだろう。殺傷の為ではなく、落ちた獲物の自由を奪うためであり、杭によって脱出できなくなった獲物は、すぐに殺傷してから穴から引き出すことになる。そして、罠にかかった獲物は死んでしまったらすぐに処理をしないと、体温を持つ内臓がすぐに傷みだし、さらに血液も影響して肉がまずくなってしまう。
 だから、仕留めた獲物はまずは血抜きをして、さらに肉と内臓を分ける解体作業を手早く行わなければならない。よって、先を尖らした杭を底に立てた罠を作って、いつかかかるだろうと放置しておくことはありえないと思われるので、博物館の展示にあるような解説には見直しが必要ということになるのではないか。
 
2.落し穴猟は、待ち伏せではなく、追い込み猟
 獲物の対象となる猪や鹿などは、大変敏感な生きものであり、人間が掘った穴などもニオイで察知すると思われる。茅野市尖石縄文考古館HPには、「放置しておき動物が落ちるのを待つ罠猟」との説明があるが、これでは獲物の確保は難しいかもしれない。
 落とし穴は単にケモノ道やその近隣に設置しただけでは、人が造ったという不自然さとヒトの気配を容易に察知され、簡単に避けて通り過ぎられてしまうと思われる。イノシシは移動中も掘り返し行動を伴いながら餌を探しているため 、地表面の変化には特に敏感だという。
 縄文人は、獲物の集まりやすい草原を作るために火入れによって、自然環境を変えてきたという。火入れによって生み出される草原的植生は、シカ・イノシシが嗜好する餌植物を多量かつ集中的にもたらすのだという。
 そこで、樹林帯と草原帯の狭間に落し穴をめぐらし、合わせて間伐材などで誘導柵も設置しての追い込み猟があったと考えられている。罠にかかってもらうためには、餌を用意したり、犬を使ったり、また松明の火も利用して追い込んでいったのであろう。
 ただ気になることがある。この落し穴猟は旧石器から縄文時代に見られるものであって、弥生時代以降は検出されていないというのが、通説になっている。だが弥生時代になっても、みんながみんな米作りだけ行っていたわけではなく、狩猟採集を生業とする人々もいるはずだ。しかるに弥生時代にみつかる数多くの土坑は、貯蔵の為の土坑と説明されている。
 東京国立博物館HPには、「綾羅木郷遺跡(山口県)からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。」という説明がある。いささか微妙な説明だが、落し穴猟は皆無ではないと考えられてはいるのだろう。実は古事記や日本書紀には、落し穴猟との関係をうかがわせる記事が見受けられる。(続)

稲荷山鉄剣銘文の杖刀人は呪禁(じゅごん)者との解釈

稲荷山古墳
  埼玉県稲荷山古墳復元礫郭 2015撮影 現在、礫郭はパネルになっているようです。

 杖刀人については『山陽公載記』の記述に従って「刀を杖つく人」とする説など、複数の解釈はあるが、いずれにしても杖刀人とは武官であって、大王に近侍する親衛隊、宮廷警備の武人といった解釈である。ここに、まったく異なる見解が早くに出されていることを知ったので、その紹介とその解釈から、銘文全体の意味をとらえなおしたい。(末尾に銘文を記載)


1.杖刀という霊剣を扱う呪術者

 田ノ井貞治氏は『杖刀人と典曹人』において、中国の戦国時代からある宗教の道教によって解明されようとされた。『令義解』の記述から杖刀人を杖刀を扱う人の意のことだという。『令義解・巻八・医疾令第二十四』に「呪禁(じゅごん)生は呪禁して解忤持禁(じきん)する之法を学べ」とあり、その謂に「持禁者は杖刀を持ち呪文を読み・・」とある。この杖刀は東大寺献物帳に、「御太刀壱佰口」が三つの櫃に分納され、第一の櫃には五十八口、第二は四十口、第三に杖刀二口とある。二口の杖刀だけが一つの櫃に大切に保管されていたとある。さらにこの二つの杖刀は鞘の装飾が立派であるが、刃渡りは鞘の長さの半分以下となっていることからも、武人の持つ刀ではないことがわかるという。
 また『令義解』には「凡医生・・・呪禁生は世習を取れ」とあり、鉄剣銘の「世々杖刀人首」が、代々世襲する意味を理解できる。道教では、「七祖父母、自然の生道、登仙南極宮」が、自分の祈願と並んで、七代前までの先祖の魂も救われるように祈願すれば南極宮(仙人の住むところ)に登り、永遠の命を得られるといった思想があり、これで、7人の祖先名を記した意図が明確になる。
 杖刀人である呪禁者は、病気を癒すだけでなく、戦争の勝ち負け、戦術に参画して功を為したので、誇らしげに「吾、天下を佐治す」と記したのである、とする。
 以上のようなことから、田ノ井氏は、杖刀を持って呪禁を唱える呪禁師で、雄略天皇の全国制覇を助けた人なる。獲○○鹵大王を雄略天皇とすることには従えないが、この杖刀人の『令義解』と道教を示しての解釈は納得できるものであり、ブログに引用された阿部周一氏や中村通敏氏と同じく賛意を表するものである。ちなみに、江田船山古墳の典曹人についても、「海運業に携わる人の親分」とされているのも考慮に値するものと考える。
 さらに、田ノ井氏は、道教が5世紀に列島に伝わったとするのは早すぎるのではといった意見については、渡来人の存在から、その可能性を論じておられる。この点を含め、以下に銘文の解釈に関してふれていきたい。
 
2.古代の刀剣信仰

 古代ユーラシアでは、金属器の武器の誕生とともに、刀剣を神剣・霊剣とする信仰がつくられ、武器そのものとともに広がっていった。
『魏書』巻一〇三高車伝には「埋羖羊燃火拔刀女巫祝說,似如中國祓除」とあり、女巫が刀を使って呪術を行っている。大林太良氏は「アルタイ系諸族のシャマニズムのなかに、・・・・戦神としての剣と関連を示す諸要素が現れている」とされる。注1 これは騎馬遊牧民の信仰なのである。
 神武紀においてタケミカヅチがタカクラジを介してイワレヒコに渡した韴霊(フツノミタマ)も霊剣の一種であろう。
また阿部周一氏の指摘だが、「武」の上表文には「歸崇天極」、「白刃交前、亦所不顧」とあり、これは「道教」を通じて「南朝皇帝」に対して臣従する意と、「北斗」を剣に書くとどんな敵にも負けないという「道教」にもとづく信仰のようなものの存在を示唆するとされている。注2 すなわち、杖刀人を道教との関連で捉えることは時期的に早すぎるものではないということであろう。
 群馬県金井東裏遺跡の火山噴火に立ち向かった甲を着た古墳人も、おそらく霊剣を持って呪禁を行った杖刀人と近い存在であったのかもしれない。この人物の所有と思われる鹿角製の装飾の付いた鉄矛と鉄鏃が出土しているのだが、どうであろうか。他に、霊剣と類するものに七支刀や四寅剣、蛇行剣などがあろう。七支刀は銘文の「百兵」を「辟」けることができるというのは、道教的禁呪を表しているとの指摘もある。

3.銘文の解釈に関して

⑴稲荷山と江田船山の銘文の共通点
 一般的解釈のワカタケルに対し、古田武彦氏は、至今獲 加多支鹵 というように、「今獲て」として、カタシロと読むとされる。ちょうど、形代、潟代で神霊の宿るところの意となり、王の名にふさわしいという。注3
 しかし、なぜ獲と加で分けるのか。来至という熟語があると説明されている。ただ一方で、「今に至る」は否定されてはおられない。また、今獲(えて)と動詞で読むのかの説明では、上位のものに信任を獲る、といった解釈なのだが、いささか無理があるように思える。
 既に指摘されていることだが、この稲荷山と江田船山双方の銘文には共通点が見られる。どちらにも「奉事」があり、「七月中」に対して「八月中」、「杖刀人」に対して「典曹人」、「百練」に対して「八十練」などよく似た語句が用いられている。これが両者の同時代性を推測させるとの指摘はもっともだ。他にも治(台)天下がある。また人名に「利」や「弖」が使われている。
 稲荷山の場合は獲は6カ所使われているが、そのうちの5カ所は人名であることは明白であろう。すると、大王の名にも獲が使われていてもおかしくない。この箇所だけ動詞として読むことの方が不自然ではないか。
 そうすると、獲加多支鹵大王と獲□□□鹵大王も共通との推測も可能だ。獲は人名を表す文字と考えるのが妥当であり、そうするとワカタシロ、となるであろうか。
 江田船山古墳鉄剣銘については、鈴木勉氏が、王権からの下賜刀ではなく、顕彰刀と主張されている。注4 実は東大寺宝物庫の100本の刀剣のうち、短い銘文が入ったものは2本だった。橿原考古学研究所保管の約300本の刀剣のX線調査では、1本も銘文は検出されなかったという。銘文入り刀剣が王権による下賜刀であるならば、もっと多くの銘剣が見つかってもいいはず。数が少ないことからも、銘剣が特殊な事例であり下賜刀とはできないであろう。すると、稲荷山の場合も顕彰刀として本人、もしくはその家族や周辺のものが作成させたとみることができる。
 
⑵百済との関係での検討
 犬養隆氏は『古代の文字文化』で、半島の銘文による指摘がある。百済の都が置かれた韓国の扶余・陵山里寺址出土の6世紀木簡 城下部対徳疎加鹵 とあり、官位と人名が記されているもので、「□城下部」は所属名、「対徳」は官位、「疎加鹵」は人名と考えられる。加・鹵という共通する文字が使われている。
 また伝加耶出土鉄刀銘では  ・・・不畏也□令此刀主富貴高遷財物多也 と、刀剣銘に吉祥句を記す点、象嵌の技法、書体に類似を指摘されている。
 さらに七支刀との類似も挙げている。「丙午正陽造百錬」という共通する表現がある。
 以上から、鉄剣銘には、七支刀がそうであるように渡来、特に百済との関係が見え隠れしている。なお、名を表す利も半島、特に百済に見られるものだ。また阿部周一氏は、百済から七支刀とともに「呪禁」を職掌とする立場の人物もやって来たとみておられる。

⑶杖刀人が呪禁師であるならば、佐治天下の意味も変わってくる。
 古田氏は佐治天下について、「中国の古典に用例を持つ慣用語とし、合わせて卑弥呼に対応する男弟の例から、天子、もしくは王が幼少、もしくは女性などの時、これに代わって、その国家の統治行為を行う」注5、との意味とされる。また「卑弥呼はいわば宗教的な巫女、これに対し、倭国の実際の行政をやっていたのは、『男弟』の方、佐治というのは実質上の行政権者」とも書かれている。
 しかし、杖刀人が宗教的な役割を果たす人物であるならば、統治行為とは考えにくい。実は「治」には、祭る、斎き祭る、という解釈もある。するとここは、大王の統治行為に対して祭りをして助けた、といった意味になるのではないか。あくまで私案だが、〇〇大王の世のシキの宮の時に、杖刀人首として天下の平定に呪術の力で尽力したので、(これを顕彰して、とっておきの)剣を作らせた、といった内容と考えたい。

注1. 大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
注2. 阿部周一「『杖刀人』と『呪禁』」ブログ古田史学とMe
注3. 古田武彦「盗まれた神話」p81 古代史コレクション3
注4. 鈴木勉「線刻鉄刀と象嵌技術」(文化財と技術9号)工芸文化研究所2019
注5. 古田武彦「古代は輝いていたⅡ」p273古代史コレクション20

◆稲荷山古墳鉄剣銘文と江田船山古墳鉄剣の銘文と一般的な読解。
表) 辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比垝 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比
(裏) 其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下令作此百練利刀 記吾奉事根原也
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『カク、ワク』+『カ、クワ』+『タ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」   以上ウキペディア
乎獲居臣の臣については巨でコとし、ヲワケコとの解読もある。
 次に江田船山古墳鉄剣銘文 
台(治)天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖  八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀  服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

参考文献
古田武彦「古代史コレクション2.20.28」その他
江上波夫「騎馬民族による征服説」(騎馬文化と古代イノベーション)KDOKAWA2016
白石太一郎「日本列島の騎馬文化はどのようにして始まったのか」(騎馬文化と古代イノベーション)同上
犬養隆「古代の文字文化」竹林舎2017
井上秀雄氏「実証古代朝鮮」日本放送出版協会, 19923
小嶋篤「象嵌大刀と刀装具の世界」九州国立博物館アジア文化交流センター研究論集 ; 第2集 2021
日高慎「埴輪の世界―畿内との共通性と東国の独自性」(はにわの世界)茨城県立歴史館2013
田ノ井貞治氏『杖刀人と典曹人』東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会, 1999-08
末永雅雄「日本上代の武器」弘文堂 昭和16
大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
吉田修太朗「稲荷山鉄剣の銘文に関する一考察」埼玉県立史跡の博物館紀要第16号 2023
濱田耕策「朝鮮古代史料研究」吉川弘文館 2013
管浩然「『古事記』国譲り神話「治」について」上代学論叢 和泉書店 2019

胴部に穴をあけた土器と𤭯(はそう)の小孔

光15有孔土器
  写真は、光州博物館展示の胴部に大きな穴のあけられた土器

円窓土器
  こちらは、愛知県朝日遺跡の円窓(まるまど)付土器

1.愛知県清須市の朝日遺跡の円窓付土器
 環濠のある弥生集落だが、従来、防御施設といった解釈がされてきたが、こちらで示したように、洪水など、水害対策用の施設などが主な役割と考えられるようになってきている。(こちらでは、高地性集落や環濠集落の意味を根本から見直されつつある状況を説明)
 そこに、胴部にぽっかりと大きな穴をあけた土器が多数出土している。円窓付土器と言われており、弥生中期後葉の時代に尾張地域に分布している。墓域とその周辺などから出土しており、居住域からは少ないようだ。焼成後の体部穿孔や口縁部打ち欠いたものもあるという。「風化痕」と見られる痕跡があり、屋外に放置され、風雨にさらされた状況から、墓に供えられたことの傍証になり、やはり、供献壺と共通のものとなる。
 せっかく完形品を作っておいたのに、わざわざ壺、容器としての役割を損なうような大きな穴をあけるという行為の意味はなかなか理解できないが、同じようなものを韓半島でも制作して、儀礼に用いられていたとするのは興味深い。同じ信仰を持つ集団が、この地に居住したのであろうか。

2.古墳時代の胴部に小孔のある土器
関西大学𤭯
 古墳に供えられた須恵器などに、円窓ほどではない小孔のつけられたものは、数多く存在している。ある図録には、次のような解説がある。
 「𤭯(はそう)とは須恵器の器名で、胴の部分に小さな丸い孔をあけた壺」のことだという。その次に、この孔の役割を説明されている。「この孔に竹などで作った管を挿入し、酒などの液体を注ぐ注器として使われたと考えられている」とのことだ。竹菅を注口になるように差し込むための孔だという説明だが、ちょっと素直には受け取れない。これについては、くわしい説明が、ウィキペディアにあるので(こちら)ご覧いただきたいが、根拠となる事例が、静岡県の郷ヶ平古墳出土人物埴輪で、両手でかかげる様に容器をもっており、そこに注口がついているのである。
須恵器を持つ埴輪
 しかし、よく見ると、これは先端部にかけてすぼまっているような形状である。とても竹管を差し込んだもののように見えないのだが。確かにこの容器の形状は𤭯とされる須恵器と同じ形の表現であり、出土したものに、胴部に注口を最初から付けているものは見られないことからすると、後から竹などを差し込んだということになる。すると、あけた穴にピッタリになるように、表面を削りながら差し込んだのか。同様の胴部に小孔のある須恵器は韓半島にも存在しているが、同じような使い方がされていたのであろうか。

3.栓がされた𤭯や鈴付きの𤭯
栓をした𤭯
 いろいろ疑ってみるのだが、過去に撮影したものを見直していると、吹田市立博物館に、蓋がされて小孔部に栓がつけられた状態の𤭯の展示があった。この場合はお酒でも入れて保存していたのであろうか。さらに、特殊な例もあることに気が付いた。
 
鈴用𤭯
 長岡京市埋蔵文化財センターに、鈴付きの𤭯というものがあって、胴部の下半分に仕切りがあり、そこに小石が入れられて振ると鳴る仕組みだ。底にもちょうど鈴に見られるような孔が付けられている。この場合は、儀礼のために鈴の音を出しながら注いでいたのであろうか。
 ちなみに、縄文時代には、下部というか底面の少し上に小孔のある土器があるが、これは、とても注ぎ口用にあけたとは思えない。この場合は、縄文人の信仰上の意味のあるものであったと思われる。
 古墳時代の須恵器の小孔が、注ぎ口を装着するためというのは、間違いではなさそうだが、その小孔に、竹菅などを装着する際の痕跡などがないのか、などまだまだ資料がほしいところである。鈴の働きを兼ねた𤭯の例など、いずれにしても胴部に穿孔のあるものは儀礼や信仰上のものであることに相違はない。

参考文献
高崎市観音塚考古資料館「観音塚古墳の世界」改訂版2015

冒頭の光州博物館の写真は、松尾匡氏の撮影のもの。
郷ヶ平古墳出土人物埴輪の写真は「文化遺産オンライン」より

銅鐸絵画の人物が持つ工字型器具は、機織り用の桛(かせ)が妥当

光25木べらなど
   光州博物館展示機織り道具 右側が桛(かせ)日本の弥生時代にあたる頃のもの

1.弥生人が持つのは釣り竿なのか?それとも・・

 銅鐸絵画に、工字型(I字型ともいわれる)の器具をもつ人物が描かれている。なかには下図にあるように工字だけ描かれているものもある。これが何であって、何故銅鐸に描かれているのかについては、定説があるわけではない。もっとも、銅鐸そのものについても解明されていないわけだが、その真相に迫るためにも、絵画文様の謎ときも手掛かりとなるものであろう。
桛人物
工字銅鐸

 大方の研究者は、この工字型器具を持つ人物は、漁をする人だとし、手に釣り竿を持っているというのである。
 根拠となるのは、いっしょに魚が描かれているものが一点だけあることぐらいである。しかしこれでは、竿の先端も根元も短い横棒が描かれていることが説明できない。しかも、腰を曲げて脚を伸ばして釣りをするという姿勢もおかしい。春成秀爾氏はI字型とされたのは弓であって、鹿の狩猟を描いたとされたのだが。(春成1990)
 銅鐸の人物が持つ工字型用具を、用水路の止水板(長尾2012)とされた方があったが、関連は不明だが、後の2019年放映NHK「ヒストリア」『まぼろしの王国 銅鐸から読み解くニッポンのあけぼの』で銅鐸絵画に関する新説として、それは「田堰(たぜき)」を開ける姿だったとし、弥生人が畔に腰掛けて田に水を入れるために工字状の用具を引き上げるという場面がある。しかし、これはいただけない。水をせき止めるのは板であって、銅鐸の人物が手にしているのは棒状のものであり、これでは役目を果たせないであろう。しかも腰掛けた態勢で引き抜くというのは不自然ではないか。
 では、この工字型の器具の用途は何であるのか。

2.弥生時代に出土した機織り道具の桛が絵画と相似形
白岩上寺地桛

 静岡県菊川市白岩遺跡より1973年にほぼ完形の桛が、弥生時代の大溝から見つかっている。銅鐸の面に描かれた人物と工字形の用具の比がほぼ同じであり、形態、大きさ等から出土品との共通点が認められるとする。
 
桛比較
 図のように少し加工してならべると、ほぼ同じといえるが、ただ少し異なる所がある。民俗例としての桛は各地に残っており、基本的な形態は同様であるが、相違点は民俗例、沖ノ島出土の模造品、銅鐸絵画の桛がいずれも軸部の棒が突出しておらず、この白岩遺跡のものは軸が突出しているのである。だが、弥生時代に突出していない桛も見つかっている。
 白岩遺跡出土の右側の鳥取県青谷上寺地遺跡から、完形ではないが、銅鐸絵図と同じく、軸が突出していないものである。その後の出土例から現在は、古墳時代以前では腕木貫通式と支え木さしこみ式に分類され、古墳時代以降は支え木さしこみ式となっている。つまり、弥生時代は異なる形状のものがあったのである。
 そして、銅鐸絵図の桛と同じ形状のものが、韓半島にもあったのである。それが冒頭の写真である。弥生時代と同時代の青銅器時代(後期)か、原三国時代(初期鉄器時代)と考えられる馬韓地域(栄山江あたり)の展示物だが、銅鐸に描かれた桛とほぼ同じものであり、同じ古代史の会の方で現地に行かれた方から提供していただいた貴重なものである。いずれも機織用の道具であるが、その右側の桛に接合部が確認できる。日本の白岩遺跡や上寺地遺跡のものは、随分と洗練された加工品であるが、光州博物館のものは、原初的なもののように見える。
 さて、この桛だが、どのように使われていたのかが中世の資料に残っている。
中世の桛

 鎌倉時代の末、奈良の春日神社に奉納された「春日権現験記」と嘉永2年(1849)北村良忠による「農家必用」に載る「木綿かなをかせに懸ける図」に載る桛と紡錘車を扱う絵が、女性が座位で桛を操っているものであり、銅鐸の絵画とよく似ている。左手に桛、右手に巻きとった糸を持ち、桛に図のように糸をⅩⅩ状に巻き取っているのである。

 しかし、桛といった機織道具ではないと主張された研究者もおられる。
 
銅鐸土器人物
 佐原真氏は、桛とする説を否定する根拠に、自説の〇型頭男性、△型頭女性説をもちだしている。銅鐸絵図には、3人の人物が描かれているものがあり、〇型頭の人物が、棒で右側の人物を叩こうとしている。左の人物は助けようとしている。叩こうとする真ん中の頭が〇で男性、両端の△頭が女性だとされる。すると、桛をもって織物をする人物は女性のはずだが、頭が〇型だから男性であり、これは桛をもっているのではない、と主張されるのだ。しかし、わずか一つの事例で、決めつけられることであろうか。弥生土器の絵画には、鳥の姿になった女性シャーマンと思われる人物が複数あるが、頭は△ではない。桛説は否定できないのではないか。
 では、なぜ銅鐸に機織道具をもつ人物が描かれているのか。それは福岡県の沖ノ島祭祀遺跡に桛の模造品があるところから、祭祀と関係することは明らかと思われる。
沖ノ島

3.古代信仰を表す絵図
 
 日本や世界の物語の中には,糸を紡ぐ女性や,機を織る女性などがたびたび登場してくる。アマテラスの説話にも機織女が登場する。「延喜神祇式には伊勢神功の神宝二一種のなかに金銅賀世比がみえる。また『古語拾遺』には麻柄でつくった桛で蝗(イナゴ)をはらったと伝えられるように、桛などの紡織具は呪術的な祭器や幣帛(へいはく:神への捧げもの)としても使用されたのである。(平林1992)また、銅鐸の動物絵画にも宗教的な意味があるとされる。古代中国では、昆虫や魚が呪術的な絵画に描かれており、銅鐸も同様であろう。また杵で臼を搗く様子も描かれているが、この行為も呪術に関係すると言われている。
 日本書紀の景行紀のはじめに、景行天皇は双子が生まれた際に、臼(碓)に向かって叫ぶ記事があるが、注釈にあるように、出産の習俗と関係しているのである。

 以上から、工字型器具は釣り竿などの狩猟用のものではなく、機織りの道具である桛であるとするのが妥当であり、古代の宗教的な意味から描かれたものである。さらに、この機織り技術は半島に同じ形状の道具があることからも、渡来人によってもたらされたものであることは明白であろう。
 
 参考文献
長尾志郎「雷神の輝く日々 銅鐸ノート」風詠社2012
静岡県菊川市白岩遺跡・横地遺跡発掘調査報告書 2015
『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅱ‐1』(「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議)2012
春成秀爾「銅鐸絵画の原作と改作」ネット掲載1990
東村純子「古代日本の紡織体制 ―桛・綛かけ・糸枠の分析からー」 福井大学リポジトリ2014
平林章仁「鹿と鳥の文化史」白水社1992
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017 

冒頭の織物道具の写真は、松尾匡氏の撮影のものをご提供いただいた。
 

なぜ昔話の主役に老人が多いのか?

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1.大塚ひかり氏の『昔話はなぜお爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社2015)のご紹介    

 著者は古典エッセイストとして活躍。ユニークな切り口で古典を語っておられる。ここでは、昔話の主人公に見られる特徴から、古代社会の問題を浮き彫りにされている。

 柳田国男によると、派生的なものを除いた日本の昔話106話のうち、動物、竜、神しか出ないものは16話、老人が主人公となるのは28話、何らかの形で老人が登場するのは19話だという。老人が主人公となる28話のうち貧しさが強調されたのは5話、働く老人は17話、共働き4話となり、金持ちだった老人の話はないそうだ。
 著者は、生産性の低い弱者であるはずの老人が、昔話ではなぜ重要な役割をはたしているのか?と、問いかける。
 健全な老人は尊敬・愛着の対象、しかしいったん老人に心身の衰えや、老衰・痴呆などの症状が現れ始めると、彼らは社会のお荷物となり、冷たくあしらわれることになる。移動を繰り返す狩猟採集民族には、動けなくなった老夫婦が家族と離れ姿を消すなどの事例もあった。
 縄文時代研究の山田康弘氏も、遺跡に残るその扱いから高齢者は排斥されたというのが実態と指摘されている。
 天明の大飢饉では牛や馬を食い尽くしたら、死人の肉を食っていたという。江戸時代の高山彦九郎の『北行日記』には、「死骸を私にください、その代わり私の母親が餓死したら差し上げますから」という記録もあるという。現代に生まれていて、ホントに良かったと思ってしまうが。
 遠野物語には、姥捨て山の話もあり、以前の映画だが、「楢山節考」の老人を背負って、谷に向かうシーンはあまりに強烈で哀しくなったものだ。
 昔話に登場したのは、高齢者が少なかったからではない。そこには平均寿命という錯覚がある。子供の出生率が高いと平均寿命は下がる。逆が今の日本なのだ。
 61歳まで生きた者の平均寿命は男74.3、女74(1675~1776)だったようで、ヨーロッパでも平均寿命40~45歳だったが60歳を超えると長生きしているとのことだ。鎌倉時代、藤原貞子(北山准后)は1196~1302の 107歳だった。
 45歳で隠居などというのはごく一部のことであっただろう。また律令以降、古代の役人の定年は70歳だったとか。持統紀には年八十以上に稲を賜うといった記事もあり、長寿の存在が見過ごせないほど存在していたのだろう。
 また老人遺棄については、定住していない採集民や狩猟民、さらに遊牧民に多く見られるという。老人みずから、家族から姿を消すこともあったようだ。

2.考えさせられる昔と現代の老人問題のギャップ

 著者は昔話の老人について次のようにまとめている。
  1.昔話では子や孫のいない老人が大半
  2.昔話の老人はたいてい貧乏
  3.子や孫がいても、捨てられるなどの「冷遇」を受けていること 
   が多い。
  4.「良い老人」「悪い老人」などで表現され、過酷な「生存競  
   争」の世界がある。
 以上からその特徴は「貧困と孤独と嫉妬」だという。
 つまり昔話に子のない老人が多いのは、ひとつには社会の最底辺ともいえる貧しい者たちが金持ちになるというギャップの面白さを狙っている。もう一つは実際に前近代には「子供のいない老人」、独身のまま年を重ねる老人が多かった現実があるのだと。
 ぜひ一読をお勧めしたいのだが、これは過去の話ではなく、現代の日本の超高齢化社会の問題を考えることにもつながると思われる。現代の高齢者は、その多くは、昔に比べればはるかに恵まれていると言えるだろう。高齢者を守る意識、施策は充実してきているが、ややもすればそのことに甘えてしまっている状況も見えるように思う。一方でそれが、若者たちへの負担になるという、アンバランスな状態が深刻化しつつあることを危惧したい。今の若い世代は、将来、同じ条件で高齢化を迎えることができるとは、誰も思っていないのではないか。
 太古、老人は「社会のお荷物」だったようだが、現代でも違う意味で、若者たちの本音としてお荷物と言われる状況があるのではないかと考えてしまう。ボケてしまうまでは、できるだけ若い人たちに迷惑をかけないようにつつましやかに、生きることを心掛けたい。

参考文献
山田康弘「老人と子供の考古学」吉川弘文館2014
図はイラストACよりダウンロード

「禅位」が示す倭根子天皇から文武への王朝交代

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     写真は、奈良の歴史イベントでの服部氏の講演

 古代史の通説では語られることはないが、多元史観では、701年に王朝交代があったとする視点での議論がされてきている。ここでは、古田史学の会の服部静尚氏の王朝交代論を簡単に紹介したい。

1.日本書紀の最後は次の記事で終わっている。

 (持統)十一年八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子
 禅天皇位はクニサりたまふ、との訓みが付せられているが、要は皇太子に禅位した、とする。宇治谷孟訳では、「天皇は宮中での策(みはかりごと)を決定されて、皇太子(文武)に天皇の位をお譲りになった」とされる。すなわち、生前譲位と説明されている。これは平成天皇から令和天皇への譲位と同じイメージになる。
 しかし、漢字をよく見ると、この箇所は譲位ではなく、「禅位」とされている。この「禅」は、「天位を譲り与える」という意味であるが、中国の孟子は、「天子の位を子に伝えずに賢なる人に伝える」こととしている。その賢なる人とは、姓が異なり王朝名が異なる有力者なのであり、決して孫などの血縁者ではないのである。また、生前譲位と同じ意味ではなく、あくまで禅位は、生前・薨御後に関わらず、異なる姓の異なる王朝の有力者に天子の座を譲ることとなるのである。
 中国の場合、例えば隋の建国も、北周からの禅譲ですが、隋書には、「周帝詔曰『禅位於隋』」とあるように、王朝交代なので「禅位」としている。
 するとこの記事の皇太子である文武は、異なる姓、異なる王朝の天皇から「禅位」されたとなる。すなわち、これは王朝交代を意味することとなる。ただ、ここで疑問がわくのは当然です。祖母である持統から譲位されたのではないのかと思われますが、実は次の続日本紀の記述が、別の人物が禅位したことを示している。

2.前王朝からの「禅位」を示す文武天皇の即位宣命文
 
 日本書紀の最後にある「禅位」された文武は、次の史書である続日本紀の即位宣命文に「大八嶋国をお治めなされる倭根子天皇が、お授けになり」と述べている。この倭根子天皇は持統天皇のこと解釈されている。また、続日本紀では持統のことを太上天皇としている。そして崩御の際には、大倭根子天之広野日女尊という諡(おくりな)を奉ったという。日本書紀の持統の諱(いみな)、すなわち生前の名は高天原廣野姬とされている。諡とは死後の名前であるから、これは奇妙なこととなる。
 通説の解釈では、文武はまだ生存している持統を倭根子という死後の名前で呼んでいることになるが、このありえない解釈に、これまで誰も指摘がされなかったのである。日本書紀では、持統のことを倭根子とはしていないが、後の続日本紀ではこの倭根子は天皇の自称として、元明天皇以降に用いられることになる。つまり、文武の即位宣命文の倭根子は前王朝の別の人物を意味しており、王朝交代を遠回しに宣言したものなのである。
 だがここで疑問がもたれるのではないか。日本書紀には、持統が天皇だとされているのではないかと。しかし、日本書紀には、よく見てみると、矛盾するような記述があり、別の天皇の存在を示しているのである。
 
3.持統は真の天皇ではない
 
 朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱(称)制
 天武の崩御によって皇后は、即位をせずに政務を執られた、とある。「称制」とは、中国で天子がいるのに、幼い等の事情で代わって執政することである。ところが、書紀持統紀には、持統が正式に即位する前から天皇が存在していることを示す記事がある。
 元年八月天皇、使直大肆藤原朝臣大嶋・直大肆黃書連大伴、請集三百龍象大德等於飛鳥寺、奉施袈裟人別一領
 天皇は藤原朝臣大嶋らに使いして袈裟を施すという記事だ。他にもある。
 三年春正月甲寅朔、天皇、朝萬國于前殿
 天皇は諸国の代表を正殿に集め、元旦の朝拝を行われた、という。
 しかし、天武の後に皇后が即位したのは翌年の持統四年である。ということは、ここに政務を執れる別の天皇が存在していたのに、持統は称制で政務を執っていたという奇妙なことになる。
 また、持統が即位した年は690年とされるが、これも額面通りには受け取れない。この年に中国では則天武后が皇帝即位しているのである。書紀は、これにならって造作したと考えられるのである。
 日本書紀以外にも、疑念がもたれる記事がある。『懐風藻』葛野伝には、高市皇子崩御後に「皇太后」が誰を「日嗣」にすべきか群臣に相談したとあり、持統を天皇ではなく「皇太后」としている。また、『扶桑略記』では、持統は不比等の私邸を宮にしていたと記し、即位していなかったことを匂わせている。
 日本書紀は、神武から皇統が途切れずに続く万世一系の史書として描かれているが、実際には、前王朝、すなわち九州王朝の史書を利用して、年代移動や漢籍の挿入などによって造作されたものである。別の人物を、天皇であったかのように描いており、持統の場合も、鸕野讚良(うのさらら)という別の人物を天皇にあてているのである。
 例えば、乙巳の変の記事もかなり作り込まれていることは既に説明しているが(こちら)、九州王朝の問題などもおいおいふれていきたい。

4.消された真の天皇から禅位されたのが文武天皇だった
 
 持統8年(694)に藤原京に遷都したという記事があり、これは前王朝であった九州王朝の都であったと考えている。文武の死後に即位した母の元明天皇の即位宣命文には、藤原宮御宇倭根子天皇から文武に授けられた天下を治めたとある。この場合も、倭根子は持統のことではなくその実体は消されているのである。この倭根子天皇は、藤原宮、すなわち藤原京にそれまでの都であった前期難波宮から遷都してきたばかりだったのである。ただその翌年には高市皇子が崩御している。死因は不明だが、何やらきな臭い動きが起こっていると考えられる。そしてその翌年に、文武に禅位がされているのである。
 以上のように、7世紀の末に前王朝から文武への「禅位」とされるという王朝交代が行われ、前王朝の九州年号(こちら)も大化(日本書紀では50年ずらされて記述されている)で途絶え、701年から大宝という新元号に改元され、ヤマト王権が始まったのである。
 
 以上は、かなり省略した説明であるので詳しくは、服部静尚氏の次の論考をぜひお読みください。「王朝交代の真実―称制と禅譲」(古田史学会誌第25集「古代史の争点」所収)明石書店2022
 また、ユーチューブでも講演内容を見ることができます。
服部静尚@三種の神器と王朝交代⑤~中国正史に見る王朝交代記事@20220625@布施駅前市民プラザ@26:23@DSCN9517  他にも多数ございます。
 さらに、服部氏は八尾で毎月講演会も開催されており、古田史学の会のフェイスブックにも、随時今後の講演会の予定や内容の動画をアップしておりますので、チェックしてみてください。