流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2023年12月

弥生土器の船絵に描かれた櫂の支点となる輪(カイビキ)  岐阜県大垣市荒尾南遺跡絵画土器の半円形弧線

荒尾南土器船

『何が歴史を動かしたのか 第二巻』所収の、深澤芳樹氏らの「荒尾南遺跡の船絵に付属する半円形弧線について」にふれてみたい。

1.弥生時代の櫂に支点を設けた漕法の表現
荒尾南土器船 アップ
 何やらムカデのようにも見える弥生土器の線刻絵画だが、その櫂の船べりに半円形が描かれている。言われてみないと気が付かないようなものだが、これは、歴史民俗学の昆政明氏によれば、船べりの穴に麻縄などを通して輪(カイビキ)にして、そこに櫂を通して支点として漕ぐためのものだという。櫂を使った漕法などに無知であったので、これにはとても感心した。土器の船絵の細部を見てこれに気づかれた研究者はさすがである。
サッカイ
 実は、エジプトの壁画などにも輪の表現が見られるものがあるという。吉村作治氏が、クフ王の船の復元にあたって参考にされた図の中にある。同じように船縁の半円の中を櫂が通っている表現がある。
エジプト船拡大
エジプト櫂輪
 船の推進具には、風を利用する帆、水を漕ぐ櫓・櫂、さらに水底を押す竿がある。櫓は舟の後尾に支点を設けて水中で左右に動かして進むものだが、中国から日本へは平安時代の末ごろに伝わったようだ。そして櫂は、両手で持って直接漕ぐパドル・手櫂(テガイ)と、上記の船体に支点を設けて漕ぐオール・打櫂(ウチガイ)がある。縄文時代の丸木舟は、手櫂であったであろうが、弥生時代には、打櫂の漕法が広まったのであろう。それは絵画だけでなく、弥生時代の遺跡から出土する船形木製品にも確認できるという。
地方 船
青谷上寺地船
 現在のところは、石川県小松市八日市地方(ジカタ)遺跡が3例、鳥取県青谷上寺地遺跡で2例、愛知県朝日遺跡で1例があるようで、船縁に小さな円孔が等間隔で並んでいる。船体の左右に並列しているものと、交互にずれているものもあり、後者の場合は、狭い船体だから人が右漕ぎと左漕ぎに分かれて交互に座って漕いでいたと考えられる。弥生人は船形土製品に小孔をあけてリアルに表現したのであろう。
 
2.気になる復元展示された船や実験航海がされた古代船の櫂の支点(櫂座)
西都原船
 次の古墳時代の船形製品は、有名な西都原古墳群出土の埴輪の船があり、これが古墳時代の船の復元のモデルとして広く活用され、加耶の船形土製品の復元にも一役買ったようだ。また、大阪市長原遺跡高廻り2号古墳から出土した二股構造形式の準構造船も登場するが、いずれも船縁の支点となるものに穴はなく、台形状のものが櫂座として並んでいるだけだ。これに支えるようにして櫂を動かしたのであろうか。だが、以前に話題にもなった古代船の復元による実験航海が何度か行われたが、「野性号」と「海王」は西都原を、「なみはや」は高廻りのものをモデルにしたということだが、いずれもカイビキでないので穴もあけられておらず、支点となる櫂座の箇所は、「野性号」と「海王」は形が異なっている。つまり、モデルとしたはずの土製品の櫂の支点の部分は、模倣されずに機能的な加工がされているようだ。これは、出土した船形の櫂座の形状では、櫂の支点にするのは難しいと考えたからではないか。
櫂の支点
   
宝塚船名入り1
 三重県松坂市文化財センターには、宝塚古墳出土の見事な船の埴輪が展示されている。この船縁に長方形の板状の櫂座がつけられ、その中央に円孔が施されている。ここに綱を通してカイビキにしたのか、それとも櫂を直接通して支点にしたのかはわからない。丸い穴に櫂を挿した場合、楕円形にするとか、大きめの穴にしないと、思うように櫂を操作できないように思えるのだが。また、古代にも早くから帆の使用の可能性もいわれるが、こういった問題も含め、今後の解明に期待したい。

3.荒尾南遺跡の土器の船絵は祭祀の為の表現か
 弥生時代の船の漕法にカイビキが使われたと考えられるが、荒尾南遺跡の土器は、82本ものオールが描かれているということで、実際にそのようなものがあったとは考えにくい。エジプトの場合も片側に11本で合計22本であることからも、荒尾南の場合は、多すぎるわけで何らかのイメージがあってそれを誇張して描いたものと考えたい。沖縄にはハーリーという祭で、漕ぎ手が32人も載った船による競争が行われているが、中国など東アジアでも、龍舟競漕といった競技が祭りとして行われ、中には多人数が立って櫂を漕ぐものもある。
カンボジア船祭
 このような祭りが、はるか古代から引き継がれているものとしたら、荒尾南の絵画も、誇張はあっても祭祀を描いたものであって、おそらく水に関わる祈りのための祭器として使われたのではないかと考えたい。

参考文献
深澤芳樹氏他「荒尾南遺跡の船絵に付属する半円形弧線について」『何が歴史を動かしたのか第二巻』雄山閣2023
昆政明「和船の操船と身体技法」日本人類学会 ネット掲載
吉村作治「古代エジプト・クフ王「第1の船」の復原に関する研究」東京 アケト2009
平田絋士「二檣――継体天皇の2本マストを復元する」海上交通システム研究会63.pdf

実は戦後に定着した日本人の単一民族史観

板付水田
1.戸惑う研究者の背景にあるもの
  NHK放送の「フロンティア 日本人は何者なのか」では、古墳時代の人のDNAの解析結果に驚き、戸惑いながら語る研究者が描かれている。これまでは、縄文人と弥生人の二重構造で説明されてきた日本人のルーツだが、実は古墳時代に第三のDNAが6割を占めるという結果が明らかになり、これが現代の日本人とほぼ共通していたのである。それは古墳時代に第三のDNAを持つ渡来人が、尋常でない規模でこの列島に移住してきたことを示す。研究者のみならず、番組スタッフにも信じがたい結果であったから、「これまでの常識がくつがえる」といった謳い文句が冠されたのであろう。古代に列島に繰り返し渡来者が集団で来ていることを理解し、研究されている人たちには当然の結果なのだが、人類学や古代史研究者をも含んだ多くの現代の日本人には、理解しがたいものとなっている。では、なぜこのようなことになってしまったのか。
 この背景にあるのは、単一民族史観であって戦後に培われ広がったものだといわれている。ところがここで疑問が起こる。そもそも単一民族史観などというのは、戦前の日本の話で日本民族は優秀で他民族蔑視という考え方ではなかったのか。だが実際はそうではないようだ。小熊英二氏の『単一民族神話の起源』がそういった事情を説明してくれている。

2.実は戦後に形成されていた単一民族史観
 はじめに1970年代後半から論じられてきた内容の一節。
「明治いらいの日本人は、自分たちが純粋な血統をもつ単一民族であるという、単一民族神話に支配されてきた。それが、戦争と植民地支配、アジア諸民族への差別、そして現在のマイノリティ差別や外国人労働者排斥の根源である」
 つまり戦前の単一民族という考え方が、多くの社会的弊害を生んだのだと説明している。ところがどうもそう単純ではないようであることが、以下の記事でわかる。
 「大日本国帝国は単一民族の国家ではなく、民族主義の国でもない。否、日本はその建国以来単純な民族主義の国ではない。われわれの遠い祖先が或はツングウスであり、蒙古人であり、インドネシア人であり、ネグリイトであることも学者の等しく承認してゐるところであるし・・・・帰化人のいかに多かったかを知ることができるし、日本は諸民族をその内部にとりいれ、相互に混血し、融合し、かくして学者の所謂現代日本民族が生成されたのである」(室伏高信『大東亜の再編成』日本評論1942・2月号)
 「日本民族はもと単一民族として成立したものではない。上代においていはゆる先住民族や大陸方面からの帰化人がこれに混融同化し、皇化の下に同一民族たる強い信念を培われて形成せられたものである」(文部省社会教育局『国民同和への道』)
 これを読んで少し驚いてしまった。いずれも、1942年という戦争が始まったばかりの時代に発表されたものなのだが。戦後の学者たちの主張とは大きく食い違っているのではないか。この単一民族という考え方は戦後に急速に広まったようである。
 戦前には厳しい弾圧にさらされた津田左右吉氏だが、「日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族を持たぬ」「遠い昔から一つの民族として生活してきたので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない」と語っている。
 また、歴史学者の井上清は「高天原は日本人の故郷の地を神話にしたものだとか、天孫降臨は民族移動の話だとかいうのは、すべてこじつけであるというのが、津田博士の研究以来良心ある学者の一致して賛成しているところ」だという。これによれば、戦前においては天孫降臨は他民族の進攻であると捉えていたということであろうか。ということは、戦後の単一民族説が、天孫降臨などが民族移動だという戦前の理解を否定するという構図になるようだ。
 誤解されては困るが、何も戦前の歴史観の根底にある皇国史観を是としているわけではないことを、おことわりしておく。

3.騎馬民族移住説も受け付けない単一民族史観
 戦後の歴史学に多大な影響を与えた古代史学者の石母田正氏も、古代日本の稲作の成立にかんして、外部の影響より列島側の内発的な主体性を重視し、縄文時代から日本語は固有言語だったとしていたという。こういった考え方が、現代の研究者に引き継がれていったのであろうか。
 しかもこのような背景が、騎馬民族移住説も受け付けなくしてしまったのは明らかだろう。従来の混合民族論の延長であるのだが、天皇家の渡来を前面に押し出した点が目新しいといわれた騎馬民族移住説も、日本の歴史研究者の中で根強いマルクス主義系歴史学とは対抗関係になってしまっていた。最近では全面否定ではなく、渡来人から騎馬文化を主体的に受容したという説明に変化しているが、その本質は同じであろう。この点について、作家の霜多正次氏は「マルクス主義歴史学者たちが、たとえば弥生文化が稲作にともなう文化複合として伝来したことや、古代国家を形成した渡来人の問題などに、従来ほとんど目を向けようとしなかったことは、歴史の内的発展段階論を教条的に理解したことが大きな理由」と語る。  
 また、ドイツ文学者の鈴木武樹氏は、騎馬民族説を支持したところ、日本共産党系の歴史学者に「日本社会の固有の発展の法則と矛盾の克服のしかたが問題なので、天皇家の出自は歴史とかかわりない」と言われたそうだ。すべてを彼らが盲信している公式に、機械的に当てはめて説明しなければ許されないのだろうか。
 政治学者の神島二郎氏は、「戦前の日本では、大和民族は雑種民族であって、混合民族だとだれでも言っていたんです。あの日本主義を唱導していた真最中にもそういうふうに考えていたんです。ところが、戦後になって奇妙きてれつにも、進歩的な文化人をはじめとして、日本は単一民族だと言いはじめたんです。まったくもって根拠がない」と語る。これが問題の背景、事情を説明するものではないだろうか。
 
4.戦後の歴史観に抗する研究者
 最近(2023.9)出された『何が歴史を動かしたのか』(春成秀爾編)所収の寺前直人氏の「縄文時代像と弥生時代像の相性と相克」には、先の小熊英二氏の論旨が援用されている。列島内の東西における稲作開始の時期の時間差が予想を超えて大きく、北部九州では紀元前9~8世紀(夜臼Ⅰ式土器)だが、東北地方では紀元前5~4世紀(砂沢式段階)と400年もの差になることが明らかになったとし、これは従来の歴史観では捉えにくい問題なのだという指摘である。
 以前より磨製石包丁など朝鮮半島の考古文化と日本列島西部の状況には、多数の共通項があって議論されてきた。「考古学研究では、抽出する属性の組み合わせが国境を越えて何通りにも区分できるのに、それを妨げたのが戦後の世界観であったという。その結果、異文化が数百年併存するという多系的、多民族的な歴史像ではなく、縄文時代から弥生時代へと日本国の歴史は単系的に「進歩」したのだという歴史像」で解釈されてきた。それは、従来、日本国という空間を一括してひとつの時代として輪切りにしてきたのだが、それは「帰納的な考古資料の分析結果によるものではなく」戦後に登場した世界観の変化によるものだったという指摘である。
 つまりこれは、DNA分析結果だけではなく、以前からの数多くの考古資料の現実が、従来の形式的な歴史観では説明できないことを示しているとの重要な指摘であって、この点での問題意識、歴史観の見直しをはかる研究者が少なくない状況になっていることを意味するのではないか。
 なお、とりあげさせていただいた『何が歴史を動かしたのか』については、その内容に興味深いことがいくつもあったので、また何度か紹介したい。

参考文献
春成秀爾編『何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 』雄山閣2023
小熊英二『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』新曜社1995

船原古墳の豪華な馬具を持つ人物像の無理のある解釈

船原歩揺
 福岡県古賀市の船原古墳(古墳時代後期)で出土した金銅製馬具の一つは、揺れるときらきらと輝く歩揺(ほよう)付き金具を複数組み合わせた飾りであったという。市教育委員会と九州歴史資料館は「極めて華麗なデザインで、出土例がない」と発表している。
船原杏葉など
 他にも杏葉(ぎょうよう)は装飾にタマムシの羽が20枚使われるという日本初の国宝級の発見であり、のちの法隆寺の玉虫厨子につながるものである。ガラスの使われた辻金具も唯一のものであり、馬胄(ばちゅう)は和歌山県大谷古墳や埼玉県将軍山古墳に次ぐ三例目。出土した馬具の質及び量、出土した状況からわが国でも稀に見る学術的価値の高いものといわれている。朝鮮半島系の金銅製の馬具が豊富で,武具・武器とともに総数500点以上の遺物が一部は箱に収納して埋納されていたと考えられる。
 このような豪華な副葬品のあった古墳の被葬者は、どのような人物であったのだろうか。

 『船原古墳 豪華な馬具と朝鮮半島との交流』(同成社)では以下の説明がされているのだが、それがとてもふるっている。
 その被葬者像について、「在地首長層でなく急に力を伸展させた人物で、既存の首長層に属さない前方後円墳をつくり、海上交易に長け、半島との交流にも通じていたとし、半島とヤマト王権の両方とも良好な関係を有していた、豪華な副葬品にかこまれるほどの傑出した人物像」とあるのだが。
 御本人の苦労がしのばれるような解説文だ。だいたいこのような理想的な人物が実際にいたというのだろうか。この周辺の遺跡からも半島との直接的な関係を有する出土品が多数あるのに、なぜ渡来者が被葬者だとは考えないのだろう。あくまで先進的な文化をもった被葬者は、ヤマト王権と主体的に関係がある人物にしたいのだ。これは、ヤマト王権とは無関係な豪華な出土品など認められないという、一元論的歴史観からくるのであろうか。
 この古墳は六世紀末ごろのものとされるが、六世紀後半には、半島では加耶が滅んでおり、九州に逃げのびた王族もいたのではないか。この集団が豪華で大量の宝飾品、馬具をたずさえてやって来たのではないのか。こういった視野での検討も必要と思うのだが。
  しかし、今や状況が違う。日進月歩の古代DNAの研究が、古代史の通説を根底から揺るがしている。これまで言われてきた日本人のDNAの二重構造論から、実は古墳時代に新たなDNAが6割も占めるという分析結果を真正面から受け止めなければならない。従来の古墳時代に、大陸、半島からの新たな大量の移住者が王族を先頭に渡来したというケースも考慮しなければならない。古代史の真実、日本人は何者なのかという問いに、新たな答えを出していかなくてはならないだろう。

図はこちらの【遺跡解説】国史跡♡船原古墳~時を越えた宝箱 古賀市立歴史資料館のもの。副葬品の解説だけでなく、発掘作業の苦労話など、興味深い内容です。

参考文献
甲斐孝司他「船原古墳 豪華な馬具と朝鮮半島との交流」新泉社2019

高山市久々野のアートな顔をした縄文土器

手あぶり正面
 
DSC_0850 手あぶり土器
    12.8.29久々野歴史民俗資料館
 岐阜県高山市久々野町にあり、縄文時代の堂之上遺跡の竪穴住居などを復元した公園と隣接しています。
 写真の土器のデザインは展示品の中でも特に気を引くものです。顔が表現されたように見えますが、縄文土器ではよく使われる文様の配置が、たまたま顔に見えただけとも思えます。土偶によくあるぽっかり空いた口や眉毛も見当たりませんが。でもその土器の横からを見ると子蛇を描いたような曲線が付けられており、これは明らかに耳の表現で、やはりこの土器の表面いっぱいに顔を表したものと考えられます。他にも、土器に顔が描かれたものがありますが、その多くは、土偶によくあるようなやや野暮ったいものですが、これはなにやらアートな顔表現、スタイリッシュな風貌に感じます。おでこに円文があって小孔が見られるのは、なにかの飾りを着けていたかもしれません。これは、ヒトの顔を描いたのか、それとも神の表情なのでしょうか。
 
 少し気になるのが、この土器を「手焙型」とプレートに記されていることです。炭火で暖をとる手焙に似た手焙形土器は、実際の用途は不明ですが、作成された時代は弥生時代です。市原手焙土器写真にあるようなものとはとても同種のものとは言えません。今現在は改められているのかどうかわかりませんが。この縄文土器が「手焙形」土器とされたのは、戦前の調査報告から踏襲されているようです。
 岐阜県文化財保護センターの『阿多粕遺跡報告書1998』の渚遺跡の項目に、次のような箇所があります。「縄文土器の口縁部が見つかり、内部に灰が入っていたという。土器を埋設した炉の可能性もある。また、その付近から縄文中期の土器の完形品が出土しており、いわゆる手焙形土器と報告されている(江馬1937)」

久々野器台土器
 顔表現の土器も祭祀用かと思われますが、他にも、神への捧げものを載せていたかのような高い脚の付いた器台のような34号住居址の土器は、古墳時代の須恵器によくある器台と何やら形状が似ているように思えます。時代を越えて同じような祭祀が行われていたのかもしれません。

炉石棒
 他に館内には四角に石棒を建てた炉のパネルと、その丁寧に作られた彫刻石棒が展示されています。四方に配置された4本の石棒は何を意味するのやら。信州の諏訪神社本殿の四方には、祭りの最後に御柱が立てられますが、各地の小規模な祠にも四方に小さな柱が立てられています。同じような意味があるのでしょうか。この炉は、単に生活のための炉と言うよりも、まるで拝火檀のようなものとして使われていたのではと妄想しています。

NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」の衝撃   古墳時代に第三の渡来人DNAが6割

NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」           
 
ブログより

「常識がくつがえされる」と謳われるが、その「常識」とは、これまで渡来人問題にまともに向き合おうとしなかった人たちの視野の狭い「常識」にすぎない。
 古代のDNA分析で、縄文人と弥生人の二重構造で日本人のルーツは説明されてきた。ところが、最新の技術進歩の中、古墳人のDNAに縄文人でも弥生人でもない全く異なるDNAが6割も存在しており、これが現代の日本人のDNAの特徴と酷似しているというのだ。それは、「常識的」な教育を受けて、高度な専門的知識や技術を学んでも、「通説」に対して何ら疑問に思われなかった人たちには、想定外の事実であったということだ。
 渡来人のことを、きちんと教えられていないから、こういうリアクション、宣伝文句になるのだろう。
 
 日本書紀欽明天皇元年二月に以下のような記事がある。
召集秦人・漢人等諸蕃投化者、安置國郡、編貫戸籍。秦人、戸數總七千五十三戸、以大藏掾、爲秦伴造。
 海外からの「帰化」した人々を各地に移住させて戸籍も作ったという記事である。秦人の戸数は7053戸で、これはおよそ20万人にもなると言われている。よくよく考えればものすごい人数である。秦氏と言う巨大氏族の存在を、日本書紀は明記しているが、多くの学者は無視している。秦氏だけではないが、これまで渡来人の歴史的役割が矮小化され、一部の渡来人から大陸文化を学んで、発展させたというお決まりの解釈が繰り返された。 

 現在、騎馬民族説については、再評価、見直しがはじまっているが、ただ残念なことに弥生時代の稲作文化と同様に、列島側の主体性で騎馬文化を受容した、との白石太一郎氏の説明に右に倣えになっている。日本という一国(ヤマト中心)だけで歴史をとらえようという根強い体質! 古代社会の政治、文化に大きな影響を与えた騎馬遊牧民を含む大陸、半島からの移住という視点がまったく欠落している。
 早くに松本清張氏は小説『火の路』(1975)で、登場人物に次のような台詞を言わせている。
「日本のことばかり見ているから、わからないのさ。皆目、無知なことのみ言うようになる。 古代の朝鮮、北アジア、東アジアの民族習慣に眼をむけないから、トンチンカンなことばかり書いたりいったりするようになる。」
 これは、ご本人の当時の学界に対する強い思いであったはずだ。
 また、上田正昭氏は『古代の祭式と思想』(中西進編 角川選書1991)の中で
「日本の学界は、渡来の文化は認めます。だけど渡来集団は認めない」
「人間不在の文化論はおかしいではないか。多紐細文鏡は中国にない。遼寧省や吉林省、北朝鮮でも鋳型が出土している。鏡だけが海を渡って流れ着いたわけではない。」同様の憤りがあったのである。

 ただ、研究者の渡来人に対する認識が弱いのにはやむを得ない事情もある。それは日本にやってきた人たちは、移住後も自分たちの出自をアピールせずに、早く溶け込もうとしたことで、現代にはわかりにくくなっているという一面のあることである。
 加藤謙吉氏は「渡来人の謎」(祥伝社新書2017)で
「・・・渡来人はまさに古代国家形成の立役者であった。しかし、渡来人や渡来氏族のなかには、全容がヴェールに覆われ、実態が杳としてつかめないものも多い。彼らは勢力を温存しさらなる飛躍を遂げるため、出自や移住の経緯を改め、内外の貴種や有力氏の系譜に自らを仮託し、その子孫・同族と称して、日本の政治社会に対応しようとした。その結果、彼らの存在そのものが謎めいたものになっている。」
 こういう事情があるから、研究者もあまりへたなことが言えないというのは考慮しなければならないが。しかし、あらたな衝撃的な事実が明らかになりつつある状況になった今は、この問題に真正面から向き合ってほしいものだ。とにかく早く考え方を切り替えていただいて、古代の真実を明らかにしていただくことを願いたい。 

古墳時代のDNA分析結果に当惑する研究者たち   NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」の衝撃  

NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」           
 
ブログより

驚きのインドシナ半島のマニ族の姿
 タイのパッタルンというところの森の奥地。そこに古くから、孤立してくらす森の民がいた。はるか古代から変わらぬ生活をしており、そのDNAは縄文人と近似しており、彼らの祖先が、縄文人のルーツだという。その姿、顔立ちを見て驚いた。眼窩は大きくくぼんで、眉の部分が隆起したように見える。これは土偶の顔の表現とよく似ている。彼らの姿が、当時の縄文人と考えてよさそうだ。土偶の顔の表現は、適当に造ったわけではなく、自分たちの顔の特徴をモデルにしていたと思える。3点の土偶を載せたが、いかがであろう。
番組写真

縄文時代は1万年に渡って閉ざされた社会で、独自の文化を発達させた・・・・
 しかしこの表現は正確ではないと思われる。縄文時代にも新たな文化を持った集団がやってきているはず。この点についてはまた別途論じていきたい。
 ただし、大陸の中では、常に異なる集団との接触、紛争があって、常に流動的であった状況とは違い、平和な期間が長くあったのは間違いないだろう。
 また、弥生時代もコメの普及に少数の弥生人が持ち込み、それを在地の縄文人が学んで水田が広がった、と言う理解。そんなに平和的であったのかはわからないが。
 いずれにしてもDNAの構成を大きく変える移住民の到来は明らか。

古墳時代のゲノムに第三の人類? 研究者は驚き、戸惑っているが・・・・
 これまでは、日本人の成り立ちは、縄文人と弥生人との混合という二重構造であると説明されてきた。これが、現代の日本人につながると。ところが、古墳時代も現代人も第三の未知のDNAが、なんと6割も占める結果になったという。研究者には全くの予想外の衝撃の結果という。定説をゆるがす発見だとされるが、これは現代の日本人が、古墳時代にほぼ完成したということを意味する。渡来の問題をあまり深く考えなかった人たちには衝撃であったのだが。
 しかし、それは、日本列島への渡来は、米を伝えた弥生人が少数でやってきて、それを現地の縄文人が学んで水田が広がったとし、あとは大きな渡来はなかったという思い込み。さらに古墳時代も、新しい技術を伝える少数の渡来人がいたが、彼らの文化を「受容」して、自分たちの文化を発展させてきたという、おきまりの構図が染みついているので、この古墳人のDNAの結果に戸惑っているにすぎない。
 研究者は、古事記や日本書紀の記述を、都合の良いところだけ利用して、何度も渡来人の記事があることを、まったく無視しているから驚きの結果となったにすぎない。もちろん、渡来文化、ユーラシア文化との関係を研究されている人たちも多くいるのだが、それが広がっていないのが現状であろう。
 
 すこしまとめると、
・日本人は自分たちの祖先について、大きな思い込みの勘違いをしている。それが研究者にも染みついている。 日本列島は、最初から、大陸からの移住者が、縄文時代も、弥生時代も、古墳時代も繰り返し様々な集団が入植、移住してきた。その様相はバウムクーヘンのような状態に日本人の人層が作られていると考えてよいかもしれない。
・侵略を受け滅亡した国の民、王や王族、配下の集団が、何度も移住してきていると考えるのが自然。古墳時代も激動、混沌の時代であって、北方民族の侵出などの混乱のなか、大陸、半島からの移住者が、王族を先頭にその配下を従えた、いくつもの集団が、列島の各地に入り込んだ。中には、この新天地に自分たちの国をつくることも多々あったと考えてよい。
・騎馬民族説も、征服という表現は適切ではないが、古墳時代の状況を理解する重要な視点であり、これを機会にぜひ議論が盛り上がることを期待したい。私は、征服ではなく騎馬遊牧民(ソグド人含む)移住説としてこの問題を考えたい。
・古墳時代から8世紀にかけて、シルクロードの商人の担い手、ソグド人が、日本にもやってきた。王権に深く関わり、古事記、日本書紀の作成にも少なからず関わった。それは、8世紀のヤマト王権だけでなく、前王朝である倭国王権、いわゆる九州王朝にも重要な存在であったと考える。
 DNAの6割が渡来系であるならば、大和王権もそれ以前の倭国王権の政治体制の構成メンバーに、渡来人やその末裔がおよそ6割も存在していたということになるのである。
・8世紀になって、大陸では唐、半島は新羅、東北アジアは渤海などの成立で、安定してきた。ただ、それでも少数の移動はつづいただろうが。
 このように考えれば、DNAの結果に衝撃を受けるものではなく、いよいよ真実に近づいてきたと捉えればよいことになる。あとは、発掘調査の結果と文献資料とで具体的に絵を描いていけばよいのではないだろうか。
 ともかく、必見の番組であり、類似の企画の放送もぜひすすめてもらいたい。
 タイトル写真は NK's weblog様のブログより


ランドサット衛星写真の幻のロプノール湖

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 CDが登場してから、レコードは聞かなくなって、オーディオも処分してしまっていたが、CDより音がいいという評判の声もよく聞かれるようになって気になっていた。ただ家にはやんちゃな猫さんがいるので、迷っていたが、まあ試しにと安価なプレーヤーを購入してみた。もう30年以上も聞かなくなって屋根裏に放置していたレコードを聴いてみて、巷で言われる通り、音が違うなと実感。その最初に針を落としたのが、喜多郎のシルクロードのテーマのレコードで、少し温かみを感じる音に感激。何度も聞いたはずの曲なのに、新鮮な気持ちで繰り返し聞くようになった。
 そのジャケットの素敵なデザインを眺めていたが、ふと中を見ると、もうすっかり忘れていたのだが、付録が入っていることに気が付いた。
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 広げてみると昔懐かしい初期のランドサット衛星のシルクロードの写真。現代では、グーグルで解像度の良いものを当たり前のように見る事ができるけど、当時としては、とても貴重な40年前の私にとってはお宝のような記録写真の付録だ。
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 その地図を音楽を聴きながらぼんやり見ていた時に、楼蘭の近くにロブ湖とあるのに気が付いた。ロプノール湖と言われている幻の湖が、やがて流砂にうずもれてしまうかのようなか細い姿で写されていた。(図はロブ湖)それでもまだ琵琶湖より広いかもしれないが。さまよえる湖だとか、その存在については議論もされてきた謎の湖だった。消滅したはずが、20世紀の初めに復活していたようだ。その姿をはっきりと見る事ができるのは貴重なものではないか。
 この衛星写真がいつ頃撮影されたものなのかはよくわからないが、レコードの発売が1980年で、ランドサットの最初の打ち上げが1972年なので、70年代後半のものとなろうか。まだその頃には水を湛えていたことになる。(写真の図は着色加工されているので、少し水増しして描いた可能性もあるかもしれない)だが今はグーグルで見ても、ヒトの耳の形のような痕跡を残しているだけだ。復活した湖がまた消えてしまったことは残念だが、これも栄枯盛衰の人の世のはかなさと重なるような気がする。古代に活躍しながらも、やがては新たな動乱で姿を消してしまう集団、民族が無数にあったに違いない。そのような歴史から消えてしまった彼らの痕跡を少しでも見出すことができればと思う。