流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2024年01月

漢語名マップ
 カスピ海の東隣りのアラル海から東南方向に、ソグド人のホーム・グランドである二十余国の都市国家からなるソグディアナがあった。彼らには、漢文史料によると出身地別に漢語の姓が付けられて、何世代にも用いられ続けていたという。ソグド人の中国姓で出身地がわかるというのである。以下はその都市国家名。
 タシケント=石国、ウスルーシャナ=東曹国、カブーダン=曹国、イシュティハン=西曹国、マーイムルグ=米(マイ)国、サマルカンド=康国、クシャーニーヤ=何(カ)国、シャフリサブズ=史国、カルシ=小史国、ブハラ=安国、パイカンド=畢(ヒツ)国、メルヴ=穆(ボク)国、ナサフ=那色波(ナシキハ)国
 他に現地名不明の烏那曷(オナナン)国。 
 またタラス、ホジェンド、ザンダナなどは漢字表記は不明。
 さらに近年の中国でのソグド人墓の発見でその史料から、虞(グ)国、恵国、翟(テキ)国、魚国、羅国、また隋書、新唐書から場所は不明だが、火尋(カジン)、戊地などもあった。(山口2023)
 『大唐西域記』颯秣建国(サマルカンド)条にすべての胡国の中心とあるので、サマルカンドの康国が盟主国であったようだ。
 漢語姓をもったソグド人では、安史の乱(760年平定)の安禄山と史思明は有名。上記の国名の姓が必ずしもソグド人を示すとは限らないが、今後の研究でさらに明らかになっていくであろう。なかには日本にもやってきたソグド人も少なくないと考えられる。鑑真の渡海に随行した安如宝だが、これは8世紀のことだ。私は、もっと早くから渡来してきたソグド人がかなりいるのではないかと考えている。
 たとえば韓国の研究者には、古事記の太安万侶は百済の史家の安万呂アン・マンリョ(金1972)という意見もある。当ブログでは、山口博氏の著書などを参考に、古事記、日本書紀に大陸文化の影響が多くみられることを述べているが、その執筆、編集にソグド人が関わっているのではと考えている。また、7世紀よりももっと早くから、彼らはやって来たのではないか、日本の政治文化に影響を与えることがあったのではないかと想定している。まだまだ確証となるものはなく、妄想のようなものかもしれないが、その痕跡といったものを探っていきたいと考えている。

参考文献
森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史第5巻)講談社学術文庫2016 
山口博『ソグド文化回廊の中の日本』新典社2023
金逹寿『日本の中の朝鮮文化 3 近江・大和』講談社1972
※図は森安孝夫『シルクロードと唐帝国』による

200px-Kyrgyz_Manaschi,_Karakol
            英雄マナスを語るキルギスの老人(ウィキペディア)

1.英雄の異常出生譚
 以下は「シルクロードの伝説」のキルギス(柯爾克孜)族の男、マナス(瑪納斯)のお話。
 はるか昔、ジャケップ(加庫甫)夫婦は百歳にもなるのに子がなかった。ある年、妻のお腹が大きくなったが、ちょうど20ケ月たって産み落としたのは、なんと肉の塊だったので、ジャケップはカンカンに怒った。「魔物のしわざで、わしが捨ててこう」妻は言った。「どんな姿であろうと、わしの身から出たものじゃ、どうか一度、なかを割って見せてください」懇願されてジャケップはうなずいて、肉塊をわってみると、なかには可愛らしい男の赤ん坊がいた。マナスの誕生だった。後に馬や弓矢にたけて兵士として活躍、民から愛された、という。
 いわゆる、尋常でない出生が王たるものの聖性を保証するといった、貴人が不可思議な生まれ方をするという誕生譚だが、この場合の異常な誕生にあたるのは、肉の塊を割ると男の赤ん坊が出てきたというところだろう。なにやら桃太郎の誕生と類似しているが、ではこの夫婦が高齢でさらに妊娠期間が通常の倍であるというところはどうであろうか。
 百歳の夫婦は実は二倍年暦で50歳となるのではないか。さらに、男の子は20か月たって生まれたのであろうか。これも、20ケ月ではなく半分の10ケ月、と考えれば普通に理解できる。しかし、古代では月数はどうなっていたのだろうか。一か月15日などとしていたのであろうか?その可能性がある暦法がティティと呼ばれ古代インド、チベットなどにあるという。

2.一か月を二つに分ける古代の暦法
 「国立天文台暦Wiki」によると、ティティとは、月と太陽の黄経差=月の満ち欠けを、12°ごと=30個に等分したものだという。太陰暦月の日付を数えるのに用いる。
 新月から満月までの満ちていく期間を白分 Śukla pakṣa 
 満月から新月までの欠けていく期間を黒分 Kṛṣṇa pakṣa 
この白分と黒分それぞれで日付を数えるという。
 またウィキペディアでは、「伝統的なインドの太陰太陽暦では、1ヶ月(1朔望月)を前半と後半の2つの期間に分ける。 朔から望まで(月が満ちていく期間)は白分(śukra pakṣa)といい、望から朔まで(月が欠けていく期間)は黒分(kṛṣṇa pakṣa)と呼ぶ。 そしてティティも、例えばある月の第1番のティティは「白分第1ティティ」といい、朔から数えて第16番目のティティは「黒分第1ティティ」という風に、白分・黒分に分けて呼ぶのが普通である。」とされている。
 また『大唐西域記』巻2に「黒分或十四日十五日。月有小大故也」とあって、必ずしも15日ではなく、14日の場合もあるという。
 上記のような白分と黒分をそれぞれひと月とカウントすれば、20か月で生んだというのは、現在の暦では実は10ケ月となるので、正常分娩となる。よって、この英雄マナスは、50歳ほどの親から10ケ月で誕生したという2倍年暦で理解できる可能性はある。
 この白分、黒分がそれぞれ月数とすれば、1年は24ケ月となる。ただし、上記には1年を何カ月とするかの明確な記述はない。さらに検討は必要ということになろう。

参考文献
「シルクロードの伝説」(訳:濱田英作 甘粛人民出版編サイマル出版会1983)
玄奘 (著), 水谷 真成 (翻訳)『大唐西域記』東洋文庫1999

奴国王墓石
春日奴国王墓
 東アジア考古学の門田誠一氏が2023年第13回日本考古学協会賞大賞を受賞された著作。    
 その対象となった研究書が『魏志倭人伝と東アジア考古学』(吉川弘文館2021)こちら
 
 魏志倭人伝に記された倭と倭人の事物・習俗・社会を、同時代の史書・文献、考古資料から検証。これまでの研究とは一線を画す研究をすすめ、中国王朝と周辺勢力との国際関係、編纂の史的環境、描かれた物質文化史の視点から分析し、三世紀の東アジアにおける相対的な位置づけを試みるという労作である。
 受賞に際して日本考古学協会の推薦文がある。そこに以下のような一節がある。
 「一例を挙げると、『魏志倭人伝』が「大作冢、径百余歩、徇葬者奴婢百余人」と記す卑弥呼の墓について、著者は巨大な墳丘を持つ古墳に直結させる通説とは距離を置く。そして著者は多方面からの検討によって、この記事の記主は卑弥呼の墓を高い封土を持つものとは認識していなかったし、多数の奴婢の殉葬というのも事実ではなく、むしろ倭が漢人社会とは異質な礼俗によってたつ社会であるという中国的な思想の産物であるという斬新な結論を提示している。」
 その「多方面からの検討」の中に、実は古田武彦氏の論考も引用されている。次の一節だ。
「古田武彦氏は『三国志』のなかの蜀志五・諸葛亮伝の『山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る』という記事、および蜀志一四蔣埦伝の『大君公侯の墓が通例”墳“であった』とする記事を引いて、歴然とした高さのある人工の墓を『墳』と呼び、それよりも規模の小さい盛り土『冢』と表現したことを記述している。」『邪馬壹国と冢』(歴史と人物1976年9月号)
 卑弥呼の墓の真実を示した古田氏の慧眼というべき指摘だ。さらに森浩一氏などの引用をされたあとに、門田氏は、同時代的意味に近づくことを目的とするという視点で卑弥呼の墓について検討し、古田氏が引用した諸葛亮伝にふれて、「棺を収めるための狭義の墓としての意味の冢としているのだろう。実際にヒミコの冢は『径百余歩』とあり、平面的な大きさに関する記述はあるものの高さに関する記述はなく、これが上述のような倭における墓に対する認識の一端を示しているとすれば、冢そのものは必ずしも高大な封土を備えているという認識はなされていなかったと考えられる」
 現在に至っても箸墓古墳を卑弥呼の墓とするような妄論が絶えないが、半世紀も前に古田氏は高塚ではないこと指摘しているのである。これを引用された門田氏は、膨大な資料を渉猟して意義のある論考は分け隔てなく採用されたのではないか。
 とにかく大作であり、一般人は読むのに躊躇してしまいそうなボリュウームではあるが、魏志倭人伝に関心を持つ人たちには、ぜひ挑戦してほしい考古学の価値ある一書であろう。

※写真は、福岡県春日市奴国の丘歴史資料館、王墓の上石

卑弥呼

 弥生時代の環濠遺跡やその出土物を、真っ先に軍事面でとらえる傾向があるのは、その背景に魏志倭人伝の「倭国乱」の解釈の誤解があって、卑弥呼登場までの長期間にわたって大規模な内乱があったかのように刷り込まれてしまったことが要因と考えられる。
 早くに古田武彦氏が、後漢書の「大乱」が魏志倭人伝の誤読による誇張とされたが、さらに古田史学の会の正木裕氏は、この問題をさらに詳細に述べておられるので、この内容に触れながら現在も続いている誤解を説明したい。

⑴魏志倭人伝の記述を誤読し、さらに創作を加えた范曄(ハンヨウ)の後漢書
 魏志倭人伝の卑弥呼共立前の該当記事は以下のようである。
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。
 岩波文庫の訳注は以下通り。 
「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。」
 次は現代語訳。
「その国は、もとは男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年」
 岩波は、現代語訳としながら、原文をそのままなぞるような記述になっている。問題となるのは「歴年」で、ネット記事などをみても、「年を経た」という解釈がされていることが多い。ここを古田氏は、他の漢籍の使用例から、この「歴年」は10年程度とされた。出典は不明だがウィキペディアを見ると、「中国正史で歴年とは平均して8年±数年」と記載されている。
 この「歴年」の解釈が異なると、内乱が七、八十年もの間ずっと続いたかのようにも読み取れてしまう。同じように、後漢書の撰者である范曄も誤解をしてさらには、余分な内容も追加しているのである。
 次は後漢書の該当記事。 
「桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 」
 訳注は以下の通り。
  「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し、歴年主なし」
 次は現代語訳。
「桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、かわるがわるたがいに攻伐し、歴年、主がいなかった。」
 後漢書は「桓・霊の間、大乱、主無し」という魏志倭人伝にはない言葉を付け加えているのである。

⑵范曄は漢の滅亡までの混乱から卑弥呼共立までの経緯を創作した
 陳寿が記した魏志倭人伝では、男王の在位期間が七、八十年で、倭国が乱れて相攻伐したのが歴年の10年ほどなのである。乱と在位期間は別なのである。それを、後に後漢書はいらぬ言葉を加えて倭国に大乱があったとしたのである。正木氏は、范曄が漢の末期の様子をもって倭国乱を描いたのであったと指摘する。
 桓帝・霊帝は暗愚な皇帝の代名詞とされており、桓帝は質帝の毒殺で即位したが、毒殺した梁冀を誅殺後に上層部の抗争が続き、霊帝は政治に無関心で黄巾の乱がおきて漢の滅亡へとすすむ。このような経緯と重ねるように、倭国乱を、桓・霊の間からの長期間の大乱でリーダーもない状態になったとしたのだが、実際に主がいなくなって混乱したのは中国の方だったのだ。
 このような結果、桓・霊の間(146~189年)の長期間に渡ってに倭国大乱があったと記述される論考が登場するのである。

⑶誤解で誇張された倭国乱
 弥生時代後半をまるで戦国時代であったかのようにとらえ、各地の遺跡や出土物を、戦争、紛争の視点で説明されることが今も続いている。ローマ逆茂木佐原氏の著作には、「ガリア戦記」のシーザーのローマ軍の例で逆茂木の図との説明があるが、おそらくこういったものから愛知朝日遺跡の場合も、環濠から出土した杭などを、防戦のための逆茂木・乱杭だと決めつけたのではないか。吉野ケ里でも、防御的役割で遺跡の説明がされ、環濠に沿って外堤が盛られ、柵が隙間なく張り巡らされ、さらにはありもしない先のとがった杭を無数に並べるという虚構の復元が行われたのである。
 岩波書店の『魏志倭人伝・後漢書倭伝~』の訳注が、「歴年」をそのままにせず、10年程度の期間であることを明示してもらわないと、この誤解はずっと続くと思われる。誇張された倭国乱が長期間続いたと思い込まされ、弥生時代の遺構、遺物を、なんでも先に戦闘行為という観点で解釈しようという傾向は、早く見直してほしいものだ。
  くどいようだが、リーダーもいなくなるような「大乱」はなかったのであり、男王の即位していた期間の10年ほどの紛争で、ついに卑弥呼が登場することになったということである。

参考文献
古田武彦「邪馬一国への道標」ミネルヴァ書房2016 など
正木裕 「俾弥呼と『倭国大乱』の真相」 2018.10.14久留米大学講演
久世辰男「環濠と土塁――その構造と機能――」月刊考古学ジャーナル№511
原田幹 「朝日遺跡 東西弥生文化の結節点」 新泉社2013
橋口達也「弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成」 雄山閣2007
藤原哲 「日本列島における戦争と国家の起源」  同成社 2018
佐原真 「戦争の考古学 佐原真の仕事4」岩波書店 2005
佐原真 「弥生時代の戦争 古代を考える稲・金属・戦争」佐原真編 吉川弘文館2002

円窓土器
「弥生時代中期前葉~中葉(紀元前4~前2 世紀)
集落が大きく広がり、南居住域と北居住域、東墓域と西墓域など、集落の基本的な配置が定まりました。北居住域の南側には、環濠・逆茂木・乱杭等からなる強固な防御施設が築かれました」 
 上記は、あいち朝日遺跡ミュージアムの解説であるが、これには疑問があるので説明したい。
逆茂木

⑴弥生環濠の逆茂木(サカモギ)、乱杭(ラングイ)は防衛施設か
 愛知県清須市の朝日遺跡は東海地方最大の弥生集落といわれ、弥生時代争乱の証拠とされた防御施設のある遺跡として有名となっている。環濠の内側に築かれた土塁とその手前の濠、そしてそこに逆茂木・乱杭などのバリケードと、まさに防衛対策を備えた集落のように説明されている。各地の遺跡の復元整備や弥生時代の復元画にも大きな影響を与え、吉野ヶ里の復元も朝日遺跡が参考とされたという。HPにもリアルな様子が描かれている。 
朝日遺跡環濠
 しかし、環濠施設の全体の図では中心のやや左上の丸囲い部で示されているように環濠の一部だけであり、その位置は北側と南側にある集落の谷で分けられた接点に築かれている。集落の東西の側面は墓地が広がり、そこにバリケードのようなものは見当たらない。いったいこの防御施設はどこからの敵の侵入を想定しているのか疑問であり、現地の博物館の学芸員さんに尋ねると、防御施設を疑問視する見解の存在することを説明された。一番のポイントとなる逆茂木、乱杭はこの場所に川が流れており、洪水・水害対策の施設だと調査員の赤塚次郎氏は指摘しているのである。この逆茂木は期間が限定され、流水性の砂層が堆積していることが根拠となるという。また乱杭も数多く設置されているが、実際に先端部が尖った状態で出土した木材はないとのことだ。このような説得力のある「異論」があるのに、なぜ考慮されないのであろうか。
 また先ほどの学芸員の説明では、どうしてこの場所に集落を作ったのか不思議とされている。弥生時代当時のこの地は海岸線が迫っており、濃尾平野を縦に走る複数の大きな河川もあり、たいへん水のつきやすい場所であった。近くに台地もあるが、なぜわざわざ条件の悪いところに集落を構えたのであろうか。この地域は縄文時代からの先住民が多く存在していたようで、新参ものの渡来人は彼らに遠慮して荒れ地に村づくりを始めたのかも知れない。水田を始めるには、水の確保が容易な土地ではあるが、その一方でリスクも伴う地であったのだ。その為に実利的な面でも祭祀面からも、水への対策が切実だったのでしょう。ぽっかりと大きな口を開けた土器が、多数見られるのも、唐古・鍵、清水風遺跡の絵画土器と同様に、荒ぶる水神を祀るためであったと考えられよう。
多数の窓土器
 
⑵転換が必要な弥生環濠についての視点
 では、乱杭、逆茂木と考えられたものは具体的にどのような目的があったのであろうか。これは代表的な弥生時代の遺構のある登呂遺跡について、次のような解説がある。(岡村渉2014)この登呂のムラは地下水位が高いために、地面を深く掘り下げると水が湧きだしてくるので、周囲に土を盛り上げて竪穴住居と同様の構造にする低湿地対応の「平地式住居」を採用したという。住居の平面は小判形をしていて、盛り土が内側に崩れないように羽目板を縦に隙間なく並べ、盛り土の外側にも横木と杭列によって護岸するのだ。水対策の苦労がしのばれる遺跡であった。吉野ケ里遺跡の環濠にも、多数見つかった杭上のものを、いつまでも防御の乱杭などと言う説明からの見直しを望みたい。
 藤原哲氏は、環濠を取り巻く状況をみて、戦争の痕跡と環濠の存在が結び付かないのではという興味深い指摘をされている。武器や殺傷人骨が多い北部九州には集落に伴う環濠は少なく、逆に武器や殺傷人骨などの戦闘の痕跡がほとんど見られない南関東では環濠集落が発達するという事象は、従来から説明されてきた環濠集落=標準的な弥生集落=防御集落という図式は妥当でないことを示しているとする。そして、「弥生時代の戦闘形態は、奇襲や待ち伏せによる小規模で散発的な戦闘が主流であったと評価」したいという。
 集落が環濠による防御状態にあるという戦闘像と、倭国乱といった政治的な現象と直接的に結びつけるイメージは、これを改めなければならない」と結論されているのである。
 氏は日本書紀の記述から、興味深い指摘もされている。それは古代の列島の城郭の少ないことは、乙巳の変において中大兄が「卽入法興寺爲城而備」(即ち法興寺に入り、城として備ふ)などは、常設の防御施設が存在しないので寺院を利用している事情が、傍証になるという。「考古学からも防衛施設が少ない事実、日本書紀は史実をある程度反映」するのだという。検討すべき視点ではなかろうか。

 以上のように従来の弥生時代の定説への疑問、新たな解釈が次々と研究者が発信されていることからも、早急に見直しが進むことを期待したい。


参考文献
春成秀爾編「何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 」雄山閣2023
原田幹「朝日遺跡 東西弥生遺跡の結節点」新泉社2013
久世辰男 「環濠と土塁――その構造と機能――」月刊考古学ジャーナル№511
武末純一 「韓国の初期環溝(濠)の構造と機能」月刊考古学ジャーナル№511   
原田幹  「朝日遺跡 東西弥生文化の結節点」 新泉社2013
橋口達也 「弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成」 雄山閣2007
藤原哲  「日本列島における戦争と国家の起源」  同成社 2018
歴博フォーラム 「天下統一と城」 塙書房 2002
佐原真  「戦争の考古学 佐原真の仕事4」岩波書店 2005
佐原真  「弥生時代の戦争 古代を考える稲・金属・戦争」佐原真編 吉川弘文館2002
文化財保存全国協議会編 「文化財保存70年の歴史」 新泉社2017
藤原哲「日本列島における戦争と国家の起源 」同成社2018
岡村渉「弥生集落像の原点を見直す 登呂遺跡」(遺跡を学ぶ99)新泉社2014

唐古謎動物

『何が歴史を動かしたのか』(雄山閣)所収の、藤田三郎氏の「唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の絵画土器」についてふれさせていただく。

⑴防御面が強調される弥生環濠の役割への新解釈
 既に藤田氏は『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』(2019)において、大規模な多重環濠が、争乱だけの理由であったかは疑問とし、運河としての機能、さらにはもっとも重要なことは、ムラを洪水から守ることだとして、集落の周囲に水を迂回させることと排水機能の役割との考えを披露されている。さらには、井戸に龍の衣装の壺が供献されたことから、弥生人が水に対する畏敬の念をもち、時に洪水などの荒ぶる自然の猛威に対し「水神」信仰をもつようになったと考えられるという。
 なにかといえば、弥生時代の遺構は、魏志倭人伝の「大乱」の記事が誇張されて、争いに関わる施設といった面で解釈されることが往々にしてある。環濠に出っ張った箇所があって、そこに柱穴があれば物見櫓があったのだとしたり、環濠遺構の復元に、根拠のない土堤をその周囲のしかも外側に巡らすなどの風潮が今も続いている。そのような中で、洪水対応という視点で弥生環濠を解明されようとしたのは大変貴重な発信であった。今回、氏はさらにもう一歩踏み込んだ論考を出されたのである。

唐古鍵清水風
⑵大量の絵画土器が、環濠に投入された意味
 唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の絵画土器は、特に大和第4様式(弥生時代中期後半)に大量に出土しているという。この時期に、唐古・鍵遺跡の北半では、砂層で埋没する「北方砂層」が見られることから、洪水被害の直撃が考えられるという。しかし、その後も環濠を再度掘削をしており、集落として存続させていたようである。また500mほど北方にある清水風遺跡は、この頃に出現したもので、その河跡の洪水砂層に約百点もの絵画土器が投棄されたという。清水風遺跡は竪穴住居はなく、掘立柱建物2棟、井戸2基、河跡2条という状況から、特殊な施設であったと考えられている。それは、唐古・鍵遺跡の人々が、洪水の際に流れの迫る北方に、それを遮るが為の祭祀施設を設けた可能性があるという。
 土器絵画には、龍の表現や鳥装シャーマン、古代人が神獣と考えた鹿などが描かれている。古代人にとっては、川の近くの平地での居住は水田耕作に都合のいいわけだが、リスクもある。雨が多いと河川氾濫、洪水被害を受け、晴れてばかりだと雨乞いが必要になる。治水のための土木工事を行いながら、神への祈りも欠かさず続けたのだろう。岐阜県荒尾南遺跡の多数の櫂を描いた船絵土器も、その目的も、同様のことが考えられるかもしれない。氏の、祈りのための絵画土器の制作と投入が「眼前に展開している激しい流水を鎮めるためのものであった可能性が高い」とされたことには大いに賛同するものである。荒ぶる水神の仕業と考えられた洪水を鎮めるために、多量の絵画土器、祭具が使われたのであろう。清水風遺跡が、水害から守るための祭祀に特化した施設という藤田氏の指摘は、たいへんユニークであり納得できるものである。
 奈良盆地は、日照りが続けば水が不足し、降りすぎると洪水被害に悩まされる地域であった。人々は、雨乞いと増水すれば水神をおさめる祀りといった祈雨祈晴を繰り返していた。今も各地に祈雨祈晴の民俗事例が多数見受けられる。そこにシャーマンもいたであろう。その姿を、環濠に投入された絵画土器に見る事ができるのではないか。

⑶治水、祈雨祈晴の視点で見直してほしい古代史
 古代人にとって、洪水だけではなく、逆に雨が降らなければ、雨乞いも行い、適正に農地の水の配分ができるように、また物資の船での運搬のために溝の増設などを行い、その度に神に祈りを捧げたであろう。こういった視点での、各地の遺跡の解釈、復元の見直しを行ってほしいものがいくつもある。
 環濠を防衛面だけ強調して説明するきらいがある。これについては、吉野ケ里遺跡の復元の問題点(こちら)について述べさせていただいた。合わせて、大阪府高槻市安満遺跡弥生環濠の意味不明な土堤は根拠のないもの(こちら)であることも指摘した。さらに、愛知県朝日遺跡環濠では、防御面からでなく、出土遺物を洪水対策という視点で説明される研究者もおられるので、あらためて述べさせていただく。
 ほかにも、青銅器などの埋納も、出雲の神庭荒神谷の大量の埋納も含め、天変地異への対応という視点で、検討してほしいし、巨大古墳の造営も、荒れ地の開墾、治水工事との関係などで見る事も必要かと考える。

 参考文献
春成秀爾編『何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 』雄山閣2023
藤田三郎『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』新泉社2019

土器絵画の写真は、唐古・鍵考古学ミュージアムのパネル掲示のもの
図は田原本の遺跡4 弥生の絵画 田原本町教育委員会

イザナギ土器正面
 
 新潟県糸魚川市長者ヶ原考古館展示品の井の上遺跡からの出土で、男女の文様が描かれた土器です。糸魚川市と上越市のおよそ中間の海岸近くの舌状台地に広がる縄文中期から古代の大規模な遺跡でした。土砂崩れなどで多くは破壊されて住居址らしいものは見当たりませんが、縄文の土器、石器、ヒスイ原石や土師器、須恵器など出土しています。
 その中にこの縄文時代中期のものとされる人体文様の付いた土器がありました。この時代の土器と言えば特に中越地方や信州には不思議な文様をこってりと描いたものが盛んでした。ところがこの文様は、おとなしく簡素で、当時のレベルとしては稚拙なもののようにも見えます。それでもこの土器は大変めずらしく、貴重なものと考えられます。解説には「器面には縄文が施され、粘土紐を張り付けた隆帯によって手足を広げた大の字の男女一対が描かれている。縄文土器に描かれる文様は様々であるが、性器や乳房の描写から性別が判断できるほど明瞭な人を描いた文様は非常に稀である。向かって左側に女性、右側に男性が描かれている。」とあり市指定の有形文化財になっています。

⑴顔や人体文様を描いた土器                   
 土器の装飾として人面を描いたものは多く存在し、女神と称されるものや、中には鉢の胴部がまるごと顔表現のものもありますが、人体全体を表したものはそう多くはありません。単独で描かれているもの、もしくは、完形でないために単独で検出される土器は、多くありますが、男女ペアの表現としては埼玉県馬場小室山遺跡で土偶が張り付いているとされるめずらしいものもありますが、動きの表現はありません。他にも山梨県村上遺跡のように人体文様があり、両手を広げてなにやら踊っているかのような表現ではありますが、顔はなく性別も不詳です。他に顔だけ土器の口縁部につけたものは多くあります。
村上遺跡
鎌ケ谷市郷土資料館
 以上のように、全身表現で男女の性別が明確でペアでしかも動きのある文様を持った土器として確認されているものは貴重なものといえます。そのような文様表現を縄文人はどのような思いで描いたのでしょうか。

⑵縄文土器の物語性文様
 縄文時代の考古学の重鎮である小林達雄氏は複雑でマジカルな土器文様などを称して物語性文様と表現され、謎の多い縄文人の心性にせまる考え方を提示された。ただ残念ながら具体的な物語の中身を説明されることはなく、「世界観から紡ぎだされた物語」と言われる一方で、「少なくとも現在では、その異次元に踏み入る有効な方法論がないのだ」と解明の道を閉じられているかのような状況です。そこで、少しでもこの「物語」の片鱗にふれられないか、この男女人体文土器を自分なりに考えてみます。
イザナギ男土器
イザナミ土器
 
再 手のアップ
 この人体文は完形でなく、欠けたところが多いですが、男女を表していることは間違いありません。ただその配置が他の事例と違い対面になく、やや距離があいています。既に渡辺誠氏が「両者は土器の中心からみて45度に開いていて向かい合っていない」と指摘されておられます。しかも足はなにやら歩んでいるかの表現で、男女が近づきつつある状態に見え、そして腕は男女とも水平に広げているかのようです。さらに男の右手、女の左手の表現が観察できよく見ると親指と思える指が下側になっており、腕を横に広げ、手の甲を見る側にむけているようで、これは背後に壁面があり、そこに腕を這わすように広げながらお互いに近づこうとしている、男女の姿ではないでしょうか。逢瀬の場面かそれとも若い男女が結ばれる儀式での喜びの表現ととらえるのは考えすぎでしょうか。周囲では打楽器やら笛を鳴らし、若い二人を囃し立てたかも知れません。
 私はここにイザナギ・イザナミ神話の一場面が重なるように見えます。ちょうど男は右の方へ、女は左へ回りもうすぐ相対するところではないでしょうか。太柱を回りながら出会ったところで「あら、いいおとこ」「なんていいおんな」と会話を交わす、そのような情景を表現したと考えます。男が左から回るとか、女が先に云うのは不祥だとかいうのは後世の中国思想の流入からのことで、ここは縄文時代ですから女性が先で構わないのです。顔の表現は目と口を細い棒のたぐいで突いてこさえたものでとてもイケメンと言えるかは不明ですが、当時の婚儀を行う男女を描いたものとも考えられます。
 古代世界には、柱や火の周りを回る儀礼が多くみられます。特に日本海側は、大陸、半島からの移住民が、何度もやって来たと考えられます。この地にはかって火焔土器の制作が隆盛していたところですが、後には、新たな集団によってリアルな人体の表現で儀礼の様子を描く土器がつくられたのかもしれません。

⑶神を呼び招くための祭儀としての神聖な土器
 縄文時代やその文化について、以前にあった石器時代の野蛮で暗いイメージは大きく変わってきましたが、その一方で一万年も続いた再生可能で平等な社会などと過剰に持ち上げた論調もあります。しかしいくらなんでも、縄文社会は人類の理想社会とは言えず、動物の襲撃や病気、気候変動により食料にも苦労することがあったと思われます。
 縄文時代の出土物には、男女のシンボルを表現した石器、土器などが多くありますが、たいていの場合は、「なんらかの祭祀に使ったもの」とか「作物の豊穣を願ったもの」などとお決まりの説明がされています。男女の行為があって赤ん坊が誕生するように作物も生まれるのだ、というのでは少し単純だと思えます。民族学の須藤建一氏も「男女交合が農耕の豊穣を招く象徴という考えは、日本では十分に証明されているとはいえない。むしろ、この考えは、性象徴の一つの役割を説明しているにすぎない」との指摘は妥当と思います。では何のためにみんなで性象徴を含めた祭祀を行い祈るのでしょうか。それは生き抜くための願いをかなえていただく神様をこの世に招きおもてなしをしてお祈りして帰っていただく、そのために様々な道具・祭器を駆使するのではと考えられます。
 イザナギ・イザナミ神話は国生みが重要な位置を占めていますが、数々のクニを生んだ後に様々な神様を生んでいきます。古代人は神様にこの世に生まれ出てもらうには人間が赤ん坊を生むように、男女交合によって神様も生まれるのだと考えたのです。生れ出てもらってそこで初めて、収穫や健康、子孫繁栄などを願うことができたのです。陰陽物が鎮座する神社は多くありますが、これも神様に登場していただくための祭具と考えられます。縄文人は現代人には理解しがたい様々な陰陽物と思しき道具を製作していましたが、それは弥生時代以降にもつながっていったのではないでしょうか。
 男女の土器文様も縄文時代当時の婚礼儀式の場面といったものを表現したと思われますが、それは男女交合を意味する象徴であり、縄文人はそれを祭りの中心において神のお出ましを祈ったのかもしれません。
長者相撲土器
 
 この長者ヶ原考古館は、他にも興味深いものが多くあります。まるでドリフのコントにあった力士のような土偶もあり、中に小石が入れられているようです。近くにフォッサマグナミュージアムもあります。

参考文献
小林達雄 「世界遺産縄文遺跡」「土偶とその情報 総論」   
渡辺誠 「人面・土偶装飾付土器の体系」『季刊考古学73』
須藤建一 「社会人類学と性研究」人文書院『性の民俗誌』
小林青樹 「倭人の祭祀考古学」 新泉社   
ピエール・プルデュ 「実践感覚」みすず書房   

井の上遺跡人体文土器、土偶は 長者ヶ原考古博物館 筆者撮影と加工
千葉県鎌ケ谷市郷土資料館の顔表現の土器は 筆者撮影
村上遺跡の人体文様は、「村上遺跡―東八代横断広域農道建設に伴う発掘調査報告書 昭和55年 山梨県教育委員会」より

※本稿は「古代に真実を求めて 第22集」所収のものを、改定したものです。


        諏訪大社
 古代から水神や在地の守護神とするような蛇信仰があった。人の命を奪う毒牙を持つものもあり、姿を見かけると多くの人が忌避するであろう蛇を、人はどうして神にしたのか。しかも崇められるはずが神話では最後に一刀両断に切られるのは何故なのか。人が蛇をどのように捉えていたのかを考えてみたい。

(1)蛇は世界中で神となっていた。
 博学無比の南方熊楠は「蛇の伝説は無尽蔵」とした。日本でもはるか昔から蛇は特別な存在だ。縄文時代の土器には生々しく蛇が造形されたものがある。しかしたいていの研究者は直接言及されない。       
松川町土器
「ありきたりの修辞にいら立っていた」谷川健一氏は述べる。「蛇身装飾土器によってそうしたあいまいな比喩を突破して前進した・・・蛇に憑かれた人間たちが縄文中期に存在し、集団表象を生むにいたった」と。縄文の時代から蛇信仰はあったのだ。それだけではない、さらに人類の歴史をさかのぼる今から2万数千年も前の後期旧石器時代、バイカルシベリア、マルタ遺跡の出土物に細かな線刻が波打つような文様があり、明らかに蛇が描かれている。
 蛇信仰は世界各地に広がっていた。エジプトではコブラが太陽、火のシンボルとされ、王の冠や額の装飾となった。インドでは七つの頭のナーガ信仰があってタイなどにも広がった。中国の祖先神は伏犧、女媧(ふくぎ・じょか)の人面蛇神の夫婦神だ。台湾では噛まれると百歩も行かぬうちに死ぬという猛毒の百歩蛇(ひゃっぽだ)が、首長の祖先として崇められその図柄の衣装を纏った。古代メキシコでは羽毛を持つ蛇のケツァルコアトルが蛇神として崇拝されていた。チチェン・イッツアのピラミッドは春分と秋分の日に太陽の光と影で階段底部の大蛇の頭から見事に胴体が浮かび上がる。今はYouTubeで容易に見られるが、1977年当時のテレビ中継を画面にくぎ付けになって見ていたものだ。その神秘的な光景に謎は膨らむばかりだった。どうして蛇なのか?

⑵吉野裕子氏の蛇信仰論
 なぜ蛇が信仰の対象として、神として崇められたのかを、氏はいくつも蛇という生き物のもつ特性から解明されている。すべてはふれられないので、いくつか重要な点を述べる。
 四肢がないのに動きまわれて男根の形をしていること。古代人の信仰にとっては陰と陽の観念は欠かせないものであり、蛇を陽物として崇めたであろう。
 敵を一撃にする毒をもつこと。神は人のためになる優しい存在ではない。神は恐ろしい力を持つものであると考えられ、蛇の攻撃力は神として畏れられたであろう。
 脱皮を繰り返すこと。古代人は間近にその行為の様子見て、蛇のように脱皮ができない人間は、それを神事の禊ぎとしてもどく(まねる)ようになったのだと。今でこそ清い水で身体を洗い流すこととされるが、元は蛇の脱皮からきたのだ。氏の卓見だ。蛇の抜け殻まで信仰の対象や薬とするなど、脱皮という行為への関心は高い。茅輪くぐりも脱皮にあやかろうとした行事だと氏は指摘する。ニーチェは言った、「脱皮できない蛇は滅びる。その意見を取りかえていくことを妨げられた精神も同様だ」(『曙光』)
 こうして蛇は祖霊、祖先神と見なされることになった。エデンの園でアダムとイヴをそそのかす蛇は悪魔と見なされ、一神教にとっては排撃の対象となるが、それでも世界各地に蛇信仰は広く深く根付いている。氏によればやがては直接的な表現から、蛇に似た造形の対象を崇めるといった見立ての信仰が深く広がったという。
 二十時間を超えるという記事もある濃厚な交尾の様子。驚異的で霊的な生命力を表すその姿がしめ縄を表すというのも的確な指摘であり、出雲大社や宮地嶽神社の巨大なしめ縄も蛇の交尾から考えられた造形だ。    
 蛇が神の資格を持つに十分な理由となろう。しかし、古代神話研究の堂野前彰子氏は、吉野氏の解説ではなぜスサノオが大蛇を退治するのかなどの説明がない、とされる。もっともな指摘である。はるか古代より蛇が特別な存在と認識されていたのは、私はまだ他に重要な事情があると考える。

⑶蛇は水の神様だけでなく、再生、そして命を生み守る存在だった。
 世界保健機構の旗には、ギリシャ神話の医学神アスクレピオスに由来する杖に巻き付く蛇が意匠となっている。アスクレピオスは常に蛇の巻いた杖を持って怪我や病気で苦しむ人たち助ける。彼が蛇の持つ生命力、治癒力を使える存在なのだろう。蛇は永遠の命を持つとも考えられていた。それは脱皮をする蛇が、禊ぎとされた精神の更新のみならず、命の再生とつながるからであろう。
 蛇が人の生命と関係づけられていることから、実際の赤子の誕生も蛇とつながると考えられる。吉野裕子氏は、生れたばかりの赤ん坊も最初は蛇のように扱われる。袖のない着ぐるみで身体を巻かれておかれるのは、蛇としての扱いを意味するという。その赤ん坊の誕生の時に、人が蛇とイメージするものがあったのではと考えたい。古代人が蛇を神と考えた最大の理由、それは母と赤ん坊をつなぐ、臍帯、へその緒によるものではないだろうか。古代人は臍帯につながれた生命誕生のシーンを目の当たりにして、驚異的であり神秘的な光景に戦慄し、お腹とつながったへその緒に神の姿を思い描いたかもしれない。人類は進化の過程で蛇の存在を早くに察知して警戒する遺伝子をもったという。人類の祖先が、生れたばかりの赤ん坊と母をつなぐへその緒を蛇だと直感したとしてもおかしくはない。

⑷蛇と見立てられた臍の緒
 出産後の胎盤と臍帯は現代では医療機関を通じて処理されるが、古代においては、住居の軒下や周辺に埋納された。縄文時代からその風習は続く。どうして大切に扱われたのか。フレイザーの「金枝篇」によると世界中で行われていたとされ、子供の守護霊などのように見なされていたという。生れるとお役御免で処分されたのではないのだ。守護霊などと考えられたのは、臍帯すなわち臍の緒がまさに蛇だと考えられたからではないか。ギリヤーク族のように森の一本の木に吊るすなどは、木の枝を這う蛇のようにしたのだろうか。
 日本書紀の崇神紀の箸墓伝承には,他の説話と同様に諸外国に類似の話がある。大地のガイアとの間にできたエリクトニオスを受け取った女神アテネは、自分の児を三人の娘に預けた。その際アテネは箱の中を絶対に見てはいけないというが、二人の娘は言いつけを破って箱の中を見てしまう。箱の中には半人半蛇のエリクトニオスとそれを守るように赤児に巻き付いた蛇がいた。これを見た二人の娘は半狂乱になって自殺する。これは巻き付いた蛇が臍の緒を意味しているのではないか。日本の場合は、夜にしか訪れないオオモノヌシの姿を見たいというモモソ姫の願いがかない櫛用の小箱の中を見ると、そこには小蛇がいた。お腹からとれた臍の緒を小箱に保管する慣習が現在にもあるが、古代にもなんらかの入れ物に保管されることがあってこの説話につながったのかもしれない。注1 以上のように臍の緒を蛇と考えたことが、蛇神の成り立ちの決定的な理由と考えたい。

⑸藁蛇と綱引き神事 
 ヤマタノオロチ神話のような、最後に蛇が切られる説話は各地にある。11世紀にパガーンに王朝を創始したビルマのアノウラータ王は、チャウセ地方の灌漑工事を始めたある夜に三匹の蛇の夢を見た。王は南方の蛇を四つに切ったが、南の河に四つの堤防と運河を建設したことを意味した。さらに真ん中の蛇を三つに切ったが、中部の河の三つの工事の完成を意味した。北方の蛇は切ることができず、北方の河の工事は失敗に終わったという。蛇と治水工事が関係する話だが、重要なのは蛇を切ることが工事の完成を意味するのであり切らなければ仕事は成就しないということだ。
 同様の説話が大蛇山祭りを行う九州の三池にもある。人々を苦しめていた大蛇のために玉姫が生贄になる。そこに以前に姫が大切に育てたツガニ(モズクガニ)が大蛇をハサミで三つに切って姫を救う。山頂にある三つの小さな池は三つに切られた大蛇の身体のあとにできたものだという。
小山蛇
 スサノオはヤマタノオロチを切ったことにより、もう生贄の必要はなくなった。神楽の蛇切りは出し物のクライマックスとなるもの、欠かせない演目だ。各地に藁蛇の祭りがあり、最後に樹木に掛けたり巻き付けられるがなかには頭を切り落とす行為もある。私はこれを、ビルマ王の説話にあるように切ることで事が成就する意味を持つと考えたい。蛇である臍の緒から生命が生まれるが、つながった緒を切ってやっと出産という大事業は完了する。だからオロチ神話は最後に切られる話として作られたのではないか。
 各地に残る綱引き神事の始まりも私は出産と関係があるとしたい。その勝敗によって豊作や今年の降雨を占い最後に綱は切られるのだが、母体と胎児がつながった臍帯を蛇と見立てた綱のように考え、綱引きの踏ん張りを出産時の「いきみ」の再現のようにもどく行為としたのではないか。最初から勝つ方が決まっている場合もある。大人と子供の対決では、最後はわざと子供が勝つようにしている。それは子供が勝つことで誕生になるからである。母体と胎児が綱引きをして最後に生まれ出て臍の緒は切られる。
 雨乞いや洪水抑制の祈りの最後に、さらには治水工事の完了の際に、臍の緒を切るように蛇神と見立てられた藁蛇や綱を切ったり弓で射るなどして神事祭祀が無事に終わるのだ。
 以上のように古代人は、出産時の臍の緒を見て、それを蛇が生命を生み出したと考えた。これが蛇信仰の始まりであったと考えたい。

 蛇足だが、現代の開通式や竣工式のお披露目として行う儀式にテープカットがある。アーサー王の時代からあったといわれる。これも関係があるかも知れない。作られた建造物はテープを切られることで初めて稼働できる。テープは蛇に見立てた臍の緒なのだ。出産後の緒を切り離す際には医療用の刃物が使われるようだが、テープを切るハサミも専用のハサミが使われるのだ。

注1 福岡県筥崎宮(はこざきぐう)の境内にあるご神木「筥松」の由来 神功皇后は生んだ応神の胞衣、臍の緒を筥(箱)に入れて岬に埋めたところに標(しるし)として松を植え「筥松」と名付けられて以後、筥松のある岬(崎)ということで「筥崎」の名が起こったと伝わっている。

参考文献
南方熊楠 「十二支考」 全集1
谷川健一 「蛇 不死と再生の民俗」冨山房インターナショナル 2012
吉野裕子 「山の神」「蛇」「日本人の死生観」講談社学術文庫など
堂野前彰子「日本神話の男と女 性という視点」三弥井書店 2014
服部英二 「転生する文明」藤原書店 2019
木下 忠 「埋甕、古代の出産習俗」考古学選書18 雄山閣 2005
緬甸史G.E.ハーヴェイ 著, 東亜研究所 訳. 東亜研究所, 昭和19
原尻英樹 「三池・大牟田の大蛇山祭り」『東シナ海域における朝鮮半島と日本列島』かんよう出版2015
小島瓔禮 「蛇の宇宙誌」東京美術1991
大林太良 「神話学入門」筑摩書房 2019
米山弓恵 「神話と祭礼の文化地理学的研究」ネット掲載
櫻井龍彦 「江戸期までの綱引き風俗図誌の集成と考察」ネット掲載

※古田史学論集 第二十三集に所収のものを改訂したものです。

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