流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年08月

金冠塚古墳出土_金銅製冠_(模造、J-10296)・金銅製大帯_(J-7886).JPG
   金銅製冠(複製)・金銅製大帯 東京国立博物館展示。
 
 群馬県の山王金冠塚(二子山)古墳は、6世紀後半の前方後円墳。大正4年に金銅製冠が金銅製大帯、馬具類、鉄製甲冑、刀装具類などと共に出土した。金銅製冠は、新羅系のいわゆる出字型金冠であり、これを由水常雄氏は「樹木型王冠」とされている。新羅では、金冠、銀冠、金銅冠といった素材の違いで身分の違いを示すなどの独特の制度があったが、新たな位階制の導入で衰退していったようだ。
 このため、容易に手に入れられるものではないことから、右島和夫氏は、「(冠を)どうして入手することができたのか、新羅の支配者の証しであること等を考えると、直接手に入れたことも十分考えられる。」(右島2018)と述べておられる
 私見では、この被葬者は日本書紀欽明紀にある日本府の主要メンバーである佐魯麻都ではないかと考えており、以下にこの点について説明したい。

1.欽明紀の佐魯麻都(サロマツ)
  
 欽明紀の3~11年に、佐魯麻都という日本府の中心人物が登場する。「佐魯」は、書紀では佐魯麻都の表記で3カ所、麻都という表記で12カ所も登場する異例の人物と言えるが、その彼の出自をうかがわせる記事がある。注1.
 欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀3年の末尾にある。
 「百濟國、殺佐魯・那奇他甲背等三百餘人」とあるのは、紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されたというのである。
 欽明紀の佐魯麻都は、この顕宗紀の任那左魯の末裔ではないかと考えられる。任那左魯がこの事件があったと考えられる5世紀末に任那(加耶)の別の国に避難しそこで子供が生まれたとすると、年齢も合うので父子と考えても良いであろう。父親の百済への怨みを子が引き継いで、日本府の中で百済と反目する人物になったと理解できる。
 彼は、日本府のもとで大連の位であったが、新羅側に寝返った人物のように記されている。この佐魯麻都は、「奈麻礼冠(なまれのこうぶり)」をつけていたとあり、この奈麻礼は新羅十七等官位の第十一位とのことだ。新羅では、法興王7年(520)に官位制が定められている。東潮氏はここで、群馬県二子山古墳(現前橋市金冠塚古墳)出土の金銅冠が新羅系の出字形冠であることにふれている。(東潮2022)東氏は、なにも直接の関係を示唆されているわけではないが、この金冠塚古墳が6世紀後半と考えられている点や、出字型金冠が全国でも珍しいもので唯一の関係であること、また藤ノ木古墳と同じような金銅製大帯も副葬されていたことから、この被葬者の候補に佐魯麻都をあげることができるのではないか。
 他に玉村町の小泉大塚越3号墳に同じ冠の可能性のある金銅細片が出土しており、他にも高霊池山洞73号墳のものと似た単鳳凰環頭太刀、馬具や耳環、多数のガラス玉などから、やはり同じ加耶の王族の一員のものではないかと考えられる。共通の金銅冠がある以上、どちらがどうと断定はできないので、こちらが佐魯麻都である可能性も残しておきたい。新羅の侵攻によって6世紀の半ばに列島に逃れた彼ら王族と配下の集団が、この群馬の地までやって来たのではないか。

2.新羅系の冠の出土から渡来の人物と言えるのか?

 これについては、「前例」がある。大阪府高槻市阿武山古墳の被葬者には冠帽が添えられていた。日本書紀の記述には、天智前紀に、百済王豊璋に皇太子が織冠を、天智紀8年に藤原内大臣に大織冠を授けている。豊璋は白村江の戦いで行方不明になったので、残る内大臣なる鎌足が、この阿武山古墳の被葬者とする根拠となっている。もちろん、後の伝承なども検討されてのことだが。ただし、私見ではこの古墳の墳墓の形状や副葬品には渡来系の特徴が顕著であることからも、書記では鎌足とされた百済の豊璋と考えているのだが。
 佐魯麻都の場合も、日本書紀に新羅の冠を保持しているとの記述と、列島では先に挙げた2カ所でしか見られない冠であること、さらには、加耶の滅亡が6世紀半ばであり、古墳の年代が6世紀後半であることも符合するのである。
 よく古墳の豪華な出土品から、その被葬者像を、ヤマト王権からその副葬品は受容されたとか、半島と特別な関係を結んでいた地元の実力者、といった苦しい説明が後を絶たない。(こちら参照)どうして列島に渡って来た人物と考えることを避けるのであろうか。  
 欽明紀が記す任那滅亡、すなわち加耶国への新羅と百済からの侵攻から逃れた加耶の王族と配下の集団が、かなりの規模と頻度で移住してきたと思われる痕跡が、特に群馬方面には、数多くみられるのである。注2

3.なぜ、加耶(任那)の王が新羅の王冠を持つことができたのか。
 
 実は新羅は、加耶を制圧しても現地の王に位を授け統治を任せたという。「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。金官加耶の王族はのちの近庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)このようなことから、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。この問題は、加耶滅亡後も、書紀に登場する「任那の調(みつき)」が、新羅に支配されてからも一定の独立した扱いを受けていたという理解につながるのである。ただ、佐魯麻都の場合は、百済のみならず新羅にも反発があって、列島に渡来したのであろう。
 さて、この新羅の出字型冠は身分を表すものであったが、520年以降の新たな位階制の導入によって、王冠の役割は変化してやがて消滅していったようである。日本では、奈良県藤ノ木古墳の金銅製冠や茨城県三昧塚古墳の金銅製馬形飾付冠などは、身分を示すというよりは、被葬者の為の副葬品に変わっていったものと考えられる。
 佐魯麻都の場合も、渡来してからは身分表示としての意味はなさなかった王冠だが、それは貴重なものでありかっての王の証しとして副葬されたのではなかろうか。

まとめ
 佐魯麻都は、書紀では新羅側についた厄介な人物のように描かれているが、それは百済側の視点による記述にすぎず、彼は、百済と新羅の挟撃の中にあって、加耶の独立の為に動いていたのであろう。この麻都の記事が途絶える欽明紀11年(550)に、さらには、日本府の記述の途絶える13年あたりで、日本に移ることになって群馬の地までやって来たのであろうが、どのような経過があったのか記事からは判断しにくく謎はつきない。加耶の滅亡で同じ頃に、数多くの王族とその配下の者たちが渡来してきたのは間違いない。被葬者の特定できない古墳が多数である現状の中、日本書紀の中で日本府と関係する人物が、群馬の古墳に葬られているとするならば、大変興味深いこととなろう。
 以上のように、山王金冠塚古墳と小泉大塚越3号墳の出字型金銅冠をもつ被葬者は、欽明紀の加耶の王族と考えたい。そして前者の古墳の可能性は高いが、いずれかが佐魯麻都の墓だったのではなかろうか。

注1.任那日本府は列島の倭国の出先機関ではなく、その構成メンバーも日本人ではなく、加耶の王族や官人たちであった。(こちら
注2.高崎市剣崎長瀞西遺跡の金製垂飾付耳飾りは、加耶のものと酷似しており渡来者であると考えられている。もちろん、真っ先に渡来する地となる九州にも多くの加耶の遺構が見られる。これらについては別途扱いたい。

参考文献
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
右島和夫「群馬の古墳物語上巻」上毛新聞社2018
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001
吉村武彦ほか「渡来系移住民―半島・大陸との往来」岩波書店2020
玉村町歴史資料館「小泉大塚越3号墳と小泉長塚1号墳」平成20年度特別展

写真はウィキメディア・コモンズでFile:金冠塚古墳出土 金銅製冠 (模造、J-10296)・金銅製大帯 (J-7886).JPG

加耶馬レプリカ
  写真は、群馬県前橋市大室古墳群の公園内大室はにわ館展示の個人の作品

 任那日本府とは、加耶の王族らによる組織であって、けっして、日本の倭国の出先機関でもなければ、軍事組織でもない。日本府が登場するのは、日本書紀だけであり、しかもその中の欽明紀のわずか10年ほど間に記載されているにすぎない。また、雄略紀には、「日本府行軍元帥」という日本が冠された言葉が一度だけ登場するが、これも、任那王が窓口となる組織であった。(こちら参照)日本府の構成メンバーに日本の地名などと同じ名前の人物も見られるが、だからといって列島の日本人とできないのである。
 日本書紀が描いた日本府の記事は、その内容表現が煩雑なこともあって誤読、誤解による拡大解釈がされてきたと言える。以下に、日本府が登場する欽明紀の記事から説明していきたい。
 
1.記事から見えてくる実体
 この日本府が絡む記事は、百済聖明王とその配下のものによる口語文が延々と続くという冗長で読みづらい箇所となっている。書紀編者もミスを犯したようで、2年の「秋七月」が重出しており、岩波注が「集解」は翌年7月と修正していることにふれている。最初の秋七月が長文であることが要因かもしれない。この聖明王の長すぎる言葉は、同席した書記官が忠実に記録したものとは考えにくく、一定の史実をベースに造作されたものと考えてもよいのではないか。少し長くなるが、記事の特徴など指摘できるところを述べていく。注1

①任那日本府の設立に関するものなどの説明は皆無である。
 ただし、所在を推測できそうな記述がある。それは二度登場する安羅日本府だが、別のものとする理解もあるが、ここは日本府の所在地が安羅国内であるとの表現と見てよいのではないか。
 欽明紀(以下省略)4年12月「河內直・移那斯・麻都等猶住安羅、任那恐難建之」(かわちのあたい、えなし、まつらが、いつまでも安羅にいるならば、任那再建は難しいでしょう)とあるように、日本府のメンバーは安羅に常駐していたことからも判断できる。

②日本府が倭国の領地を示す記事などはなく、逆に倭国とは独立した存在であることを示す記事がある。
 13年5月「高麗と新羅と連合して臣の国と任那とを滅ぼそうと謀っています。」(救援軍の要請を受けて)天皇は詔して、「百済の王・安羅の王・加羅の王・日本府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた、任那と共に心を合わせ・・・」とあることからも、任那諸国と同列の存在であった。

③日本府は半島の勢力の中で主導権をもつ存在としては描かれていない。
 任那諸国と同列の存在として描かれ、そこに上下関係は見いだせない。いわゆる任那復興会議の構成メンバーとして描かれている。また、半島における倭国の代行者でもパイプ役でもなく、その役割は常に百済が行う。
 2年4月、百済に安羅、加羅、多羅、日本府の吉備臣ら集合し、聖明王が天皇の言葉を伝えている。
 2年7月、百済は新羅に行った任那の執事を呼びつける。他に5年3月など、百済リードで進められる。

④一方で、百済の指示に忠実というわけではない。
 4年12月、5年1月には、任那も日本府も百済からの招集に神祀りを口実に応じないことがあった。なかには、百済が加耶地域に進出するための先発隊の組織と言った解釈もあったが、それは成り立たないと言える。

⑤百済は文物の供与で懐柔することもあった。
 2年4月「(聖明王が)物贈る。みな喜んだ」 6年9月「呉から入手の財物を、日本府の臣ともろもろの旱岐にそれぞれに応じて贈った」とある。手ぶらでは百済の思惑で動く相手ではなかったのではないか。

⑥百済は、倭国を上位の国として扱っているようでありながら、都合の悪いことは従わないこともあった。
 4年11月、倭の津守連が百済に詔。「任那の下韓(あるしからくに)にある百済の群令(こおりのつかさ)、城主(きのつかさ)は引き上げて日本府に帰属させる。」
 しかし、百済にとって任那進出の戦略的拠点であることから、百済は倭国の要請には従わず、むしろその正当性をアピールしている。天皇を引き立てているようで現実問題では従順ではない。

⑦5年11月の聖明王の提案する任那復興の戦術の言葉に、軍事支配の意図が見える。
 「新羅と安羅の国境に大きな河があり、要害の地。敵の五城に対して、吾はここに六つの城を作ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、わが兵士を合わせて、新羅人に耕作させない・・・」
 ここでは、百済の主導で倭兵を用心棒なような扱いで利用しようとする姿も見られる。

⑧百済による反新羅の主張が繰り返される。
 2年7月「新羅が任那の日本府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである」と、聖明王は日本府に語り、新羅に取り込まれることを警戒する。ここは、日本府は新羅との接触が見られることへの百済側の危機感の表れと言えるのであって、当の百済も伽耶を虎視眈々と狙っているのである。

⑨任那も日本府も、新羅を直接に訪れて和平交渉も行っている。
 2年4月「前に再三廻、新羅とはかりき」 2年7月「安羅に使いして、新羅に到れる任那の執事~」

⑩遅れて登場する印岐彌(いきみ)については奇妙な一節がある。
 5年11月「日本府印岐彌謂在任那日本臣名也既討新羅、更將伐我」(日本府のいきみがすでに新羅を討ち、さらに百済をも討とうとしている)は、百済聖明王の言葉であるが、日本府の官人の印岐彌は、新羅・百済のいずれも討とうとして、任那を守る立場で行動しているといえる。

⑪天皇は、任那や日本府に積極的に強力な働きかけを行ってはおらず、終始一貫して「任那を建てよ」と繰り返しているだけである。「建任那」は21件登場するも、日本府の記事がある期間は、なんら軍事的行動が見られないのである。

⑫百済は日本府構成員の一部の排除を要求している。
 5年3月「阿賢移那斯・佐魯麻都は悪だくみの輩」と、百済は彼らを非難しているが、以下のように「倭国に帰れ」とはいっていない。
 5年3月「移此二人還其本處」5年11月「移此四人各遣還其本邑」
 つまり、彼らは、新羅に統合された狭義の任那である金官加耶国、さらには百済が侵入した下韓あたりから安羅に移った王族や官人ではなかろうか。さらに、百済からの麻都らの排除要請にも関わらず、倭国が対応することはなかったようである。
 百済本記からの引用で、5年10月、「所奏河內直・移那斯・麻都等事無報勅也。」(百済が奏上した三者の排除については返事がなかった)、とあることから、そもそも倭国に権限などなかったことになろう。

⑬日本府は欽明紀13年(552)までには消滅か
 欽明紀12年には百済は高麗を討って漢城を回復し平壌も討ったとある。しかし翌年には放棄し、新羅は漢城に侵攻する、とある。この前後に新羅は攻勢をかけて、おそらく加耶へのさらなる支配を強めたと考えられるので、その際に日本府も機能を停止したと考えられる。加耶そのものも欽明紀23年(562)に滅亡となる。

2.「日本府」という呼称について
 どうしてもその呼称からは、列島に進出した倭国のなんらかの機関、政庁のようにとらえられそうであるが、その実態は、日本書紀では任那と記される加耶の組織であったのである。
 日本府の主要メンバーの一人である佐魯麻都は加耶の高位の人物であって、おそらくは、新羅や百済の侵攻にあった金管加耶国とその周辺域から逃れて来た王族と考えるが、彼らが安羅に任那諸国の調整役としてのなんらかの連合体、亡命政府といった短期間の組織が造られたのではないかと考える。
 ここで「府」を名乗っているが、その用語には政庁以外の使用例もあったのではなかろうか。顕宗紀の記事には「官府」がみえる。
 顕宗3年是歳、紀生磐宿禰、跨據任那、交通高麗、將西王三韓、整脩官府
 「紀生磐宿禰が任那から高麗へ行き通い、三韓に王たらんとして、官府(みやつかさ)を整え自らカミと名乗った」
 他には神功紀に「封重寶府庫」、仁徳紀に「宮殿朽壞府庫已空」など「府庫」という倉と理解された記述がある。
 また、垂仁記には「阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也」とあって、任那のアラシトが倭からもらった赤絹を自国の群府(くら)に収めたが新羅に奪われたことで、それが両国のいがみ合いの始まりとされる。つまり顕宗紀や垂仁記などの例から、任那国内に役所などではない施設の意味での「府」の表現があったと考えられる。
 そもそも、「日本府」については、書紀編集時の造作と考えられる。その当時に存在して使用されたとは考えにくい用語などが使われている例がいくつもある。たとえば、欽明紀の韓半島記事の中に、聖明王による仏教伝来に関する記事が見られるのだが、書記の岩波注には、8世紀初めに中国で翻訳された『金光明最勝王経』の文が用いられており、明らかに書紀編者の修飾があるとされている。   
 こういったことから、日本ではなく○○府といった別の呼称があったと考えられる。雄略紀の「日本府行軍元帥」も、おそらく同じような事情のものであろう。

3.任那日本府の記事が示すもの
①「君父(きみかぞ)」の国
 最後に、執拗なまで「任那を建てよ」という言葉が繰り返された意味について述べてみたい。同じ欽明紀23年正月に、新羅が任那を滅ぼすとの記事があり、その年の6月に天皇が新羅への怒りの言葉を述べている。そこに「報君父之仇讎、則死有恨臣子之道不成」(君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう)との言葉を発している。「君父の仇」とはどういうことであろうか。これは、滅ぼされた加耶と倭国との実際の関係を表しているのではない。加耶は、倭国の領地といったものではない。
 これが意味するのは、天孫降臨の出発地が、加耶の地域であることを示しているに他ならない。半島の倭人を中心とする勢力の一部が列島に移住して建国をすすめたということではないか。だから、加耶である任那が君父の国であったということになろう。
 だが、本当に任那を建てる(再建)ことを願っていたのは、現地の加耶の人々であったはずである。つまり、日本府の構成メンバーや加耶王の佐魯麻都こそ、任那を建てろ、と最も切実に繰り返し訴えていたのではないだろうか。 

②欽明紀の日本府を含む前半の記事は、なぜそのように書かれたのか?
 日本府に絡む記事は、読みづらく迷宮に入るがごとくの難解なものである。まずは、任那や日本府が、倭の領地、半島支配の出先機関といった観念を一旦除いて読解する必要がある。注2
 そして、書紀の記事は、百済本記からの引用が多くなされているように、百済側の意向が強く反映した記事であること。そこには反新羅が繰り返し描かれ、その新羅に対抗して加耶諸国の支配を目論む百済の正当性が描かれている。百済は、倭国の天皇の「任那を建てよ」との詔を受けて、百済自身も任那への侵攻を目論んでいたことは表面には出さずに、任那の安羅や日本府に繰り返し訴えるなどの努力をしてきたが、なかなか言うことをきいてくれない状況の中、ついには戦闘に敗れ横暴な新羅によって支配されてしまった、という百済の弁明の記事であった。
 書紀の編集には、渡来系の人物が多く関わっていると考えられ、百済系の人たちは、滅亡した母国から大量に移住して、この地で生き抜くために、故国のプライドを捨てて、ヤマトを上位にして、古来より百済は献身的に尽くしてきたというストーリーを作り上げた。一方で、先進的な文化、技術、仏教などを百済が持ち込んだという史実を盛り込んだのではないか。日本書紀には、そのような編集も加えられていると考えたい。
 また、加耶は倭国から独立した存在であり、百済と新羅の挟撃に遭いながらもあくまで独立を維持しようと抵抗していたのである。このような視点で見直すと、聖明王の冗舌な言葉の真意など難解な半島関係記事を理解できるのではないだろうか
 さらには欽明紀のみならず列島関連記事の多い継体紀なども見直せば、新たな理解も得られるのではないかと考える。また、日本の場合も同様だが、半島の地名の同定や人名の問題などまだまだ見直さなければならない課題は多く、さらなる検討は必要であろう。 

注1. 参考にさせていただいた中野高行氏の『古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉』のまとめとされている主なものは次のようである。
①倭が恒常的な軍事基盤を任那に保有していたことを示す記事はない。
②日本府の官人が関与したのは外交のみであり、任那諸国の内政への発言権も持っていない。
③任那諸国の王や貴族代表とする「合議体」が恒常的に存在したことを示す記事はない。
④日本府は朝鮮三国、任那諸国に対しても倭国の公的な代理機関ではなかった。
⑤倭王権が日本府を設置したとか、その構成員を任命したとか、派遣したとかの記事はない。
⑥原史料の「在安羅諸倭臣等」に「府」の字はなく、日本府を官庁とする根拠はなくなる。その実態は任那に居留する在地性の強い倭人集団である。(中野2023)
注2. 古田武彦氏は、任那日本府そのものについては、九州王朝に属するものと言った見解を繰り返されているが、欽明紀の記事を踏まえて日本府そのものを分析し論じられたものは見当たらず(百済本記の資料の性格について、河内直に関して触れられている程度)、さらには、任那と日本府を混同されて表記されている。

参考文献
佐藤信「古代史講義」ちくま新書2023
田中俊明「加耶と倭」(古代史講義所収)ちくま新書2023 
前田晴人氏「朝鮮三国時代の会盟について」(纏向学研究第9号2021)
武田幸男「広開土王碑との対話2007」白帝社 2007  
門田誠一「海からみた日本の古代」吉川弘文館2020
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
河内春人「倭の五王」中公新書2018
河内春人「古代東アジアにおける政治的流動性と人流」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 3 号 2017年
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024
末松保和「任那興亡史」1949

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 垂仁天皇は田道間守(タヂマモリ)を常世(とこよ)の国に遣わし,非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせた。しかし、手に入れて戻った時には天皇は亡くなっていた。田道間守は泣き叫んでその場で命を絶ったという。そしてこの非時香菓は古事記、日本書紀とも今の橘であると記している。しかし小学館の古事記の注釈にも、タチバナは古くは柑橘系の総称だが、これが現在の何にあたるかは未詳とされる。魏志倭人伝に記されている橘も今と同じものかどうかはわからない。現在の橘は酸味が強く食用ではない。これが他の食することができる種類の柑橘系や果物類だとしても、はるか遠方からだと持ち帰るのは無理であろう。では古事記や日本書紀の記述に対応できる非時香菓はどのようなものか、以下に論じたい。
 記紀の該当する箇所の原文は最下段に記す。

【1】記紀にある田道間守の説話
 古事記では彼は常世国に到っている(遂到其國)ことから、実際に存在した地域であったと考えられる。縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)は書紀では八竿八縵と前後入れ替わっているが、同じ意味であろう。天皇と大后に半分にして献じているが、この箇所については後でふれたい。
 タジマモリは天皇の墓の前で泣き叫んで殉死している。書紀も同様の記述がされ、さらに古事記では大后の時に、石祝作(いわきつくり)が墓室づくりの役で、土師部が祭祀用の器物受け持つもので、葬送の儀礼を行う部民を定めたとすることからも、この橘は葬送儀礼に関係していると考えられる。

 古事記の「登岐士玖能迦玖能木實」は日本書紀では「非時香菓」と記されている。その漢字が、意味を示す文字をしめしているかどうかはわからないが、非時は時を定めない、常時あるものの意。これを年中絶え間なく実ができる木と考えることはないであろう。葉が落葉しないものは多くあるが、これは保存可能な木の実ととらえていいであろうか。香菓はその漢字から香りの良いものと思ってしまうが、この場合の訓みの「カク」は古事記の注では輝くさまを表すのだという。小学館の書紀注では黄金色に輝いていることとする。太陽光線で照り返すようなものは考えにくいが、黄金色なら候補はあるであろう。この点についても後述する。
 田道間守は、泣きながら、常世の国がはるか遠くの地で、人がとても容易にたどり着けないところだと語っている。古事記と違って書紀は常世国の特徴をくわしく記述しており、その場所をおおよそ推測できそうである。漢籍の転用も考えられたが、『書紀集解』には関連するような漢籍の例文はあっても直接引用されたものは認められず、何らかの伝承を漢文にしたのではないかと思われる。田道間守は天命を受けて、「遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水」とてつもない遠方で、弱水を渡るとある。その弱水については検索すると多数の用例が見られる。

【3】中国の古典に多数見られる弱水
『晋書』列伝には「跨弱水以建基」とある。ここでは跨ぐとあるので、弱水は河のことであろう。
『旧唐書』列伝第五十四は「娑夷河,即古之弱水也」とあって、娑夷河がかっての弱水であったとしていることからも河川名であろう。そしてその場所を表した記事もある。(注1)
『三国史』魏書の注釈には「弱水在條支西、今弱水在大秦西」
『漢書』西域傳では「安息長老傳聞條支有弱水」 この條支は西アジアあたりの国と考えられるので、弱水は中国からはるか西方の河と考えられる。
『史記』大宛列伝「或云其國西有弱水、流沙,近西王母處,幾於日所入也」中国からは日の入る所とされるはるか西方にあって、しかも、流沙は砂漠地帯のことであり、そこを流れる河が弱水で間違いないであろう。
『漢書』金城郡「西有須抵池,有弱水、昆侖山祠」 さらに
『漢書』西域傳「昆侖之東有弱水」とあることから、昆侖は伝説上の山とされる。書紀では神仙のかくれた国と記しており、神仙思想の表現も取り入れられていることから、書紀の弱水と同じものと考えられる
 すなわち漢籍に見られる弱水は、河の固有名詞であり、日本書紀はその弱水を渡っている。それがはるか西方の地であることから、西王母や神仙思想とも関連付けられたと考えられる。
 なお漢書司馬相如伝下の顔師古注に「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」とある。ここに「毛車」が登場するが、唐の時代までの漢籍にはほかには見当たらない。私はこの「毛車」を、砂漠を渡るのに欠かせないラクダのことではないかと考えた。帰国の際の峻瀾(高き波)は当然海を渡って帰ったことを示している。
 天皇がわざわざ使いを出して求めたということは、近隣にはない珍しいものとなろう。さらに王が所望するものは不老不死につながる場合が多い。またそれは美味なものとも考えられる。以上から探し求めた非時香菓は、はるか西方の砂漠地帯の樹木の育っている地域、すなわちオアシスにあるものではなかろうか。そこに育つ代表的なものがナツメヤシであり、その実をデーツという。
 
【4】最古の栽培植物、そして聖樹であるナツメヤシとその実のデーツ 
 北アフリカからペルシャ湾岸地域で生育する常緑で高木のヤシ科植物である。メソポタミアでは紀元前6000年頃より栽培がされたようだ。今でも砂漠の中のオアシスで青々と茂っている。単茎で通常基部以外では分枝はせず、葉の全体の形は羽に似た形状である。人工授粉で栽培を行っており果実は多数が房状に結実する。この果実はデーツと呼ばれ、ビタミンや糖分を多く含み、黒糖のような甘味がありそのまま食べたり、料理や加工して菓子としても利用されている。干した実は保存がきき、遊牧民やオアシスで暮らす人々にとって欠かせない食料となる。
 健康食品に関心のある人以外には、日本人にあまりなじみのないものだが、実はオタフクのお好み焼きソースなどに早くから使われているようだ。さらに薬効としても期待された。果実から蜜を取って酒もつくる。樹幹は建材になり、葉は籠やむしろ、編み籠、マット状の敷物や屋根を葺く材料にもなる。さらに団扇や箒にもなる。
 栄養価の面で優れている。銅・鉄・亜鉛などの栄養素は貧血予防や抗酸化作用も期待できる。さらに甘みがあっても血糖値の上昇度合も低いようだ。マグネシウムや食物繊維も豊富で、古代においても大変貴重な木の実であった。この特徴から、王が美味で不老不死の食べ物と考えて求めさせたのは無理もないことなのだ。しかも熱帯地域以外では育たないから、近隣に求めることはできなかった。
 デーツは保存がきき、生で食べられることから遊牧民やオアシスの人々の欠かせない食料源であったことから、非時がいつもあることとつながるのである。香実はかくのみで、香りではなく輝く実という意味と解釈されている。デーツは熟せば飴色、まさに輝くような黄金色になるのである。シュロ 植木市場の写真
 よく混同される棕櫚(シュロ)はミャンマーや中国中央部にみられるヤシ科シュロ属のヤシであり、耐寒性がある。これが日本では棕櫚という用語でヤシ科全般を指す用語になってしまっている。聖書に出てくる樹木を本当はナツメヤシところを棕櫚と訳出してしまったことも混同の一因とされるが、あくまでキリストと関係するのはナツメヤシである。パルメット文様の元もこのナツメヤシと考えられている。

【5】八竿八縵の意味
 さて、解釈の定まっていない八竿(ほこ)八縵(かげ)、古事記は逆で縵八縵・矛八矛である。小学館の注釈では、竿は串刺しにしたものの助数詞、縵は葉のついたままのものの助数詞とある。だが岩波の注では縵は干し柿のようにいくつかの橘を縄に取り付けた形状とされる。以上の説明ではわかりにくいがオタフクデーツの様子、これもナツメヤシに実るデーツの状態を見れば理解は可能である。一本の軸から枝分かれして紡錘状にたっぷりの実がついている。その一本に実が連なるような状態は、干し柿をつるしているかのようだ。また軸から離して乾燥したものを袋に詰めた状態も考えられる。みたらし団子のように串に刺した可能性もある。
 どちらが竿か縵かわわからないが、これは商品売買の際の単位といったものではないだろうか。シルクロードの商人たちのデーツ販売形態を表現したものと考えたい。古事記では大妃に四縵・矛四矛を分けたというのも、これで理解しやすくなろう。

【6】はるか古代から聖樹とされたナツメヤシ
 現代でも、ムスリムの慣習として、赤ん坊が最初に口にするものであり、また断食明けの食べ物としてこのデーツが使われる。アヌビス神古代よりナツメヤシは人々の信仰、儀礼と結びついている。
 枯死した葉の落ちたところから新しい葉が出てくるナツメヤシは、不老の象徴であった。エジプトでは葬儀の際にはナツメヤシの葉を携えて行列し、ミイラやそれを納めた棺の上に置いたという(注2)。ギリシャ神話では、太陽神アポロンは、デロス島のナツメヤシの元で生まれ、その木がアポロンにささげられて聖樹となった。古代ローマでは、死者を冥界に送る儀式を司る神アヌビスは、1世紀のローマのイシス神殿の祭壇浮彫に、左手に壺とともにナツメヤシの葉を手にしているところが描かれている。
 また、ティグラネ墳墓璧の厨子の図像には、女神がナツメヤシを両手に持ってかざすものがあり、これは死者を守護していることを意味している。ミイラ守護初期キリスト教会は、キリスト教徒が迫害された際の、死に対する勝利の象徴とした。絵画の中で殉教者の持ち物として、またイエスの洗礼の背後にナツメヤシが描かれている。    
 以上の内容は、聖樹であるナツメヤシを持ち帰った田道間守が垂仁天皇の後を追って殉死することと符合する。ナツメヤシの葉をかざして死者を守護する構図ともなるのではないか。さらには古事記にある、石棺や石室を造る石祝作、埴輪や祭器を作る土師部を定めたという記事も葬送儀礼の点でも重なるのである。

【7】デーツと類似点のあるナツメ
 よく混同されるものにナツメ(クロウメモドキ科、落葉高木)がある。地中海沿岸から中国まで見られ、乾果は生食できる点などナツメヤシとの共通点も多い。中国、朝鮮では古来、冠婚や正月に欠かせないものであった。奈文研ブログに「ナツメのはなし」が掲載されているが、漢方薬としても使われ、神仙とも結びついていたという。九州糸島の平原古墳でも出土している方格規矩四神鏡や三角縁神獣鏡の銘文にこの棗(なつめ)が見られる。「尚方作竟眞大巧 上有仙人不知老 渴飲玉泉飢食棗」(上に仙人ありて老を知らず、渇えば玉泉を飲み、飢えばなつめを食し)
 また、平城京の長屋王邸跡からも棗と書かれた木簡が出ている。中国では一日一粒で百歳まで老いないと考えられたので、長屋王も棗を所望したのであろうか。ナツメヤシのあるオアシスが神仙の地と考えられたことと類似する。
  
まとめ
 日本書紀の記述から非時香菓は、中国のはるか西方の弱水の地を渡った砂漠の中のオアシスに生息するナツメヤシと考えられる。保存が出来て栄養もある木の実のデーツが、王が求めたものとしてふさわしいものであろう。さらに葬送儀礼と殉教に関わる聖樹信仰の点でも、殉死後もナツメヤシを持って天皇の墓を守護する田道間守の説話の構図と重なるのである。
 田道間守が実際に砂漠のオアシスに行ったとは考えにくい。おそらくは西方で語られた説話がシルクロードの民を経て氏族の祖先譚として記紀に取り入れられたと考えられる。書紀も古事記も橘と記しているのは気になる問題であり、古代の地名や人名などの点から検討していきたい。
 なお、田道間守はお菓子の神様として祀られているが、甘みがあってお菓子の材料となるデーツと関係するならば、あながち無関係とはいえないかもしれない。
    

注1.「オクサスの南北」というブログに弱水を娑夷河とするなど、田道間守と関連させて論じられる記事がある。
注2.ここで関係するのが天若日子の葬儀の行列である。河雁をきさり持ちとし、鷺を掃持(ははきもち)とし、・・・  とある。この掃持は箒を持つのである。その箒は葉で作られたものであるが、元はナツメヤシの葉からきていると考えられる。現在でも西アジア方面ではナツメヤシの葉が箒として使われている。ちなみにナツメヤシの葉はホウスという名で呼ばれている。

【古事記垂仁記原文】
天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。

【日本書紀垂仁紀原文】
九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歲。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。
明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流淚也。田道間守、是三宅連之始祖也。

参考文献
前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」金沢大学考古学紀要巻 25ページ 64-73発行年 2000-12-25 ネット掲載
甘粛人民出版社「シルクロードの伝説」濱田英作訳 サイマル出版会 1994
岡田温司監修「聖書と神話の象徴図鑑」ナツメ出版 2011
遠山茂樹「歴史の中の植物」八坂書房 2019 
石山俊・綱田浩志「ナツメヤシ アラブのなりわい生態系2」臨川書店 2013
中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」文教大学 言語と文化 題27号 ネット掲載
北村泰一「タクラマカン砂漠の幻の海」(「タクラマカン砂漠の幻の海」古田史学HP)
韓永大「古代韓国のギリシャ渦文と月支国」明石書店 2014     
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001

ナツメヤシの写真は、Zeynel Cebeci氏のDate tree - Phoenix sp..jpg (クリエイティブ・コモンズ
シュロの写真は、植木市場様のHPより
アヌビスとミイラ守護の図は前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」より。

※本稿の初出は2022年10月6日に豊中研究会にて発表、古田史学会報№173掲載のものを一部改定したものです。ブログ掲載後、修正し改めて投稿しました。

図1

1.火の使用が決定的だった

 人類にとって、火の利用が重要であったことを改めて認識させられる書がある。従来の農耕や初期国家についての定説を覆すような問題提議がなされた『反穀物の人類史』に、初期人類における火の使用が多大な自然環境への影響、食物利用の飛躍的拡大、人類そのものの進化をもたらしたという、たいへん有意義なものであることが特筆されている。
 わかりやすい例として、南アフリカで発掘された洞窟からの調査があげられる。もっとも古い層に火の使用を示す炭素堆積物はなかった。そこには大型ネコ科動物の全身骨があって、他には、ヒト科の一種であるホモ・エレクトスを含む動物の骨片が歯形を残して散らばっていたという。もっと上の時期の新しい層には、炭素堆積物があって、ホモ・エレクトスの全身骨格があって、様々な動物の骨片が散らばり、大型のネコ科動物の骨もあって、かじった痕跡があるという。すなわち、火の使用を境に、洞窟の主、食う側が変わったことを示しているという。
 ただ暖を取るとか、夜行性動物からの安全対策だけではなく、火のパワーの効能は計り知れないという。最古の火の使用は40万年前だということだが、自然の景観を大きく変える役割も果たし、火によって、古い植生が焼き払われ、人間にとって利用しやすい種子やナッツなどが実り、そこにこれも獲物となる小動物も集まったのだ。さらに、初期の人類は火を使って大型の獲物を狩ることもしていたという。弓と矢が登場するずっと前(約2万年前)には火を使って、動物の群れを崖から追い落としたり、象を穴へ突き落したりしていたという。
 また調理をすることも人類の進化に多大な影響を与えている。加熱して消化しやすい食べ物をとることで、腸の長さがチンパンジーの三分の一ほどになったという。さらに動物の肉の殺菌などで、利用できる動物種も拡大し、栄養摂取も改善し、そういったことで脳のサイズは急速に拡大した。このように、火の使用こそがホミニド(ヒト科総称)の未来を変えたといえるのだという。

2.映画『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンの問題
 
 以上のような意義あるものなのだが、人類史における火の使用は、これまで過小評価されてきたようだ。そのわけは、火の活用による影響が数十万年に渡って広がったものであり、これを行ってきたのが「未開人」すなわち「文明以前の」人々であったからだという。実は、このような人類にとっての火の使用の意義が、当たり前すぎて重要視されてこなかったことが、著名な映画にも表れているのではと思ったりしている。
 今も語り継がれるキューブリック監督のSF映画の傑作『2001年宇宙の旅』だが、その中の冒頭の場面には、類人猿の集団どおしの争いで、謎のモノリスからの示唆?で骨を武器に使って相手を打ち負かし、やがて、空高く放り投げられた骨が宇宙船に変わるという名シーンが描かれる。
 だが、先ほどから述べてきたように、火の使用が人類進化にとって決定的なものであるならば、このシーンでは、モノリスは初期人類に、火を使いこなせるように、発火法を伝授?したとするほうがよりリアルではなかったかと思うのだがどうであろう。
 類人猿の集団の前に突然現れた物体モノリスによって、彼らは、火を起こすことができるようになる。板切れに、棒状の木を繰り返しこすりつけ、やがて煙が生じだすと、獣毛などを火口(ほくち)としてそこに近付け、そっとやさしく息を吹きかけて炎が上がるようにする。初期人類が、火を自ら生み出すことができた感動の瞬間だ。だがはたして、これは映画としてはどうであろうか。モノリスの前でしゃがみこんで、ちまちまと板と棒を使って発火作業を行う様子など、はっきり言って絵にはならないかもしれない。もし、発火シーンのアイデアがあったとしても、キューブリック監督は、骨を武器にした戦闘シーンこそ映画にふさわしいと、差し替えたであろう。
 武器という道具を発明することも画期的ではあったと思うが、それ以上に火の使用は、自然界にも多大な影響を与える重大な意義あるものであった。

火起こし体験
 写真は、大津市歴史博物館の火起こし体験 真剣取り組む子供たちだが、このキリモミ式発火法は13名挑戦したが、成功者はいなかったという。慣れないと難しいようです。

3.発火法のはじまりの謎

 モノリスは作り話としても、さて人類は、どのようにして発火法を生み出したのか。それは、摩擦法だけではなく、黄鉄鉱を火打金として使うことも、早くから見出していたのであろうか。アイスマンが、5300年前に黄鉄鉱を使っていたとするなら、それよりももっと早くから利用していた可能性はある。また白鉄鉱も火打金になるようだ。初期人類は、石器の作成過程で、早くから火花が出る石があることに気が付いていたであろう。火打金のほうは、鉄の生産がはじまってからなのでずいぶん後のこととなろうが。
 前回にも述べたが、戸外で過ごす狩猟活動の際に火は欠かせない物であったが、そのために打撃法による発火がけっこう行われていたのではないだろうか。摩擦法のキリモミ式よりは、火打の方が戸外では便利だったのではないか。縄文時代には落とし穴と思われる遺構が無数に発見されているが、縄文人も、獲物を火を使って追い詰めることもしていたかもしれない。落とし穴を用意して、じっと獲物が罠にはまるまで待つだけではなかったはずだ。この縄文時代に黄鉄鉱や白鉄鉱などが火打ちとして使用されたものが見つからないのであろうか。また、古代の火打石の方も、資料が少ないようだ。 
 「各種チャート、頁岩、黒曜石、長石、サヌカイトなど、旧石器・縄文時代に各地で選択された石材が、当時から火打石として使われた可能性は考えられないであろうか」(小林2015)として、発掘担当の方々に、火打石としての利用の認識を求めておられる。今まで見過ごされていたものが、再発見されていくことを期待したい。

 参考文献
ジェームス・C・スコット「反穀物の人類史」立木勝 訳 みすず書房2019
小林克「火打石研究の展望」考古学研究62-3 2015

冒頭の映画シーンは、YouTube 
2001: A Space Odyssey - The Dawn of Man Art Historyより
火起こし体験は、大津市歴史博物館ブログより

鳩
 任那日本府については、一般的に思われているイメージと、唯一の出典でその根拠となる日本書紀の欽明紀の記述とに大きな隔たりがあるように思われる。
 最近では次のような理解になっている。「日本書紀で半島南西部の『任那』を当然のように支配地と見る見方は、今日では韓国の考古学的な多くの発掘調査結果を受けて、『伽耶』独自の歴史的展開のなかでとらえ直されてきている」(佐藤信2023)ということだ。  
 教科書においても、関連する事項に問題は残しつつも注1、かってのような任那日本府の直接的な記述はなくなっている。ここではこの日本府が、加耶の人物たちによるものであることを説明したい。

1.極めて限定的な日本書紀にみえる「日本府」の記事

 日本書紀における日本府の記事は、一カ所を除いてすべて欽明紀の中にしか存在しない。ただ唯一の例外の記事が、雄略紀八年の「日本府行軍元帥」(やまとのみこともちのいくさのきみたち)という記述である。欽明紀の記事とは直接の関係はないが、日本府の性格を理解する点では共通のものがあると考えられる。新羅が高句麗の侵攻に対して救援を要請するのだが、次のようにある。
 伏請救於日本府行軍元帥等。由是、任那王、勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅
 任那王が膳臣(かしわでのおみ)斑鳩らに出動を指示する形になっており、そこに倭国の介在はない。この日本府の責任者は任那、すなわち加耶の王と考えられるのである。ここに欽明紀の記述と同じ状況が見えてくるのである。

 欽明紀に進むが、ここでは34回も日本府が記されるが、それも欽明紀32年間のうち、出現する期間はわずか10年ほどの間にすぎなかった。2年が7回(4月が2回と7月が5回〈そのうち安羅日本府が2回)、4年が2回、5年が21回、6年が1回、9年が2回、13年が1回である。以上のようにきわめて偏在した出現状況であり、一時のなんらかの組織体のように見える。そして、その百済の聖明王の長々と続く台詞などに、日本府が倭国の支配下の組織と読める記事はなく、独立した存在として、新羅とも交渉する様子が描かれているのである。さらに重要なのは、その組織の構成メンバーに、任那、すなわち加耶の王族の姿が見られるのである。

2.日本府の佐魯麻都(さろまつ)は、加耶の王族だった。

 河內直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都・印岐彌(いきみ)などが日本府の一員として登場するが、特に移那斯・麻都のセットで11回、麻都は単独での記事も合わせると15回と頻出している。いったいこの人物は何者なのか。
 5年3月「移那斯・麻都は身分の卑しい出身の者ですが、日本府の政務をほしいままにしている。」
 5年3月「韓国(韓腹)の生まれでありながら、位は大連、日本の執事と交じって、繁栄を楽しむ仲間に入っています。ところが今、新羅の奈麻礼の位の冠をつけ」、とあるように百済は麻都を非難しているが、これには歴史的な因縁があると思われる。
 欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背(なかんだかふはい)」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀の末尾にある。紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されるとある。この河内直が那干陀甲背の末裔ならば、欽明紀の佐魯麻都も任那左魯の末裔と考えられるところから、加耶の王族の重要な人物と考えられる。「卑しい身分」との表現は書紀の筆法であって、麻都は新羅から冠位を授かる人物であった。加耶の人物が新羅の冠位をもつことについては、次のような事例がある。  
 「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。近仇亥はその食邑の旧都(鳳凰台土城)に埋葬されたのであろう。金官加耶の王族はのちの金庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)つまり新羅に投降した加耶の王族の末裔が、後に上層部に入り込んでいるのである。新羅は、支配地の王族を迫害するような扱いをしなかったように、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。
 なかには、「佐魯麻都が韓腹と称されているのは、父が倭人であったために殊更に母方の出自について強調した記述であろう」(河内2017)との見方があるが、父が倭人とする根拠の説明はない。おそらく、日本府の官人だから母は違っても父は倭人だとの思い込みではないか。佐魯麻都は倭(日本)人ではない。なお、現代語訳にも注意が必要。岩波の宇治谷訳では、5年3月「安羅の人は日本を父と仰ぎ」とあるが、原文は「日本」ではなく「日本府」であり、意味が全く違ってくるのである。
 同じような例として、敏達紀の日羅の記事がある。先述した「百済を敵視する日羅の歴史的背景」と同じく、父親と考えられる人物が、任那の王族なのである。だから、どちらも百済に対して反抗心があったのである。
 以上のように佐魯麻都は、父が百済に殺害されるなど百済とは歴史的因縁のある伽耶の人物であって、本人も百済とは対立し新羅とは接近するものの、あくまで加耶の独立を望む加耶の王族たる人物であったと考えられる。
 任那日本府は、その為に作られた組織と考えてよいのではなかろうか。そして、その後の新羅の侵攻によって、欽明紀13年以降には消滅してしまったと考えられる。

 任那日本府については、そこに「日本」の文字があることから、列島の日本国(倭国)の組織とする先入観が生まれて、様々に誤解されるものになったと思われる。「日本」は書紀編纂時つけられたものと思われる。このような時代の異なる用語が使われる事例は、多数存在している。最近の研究でも明らかにされつつあるが、倭国の統治する出先機関といったものではなく、日本府は加耶の組織であって、欽明紀の前半の記事は百済と新羅の間で存続をかけて腐心する加耶勢力が描かれており、書紀の記事は、そこに百済視点での粉飾がされていると考えたい。

注1.教科書では、512年に「任那四県」が百済に「割譲」されたという記述は「承認」という表現にかわったが、「倭が領有あるいは倭がその地を支配していたという認識にかわりない」(東2022)状況である。しかし、これは日本書紀の筆法であって、実際には、百済の韓半島南西部への侵攻を、倭から承認があったかのように描いているだけなのである。

参考文献
佐藤信「古代史講義」ちくま新書2023
田中俊明「加耶と倭」(古代史講義所収)ちくま新書2023 
門田誠一「海からみた日本の古代」吉川弘文館2020
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024

シュメル神話
 大いなる女神(左)に拝謁する若い植物女神(右) 山型の椅子に座るニンフルサグ女神は両肩から植物が芽生え、手に穀物の穂を持つ。(円筒印章印影図 アッカド王朝時代BC2334~2154)

 シュメル神話について書かれた『シュメル神話の世界』には、日本の神話との類似が見られる。既に指摘されているものもあるが、いくつか紹介したい。

1.『エンキ神とニンフルサグ女神』 シュメルの「楽園神話」

 大地・豊饒の女神であるニンフルサグ女神が病めるエンキ神(深淵・知恵の神)の治療を行うのだが、病んだ各々の患部から神が生み出される。その部位と生み出された神の名の一部が、しゃれ、すなわち語呂合わせになっているのである。

頭頂部(ウグ・ディリム)→アブ神
毛髪(パシキ)     →ニシンキラ神
鼻(キリ)       →ニンキリウトゥ女神
口(カ)        →ニンカシ女神
喉(ズィ)       →ナズィ女神
四肢(ア)       →アジムア女神
肋骨(ティ)      →ニンティ女神
脇腹(ザク)      →エンザク神
 
 頭部のウグとアブで韻を踏んでいるのかわかりにくいが、これは日本語表記に変換するために少し似ていないようになるのかしれないが、他はみな合っているといえる。筆者はシュメル人の遊び感覚とされているが、いつの時代にもこういった駄洒落を楽しむことが行われていたということであり、それが神話の制作過程で折り込まれているのも興味深い。
 実は日本の神話でも同じようなケースで、語呂合わせと考えられるものが指摘されているものがある。それが、保食神の穀物、魚類、動物の生成譚となる神話である。月夜見尊(つくよみのみこと)は、天照大神に命じられて保食神のもとを訪れる。保食神はおもてなしにと、食べ物などを用意するのだが、その食べ物を口から出す様子を見て、汚らわしいと月夜見尊はその場で剣で撃ち殺してしまう。それを知った天照は怒って、月夜見尊とは会わないと宣言する。これが太陽と月が離れて住むようになったという原因譚であるが、その後に天照は、使いの者に保食神の様子を見に行かせると、死体各部から穀物などが生えていたというのである。

 「保食神實已死矣、唯有其神之頂化爲牛馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆。」
 (その神の頭に牛馬が生まれ、額の上に粟が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部に麦と大豆・小豆が生じていた。)

 岩波注には、「これらの生る場所と生る物との間には、朝鮮語ではじめて解ける対応がある。以下朝鮮語をローマ字で書くと、頭(mɐrɐ)と馬(mɐr)、顱(chɐ)と粟(cho)、眼(nun)と稗(nui)、腹(pɐi古形はpɐri)と稲(pyö)、女陰(pöti)と小豆(p`ɐt)とである。これは古事記の場合には認められない点で、書紀編者の中に、朝鮮語の分かる人がいて、人体の場所と生る物とを結びつけたものと思われる(金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究)」とある。シュメル神話の場合は神の名前の一部を対応させているのだが、遊び心の語呂合わせという点で共通しているといえる。

2.清張も注目した日本書紀にある朝鮮語の語呂合わせ
 
 松本清張氏は『古代史疑』の「スサノヲ追放」の所で、書紀の朝鮮語の問題でこの箇所を取り上げている。そこで清張氏は、上記の注の説明のところで、次のように指摘されている。「朝鮮語の分かる人がいた、という以て回った言い方よりも、朝鮮人じたいがいた、というべきだろう。『記・紀』の編纂には、漢字のわかる朝鮮渡来人がかなり関与していたのである。」おっしゃるとおりである。
 古墳の渡来系遺物の説明でも、実に持って回った言い方、すなわち、半島と交流のある人物が受容したものといったお決まりの説明が繰り返されていることを、以前から指摘している。ただ、清張氏は、朝鮮人の関与した資料が各豪族の記録の作成に挿入されて、それらが後に、日本人文官が朝鮮語の意味が分からずに、或いは分かっていても、そのまま使ったのであろうとされているが、私見では、書紀や古事記の編者には、渡来人やその末裔が直接かかわっていると考えている。
 なお、ご存知の方も多いであろうが、清張氏にはこの保食神をプロットに、古代史マニアも登場する推理小説『火神被殺』がある。

 一方で、この保食神の語呂合わせについては、岩波注では、古事記には認められない、とされている。だがどうであろうか。古事記の場合は保食神ではなく大氣津比賣(おほげつひめ)が口や尻から食物を取り出すので、これも書紀の月夜見尊と違って、スサノオが汚らわしいと殺してしまう。
 「所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。」
(殺された神の体から生まれ出たものは、頭に蚕が生まれ、二つの目に稲の種が生まれ、二つの耳に粟が生まれ、鼻に小豆が生まれ、陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた)
 ここには、たしかに語呂合わせは見られないようだが、書記の場合と比べて部位も生じるものも少し異なっている。
 なぜこのような組み合わせなのか、なんらかのこだわりがあったのか、朝鮮語以外の言葉の可能性も含めて解明できたらおもしろいのだが。

 ところが古事記には、動物と土地の神の語呂合わせで物語がつくられたとの指摘がある。神武記の熊野山の神は熊に「化」り、景行記の足柄坂の神は鹿に「化」り、同じく景行記の伊服岐能山の神は猪に「化」るのが、熊野のクマ、足柄のシカ、伊服岐能山のイ(ヰ)という音通の語呂合わせによって生まれた動物だという。  
 熊、鹿、猪という格好の野獣を登場させるための、格好の音通の地名と考えざるを得ないとのことだ。(川副1981)

 そうであるならば、記紀の説話には遊び心たっぷりの語呂合わせや、なんらかの仕掛けがある逸話がまだまだありそうである。

参考文献
岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中央公論新社2008
松本清張「古代史疑」文芸春秋1974
川副 武胤 「古事記の研究」至文堂1981
図 「シュメル神話の世界」より

伽耶マップ加工
  上図の韓半島の地図は5世紀後半から6世紀初めの加耶の範囲を示したもの。

 古代の韓半島には、金官加耶、安羅、大加耶といった複数の国々をまとめて加耶と呼ばれる国がありました。百済と新羅の挟撃に遭い、6世紀半ばには新羅によって滅亡してしまいます。
 日本書紀では、任那と表記されることが多かったために、その実像がわかりにくくなっていますが、この加耶諸国は、古代の日本との関係は深く、加耶の人物と思われる記事がいくつも登場します。ここでは、その一例として、百済に渡った倭国の官人とされる日羅について紹介します。

1.百済への攻撃を提言する日羅(にちら)
 敏達紀12年に、天皇は、先代の欽明の時代に滅んだ任那の再建をめざす韓半島政策の検討のために、百済から逹率という百済官位の第二位という高位の官人であった日羅を招き寄せる。彼は求めに応じて倭国の為に提言を行うのだが、その内容に不可思議なところがある。そこには、彼が長きにわたって百済に仕えていたとは思えないような、百済対策を口にするのである。
 「百済人は謀略をもって、『船三百隻の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。百済がそこで国を造ろうと思うのなら、きっとまず女・子供を船にのせてくるでしょう。これに対して、壱岐・対馬に多くの伏兵をおき、やってくるのを待って殺すべきです。逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」(宇治谷1988)といった。
 百済が先に送り込む女、子供を待ち伏せして殺せというのは、感情的なまでに百済憎しと取れるような驚くべき提言である。倭国側は、日羅が反体制派のような人物であると承知の上で招いたのか。それとも予想外の強固な姿勢に躊躇したのであろうか。自分の発言によって身に危険が迫るとは思わなかったのかどうかは不明だが、この百済攻撃の主張が漏れ聞こえたのか、日羅はやがて百済の随伴者によって殺害されてしまう。
 この百済官人とは思えない自滅的な日羅の言動は、一見不可解であるが、これも見方を変えてみると説明がつくと思われる。

2.書紀に登場する二人のアリシト
 日羅は宣化天皇の世に、大伴金村大連によって半島に遣わされた火葦北國造刑部靫部(おさかべのゆけい)阿利斯登の子だという。これ以上の情報はなく、彼がどのような目的で派遣されたのか、そこで百済を恨むような仕打ちがあったのかもわからず、百済側も日羅を手放したくないような様子であったので、とくに問題があったとは考えにくい。では、日羅の百済憎しの動機となるものはなんであったのか。
 ここで一つの仮説を提示したい。日羅の父親である阿利斯登は、先の継体紀23年と24年に登場の阿利斯等と同一人物ではないかと考えられる。漢字一文字が異なるだけで別人とは言い切れない。日羅は、大伴金村を「我君」と呼んでいる。そして、継体紀の任那王である己能末多干岐(このまたかんき)が、大伴金村に救援を求めているが、その人物は阿利斯等だと注記しており、大伴金村との接点からもここに同一人物と想定できるのである。 
 継体23年(529)の阿利斯等が仮に30歳として、この歳に日羅が生まれたとすると、敏達12年(583)に日羅は50歳となり、無理なく妥当な年齢となるのではないか。
 継体紀の阿利斯等は、任那王と記されているが、これは加耶諸国のいずれかの王であり、新羅に恨みをもってはいるが、百済に対しても憎悪を産むことになる事件が継体紀24年に記されている。
 「百濟、則捉奴須久利、杻械枷鏁而共新羅圍城、責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。」
 毛野臣の所業に怒った百済は、阿利斯等が送った使人の奴須久利を捕虜にして、手かせ足かせ首くさりをつけて、新羅軍と共に城を囲み、阿利斯等を責めののしって、「毛野臣を出せ」と言ったのだ。
 逃れた毛野臣は対馬で絶命するのだが、阿利斯等のその後の記述はない。どのような経緯があったのかは不明だが、加耶をめぐる新羅と百済の争乱の中、列島に移住してきたのであろう。子の日羅には、父親から百済の残忍な仕打ちを繰り返し聞かされていたのではなかろうか。
 日羅の提言の背景には、父親の百済との歴史的因縁があったからとできるのではないだろうか。一般には日羅は百済に仕えた日本人といった説明がされているが、彼の出自は加耶であるからこそ、百済憎しの提言が理解できるのである。
 余談だが、二人のアリシトは同一人物と想定したが、書紀の崇神紀に記された「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」についても、関連はあると思われるが、またの機会としたい。

 日本書紀の記述は、「任那」が乱用されているが、その実態は加耶であり、百済と新羅の狭間の中で独立を維持しようとしつつも、6世紀半ばに滅亡を余儀なくされた王国だったのである。
 加耶諸国の存在という視点が、日本書紀にある半島と関係する難解な説話の理解の鍵となると考えたい。

 参考文献
宇治谷孟「全現代語訳日本書紀」講談社1988
図は、「加耶―古代東アジアを生きた、ある王国の歴史― 2022年度国際企画展示」(国立歴史民俗博物館)2022より。

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1.火打石どうしを打っても発火させるのは困難
 まずは、用語の説明をさせていただく。一般的には、火打石を叩いて発火させるものだとされるのだが、これでは少し不正確なのである。火花が出るのは、火打金とされる鉄に焼き入れをして炭素を含ませた鋼が硬質の石との打撃で削られた鉄紛が火花を発生させるのである。火打石の方から火花が出るわけではない。
 その火打石も、メノウや、石英(チャート・フリントなど)といった硬度が高いものが適しており、前回述べたように黒曜石でも火花を出すことはできる。
 さらに、火花を発生させるだけでは火は起こせない。火口(ほくち)という、繊維やシイタケなどを干してほぐしたものに火花で発火させるものが必要となる。そして、これらのセットのことや打撃式発火法を、便宜上、火打、ということにする。この火打は建築用語にもあるのだが、それは発火とは無関係だ。
 この火打を、火打石どうしを打ち合わせることで火花が発生すると思っている人が意外に多くいる。かくいう私も、小学生の時からそのようなイメージを持っていた。はるか昔のことだが、クラスに理科の得意な男子がいて、ある時、火打を持ってきて、教室内で実演して見せてくれることがあった。その時に飛び散った火花を見て驚いたことは記憶にあるのだが、彼が両手にそれぞれ持っていたものが、石と思われるものを打ちあったようにしか理解しておらず、間近でその石を見せてもらったはずが、まったく覚えていないのだ。この不鮮明な記憶もあって、石と石をぶつけて火花を出すものと思い込んでいたのである。
 このような誤解が、絵本の中にも表されている事例がある。民話の「かちかち山」の絵本には、両手に石を持った兎さんが描かれていることがある。冒頭の図にあるように、戦前の絵本には、吉井の火打金と思われるものをリアルに描いているものや、戦後にもきちんと火打金と火打石を区別して描かれたものは多くあるのである。
 さて、火打は石どうしではないと説明してきたが、実は、石どうしでも火花を出すことができる場合があるのである。その石とは、黄鉄鉱である。

2.アイスマンは黄鉄鉱で火を起こしていた。
 今から5300年前ほど前の、イタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷に横たわっていたアイスマンの所持品(埋葬による副葬品との説もある)には注目すべきものが数多く見つかっているが、その中に着火道具があって、腰に付けていたと考えられる袋から、硬質のフリントにキノコを乾燥させた火口もあった。そして少し離れた場所から、黄鉄鉱が見つかっている。このアイスマンが腰に付けていたであろう袋については後述したい。米村でんじろう氏のYouTubeでも、黄鉄鉱を使った発火の様子がアップされている。火花は、打撃と摩擦による鉄紛の溶ける際の反応であるから、黄鉄鉱でも可能なのである。さらにでんじろう氏は、石どうしの打撃でも発火させることは難しいが、火花は発生させることができるという実験も行っておられる。
 それにしても、はるか古代の人たちは、どうやって黄鉄鉱による着火を発見したのであろうか。石器人は、石を叩き割って斧や鏃などを作製する。様々な種類の石を試して、用途にかなう石材を見つけていったのであろうが、その際に、火花が出る石があることに気が付いて瞬く間に広がっていったのであろう。その前には、摩擦式発火法があったと考えられるが、人類はかなり早くから黄鉄鉱による着火法を駆使していたかもしれない。戸外を動き回っていた狩猟採集民にとっては、雨のこともあるから、摩擦法よりは打撃法による着火は便利であったと考えられる。アイスマンの時代よりもっと早くからこの黄鉄鉱が利用されていたかどうかはよくわからない。  
 また火打金の方も、ベルギーで出土した紀元前400年頃のものが世界最古となっているが、それまではなかったとは言い切れない。見つかったのは、あくまで、加工して整えられたものであり、古代の製品化された火打金の原型となるものであって、異なる形での鉄片を火打金として使っていた可能性は否定できない。鍛冶職人たちは、早くから鉄を打てば火花が出ることはわかっていたはずだから、ベルギーの例よりも古くから火打金があった可能性の否定はできない。ただし、鋼となる焼き入れ工程がいつから始まったのかという問題はあるのだが。鉄の発見はヒッタイトによるものが起源とされているが、さらに時代を千年も遡る見解も出されてきており、そうなると、アイスマンの時代から少し後に、火打金による発火を行う人々も混在するようになったかもしれない。

3.シュメル神話に登場する火打石
 世界最古の神話であるシュメル神話には、いくつも興味深いものがあり、火打石も登場している。
 「ルガルバンダ叙事詩」には、エンメルカル王の王子であるルガルバンダの物語が描かれている。まつろわぬ都市アラッタの征討に出かけたが、途中で病に襲われて、山の洞窟に置き去りにされる。やがて回復したルガルバンダは、腹ごなしにパンを焼く場面が描かれている。
 「野営地で兄たちや従者がパンを焼いていたことを思い出したルガルバンダは、洞窟に置いてあった袋から火打石や炭を取り出して、何度も失敗しながらようやく生まれて初めてたったひとりで火を起こし、麦紛を水でこねて丸めて、パンを焼いてみた。」(岡田・小林2008)
 アイスマンと同じように袋に着火道具が入っていたのである。炭もあったというのが面白い。これならパンでも肉でも料理ができる。だが、ここには火打石とあるだけだから、それが、火打金なのか、それとも黄鉄鉱であったのかはわからない。この神話に登場するウルク第一王朝第二代王エンメルカル王の時代はおよそ4800年前となる。アイスマンから500年ほど後の物語となるので、黄鉄鉱と考えたほうがよさそうである。
 だが、火打石がもう一つ登場する「ルガル神話」に困惑させる記事がある。これは戦いの神であるとともに農業神であるニンウルタ神が、山に住む悪霊であるアサグを退治のために配下の「石の戦士ども」を打ち負かす物語だが、そこに、次のような記載がある。
「一方で、火打石はニンウルタに敵対したことから次のように罰せられる。
 私はお前を袋のように裂くだろうし、人々はお前を小さく割るであろう。金属細工師がお前を扱い、お前の上で鏨(たがね)を使うだろう。」
 ここでは、火打石はその名の通りに角を付けるように割られている。また、鏨が現代と同じ炭素鋼であるならば、火打金となる鏨を打つ火打石となる。火打金がシュメルで使われていたと考えられるのではないか。
 神話世界のことであり、史実とは見なしがたいという判断が大方のところであろうが、わずかな可能性を留保しておきたい。

参考文献
J. H. ディクソン「氷河から甦ったアイスマンの真実」日経サイエンス2003.08
藤木聡「発掘された火起こしの歴史と文化」宮崎県立図書館 ネット掲載
岡田明子・小林登志子「シュメル神話」中公新書2008
図は『カチカチ山』 富士屋の家庭子供絵本 昭和2年刊 オークファン様のブログより

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