型吹亀甲文紺色坏 慶州天馬塚 6世紀 類例は4世紀頃の東地中海から黒海周辺、南ロシアなど広く分布しているが、東アジアでは唯一の出土例とのこと。 『ユーラシアの風新羅へ』より
日本書紀は、古代の情報が豊富に綴られた重要な書物である。しかし、その記述には、様々な、操作、筆法といったもので組み立てられているので、これを、解きほぐさなければ、正しく古代史を知ることが出来ない。
日本書紀は、古代の情報が豊富に綴られた重要な書物である。しかし、その記述には、様々な、操作、筆法といったもので組み立てられているので、これを、解きほぐさなければ、正しく古代史を知ることが出来ない。
最大の問題は、天皇の万世一系の記述であり、さらには、近畿に古代日本の中心があったかのような近畿一元史観で作られていることである。それに伴って、多数の記事を、主語を替えたり、年代を操作するなどの改編が行われている。この年代移動については、説明しても納得されにくい場合も多い。そのため、随時、書紀が施したトリックのような手法などを説明していきたい。
まずは手始めに、推古紀の任那についての記事からはじめたい。この任那は、欽明紀23年(562)に新羅によって滅亡している。その後、しばらくは、滅んだ任那を復活の試みを始める記事があるのだが、それはかなわなかった。ところが、不思議なことに、半世紀も後の推古紀に、任那のために新羅を討伐するといった記事が登場する。さらには、推古以降の舒明、孝徳の時代にも任那が出てくるのである。これらは、干支一運60年繰り下げた記事があると考えられるのだ。
正木裕氏の指摘によるものだが、60年ずらして、それをうまく?隠そうとしていることが丸わかりの記事があるという。
欽明紀23年に新羅が任那を滅ぼすという記事がある。その後に、天皇の新羅への怒りの言葉が延々と続く。だが、新羅討伐の準備をすぐに始めるといった記事がないのだ。そして翌月には、大将軍紀男麻呂が兵を率いて哆唎(栄山江の東側あたりか)から出発するとある。新羅討伐部隊の布陣も説明がないが、そもそも、いきなり半島の哆唎から出発とはどうゆうことなのか。実はこの前段の記事が、動かされて推古紀にあるという。同じ干支年壬午の欽明紀23年(562)が60年下がって、同じ壬午の年の推古紀に移されたのだ。注1
推古紀31年(岩崎本は30年)には、任那滅亡から半世紀も経過しているにもかかわらず、新羅が任那を討ったという記事があり、早速、新羅討伐の準備を進めているのだ。岩波注には、「新羅が再び強固となり新羅領内における日本の旧任那の地に対する権益を犯したものか」というやや苦しい説明をされている。だが、ここに次のような人物がみえる。大徳境部臣雄摩侶を大将軍とする記事があるのだ。漢字が異なるが同じヲマロであり、書紀の編者は同一人物であることを隠したつもりなのだろうか。こうして、推古紀で、新羅討伐の為の軍が編成され、半島に渡る所まで描写される。その後に、本来の欽明紀に、半島の哆唎を出発する。このヲマロが偶然同じ名前になっただけとは考えにくい。60年動かすことで、いや、正確には元に戻すことで話がつながるのである。
注1. 岩波など一般の日本書紀は天理本が使われているが、小川清彦氏『日本書紀の暦日について』の指摘で、該当箇所の干支に間違いがあり、岩崎本の推古紀30年の壬午が正しいとされる。
参考文献
正木裕『繰り下げられた任那防衛戦と任那滅亡記事』 古代大和史研究会講演2024.5 など