以下は古事記の天孫降臨の一節。
「向韓國(からくににむかひ)眞來通(まきとほりて)、笠紗之御前(かささのみさき)而、朝日之直刺(たださす)國、夕日之日照國也」
「向韓國(からくににむかひ)眞來通(まきとほりて)、笠紗之御前(かささのみさき)而、朝日之直刺(たださす)國、夕日之日照國也」
古田武彦氏の解読では、「真来通り」はまっすぐに通り抜けているという感じの表現、壱岐、対馬通過の海路を含む主要道路が貫いている表現がピッタリとされた。この地こそ朝日が刺し夕日が映える地であった。
そうするとこの韓国(カラクニ)は朝鮮半島というよりも、半島南岸の特定の地を指すと考えるほうがいいのではないか。それは半島の南岸も広い範囲があり、さらに北九州の海岸も東西に長い。またこれが出雲であれば、半島には西へまっすぐといえる。よって糸島半島からの視点として壱岐、対馬も通過点となる先は、半島南岸の一定の範囲に絞れるのではないか。魏志倭人伝では楽浪郡より倭へは「韓国歴乍南乍東」とある。ここでは韓国は楽浪郡より南側の広い範囲の半島を意味している。そして北岸狗邪(コヤ)韓国に至るとある。この国を『三国志』東夷伝韓条の弁辰狗邪国のこととする説もあるが、この国から対馬、壱岐を通り九州北岸に着く。すなわち魏志倭人伝と天孫降臨のコースの同一性を意味しており、天孫降臨の韓国とは半島全体ではなく、魏志倭人伝の云う狗耶韓国あたりと考えるのが妥当ではないか。現在の釜山や金海のあたりとなる。そこからまっすぐに糸島半島と向き合う。
魏志倭人伝には、一大率の検察の記事の後に「王遣使詣京都帶方郡諸韓國」という一節がある。鈴木靖民氏の指摘だが、遣使が中国への途中に帯方郡や諸韓国にも詣でるとある。韓国に諸がついているということは、複数のカラクニを意味している。おそらく魏への使者は、まずは最初に狗耶韓国を訪れ、他にも数か国のカラクニに立ち寄ったのであろう。
2.五伴緒(五部)の天児屋(アマノコヤネ)命とは?
爾天兒屋命・布刀玉(フトダマ)命・天宇受賣(アメノウズメ)命・伊斯許理度賣(イシコリドメ)命・玉祖(タマノオヤ)命、幷五伴緖矣支加(イツトモノヲヲワカチクワヘテ)而天降也
彥火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)は、古事記では五伴緒(イツトモノヲ)、日本書紀では五部をお伴として天下っている。それは天岩戸神話に登場する神々と一致している。小学館の古事記の解説では、「伴」は一定の職業に従事する部民、「緒」はそれを束ね統率する者で民族の長をいう、とある。小学館の日本書紀では、「五」という数は日本の神話に現れることの少ない数だが、ツングース族など、アジア大陸の遊牧民は、軍隊組織を五、またはその五倍の二十五を単位として構成。それが天孫降臨の場合に現れるのは、この神話がツングースなどに関係、と岡正雄説を取り上げている。東アジアの五部の問題は先学の研究があり、川本芳昭氏は高句麗の五部制が百済に影響を与えたという説に同意し、高句麗の五部の記述が、内部、北部、東部、南部、西部の順になされており、百済も都下の五部は中部(内部)を先頭として次に東からの右回りの順になるという。これは序列を意味しており、まずはその先頭に記されているのが、上位に位置することになる。
天岩戸神話の神も天孫降臨のお供も、記された神の順列は同じである。そうすると天孫降臨のお供の天児屋命が上位の位置にある存在と考えていいであろう。ではこの神とはどのようなものであったのだろうか。
3.天児屋命の仮説
この上位の天児屋命については、あまりよくわかっていないようで、いずれもお決まりの説明しかされていない。小学館の注では、小屋の内で神話を聞き、それを伝える神とある。神事を司る中臣氏の祖とされることに関係はする。だが神名のコヤから小屋が連想されたような説明は、いささか付会ともいえる解釈だ。さらにいうと、コヤではなく、コヤネと読まれているから、屋根のあるところで神事が行われたのだと言われそうだが、これも奇妙である。そもそも児屋(兒屋)をなぜコヤネと読むのであろうか。屋の意味に屋根もあったとするのか。日本書紀に登場する屋に、他にヤネの読みがされるものはない。もとは児屋根といった、根の字があったのかもしれない。先代旧事本紀や祝詞には根をつけた表記がある。しかしだからといって家屋の小屋根とはならないであろう。
祝詞には別の表記で天之子八根命とある。そのことからも家屋の屋根を意味するのではなく、たとえば天皇の名にあるような根子と同じ意味を持つ根があったのが、何らかの事情で省略されたと考えられないだろうか。逆に元はコヤだったのが、後からネをつけたとも言えなくもないが。いずれにしてもコヤという単独の語として考えてよさそうだ。
祝詞には別の表記で天之子八根命とある。そのことからも家屋の屋根を意味するのではなく、たとえば天皇の名にあるような根子と同じ意味を持つ根があったのが、何らかの事情で省略されたと考えられないだろうか。逆に元はコヤだったのが、後からネをつけたとも言えなくもないが。いずれにしてもコヤという単独の語として考えてよさそうだ。
ではその児屋とはなんであろうか。天児屋命はニニギノミコトのお供として序列の上位たる意味をもち、狗耶韓国あたりから九州にやってきたのだ。コヤは狗邪であり、それはカヤ、加耶の国を意味していると考えられるのではないか。その加耶の国の実体は謎が多いが、高句麗や百済と同じ五部制をもっていたのかもしれない。三国遺事の駕洛国記には国の始まりの説話の後、金官加耶の始祖首露王と五加耶の王が誕生とある。真っ先に鉄を倭国にもたらし、さらには馬具も持ち込んだのが加耶勢力ではないか。
かっては半島南部に弁辰と呼ばれる諸国があり、そこに狗邪韓国や駕洛国などがあった。後に伽耶と称されるようになったが、複数の国の集まりであった。前半は金官加耶あたりの中心が、後半には大加耶に移ったようだ。加耶は加羅、駕洛、加良などとも記されている。
4.加耶勢力の降臨を表すカヤ・カラ地名
加耶勢力ははじめに九州の糸島半島や唐津に移住したのであろう。名勝奇岩の芥屋(ケヤ)の大門の芥屋はカヤのことではないだろうか。その地の近くに唐津湾に面した可也山がある。朝鮮半島南部に加耶山があり聖山となっているように、糸島の可也山も聖地としてあがめたのであろう。また和名抄の韓良郷は糸島半島の東の先のあたりという。そうしたことで加耶は加羅ともいったようだ。西方面の唐津も中国の唐ではなく加耶のカラである。観世音寺資材帳に加夜郷もある。また唐津市柏崎では前2~1世紀頃の甕棺から前漢の日光鏡とともに、触角式有柄銅剣が副葬されていた。スキタイ風と言われるこの銅剣の出土分布図はまさに北方文化の移動を明確に示している。なおかしわの柏の字はカヤとも読める。
続日本紀の天平宝字二年によれば、福岡県にあった席田郡の大領子人(こひと)が「駕羅国」から祖先が渡来したことにちなんだ姓を申請し、駕羅造の氏姓が与えられたという。新撰姓氏録では、百済系「加羅」、新羅系「貨良」としている。ちなみに欽明紀二十三年の詔では、新羅が任那を滅ぼしたことに対し、怒りを込めて新羅のことを「西羌(にしひな)」と呼んでいる。中国西北の甘粛、すなわちモンゴルやウイグルに隣接したところだ。するとローマングラスなど出土する新羅も、はるか西方の大陸文化に関係していることを示していることになる。
続日本紀の天平宝字二年によれば、福岡県にあった席田郡の大領子人(こひと)が「駕羅国」から祖先が渡来したことにちなんだ姓を申請し、駕羅造の氏姓が与えられたという。新撰姓氏録では、百済系「加羅」、新羅系「貨良」としている。ちなみに欽明紀二十三年の詔では、新羅が任那を滅ぼしたことに対し、怒りを込めて新羅のことを「西羌(にしひな)」と呼んでいる。中国西北の甘粛、すなわちモンゴルやウイグルに隣接したところだ。するとローマングラスなど出土する新羅も、はるか西方の大陸文化に関係していることを示していることになる。
5.拡大する加耶地名
糸島半島のカヤ地名のような事例が各地の移動先に残されているのではないか。
島根県 出雲国風土記に加夜の社。 出雲市稗原町の市森神社に合祀か。
岡山県 加夜国は後の備中国賀陽郡。現在の総社市などで造山、作山古墳、吉備津神社、鬼の城など。
兵庫県 豊岡市加陽、近くに出石神社 伊丹市昆陽、摂津国武庫郡児屋郷。
大阪府 摂津国嶋上郡児屋郷、児屋里。ここは芥川左岸か。
奈良県 北葛城郡広陵町萱野。 明日香村栢森。そこに加夜奈留美命神社。桜井市にも栢森。
京都府 加悦町(現与謝野町)吾野(あがの)神社の祭神我野廼姫命。 延喜式の内社「ワカヤノ、ワカノノ」とカナをふるが、ワは古語文法の敬称でノは所属などの格助詞、その間がカヤ、カノ。近くに吾野山古墳がある
滋賀県 古事記開化記に蚊野之別があり、近江国愛知郡蚊野郷で彦根市の南方秦荘町という。
まだまだあるが、単に読みが似ているというだけではなく、古典の記事や出土遺物などからその関係の有無を今後において検討していきたい。
参考文献
古田武彦「盗まれた神話」古代史コレクション3 ミネルヴァ書房
岡正雄「日本民族文化の形成」
岡正雄「日本民族文化の形成」
川本芳昭「高句麗の五部と中国の「部」についての一考察」雑誌 九州大学文学部東洋史研究会編.1996
鈴木靖民「古代の日本と東アジア」勉誠出版2020
尹 錫暁/著兼川 晋/訳「伽耶国と倭地」新泉社1993
尹 錫暁/著兼川 晋/訳「伽耶国と倭地」新泉社1993
朴天秀「加耶と倭」講談社2007
延恩株「韓国と日本の建国神話」論創社2018
延恩株「韓国と日本の建国神話」論創社2018
加藤謙吉「渡来氏族の謎」祥伝社2017
佐藤晃一「加悦町史概要版」
佐藤晃一「加悦町史概要版」
山本孝文「古代韓半島と倭国」中公叢書2018