金銅製冠(複製)・金銅製大帯 東京国立博物館展示。
群馬県の山王金冠塚(二子山)古墳は、6世紀後半の前方後円墳。大正4年に金銅製冠が金銅製大帯、馬具類、鉄製甲冑、刀装具類などと共に出土した。金銅製冠は、新羅系のいわゆる出字型金冠であり、これを由水常雄氏は「樹木型王冠」とされている。新羅では、金冠、銀冠、金銅冠といった素材の違いで身分の違いを示すなどの独特の制度があったが、新たな位階制の導入で衰退していったようだ。
群馬県の山王金冠塚(二子山)古墳は、6世紀後半の前方後円墳。大正4年に金銅製冠が金銅製大帯、馬具類、鉄製甲冑、刀装具類などと共に出土した。金銅製冠は、新羅系のいわゆる出字型金冠であり、これを由水常雄氏は「樹木型王冠」とされている。新羅では、金冠、銀冠、金銅冠といった素材の違いで身分の違いを示すなどの独特の制度があったが、新たな位階制の導入で衰退していったようだ。
このため、容易に手に入れられるものではないことから、右島和夫氏は、「(冠を)どうして入手することができたのか、新羅の支配者の証しであること等を考えると、直接手に入れたことも十分考えられる。」(右島2018)と述べておられる
私見では、この被葬者は日本書紀欽明紀にある日本府の主要メンバーである佐魯麻都ではないかと考えており、以下にこの点について説明したい。
1.欽明紀の佐魯麻都(サロマツ)
欽明紀の3~11年に、佐魯麻都という日本府の中心人物が登場する。「佐魯」は、書紀では佐魯麻都の表記で3カ所、麻都という表記で12カ所も登場する異例の人物と言えるが、その彼の出自をうかがわせる記事がある。注1.
欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀3年の末尾にある。
「百濟國、殺佐魯・那奇他甲背等三百餘人」とあるのは、紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されたというのである。
欽明紀の佐魯麻都は、この顕宗紀の任那左魯の末裔ではないかと考えられる。任那左魯がこの事件があったと考えられる5世紀末に任那(加耶)の別の国に避難しそこで子供が生まれたとすると、年齢も合うので父子と考えても良いであろう。父親の百済への怨みを子が引き継いで、日本府の中で百済と反目する人物になったと理解できる。
彼は、日本府のもとで大連の位であったが、新羅側に寝返った人物のように記されている。この佐魯麻都は、「奈麻礼冠(なまれのこうぶり)」をつけていたとあり、この奈麻礼は新羅十七等官位の第十一位とのことだ。新羅では、法興王7年(520)に官位制が定められている。東潮氏はここで、群馬県二子山古墳(現前橋市金冠塚古墳)出土の金銅冠が新羅系の出字形冠であることにふれている。(東潮2022)東氏は、なにも直接の関係を示唆されているわけではないが、この金冠塚古墳が6世紀後半と考えられている点や、出字型金冠が全国でも珍しいもので唯一の関係であること、また藤ノ木古墳と同じような金銅製大帯も副葬されていたことから、この被葬者の候補に佐魯麻都をあげることができるのではないか。
他に玉村町の小泉大塚越3号墳に同じ冠の可能性のある金銅細片が出土しており、他にも高霊池山洞73号墳のものと似た単鳳凰環頭太刀、馬具や耳環、多数のガラス玉などから、やはり同じ加耶の王族の一員のものではないかと考えられる。共通の金銅冠がある以上、どちらがどうと断定はできないので、こちらが佐魯麻都である可能性も残しておきたい。新羅の侵攻によって6世紀の半ばに列島に逃れた彼ら王族と配下の集団が、この群馬の地までやって来たのではないか。
2.新羅系の冠の出土から渡来の人物と言えるのか?
これについては、「前例」がある。大阪府高槻市阿武山古墳の被葬者には冠帽が添えられていた。日本書紀の記述には、天智前紀に、百済王豊璋に皇太子が織冠を、天智紀8年に藤原内大臣に大織冠を授けている。豊璋は白村江の戦いで行方不明になったので、残る内大臣なる鎌足が、この阿武山古墳の被葬者とする根拠となっている。もちろん、後の伝承なども検討されてのことだが。ただし、私見ではこの古墳の墳墓の形状や副葬品には渡来系の特徴が顕著であることからも、書記では鎌足とされた百済の豊璋と考えているのだが。
佐魯麻都の場合も、日本書紀に新羅の冠を保持しているとの記述と、列島では先に挙げた2カ所でしか見られない冠であること、さらには、加耶の滅亡が6世紀半ばであり、古墳の年代が6世紀後半であることも符合するのである。
よく古墳の豪華な出土品から、その被葬者像を、ヤマト王権からその副葬品は受容されたとか、半島と特別な関係を結んでいた地元の実力者、といった苦しい説明が後を絶たない。(こちら参照)どうして列島に渡って来た人物と考えることを避けるのであろうか。
欽明紀が記す任那滅亡、すなわち加耶国への新羅と百済からの侵攻から逃れた加耶の王族と配下の集団が、かなりの規模と頻度で移住してきたと思われる痕跡が、特に群馬方面には、数多くみられるのである。注2
欽明紀が記す任那滅亡、すなわち加耶国への新羅と百済からの侵攻から逃れた加耶の王族と配下の集団が、かなりの規模と頻度で移住してきたと思われる痕跡が、特に群馬方面には、数多くみられるのである。注2
3.なぜ、加耶(任那)の王が新羅の王冠を持つことができたのか。
実は新羅は、加耶を制圧しても現地の王に位を授け統治を任せたという。「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。金官加耶の王族はのちの近庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)このようなことから、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。この問題は、加耶滅亡後も、書紀に登場する「任那の調(みつき)」が、新羅に支配されてからも一定の独立した扱いを受けていたという理解につながるのである。ただ、佐魯麻都の場合は、百済のみならず新羅にも反発があって、列島に渡来したのであろう。
さて、この新羅の出字型冠は身分を表すものであったが、520年以降の新たな位階制の導入によって、王冠の役割は変化してやがて消滅していったようである。日本では、奈良県藤ノ木古墳の金銅製冠や茨城県三昧塚古墳の金銅製馬形飾付冠などは、身分を示すというよりは、被葬者の為の副葬品に変わっていったものと考えられる。
佐魯麻都の場合も、渡来してからは身分表示としての意味はなさなかった王冠だが、それは貴重なものでありかっての王の証しとして副葬されたのではなかろうか。
まとめ
佐魯麻都は、書紀では新羅側についた厄介な人物のように描かれているが、それは百済側の視点による記述にすぎず、彼は、百済と新羅の挟撃の中にあって、加耶の独立の為に動いていたのであろう。この麻都の記事が途絶える欽明紀11年(550)に、さらには、日本府の記述の途絶える13年あたりで、日本に移ることになって群馬の地までやって来たのであろうが、どのような経過があったのか記事からは判断しにくく謎はつきない。加耶の滅亡で同じ頃に、数多くの王族とその配下の者たちが渡来してきたのは間違いない。被葬者の特定できない古墳が多数である現状の中、日本書紀の中で日本府と関係する人物が、群馬の古墳に葬られているとするならば、大変興味深いこととなろう。
以上のように、山王金冠塚古墳と小泉大塚越3号墳の出字型金銅冠をもつ被葬者は、欽明紀の加耶の王族と考えたい。そして前者の古墳の可能性は高いが、いずれかが佐魯麻都の墓だったのではなかろうか。
注1.任那日本府は列島の倭国の出先機関ではなく、その構成メンバーも日本人ではなく、加耶の王族や官人たちであった。(こちら)
注2.高崎市剣崎長瀞西遺跡の金製垂飾付耳飾りは、加耶のものと酷似しており渡来者であると考えられている。もちろん、真っ先に渡来する地となる九州にも多くの加耶の遺構が見られる。これらについては別途扱いたい。
参考文献
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
右島和夫「群馬の古墳物語上巻」上毛新聞社2018
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001
吉村武彦ほか「渡来系移住民―半島・大陸との往来」岩波書店2020
玉村町歴史資料館「小泉大塚越3号墳と小泉長塚1号墳」平成20年度特別展
写真はウィキメディア・コモンズでFile:金冠塚古墳出土 金銅製冠 (模造、J-10296)・金銅製大帯 (J-7886).JPG












