『何が歴史を動かしたのか 第二巻』所収の、深澤芳樹氏らの「荒尾南遺跡の船絵に付属する半円形弧線について」にふれてみたい。
1.弥生時代の櫂に支点を設けた漕法の表現
何やらムカデのようにも見える弥生土器の線刻絵画だが、その櫂の船べりに半円形が描かれている。言われてみないと気が付かないようなものだが、これは、歴史民俗学の昆政明氏によれば、船べりの穴に麻縄などを通して輪(カイビキ)にして、そこに櫂を通して支点として漕ぐためのものだという。櫂を使った漕法などに無知であったので、これにはとても感心した。土器の船絵の細部を見てこれに気づかれた研究者はさすがである。 実は、エジプトの壁画などにも輪の表現が見られるものがあるという。吉村作治氏が、クフ王の船の復元にあたって参考にされた図の中にある。同じように船縁の半円の中を櫂が通っている表現がある。
船の推進具には、風を利用する帆、水を漕ぐ櫓・櫂、さらに水底を押す竿がある。櫓は舟の後尾に支点を設けて水中で左右に動かして進むものだが、中国から日本へは平安時代の末ごろに伝わったようだ。そして櫂は、両手で持って直接漕ぐパドル・手櫂(テガイ)と、上記の船体に支点を設けて漕ぐオール・打櫂(ウチガイ)がある。縄文時代の丸木舟は、手櫂であったであろうが、弥生時代には、打櫂の漕法が広まったのであろう。それは絵画だけでなく、弥生時代の遺跡から出土する船形木製品にも確認できるという。
現在のところは、石川県小松市八日市地方(ジカタ)遺跡が3例、鳥取県青谷上寺地遺跡で2例、愛知県朝日遺跡で1例があるようで、船縁に小さな円孔が等間隔で並んでいる。船体の左右に並列しているものと、交互にずれているものもあり、後者の場合は、狭い船体だから人が右漕ぎと左漕ぎに分かれて交互に座って漕いでいたと考えられる。弥生人は船形土製品に小孔をあけてリアルに表現したのであろう。
次の古墳時代の船形製品は、有名な西都原古墳群出土の埴輪の船があり、これが古墳時代の船の復元のモデルとして広く活用され、加耶の船形土製品の復元にも一役買ったようだ。また、大阪市長原遺跡高廻り2号古墳から出土した二股構造形式の準構造船も登場するが、いずれも船縁の支点となるものに穴はなく、台形状のものが櫂座として並んでいるだけだ。これに支えるようにして櫂を動かしたのであろうか。だが、以前に話題にもなった古代船の復元による実験航海が何度か行われたが、「野性号」と「海王」は西都原を、「なみはや」は高廻りのものをモデルにしたということだが、いずれもカイビキでないので穴もあけられておらず、支点となる櫂座の箇所は、「野性号」と「海王」は形が異なっている。つまり、モデルとしたはずの土製品の櫂の支点の部分は、模倣されずに機能的な加工がされているようだ。これは、出土した船形の櫂座の形状では、櫂の支点にするのは難しいと考えたからではないか。
三重県松坂市文化財センターには、宝塚古墳出土の見事な船の埴輪が展示されている。この船縁に長方形の板状の櫂座がつけられ、その中央に円孔が施されている。ここに綱を通してカイビキにしたのか、それとも櫂を直接通して支点にしたのかはわからない。丸い穴に櫂を挿した場合、楕円形にするとか、大きめの穴にしないと、思うように櫂を操作できないように思えるのだが。また、古代にも早くから帆の使用の可能性もいわれるが、こういった問題も含め、今後の解明に期待したい。
3.荒尾南遺跡の土器の船絵は祭祀の為の表現か
弥生時代の船の漕法にカイビキが使われたと考えられるが、荒尾南遺跡の土器は、82本ものオールが描かれているということで、実際にそのようなものがあったとは考えにくい。エジプトの場合も片側に11本で合計22本であることからも、荒尾南の場合は、多すぎるわけで何らかのイメージがあってそれを誇張して描いたものと考えたい。沖縄にはハーリーという祭で、漕ぎ手が32人も載った船による競争が行われているが、中国など東アジアでも、龍舟競漕といった競技が祭りとして行われ、中には多人数が立って櫂を漕ぐものもある。 このような祭りが、はるか古代から引き継がれているものとしたら、荒尾南の絵画も、誇張はあっても祭祀を描いたものであって、おそらく水に関わる祈りのための祭器として使われたのではないかと考えたい。
参考文献
深澤芳樹氏他「荒尾南遺跡の船絵に付属する半円形弧線について」『何が歴史を動かしたのか第二巻』雄山閣2023
昆政明「和船の操船と身体技法」日本人類学会 ネット掲載
吉村作治「古代エジプト・クフ王「第1の船」の復原に関する研究」東京 アケト2009
平田絋士「二檣――継体天皇の2本マストを復元する」海上交通システム研究会63.pdf