流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年04月

「白妙の衣」かもしれないヒトツバタゴ咲き始めました。

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 京都府立植物園のヒトツバタゴです。なんじゃもんじゃ、ともいわれてます。まだ咲きだしたところで、樹齢の高い幹の太いのは、まだこれからのようです。GWの間は、しっかりと楽しむ事ができそうです。
 咲いてる場所はこちらのマップです。
植物園マップ

 次は洛西ニュータウンのラクセーヌの街路樹。こちらもきれいに咲いています。この木だけ、まるで雪が積もっているかのように見えますね。
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 ほかにも、桂川街道の街路樹に、植樹されているところがあって、こちらもきれいに咲いていました。
 まあ、今の時期は、つつじが真っ盛りで、色もカラフルで、それにくらべてヒトツバタゴは、派手さはありませんが、昭和天皇も歌にされた素敵な白い花です。
 ひょっとすると、持統天皇が「白妙の衣」と例えた花かもしれません。こちらをご覧ください。
 各地に咲きだしていると思いますので、ぜひお探しください。
 
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 ヒトツバタゴが目的で植物園にやってきましたが、まあ今の時期は、様々な色の美しい花が見事に咲いています。たまには足を運ぶのもいいものですね。

衣笠型埴輪と船型埴輪、七支刀に共通する鹿の角

宝塚船
京大衣笠
 上図は、三重県松阪市の宝塚古墳の船形埴輪、下は京都宇治市の庵寺(あんでら)山古墳の衣笠型埴輪 両者の特徴ある形状には共通点があるという。
 古墳には周囲を取り巻くように円筒埴輪が置かれていることが多いが、その要所要所に衣笠(蓋)型埴輪が据えられていることもある。辰巳和弘氏の指摘だが、宝塚古墳の船形埴輪の船舳の表現と立飾りの形状が似ていることに注目し、これは土器絵画などにある鹿の絵の角の表現ではないかとされた。
舳先形状
 図の左側の船形埴輪の舳先とその右側の三つの衣笠形埴輪の形状は、ほぼそっくりである。古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り古墳の船形埴輪といっしょに展示してある1号墓の船も、その形状が似ているのである。
 
船 衣笠
 まるで鹿の角が左右に広がっているかのように見える。蓋埴輪の羽のようなところも、よく見るとまるで埴輪のゴンドラ船を描いたかのような形状である。やはり、鹿の角をモデルに制作したと考えられる。辰巳氏は鹿角の呪力とされているが、鹿の角に霊力を招くような意味合いを考えられたのだろう。
志賀海
 九州の志賀海神社には、大量の鹿の角が奉納されているが、これも角に宿る霊力にあやかろうと願ってのことであろうか。
 
鹿埴輪
 日本の埴輪のみならず大陸にも立派な角を持った牛や鹿がよく描かれている。
 すると高廻り1号や2号などの船形埴輪も、鹿角の形状をモチーフに描いた祭祀用の形状のもので、決して実用の船でなく、喪船や祭祀用であったということであろう。
博物館の説明
 この衣笠形埴輪の説明に、貴人にさしかける日傘、といった解説があるが、この笠の飾りは葬送儀礼と関係するのであり、生存する王に使われたものかどうか疑問であろう。
 そして、埼玉県には衣笠型埴輪とされる角をモチーフにした埴輪が出土している。
衣笠と七支刀
 これをよくみると、七支刀に何やら似ているのである。古代の刀には、北斗七星の図柄が刻まれたものもあって、七支刀も関係があるとの見解も見られるが、これは鹿の角をモチーフにした霊剣と考えたほうがよさそうではないか。二本の角をずらして重ねると、まさに七支刀のモデルとなるのではないだろうか。霊力をもたらす祭祀用の剣となろう。

※古代船「なみはや」のモデルの船形埴輪が喪船であったことについては、こちらをご覧ください。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社 2011    
掲載図
志賀海神社写真はブログ対馬市福岡事務所レポート
庵寺山古墳衣笠型埴輪は京大総合博物館
生出塚衣笠埴輪は鴻巣市HP


TV番組での持統天皇の奇妙な冠

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1.被葬者を送るために船形の飾りのついた冠 
 写真は、滋賀県鴨稲荷山古墳の復元された金銅製冠で、その立飾りの先端は、蝶とか花の形などと一般的に説明されているが、よく見ると宮崎県西都原古墳の船形埴輪と酷似している。舳先の二本の柱、櫂座表現など、これをモデルに細工されたのではないかと思える。
鴨稲荷山冠
 古墳時代には、船形埴輪や土器絵画、装飾古墳などに船が多く描かれている。これは被葬者を他界へ送るための乗り物として描かれたと考えられる。他にも、船がデザインされた冠をいくつか見受けられる
 奈良県藤ノ木古墳金銅製冠はアフガニスタンのティリヤ・テペとの類似が言われるが、実はそこにはないものが描かれている。藤ノ木古墳のものはゴンドラ型の船に鳥が止まっているのである。
藤ノ木舟
 また、小倉コレクションの加耶の冠も当初は花弁とガク(早乙女雅博1982)とされていたが、実は花ではなく船であって、古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り2号墳の船形とそっくりなのである。  
伽耶冠
 辰巳和弘氏は、藤ノ木古墳や鴨稲荷山古墳の金銅製飾履も実用のものでなく、冠の船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとし、すぐに王権との関係などと説明されることの多い傾向に対し、宗教的側面からの検討を全く怠っている、と厳しく指摘されておられる(2011)。
 また船だけでなく、馬の表現が古墳時代によく見られるのは、霊獣であって被葬者の乗り物と考えられていたからであろう。しかしこのことが理解されていない例がTV番組にあった。

2.持統天皇役にかぶらせた間違った冠
持統冠
 先日、前年放映の再放送の歴史番組をみて、ありえない小道具に気が付いた。NHKの「英雄たちの選択 古代日本のプランナー・藤原不比等」という番組だ。そこに持統天皇役の女性のかぶる冠を見て、何か変だと思い、録画をしていたので見直した。
持統アップ
 馬の形に見覚えがあったのだが、この冠は実際に古墳から出土した副葬品を模したものであった。それは茨城県三昧塚古墳出土の金銅製冠で、左右がそれぞれ山形を呈し,全体の長さは約60cm。正面には蝶形の飾金具を二段階配し,上縁には花形と馬形の飾りを交互に配しているというものだ。さすがにこの演出に使われた小道具はいただけない。
三昧塚
 この古墳の時期は5世紀後半とされている。西暦500年以前であるが、持統天皇が活躍したのは700年前後である。番組スタッフは、200年も前の冠と同型のものを持統の冠に仕立ててしまったのである。時代考証はされなかったのか、それとも、されても素通りであったのか。
 もう一つの問題は、前段で紹介したように、古墳からの出土品や図形の表現は、その多くが葬送儀礼のためのものと考えられるのである。被葬者のための霊船、さらには霊獣である馬の形をあしらった冠はあくまで死者を送るための副葬品と考えられる。それを生存中の天皇が頭に飾るなど、とても考えられないのである。
 今後も同様の歴史番組が作られても、このような小道具は使われないようにしていただきたい。

※高島歴史民俗資料館は、各施設の老朽化などによる統廃合のため、令和6年3月閉館しました。新たな施設での早期の展示の再開を望みます。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
早乙女雅博氏は「新羅・加耶の冠」 (Museum372)
西都原古墳群の船形埴輪の図は HP日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会

古代船『なみはや』の復元は喪船をモデルにしていた

なみはや航海
1.失敗だった実験航海
 一九八九年に大阪港から釜山まで、古代船の復元による実験航海を行った『なみはや』だが、後日に漕ぎ手が当時のことを語る記事がある。「大阪市立大学のボート部が、二十六名を八~九名の三班に分け、天保山から牛窓、牛窓から福岡、福岡から対馬の各区間を分担して漕いだ。最後、対馬から釜山までは伴走船にも分乗して全員で行った。 漕いでいても風景が変わらず、前進していないような気分があった。対馬から出航した際には、大揺れで船酔いする者が続出。 八人で立ち漕ぎしたが、力が入りにくく、水を十分にかいていた感覚は無かった。長時間すると手の平の豆が破れた。出航後、早く曳航が来ないかと思ったこともあった。」(OSAKA ゆめネット)
 これを見るに、惨憺たる結果であって、漕ぎ手は精いっぱい頑張ったのだが、そもそもの復元された「準構造船」に問題があったということではないか。齋藤茂樹氏は「現代の船体構造設計者によると、構造的にとても船とは言えない代物だった」とし、「非常に安定が悪く、そのうえ、なかなか進まない。五十センチの高さの波がきただけでもバランスを失う、また喫水が浅く少しの風でも倒れる」ような状態であって、「舟形埴輪と相似形の準構造船は、実際には存在しなかった」(『理系脳で紐解く日本の古代史』)と断言、埴輪の船は「陸地や内海・池で曳かれるだけの喪舟」だったのではないかと指摘されている。祭祀のための船という説にも同意するのだが、私は、この『なみはや』の復元には根本的なところで大きな誤認、勘違いがあったと考えるものであり、この点について、さらに喪船、祭祀のための船について説明していきたい。

2.準構造船という考え方の問題点
 「なみはや」の復元では、アメリカのオレゴン州から直径二m越えの米松をわざわざ取り寄せて、それを繰り抜いて船体に仕立てている。なぜそのような巨木が必要であったのか。 
準構造船説明
 準構造船とは、丸木舟を船底にして、舷側板や竪板などの船材を加えた船、と説明されている。やがて、骨組みと板材によって建造された構造船となるという。だがこの説明だと、準構造船は、船底となる丸木舟の大きさに規制されてしまう。広い幅のある船、二人が横並びで櫂を漕ぐことができるだけの空間のある船はつくれないのである。守山市HPでは、「板材の結合技術が未熟なわが国では、この準構造船は長らく使われ、室町時代まで大型船の主流を占めていました。」と説明がされている。根拠のない決めつけの説明でしかない。この考えに縛られて『なみはや』の場合、幅を広くするためには巨木が必要となったのである。
おもき
 では、幅の広い準構造船はないのかといえばそうではなく、木材の湾曲部分を断ち割って船底部を平板でつなげばよいのである。五世紀中頃には船底を三材組み合わせて横継ぎにし、横幅を二メートルほどに増した横継ぎ組み合わせ式船体の存在も考えられる(福岡市吉武樋渡(ひわたし)遺跡で出土の船体資料)。船底部の丸木を半分に割って「おもき」とし、その間にもう一枚の平板の材(かわら)を挟み込むのである。守山市HPの「板材の結合技術が未熟」という説明は、何の根拠もない。縄文時代には、ほぞ穴のある加工された材木が出土しているのである。紀元前から地中海周辺で作られた構造船の木材の接合技術は、早くに広がっているのではないだろうか。
 以上のように、船底も板をつないだ工法をあったことを検討されずに、一般的に言われる単純な準構造船で復元しようとされたところに問題があることを示したが、さらに『なみはや』の復元にはモデルとした船について大きな勘違いがあったのである。
歴博船
3.モデルにした高廻り二号墳の船形埴輪の姿を見誤った。
 大阪市平野区高廻り古墳の一号墳と二号墳から出土の船形埴輪のレプリカが、大阪歴史博物館にいっしょに展示されている。
 奥が一号墳、手前が二号墳のものだが、この両者をよく見てほしい。なにも目を皿のようにして見るまでもなく、素直に見れば違いがわかる。一号墳は筒型の二つの台の上に置かれており、2号墳号墳は別の船形の上に安置されているように見えるのではないか。上下を一体としてみるとワニの口のように見えるが、実は下あごに見えるのは、上部の船の台を表現したものだ。丸木舟に波除の板の部品を組み合わせて造られた木造の船、と説明される準構造船という代物ではないのではないか。
 あまり言われないことだが、埴輪の多くは、直接地面に置かれることはなく、円筒埴輪を土台にして造形されている。人物も剣や楯も鳥も魚もよく見れば円筒埴輪の上に鎮座しているのである。多くの埴輪は、直接地面に置かれてはいない。なぜ円筒埴輪を台にしているのかというと、埴輪はみな祭器として置かれるものであり、それが地面に直接触れると、地中の邪気が移る、または霊気が吸われてしまうといった観念から、忌避したと考えられる。一号の舟形埴輪だけでなく、三重県松坂市宝塚古墳の立派な装飾のある船も円筒埴輪を台にして古墳の片隅に置かれたのである。二号墳の場合は、その台が船形になったにすぎないのである。
船埴輪の分離
 これをそのままモデルにして復元したから、重心が上がり、とても漕ぎにくい船になってしまったのである。このような誤解が他にもある。

4.同じ轍を踏んでしまった奈良県巣山古墳の喪船の解釈
 巣山古墳で出土した竪板と舷側板などから、当時の広陵町教委文化財保存センター長の河上邦彦氏は、左右二枚の舟形側板の間を角材や板材などでつなぎ、その上に木棺を載せたと推測。葬送用の特別な用具で、修羅で引っ張ったのでは、と説明されていた。
喪船移動復元
 これはまさに、『隋書倭国伝』の「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす」に関連するものであろう。復元図も作画されたが、残念なことに後の復元では、出土物に加える形でワニの下あごや船底などが盛り付けられてしまっている。
巣山復元
 そのようなものは全く出土していないにもかかわらず、いつのまにか修羅に置かれた喪船が、船底部に一本の丸太をくりぬいた丸木舟をくっつけて、上に舷側板を加えた準構造船なるものに鞍替えされたのは理解に苦しむ。
 牽引のための修羅に載せられた船を表現した船形木製品が、弥生後期の京丹後市古殿遺跡から出土している。下あごに小孔があり、ここに綱を通して牽引するものとして作られたのであろう。また東大阪市西岩田遺跡のものは、船形木製品と説明されているが、先端部に、切り込みと、穿孔があり、修羅のようなものにして、この上に別の船の造形物を載せていたのではないか?
修羅模型
 大阪府藤井寺市三ツ塚古墳の修羅の実物も先端部は穿孔があり、上向きに反るように盛り上がっている。
 以上から、高廻り二号墳の船形埴輪も、喪船を円筒埴輪の代わりに船の形をしたものに安置したものであって、それは修羅としても使われるものでもあったととらえたほうがよさそうである。

5.船首の竪板と考えられるものを船内に配置する例
 大阪府八尾市久宝寺遺跡からは、実物の準構造船の船首部が出土したとして、その復元がされている。これによって、竪板と船底部の接合方法も明らかになったというのである。するとこの場合、先端が二股のワニの口のような船があったということになるかといえばそうはならない。
カラネガ
 弥生時代から古墳時代にかけての土器や銅鐸、板絵、古墳絵画に描かれた船絵に、先端がワニの口となった表現に見えるような図があるが、それは、船内の構造物の表現である。京都カラネガ岳2号墳の船絵は、船の前後に、梯子状のものが斜めに描かれている。これは竪板と同じものと考えていいであろう。つまりこれは、船首と船尾の中に竪板を置いているのである。久宝寺の出土した船も、巣山古墳のものと同様に、祭祀用の船であったと考えられる。 
 宮城洋一郎氏は、万葉歌などから祭祀の場が舳先であって、ここには特別な意味があったとされている。海上の守護神である住吉神は船の舳先に祀って安全を祈願するのである。また、天皇への服属儀礼もあったようである。景行紀十二年には、神夏礎媛が、「素(しら)幡(はた)を船の舳にたてて」参向している。舳先が、祭祀や儀礼に使われる、聖なる空間であったのだろう。古代に描かれた船絵には、このようなものも描かれたのであり、それがワニの上あごのように見えたのであろう。
 日本書紀履中三年に両枝(ふたまた)船の記事がある。古事記垂仁記にも二俣小舟とある。研究者の中には、これを、ワニ口の準構造船のことだとされるご意見もあるが、いずれも池に浮かべており、とても海上を進む船とは別のものであろう。なお、記紀のフタマタ船が南洋の事例から、二艘の丸木舟を繋ぎ合わせたものという説がある。いずれにしてもワニの口の準構造船とはならない。
 
6.時空を超えて広がる祭祀船のイメージ
宝塚
 三重県宝塚古墳の見事な造形の船形埴輪は、古墳の墳丘の裾の造り出しとの間の隙間に置かれていたようで、外側からは見る事ができない状態で置かれていた。見せびらかすものではなかったようで、あくまでこの古墳の被葬者の死後の世界の旅立ちのために置かれたかのようである。これは、ちょうど大ピラミッドの太陽の船と同じ状況ではないだろうか。こういった類似は、他にもある。舟の上部に大きく太陽を描いた構図は、九州の装飾古墳に同じモチーフのものが描かれている。
 また、隋書の喪船を引く習俗も、同様のものがある。ピラミッドのクフ王の船からマストや帆は見つからず、12個の大きなパドル(オール)は発見されている。しかしこれらのパドルは巨大すぎて漕ぐものとすることは困難であり、航行の際には「舵を取る」ために使われたと考えられることからクフ王の船は自力で進むことのできる能力はなく、他の船などに牽引されて使用される「バージ船」であったと考えられる。
エジプト曳航
 王墓の壁画には、王の船を従者がロープで曳く光景も描かれている。つまり、実用的な船ではなく、王のための祭祀用の船が別に存在しているのである。日本でも喪船と考えられる出土品が同様のものではないだろうか。

7.埴輪の祭祀船が冠にも表現されていた
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 また各地の古墳から出土している金銅製冠にも船が描かれている。奈良県藤ノ木古墳の場合、鳥と樹木の表現からその出自が論議されているが、よく見れば鳥が止っているのはゴンドラ船の中央の柱である。それが連続するように描かれている。ティリヤ・テペとの類似が指摘されているが、そこには船形の表現はない。
 辰巳和弘氏は、いっしょに置かれていた金銅製の履も実用のものではなく、冠に描かれた船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとする(「他界へ翔る船」2011)。他にも小倉コレクションの加耶冠、滋賀県鴨稲荷山古墳の冠の立飾りには船が描かれており、さらによく見ると、その船の形は、櫂座の表現もみられ、古代船復元のモデルとなった高廻り古墳や西都原古墳の舟形埴輪とそっくりなのである。いずれの冠も葬送用であり、死者を送る祭祀船が描かれているということになる。これらの豪華な副葬品を、ヤマト王権が下賜したものといったありきたりの表現がよくされているが、あくまでこの冠は、死後に棺に添えるものであって、決して生前に王が儀礼の時などにかぶっていたものではないのである。
 以上のように、土器や古墳の副葬品や埴輪に描かれた船は、その多くが死者のための喪船、祭祀船であって、それを復元しても実際に自力で海面をすすめるかどうかはわからないのである。では、渡海できるような船はどのようなものであったのか。舟の絵画には、帆船とおぼしき表現が多数見受けられる。古代の帆船について、世界にある事例なども参考に検討しなければならないだろう。
 繰り返すが、復元された『なみはや』のモデルとなった船形埴輪は、あくまで墓に眠る被葬者のための喪船なのであって、他の博物館などで同じように復元されたものも、祭祀船との説明をして展示してほしいものであって、とても外洋を航行できるものではないということである。


参考文献
齋藤茂樹「理系脳で紐解く日本の古代史」ネット掲載
佐原真「美術の考古学 佐原真の仕事3」岩波書店2005
OSAKA ゆめネット「古代船「なみはや」の解説のお知らせ」ネット掲載
平田絋士「二檣――継体天皇の2本マストを復元する」海上交通システム研究会
角川春樹「わが心のヤマタイ国 : 古代船野性号の鎮魂歌 」(角川文庫)1978
YouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」
宮城洋一郎「船の民俗と神話」月刊考古学ジャーナル臨時増刊№536 2005 ニューサイエンス社
YouTube河江肖剰古代エジプト「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7 」 
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
三重県松坂市市HP 「宝塚古墳船型埴輪」
大阪府藤井寺市HP「高廻り古墳船形埴輪」

京都の蛇文様の描かれた縄文注口土器

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 写真の土器は、京都の比叡山の麓の一乗寺向畑町遺跡のいわゆる注口土器だ。東日本にはユニークな形状や文様のもの注口土器が多くみられるが、この京都の土器は引けを取らない見事なものである。
 肩部がそろばん玉の形をしていて、高さは24.8cmとのことだが、かなりの容量となるから水をいっぱい入れたら、把手がないので両手で抱きかかえるように持って使っていたのだろうか。胴部には二つの帯状のデザインが取り巻いている。
注口合成
 さらに、注ぎ口以外を均等にした三か所に波線が口縁部から中央の帯文様まで描かれている。しかもその波線の両側を小さな円文が並ぶように描かれている。帯状の文様は避けながら描いているので、帯文様の下を潜っているかのようにも見える。
DSC_0936文様アップ

 『京都盆地の縄文世界』(新泉社2012)では、この文様を拡大した図が表紙を飾っている。やはり誰しも気になる文様ということでしょう。
 口縁部のデザインやその中に付加条縄文で飾る帯状の文様が施されるといった洗練されたデザインとなっているおり、この波線の模様はなくてもよかったのではと思えるのだが。しかし、縄文人にはこの文様はどうしても描かなければならない意味のあるものだったのではないか。それは、蛇行状の文様からして水神である蛇神を表したものと考えたい。解説書などには、そのような説明は見当たらないのだが、東日本の中期縄文土器に濃厚に描かれた蛇文様を、シンプルにした線刻で描いたのではないだろうか。そして円文はその蛇が囲む霊気のようなものを表しているのかもしれない。あくまで想像ですが。水田耕作はまだであっても、穀物栽培は行っていたはずであり、水は重要なものであることにかわりはなく、また逆に洪水で苦労するということも多々あったと考えられる。
 荒ぶる水の神、蛇神を鎮めるために、このような蛇文様を描いた注口土器による祭祀が行われていたと想像する。この土器の中にどのような液体を入れていたのか。清水を組んで祭祀場に注いだのか、それともお酒を入れて、神様といっしょにみんなで飲み合ったのか、もしくはお茶のようなものを作っていたのか。いつか解明されるかもしれない。
DSC_0472志賀里蛇
 このような波線を施した土器が、他にも見受けられる。滋賀県後期の滋賀里遺跡の土器だが、同じように口縁部から垂下するようにジグザクの線が刻まれている。
ひたちなか注口土器
 また茨城県ひたちなか市の注口土器には、線刻ではないが隆帯文で描いた蛇行状のデザインも蛇を描いたと考えられる。
弥生鍵遺跡蛇
 時代は下がるが、弥生時代の唐古・鍵遺跡の土器にも蛇行状の線刻があり、これも水神の意味で描いたと考えたい。こちらにあるように、水神を祀る土器が、多数存在した地域だと考えられるのである。

※この注口土器は、現在、京大総合博物館で見る事ができます。2024年6月9日(日)まで『比叡山麓の縄文世界』企画展が開催中。ぜひ京都、滋賀の縄文土器などをご覧ください。


参考文献
「日本の美術№498縄文土器後期」(至文堂2007)
千葉豊「京都盆地の縄文世界 北白川遺跡群』(新泉社2012)

持統天皇の「白妙の衣」は対馬の白い花のヒトツバタゴのこと⑵

鰐浦漁港
⑸万葉歌の地名をすべて奈良の大和や近畿を中心に考えるのは疑問
 竜田山(龍田山)は万葉歌によく登場し、奈良あたりが有名だが、熊本県にも龍田山(立田)があるように、伊勢も三重県以外の各地に見受けられる。万葉歌には次のような地名への疑問がもたれた例がある。注2
 和銅五年壬子(712)四月長田王伊勢齋宮に遣しし時、山辺御井に作る歌。
81 山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子(をとめ)どもあひ見つるかも。
82 うらさぶる心さまねし(*重なる、次々とうかぶ)ひさかたの天のしぐれの流らふ見れば。
 右二首今案ずるに御井にて作る所に似ず。若疑(けだし)當時誦われし古歌か。
 これらは、「題詞」では三重の伊勢神宮に行った時の歌の様に記されるが、左注にあるように「伊勢の御井」にはあわない。この点、万葉学者の中西進氏も次の様に述べている。
 「山の辺の御井は斎宮にあるのではない。御井を見ることを主とし、その上に伊勢少女に会ったという、ふしぎな一首である。古歌を口ずさんだか、それこそ九州派遣の折の歌か、である。もし後者なら、いかにも心細そうな口ぶりも理解できるし、上にあげた(*二四五~二四八の)九州の歌と脈絡がつき、歌の空虚感もよく理解できる。」(中西進が語る「魅力の深層」) つまり、左注では御井の地についての疑問が書かれ、中西進氏は、九州の地を想定されている。このような、疑問点が香具山とされた他の歌にもあるのではなかろうか。

高麗山合成
⑹天の香具山について
 原文は香来山である。柿本人麻呂が高市皇子の殯の時の第2巻199番では、香来山之宮、とある。だが、現代の読み下しでは、なぜか香具山と表記されている。香具山と詠み込まれた歌は該当歌以外に十首もある。
 香具山と解されているその他の万葉歌 一部省略 右端は原文の漢字
2 大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば     天香具山
13 香具山は畝傍ををしと耳成と相あらそひき                 高山
14 香具山と耳成山とあひし時立ちて見に来し印南国原             高山 
52 大和の青香具山は日の経の大き御門に春山としみさび立てり畝傍の       香具山
199 わご大君の万代と思ほしめして作らしし香具山の宮万代に過ぎむ    香<来>山
257  天降りつく天の香具山霞立つ春に至れば松風に            天芳来山
334  忘れ草わが紐に付く香具山の故りにし里を忘れむがため         香具山
1096 古の事は知らぬをわれ見ても久しくなりぬ天の香具山        天香具山
1812 ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも          天芳山
2449 香具山に雲居たなびきおほほしく相見し児らを後恋ひむかも       香山
 以上のように、香具山と異なる表記が、高山が二首、香来山が該当歌含め二首、芳来山が一首、芳山が一首、香山も二つである。また「天」のない香具山もある。すべてが、奈良の香具山であるのかは疑問であろう。
 対馬の場合は、鰐浦の背後にある高麗山が候補となるのではないか。頂上からは半島の姿を見る事ができる。
 高麗はこうらい、と訓み、香来も字余りにはなるが同じ訓みができる。高麗は他にコマ、コウマ,コウレイ,コウリなどの訓みがあるが、対馬の高麗山の場合は高句麗のことではなく、山上からは半島の姿がうかがえるので韓(カラ)国の山と呼んでいた可能性もあるのではないか。巻1-2には天の香具山で国見をすると詠われているが、高麗山は防衛のための国見の意味もあったかもしれない。現在、自衛隊の管轄で入山禁止になっていることからもこの山麓の重要性が窺える。
 
⑺「天」に関して
 また、漢字の表記が香具山とは異なっても、古事記や日本書紀の記述にある天の香具山であったとしても、その所在地の一番の候補に対馬があがるのではないだろうか。古事記のイザナギとイザナミの国生みの所の壱岐島と対馬に関して以下のような記述がある。
 次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。
 すなわち、対馬も壱岐島も「天」の名が冠されているのである。
 さらに、『海東諸国記』の対馬の記事には次のような記述がある。「南北に高山あり、みな天神と名づく。南を子神と称し、北を母神と称す。俗神を尚び、家家素饌をもって、これを祭る」という。いくつもの山を崇めていたようである。古事記には、天の岩戸のくだりで鹿の肩の骨で占いをするという記述がある。鹿卜のことであり、後に亀卜にかわるのだが、これは大陸で広く行われてきた天を祀る習俗であって、天の意思を知るために骨卜が行われたのである。これを執り行う卜部が重要視され、延喜式では平安時代になっても、対馬十人、壱岐五人、伊豆五人を京に招いているという。  
 このような人たちが、対馬の山々を「天」を象徴する神々として祀ってきたのであろう。そうすると、天の香具山は、特定の山ではなく、広く対馬の山並みを意味していたのかもしれない。いずれにしても、天の香来山が高麗山の別称ではなく、信仰としての対馬の山々であっても、ヒトツバタゴが白妙の衣に例えられた白い花であるという結論にかわりはないと思われる。

⑻夏が来ることを待ち望んだ貴重な一首
 多数ある万葉歌だが、春を待ち望んだ歌は多くあるが、夏山、夏草などの語はあっても意外にも夏を歌うものはないという。作者は、夏を一番歓迎するような人物だったと考えることもできる。鰐浦で海に潜ることをなりわいにする海女にとっては、夏の到来は待ち望んでいたものだ。また船乗りにとっても同じであろう。この歌は、海で生きる人々の素直に夏の到来を喜ぶ歌となるのではないか。
 そうすると持統天皇の歌ではないのだろうか。万葉集の中に持統天皇の作歌は六首とされているが、いずれも持統を示す明確な表現はない。注3 特に「春すぎて~」は題詞がなければ叙景歌ともみられそうで、持統帝が天武帝挽歌「やすみしし~」に示されたはげしい哭泣の情はここにはその片鱗もない、との伊藤義教氏の指摘もある。しかし、高天原廣野姫天皇との記述を尊重するということであれば、昭和天皇が庭の花からはるか対馬への思いを歌にされているように、王朝内で歌われたものであったとしても説明はつくとしておきたい。
 以上のように、この持統の歌とされる「白妙の衣」は、まるで白衣を干しているように見える白い花のヒトツバタコのことであると考えてもよいのではなかろうか。

注1.中西進氏は、山に白いものが見える事実を、どう見立てるかと楽しんだ歌ではないかとし、該当歌は、香具山に残る白い雪を干してある白い布に見立てて戯れ楽しんだ歌だとされたが、いささか無理のある説明であり、夏を実感するものにはならないであろう。
注2.古田史学の会正木裕氏のご教示による。
注3.古田武彦氏は、万葉歌の研究で、題詞や左注はあとから付けられたもので、歴史史料としては二次史料、一次史料の本文が大事だと指摘されている。ただ、該当歌については、『古代史の十字路 万葉批判』で、中西進氏の雪とする比喩歌という考えは否定されたが、その理由の説明がないのが残念である。

※ 古田史学会報№180掲載のものを、一部改定したものです。
この論考は、同会久冨直子氏の発案から、共同でまとめたものです。

参考文献
財団法人日本離島センター『日本の島ガイドSHIMADASU』1998
加藤庸二『日本百名島の旅』実業之日本社2013
毛利正守『持統天皇御製歌 巻一・二十八番をめぐって』万葉第211号萬葉学会2012
井上さやか『「万葉集」における持統天皇像 : 天香具山歌を軸に』(万葉古代学研究年報)第19号2021年
伊藤義教『ゾロアスター教の渡来――天武天皇挽歌二首を解読して』(古代日本人の信仰の祭祀)大和書房1997
司馬遼太郎『街道をゆく 十三』朝日新聞社1981
中西進『万葉の秀歌』(著作集)四季社2008
谷川健一『列島縦断地名逍遥』冨山房インターナショナル2010   申叔舟『海東諸国記』岩波文庫1991
※万葉歌の引用、読み下しは、HP万葉百科 奈良県立万葉文化館による。
写真と図    HP一般社団法人 対馬観光物産協会 グーグルマップ  HPヤマレコ

持統天皇の「白妙の衣」は対馬の白い花のヒトツバタゴのこと⑴

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 次は持統天皇の作とされる有名な万葉歌28番歌である。
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山  
 春すぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山

 この歌にはよく言われてきたことだが、いくつも疑問があった。なぜ春の次に夏が来るという当たり前のことを歌にしたのか、また、持統天皇がいたとされる藤原京から山の洗濯物が見えるのか、どうして洗濯物が干されている様子が夏の到来と関係するのかなどである。
 ここではその疑問に答えられるものとして、白妙の衣は古代の対馬で初夏に咲くヒトツバタゴのことではないかとの推論を提示していきたい。

開化
 ヒトツバタゴ(別名ウミテラシ・ナタオラシ・ミズイシ、俗名なんじゃもんじゃ)はモクセイ科の大陸系植物で、古代より大陸への窓口であった対馬を象徴する植物として、対馬市の木に指定されている。また昭和3年に 国の天然記念物にもなっている。
 対馬北部の鰐浦地区は国内最大の自生地であり、5月初旬の開花期には3,000 本といわれるヒトツバタゴが一斉に白い花を咲かせ、初夏に積もる雪のようである。この鰐浦は、対馬海峡を挟んで韓国の釜山を望む対馬の北端にある。波の穏やかな日には、山を白く彩るヒトツバタゴの花の影が海面を白く染め、日が落ちかけても暗い入り江が明るく照らされることから「海照らし」とも呼ばれている。
 同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名があるという(ウィキペディア参照)
 現在は名古屋など各地にも見られるが、それは近世の移植であり、もとは大陸、朝鮮に自生していたものが、その移住民により早くにこの地にもたらされたのかもしれない。
 このヒトツバタゴを昭和天皇は歌にされている。
「わが庭の ひとつばたごを見つつ思ふ 海のかなたの対馬の春を」昭和59年
 これは上対馬の町長が天皇の為にと持参し、それが御所に植えられたものだそうだ。昭和天皇も歌にするほどの見事な白い花の光景を、古代人も歌にしていたのではなかろうか。
 
⑴「らし」に注目された国文学者毛利正守氏の論文
 毛利氏は、「夏の到来・推移を根拠づける景について、またその根拠に基づく確信に満ちた推量表現『らし』  
等の検討を通して、萬葉歌の中にこの歌を位置づけることにしたい」とされる。つまり、該当歌は季節感を強く表しものだという視点で理解しなければならないということであろう。氏は、新井栄蔵氏の引用もされながら、古代中国の四時(季節)観が、日本ではより豊かな情念とより巧緻な感触を生み出す季節感が形成、成熟していったと説明されている。
 よく指摘されることだが、「いわばあたりまえのこと」のような「春すぎて夏来るらし」は、二つの季節を詠むだけの感動、さらに過ぎ去る春の季節を惜しむ気持ちがあり、それと同時に、この歌自体の主題は夏の到来にあるとし、その根拠を「らし」をもって詠みあげているところに力点があるという。ちなみに、「冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく」(1844 ※暖が春)という該当歌と同様の二つの季節が詠われ、さらには、春・夏・秋の三季を読み込んだ「春は萌え夏は緑に紅の斑に見ゆる秋の山かも」( 2177)という事例もある。
 毛利論文では、推量表現「らし」の使われた歌が、該当歌以外に十三首あることを紹介されている。

①梅の花今盛りなり百鳥(ももどり)の声の恋(こほ)しき春来たるらし  834
②うちなびく春来るらし山の際(ま)の遠き木末(こぬれ)の咲き行く見れば 1422
③霞立つ野の上(へ)の方(かた)に行きしかば鶯鳴きつ春になるらし  1443
④ひさかたの 天の香具山この夕(ゆふへ) 霞たなびく 春立つらしも1812
⑤いにしへの、人の植ゑけむ、杉が枝に、霞たなびく、春は来ぬらし 1814
⑥うち靡(なび)く、春立ちぬらし、我が門(かど)の、柳の末(うれ)に、鴬鳴きつ 1819
⑦冬過ぎて 春来るらし 朝日さす 春日の山に 霞たなびく 1844
⑧鴬の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども  1845
⑨うち靡く春さり来らし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば   1865
⑩白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺の鴬鳴くも  1888
⑪野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも  1972
⑫妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし  2166
⑬今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ  3655

 以上の十三首は、「らし」を根拠づけているものが、いずれも鳥や花、霞、虫の声といった自然物であることを指摘されている。そうすると、持統の歌だけが特異な一首だというのである。はたしてそうなのであろうか。

⑵「白妙能衣乾有」に何らかの象徴と迫られた、奈良県立万葉文化館の井上さやか氏の論文
 先の毛利論文を踏まえながら、井上論文では、「衣乾有」という表現が自然物である可能性にもふれている。
 毛利論文では白妙の衣は実景であり、見立てとは考えられないとされたことに対し、藤原定家の『拾遺愚華』等で白妙の衣を卯の花の見立てと解している例も挙げながら、ただそれがなぜ、夏の到来を意味するのかという疑問を持つ井上氏は、どうして香具山に干してある白妙の衣が夏の到来を推量させる根拠となるのか、「白妙能生衣乾有」が何らかが象徴されていた可能性を排除できない、「衣乾有」をどう解するかが改めて問題となってくる、とされている。注1
 このように該当歌は百人一首にも取り入れられるなどたいへん有名な歌であるにもかかわらず、研究者を悩ませる問題を内包する歌なのであって、いまだに解釈に疑問が残る謎の歌なのである。
 しかし、「らし」のある歌で唯一、自然物でないという点も、見方を変えれば疑問も解消するのではないだろうか。夏の到来を示す根拠は、人工物ではなく白い花のことだとすれば、一気に氷解するのである。井上氏の言うなんらかの象徴とは、ヒトツバタゴのことと考えればよいのではないか。
 注1.中西進氏は、山に白いものが見える事実を、どう見立てるかと楽しんだ歌ではないかとし、該当歌は、香具山に残る白い雪を干してある白い布に見立てて戯れ楽しんだ歌だとされたが、いささか無理のある説明であり、夏を実感するものにはならないであろう。

⑶「たり」の事例にみる見立て
 「衣乾有」の「たり」は、動作・作用が完了し継続する状態を意味するが、万葉歌には見立てで使われていると思われるものがある。
  289  天原振離見者白真弓張而懸有夜路者将吉  
 天の原ふりさけ見れば白真弓張りて懸けたり夜道は吉けむ
 大空をふり仰いでみると、白い真弓を張ったように月がかかっている。夜道はよいことだろう。
  1847 淺緑染懸有跡見左右二春楊者目生来鴨
 浅緑染め掛けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも
 浅緑色に枝を染めて懸けたと思われるほどに、春の柳は芽を出したことだ
 二例ではあるが、衣を干すということが、見立ての表現ととることは十分に可能であろう。

⑷鰐浦はヒトツバタゴの古来からの群生地
 この花の群生地の入り江は鰐浦である。日本書紀の神功紀には以下のような記事がある。
從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波、不勞㯭楫、便到新羅。
 神功皇后は、兵を整え、和珥津から出発するが、この地は現在の対馬の北端に位置する鰐浦のことである。帆船は神の力も受けて順風が吹いて舵も櫂も使うことなく新羅についたという。この鰐浦は半島と最短距離の港であって、活発に人の行き来するところであり、魏志倭人伝の記事の南北に市擢するとあるような物資の
やり取りを行う貿易港でもあったのではないか。4月に鰐浦に寄港しようとする人々には、目の前に広がる白い光景を見る事ができるので、船旅の疲れも忘れることができたかもしれない。
 ちなみに韓国ではイパプナムと言う名で、これは白い花で覆われた様子が白いご飯(イパプ)に似ていることから付けられたようだが、立夏(イッパ)の頃に咲くので、立夏木(イパモ)とも呼ばれている。台湾では「流蘇樹」(レースの木)、他に「四月雪」という呼称もあるようだ。(つづく)