流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年07月

神功皇后の喪船と空船による策略の謎

エジプト曳航船
    セティ1世王墓壁画 王の喪船を曳く従者

 古事記仲哀天皇記の押熊王の反乱という説話では、神功皇后が危険を予知し、御子が亡くなったとの偽情報を流し、喪船を用意して出航して敵に臨むという一節がある。敵を欺くための皇后による策略であるが、実はこの箇所が古来より見解の分かれる所となっており、そこで、ここに一つの解釈を提示したい。

1.理解しにくい「赴喪船將攻空船」(喪船におもむきカラ船を攻める)の一節(※空はウツホ、などの訓みあり)

於是、息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之「御子既崩。」如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而、思將待取、進出於斗賀野、爲宇氣比獦也。爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、堀其歷木、卽咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船將攻空船。爾自其喪船下軍相戰。

 「息長帯日売命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)が、反逆の心を抱いているのではないかと、人々の心が疑わしかったので、棺を載せる船を一艘用意して、御子(後の応神天皇)をその喪船にお乗せして、まず「御子はすでにお亡くなりになった」と、そっと言いもらさせなさった。こうして大和へ上ってこられる時、忍熊王は、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、そのとき喪船に向かってその空船を攻めようとした。そこで皇后は、その喪船から軍勢を降ろして相戦った。」   
 「喪船に向かってその空船を攻めた」という箇所は、喪船と空船は同一のものか、それとも別の船なのか議論の分かれる所であった。しかし、喪船にむかってその無人の船を攻めた、と解釈するのは奇妙であろう。その喪船には御子を乗せて、さらに皇后の軍勢も乗せていたはずである。しかし敵はその喪船を攻めるのだが、実は空船だったとするのは奇妙である。襲撃前に途中で降りたので襲撃しようと近づくと無人の船であった、とでもしないと話が通じないのではないか。
 この空船については以下のような注釈がある。「からの船、人の乗っていない船、と解釈されてきたが、ウツホフネと読んで、母子神がうつぼ船に乗って、海浜に出現する、という古代信仰に由来すると見たい」(次田真幸1980)とある。だがここは戦闘の場面であり、事前に皇后は策略として、皇子は亡くなったとの偽情報を流して喪船を用意するという周到に準備された話であって、それを空船が信仰と関係するという考えでは説明にならないであろう。
 国文学者尾崎知光氏は、喪船と空船は別の船として捉え、喪船は攻めないとする想定にはまって、別の空船を攻撃したところ、不意打ちをくらわされる、という流れが自然だとする(2016)。そのように説明されながら尾崎氏は、「赴」を告げるという意味で解釈されている。

2.船が二隻であったとすることの意味。
 日本書紀持統紀七年二月に「來赴王喪」(まうきて王の喪をつげまうす)といった用例から、この「赴」を告げるという意味にとらえ、神功側が喪船と告げたので空船を攻めたのだという。これから戦闘になるという段階で、近づく敵にどうやってこの船が喪船であると相手に知らせたのであろうか。船に棺が積まれて、葬送儀礼としての飾りが施された船ならば、遠くからでも喪船であると認識できるはずではなかろうか。よってこの解釈は無理があろう。
 一方で島谷知子氏は、尾崎氏の説にふれながら、喪船と空船を同一とみない立場は、訓みの面で問題を残すとされている(2014)。   
 「喪船に赴き攻めむとするも空船なりきと訓む」のが穏当な解釈とされるのだ。だがこれだと、皇后側の兵士がどこから現れたのかという説明がつかないのである。喪船と空船は同じ一隻なのか、それとも別々の二隻であったのか堂々めぐりとなってしまうが、ここは以下のように考えたい。
 この箇所は、いささか言葉足らずであったので、決着のつかない表現になったのではないか。私見では、喪船と空船をセットで考えれば問題は解決すると考える。つまり、空船とは、喪船を曳航する動力船で、喪船はいわばバージ船となる。敵は、喪船には棺に入った遺体しかないと思い込んでいたからこれは無視して、喪船を曳航する空船を攻めたのではないだろうか。
 このようにとらえれば、喪船に近づいて空船を攻めるという表現で問題はなくなる。もちろんこの場合、曳航する空船は全くの無人ではなく、最小限の漕ぎ手は搭乗して船を走らせているのである。古代においても別の船が曳航するという事例がいくつか見られる。

3.喪船が陸地だけではなく、水上でも曳かれていた可能性
 仁徳記には、皇后が酒宴の準備で、御綱(みつな)柏(かしわ)を採って御船に積んで戻る時に、天皇が八田若郎女(やたのわきいらつめ)を娶ったと聞いて怒り、御船の御綱柏を全て捨てて山代国に戻る一節がある。

卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。
すなわち宮に入りまさずて、その御船を引き避(よ)きて堀江に泝(さかのぼ)ぼり、河のまにまに山代に上り幸(いでま)しき。

 注釈では、「引き避けて」は、船を綱で曳いて皇居を避けての意、とされている。つまり皇后の乗る御船は、曳航されていたのである。
 隋書倭国伝には、「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす。」とあるように、喪船を引く習俗があったことが記されている。
喪船移動復元
 奈良県巣山古墳では、喪船と考えられる板材が見つかっており、被葬者の棺を載せた喪船を修羅で古墳まで曳いたと考えられていた。ただ残念ながら現在は準構造船などとの解釈がされているのだが。さらにこの喪船が、どうやら河や海で別の船に曳かれていた事例も見つかっている。ピラミッドの脇から見つかった二隻の太陽の船である。
 「船の舳先が二隻目のものも西側向きだった、帆柱と帆布見つかった、帆柱を受ける留め金(ブロンズ製)も見つかった。そしてオールを漕ぐのに使う金属の留め金が見つかっている。・・・このことで何が解るのかと言うと、東側の第一の船と今回発見された西側の第二の船はつながれて航行するということだ、しかも二隻が縄でつながれていたため、前方の船が引っ張る役目、すなわち動力船で、後ろが神や王が乗る客船ということになる。これは王家の谷などで太陽の船が描かれる時こういう形がとられているのだが、今までほとんどの人が気づかなかった・・。」(吉村作治2018)と説明されている。
 つまり、太陽の船は喪船であってもう一隻の船で曳航されるのである。曳航される船は、現代ではバージ船と呼ばれて通常の船では運搬しにくいものを運ぶ特殊な形状の船のことである。阿蘇ピンク石の石棺を運ぶ実験でも、石棺の運搬方法を検討して、棺を別の筏のようなものに載せて、「海王」が牽引するという方式が採用されたのである。まさに喪船を曳くイメージとなる。

4.残る問題、兵士はどこに潜んでいたのか?
 以上のように、問題の箇所は喪船とそれを曳航する空船というセットで捉えることで理解は進むのだが、まだ疑問は残る。それは何故、押熊王側は喪船ではなく、牽引する船を攻めたのかということである。牽引する船は、漕ぎ手は数人いたとしても、空船とされたようにそこに皇后や主力の兵士の姿は見えなかったはずなのだが、彼らがこの船にいると考えたから襲撃したのである。
 ところがそこに相手はいなかった。一方で喪船には兵士が多数潜んでいたのであるが、押熊王側は気が付かなかった。棺を積んだ船であるが、その棺を囲むような部屋を作って、そこに待機したとするなら、かなり大きな構造物を上に載せないと無理であり、それでは敵に怪しまれてしまう。では大勢の兵士は喪船のどこに潜んでいたのであろうか。
沈没船
 地中海では紀元前1300年前のウルブルン沈没船が発見されて復元図がつくられた。そこには、船底に船倉があって、大量の交易品が積まれていたのである。このタイプの構造船であれば、お宝の代わりに大勢の兵士を潜ませる事ができる。そう考えれば空船を攻めたのも、外見上は漕ぎ手しか見えないが、中に皇后や兵士が潜んでいると判断して、喪船には目もくれず攻め込もうとしたのではないか。そして、喪船の方は、棺が積まれているだけであったが、実は甲板の下の船倉に大勢の兵士が待機していて、期を見計らって出陣したのであろう。
 このように考えると、皇后の策略が分かり易くなるのではないか。だが当時の日本に、兵士を潜ませるような構造船があったかどうかは不明であり、実際に喪船で敵をごまかすことなど困難であろう。これは、作者があくまでそのように考えたとするだけのつくられた話であって、史実といったものではないのである。

5.トロイの木馬のプロットが使われた古事記の説話
 難解な「赴喪船將攻空船」(喪船に赴き空船を攻める)も、同一の船ではなく、牽引船と喪船のセットであって、しかも両船とも大勢の兵士を潜ませる船倉を持った構造船であったと解釈できるが、言葉足らずで、解釈の落ち着かない説話になってしまったということではないだろうか。
 神功皇后の策略は、トロイの木馬に似ているといわれている。兵士がこもった喪船が木馬に相当するのであろう。喪船には誰も乗っていないと考えてしまったために、まんまと敵地に入り込めたのである。実は、トロイの木馬は、誤訳であって、実際は馬の飾りを着けた船であったという説がある。先端が馬頭であしらわれた大型船に兵士を潜ませて台車に載せて敵の城へ置いたとするなら、まさにこの古事記の一節とより近い話となるのではないだろうか。トロイの木馬のプロットを応用してこの物語はつくられたと考えられ、さらに、この箇所の作者は兵士が隠れる空間を持つ大型船を理解している人物であったのではないか。このように記紀の説話には、日本古来の伝承が採録されたという以外に、中国のみならず西方の文化の情報をよく知ったものが、その作成に関わったと考えられるケースが存在していると考えられるのではないか。
   ※「トロイの木馬と神功皇后の戦略」もご覧ください。

 参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
島谷知子『息長帯比売命と品陀和気命の伝承』学苑879号昭和女子大学2014
尾崎知光「古事記讀考と資料」新典社2016
吉村作治「太陽の船復活」窓社2018
ブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」

喪船の図はYouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」より
エジプト絵画は河江肖剰氏のエジプト考古学YouTube「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7」より
ウルブルン沈没船の図はブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」より

伊勢遺跡の柱穴が示す三内丸山6本柱の虚偽説明

 
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新しく立てたトーテムポールに集うカナダのハイダグワイの村人たち(上村幸平氏撮影) 
 
 三内丸山遺跡の巨大な柱穴と木柱痕から、高層の六本柱の建造物を想定することには無理があり、復元されてシンボルタワーのような存在になっている構造物が虚偽であることを明らかにしているが、今回は新たに、古代人の巨大木柱の柱立てという視点で、六本柱の高層建築物が成り立たないことを説明する。六本柱の問題についてはこちらをご覧ください。
 
【1】滋賀県伊勢遺跡の巨大建物の柱穴跡
 発見当初は卑弥呼の時代と関係する遺跡として注目されたが、その後の研究で、100年あまり遡るものであったことが明らかになっている伊勢遺跡ではあるが、その謎の多い建築物の様子から、祭祀に関係する弥生時代後期の重要な意義を持ったものであることは間違いない。さらに、現地では大型建物の柱穴が保存されて、強化ガラスの床面を通して、観察することができる。
 
伊勢柱穴
 
柱穴パンフ
 その柱穴の掘り込みから、古代人がどのように巨大な木柱を立てたのかというやり方を知ることになったのである。図のようなイラスト付きの説明がされているが、柱穴といえば、丸い穴がぽっかりと開いたものと思ってしまうが、実はそれだけではない。細い柱ならともかく、太くて長い木柱を立てるには、それなりの工夫が必要であることがこの柱穴で判明したのである。
 この柱穴は丸ではなく縦長であり、底面に向かって傾斜するように掘り込まれている。最初は不思議がられていたが、やがて大型建物の柱を立てるための工夫として、柱を予定した箇所に導くための掘り込みであったことがわかったのである。柱を持ち上げようとする場合、底面になる突端部は柱の重量が直接かかるので、柱穴の側面にあてて固定するようにしないと、ずれてしまって予定の柱穴の中心に立てられないのだ。
 これを知った時にふと疑問がわいたのである。では三内丸山の場合、その存在を肯定している人たちは、あの太柱をどのように立てたと考えておられるのであろうかと。

【2】三内丸山遺跡の柱立ての方法の信じがたい説明
三内丸山ピット
6本跡
 六本柱をどのように柱立てしたのか、という方法も明確ではないとする疑問の声は早くからあった。これに対し、大林組プロジェクトチームは次のように説明している。
 「長さ16.5m、径1~0.7mの木柱の体積は9.36㎥であり、比重0.7で試算するとその重量は1本が6.55トン」になる巨大木柱である。これを立てるには、「建設予定地点に深さ2m、径1.5mほどの穴を掘り込んでおき、ここへ基部を落とし込むのである。・・・・
 主綱を引く力を一人あたり30キロとすると、これに130人ほどが必要となるだろう。さらにトラ綱(控え綱)を引っ張る人員や下から柱を持ち上げる人員など20~30人が必要となるだろう。もちろんこれだけの員数が一斉に一時に行動するわけだから、これ以外に指揮・指導する者もいたはずである。」
  そうすると、およそ200名ぐらい必要となろうか。果たしてこれは妥当なのであろうか。
「径1.5mほどの穴」としたのは、発掘調査で確認された柱穴が1.5mだからで、このサイズを変更はできない。
 そして、「下から柱を持ち上げる人員」とあるが、どうやって巨木の根元を持ち上げるというのだろうか。
 伊勢遺跡のような掘り込みをせずに、円筒形になっている柱穴に柱を立てるには、困難な問題が起こる。頭部を持ち上げられたとしても、底面となる根元の太い柱を、どのように柱穴に導いて、角度を調整しながら、底部の中心に着地させられるというのか、しかも相手は6トン余りの巨木の根元だ。これが大変困難なことは想像つくことではないか。大林組様、ぜひ、クレーンや重機を使わずに社員さん200人の人力で同じ柱を立てていただきたいものである。
 次に、岡田康博氏の解説だ。「工法も検討された。建て方は現在行われている御柱のような建て方が推測でき、柱穴に一端を落とし込み、✕状に組んだ木を移動させることによって、少しずつ立ちあげる方法である。トーテムポールも同様の方法で建てられている。さらに盛り土や木組みなどの足場を組むことを想定した。」(岡田康博2021)とされる。ここで重要なのは、御柱もトーテムポールも同様の方法とされているところだ。岡田氏は、御柱やトーテムポールの立て方を直接見ておられたのだろうか。ではこの両者の柱立てを見てみよう。

【3】御柱もトーテムポールも、同じ工法で立てていた。
 柱立ての様子を撮影したものは多々あるが、柱穴の形状がわかるものは、解説書などには見当たらなかったが、諏訪郡富士見町高森神社の御柱祭のブログで見ることが出来た。
御柱前
御柱横
八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々のブログ「御柱祭 2 (高森神社)」より 
柱穴は、まるで古代の埋葬の墓穴のように縦長に掘り込まれて、寝かせた柱がはまるようになっており、しかも斜めに掘られている。これは伊勢遺跡の柱穴と同じなのだ。さらに注目すべきことがある。ちょうど柱穴の側面にそわすように長い板材を立てて差し込んでいるのが分かる。これで、柱の底部を板面に当てることで柱穴の側面の土層に食いこむことを防ぎ、さらに円滑に柱を落とし込むためのものであろう。
 次に、トーテムポールだが、これも撮影されたものがあった。写真は、上村幸平氏のブログでカナダ太平洋岸の孤島、ハイダグワイでの、ポール・レイジング——新たなトーテム・ポールを建てる日の光景だ。
 「チーフ(族長)たちはレガリア(ハイダ族の民族衣装)に身をつつみ、子供たちは久々の晴天のもとではしゃぎ回っている。見晴らしのいい丘の上にはエルダーたちの席が設けられ、長老らがみなを見守っている。」御柱と同じような祭りの雰囲気で立てられているようだ。
トーテム2
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 ここでもトーテムポールは縦に掘られた穴に斜めに入り込んでいる。さらに、その柱穴となる側面にポールの底部が当たる所に板が差し込まれている。まったく御柱と同じやり方でトーテムポールは立てられているのだ。
 六本柱の柱穴はすべて円柱状に掘られている。縦に伸びるような土坑状の跡は見られないのである。岡田氏は、御柱やトーテムポールと同じと断言されたのだが、柱穴の形状などはご存知ではなかったようだ。
 それにしても、御柱もトーテムポールも柱穴に長い板をたてて、柱の先端が当たるようにして、柱穴底面まで円滑に収まるように工夫しているのは注目できる。また、カナダの民族衣装のデザインなどはどことなくアイヌの文様と似ているのも興味深い。日本とカナダの基層文化に共通するものが見えてくるのである。注1.
 余談だが、柱立ての際に板を柱穴に立てるのは、伊勢遺跡でも行われていたと考えられる。よってその説明に細長い板を柱穴側面にあてることを、説明に加えていただくことを検討していただきたい。

【4】伊勢遺跡の工法の事例は、他にもあるのではないか?
 伊勢遺跡の柱立てから、三内丸山の六本柱の巨大建物が虚構であることを重ねて明らかにしたが、一方で、この古代の工法が、他にもあるのではないかと思われた。そのひとつが、三本の木柱を束ねて宇豆柱としたあの出雲大社である。有名な三本の柱が検出された写真はよく見かけるが、実際に柱穴はどうなっていたのか、さらに御柱と違って三本束ねた柱をどのように立てたのかという疑問が湧いてくる。
うずばしら「
 以下のような図面があった。そこには、柱穴の底面が傾斜していることが見て取れるのである。
出雲上から

出雲断面
 奈良文化財研究所の報告書によると、柱の立て方は、A―A´の断面図を見ると、「柱穴が南から北に緩やかに下るスロープを持つことから、南方から搬入して、柱立てを行った」 
 重要な指摘だが、何故スロープ状なのかについての言及はない。伊勢遺跡と同じような方法の柱立てであったと考えられる。また、この三本組の柱は、別々に立てて、後から束にした様子が確認できるのだそうで、三本を束ねてから立てたのではないようだ。さすがに、あらかじめ三本に組んだ巨大な柱を立てるのは困難であろう。 
 なお、大林組プロジェクトは、この大出雲大社の復元においても、柱穴そのものは何の考慮もせずに、架空の巨大神殿建築の工事の説明をしている。  
 これは余談だが、斧の一種である鉄製の釿(ちょうな)が2点、柄を抜いた状態で埋置されていた。バチ状のものだが、先ほどのトーテムポールでも同じような形状のものが、手に持たれているものが投げ込まれる。上村幸平氏の記事には、「トーテム・ポールを建てるのに先立ち、会場にいる人びとに小さなコパー・シールド(銅の盾)が手渡される。ポールの根本に投げ込めという。コパー・シールドはハイダ族にとって重要なモチーフの一つで、建築やアート、アクセサリーなどによく取り入れられている。」これも、出雲との共通の習俗を感じさせるものでとても興味深い。注2.
 他にも、検討が必要な遺構があるかもしれない。いずれにしても、6本柱の柱穴跡はきれいな円形になっており、縦の掘り込みは見当たらないところからも、縄文人がその高層の巨木を立てるなどはしていないことは明らかであり、やはり巨大建築物なるものは虚構の復元であったことを示している。できるだけ早く撤収していただくことを望む次第である。

注1.トーテムポールの始まりは、おそらく家の中の装飾された柱に起源をもつものとされるが、現在に見られるようなものは、18世紀以前のものは今のところ確認できないようである。トーテムポール以外の柱立ても同様の方法で行っていた可能性はある。
注2.細井忠俊氏による、次のような記述もある。ガラスのビーズがまかれたという記述の後に、以前は、深い穴が掘られ、そこに主催者がなにか高価なものを投げ込んだという。絵や彫刻が施された仮面、コッパ―と呼ばれた家族の紋章を描いた銅板紋章でもよかったという。さらには昔は奴隷が殺されて投げ込まれたという。宗教的な意味合いではなく、主催者が高価なものを気前よく手放すことを村人に見せつける行為だった。とされる。ただ、何でもよかったというのは疑問もあり、一定の考え方はあったと考えたい。

参考文献
大林組プロジェクトチーム『三内丸山遺跡の復元』学生社1998
岡田康博『三内丸山遺跡』(日本の遺跡48)同成社2021
奈良文化財研究所第6章 八足門前の調査②(近世以降の遺構) ネット掲載
細井忠俊「トーテムポールの世界 北アメリカ北西沿岸先住民の彫刻柱と社会」彩流社2015
伊勢遺跡公園解説パンフレット

写真
特別史跡「三内丸山遺跡」HPより(柱穴) 
島根県立出雲古代博物館HPより(宇豆柱)
八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々のブログ「御柱祭 2 (高森神社)」より
上村幸平氏のNOTE「トーテム・ポールにいのちを吹き込む」【ハイダグワイ移住週報#15】より ご提供いただきました。  ※上村幸平氏は大阪出身の若者で写真家。カナダに移住して現地の文化を紹介されるなどの活動を行っておられます。よろしければぜひご覧ください。こちら☛ https://lit.link/en/siroao

高崎市吉井町の火打金のルーツ 火打金とポシェット⑴

吉井のレン
 群馬訪問の目的の一つに、火打金について新たな情報を得たいという思いもあったが、高崎市吉井郷土資料館では、関係する展示品をいくつも見ることが出来た。
購入火打

 そこで火打金のセットを2000円で購入した。これはネットで注文するよりもお得だったかもだが、これはカスガイ型火打金というそうだ。火打石は、おそらく石英であろう。火花をつけて火種にする火口(ほくち)もついている。
 早速、試しに火打石に火打金を打ち付けてみた。石の鋭利なところにこするように打つのだが、少々コツがいるが、うまく打ち付けると、かなりの火花を飛ばせるので、何度でもやってみたくなる。いや、癖になって外でカチカチやってたら通報されます。
石英火打
 実は、ある文献に黒曜石も火打石になるとあって、そのことを人に話したことがあるのだが、はたして火花を出せるのか気になっていた。火打石は硬度が高くないと発火させられないのだが、黒曜石は叩くと鋭利な刃物になるように割れるガラス質のものだ。火打ち金を打つと火花が出せずに欠けてしまうだけではないかと心配だった。
黒曜石火打
 そういうこともあって、以前に別の博物館の売店で購入した黒曜石でも火花が出るか試してみた。勢いは劣るが、それでも使えないことはないとわかって、人に説明していたので安堵した。ただ、火打石に向いているとは言えないようだ。

 日本では摩擦式発火法は弥生時代以降、打撃式発火法は古墳時代以降多く確認されている。中世の鎌倉からも「火切り板」が出土しているが、火打石の出土事例も多く、中世以降、摩擦式発火法は次第に打撃式発火法に取って代わられていったと考えられている。
平安江戸火打
 この資料館では、平安時代の火打金をみることができる。その後、江戸時代に入って何故か群馬の吉井町で作られるようになって普及するようになった。
 
火打販売
 吉井の火打金は特に評判を呼んでお寺詣の旅人たちが買い求めたそうで、この火打セットを携帯できるよう巾着のような袋に入れることもあったようだ。その現物も展示されている。
 
火打袋
 また旅先だけでなく、家での利用も普及したが、その背景には火事の予防として、常火の禁止によって、容易に火を起こせる手段が求められたことにあるといわれている。いちいち摩擦で火を起こすのはけっこう大変です。
 資料館の解説では、武田信玄配下の子孫であった近江守助直(おうみのかみすけなお)という刀鍛冶が火打金伝えたという。一方で、京都明珍でも作られていたのだが、私の興味は火打金が、大陸からどのように伝わったのか、また、どのような人々が江戸時代まで継承させていたのか、といったところである。
「火打金は、北方アジアの遊牧民や狩猟民の野外行旅の携帯品であって、火おこし自体が非日常的なものである以上、通常、各住居に備えられた日常用具とは考え難い」(森下惠介2020)という。また火打金は、「7~9世紀にほぼ同時に東は日本から西は東欧までの広大な地域に出現した。残念ながらどこが起源でどのように広まっていったのか、という問題については、今のところ説明不可能と言うしかない。ただその普及に長距離移動をすることもある遊牧民が関与したであろうことは想像に難くない。」(藤川繁彦1999)と述べておられる。
 列島に火打金がもたらされたのは、騎馬遊牧民が関与していると考えられるのであるが、実態はよくわからないようだ。
 騎馬遊牧民は、江戸の旅人のように火打セットをポシェットなどに携帯(火打金を腰帯に直接吊るすものもある)して使っていたようだが、それがどのように渡来して使われるようになったのかを、少しでも解明できればと思う。また、火打金にまつわる説話などもみていきたい。なお、火打金は関東の方では火打鎌といわれているようだが、ここは火打金と表記させていただく。

参考文献
藤川繁彦編『中央ユーラシアの考古学』同成社1999 

あぐら座りの男子埴輪  綿貫観音山古墳⑵

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1.三人童女埴輪
 後円部墳丘西側から前方部くびれ方向に向かって、人物埴輪の一団が置かれていた。三人童女埴輪をあいだにして、対座するように、合掌する男子と祭具を捧げ持つ女子埴輪という構図の埴輪群を、祭人像グループとも呼ばれる(大塚2017)
 古墳の前に立てられた解説パネルに、三人の女子が弦楽器を爪弾く、といった説明があるが、どう見ても演奏しているように見えないのだが、残っていないだけで、本来は弦楽器があったというのである。右側の童女の右腕にひものような表現が見えるのが決め手だそうだが、ハープのように立てて引く弦楽器があったのであろうか。
 他の事例では、楽器を弾く人物は、膝に楽器をおいていることからも、それはやや無理な解釈のようで、三人そろって祈りを捧げているようにしか見えないのだが。しかも、三女子は背中に鏡を二つずつ付けているのだが、楽器演奏とどう関連するのであろうか。   
三女子背中
 それにしても、どうして同じ横長の座面に座らせるという三人セットのような表現なのであろうか。これが、田心姫神(タゴリヒメ)、湍津姫神(タギツヒメ)、市杵島姫神(イチキシマヒメ)とういう宗像三女神のような巫女さんを表しているとしたら面白いのだが。

2.あぐらを組む男子埴輪
双脚帽子
     男子埴輪の頭部を上から腕を伸ばして撮影
 あぐらを組んでいる男子も、気になることがある。それは頭部の鍔のある帽子で、この形が、九州の装飾古墳や、近畿などの埴輪にも見られるいわゆる双脚輪状文の冠帽だ。ただし、烏帽子のような表現は、他の埴輪を参考に作られたものだそうだ。

双脚輪状文埴輪
       和歌山県立紀伊風土記の丘資料館

双脚輪状文パネル
 パネルにあるように、この文様は、九州から北関東まで、きわめて偏在した分布であり、特定の集団が好むものであったようだ。九州では、石室に描かれていた文様が、近畿や群馬などでは埴輪として作られているのは面白い。それにしても、この形は何を意味しているのか。スイジガイを表しているとの見方があるが、はたしてどうであろうか。

 他にも、この人物埴輪には気になる所がある。あぐらを組んで坐っているのだが、これは、左足の先端部以外は、復元時に「後補」されたもので、着衣の裾の形状からあぐらを組んでいたと判断されたようだ。他の事例で、あきらかに足を組んでいるとみられるものもあるので、問題はないと考えられる。では、この人物はどうしてアグラすわりで手を合わせて合掌をしているようなポーズをとっているのか。
 隋書には、次のような多利思比弧(タリシヒコ)の記事がある。倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という。あぐらをかいて日の出まで公務を行っていたのだろうか。このあぐらは原文では跏趺坐とあり、それは、あぐらよりきつい足の組み方で仏教の座法である。あぐらをして手を合わせているのであれば、公務というよりは、瞑想にふけるかのようにとれてしまう。
 タリシヒコは7世紀前後のちょうど聖徳太子の時代にあたる倭国の王と多元史観では考えているが、この人物埴輪も腰に装飾の付いた大帯をしており、この地の王と考えられる。同じような意味の表現がされたものであるならば、この埴輪の祭人像グループは、無事に日の出が上ることを祈っているのであろうか。
 

参考文献
大塚初重・梅澤重昭「東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳」新泉社2017
藤田富士夫「珍敷塚古墳の蕨手文の解釈に関する一考察 一中国漢代羊頭壁画との比較から一」ネット掲載
加藤 俊平「双脚輪状文の伝播と古代氏族」同成社2018

二段目に作られた切り石を積み重ねた巨大石室  綿貫観音山古墳⑴

綿貫全景
綿貫パネル
 群馬県高崎市綿貫観音山古墳の横穴式石室は未盗掘のため豊富で豪華な副葬品を持つものであったが、その石室そのものも巨大で、見ごたえのあるものであった。
綿貫入り口
 壁石材は四角に加工されたブロックを積み重ねて作られているというのも見事。中に入れば感動もので、スカッシュができそうな?空間があるのだ。
 
綿貫石室全景
 この玄室の長さは約8.3m、幅は奥で約3.9m。このような幅の広い石室は例がなく、それまでの最大のもので2.1m前後だという。見学の当日は、気温30度近くで蒸し暑かったが、室内には温度計があって20℃だったので快適であった。
綿貫温度計
綿貫出口
 右島和夫氏によれば「この幅の大差は注意する必要がある。石室の長さは、石を継ぎ足していけばいくらでも長くできる。ところが、幅はそうはいかない。なぜかというと、天井に載せる石の幅は継ぎ足しがきかない・・それまでの天井石の幅の2倍のものを載せた」(右島2018)のだという。言われてみたらその通りでこの説明には納得だ。持ち送り技法でだんだんと上部をせばめていくドーム、穹窿(きゅうりゅう)型の石室があるが、それは、デザインのこだわりと共に、大きな天井石を載せなくて済むという合理性もあったかもしれない。この点、綿貫の場合は限界に挑戦した石室だったと言える。
綿貫石組み
 この綿貫観音山古墳の石室は、切り石を積んだ壁に最大幅の天井石を載せた画期的なものであった。しかもところどころに、L字形に切り込みを入れてはめるように積んでいるところもあり、この技術はどこから来たのかと感心する。天井石は三つ載っているが、最大のもので22トンだという。イナバの100人どころではないのだ。
 この立派な石室が2段目に作られているが、大抵の横穴式石室は墳丘の1段目にあることから、作業にかなりの手間がかかったと思われる。そして気になったのは、巨大な天上の岩をささえる石積みの足下はどのようになっているのか、ということだった。床面には大きめの砂利が敷き詰められており、いったい、最下段の石積みはどうなっているのか、幅が広くて厚めの石が据えられているのかなど気になった。

綿貫図面
 後日、調査報告書の図面を確認した。調査時には、左側の壁が崩れ落ちていたそうだが、最下段の積石を見ても特にかわった施工を施しているわけではなく、同じように積まれた石が側面は2段目まで、正面は1段分が地面下に埋まっているだけだった。よくこれで支えられているものだと感心した。その床面の土は突き固めて平らにしておかなければ崩れる危険もあるわけで、大変な作業であったと思われる。なぜ気になったかというと、大阪府高槻市の今城塚古墳は、3段目の墳丘に石室を築いたとのことで、発掘調査で、その石室の土台の強化のための石室基盤工が検出されたというのである。それが、綿貫の場合はそのようなものがなく、固めた地面の上にそのまま載せていたという違いがあったからである。今城塚については、埴輪列のモデルとなるものなど、群馬の古墳に関連するものが多くあるので、あらためて考えていきたい。


参考資料
綿貫観音山古墳Ⅱ 石室・遺物編 群馬県教育委員会1999
右島和夫「群馬の古墳物語下巻」上毛新聞社2018

おしゃれを競い合っていたかもしれない縄文女性の耳飾り 『万物の黎明』から思うこと

耳飾り

  伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館 縄文晩期釜の口遺跡の土製耳飾
 
1.耳飾りの美に感嘆する。
 写真は、直径5センチは下らない縄文のピアスの耳飾り。もちろん粘土細工だが、器用な縄文人が作りだした芸術作品のようであり、今でもこのようなデザインの装飾品があっても通用するような見事な作品だと思う。前回に群馬に訪れた際に、榛東村耳飾り館も見学したが、そこで、現在でも大きなサイズ(10cmはありそうな)の耳飾りをする中国の少数民族などにあることを知った。最初は、小さなものから、だんだんと大きなサイズのものに付け替えていくのだが、当然、耳たぶには大きな穴が開いていく。それをはずすと、まるでイカクンのように細長くなった耳たぶが垂れ下がる。その様子にはちょっと引いてしまうのだが。
 
耳飾り館
      耳飾り館はチケットだけ撮影

綿貫観音
  群馬県立歴史博物館 桐生市千網谷戸遺跡縄文晩期土製耳飾

月矢野耳飾り
 月夜野郷土歴史資料館 群馬県利根郡みなかみ町月夜野矢瀬遺跡後期から晩期
 
 各地の博物館に耳飾りはよく陳列されているが、中には、同じ人物の作品かと思うような、あるいはコピーしたかのような、類似のデザインのものが、少し離れたところからも見つかる。ほかの物品と一緒に、この装飾品もやり取りがされていたのかと思われる。
 それにしても、多様な形状、ユニークなデザインのものがどうして作られたのであろうか。これは、現代と同じように縄文の女性もおしゃれを楽しんでいたということだろう。もちろんピアスをする男性もいたであろうが。
 競い合ってより粋なデザインのピアスを求めては、おしゃれを楽しんでいたのではないか。新作が完成すると、みんな集まって感想を言い合っていただろう。また、耳飾りだけでなく、顔料を使ってボディペイントなどもいっしょに描いていたかもしれない。

2.耳飾りも女性の賭けの対象だったかもしれない、というお話。
 老いぼれた頭にはかなりきつい重厚な大作の『万物の黎明』は「人類史をくつがえす」というサブタイトルが付いているが、その内容については今後も参考にしていきたいと思うのだが、その中に次のような一節がある。
「女性のギャンブル 多くの北アメリカの先住民社会において、女性は、根っからのギャンブル好きだった。隣接する村々の女性たちは、サイコロ賭博やどんぶりと梅花石を使ったゲームをするために頻繁に集まっては、一般にはシェルビーズなどの身の回りの装飾品を賭けの対象とするのだった。民俗誌の文献に通じた考古学者ウォーレン・デボアは、大陸の半分を占めるさまざまな遺跡で発見された貝殻やその他のエキゾチックな物品の多くが、きわめて長時間をかけて、この種の村落間でおこなわれた賭博ゲームで翔られたり巻き上げられたりしたあげく、そこにいたったのだろうと推測している。」(P29)
 現代では、普通に男女がギャンブルを楽しんでいるが、古代の女性も装飾品を賭けの対象にして楽しんでいたというのは面白い。そうすると、縄文時代においても、腕輪や首飾りなどと同じように、賭けをして勝った女性が、一番出来の良い素敵な耳飾りを手に入れる、などということもあったかもしれない。
 もう30年も前のヒット曲だが、シンディ・ローパーさんの『Girls Just Want to Have Fun 』は、女の子だって楽しみたい、というメッセージソングだが、同じように縄文時代の女の子だって楽しんで日常を過ごしていたのではないか。そのように考えると、縄文時代の祭祀のためなどと説明されることの多い遺物から、いろいろと異なる想像もできるのではないかと思う。

参考文献
デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロー「万物の黎明」訳酒井隆史 光文社2023

迫力があってわかりやすい、観音塚考古資料館の展示パネル

 
並ぶパネル
 群馬県高崎市観音塚考古資料館の展示の様子。巨大パネルが連なった圧巻の展示ディスプレイです。
観音塚kパネル

 観音塚古墳は石室そのものは、あの巨大な墳丘を持つ奈良県見瀬丸山古墳を少し小さくしたものではあるが、たいへん立派な巨石が使われた石室を見に行ったのですが、蚊の襲来でそそくさと引き上げて、資料館に足を運びました。
馬具パネル
観音鞍金具
 この資料館の展示室の展示品の説明パネルに感激しました。ショーケースの始まりから端まですべて、壁面を最大限使った巨大なパネルには圧倒されます。観る者にはすごいインパクトとなって、引きつけられます。展示する側の意図、陳列品の何がすごいのか、どこを見てほしいのかが大変よくわかります。
 館長さんと少しお話が出来ましたが、この展示は、前任の女性館長さんのアイデアだとか。あまり、男女の区別はどうかと思いますが、この場合はやはり女性ならではの感性で工夫されたと言えるでしょうか。
 どこの施設の関係者のみなさんも、いろいろと工夫されているかと思いますし、予算の厳しい中、苦労を重ねておられるところが多いかと思います。見学者は、そのへんも気が付けるように見て回りたいですね。
観音巨石パネル
 通路にもいかにも手作りの巨大ポスターで、巨石をどこから運んだかがよくわかります。
 
 
鶏頭太刀

 
鶏頭柄
 銀装鶏冠頭太刀柄頭 鳥のトサカのようにも見えるが、これは扇形に広がるヤシの葉のようなパルメット文様か。
 はるか西方文化とのつながりがわかる貴重なもの。
銀装唐草

 承台(うけだい)付銅碗や豊富な馬具装飾品やなど、とにかく大陸とのつながりを実感できるものばかり。
 観音塚古墳の解説パネルに、「渡来人を配下に編成して地域経営を行った東国有数の首長像が推定できよう」とあるが、これはどうであろうか。そもそもの渡来人は、どうやって列島に渡って来たのだ。リーダーがいて、いっしょに渡来してきたのではないか。「配下に編成」するというようなことは、同じ信頼できる渡来の実力者でないとできないのではないか。よって、丸山古墳との類似から倭国王権にも関与した騎馬遊牧民の末裔のリーダーの副葬品と理解できる。首長も渡来人としてこそ説明がつくのではなかろうか。
               24.6.9