流砂の古代

古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ移住民、騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。古代史に関わる誤解や誤読、近畿一元史観ではなく古田史学の多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年05月

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 型吹亀甲文紺色坏 慶州天馬塚 6世紀 類例は4世紀頃の東地中海から黒海周辺、南ロシアなど広く分布しているが、東アジアでは唯一の出土例とのこと。 『ユーラシアの風新羅へ』より

 日本書紀は、古代の情報が豊富に綴られた重要な書物である。しかし、その記述には、様々な、操作、筆法といったもので組み立てられているので、これを、解きほぐさなければ、正しく古代史を知ることが出来ない。
 最大の問題は、天皇の万世一系の記述であり、さらには、近畿に古代日本の中心があったかのような近畿一元史観で作られていることである。それに伴って、多数の記事を、主語を替えたり、年代を操作するなどの改編が行われている。この年代移動については、説明しても納得されにくい場合も多い。そのため、随時、書紀が施したトリックのような手法などを説明していきたい。

 まずは手始めに、推古紀の任那についての記事からはじめたい。この任那は、欽明紀23年(562)に新羅によって滅亡している。その後、しばらくは、滅んだ任那を復活の試みを始める記事があるのだが、それはかなわなかった。ところが、不思議なことに、半世紀も後の推古紀に、任那のために新羅を討伐するといった記事が登場する。さらには、推古以降の舒明、孝徳の時代にも任那が出てくるのである。これらは、干支一運60年繰り下げた記事があると考えられるのだ。
 正木裕氏の指摘によるものだが、60年ずらして、それをうまく?隠そうとしていることが丸わかりの記事があるという。
 欽明紀23年に新羅が任那を滅ぼすという記事がある。その後に、天皇の新羅への怒りの言葉が延々と続く。だが、新羅討伐の準備をすぐに始めるといった記事がないのだ。そして翌月には、大将軍紀男麻呂が兵を率いて哆唎(栄山江の東側あたりか)から出発するとある。新羅討伐部隊の布陣も説明がないが、そもそも、いきなり半島の哆唎から出発とはどうゆうことなのか。実はこの前段の記事が、動かされて推古紀にあるという。同じ干支年壬午の欽明紀23年(562)が60年下がって、同じ壬午の年の推古紀に移されたのだ。注1
 推古紀31年(岩崎本は30年)には、任那滅亡から半世紀も経過しているにもかかわらず、新羅が任那を討ったという記事があり、早速、新羅討伐の準備を進めているのだ。岩波注には、「新羅が再び強固となり新羅領内における日本の旧任那の地に対する権益を犯したものか」というやや苦しい説明をされている。だが、ここに次のような人物がみえる。大徳境部臣雄摩侶を大将軍とする記事があるのだ。漢字が異なるが同じヲマロであり、書紀の編者は同一人物であることを隠したつもりなのだろうか。こうして、推古紀で、新羅討伐の為の軍が編成され、半島に渡る所まで描写される。その後に、本来の欽明紀に、半島の哆唎を出発する。このヲマロが偶然同じ名前になっただけとは考えにくい。60年動かすことで、いや、正確には元に戻すことで話がつながるのである。
 
注1. 岩波など一般の日本書紀は天理本が使われているが、小川清彦氏『日本書紀の暦日について』の指摘で、該当箇所の干支に間違いがあり、岩崎本の推古紀30年の壬午が正しいとされる。

参考文献
正木裕『繰り下げられた任那防衛戦と任那滅亡記事』 古代大和史研究会講演2024.5  など

俀
 隋書の倭が俀と表記されていることについて、これは倭国のことではなく、俀国という別の国があったという解釈が繰り返されている。だが、一般的には俀は倭に修正されて記述されている。岩波文庫も『隋書倭国伝』である。図書館で「隋書俀国伝」と検索しても出てこないところが多いのではないか。この俀の字は異体字の類いと考えられる。この点について述べてみたい。

1. 俀と倭は同じもの
①俀奴国は倭奴国と同じ。
 隋書では「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國」とある。ここは後漢書の引用であり、当時は倭は「イ」と発音。奴は「ヌ」であるので、「イヌ」国が妥当。注1 もしこの俀奴国が別の国とされるなら、関係する他の漢籍資料と出土した金印の文字と齟齬が生じる。後漢書では「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀」とある。この年代が57年であり、光武帝から賜与された金印に刻された委奴国であり、これは真印であるならば倭奴国と同義だ。北史では「安帝時又遣朝貢謂之倭奴國」であり、はじめから倭になっている。北史は隋書の内容をほぼ踏襲しているが、誤字などは訂正している。さらに他に多利思北孤の北は比としているが、この点については後述する。舊唐書では「倭國者古倭奴國也」とあり、倭国がかっては倭奴国であったと説明されている。宋史(至正5年1345)でも「日本國者本倭奴國也」とされて、日本国はもともと倭奴国であったと記しているのである。そして通例として倭国と称されている。よって隋書倭国伝と称されて何の問題もない。
 さて、俀が別の国だとする方は、この俀奴国はどう訓むのであろうか。タイヌ国とするのであろうか。やはり俀は倭に変えてイヌ国と訓むのが自然だ。そして5世紀以降の俀国は、ワ国と訓む。

②俀の字は、卑字、弱弱しい国といった蔑む表現でもない。
 俀を弱いの意味で使用したのは後世の可能性が強い。例えば倭も中国側が蔑むような卑字といった説明を見聞きするが、これも疑問である。隣接する半島の国々の名はどうなのであろうか。高句麗や新羅、百済に蔑むような意味はない。なぜ、倭国だけ貶められるのか、その根拠はない。隋は高句麗を三度も攻めたが、勝てずに甚大な被害を被っている。唐も新羅に対し、半島統一の為に多大な援助をしたのにもかかわらず、裏切られてしまった。それでも国名表記は変わらない。俀がタイと訓まれることから、大倭がタイイなので俀に変えたというのも成り立たないのではないか。ちなみに、古田武彦氏も当初は俀を別の国とされていたが、後に大倭国の意味に変えておられる。

③俀は倭の異体字と考えられる。
 中国側は隋書に関しては俀の字を倭に書き換えている。そして百済伝の倭の表記の後に校注(注釈)を入れている。
 其人雜有新羅高麗倭等 「倭」原作「俀 」。按:古從「委」和從「妥」的字,有時可以通用。如「桵」或作「㮃」,「緌」或作「綏」。「 俀 」應是「倭」字的別體。本書煬帝紀上作「倭」。本卷和他處作「 俀」者,今一律改為「倭」

 つまり、倭と俀の違いは、この漢字の右上の禾(ノギ)が爪(ツメ)となっていることである。同じような例として、㮃(ズイ、ニ、イ)が桵となり、緌(ズイ)が綏となっているのを、「禾」のある漢字に訂正しているのだ。このように爪(ツメ)を禾(ノギ)に訂正しており、俀、桵、綏の三つは同音同意の異体字として、本来の字に戻されているのである。執筆者、もしくは転写をした人物が、これら異体字を同義の漢字として使っていたのだが、これを他の人物も間違いではないのでそのままにしたということではないか。
 漢籍には異体字といったものが、いくつも存在している。たとえば、三国志には高句麗と高句驪という表記がある。この場合も、別の国であったなどと言えるのであろうか。俀国も実は倭国と同じで漢字が違うだけにすぎない。俀国とあってもワ国と読むのである。

2. 多利思北孤の北は比の誤記の可能性
①異体字だけでは考えにくい誤記が多数存在する隋書
 「漢籍電子資料庫」で「原作」で検索すると膨大な数の漢字の修正が検出される。異体字もあるが、その多くは、同音による書き違えや、文脈や他の漢籍を参考にしての書き換え、単純な書き間違えの修正など様々である。隋書で少し例を挙げてみる。
「建」原作「達」、 「預」原作「頂」、 「如」原作「加」、 「刃」原作「刀」、 「夕」原作「名」、
「政」原作「正」、 「導」原作「遵」、 「大」原作「六」、 「斗」原作「升」、 「干」原作「于」、 
「紐」原作「細」、 「爟」原作「權」、 「官」原作「宮」、 「瑞」原作「端」、 「人」原作「入」、 
「寇」原作「冠」、 「冶」原作「治」、 「勒」原作「勤」、 「州」原作「川」、 「巨」原作「臣」
 以上はほんの一部である。その中に、火を犬注2とした間違いもあれば、比を北としたタリシヒコの例もあるのである。このような事例は隋書に限らず、多数の漢籍で同様の状況がある。

②間違われやすい北と比 
           ヒコ
 現在は、北という漢字の一画めの横棒と二画めの縦棒が交差することはないが、古代においては、ほとんど、横棒に縦棒が貫くように書かれている。魏志倭人伝もすべて北は、二画目が突き抜けている。これが比の字と間違う要因になるかもしれない。先ほどの修正の中にも、「比」原作「北」の例が、後漢書に一カ所、宋書は二カ所、舊五代史に一カ所、金史に一カ所、宋會要輯稿は五カ所も存在するのである。また逆に、晋書と舊唐書では、比を北に改める例も一つずつ存在する。
 このように比と北は、お互いに誤記される可能性が非常に高いのである。

③古田武彦氏も「比」は否定されていない。
 いうまでもないことだが、ヒコは彦、比古、日子、毘古などと王、貴人の名前として使われている。魏志倭人伝にも卑狗がある。ホコという名前があっても、それは特殊な事例ではないか。
先ほどの付録の隋書読み下しでは、「南史ママ(北史)では多利思比孤とする。『北』は天子の座するところであるから、多利思比弧という当人が、敢えてした『誇称』がこの『多利思北孤』であったのかもしれぬ。」とされている。これはつまり、古田氏も本来の名がヒコと認めていたということではないか。
 ちなみに後漢書には次のような訂正がある。『東夷倭奴國王遣使奉獻 按:「王」原作「主」』この箇所では主が王の書き間違いであることは明らかだ。これをもって倭奴国に主という人物が遣使を行った、などとは言わないであろう。隋書は日本では語られないことが記された貴重な資料ではあるが、上記のような問題も含んでいる書であることは踏まえなければならないと思われる。
 
 ただ、俀については問題は残る。使用例が極めて少ない漢字だが、 舊唐書には、吐蕃が700年に阿那史俀子をテュルク国に派遣するとの記事がある。この俀子が倭子であったのかどうか、また、史記には魯の宣公俀が君主となる記事もある。そうなると、俀は、ほとんど使用されなかった独立した漢字として存在していたが、その一方で、異体字として、倭と同義で使われたとも考えられるが、このあたりは、今後、要検討としておきたい。

注1.正木裕氏のご教示による。五胡十六国以降は「(‐a)ゥワ」でそれまでの古代は「(‐i)ヰ、イ」と発音。
注2.「犬を跨ぐ」は、およそ犬での事例は見られず、日本と世界には多数の火に関わる婚姻儀礼が存在すること、火を大と誤記した事例もあることから、火を犬と誤認する可能性もあり、ここは「火を跨ぐ」が適切。

縄文刀子
        縄文後期住居跡から出土した青銅製の刀子 (山形県遊佐町三崎山遺跡)
  詳しくは、文化遺産オンライン(こちら)をご覧ください。
刀子図
 縄文時代に青銅器などあり得るのか、とお思いの方も多いはず。研究者の中には、当初、戦時中に中国から持ち帰ったものでは、などという見方もあったが、遺跡からの出土物で間違いないようである。破損しているが柄の端は環であった可能性がある。この形を真似た内反りの石刀が60点余り出土している。
 冒頭の図は、大野遼氏によるアルタイ山脈の西方の平地のアルタイにあるオビ河上流の遺跡、ジプシーの丘遺跡の刀子と三崎山の刀子の比較写真である。不鮮明な点はお許し願いたい。氏は中国殷代の青銅器にも見られる内反りの刀子であり、その起源は北方の牧畜民によるとのお考えだ。上図写真の類似性からも想定できるものだ。
遼寧省青銅器
                 遼寧省王崗台遺跡  2,5が近い形
 縄文時代の晩期に作られた石刀の中に、この青銅刀子に酷似した例があるという。中部地方から北海道にかけて、多数の石刀が見つかっているが、当然ながら、物を切るためではなく、それは、弥生時代の銅剣、銅戈と同様に祭祀のために作られてものであろう。氏は、「日本海を経て、大陸から伝わったものであり、当時の大陸の青銅器文化に対して、縄文文化の中に、いわば青銅器模倣文化というべき影響を与えたと考えられる」とされているのだが、私はこういった説明には異論をもっている。文化の影響といったものではなく、この青銅製刀子を携えてやってきた大陸からの移住民が、銅製品などつくれないこの列島の地で、代替えとして石刀を作り祭祀を行ったのであって、やがて、その子孫たちが列島の各地に広げていったのであると考える。
 縄文時代は長期にわたって閉鎖された空間で、独自の文化が育まれた、といった捉え方が根強いが、実際は、弥生時代の前から次々と移住民によって渡来文化がもたらされているのである。以下に、主だったものを列記していく。

①三内丸山遺跡の円筒下層式土器
 6000年前の東北地方に十和田湖火山の噴火後に移住した人たちによって築かれた。大陸の円筒土器が消滅した頃に出現しており、台湾でも農耕民の移住が始まった時期と符合する。
②刻文付有孔石斧(山形県鶴岡市羽黒町中川代遺跡)
 甲骨文字と類似はあっても一致するものはない。金属器で線刻との指摘。『王』を意味するとする説もあるが。石斧本体も見事な加工がされ、実用品ではなく、威厳を示すものか。大陸の馬家浜文化あたりのものとされるがそうするとおよそ6000年前になる。文字は後世につけられたものか。
③青銅刀(山形県遊佐町三崎山遺跡、縄文後期住居跡) ※同記事のもの。  他に、成興野型石棒がシベリア南部に起源をもつ、鈴首のついた青銅剣に原型があるとする西脇対名夫氏の説もある。
④鬲状三足土器(青森県今津遺跡、富ノ沢、虚空蔵)
 袋状の足をもつ鬲は龍山文化(4500年前)から。今津、虚空蔵のものは朱彩され祭祀用か。
⑤漆塗り彩文土器(山形県高畠町)
 ルーツは仰韶文化の彩陶土器 漆の木そのものも山東省付近が原産地で運ばれた。
⑥玦状耳飾り(富山県極楽寺遺跡、新潟県大角地遺跡、長野県阿久遺跡など
 福井県桑野遺跡はその他の出土装身具も中国遼寧省査海遺跡のものと一致することから渡来集団の墓と指摘。
さらにはウラジオストックの北東地域の遺跡を始原とする考えもある。
 他にも長大な石斧の埋納,土偶の象嵌など指摘されている。また研究者の指摘はないと思われるが、異形の石板や土器の文様に青銅器との類似が見られる。こういった事例についても、今後のところで取り上げていきたい。

参考文献
大野遼氏「北の時代の幕開け 日ソ合同調査計画スタート」窓 1987-09 ナウカ出版 ※刀子写真掲載
浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002
小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010
高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010
松本圭太「草原地帯における青銅武器の発達」(ユーラシアの大草原を掘る)草原考古研究会 勉誠出版 2019  ※青銅剣写真掲載

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 図はDNA分析から日本人の成り立ちの研究をされる篠田謙一氏作成の4万年前の海岸線と人類の移動ルートを表したものである。
 この三つのルートが、ほぼ定説のようになっているが、よく見るとこの図には気になる点がある。それは現在の海岸線とともに、氷期の海水面の低下で露呈した地表面の推定の海岸線も描かれている。黄海は丸ごと陸地となり東シナ海もその大部分が海ではなくなっている。②と③のルートの中間に大きく広がる大陸棚のエリアは、およそ1年に2cmほどの海面上昇でゆっくりと後退し、およそ6千年前までに完全に沈んでしまう広大な陸地があった。河岸や海岸線もあるこの温暖な領域に早くから人類は当然の如く居住し、文化を発展させていたであろう。そして、この②と③の中間のエリアから列島へ渡海した人々もあるのではないかと考える。

1.DNAで説く縄文人の由来
 先ほどの篠田謙一氏はmtDNA(ミトコンドリアDNA)のハプログループの研究から「縄文人は旧石器時代に大陸の南北双方の地域から流入した集団が、列島内部で混合することによって誕生」と考えられるとされる。さらに「そもそも縄文人は由来の異なる人々の集合によって列島内で誕生した」ならば「外部に形態の似た集団がいないのも当然のことと解釈できる」とされる。中国大陸に類似の集団がいないからということだが、ここを私は、本来いたはずの集団が移動してしまったので確認できなくなったと考えたい。
 氏はハプログループM7があって三つに分かれ、M7aが主として日本、M7bが大陸沿岸から中国南部地域、M7cが東南アジア島嶼部で、4万年以上前に生まれ、各グループに分かれたのは2万5千年ほど前だという。その起源地は、先ほどの海岸線の後退により「大陸に沈んでいる地域」と言及されている。よってM7aが日本にしか見つからないことになる。
 また北海道の旧石器時代の遺跡から出土する細石刃という石器は、シベリアからの伝播で①のルートと考えられていたが、北海道の縄文人のmtDNAのハプログループはすべてアジア起源であり、北東アジアでの文化的な接触により学んだアジア系の人たちが北海道に到達したとされる。また氏は、日本人のかなりの部分をしめるハプログループのD4aについて、誕生は1万年前ほどで、「この時代は大陸との往来はそれほどなかったと思われますので、このハプログループは弥生時代になって日本に入ってきたと考えるのが自然。」とされる。私はここに異論がある。縄文時代は人の渡来がなかったとの思い込みがあるのではないか。
 
2.あまり考慮されていない露出していた大陸棚と氷期以降の海進
 現生人類は今までのところではアフリカで誕生し、何度も移動が試みられ本格的な移動は4万8千年前に一度にユーラシア大陸に広がったという。そして3万8千年前には列島にも進出する。いずれ新たな発見で変更もあるだろうが。そして、2万3千年前には、海水面マイナス136mとなるが、その後、1万5千年前には海水面の上昇が始まる。1万1千6百年前に突然気温が7度上昇して海水面がどんどん上昇したという、そして7千年前に現在の海水面になる。ところが6千年前に、さらに海水面上昇する。いわゆる縄文海進がはじまるが、5千年前に変動もしながら徐々に海水面は低下していく。現在の海水面に戻るのは古墳時代にはいってからのようだ。
 以上のような変遷だが、縄文海進にあたる中国での表現としては、王・汪氏が後氷期の海進を巻転虫(Ammonia)海進と提唱されているようだ。マレー半島からインドシナ半島の大陸棚で広がった陸地はスンダランドと呼ばれているのだが、この東シナ海に広がっていたエリアの呼称は不明だ。不思議なことに中国の先史を含めた歴史解説書には、縄文海進に該当するような事象が取り上げられていない。
 氷期末には日本の本州ほどにもなる面積の地域をここでは便宜上大陸棚地としておく。縄文時代はおよそ1万6千年前から始まるとされるが、そのころはまだ大陸棚地が広がっていたのであり、それが1万年のもの時間にわたって徐々に海水面が上昇、すなわち海岸線の後退が続いたのだ。
 李国棟氏は、一万年前の前後に外越の人々が上陸し縄文の主役となったとし、早くに大陸棚の人々に注目した。古越人という表現もあるが、越人と言い切れるかどうかの問題はあるが、この現在は消えた大陸棚地から、縄文人となる人々が、少なからず渡来してきたのはあり得ることではないか。大陸棚地からの移住と考えられる事例をあげてみる。

3.海を渡って来た人類
 現生人類の各地への移動は、陸地がつながっているところだけを行き来したのではない。当然歩いては渡れない大河がいくつもあった。そして、各地の様々な海峡、沿岸域を船で渡っている。
 東ヨーロッパの金属器をもつステップ地帯の牧畜民は西へ進出し、既に海峡のできていたブリテン島に四千五百年前に最短でも34キロの海を渡り、大量の移住でストーンヘンジを作った先住民と完全に入れ替わっている。 
 アメリカ大陸への移動は、足止めされていた氷河が後退し無氷回廊ができる1万三千年前が定説であったが、南米のチリのモンテ・ベルデ遺跡が1万4千年前と判明。そして、新たに1万6千年前には北米の沿岸の一部が海水温の上昇で無氷状態になったことがわかり、早くに海岸伝いを船で移動していたと考えられるようになった。
 台湾の農耕民は4千年前にフィリピンに到達し、3千3百年前以降にニューギニアへと渡っている。さらに時代は下がるが、1千3百年前には、フィリピンから9千キロのアフリカ沖マダカスカルに達しているという。
 そしてこの日本でも、対馬ルートも完全に陸地化することはなく、海を渡っているのだ。中国では浙江省跨湖橋遺跡で8千年前の丸木舟が発見されている。列島に船で渡ってくることは、十分可能な事であった。次のような事例がある。宮崎県本野原遺跡の土器の圧痕から、中国南方産のクロゴキブリの卵鞘が見つかったという。4千3百年前より以前に大陸からの移住民の食料にまぎれて広がったものではないかと考えられる。確実に、大陸から、人はやって来たのだ。

4.特異な文化を持つ上野原遺跡の集団
 新東晃一氏は南九州一帯には、他地域と比較して多種多量の「第一級」の草創期遺跡が存在したという。一般的には縄文文化は東日本ばかり目立って、西日本は低調だったという思い込みがあるがそうではなかった。その代表となるのが上野原遺跡であり鹿児島県霧島市東部の台地上に約9千5百年前に定住の村が作られた。その遺跡や出土遺物のいずれもが際立った特徴を持つものだ。まずは貝殻文系筒型土器。縄文土器に四角はめずらしい。また筒形は九州では例がなく、世界的に北方系の土器に多い特徴だという。優れた技法で作られており、現代の陶芸家も「なぜこの時代にこのような技術があったのか」と感嘆する。北方系という点では竪穴住居も特徴的だ。他地域と異なる直径3~5mとやや小さく、回りを垂直に掘られた柱穴が取り囲んでいる。しかも竪穴の外側に建てるという際立った違いがある。また木材を上方で湾曲させて中心に束ねる構造。これはシベリア、アメリカ先住民、モンゴルのパオと類似する。土器も住居も北方系という共通点があった。
 土器に戻ると極めて異例の壺型土器が出現している。調理用でなく穀物などの貯蔵器として使われていたもので、それは稲作が始まる弥生時代の遺跡からしか出土しなかったものが登場したのだ。
 さらには連結土坑という一つの穴で火を焚き、もう一つの穴から出る煙で魚や肉の燻製などをしていたものも多数見つかった。同じものが三重県鴻ノ木遺跡、静岡県中道遺跡、そして千葉県舟橋市飛ノ台遺跡などで見つかっており、黒潮に乗って移動した人々が同じような調理をしたのだろう。この燻製が保存食として大移動に携行されたのではないか。
 装飾品では耳たぶにはめ込む耳飾り(耳栓状土製品)が見つかる。これは中期と考えられていた定説を見直すものであり、しかもいきなり直径12cmのものが出現しているのだ。はめ込み式耳飾りは最初は小さなものを耳たぶを穿孔して装着する。そして徐々に大きなものに付け替える。やがて、飾りを外した時の耳たぶはイカクンのようにだらりと垂れるようになる。こういうことをこの地で突然思いついてはじめるとは考えにくいのではないか。そしてこの耳飾りにはS字や渦巻の文様が施されているのだ。
 石器類は用途に応じた多様な石斧や石鏃、石皿、磨り石など大量に見つかっている。
 「定説を打ち破る新資料続出で、南九州に早咲きの華麗な縄文文化」と説明されているが、そこには大陸文化を持つ移住民の存在は全く考慮されていない。同じ時代の全国の他地域では尖底土器を作っているのに、南九州では貝殻文の円筒形平底の土器を使用していたのは異質で独特な発達という解説でいいのだろうか。
 

5.佐賀県東名遺跡の「奇跡」の技術
 佐賀市佐賀平野の吉野ケ里遺跡の南西方向にある8千年前の遺跡。居住地、墓地、貝塚、貯蔵施設など集落の構成要素がセットで確認される稀有な事例とされる。
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              図は佐賀県東名縄文館、大型編み籠
 編組製品が大量に出土したのも特徴の一つ。ドングリなどを入れていたようだが、全国の縄文遺跡で見つかったものの六割をしめ、しかも最古のものなのだ。ござ目や六つ目といった編組技法のほとんどの種類が存在するという。完成された技法を持った人々が、この地で最初から多種多様な編み籠を作っているということだろう。
 ここからは仮面習俗をおもわせる板状木製品が出土している。5か所の孔があり紐を通して顔に装着していたようだ。縄文早期に仮面の儀礼があったなら、これも最古のものとなる。
 さらにオオツタノハ製貝輪も列島最初の事例。後の富山県小竹貝塚のものは東名からの可能性がある。この貝は伊豆諸島南部以南と大隅諸島、トカラ列島など南洋の限られた島にしか生息しない。問題はこのような貝を重視する南洋の人々がいたのではないか。また列点文を施した鹿角製装身具は他に大分県国東町成仏岩陰遺跡、滋賀県石山貝塚の二例。
 東名遺跡も上野原遺跡も、九州の縄文時代早期の異例の完成された文化の突然の登場なのだ。

6.大陸棚地の流浪の民
 内陸部とはちがって海岸にも面する大陸棚地に早くから北と南の人々が移住し、定着しては独特の文化を発展させ、やがてはこの中心地で水田づくりも始めたと考えられる。漁業も盛んだったはずだ。1年に2cmほどの海面上昇はわずかでも、子供の頃の海岸線が大人になると変化していることにやがて気が付く。そして大潮と大雨や台風が重なったときに深刻な被害を受けることになる。その度に移動を繰り返し、土地の開発や新たな地で祭祀を行った。しかし徐々に海岸線は後退し、山東方面に北上するものや逆に南下するなどの移動を始める集団がでてくる。大陸棚地が完全に水没する6千年前には台湾で突然に水田耕作が始まる。これは行き場のなくなった農耕集団が南下したからと考えられる。さらには台湾から南洋諸島にも進出していく。
 対馬海流は8千5百年ほど前に始まったという説がある。すると大陸棚地がまだ広がっている時には、潮流の弱い穏やかな海面が広がっていたのではないか。船で日本と行き来するのはさほど困難でなかったかもしれない。そうすると、一度や二度でなく、かなりの頻度で、大陸沿岸と日本とを渡りあう海の民もいたであろう。漁民の中には海の東に大きな島があることを先祖から聞いたり自分で確認するものもあったはずだ。1万年前に意を決して九州島にむかった集団もいたであろう。
 上野原遺跡、東名遺跡の事例は、その完成された文化の状況が、持ち込まれたものであることを示す。じりじりとせまる海水面の上昇により移動を余儀なくされ、遂には大移動を開始し、日本に集団で移住するものもあった。適地をみつけて、これまでに培ってきた文化、信仰を継続していったのだ。
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 佐賀県神埼市の各地では「シェーとり祭り」といった汐とり行事が行われている。秋の満潮時に、川辺で榊を川に浸して鉾先につけた天狗面に振りかける、天災除けの祈願だ。東名遺跡の仮面をこれと関連付ける説明もあるが、私はこの汐とり祭りに似たものを大陸棚地でも行っていたのではないかと考える。大陸棚地の海岸は遠浅で、干満の差が激しく、高潮による被害に悩まされて、水の祭祀をかかさず行ったのではないか。
 縄文時代の解説書では『縄文海進』は漁場が豊かになるなどと解説され、そこにはマイナスイメージはない。しかし大陸棚地の沿岸に居住していた人々には、深刻な事態であったのだ。彼らは内陸部の集団とは軋轢を生み、命がけで海を渡り安住の地を探す流浪の民だったかもしれない。
 
 まとめ
①現生人類は3万8千年前に海を渡って列島へ移住し、しかもそれは一度きりでなく何度も行われ、また既成概念の単線ルートではなく大陸棚の広がった各地から渡っていった可能性がある。
②なおも海岸線の後退の中、列島への移住や南下する集団もあった。また対馬海流が始まるまで、容易に移動はできたと思われ、その集団たちが特に九州島で特筆すべき早期縄文文化を咲かせていった。
③6千年前の大陸棚地の消滅と、さらなる海進によって渡海を余儀なくされた集団が各地に拡散した。
④日本人のルーツや縄文時代の文化も、列島の各地に渡って来た移住民の存在を考慮しなければならず、決して日本の中だけで単一の文化が続いたわけでなく、弥生、古墳時代と同様に多元的に見ていかなくてはならない。

参考文献
篠田謙一「新版日本人になった祖先たち」NHK出版2019
篠田謙一「DNAが語る列島へのヒトの伝播と日本人の成立」平成27年度大阪府立弥生文化博物館図録
柳田誠・貝塚爽平「渤海・黄海・東海の最終間氷期以降の海面変化に関する最近の中国における研究」1982
小林達雄「縄文時代 日本発掘ここまでわかった日本の歴史」朝日新聞出版2015
新東晃一「上野原遺跡と南の縄文文化」熊本歴史叢書古代上編熊本日日新聞社
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡!東名遺跡」 山田康弘「縄文時代の歴史」講談社現代新書2019
李国棟「稲作文化にみる中国貴州と日本」雄山閣2015
ディヴィッド・ライク「交雑する人類」NHK出版2018

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           (写真は、新潟県長者ヶ原考古館の説明パネル)
 弥生時代のみならず、1万年あまりの縄文時代も移住者が自分たちのエリアを開拓しては、既存の集団と交流をし、文化を発展させていった。こういったことは当たり前のようであるが、研究者の多くには不思議と考慮がされていない。この理解が弱いために、縄文時代の独特の文様の土器などを理解の超える4次元の文化などと称することになり、あげくに、よほど自信がないからか岡本太郎を何度も引き合いに出して説明するという愚を続けておられる。
 ヒスイに関する説明もその典型だ。加工の容易でないヒスイ製品がなぜ作られ全国に広まったのか。これについて小林達雄氏は、「どれほど感性に訴えたとしても物理的に不利な条件(ヒスイの加工の困難さ)を簡単に払しょくすることは…できない。それをこえさせたものとは一体なんであろうか。具体的な理由をはっきり知ることはできないけれど、縄文人が辿ってきた長い歴史、経験の蓄積から醸成された総合力の意外な表れとしか言いようがない」と述べられるのだが。
 マラソンレースの例えにあるように、あくまで列島内での自生による文化の発現とされるのだ。氏は中国大陸の良渚文化の見事な玉製品を全く理解しておられない。日本でヒスイ製品が登場する縄文中期に大陸では玉文化は花盛りだったのだ。その技術をもった集団が北陸に移住し、糸魚川市姫川の海岸もしくは川沿いで理想的な透き通るような石を発見し、ヒスイ製品を大量に製造し交易をしたのだ。あわせてヒスイ以外の高度な文化をも広げていった。そのように考えた方が現実的であり、雲をつかむような「縄文人の総合力」とするのでは説明にならない。
 また最古期の縄文土器については青森県の大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡の16000年前のものとされているが、工藤雄一郎氏は、長崎県佐世保市福井洞窟の土器も同じ時期と指摘し、しかも細石刃石器群との伴出で、東日本とは異なる文化的背景の中で土器の使用がされたと指摘。これによって土器は日本列島で多元的に出現したのか、と自問される。縄文時代も多元的に考えなければならないと指摘されだしているのだ。マラソンコースは単純な1本ではなく、何本ものコースがあったといえる。
 小林達雄氏の論調は、縄文一元論と言えるのではないか? 現実を直視せずに、既定の考えにはめ込んで説明する点において、それは、珍しい遺物が出れば何でもヤマトと結び付けて説明しようとする、かたくなな近畿一元論とも共通するように思える。

参考文献
浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002
小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010
高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010
工藤雄一郎「後期旧石器時代から縄文時代への移行期の再検討」(再考!縄文と弥生)吉川弘文館2019

中国ポロ
 天理参考館の中国唐の時代、乗馬ポロを楽しむ女性を描いたもの。おそらく、彼女の右手にマレットが握られていた。このポロが高松塚古墳絵画にも関係している。
高松塚絵画
 同じ古代史の会で奈良新聞の方から、うれしい知らせが届いたので、転載させていただきます。 向かって右側の男性が持つものがポロのマレットだという見解を論証されている。注目は、このポロが、唐にはソグド人が伝えたこと、さらに「大陸に目を向けることで新たな境地が開けるのでは」というところであり、おっしゃる通りである。私も以前に、こちらで少しふれていますので、ご覧ください。
 実は壁画の向かって左側の男性が手にしているのは、折りたたみ椅子の床几である。当時は、誰もが持っていたものではない。これも騎馬遊牧民に関係するもので、これについては、改めてふれていきたい。
 この壁画の問題に限らず、古代の様々な事物も、ユーラシアを視野に入れた検討が必要と思われる。

2024.05.08 奈良新聞
奈良県明日香村、高松塚古墳壁画・西壁男子群像の“杖”「ポロ」のマレット~ 橿考研の中村氏「唐の壁画と共通点」史資料検討し独自見解
 奈良県明日香村の国宝・高松塚古墳壁画(7世紀末~8世紀初め)の西壁男子群像が手にする杖状の持ち物は、ポロのマレット(スティック)ではないか―。中国・唐や中央アジアの壁画と史資料を検討し、そんな説を県立橿原考古学研究所(橿考研)の中村健太郎主任企画員(中央ユーラシア史)が発表した。これまでマレットとみる見解もあったが、証拠を示して論じたのは初めて。
 高松塚古墳壁画の西壁男子群像のうち右端の人物は、先端がL字型をした杖状の持ち物を手にする。従来は権力を象徴する威儀具とみるのが通説となっていた。
 中村さんは近年発掘調査が進む唐の壁画に描かれた、男女の従者の棒状持ち物を調査。男子はポロの毬杖(きゅうじょう=マレット)、女性はT字型やU字型の杖と描き分けていることが分かった。唐時代の出土遺物も調べた結果、毬杖はL字型で高松塚壁画と共通し、中村さんは「高松塚壁画の持ち物もマレットと判断できる」と話す。
 ポロは馬に乗って行う団体球技。ペルシャ発祥で中央アジアを経て唐や日本へ伝わったとされる。
 中村さんは中央アジアの壁画や中国の史料から、唐には7世紀後半以降、当時商人として活躍したペルシャ系のソグド人らによって伝えたられたと指摘する。
 日本では平安時代初期(9世紀前半)にポロが行われた記録があり、5月の端午の節句に行う宮中の年中行事や、外交儀礼で天皇らが権勢や栄華を誇り実施した。
 それ以前の飛鳥―奈良時代には、万葉集に「打毬之楽」の表現があり、平城宮跡(奈良市)ではポロに用いたと考えられる「木球」も出土。ただ日本書紀や続日本紀などの正史には記録がなく、中村さんは「当時は唐から伝わった最先端の娯楽として皇族・貴族が私的に興じたのではないか」とみる。
 さらに高松塚壁画のマレットはやや短く、馬も描かれていないため、「騎馬ではなく徒歩で競技するポロを表現した可能性がある」と語る。唐では徒歩で競技する場合もあったという。
 中村さんは3月20日、橿考研で開かれた講演会「高松塚古墳壁画の系譜―東西交流の視点から―」で説を発表した。「高松塚壁画の研究は国内にとどめず大陸に目を向けることで新たな境地が開けるのではないか。今回の研究はその問題提起になれば」と期待する。  以上

DSC_0228欠状耳飾り
写真は、富山県南砺市埋蔵文化財センターの玦(けつ)状耳飾り 大陸始原の遺物と考えられる。

1.縄文時代が1万年続いたという誤解
 よく縄文時代は1万年以上の長い期間続いたという、世界に類を見ないことだといった表現を目にすることがある。しかしこれは、ちょっと奇妙ではないか。たとえば、江戸時代が260年あまり続いたというのは、徳川幕府の体制が継続していたので問題はないが、縄文時代の場合は、列島全体に一つのまとまった社会的な状態が変わらずに続いていた、などとは考えられないのではないか。単に時代区分として縄文時代と設定したのがおよそ1万年あまりであったと言うだけのことである。同じようなタイプの縄文人が、一つの社会、文化を一律に継続して営んでいたものではないだろう。
 さて、この縄文時代の社会についての認識が変わりつつある。
 古代人のゲノム解析が進む中、「二重構造モデルが基盤とする『全国的に均一な縄文人』という概念は、ゲノムを読むことでより細かい分析が可能になった現在では、棄却すべき前提となりつつある」(篠田2024)という。
 列島の縄文人は、孤立化された空間で独自の発達をとげたということはなく、大陸からの移住民が、新しい文化をもって列島に繰り返し渡って来たと考えられる。しかし、縄文時代の渡来についてはなかなか認めようとされない状況がある。

2. 「大陸との交流」
 三内丸山遺跡の調査に携わった岡田康博氏は異質の文化の登場に次のように解説される。縄文文化は四方を海で囲まれた日本列島の地理的条件や採集狩猟文化として高度に発達した点などから、孤立的に独自の発展を遂げたと考えられていたが、日本、中国、韓国、沿海州など各地の考古学的な情報が増えるにつれ、相互に無縁とは考えられず、環日本海あるいは東アジアの視点で見直す必要に迫られてきた、というのが現状だろうと述べられている。ただ氏の場合、それは「大陸との交流」という表現になる。これについては異論が出ている。
 高山純氏は「日本の考古学者が『交流』という言葉をしばしば使用することに私は多少の違和感を抱いているとし、伝播と違って交流となると思想や文化などの一部にしろ、全部にしろ、それが相互に往来したことを意味する。縄文時代早期の日本からいったいなにが相手の中国に流れたのか、具体的事例が浮かばない」との指摘は的を得ている。では高山氏は渡来を肯定しておられるのかというとそうではなく、縄文人の独自考案、偶然の一致とされる。すべてを偶然で片付けるというのは、いかがなものであろうか。しかしこれは彼だけでないのだ。
 宮本一夫氏は『縄文文化と東アジア』のなかで玦状耳飾りなどの桑野遺跡の例などから「この縄文早期末~前期初頭という時期は、いわゆる縄文海進期の最大高海面期にあたり、地形的には海によって最も大陸との連鎖を閉ざされた時期といえよう。この時期のこうした文化接触によって情報が伝播して制作されていったものと考えるべきであろう。決して日本海を直接人が横断したということは考えられない」と。これが多くの研究者のお考えなのだろうか。
 日本人の祖先はみな海を渡って移住したことや、縄文海進によって大陸の沿岸域の住民は高潮や洪水に悩まされ、日本や東南アジアに命がけで移動したなどという考えには及ばないのであろう。情報だけがどう伝わったというのか。
 他にも、マラソンレースに例えて、列島の中だけで独自の発展をしたと説明される方がいる。

3. 縄文時代をマラソンレースに例えるのならば。
 縄文研究の小林達雄氏は一貫して縄文文化の劇的な変化を、自国の内在的な力で主体的に受容し発展させたと解釈する。 これを氏は、マラソンレースに例えている。そこを小杉康氏の解説で引用する。「1990年代に明らかになってきた南九州の縄文草創期から早期にかけての様相、すなわち貝殻文系の円筒形土器をはじめとして壺形土器や滑車型土製耳飾などの存在は、土器問題にとどまらず、従来の縄文文化観そのものに大きな揺さぶりをかけるものであった。その様相に対して、縄文文化の一体制を強く主張してきた小林は、見解を修正せずさらに強化する。『縄文1万年のマラソンレース』における抜きつ抜かれつの先頭、後続集団の交代劇になぞらえて、・・・縄文革命後の定住の強化は、こうして日本列島内に収まる日本文化の形成を促し、大陸側からの独立を強めるとともに、日本的文化の主体性が確立されたのである。」
「しかも縄文文化における渦巻文様の偏在性の意義や先述のような縄文文化の一体性に一石を投じようとする諸見解に対しては、『結局は縄文文化の地域性の発現に他ならない』と反論」(小杉2010)している。新たな文化を生み出したランナーが次々入れ替わって先頭を走るとお考えなのであろうか。
 もしどうしてもマラソンレースに例えるのであれば、次のように考えられるのではないか。たまにレースのテレビ中継を見ていると、沿道で応援する人々の狭間から、正式な選手であるかのように似たようなユニフォームを着けて、レースに紛れ込む輩を見る事があるが、当然すぐに係員によって排除される。ところが縄文レースでは排除されずにどんどん脇から入ってきて、先頭集団になり、また途中で別の集団が入り込んでは上位をねらう、といったことがゴールまで繰り返されるのではないか。
 縄文レースのスタートでそろった選手も、過酷な環境の中で途中のリタイアがつづく。そこに耳飾りをつけた集団が多数入り込む。見る見るうちに先頭に立つ。また渦巻文様がデザインされたユニフォームの選手も先頭をねらう。仮面をつけた人物も登場だ。蛇をデザインした者も現れる。いつのまにかヒト形の手作りの人形をもつものも増えだした。抜きつ抜かれつを繰り返しながら、やがて最後の縄文晩期区間にはいるや、今度は手に稲穂を持った選手が多数、一気に先頭に躍り出る。おふざけが過ぎるのでこの辺でやめておこう。とにかく以上がマラソンレースの実相ではないだろうか。
 大陸との交流ではなく、大陸からの移住民による新たな文化の広がりが、この列島でも繰り返されていたのである。

参考文献

浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002

小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010

高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010

工藤雄一郎「後期旧石器時代から縄文時代への移行期の再検討」(再考!縄文と弥生)吉川弘文館2019
篠田謙一「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学166 雄山閣 2024

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1.後の加耶の地からやって来た弥生移住民
 最初の弥生時代の移住者は、半島のどこからやって来たのだろうか?それを示す分かりやすい図がある。支石墓、松菊里型住居(住居の形が円形で中央に穴があり、その両脇に2本の柱がある)、丹塗磨研壺、石包丁という渡来の代表的な物質文化の半島と玄界灘沿岸地域との関係性を表したもので、その周辺にいくにつれ薄まっていくグラデーション構造が見て取れる(端野晋平2023)。
 この濃く表された範囲は、まさに古くは弁韓、後の加耶の地となるのではないか。もちろんその当時にどのようなクニが形成されていたかはよくわからないが、やがて魏志倭人伝に登場する狗邪韓国や金官加耶もこの範囲に関係するのではないか。
 対馬との最短距離の地から、何度も大小の集団が渡って行ったのだろう。そのきっかけは、寒冷化や温暖化による洪水などの異常気象と考えられている。このあたりの南江流域の遺跡では、洪水砂によって居住域や生産域などが埋没しているという。彼らは、分散的にやって来たのではなく、「既存のネットワークを駆使して目的的」な渡来であったという。ちょうど天孫降臨説話も、リーダーを筆頭に様々な役割を担う人たちが、組織的にやって来たのである。  
 古事記にあるニニギノミコトの言葉「ここは韓国(カラクニ)に向ひ、笠沙の御崎に真っ直ぐ道が通じて、朝日のまともにさす国」にたどり着くその出発点が、図に色濃く描かれたところであろう。記紀に登場するスサノオやアメノヒボコ、ツヌガアラシトなども、このあたりからやってきたのではないか。もちろん、広い半島の各地からの渡来もあったことは言うまでもない。

2.縄文人遺伝子は半島集団も持っていた。
 弥生時代の渡来については、「主体性論争」というのがあって、少数の渡来者から在地の縄文人がその文化を学んで自分たちが広げ発展させたといった論調がまだ根強くある。糸島市の支石墓で発見された新町遺跡9号人骨が縄文人に似ている、といった例があるというが、最近では渡来系の特徴をもつものと理解されている。
 また昨今のゲノム解析の研究で、以下のようなことが判りだしてきたという。
「渡来系弥生人は五千年前の北東アジアの西遼河を中心とした地域の雑穀農耕民集団に起源すると考えられる・・・興味深いのは韓国人の位置で、朝鮮半島集団の基層にも縄文につながる人たちの遺伝子があることを意味している。初期拡散で大陸沿岸を北上したグループの遺伝子が朝鮮半島にも残っていたためと考えられる。」(篠田謙一2023)
 つまり、弥生渡来人は、縄文人の遺伝子を持っていたというのだ。列島の縄文人のルーツが東南アジア方面からの移動であるならば、その行程の途中に縄文人の遺伝子を持つ人たちが、存在してもおかしくないのである。よって、九州の在地の縄文人による主体的な稲作文化の受容は考えにくいと言える。組織的な集団の列島への移住から稲作文化は定着し、全国に広がったと考えたい。

参考文献
篠田謙一「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学166 考古学とDNA 雄山閣2024
端野晋平「弥生時代開始前夜」季刊考古学 同上

図は、端野晋平氏の「渡来人の故地の推定」

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