流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年03月

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2.スサノオから試練を受けるオホナムヂ(大国主)
  オホナムヂが大国主神として成長する物語について、次のような解説がある。「蛇やムカデ、蜂の室に入れられ、さらに野火攻めに遭う話は、成年式儀礼として若者に課せられる苦難と試練とを、神話的に語ったもの」(古事記講談社文庫解説)とされる。そうしてスサノオの神宝を手に入れて、祭祀王の資格が認められ、葦原中国の首長としての大国主神として新生する。
 ほんとうにこのような儀礼があったのかと思ってしまうが、それよりも試練を受けることになるのが話の進行からして、やや唐突に思えるのである。兄弟の神々に恨まれてオホナムヂは二度も殺されては蘇生されて息を吹き返すも、さらに追手がせまったのでスサノオのいる根の国に避難するのである。そこで娘のスセリビメはたちまち気に入るのだが、命からがら逃げてきたオホナムヂに、スサノオは、何の説明もなくすぐに蛇の室に入れるのである。次にムカデ、蜂の室に入れ、さらには、野火に囲まれてあわや焼死しそうになる。何か、この一節ははめ込まれた感じがするのである。
 実は『魔笛』にも王子タミーノがザラストロから、沈黙の試練を受け、さらにパミーナといっしょに火と水の試練を受ける場面がある。ザラストロは、「われらの試練の神殿へ案内せよ」と命じるが、オホナムヂが入るのは室なのである。次に野火に攻められるのだが、スセリビメは野火に囲まれたオホナムヂを死んでしまったと早合点して、葬式の用具を持って泣く場面がある。
 パミーナも、王子のタミーノが沈黙の試練の最中であることを知らずに、声をかけても返事がないことから、自分はタミーノに捨てられたと絶望する場面がある。
 最後に、試練を乗り切ったオホナムヂはスサノオの神宝を持って、スセリビメと一緒に逃げていく。するとスサノオは彼らに、「太い宮柱で空高くそびえる千木の宮殿に住め」と言うのだった。
 一方、ザラストロは試練を乗り越えた二人に「試練に勝った、さあ神殿に入るがよい」と言っているのだ。
 このように古事記のオホナムヂが唐突に試練を与えられるのも、似たような話が取り入れられたからだと考えればよいのではないか。

3.『魔笛』と古事記に共通のプロットがある理由
『魔笛』と日本とには不思議な関係がある。『魔笛』の物語の冒頭で登場するタミーノは、「日本の狩りの衣装」(japonischen jagdkleid)をまとっているのである。しかも彼は、すぐに蛇に襲われてしまい、そこを三女神が救う。どこまで似ているのかと思ってしまうが、この日本の衣装というのは自分の楽屋の衣裳部屋に、日本の狩衣と呼ばれたようなものがあったので舞台に用いたとの説明がある。当時のヨーロッパでは日本の浮世絵などとともに、着物も好まれて「ヤポン」と言われていたようだ。フェルメールも着物を羽織った人物を描いている。着物の類いが楽屋にあったのかもしれない。だがいっしょに古事記の話が伝えられたかどうかは定かではない。
 『魔笛』との相似から古事記が参考にされたとは考えにくいが、その逆はどうであろうか。だが『魔笛』の物語そのものも、シカネーダーが参考にしたとされる種本がいくつも指摘されている。ところがそれらの物語のプロットも古来からの伝承や、宗教的な説話を参考にして作られたと思われる。その参考にした古来の物語のプロットが東方へも伝承され、古事記にも使われたと考えられるのではないか。そこにはギリシャ神話やゾロアスター教の教義などの要素も考えられるだろう。タケミカヅチの『ベーオウルフ』も同じような事情であろう。
 魔笛には認められないのだが、古事記のサホビメの一節に次のような表現がある。城に籠ったサホビメを引っ張り出そうとするのだが、「爾握其御髮者、御髮自落」 髪をつかむとその髪が自然に落ちたという。これはカツラのことではないかという指摘がある。ユーラシアでは早くから使われていたようだが、日本ではどうであろうか。これも外来の説話のアイデアを利用したものかもしれない。
 『魔笛』と相似形の古事記の説話には共通する大陸由来のプロットが関係していると思われるが、それがどうして日本にまでやって来たのか。この垂仁記には、田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)を求める説話があり、私はその話のプロットもシルクロードにあったものと考え、他にも山口博氏の指摘されたスサノオに関わる北方騎馬民族の習俗との一致などを説明しているが、こういった様々な物語が大陸で収集され伝播する担い手が存在することや、またサホ兄妹が最近親婚(父母と子、兄妹など、より近しいものどおしの通婚)の関係であると考えられること、さらにサホは薩保(キャラバンのリーダー)に由来するといわれていることから、それはソグド人との関係を示していると考えている。東アジアのみならず日本にも彼らがやってきて、記紀の編纂にも関わったのではないかという可能性を今後も検討していきたい。
 
参考文献
新井秀直『魔笛 モーツァルト』音楽之友社 2000 
クルトホノルカ『「魔笛」とウイーン 西原稔訳 平凡社1991
『古事記』全訳注 次田真幸 講談社1977     

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 モーツァルト晩年の傑作オペラである『魔笛』(初演1791年)は、楽曲そのものの評価とは別にその物語には矛盾があるとか、善悪が途中で逆転するといった批評がある。なんでも作者のシカネーダーとモーツァルトは共にフリーメーソンに加入しており、その教義が筋書きに使われたとか、登場人物のザラストロの名前がゾロアスター教と関係しているとかも言われている。だがそれ以上に、私には気になることがある。それは、物語の要所要所に日本の古事記の説話となにやら似たようなものを感じるのである。気づいた範囲でその箇所を書き出してみたい。

1.古事記のサホビコ(沙本毘古)とサホビメ(沙本毘売)の説話
 垂仁天皇記には、后のサホビメと兄のサホビコの兄妹が図って天皇殺害を目論むが失敗に終わり、城に逃げ込んで抗戦するも、二人とも亡くなり子のホムチワケ(本牟智和気御子)だけ救い出される説話がある。日本書紀にも同様の内容をさらに詳しくした記事がある。
 『魔笛』では、王子タミーノが神殿に仕える大祭司のザラストロから試練を与えられるも無事に乗り切り、夜の女王の娘パミーナと結ばれることになる。そのパミーナは夜の女王からザラストロの殺害を命じられるが、はたせず悩んだ挙句、相手のザラストロに白状してしまう。実はザラストロが善人で夜の女王が悪役だったのであるが、実母である夜の女王が娘のパミーナに、「お前は彼を殺し偉大な太陽の環をその手に戻すのです」と言う。
 一方の古事記では兄であるサホビコは妹のサホビメに、「お前が私を愛するのなら、二人で天下を治めよう」と天皇殺害を命じる。これは殺害動機に「太陽の環」の奪取、「天皇の代わりに二人で天下を治める」という大義名分、動機を語っているのではないか。
 次に、夜の女王は娘に「お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、もう親でもなければ子でもない」と決断を迫って、短刀を渡すのである。有名なアリアの歌われるシーンである。またその短刀について、夜の女王は「ここに短刀がある。これはザラストロのために研がれたもの」と特別にこしらえた刀物であると語っている。
 サホビコの方は、妹に「夫(垂仁天皇)と兄のどちらを愛しているのか」とせまり、紐小刀を渡している。原文では「八塩折(ヤシホオリ)の紐小刀」で、何度も繰り返して打ち鍛えたという意味であり、この場合も特別に作られたものだと説明しているのである。
 だが、殺害計画は未遂でおわる。パミーナは悩んだ末に、ザラストロに母から殺害を命じられたことを告白する。するとザラストロは「罪はあの女にある。お前の母親は自らを恥じて自分の城に引き返すことになるだろう」といってパミーナについては許そうとしたのである。
 サホビメも、天皇を殺めることなどできずに、天皇に気づかれて、すべてを白状してしまう。天皇は討伐軍を出すが、サホビコは稲城を作ってそこに入って戦うことになり、サホビメも城に入るが、天皇は最後まで后であるサホビメを城から救出しようとしたのであるが失敗して子供を残して二人は絶命する。
 相手が城に逃げるところと、殺害に失敗したパミーナとサホビメはともに許されるところも共通だ。
 以上のように、近親のものが殺害を命じる、そこに大義名分を語り、その際に脅すように相手を従わせ、特別に準備した小刀を用意する。だが未遂に終わり、相手に白状してしまうが、その罪は許し、首謀者の方は城に逃げる。酷似しているとまでは言い切れないが、それにしても似たようなプロットである。しかし、この相似形は、別の説話にも見受けられる。それは大国主の話だ。(つづく)

3.英雄叙事詩『ベーオウルフ』と古事記の国譲り譚
 多ケ谷氏によると、『古事記』国譲り譚では、①外来の英雄神(タケミカヅチ)が②土地の神(タケミナカタ)と③素手の闘い(力競べ)をして、④土地の神の手に損傷を与え(一説では手を抜き取り)、⑤そのため土地の神は湖へ逃げるが、⑥英雄神は湖へ追いつめ、⑦国譲りを承諾させ支配権を得る。
 一方『ベーオウルフ』では、①外来の英雄(ベーオウルフ)が、②在地の妖怪(グレンデル)と③素手で闘い、④妖怪の腕をもぎ取り、⑤妖怪は自らの巣である湖(沼)へ逃げる。⑥英雄は湖へ遠征し、⑦妖怪の眷属を退治し、城の支配権を奪還する。このように、両者は大まかな筋で一致するという。
 ただここには、「渡辺綱伝説」にある、鬼による「片腕の取り戻し」のモチーフはない。しかしこれも、諏訪湖(の地)の領有(権)を得ることを、失われた手(腕)の代償と考えれば、『ベーオウルフ』にある腕の「取り戻し」に対応するモチーフがある、とされる。そして、先の疑問点に関するところでは、タケミカヅチが素手で戦うことになったというところも、同じようにベーオウルフも剣を使わずに戦っているのである。
 
4.素手で戦うことを宣言するベーオウルフ
 ベーオウルフは素手で戦うことを繰り返し言及している。
「また、聞き及びまするには、かの妖怪は、向こう見ずにも武器を用いるのを好まぬとのこと。・・・敵と真向から組み合い、不倶戴天の仇同士、命を賭して戦わねばなりませぬ。」
「それがしは、武勇にかけてはグレンデルよりいささかなりとも劣るとはおもわぬ。それ故、それがしにはいとたやすきわざとはいえ、彼奴を剣もて斃し、命を奪うつもりはない。・・・もしも彼奴が敢て武器を用いずして闘いを求めるならば、われらは互いに夜中剣を用いるのを控えて相見まみえねばならず」
 このように自分は剣を使えば勝つことはわかっているが、妖怪が武器の使用を用いずに闘いを求めてきたら、自分も剣を使わずに闘うと宣言しているのだ。タケミナカタは「何をひそひそ話をしている、俺と力比べをしよう、あなたの手をつかんでみよう」と威勢よく素手で勝負すると言ってきたのだ。だからタケミカヅチは、腕を剣に変えたものの、相手を怯ませはしたが、その腕を元に戻し、両手でつかんで相手の腕を引きちぎってしまうのだ。
 もう一つ理解しにくいところがある。古事記では、腕が剣に変わる前に立氷(たちひ)に変えている。赤く焼けた鉄を鍛治で剣に仕上げていくのに、どうして氷柱になるのだろうか。ここも『ベーオウルフ』に似た表現が見られる。「かの剣、いくさの太刀たちは、闘いに流れた血の故に、垂氷(タルヒ)さながらに融け細っていった。」
 つまり異界の怪物に剣は通用せず、氷のように解けてしまうというのである。古事記はこれとは逆の進行で、腕が氷柱のようになった後に、剣として完成するのだ。この氷柱のアイデアも共通しているのである。

 タケミナカタの説話は、古事記の大国主の系譜にも見えないことから、後から差し込まれた話と考えられている。そして上記のように他の説話を継ぎはぎしたので、やや説明不足の挿話となってしまったのであろう。
 この類似の物語について、多ケ谷氏によると松村武雄氏は、ペルシャ神話との関係を指摘されているという。戦士は全力でルステムの手を掴んだがルステムは平気だった。「今度はルステムが對者の手を握り締めると、脈管が破れ骨が碎けて、地に倒れて氣を失った」と言う記述がある。ベーオウルフの英雄譚そのものも、他の説話も参考にまとめられていった可能性がある。すなわち大陸各地の説話の要素が収集されたものが、英雄譚に取り込まれ、さらには東方にも運ばれて、古事記の編集や中世の説話に活用された、と考えられるのである。

注. 建御名方は、日本書紀に記されていないが、完全に消されたわけではなく、書紀の持統5年8月には、使者を遣わして竜田風神、信濃の須波(諏訪)、水内(ミヌチ)などの神を祭らせた、とある。延喜式神名式の信濃国諏訪郡に「南方刀美神社二座」とあるので、建御名方は南方刀美神とも称され、この諏訪が建御名方で水内はその子であるという。よって、建御名方は水の神として信仰されていたことを物語っている(建御雷に両腕をもぎ取られてしまう話は、腕のない蛇を暗示し、蛇神=水神と考えられることと結びつけたのであろう。正木裕氏のご教示によるが、南方のミナカタは元々は北九州の宗像のことであるという。

参考文献
大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
多ケ谷有子「『古事記』『風土記』における『ベーオウルフ』の類話」関東学院大学文学部 紀要第123号(2011)
多ケ谷有子「王と英雄の剣:アーサー王・ベーオウルフ・ヤマトタケル」北星堂書店2008
忍足欣四郎訳「ベーオウルフ 中世イギリス英雄叙事詩」岩波文庫1990
松村武雄「日本神話の研究. 第3巻 (個別的研究篇 下)」国会図書館デジタルコレクション1955

タケミカヅチ

1.国譲り譚のタケミカヅチ(建御雷)とタケミナカタ(建御名方)の奇妙な戦い
 古事記では国譲りを迫るタケミカヅチに、大国主の二番目の子のタケミナカタが戦いを挑む一節がある。しかし威勢よく現れたタケミナカタだったが、腕が剣に変わったタケミカヅチにたちまち怯んでしまう。自分の腕を剣の形に変えることができるというのは、どのような思い付きから生まれたのか。それは、彼が剣の神であるから、剣の制作過程の表現を意味しているところからくるのかもしれない。そもそもタケミカヅチの祖神の石の神、火の神、水の神の出生の仕方も、火を焼き、石に載せて打ち鍛え、水に浸すという、鍛冶の工程を表していることは早くから指摘されている(大林1981)。同様に、腕が刀に変わるという表現も、赤く焼かれた鉄の塊が、何度も打たれることで、やがて剣の形に変わることを意味しているととらえることができる。
 この腕が剣に変わるというアイデアは世界にあったのであろうか。映画『ターミネーター2』では、T-1000型ロボットが腕を剣に変化させて、相手を瞬殺する場面がある。脚本を制作した監督が、古事記がヒントにされたのかと思えるような意表をつくシーンである。ところが古事記ではこの場面と次の展開には、いささかの疑問がある。それは、タケミカヅチはせっかく腕を剣に変えたのに、そして相手は怖気づいてしまったのに、どうして一気にその剣で仕留めなかったのかということである。さらに奇妙なことがある。
 爾欲取其建御名方神之手乞歸而取者 (ここにそのタケミナカタの手を取らむと、乞ひ帰して取りたまへば)
とある。なんと、今度は自ら素手で相手の手をつかまえている。剣になった腕をいつのまにか元に戻してしまっているのだ。そして、タケミナタの腕をつかんでちぎってしまい、たまらずタケミナカタは諏訪まで逃げて命乞いをするのである。そうであるなら、最初から腕を剣に変えなくても素手で勝負がついたはずであり、話の筋として奇妙なのである。実はこういった謎も、他に類似の話があってそれが取り込まれたと考えれば説明がつくと思われる。

2.『ベーオウルフ』との類似が指摘される、日本の伝説や伝承
 『ベーオウルフ』という中世イギリス英雄叙事詩は、諸説あるが8世紀には作られたとされている。この英雄詩の第一部では妖怪で巨人のグレンデルが、デンマークのフロースガール王の城の中で家臣を次々食い殺していたために、隣国からやって来た主人公であるベーオウルフが退治をする物語で、第2部では、そのグレンデルの母親が、ちぎられた息子の腕を取り返そうとするが、これもベーオウルフによって殺されるといった物語である。
 多ケ谷有子氏によると、英国学者パウエルは『ベーオウルフ』と「源平盛衰記」内の「剣巻」や謡曲「羅生門」で語られる「渡辺綱伝説」とにおける五つの類似点を挙げている。①鬼または妖怪の出没 ②鬼(妖怪)の敗北と片腕の喪失 ③借りた刀または剣 ④女の姿をした怪物 ⑤失った片腕の取戻し、以上の 5 点である。パウエルは、「英国と日本の物語の共通点については、同じ物語が双方にあると考えざるを得ない」としている。(多ケ谷有子2011)このような類似は他の研究者からも指摘がされている。
 金石文や能の研究家でもある藪田嘉一郎氏は、能『松風』の西欧からの伝播を主張し、合わせて、能『羅生門』も、元朝を介しての西欧からの伝播であろうと論じた。南北朝から室町初期にかけて、外国生まれの説話によって作られた戯曲は相当あるとし、幸若舞の「百合若大臣」、能の「船弁慶」「羅生門」「大江山」などを挙げている。ギリシヤ神話がマルコ・ポーロに表れるような東西交通によってもたらされたという。
 中世に伝わった話が元になっているというのだが、古代の話にも類似があるという。多ケ谷氏は、古事記の国譲り神話のタケミナカタの戦いにいくつもの共通点を指摘している。(つづく)

※剣の先にあぐらを組む姿のタケミカヅチの図をよく見かけるが、これは古事記の誤読と考えられる。
   拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前
   (とつかつるぎを抜き、さかさまに波頭の刺し立て、その剣の切っ先にあぐらをかいて)
 この場合は剣の柄を刺して立てるのであって、タケミカヅチは立てた剣を前にして坐るとするのが妥当。ここでは、彼が雷神でもあることから、剣先に稲光を放つイメージにした。

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 古代オリエント世界を支配した二人の王の墓

 ペルシャ帝国を創建したキュロス二世(前559~前530)は征服者であったが、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人などの帰還を許すなど、寛大な政治を行ったようだ。最後は騎馬民族マッサゲタイ遠征で戦死したと伝えられる。イランのパサルガダエ(現代名パーサールガード)に階段状の台の上に切妻形の石造の墓室がある。
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 後に反乱が続く中、ダレイオス一世によって支配体制が確立する。写真は、ナグシェ・ロスタム遺跡の王墓4基の中のダレイオス一世の墓 左下のレリーフはシャープール一世 ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするシーンとのこと。冒頭の写真の人(松田美緒さん)との比較から、岩壁に彫られたその大きさが窺える。
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 ダレイオス一世はキュロス二世の家系から王位を簒奪したのだが、自己正当化のためにキュロスの家系とさも近いとするように系図を捏造している。
 キュロスシリンダー(円筒碑文)にあるキュロスの家系は、
 私はキュロス(二世)、世界の王、偉大な王、正当な王、バビロンの王、シュメルとアッカドの王、(大地の)四つの縁の王、カンビュセス(一世)の息子、偉大な王、アンシャンの王、キュロス(一世)の孫、偉大な王、アンシャンの王、ティスペスの子孫、偉大な王、アンシャンの王、常に王権を(行使する)家族の。
 
 ダレイオスの系図(ベヒストゥーン碑文)は
 私の父はヒュスタスペス、ヒュスタスペスの父はアルサメス、アルサメスの父はアリアラムネス、アリアラムネスの父はティスペス、ティスペスの父はアケメネス。
 
      下図は二つの系図を合わせたもの
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 キュロスの家系にアケメネスの名は無く、両者の系図はティスペスになってやっとつながる。このことから、ダレイオスが自らを正当化するために、アケメネオスの名をはじめて使って、キュロスの家系と一つにまとめる付会、いわばこじ付けを行っているのである。
 小林登志子氏は、「『系図』というのは、功なり名とげた人物が、後になって創作していることはよくあることで、日本史でも知られていること」とされる。よくいわれることだが、継体天皇のケースもあてはまるかもしれない。後継者のいない武烈天皇の後に皇位を継いだ継体は、応神天皇五世とのことだが議論は絶えない。王族となれば、相当な規模の作り込みが行われていると考えられる。

参考文献
小林登志子『古代オリエント全史』中公新書2022

写真は松田美緒さんからの提供 家系図は『古代オリエント全史』より

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      松田美緒さんのオフィシャルサイトはこちら
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 同じ史学サークルのお母様を通じて写真を送っていただいてます。ソグド人の有名な壁画や独特の骨壺(オッスアリ)、など掲載します。

 ウズベキスタン国サマルカンドのアフラシャブ博物館
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  7世紀の装飾の納骨器(オッスアリ) 横口式で蓋もあります。
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         動物や人の個性的な土人形

今後もアップさせてもらいます。


1.高句麗好太王碑文解釈の問題点
 同碑の内容でよく注目される記事が、 「而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民」である。
 「倭は辛卯年を以て来たり、海を渡りて百残を破り、(東)のかた新羅を□して、以て臣民と為せり」といった釈読がされてきた。判読不明部分を加羅とする解釈もある。つまり、百済・新羅とともに「加羅」を破ったと解釈され、日本書紀の「加羅七国平定」「四邑降服」「任那四件割譲」「任那復興」、任那支配の根拠となっていた。高校日本史教科書では、この条文のみが引用され、辛卯年に大和政権が軍隊を朝鮮半島に派遣して高句麗と戦ったなどと記述されているという。
 しかし、この解釈が妥当とは思えない。以下に問題と思われるところを挙げてみたい。

・好太王碑文の史料批判(戦前の日本軍による改ざん問題は否定で決着)による論議が重要と思える。日本書紀が、前王朝を隠蔽している、書き換えている、潤色があると考えられているように、この碑文もそのような視点で見る事が重要と思える。原文の一般的な解釈をそのまま利用して解釈するのは、注意がいると思われる。
・不都合なことは隠されている碑文であること。対中国との苦戦については全く触れていない。中国王朝を記さないことは、研究当初から問題になっていた。
・百済についても潤色がある。また、百済とは全く書かず、すべて「百残」とした貶める表記になっている。
 倭も、「倭賊」「倭冠」「不軌」などとされている。
(なお新羅については「忠州高句麗碑」に新羅王のことを「東夷寐錦」と記している)
 つまり高句麗は周辺国を蔑む表現をしている。この姿勢は日本も変わらないのであるが。
・倭については、高句麗の半島南部進出の口実として、仮想敵国として位置づけられた、とも考えられている。
・さらに倭の記述では、「倭人滿其國境⇒潰破」 「倭滿其中。官兵方至⇒倭賊退」 「倭不軌,侵入帶方界⇒倭寇潰敗」  倭国は攻め込むが、すべて撃退しているというのだが、3カ所とも同じパターンの表現であることも、潤色性を物語るものと考えられる。
 さらには「安羅人戍兵」が同じ倭の記事の中に三度登場するのも、注目していいであろう。
・最大の問題と思われるが、それは何度も倭は敗北しているのに、どうして高句麗は、倭を臣民にするとか、朝貢を求めるとかしていないのか、一般的なとらえ方としてこれは大きな不審であろう。しかも半島内に倭の勢力があったとするならなおさらであろう。
・別の問題ではあるが、「倭」は必ずしも列島の勢力を意味しないのではないか。古代の移住という視点がないと、列島の古代史は理解できない。
 たとえば、「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)(蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。) この一節の「倭」は半島に存在していると考えるのが妥当。それは、列島に中心を持つ倭の国とは別の、加耶周辺の集団、魏志倭人伝の狗邪韓国などが考えられよう。前方後円墳のある栄山江地域も倭人は混在していたと考えられる。
・そもそも日本の倭国が、400年頃に高句麗の境界まで攻め込むような実力がはたしてあったのであろうか。それならば、なぜ先に列島全体を制覇しなかったのか疑問である。
・研究者は、碑文後半の守墓、烟戸の制度に関して注目しており、日本の巨大古墳の背景を検討するうえで、大変重要とも考えられている。倭の記述に関するところだけでなく、広い視野での検討は必要となろう。
・現在の研究者が、好太王碑をどうとらえているかということを見る必要があるのではないか。

2.碑文解釈のとらえ方についての紹介
・森浩一氏『日本の中の朝鮮文化3』「かりに日本に日本書紀がなかったと仮定したらどうか。現在通用している日本古代史の通説がそのままいえるのかどうか。倭が5世紀頃朝鮮へ軍事出兵したといえるかどうか。商人が行ってちょっと住んだというのは別、出兵となるとこれは絶望的、遺跡遺物の上からはほとんどいえない。」
・佐藤信『古代史講義』「・・・はたして、倭が海を渡って百済・新羅を『臣民』としたのか、この点については慎重に考える必要がある。広開土王碑はそもそも広開土王の戦績をことさらに顕彰するという性格の史料であり、高句麗と対峙する倭の軍事支配の描写を誇張すればするほど、広開土王の戦績が際立つのである。そこであえて倭をヒール役に仕立てて描いたとも考えられる。」
・河内春人『倭の五王』「高句麗からすると、広開土王の治世は半島南部への圧力を強める過程であった。その目的は、具体的には新羅や百済を自己の勢力圏内に従属させることである。それを正当化するためには、もともと新羅や百済が高句麗に従っていた・・それが倭国によって臣民化されたために広開土王が取り戻すというステップを語ることで、半島南部の支配の正当性を主張」
・東潮『倭と加耶』「400年、高句麗は倭の攻撃から新羅を救援するという目的で新羅城に進攻し、新羅城を占領している、高句麗の戦略的目的は倭の討伐を名目とした新羅への侵攻であった。」
 「高句麗が百済を『属民』とするのも倭が百済や新羅を『臣民』とするのも碑文の論理。ただし百済・新羅への侵攻を正当化するための歴史的事件は存在した。
・武田幸男『広開土王碑との対話2007』「辛卯年を広開土王碑の即位年にあたるとし、高句麗は辛卯年条において対南方戦略を宣言し、その中で倭を戦略的に位置づけた。そして碑文の倭は大王の勲績とかかわって登場するが、百済や新羅とは異なって、高句麗と終始対峙し、対立する強敵として登場したとする」
・前田晴人氏『朝鮮三国時代の会盟について』「碑文に記すように高句麗が百済を『属民』とした事実は広開土王以前の時期にはなかったものとしてよく、意図的な誇張の言とみなしてよい。」
「高句麗の中華帝国主義は鮮卑の前燕・ 後燕に対してはまったく通用せず、広開土王の時期に限っても9(400)年正月に『遣使入燕朝貢』した直後の2月、『燕 王盛以我王禮慢、自将兵三万襲之。以驃騎大将軍慕容煕 為前鋒、抜新城・南蘇二城、拓地七百余里、徙五千余戸而還』とあって高句麗は大きな打撃を被り、また11(402) 年には「王遣兵攻宿軍。燕平州刺史慕容帰棄城走」と記し、次いで13(404)年 11 月『出師侵燕』とあるように 報復の侵略を重ね、14(405)年正月には『燕王煕来攻 遼東城。且陥』と反攻を受け、15(406)年 12 月には契丹を襲撃し疲凍の遠路を行軍中の燕軍が高句麗の木底城 (遼寧省撫順市)を攻めて自ら敗退するという一幕もあった。後燕との抗争は広開土王の治世の後半期に集中しており、碑文がこれらの事績にまったく触れていない理由は最早明らかであろう。」
・奥田尚氏「『倭人,其の順境に満ち,城池を潰破す』というのだから,『倭』と新羅順境は接していたと考えざるをえない。『倭』が日本列島からの派遣軍とすると,ことさら『国境』に『満ち』と表現する必要はないであろう。・・・・碑文の『倭』は日本列島内勢力ではありえないといえよう。また前項の高句麗への服属段階からいえば,『倭』の場合は敗戦→懐滅とすることができる。」
 「倭が渡海して新羅に侵攻したとすると、奇妙な表現だという指摘は、あたらないであろうか。碑文の倭が、半島内の倭を意味した表現と理解した方がいいのではないか。」

 以上のように、まだまだ碑文解釈には問題があるが、高句麗側の潤色、不都合なことは記さず、周辺国を貶める表記などが見られるものであり、列島の倭が百済・新羅を臣民にするとか、渡海して高句麗と交戦したというようなことを断定的に論じることは困難であると考えられる。

 好太王碑文 4面はカット
惟昔始祖,鄒牟王之創基也。出自北夫餘,天帝之子。母河伯女郎,剖卵降出生子。有聖�□□□□□命駕巡車南下,路由夫餘奄利大水。王臨津言曰我是皇天之子,母河伯女郎,鄒牟王。為我連葭!浮龜應聲即為連葭。浮龜然後造渡於沸流谷,忽本西,城山上而建都焉。永樂世位,因遣黃龍來下迎王,王於忽本東岡,黃龍負昇天。顧命世子儒留王,以道興治,大朱留王紹承基業。[遝]至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王,二九登祚,號為永樂太王,恩澤洽于皇天,威武柳被四海。掃除□□,庶寧其業。國富民殷,五穀豊熟,昊天不弔,卅有九晏駕棄國。以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵,於是立碑銘記勳績,以永後世焉。其辭曰:

永樂五年,歲在乙未,王以碑麗不息,□人躬率往討。過富山負碑至鹽水上,破其丘部洛、六七百當,用牛馬兼羊不可稱數。於是旋駕,因過襄平道,東來候城、力城、北豊、五俻猶。遊觀土境,田獵而還。百殘、新羅舊是屬民,由來朝貢,而以辛卯(391)年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。以六年丙申,王躬率水軍討利殘國軍□□。首攻取壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弓利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍鳥城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古模耶羅城、頁□城、□□城、分而能羅城場城、於利城、農賣城、豆奴城、沸□□利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城。賊不服氣,敢出百戰。王威赫怒渡阿利水遣刺迫城,橫□侵穴□便國城。百殘王困,逼獻出男女生白一千人,細布千匝,歸王自誓,從今以後,永為奴客。太王恩赦先迷之御,錄其後順之誠。於是得五十八城、村七百。將殘王弟並大臣十人,旋師還都。

八年戊戌,教遣偏師觀帛慎土谷。因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人,自此以來朝貢論事。九年己亥,百殘違誓與和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。太王恩後稱其忠誠,時遣使還,告以□訴。十年(400)庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,滿其中。官兵方至,賊退□□□□□□□□來背息,追至任那加羅,從拔城,城即歸服。安羅人戍兵拔新羅城,□城。滿,潰城大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□以隨□安羅人戍兵。昔新羅安錦未有身來朝貢□。國岡上廣開土境好太王□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢。十四年甲辰而倭不軌,侵入帶方界□□□□□,石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇,王幢要截盪刺,寇潰敗,斬殺無數。

十七年丁未,教遣步騎五萬,□□□□□□□□□城□□合戰,斬殺湯盡所稚鎧鉀一萬餘,領軍資器械不可勝數。還破沙溝城、婁城、還住城、□□□□□□那□城。廿年庚戌,東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢,王躬率往討,軍到餘城,而餘城國駢□□□□□□那□□王恩晉虛。於是旋還。又其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□立婁鴨盧肅斯舍鴨盧□□□鴨盧。


参考文献
奥田尚『高句麗好太王碑文解釈試案』ネット掲載
「好太王碑全文」(一部割愛) ブログ古代史俯瞰様
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
金逹寿『日本の中の朝鮮文化3』講談社1972
佐藤信『古代史講義』ちくま新書2023
前田晴人氏 「朝鮮三国時代の会盟について」(纏向学研究第9号2021)
武田幸男『広開土王碑との対話2007』白帝社 2007

室見川
 1948年に博多湾岸の室見川河口近くより、「延光四年」(125年)の文字がある金属片が発見されたが、中国側の鑑定結果は、清朝の文鎮と言ったものであった。しかし古田武彦氏は、『邪馬一国の証明』のなかで、中国側の鑑定内容に関してコメントされて、字体が稚拙、各時代の文字が混じっていることなどから、列島の倭人による制作で、弥生時代の吉武高木遺跡に関係する王国の遺物とされたことから、これを信じる向きもあった。しかし以下に述べるように、中国側の鑑定通りの清朝あたりの文鎮の類いであることを述べる。

1.延光四年の意味
 この銘板の下に延光四年五(月)と刻されている。この西暦125年は、中国では特筆するような年ではないのだが、列島では弥生時代の吉武高木に宮殿がつくられた年であって、倭人にとって記念すべき年号となるのでそれを記した銘板であるというのだが、そうとは言い切れない。国立博物館所蔵品統合検索システムには「延光残碑」についての記載があり、その碑は清の康煕六十年(1721)、山東省諸城県で出土したが、現在は所在不明とある。そこには延光四年と書かれていたようだ。さらには、篆書と隷書が入り交じった特異な書風との説明も付加されている。
 また重慶市の後漢磚室墓(9号墓 )から,「延光四年五月十日作」の紀年題記を持つ銭樹仏豫が発見されている。延光の年号使用の銘文は中国に存在しているのである。これらを参考に刻字したとも考えられる。

2.延光四年を囲む枠も清朝に使われていたデザインだった
扁額
 この延光四年の線刻の周囲は枠線で囲んである。その文様は中華風であり工字文に近いものである。なぜ元号と月日だけ囲ったのかは定かではないが、清朝時代のモンゴル仏教寺院の扁額の周囲を囲っている枠が同じものがあって、よくモンゴルに行かれる文化人類学者島村一平氏のX(ツイッター)に掲載されていた。清の時代にはこのような文様がよく使われていたのであろう。島村氏はこの扁額の中に書かれた文字に関して「清朝時代に建てられたモンゴルの仏教寺院の扁額(表札)。チベット語・モンゴル語・漢語。彼らがいかにハイブリッドな文化の中で生きていたのかがよくわかる。」とされているのも興味深い。

3.最初から明らかだった分析結果
 『邪馬一国の考古学』の巻末に分析報告書が添付されている。高槻市の理学電機工業株式会社によるこの金属片の分析結果にある銅59%に亜鉛30%というのは、それが真鍮製品であることをしめしている。日本では野中寺遺跡出土品に真鍮製のものがあったようだが、早くに中国では秦の時代には利用されていたという見解があり、金と同じぐらいの価値をもっていたようだが、そのような貴重品を弥生時代の倭国は入手し加工することなど可能であったのか。だが弥生時代の青銅器に亜鉛が検出された例は今のところはない。
 さらによく見ると、分析結果にはニッケルが8%と記載されている。銅に亜鉛を加えると真鍮になるが、そこにニッケルが加わると洋白と呼ばれる見た目が銀製品と似た合金となり、早くに19世紀には硬貨としても使われていたようだ。よって、自然に銅と亜鉛が混和された鉱物である鍮石との説は、この金属の成分分析の結果が間違いでないなら、ここにニッケルも含まれることからして考えにくいであろう。
 ちなみに2000年から作られた五百円硬貨の成分は、銅72%、亜鉛20%、ニッケル8%とのことだ。現代の硬貨と同じ成分の銘板が古代にあったとはとても言えるものではない。

4.古代文字にも、参考にされた元ネタがあった。
 延光四年に関しては先に触れたが、上部と中間に刻された「高暘左」と「王作永宮齊鬲」について、中国側の鑑定の資料とされたと考えられる該当箇所がわかったので掲載しておく。
古代漢字
 実は古田史学の会服部静尚氏より、この文面の典拠が『積古斎鐘鼎彝器款識』にあるとされ、「『高暘左』の字形、『王作永宮齊鬲』の字形・折り返し割順が同じであり、これら金石文を見て刻したとしか考えられない。」とのご教示があったが、まさにその通りの字体であろう。この文鎮の作成者は、この資料とそっくりに刻印して完成させたのである。その意図はあくまで製品の文様としてであろう。
 当初の中国側の鑑定どおりに、室見川の銘版はやはり清朝の文鎮だった可能性でほぼ間違いないと思われる。さらに言えば、参考にされた1804年の『積古斎鐘鼎彝器款識』の刊行以降に制作された文鎮となろう。
 中国側の鑑定は、安易に結論を出されたものではなく、日本側からの依頼に誠実に調査をされたものと考える。莫大な量の蓄積を誇る中国の文化遺品を苦労して比較検討された結果としての結論だと考えて、尊重する必要があったと考えたい。

 この金属片は、いわゆるフェイクと言われるものになるかというと、少し事情が違う。もともとの制作者は、これを弥生時代の王国の記念物と言った意図を狙っていたわけではない。あくまで資料を参考にデザインとして描いたにすぎないのだ。それを現代の人たちが、弥生時代の銘板と誤解釈したまでだ。このような事例は、歴史の解釈において数多くみられるのではないか。当時の人には九州の地名のつもりだったのが、後世に奈良あたりの地名にされるといったこともある。後世のフェイクとなろうか。こういった誤解・誤読されたような事例についても、探っていきたい。
 ネットなどを拝見すると、まだこの金属片が弥生時代の遺物であり、弥生人は早くから文字を使いこなしていたという説明もされているものがあるが、改めていただくことを望みたい。

この点については、後に、先行して指摘しておられる方があることが、後の検索で気が付いたので、付記させていただく。益滿新吾氏のX(旧ツイッター) 2022年6月23日 に、
【「ネタ本は阮元の『積古齋鐘鼎彝器款識』である。
そこに「高暘(陽)左」「王作永宮齊鬲」「延光四年」が揃って見える。】 とされている。


参考文献
岡村広法「銅の眼」九州古代史研究会 1987
古田武彦「邪馬一国の考古学」古代史コレクション5 ミネルヴァ書房 
三辻利一 他『古代銅コインのケイ光X線分析(第2報)-古銭材質の年代変化-』 ネット掲載
「中国文化財図鑑」中国国家文物鑑定委員会 三秀舎 2016
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017



・古田史学会報№172に掲載のものを改訂したものです。


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