流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年02月

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1.天孫降臨のカラクニ
 以下は古事記の天孫降臨の一節。 
 「向韓國(からくににむかひ)眞來通(まきとほりて)、笠紗之御前(かささのみさき)而、朝日之直刺(たださす)國、夕日之日照國也」
 古田武彦氏の解読では、「真来通り」はまっすぐに通り抜けているという感じの表現、壱岐、対馬通過の海路を含む主要道路が貫いている表現がピッタリとされた。この地こそ朝日が刺し夕日が映える地であった。
 そうするとこの韓国(カラクニ)は朝鮮半島というよりも、半島南岸の特定の地を指すと考えるほうがいいのではないか。それは半島の南岸も広い範囲があり、さらに北九州の海岸も東西に長い。またこれが出雲であれば、半島には西へまっすぐといえる。よって糸島半島からの視点として壱岐、対馬も通過点となる先は、半島南岸の一定の範囲に絞れるのではないか。魏志倭人伝では楽浪郡より倭へは「韓国歴乍南乍東」とある。ここでは韓国は楽浪郡より南側の広い範囲の半島を意味している。そして北岸狗邪(コヤ)韓国に至るとある。この国を『三国志』東夷伝韓条の弁辰狗邪国のこととする説もあるが、この国から対馬、壱岐を通り九州北岸に着く。すなわち魏志倭人伝と天孫降臨のコースの同一性を意味しており、天孫降臨の韓国とは半島全体ではなく、魏志倭人伝の云う狗耶韓国あたりと考えるのが妥当ではないか。現在の釜山や金海のあたりとなる。そこからまっすぐに糸島半島と向き合う。
 魏志倭人伝には、一大率の検察の記事の後に「王遣使詣京都帶方郡諸韓國」という一節がある。鈴木靖民氏の指摘だが、遣使が中国への途中に帯方郡や諸韓国にも詣でるとある。韓国に諸がついているということは、複数のカラクニを意味している。おそらく魏への使者は、まずは最初に狗耶韓国を訪れ、他にも数か国のカラクニに立ち寄ったのであろう。

2.五伴緒(五部)の天児屋(アマノコヤネ)命とは?
 爾天兒屋命・布刀玉(フトダマ)命・天宇受賣(アメノウズメ)命・伊斯許理度賣(イシコリドメ)命・玉祖(タマノオヤ)命、幷五伴緖矣支加(イツトモノヲヲワカチクワヘテ)而天降也
 彥火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)は、古事記では五伴緒(イツトモノヲ)、日本書紀では五部をお伴として天下っている。それは天岩戸神話に登場する神々と一致している。小学館の古事記の解説では、「伴」は一定の職業に従事する部民、「緒」はそれを束ね統率する者で民族の長をいう、とある。小学館の日本書紀では、「五」という数は日本の神話に現れることの少ない数だが、ツングース族など、アジア大陸の遊牧民は、軍隊組織を五、またはその五倍の二十五を単位として構成。それが天孫降臨の場合に現れるのは、この神話がツングースなどに関係、と岡正雄説を取り上げている。東アジアの五部の問題は先学の研究があり、川本芳昭氏は高句麗の五部制が百済に影響を与えたという説に同意し、高句麗の五部の記述が、内部、北部、東部、南部、西部の順になされており、百済も都下の五部は中部(内部)を先頭として次に東からの右回りの順になるという。これは序列を意味しており、まずはその先頭に記されているのが、上位に位置することになる。
 天岩戸神話の神も天孫降臨のお供も、記された神の順列は同じである。そうすると天孫降臨のお供の天児屋命が上位の位置にある存在と考えていいであろう。ではこの神とはどのようなものであったのだろうか。

3.天児屋命の仮説
 この上位の天児屋命については、あまりよくわかっていないようで、いずれもお決まりの説明しかされていない。小学館の注では、小屋の内で神話を聞き、それを伝える神とある。神事を司る中臣氏の祖とされることに関係はする。だが神名のコヤから小屋が連想されたような説明は、いささか付会ともいえる解釈だ。さらにいうと、コヤではなく、コヤネと読まれているから、屋根のあるところで神事が行われたのだと言われそうだが、これも奇妙である。そもそも児屋(兒屋)をなぜコヤネと読むのであろうか。屋の意味に屋根もあったとするのか。日本書紀に登場する屋に、他にヤネの読みがされるものはない。もとは児屋根といった、根の字があったのかもしれない。先代旧事本紀や祝詞には根をつけた表記がある。しかしだからといって家屋の小屋根とはならないであろう。
 祝詞には別の表記で天之子八根命とある。そのことからも家屋の屋根を意味するのではなく、たとえば天皇の名にあるような根子と同じ意味を持つ根があったのが、何らかの事情で省略されたと考えられないだろうか。逆に元はコヤだったのが、後からネをつけたとも言えなくもないが。いずれにしてもコヤという単独の語として考えてよさそうだ。
 ではその児屋とはなんであろうか。天児屋命はニニギノミコトのお供として序列の上位たる意味をもち、狗耶韓国あたりから九州にやってきたのだ。コヤは狗邪であり、それはカヤ、加耶の国を意味していると考えられるのではないか。その加耶の国の実体は謎が多いが、高句麗や百済と同じ五部制をもっていたのかもしれない。三国遺事の駕洛国記には国の始まりの説話の後、金官加耶の始祖首露王と五加耶の王が誕生とある。真っ先に鉄を倭国にもたらし、さらには馬具も持ち込んだのが加耶勢力ではないか。
 かっては半島南部に弁辰と呼ばれる諸国があり、そこに狗邪韓国や駕洛国などがあった。後に伽耶と称されるようになったが、複数の国の集まりであった。前半は金官加耶あたりの中心が、後半には大加耶に移ったようだ。加耶は加羅、駕洛、加良などとも記されている。

4.加耶勢力の降臨を表すカヤ・カラ地名
 加耶勢力ははじめに九州の糸島半島や唐津に移住したのであろう。名勝奇岩の芥屋(ケヤ)の大門の芥屋はカヤのことではないだろうか。その地の近くに唐津湾に面した可也山がある。朝鮮半島南部に加耶山があり聖山となっているように、糸島の可也山も聖地としてあがめたのであろう。また和名抄の韓良郷は糸島半島の東の先のあたりという。そうしたことで加耶は加羅ともいったようだ。西方面の唐津も中国の唐ではなく加耶のカラである。観世音寺資材帳に加夜郷もある。また唐津市柏崎では前2~1世紀頃の甕棺から前漢の日光鏡とともに、触角式有柄銅剣が副葬されていた。スキタイ風と言われるこの銅剣の出土分布図はまさに北方文化の移動を明確に示している。なおかしわの柏の字はカヤとも読める。
 続日本紀の天平宝字二年によれば、福岡県にあった席田郡の大領子人(こひと)が「駕羅国」から祖先が渡来したことにちなんだ姓を申請し、駕羅造の氏姓が与えられたという。新撰姓氏録では、百済系「加羅」、新羅系「貨良」としている。ちなみに欽明紀二十三年の詔では、新羅が任那を滅ぼしたことに対し、怒りを込めて新羅のことを「西羌(にしひな)」と呼んでいる。中国西北の甘粛、すなわちモンゴルやウイグルに隣接したところだ。するとローマングラスなど出土する新羅も、はるか西方の大陸文化に関係していることを示していることになる。

5.拡大する加耶地名
  糸島半島のカヤ地名のような事例が各地の移動先に残されているのではないか。
 島根県 出雲国風土記に加夜の社。 出雲市稗原町の市森神社に合祀か。
 岡山県 加夜国は後の備中国賀陽郡。現在の総社市などで造山、作山古墳、吉備津神社、鬼の城など。
 兵庫県 豊岡市加陽、近くに出石神社 伊丹市昆陽、摂津国武庫郡児屋郷。
大阪府 摂津国嶋上郡児屋郷、児屋里。ここは芥川左岸か。
 奈良県 北葛城郡広陵町萱野。 明日香村栢森。そこに加夜奈留美命神社。桜井市にも栢森。
 京都府  加悦町(現与謝野町)吾野(あがの)神社の祭神我野廼姫命。 延喜式の内社「ワカヤノ、ワカノノ」とカナをふるが、ワは古語文法の敬称でノは所属などの格助詞、その間がカヤ、カノ。近くに吾野山古墳がある
 滋賀県 古事記開化記に蚊野之別があり、近江国愛知郡蚊野郷で彦根市の南方秦荘町という。
 まだまだあるが、単に読みが似ているというだけではなく、古典の記事や出土遺物などからその関係の有無を今後において検討していきたい。

参考文献
古田武彦「盗まれた神話」古代史コレクション3 ミネルヴァ書房   
岡正雄「日本民族文化の形成」
川本芳昭「高句麗の五部と中国の「部」についての一考察」雑誌 九州大学文学部東洋史研究会編.1996
鈴木靖民「古代の日本と東アジア」勉誠出版2020     
尹 錫暁/著兼川 晋/訳「伽耶国と倭地」新泉社1993
朴天秀「加耶と倭」講談社2007    
延恩株「韓国と日本の建国神話」論創社2018
加藤謙吉「渡来氏族の謎」祥伝社2017   
佐藤晃一「加悦町史概要版」
山本孝文「古代韓半島と倭国」中公叢書2018

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 古代において、常識では考えにくい年齢が語られるケースでは、現在の半年の期間を一年でカウントしていた場合があって、天皇の長寿も本当はその半分が実年齢であると考えるのが、二倍年暦である。ただ説明しにくい二倍を超える年数をなんでも倍数で説明するのは、無理があると考える。
 古田武彦氏は浦島子伝承は6倍年暦で説明できるとされている(古田2015)。常世に300年すごしたのは実質50年で、20歳の頃に竜宮に渡り、70歳の頃に故郷に戻ると、彼を知る人々はみんな寿命が尽きており、自分も白髪頭だったという解釈である。だがこれは賛同しかねる。この説明だと浦島子は50年も龍宮に滞在していたことになる。それは龍宮という常世での期間と現世の経過時間がイコールという説明であり、表現された時間の「単位」が異なるだけということになる。だがこれではアインシュタイン提唱の特殊相対性理論による、光速に近い速度で移動すると時間の進み方が異なるという現象の例えとして、「ウラシマ効果」の命名がされたこととは合わない解釈となる。本来の話においては、浦島子が訪れた竜宮と現世とのあいだとは時間の進み方が異なっていたというのが、この物語の重要な要素ではなかろうか。

 日本だけではなく、大陸にも似たような説話、考え方がある。『西遊記』では、故郷に帰った孫悟空は出迎えられて、天に行かれて十数年・・・といわれるが、本人はほんの半月ほどを十数年とは、と驚く場面がある。孫悟空のいた天上界と故郷のサルたちの世界とでは、時間の進み方が異なるという現象をしめしている。
 雲南省哈尼(ハニ)族の天女伝承では、貧しい地上の人々に天の五穀の種を送りたいと願うのだが、天神から、これは収穫するのに三年かかる、なぜなら天の一日は地上の一年にあたるからでとても現世での栽培は無理といわれる。
 四川省羌(チャン)族の洪水神話では、日照りが3年続く状況を打開するために猿が神に聞こうと馬桑樹を登る。そこにいた神々に日照りで困っていることを訴えると、神々は将棋を指していて三日だけ人間界に水をまかなかっただけ、と釈明したという。
 他にも浦島子伝承と似たような話が古代中国に存在する。湖南省洞庭湖ほとりの伝承の竜宮女房「漁夫と仙魚の故事」では、漁夫が船から落ちた少女を救い、後に龍宮に行って龍女と結婚するが、しばらくして故郷の母が恋しくなって帰ることになった。別れ際に龍女は宝の箱を渡し自分に会いたいときは籠に向かって私の名を呼ぶように、しかし蓋は開けるなと言う。帰ってみると村の様子も変わり母もいない、龍女に理由を聞こうとしてうっかり箱を開けると80歳の翁となってその場に倒れて死んだ。この場合も龍宮ではゆっくりと時間が進行することになっていたのだ。
 これらの物語の重要な要素が天上界、異界との時間差である。浦島子も龍宮では短い期間のはずが、現世では長い年月が経っていたという話であり、超高速で宇宙旅行をして戻った飛行士は歳をあまり取らないというウラシマ効果になるわけなの、けっして多倍年暦でその時間差を解釈するものではない。
 二倍年暦の例証(この場合は多倍年暦)にこの浦島子の話はそぐわないと考えたほうがよさそうであろう。

参考 
古田武彦『古代史をひらく 独創の13の扉』(古代史コレクション 23)ミネルヴァ書房2015 ※初出は1992
百田弥栄子「中国神話の深層」 三弥井書店2020

新沢千塚
 記紀などの語る渡来人の記事では、百済、高句麗からの渡来が目立ち、新羅についてはあまり目立たないことが指摘されている(田中2013)。また秦氏の記事はあっても、政治の中枢部での活躍はあまり見られない。こういったことから、記紀は、渡来系移住民の「倭」全体の動向や傾向の実体を反映するものではないという。考古学調査で検出される渡来系移住民の存在を、記紀ではほとんどつかめないというのである。たとえば、写真の奈良県新沢千塚古墳群の126号墳は、新羅からの渡来のリーダーの墳墓とされ、そこに金製装飾品や西方のガラス製品などの豪華な副葬品が見られる。実際には百済におとらず、新羅も列島の中で一定の存在であった可能性がある。
 古事記は、新羅敵視がなく、逆に日本書紀は新羅を敵視しているとのことから、古事記は新羅系の渡来人によって、紀は百済系の渡来人によって書かれた(金逹寿1990)との見方があるが、実際にはそう単純ではない。日本書紀には百済の資料がかなり使われている状況はあるが、個々の記事には、新羅側の恣意的な造作と思われるものがあり、研究者よりそういった指摘もなされている。

1.茨田堤の工事と新羅
 仁徳紀11年の茨田(まむた)堤の説話に、堤防が何度も壊れる所があったが、天皇の夢に神のお告げで、武蔵人の強頸(こはくび)河内人の茨田連衫子(ころものこ)の二人を犠牲にして河伯(かはのかみ)に祭れとあったことから、まずは、強頸が犠牲になったが、次の衫子は瓢(ヒサゴ)を用いた瓢が沈まなければ偽りの神だとしたウケヒを行い、瓢は沈まなかったので犠牲にならずに済んで堤が完成する話がある。強頚は人柱となるが、衫子は逃れる事ができ、その瓢は新羅を暗示するという。始祖の赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)は瓢のような大きな卵から生まれたという。辰韓では瓢を朴といい、始祖王は朴氏である。また、仁徳50年に茨田堤に鴈が産卵するというのは現実にはありえないのもので、アマノヒボコの日光感性卵生説話と同様のものであって、これは新羅を意味している。なお最初に人柱となった強頚は、三国史記巻46列伝題「強首」があり、新羅の武烈、文武、神文王に仕えた官人であり、その名前を利用したかもしれない。
 逆に築堤を妨害する「河伯」は高句麗、百済の出自を意味していることから、7世紀の半島で新羅が高句麗・百済を滅ぼして新羅が勝利する話が、ここに暗喩として含まれており、築堤の成功が新羅優位を物語っているというのである。よってこの説話の潤色に関わったのは新羅系渡来人だと考えられる(赤木2013)とされている。

2.新羅サイドの造作も練り込まれた日本書紀
 この茨田堤の説話については、長柄の人柱(こちら)と同様に、治水工事の意味があるものと考えていた。しかし、強頚と衫子という言葉がなんとなく堤防の土台を補強するようなものかとも考えたが、釈然とはしなかった。ネットを見ると、細部にわたって究明されている記事もあり、治水との関連はありえる。そうするとこの説話は、堤防づくりの工法をベースに、そしてこれを利用した新羅の思惑を含ませた説話ということになろうか。
 新羅は7世紀後半に百済と高句麗を制して半島の統一をすすめたが、倭国内では百済、高句麗系の勢力と新羅系の勢力がせめぎ合いを行っていたと考えられる。それが、日本書紀の記事にも反映することになったのだろう。
 上記のように考えると、日本書紀の他の記事にも同様の理解が可能ではないか。
天智前紀 「是歳~ 有細響、如鳴鏑。或曰、高麗・百濟終亡之徵乎」
 不気味な音が響き、それを高句麗と百済の滅ぶ徴候と記すのは、これも新羅サイドの人物であろう。
持統前紀 「是歲、蛇犬相交、俄而倶死」
 蛇と犬がつるんで、ともに死んだというその蛇と犬は、高句麗と百済を意味し、蛇と犬がそれぞれ特定の人物を意味している可能性があるが、その場合は、出自が高句麗系、百済系の当時の著名な人物となるかもしれない。
 またつくられた乙巳の変(こちら)では、天智と鎌足の蹴鞠での出会い、中大兄が倉山田麻呂の姉ではなく、妹を娶る逸話も新羅の金春秋のまつわる話の応用と考えられる。しかし、日本書紀がなぜ新羅の説話を活用したのかについては不思議に思っていたが、これも新羅サイドの人物が、編纂に関わっているなら十分あり得ることになろう。日本書紀は百済に関する人物や話題が多いが、新羅系の説話も重要なところで折り込まれているのである。

参考文献
田中史生「新羅人の渡来」(渡来・帰化・建都と古代日本)高志書院2013
赤木隆幸「茨田堤築造と新羅系渡来人」(渡来・帰化・建都と古代日本)高志書院2013
加藤良平「仁徳紀十一年の茨田堤の記事について」古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平氏のブログ 

1.二人の出会い以外にも参考にされていた。
 新羅武烈王の金春秋(603~669)は654年に王に即位しているが、647年に人質として来日し、百済征討の支援をもとめるもかなわず、翌年には唐に渡って派兵を要請している。後に百済を滅ぼし朝鮮半島統一の基礎を固めた。后の文姫は金庾信の妹で、次の文武王を生む。
 金庾信(595~673)は新羅に併合された金官加羅王の後裔で武将。647年、善徳王の廃位を唱えた毗(ひ)曇(どん)の反乱軍と戦い鎮圧に貢献。妹が金春秋の后だが、逆に金春秋の三女を夫人にしている。武烈王と子の文武王を支えて半島統一に邁進した。
 この二人に関する出会いの説話がある。
 金春秋と補佐の金庾信が蹴鞠に興じていた時に、庾信はわざと金春秋の裾の紐を踏んで裾を破ってしまう。これを妹の文姫が繕い、その縁で金春秋と結ばれる。書紀は恐らくこの説話を利用したと思われる。だが、日本書紀では、蹴鞠でなく打(ま)毬(りく)とある。これは雅な蹴鞠ではなく、ホッケー、ポロといったものであろう。当時の日本に雅な蹴鞠はなく、先にホッケーのような遊戯が入って来たのかもしれない。新羅の場合も中国から始まった蹴鞠は、サッカーに近いもので、雅な蹴鞠ではなかったから、裾を踏むことがありえたのであろう。しかし後の藤原氏の伝記である「籐氏家伝」では、靴が飛ぶような動作のある蹴鞠に変えたのかもしれない。
 この二人の記事と中大兄と鎌足の描写が似ていることについては、『つくられた乙巳の変1(こちら)』で説明しているが、二人の出会いである蹴鞠の逸話以外にも見る事ができる。注1

2.出会いだけでなく他にも利用された二人の関係
 金春秋の裾をわざと破った金庾信は、すかさず自分の裾の紐を裂いて、これで縫わせると言って、姉の宝姫に命じる。しかし姉は些細なことで軽々しく貴公子に近づくのは失礼と固辞する。その為に妹の文姫に縫わせることになって金春秋と結ばれる。一方、乙巳の変では倉山田麻呂の少女を中大兄が娶っている。鎌足の策略で中大兄は先に倉山田麻呂の長女を娶る手はずとなったが、彼女はその夜に一族に盗まれてしまう。落ち込む父にわけを聞いた少女(おとひめ)は身代わりを申し出る。父は喜び皇子に少女を奉る。書紀の少女は妹と断定できないが、当初目論んだ姉との婚姻が果たせずに代わりの女性と結ばれるという筋書きの類似は否定できない。なぜ次女や妹とせずに「少女」と表記しているのかは興味深い点である。天智天皇の后になるので慎重な記述をしたのだろうか。
 つまり金春秋と金庾信の話の利用は一つでおさまらないのだ。次も利用されたのではないか。病に臥せってしまった金庾信を、金春秋が慰問する。その時の言葉は「臣愚不肖 豈能有益於國家」とある。「臣は愚かで不肖でありましたから、どうして国家に対して有益であったと言えるでしょう。」
 天智天皇も床に臥す鎌足から次の言葉を聞いて感激する。
「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍國、死則何敢重難」
「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょう。・・略・・ 生きては軍国(おほやけ)のためにお役に立てず・・略・・」これも参考にしているのではないか。

3.中大兄と鎌足の関係を描くモデルは金春秋と金庾信の関係と同じ構図
天智鎌足新羅
 中大兄と鎌足が意気投合し、計画を練って殺害計画を遂行するという二人の関係は、新羅の女王をささえる金春秋と金庾信の関係に符合する。女性である新羅善徳王の廃位を求めるクーデターである毗曇の乱(647年)は、金庾信の活躍で鎮圧される。そのさ中に善徳王が亡くなるが、反乱後に従妹にあたる真徳王を擁立。金春秋と金庾信らが女王を支える体制を確立する。これは中大兄と鎌足が女帝の皇極をささえるという構図と同じではなかろうか。それはこの入鹿殺害の目的、狙いが入鹿と中大兄のセリフにあらわれている。
「入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎」
「私入鹿は、皇位簒奪の謀を企てているとの罪を着せられて、今殺されようとしているが、無実の罪。調べて明らかにしてほしい。」
 この後に中大兄が皇極天皇に殺害理由を説明する。「鞍作(入鹿)は帝位を傾けようとしている。鞍作をもって天子に代えられましょうか。」
 つまり、目的は、天皇の座を狙う入鹿を殺害して、皇統を守るということなのだ。金春秋と金庾信が女王を守ったように、中大兄と鎌足は皇極天皇、帝位を守るという設定にしているのだ。毗曇の乱とは2年違いで乙巳の変が設定されているのも、無関係でないことを示している。
 書紀はその目的を達成した一番の功労者を鎌足に仕立てた。皇統を知恵と力で守った人物として鎌足を礼賛しているのである。天児屋命を祖とする中臣氏から別れ出たとする藤原氏の祖である鎌足を、古代の英雄としてまつりあげることだった。
新羅の二人と同様に中大兄と鎌足が女王、帝位を守る存在としての構図が完成したのである。
 このように鎌足は作られた人物像であった。日本書紀において彼の事績は乙巳の変をのぞいては他に見るべきものはないのである。後に栄華を誇る藤原氏という系図の始まりが意図的に創造されたのである。

注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。
参考文献
藤原仲麻呂「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997

ちかもり木柱列
ちかもり案内板
 地中より360点余りの木柱根が360点あまり見つかったチカモリ遺跡。なかには直径最大85cmと、三内丸山遺跡とかわらないものもあった。その公園に木柱列の復元がされているが、そのうちのクリ材を半裁した環状の巨大木柱が高さ2メートルになっている。根元に巨大な木柱根があったとしても、それが、実際にどのような高さのものであったかはまったくわからないのであり、その点では、非常に正直な復元といえるだろう。
ちかもり6本
 6本柱の復元もあるが、それは高さ60センチと、どこぞの遺跡と違って、大変謙虚である。根拠のない推論で無理な創造物を作る必要はないのである。縄文人が木柱列を作った理由、目的、その姿をいろいろ想像するには十分な復元である。
ちかもり水中保存
 隣に市の埋蔵文化財収蔵庫があり、展示室の真ん中の大きなプールに木柱が水中保存されていて必見である。もちろん、縄文土器も様々な形状、文様のものを楽しめる。なかでも、蛇を表した文様に、口縁部に無数の刺突文を施した中期の北塚遺跡の深鉢が気を引くものだ。
tikamori
  場所は、御経塚遺跡の近くにあるので、ぜひ合わせてお立ち寄りください。    14.5.16

御経塚一の土器
 写真は石川県野々市(ののいち)市ふるさと歴史館の展示品。御経塚遺跡は縄文時代の後期中ごろから弥生時代初頭、今から3,700年から2,500年前の大集落の跡地で、縄文の出土品などが多数展示されている。面白い文様のものがいくつもあるが、その中にひょっとして漢数字の「一」を書いたのかと思うような土器がある。
 浅鉢形土器赤彩痕があり、時代は八日市新保式(3,350〜3,300年前頃)のものという。中国の甲骨文字が使われた殷の建国はおよそ3700年前なので、その文字を知る人たちが、この地にやって来たのであろうか。次のように、両端に刺突点が施されたものがあるので、あくまでこの「一」は横線としての文様であったとも思える。
点のある一の土器
ただ、別の土器にも刺突点のない「一」もあるので、文字を意味していた可能性もあるとしたい。
一土器2
 はたして当時の縄文人は、数としての文字という認識はあったのだろうか。以前にこちらで取り上げた大湯環状列石から出土のサイコロのような点で数字を表した土版があるように、横棒で数字を表すこともあったのではないか。もしくは何らかの記号のようなものであろうか。
 他にも「山」のようなデザインが施された土器がある。山字状三叉文というそうだが、似たようなものが時代は古墳時代と異なるが、種子島の広田遺跡にある。「山」と言う漢字ではないともいわれているが、両者に何らかの関連があるとするなら面白い。
山字土器1
山土器2
広田遺跡 山
 また、大変珍しい形状の土偶がある。まるで光背?を表現したようなものだが、なんとも不思議な土偶である。
光背土偶
 2,800〜2,500年前のものだそうだが、西日本は弥生時代に入った頃であり、弥生文化の関係とかいろいろ想像できるのではないか。
 ほかにも見どころいっぱいであるが、実はこちらのウェブサイトで手軽に出土品を一点ずつ説明付きで見る事ができる。とってもすぐれもののサイトである。ただ直接、間近でいろんな角度から見ていただくのが何よりであり、当館の隣接地に御経塚遺跡復元の公園もあり、観光のコースの一つとして見学していただいたらと思う。

参考文献
布尾和史「北陸の縄文世界 御経塚遺跡」(シリーズ遺跡を学ぶ87)新泉社2013

※広田遺跡の図は、「邪馬台国大研究」のホームページによる

 山田康弘氏の『縄文時代の歴史』(講談社現代新書2019)には次の一節がある。
「一つの住居に何人ぐらいの人が生活していたのかという問いに対しては、住居の拡張面積などの検討から、
居住者数=(住居跡の床面積)÷3(人が手足を大きく伸ばしたときの広さ)-1  
という式によって、おおよその数字が求められてきた。引き算される1(一人分)は、炉や柱などが占める面積を考慮・・・・  たとえば、鹿児島県上野原遺跡における早期の住居跡の平均的な床面積(約7.13㎡)からは、早期の住居一棟に2~3人程度の人々が生活していたと推定できる。したがって早期における集落の人口は、一時期に6~7棟の住居があったとすれば、多くとも20人程度であったと思われる。」
                        
 以上のような説明だが、これには疑問がある。そもそも1家族2、3人ならばこの村は、大きな災害などの異変がなくても消滅するのではないか。実際に上野原遺跡の復元住居では、そのなかの家族の様子を展示している。
北相
 写真を見ると、山田氏の計算通りの親子3人の復元だ。住居の中はけっこう広々としているのに、何かとてもさみしい光景ではないか。これは現代の日本の少子化問題を象徴するようだ。また北相木村考古博物館にも、縄文時代早期の長野県栃原岩陰遺跡という洞窟(岩陰)で発見された注目の遺跡の復元がある。獲物を手にした父親と母子の家族三人構成で描かれている。子供は既に大きくなっているので、このまま一人っ子になるのだろうか。博物館には学校ぐるみで子供たちが見学に来ることがあるだろう。子供たちは、はるか昔の家族も自分の家族と同じ状況だったのだと思うことになる。これは現在の少子化の状況に縛られて、古代人のくらしの復元に疑問など浮かばないようになってしまったのではないだろうか。
 サザエさん一家のような家族構成が古代にあったかどうかは不明だが、実際には子供はところせましと4,5人とかいて、さらにお母さんは背中に赤子を背負っている、というのが正しい復元ではないか。もちろん、途中で病気などで亡くなる子供は多かったであろうが。展示では、経費の問題から、そんなにたくさんのマネキンを用意できないという問題もあるかもしれないが。復元は別にしても、家族構成が、住居一棟に2~3人と疑問を持たずに説明してしまうところに、現代の少子化の深刻さがあるようにも思える。そのような固定観念で、古代史を解釈してもらっては、失礼ながら真実には近づけないのではないだろうか。さらには縄文人は全国で人口のピークの中期で二六万人ほどだったと推定されるが、これも基本の家族人数が少なく見積もられていてはかなり怪しい数字となるように思えるのだが、さてどうであろうか。

上野原の住居写真はYouTube【鹿児島観光】 「霧島市国分 上野原縄文の森」より

鍵穴蛇
 日本書紀・古事記には時代の合わない記事が多数練り込まれており、その中には外来の要素が盛り込まれている場合が少なからず見受けられる。
 古事記の崇神天皇の段に、苧環(おだまき)型蛇聟入伝承といわれる奇譚説話がある。夜な夜な活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)の所に通う男の正体を知るために、着物に糸をつけてみると、その糸は鍵穴を通って、美和山神社までたどれたことで、生まれた子が神の子であることがわかったという。
 「所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出」  
 「爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子」
 鍵穴という小さい穴を通ることができるということは、それが小さな蛇であったと想像できる。日本書紀の崇神紀には、大物主の正体が小蛇であったことに驚いた倭迹々日百襲姬(ヤマトトトヒモモソヒメ)が急死する説話が記されていることから、記紀の説話はセットとして捉える事ができる。
 この鍵穴が表記されたものは古事記と先代旧事本紀である。だがここに年代が合わないという問題がある。古代のカギは正倉院宝物など鍵穴のない形が多い。つまり、作り付けではなく、別の錠前を取り付けて鍵をかけるのである。鍵穴が付いたタイプのものは、奈良時代末頃の當麻寺の東塔、法隆寺五重塔、法起寺三重塔など、寺院や貴族の邸宅にあったようだが、どこにでもあるものでない。
當麻東塔
當麻寺講堂
 写真は、奈良県當麻寺の東塔と講堂の鍵穴である。戸の下の方に付いているが、これは猿落としといわれるもので、L字型をした棒状の鍵を差し込んで回すと開錠できる仕組みで、現地で伺ったのだが、金堂のほうは、今も毎日この鍵の開け閉めがされているとのことだ。下図はその仕組みを表したものである。
サル落とし
 この説話には別に参考にした資料があることが指摘されている。(中川1995)この物語の背景に漢訳仏典があるという。それは「大智度論巻第二大蔵経」で、そこに「即以神力従門鑰孔中入」とある。その内容は、修行に疲れた阿難が休息しようとしたときに、突然悟りを得たという。だが信用できないので長老の大迦華は「その言葉がほんとうならば、門の鍵穴の中から門の中に入ってきなさい」と命じたので、彼は実際に、穴から中に入る事ができたので、それから彼は大きな仕事をまかせられるようになったという。
 これで出典が明らかになったわけだが、まだ問題は残る。それはなぜ、鍵穴の説話が持ち込まれたのかである。
ウォード錠
 『鍵の文化史』(浜本1995)では、古代から現代までの鍵の歴史をふまえて列島と大陸の「風土」の大きな違いがあることが明らかにされている。ローマ時代に、鍵穴の付いた「ウォ-ド錠」がすでに広まっていた。鍵の中に障害物を設け、それを通過する鍵のみが回転して、ロックを外すことができる仕組みのものである。大陸では、日本の古代では考えられないような様々な錠前が、より精巧に作られてきた。異民族とたえず接触し、侵略や戦争を繰り返してきたヨーロッパ人の生活から生み出されたものである。
 それに反し、日本においては四方を海に囲まれ、外国の侵略をほとんど受けなかったので、防衛意識はヨーロッパと大きな相違があった。これが鍵や錠に対する意識と密接に関わっているというのである。ヨーロッパ中世といえども、その錠前と鍵との精巧さにおいて、現代日本よりははるかにすぐれている。
 それに比べれば日本のかんぬきや土蔵の鍵などはほとんど原始的といったものなのだ。このことから、古代の列島の中では8世紀であっても、鍵穴のある錠前が使われた住居を想定した話など作りえないのである。
 その長い歴史を持つヨーロッパでは、鍵と錠前は、その形状や開閉の機能による類推から、古代より愛のシンボルと考えられてきた。これは悪ふざけという意図からではなく、生命を生み出すものに対する畏敬の念から、イメージされていったのであろう。このことから、夜な夜な娘のところに通う謎の人物が、鍵穴を通るというのは、明らかに性を暗示している。古事記が美和の神の子を生んだという説話に鍵穴を通る話が持ち込まれた由縁である。
 この説話を採録したのは、列島人ではむずかしい。そもそも列島の中では鍵穴を通る、といった発想はこの時代には思いつかないのではないか。大陸文化を良く知る人物が持ち込んで応用したものであろう。古事記は古代の伝承を採録したとは考えにくい事例が多くあるのである。

参考文献
中川ゆかり『鍵穴を通る神』 古事記年報 古事記学会 編1995
浜本隆志『鍵の文化史 鍵穴からみたヨーロッパ』関西大学経済・政治研究所1995
※猿落としの仕組みの図は、ALSOKのHP 

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