流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2023年11月

大湯環状列石の数で表されたヒトガタ土版

土版大湯
    秋田県鹿角(かずの)市大湯環状列石後期BC1800頃 高さ5.8cm

 滋賀県のミホミュージアムの土偶展で見た時に、とても小さくてかわいいと思いましたが、これをシャーマンが呪術などに使ったかどうかはわかりません。だがこの土版、小型であっても縄文人がある程度の数字の認識、簡単な算術を駆使していたことを示す重要なものと思われます。
 口が1、眼が両目で2、右胸が3,左胸が4、中央の線(土偶によく見られる正中線)が5,裏側の後頭部の左右の3+3が6と、体の部位が穿孔や刺突点で表されるという、極めてユニークなヒトガタの土版です。なお、中央下部の四角は、東北の土偶によく見られるふんどしや下帯の表現と考えられます。
 特に興味深いのは、裏側の後頭部の左右の3と3で、ちょうど耳を表しています。そうすると、縄文人は、言葉として耳のことを3と3の「ミミ」と呼んでいたのではないかと思ったりします。しかしこの場合は次のような疑問も生まれます。では、口は1だから「ひー」と呼んでいたのか、眼は2だから「フー」と呼んでいたのかと突っ込みが入ってしまいます。よって、耳のことを「みみ」とか「みー」と呼んでいたかは、可能性はあっても断定はできないことになります。

 研究者の中には、他の数字の表現と考えられる刺突点のある土偶などと合わせて論及されておられる方もいます。ただ少し気になることがあります。
『算術する縄文人』で藤田富士夫氏は、この土版のところで、顔面表現である耳がなぜ裏面、後頭部に描かれているのかが疑問だったが、表裏関係の数字資料と見れば疑問は解決するとし、胸と正中線の3+4+5の合計12で、裏面は3+3の6でその倍数が表側の合計の12となるとされます。他の事例も出されながら、これらから2倍数の関係が示されるというのです。ただこれは納得しがたいです。そもそも、耳表現を裏側に回したのは、顔面が目と口があって、これ以上は点を彫り込めなかったからに過ぎないのではとも思えます。だいたい、表側の眼と口の合計3を無視して、2倍数だ、などとはちょっと無理かなと。
 同様に、小林達雄氏は、同じく耳の3+3に関して次のように述べておられます。「6を単純に3と3の分かち書きしただけではなく、整数を二倍することで霊力を倍加させる効果を目論んでいた可能性が高いとみる。」と説明されていますが、これは、先の藤田氏の論考を受けてのものかと思いますが、「霊力を倍加」する意図があったのかどうかはむずかしいところです。さらに気になるのが、続けて「この2倍効果は世界各地の民族誌にいくつもの例をみる通りである」とされて、その付注で、「かって大林太良先生にご意見をおうかがいした所、御賛同を得た」とのお墨付きとなっています。しかし、具体的な世界の民俗事例の紹介はありません。はたして「2倍効果」といったようなことが言えるのでしょうか。
 三浦茂久氏は、和数詞と織物の作業の糸の数に、倍加法が見られるとされています。
「和数詞は、ヒト(ツ)・フタ(ツ)、ミ(ツ)・ム(ツ)、ヨ(ツ)・ヤ(ツ)、イツ・トヲのように音韻を変化させた倍加法によって成りたっている。これは、織物に用いる経糸を整経するとき、糸を指・へら、経箸などに掛けて、滑らしながら引き出し、杭・木釘に掛けて戻る作業に起因する。(中略)そうすると一本の糸は二本に生まれ変わる。三本ならば六本に、四本ならば八本になる。これら倍加法の和数詞は、延ばした糸の名が変化した語である、そして機を織るとき、半数の糸が上糸、残りが下糸になる。古代日本の整数八、八十は糸の四筋八本を一手、四十筋八十本を一升(ひとよみ)とする織物作業の単位であった。たとえば四本の糸を延(は)えて十回往復すれば、八十本一升となる。これらの習俗は中国南部の江南付近から韓半島や日本に持ち込まれたものらしい。かって織物は多くそれぞれの家庭で行う自家生産で、主に女性が機織りに従事していた。」
 織物作業の中で、しぜんと数字の倍加法を駆使するようになったということではないでしょうか。そしてこういったことから、倍数の考え方が、広く使われるようになったというのが、世界の民俗誌にあるのかもしれない。小林氏の民俗誌の例で縄文の2倍効果を判断するというのであれば、織物の例とは異なるようなもう少し具体的な事例を出されないといけないのではと思われます。そうでないと、数字を2倍することが霊力を倍加させるとか、どうしてそんなことが言えるのかと疑ってしまいます。
 小林氏はさらに、三内丸山遺跡の六本柱もまた3本と3本が向き合い、合わせて6本というのが重要で、「縄文に根ざすアイヌ文化において6が聖数であることにつながる」「元を糺せばアイヌの6も実は縄文観念以来の、聖数3に由来し、二つの3の合体を意味するのではないかと考える」といわれるのですが。織物の事例をあげましたが、縄文時代にも編み物による篭などが見つかっています。簡単な機織りも行っていたのではないでしょうか。そうすると作業していた縄文人たちも、自ずと数を倍加法でみることを身に着けていたとも考えられます。そのような中で、おそらく一人の女性が、この3+3を6とする数字を表現した土版を作ったと想像してもいいかもしれません。
 ここは、むずかしく考えずに、縄文人の遊び心による作品として鑑賞すればいいのではと思いますが、もちろん列島のみならず大陸で新たな類似の表現の出土例があれば、数と信仰に関係する研究を深めていただいたらと思います。

参考文献
藤田富士夫『算術する縄文人』 ネット掲載 元は『列島の考古学Ⅱ』所収の「縄文人の記数法と算術の発見」
小林達雄編著『世界遺産縄文遺跡』同成社2010
三浦茂久『銅鐸の祭と倭国の文化 古代伝承文化の研究』六一書房2009

写真は、HP「北海道・北東北の縄文遺跡群」より

※三内丸山遺跡の6本柱の復元の問題点については、こちらで説明しております。

黒曜石製の両頭尖頭器

16.03.20富山県南砺市埋蔵文化財センターHPはこちら FBもあります。  
みなみとち市ではなく「なんと市」です。  
16.03.20南砺市埋蔵文化財センター両尖頭器

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 上図は、黒曜石で作られた両頭尖頭器。縄文時代前期前半の東北地方を中心に、わずか20例ほどの出土という珍しいもので、この北陸ではこれだけという貴重なもの。ぜひご覧いただきたい。私の撮影ではわかりにくいですが、もっと青い光を放っておりとても美しい作品。手に取ってじっくり見てみたいと思ってしまう。それにしてもこのような実用的ではないものを何のために手間をかけて作ったのでしょうか。獲物をもっとうまく仕留められるように願ったのか?いくら祭祀用とはいっても、実際にどのように使われていたのか興味が尽きないですね。
 
DSC_0149 高瀬神社

 ここには、御物石器なる謎の石器も展示されているが、文様の豊かな高瀬神社のものはパネル写真の掲示で、実物は神社に保管されているとのこと。奥飛騨やこの地に集中して出土する不思議な石器で、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館にも展示されている。
 他にも両腕を広げた元気いっぱいの土偶さんなどもあります。

DSC_0220 カリガラス

 弥生時代になりますが、安居墳墓群のガラスの小玉が虫眼鏡で拡大されての展示。ベトナム産のカリガラスとのことですが、首飾りとかの装飾品かと思われますが、そのようなものがどうしてこの地にあるのだろう。先ほどの両頭尖頭器の展示の近くにけつ状耳飾りもですが、これも中国の東北辺りのものが持ち込まれたかもしれません。北陸の地も大陸、半島からの移住者が次々と渡来してきたのでしょう。





斉明天皇の狂心の渠は九州の水城のことだった。

水城
 日本書紀の斉明紀には、いわゆる狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)といわれた大工事をおこなったという記事がある。一般的には、奈良県の、香具山の西から現在の天理市付近と考えられる石上山までに至るもので、石を運搬するための運河と呼ぶべきものと考えられている。石上山を飛鳥あたりとする考えもあるが、実際には、この地に該当するような大掛かりな運河の跡などは見つかっていない。それは、そもそもこの地にはないのであって、書紀の記述の誤読なのである。また、なんでも奈良を中心に考えるのも良くないことである。古代において全国どこでも治水工事や大古墳造営が行われており、使用する石材を運搬するために涙ぐましい努力がされていたはずだ。当然、河川利用のために、そこをつなぐ水路などいくつも作ったであろう。大工事には変わらないが、いわばどこでもあった工事であり、それを「狂心」とはいえないはずだ。「狂心」と言うからにはそれなりの強烈な内容の工事があったと考えられるのではないか。私は、それを九州福岡の大宰府に隣接する古代の防衛施設である水城のことだと考えている。

【1】斉明紀の記事の誤読
 書紀の該当記事と講談社文庫宇治谷孟氏の現代語訳を参考のために掲載する

於田身嶺、冠以周垣田身山名、此云大務、復於嶺上兩槻樹邊起觀、號爲兩槻宮、亦曰天宮。
時好興事、廼使水工穿渠、自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。
時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、
費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。

 多武峰の頂上に、周りを取り巻く垣を築かれた。頂上の二本の槻の木のほとりに高殿を立てて名付けて両槻宮といった。また天宮ともいった。天皇は工事を好まれ、水工(みずたくみ)に溝を掘らせ、香具山の西から石上山にまで及んだ。
 舟二百隻に石上山の石を積み、流れに従って下り、宮の東の山に石を積み垣とした。時の人は謗って「たわむれ心の溝工事。むだな人夫を三万余。垣造りのむだ七万余。宮材は腐り山頂は潰れた」といった。また謗って「石の山岡をつくる。つくった端からこわれるだろう」

 この現代語訳では、渠が垣を作るための石を運ぶ船を通す運河ととらえられる。つまり、石垣が主たる工事で、渠工事は従属的な工事となり、その渠が香山から石上山まで通じていたと考えられてきた。しかしこれには疑問がある。それは記事の終わりに人々の謗った言葉が載せられており、そこでは、狂心の渠に三万、垣造りに七万と、それぞれが多数の人手を使ったと記されているのだ。つまり渠と垣は別の大工事として扱われているのではないだろうか。 
私はここで「水工(みづたくみ)穿渠」で区切りがあると考えた。従来は、渠が垣造営の石の運搬のためと理解されたが、区切りを変えて水工に渠を掘らせた、で完結し、その渠が香山から石上山までつなげたのではなく、船を使って香山から石上山まで川の流れのように運搬して石垣を積んだ、と解釈したい。この箇所も漢籍が参考にされているようであり、書紀集解には史記河渠書に「穿渠自徴引洛水至南顏下」とある。これによって渠と石を流すことが連続する表現になったことも影響しているかもしれない。だが渠の工事と石垣の造営はやはり別のことではないか。実はこの記事に呼応する一節がある。
 後の斉明四年の記事で有間皇子に対し、蘇我赤兄臣は天皇の失政として次のように三つ挙げている。
 天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘、三也。
 この箇所の二つ目が長く渠を掘ったことであり、三つ目に、船に石を積んで運び丘にすることだとしている。つまり、ここでも渠と垣は別の事業とみなしており、垣造りのために渠を準備したのではないと理解できる。
 三万人余りも使う渠を掘る大工事とは水城のことではないか。そして多数の石を東の山に重ねて、垣をめぐらすのは百閒石垣に代表されるいわゆる山城の大野城や基肄城などのもう一つの工事であり、ここに七万人余りを費やしたのだ。さらに失政としてあげた一つ目は、人民の財を集め積むこと、としている。これは現地の解説にも、大野城だけでも七十あまりの倉庫群が存在し、大宰府出土の木簡からそこに大量の米がいざという時のために蓄えられたとある。建物跡が倉庫用の総柱の構造であったのだ。また当然武器庫もあったであろうし、人民の財の中には、武器に使えそうな木工品、金属類の供出もあったかもしれない。そうすると、蘇我赤兄臣が掲げた三つの失政の工事とは、大宰府を取り囲む防衛施設をいったものでなかろうか。斉明紀には大野城とその周囲の防衛施設の記事とともに、水城の記事があったのだ。元の記事にあった水城という名前を斉明紀ではふれずに渠と称し、あとの天智紀で明確に水城として記載したのではなかろうか。それをどうして「渠」と書いたのか。記事からすると、人々も「渠」と言っていたようである。
 水城は簡単に言ってしまえば敵の侵入を防ぐために水を貯める溝をもった土塁となる。しかしその内実はかなり複雑な作業工程があり、大変な困難を伴うものでもあった。工事の最初には溝を掘って片側に土を盛る作業があったであろう。それで正式名称とは別に「渠」と称したのではないだろうか。それをなぜ狂心の渠といったのか。そこで水城という土木施設について、専門家の説明などを見てみたい。
水城断面
 
【2】桁違いの難工事と高度な技術による水城造営(図①)
 天智紀の水城の説明には、「大堤を築いて水を貯える」とある。この表現だと土を盛って堤を構築することが主たる工事だと理解してしまう。確かに高さ10mにもなる土塁を版築作業で完成させること自体もたいへんであっただろうが、しかしそれだけではない。土塁に沿って大きな渠を掘っているのだ。幅60m、深いところで4mになる渠を長さ1.2㎞にわたって掘り続けたのだ。(ちなみに現在の大阪城の外濠の水面の幅はおよそ70m前後である)しかも土塁の反対側に内濠も敷設しているのだ。地面を掘る作業では厄介な問題がつきまとう。この地は東西が山にはさまれた平野部でありしかも真ん中に御笠川が通っている。自ずとその土地は掘れば水が染み出してくるので、工事の期間中はずっと水との戦いになったと予想される。作業者である水工の足場は常に泥まみれの中での難作業であったはずだ。しかもその幅や長さも前代未聞の規模だ。これを見て狂気じみた工事と考えてもおかしくない光景があったのではないか。さらに詳しくふれてみたい。

⑴高度な技術の土木作業
 濠に水を貯めるための木樋は御笠川の東側は一本、西側に三本確認されている。建築技術を応用した狭山池のものより高度な技術で作られていた。さらに小田和利氏によれば、「水城築堤に際しては、版築土塁、壁面石垣、敷粗朶、梯子(はしご)胴(どう)木(き)、抑え盛り土、カウンターウエイトなど当時としては最高レベルの技術を駆使して築造されていた」という。
 版築や敷粗朶はお馴染みであるが壁面石垣は西門跡の西側土塁壁面に検出され、土盛りと石垣の間を版築土で充填させることで土砂が締まる効果があるという。梯子(はしご)胴(どう)木(き)などは木材を組んで設置することで、低湿地などの軟弱地盤における上部構造の沈下を防止する基礎改良工事のこと。抑え盛り土は、博多側の斜面の途中にテラス状の平坦面を作っているが、防衛上は不都合だが、土塁本体の崩壊を抑制するものだという。また土塁基部の列石は土塁の荷重を支える働きを持つ土留石であり、角度をつけて設置することで、重さを受け止めると左右の列石が相互に手をつないで持ちこたえるような力学的構造をもち、カウンターウエイトと呼ばれるものだという。まさに現代に通じる技術が施されているのだ。他にも積土工法において種類の違う土の使用など、今後の調査で新たな知見がさらに増えるであろう。

⑵御笠川との交差部の洗堰(図2)
水城御笠川
 一般の説明ではあまり強調されていないが、御笠川の水を取り込むための洗堰ではないかと思われる石敷遺構が検出されている。林重徳氏は旧地形図や航空写真などの検討と合わせ、この遺構が洗堰といったものであり、ここから大宰府側の内濠に水を取りこんだとされる。その水をこれもまた技術力が見られる木樋で外濠に流していく。この箇所の実体はまだまだ不明な点が多いが、現代の河川の堰と似た構造物があったと考えられるのだ。増水時に大宰府本体に水が浸からないような対策もとっていたであろう。低湿地を深く掘るのも難工事だが、川を塞いで水流を変えるような工事もたいへん困難な作業であったはずだ。トラブルを繰り返しながらのまさに水との戦いであったのではないか。

⑶水城は平野部を完全に封鎖する施設
 現在の水城の遺構をながめても、その壮大な景観を実感したとしても、そこには現在、国道や高速道路に鉄道が走っていることからも、平野部を完全に閉鎖して、東西の官道の通る二ヶ所に関所を設けて往来を制限するものであったとは実感できないのではないか。博多側と大宰府とは、自由に人は通行できないようにしたのだ。当然生活物資の運搬にも支障があったであろう。
 万葉歌でも水城での別れが歌われている。立場上の遠慮から別れの気持ちを抑えている愛する人である児島に、大伴旅人は「ますらをと 思へる吾や 水茎の水城のうへに涙拭はむ」と水城の門で涙をおとす。ここは大宰府と外界との境界なのだ。このようなものだから、現地ではやりすぎではないかと思う人々がいたとしても不思議ではないだろう。しかも水城の真ん中を流れる御笠川も、堰を設けて川船の通行を制限したと考えられている。さらに封鎖したのは大宰府の北西側だけではない。南側も阿志岐城と基肄城をつなぐ土塁が想定されている。土塁の発見された前畑遺跡と阿志岐城を結ぶ中間点の平野部に、西谷正氏は関所と考えられる南門を検討されている。南方からの行き来も制限されるのだ。(注1)
 水城と土塁による防衛ラインが、尋常ではないまさに狂気の工事と考えられてもおかしくないのではないか。水城の工事は現代の見積もりでは総合計で九十八万六千人日、一年ほどの工事とするならば一日あたり約三千二百人日になるという。書紀のいう三万人は誇張ではない。

【3】なぜ「渠」と呼ばれたのか
 水城はけっして渠だけの構造物ではなく、高度な技術を取り入れた複合施設だ。渠とは運河のことであり、狂心の渠を水城のこととするには無理があるのではないかとの考えもあろう。この点については以下のように解釈したい。
 小田和利氏は水城の構築過程を検討されている。外濠を掘削し、その掘削残土を利用しつつ土塁本体を段階的に構築したという。まずは渠を掘ってその残土を片側に積み上げる。外部から良質の土なども運び込んで版築で土塁を築く。土塁をつくるには、まずは渠を掘るところから始める。人はこれを見て渠の工事と考えたのではないか。そしてこれは水城だけに該当することではない。水城の西に小さな谷を塞ぐように小水城が数か所確認されている。いずれも渠を備えた土塁だという。
 ここで上大利の小水城跡の調査報告書の一部を参考のためにふれる。
小水城
 図③は80-1トレンチの断面図である。最底辺の実線が地山のラインでありその右側が版築層であり、左側は後から埋まった状態であることがうかがえる。「盛り土開始に当たっては砂礫層を掘りくぼめている可能性が強いとし、より堅固な地山面まで掘り下げて、いわば地盤を固めて盛り土を開始したことが考えられる。敷粗朶工法を採用、木杭が盛り土後に打ち込まれている ~~ ただ水城と同じ水濠があったかの判断はむずかしい」とのことだ。このような工事では、まずは長い距離を掘削しているということであり、この工事の始まりを見て、異様な渠工事と考えた者もいたのではないか。  
 大宰府羅城のモデルとして百済の州柔(つぬ)城が言われている。ここには水城も作られていたようであり、現地に水城洞という地名も残っている。百済王豊璋も天智元年の記事に「東南據深泥巨堰之防」(深い泥池の大きな堰で防御)と語っているのが水城にあたるのではないか。渡来した百済人は工事を主導しており、水城の名称を当然使っていたと考えられるが、一般には渠と言い合うこともあったのではないか。
 当初は渠が水城のことをさすと考えたが、水城も含む大宰府防衛ラインの渠が狂心の渠と称したかもしれない。水城だけでも困難な作業であるのに、さらに桁違いの渠を周回させる工事は、異様なものであっただろう。古代人は複合的な構造物の工事を正式な名称とは別に「渠」と称したと考えられる。(注2)
 また隋は通済渠や永済渠などの桁はずれの大運河の建設を推進したが、それは人民の不満を募らせるものであった。この大宰府の要塞の工事には近畿からも多数の人夫が駆り出された可能性がある。その不満も含めた状況が日本書紀に狂心の渠と書かせたと考えたい。(注3)
 以上のように、奈良県にこのような構造物は存在しないのであって、日本書紀の誤読なのである。
山城
 まとめ
①斉明紀の狂心の渠は石垣を運ぶための運河のことではなく、水城に代表される50キロにも及ぶ大宰府の防衛ラインの工事に不満を抱く人々が渠と皮肉ったものである。また有間皇子の謀反の記事の天皇の失政もここに対応している。
②水城や大野城の記事は斉明紀に登場するが、正式な名称を天智紀にずらして記述したものであり、白村江敗戦の前の工事であることは明白であろう。
③大宰府の要塞はまだまだ未解明なところも多いが、その意義は大きく、もっと評価されてよい世界遺産級の構造物である。

注1.前畑土塁については、南側から侵入を図る敵からは視認性が悪く、防衛上の効果を疑問視する声や、道路を兼ねた施設との意見もある。土塁に沿って犬走といわれるような作業用の道路を想定する考えもある。いずれにしても、さらなる調査が必要だ。
注2.「渠」については水路の意味であり、水城とは異なるとの指摘もあるが、「城を周るほり塹壕」(淮南子)(諸橋大漢和より)の用例もあると、正木裕氏(古田史学の会)より御教示いただいた。
注3.正木裕氏の御教示による。

参考文献
杉原敏之「水城の築堤」季刊考古学102 2008   
林重徳「水城」季刊考古学102 2008
小田和利「神籠石と水城大堤」九州歴史資料館研究論集22 1997
全榮來「百済滅亡と古代日本」雄山閣 2004 
小田和利「水城大堤の築堤年代についての一私論」九州歴史資料館研究論集36 2011
西谷正「大宰府の防衛体制をめぐって」大宰府の研究所収 高志書院 2018

記紀の天若日子の返り矢の話のルーツは、ニムロッドの矢のことではなかった

 天孫降臨のための先遣隊として、高御産巣日(タカミムスヒ)は、天若日子(アマワカヒコ)を送り出したが、いっこうに戻って報告する気配がない。そこで様子を知るために鳴き女と言う名の雉(キギシ)を遣わすが、天若日子が矢で射殺してしまう。その矢は、タカミムスヒのところに戻ってきたのだが、もともと天若日子に与えた矢であった。その矢は射返されて、天若日子の胸に命中する。矢を放つ際に、タカミムスヒは、「もし彼が命令に背いてないのなら、矢はあたるな。もし邪心を抱いているのなら、矢にあたって死ね」と呪文を唱えて矢を放っている。アマワカヒコは、自分が放った矢に射返される「返り矢」で絶命するという話である。実はこの話には、元ネタがあるという指摘は早くからなされていた。ニムロッドの矢である。
 金関丈夫『木馬と石牛』法政大学出版局1982(岩波文庫に新編あり)では、「神を目がけて天上に矢を射る。その矢は神の手で地上に投げ返されて、ニムロッドの胸板を貫く。」という記事が『旧約聖書、創世記』にあると紹介されている。さらに、三世紀頃の漢訳仏典『中本起経』に「不信なる長者の子供たちが、篤信者より仏へ遣わされた使者である鸚鵡を射る。その矢は鳥にあたらず、返って仏の前に達する。」という話もあるという。もともとインドにあった話なのであろうか。ところが、「返し矢」のルーツに異論が出されている。

 山口博氏は『ソグド文化回廊の中の日本』(新典社2023)の中山口博で、フランスの東洋学者アンリ・マスペロの論文から始まったが、それは誤りで創世記にニムロッドはいても「狩猟の勇士」というだけで、「返し矢」の話はないのだそうだ。そして新たに、メソポタミアのズー神話を紹介されている。
 もとは神殿の守護を任されていた怪鳥ズーが、覇者になることを目論んだので、メソポタミアの最高神エンリルは息子のニヌルタ神に討伐を命じた。彼はズーに葦の矢を放つが、それは届くことなく戻ってきてしまう。ズーは矢に向かって「飛んできた葦の矢よ、もとの茂みに帰れ、弓の木の部分は、もとの森へ帰れ、弦は(獣の)背へまたもぐりこめ、羽は鳥へ帰れ」と呪文を唱えたのだ。またモンゴル英雄叙事詩ゲセル・ハーンの物語にも天若日子神話と五点もの類似があるという西村真次『国民の日本史大和時代』(1932)指摘を紹介されている。
 霊力を持つ矢が返し矢になり、呪文を唱えることで効果が発せられるという話は、おそらくはメソポタミアのものがルーツであろうが、その後に様々なバリエーションとなって各地に伝播して、記紀にも取り込まれたのであろう。
 これからは、天若日子の返し矢の話はズー神話がルーツとするほうが良いようである。

23年12/2『史跡巡りハイキングのご案内』當麻寺周辺

本堂

鳥谷口古墳

『史跡巡りハイキングのご案内』古田史学の会 
    當麻の地をめぐる
2023・12月2日(土)集合 近鉄当麻(たいまでら)駅改札口 午前10時05分
※大阪方面は、大阪阿部野橋駅より近鉄南大阪・吉野線準急 河内長野行 9時4分発に乗車
奈良方面は、橿原神宮前駅から近鉄南大阪・吉野線急行 大阪阿部野橋行9時31分発に乗車
 時刻表など各自お調べください。
※現地にコンビニはありません。 事前にお弁当などはご準備ください。
【行程】  
近鉄当麻駅 → 葛城市相撲館(けはや座)大人300円(20名以上なら250円)
 → 當麻寺 境内一円は無料 拝観料500円(曼荼羅堂、金堂、講堂)中之坊(中将姫)拝観は別料金(任意)   
 → 昼食休憩 大津皇子の歌碑の公園(當麻寺北隣)
 → 當麻山口神社 → 鳥谷口古墳 → 傘堂 → 道の駅 ふたかみパーク當麻(小休憩) → 倭文神社   → 加守廃寺跡    ⇒ 近鉄二上神社口駅にて解散 交流会は別途 

 参加の事前連絡はいりません。拝観料以外の参加費は無料  お気軽にご参加ください。
 この件につきましての問い合わせがありましたら、コメントのところにご記入ください。
  ☆以下に、見学地の参考資料を添付しました。ご参考に。
また當麻寺につきましてはHP(こちら)もご覧ください。


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民俗学の視点で『長柄の人柱』の伝説の意味を解明された若尾五雄

流れ橋
京都府八幡市流れ橋

1.『長柄の人柱』の説話について。

 大阪市の淀川の長柄橋の架橋工事は、大水のたびに壊れて工事に苦渋していたが、この時に垂水 (現吹田市垂水町)の長者・巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要。袴につぎの当たった者を人柱に」と役人に進言した。ところが自分の袴につぎがあり、巌氏は心ならずも自らの失言により、人柱になったと言う。そして、橋は無事に完成したというのだが、どうもこれは、実話とは言い難い。「巌氏碑」が建てられたのは、戦前のことのようで、自ら人柱となった自己犠牲的な精神を美化するものだったといわれている。では、この伝説をどのように考えればいいのであろうか。
 この人柱伝説に、治水、築堤などの工法との関係で説明された研究者がおられた。若尾五雄『人柱と築堤工法』である。若尾五雄氏は岸和田で医師のかたわら、独自の視点による民俗学研究で多数の著書を残されている。
 彼によれば、袴の継ぎとは、橋の柱を補強する工法のことだという。写真のように、斜めにつないだ柱が袴のように見えるのである。「人柱の伝説は、奇怪を極るにも拘らず、近世の初頭までなお我が国では頗る民衆に信じられ易かった伝説」だとされて、他に、母と子の犠牲の話も、勢子石という籠に石を入れて捨て石にする河川工事の用語とのこと。実際の橋や築堤の補強工事が、物語のように語られたということであろう。これなら納得できるのではないか。いくらなんでも、自ら人柱になるようなことを敢えて言うことはないのであって、この巌氏は、苦労を重ねていた橋の補強工事に、大水に堪えられるように、柱に袴継ぎをすればいいと指導した人物だったのであろう。それが、彼への尊敬の念が語り継がれて、やがては伝説になっていったのかもしれない。 
 
2.「ネコババ」は猫さんとは無関係!

 他にも、興味深い解釈がいくつもある。例えば『黄金と百足』にあるが、「ネコババ」の語源についてだ。岩波の国語辞典には、悪行を隠して知らん顔すること、その語源として猫が自分の糞に砂をかけて隠すことから、とネコが悪者扱いされている。猫無実ネットをみてもみな同様の説明だ。しかしこの解釈はおかしい。他の動物と違って猫はわざわざ砂をかけているのであり、たいへんきれい好きのマナーのある動物のはずだ。これは猫違いなのだ。
 氏によれば土に交じった砂金を水に流して分離させ布を通して取り出すところをネコ場といい、その担当の女性が一部をくすねていたことからはじまるとする。それが年配の婆さんだったのでネコババとなったのであり、猫は無実であり濡れ衣、冤罪だったのである。このように、現代では、本来の意味がわかりにくくなっていることも、人々の生活、民俗学という視点で解けることもあるのである。

参考文献
若尾五雄『人柱と築堤方法』(怪異の民俗学7 異人・生贄)河出書房新社2001
若尾五雄『黄金と百足 鉱山民俗学への道』人文書院1994

男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ(2)

オロチとスサノオ

【3】スサノオに気づかなかったヤマタノオロチ
 有名なオロチ退治の説話も、実はよく考えれば奇妙な点がある。スサノオはクシナダヒメを櫛に変えて髪にさしてオロチに臨む。やってきたオロチは捧げられた酒を飲みほして酔いつぶれる。そこをスサノオが斬りつける。めでたしめでたしのお話のようであるが、ここに異論を唱える研究者は、江戸時代からあったようだ。(注2)
これは山口博氏の指摘だが、その場にめざす人身御供の娘の姿がなく、かわりに髭面で剣を持つ男が控えていれば、オロチは怒り、酒も飲まずに暴れるのではないか。もっともな指摘であろう。そこで日本書紀の本文の該当箇所を見直したい。まずは原文。
  素戔嗚尊、立化奇稻田姬、爲湯津爪櫛、而插於御髻     
 次に岩波文庫版の書き下し
  スサノオノミコト、立(たちなが)ら奇稻田姬を、湯津爪櫛に化為(とりな)して御髻に挿したまふ。
 そして指摘され、改められた解釈。
  スサノオは立らクシナダヒメに化(な)して、湯津爪櫛を爲(つく)りて御髻に挿したまふ。
 以上のように、化は姫に、為は櫛に対応すると見るほうが自然である。通常の解釈の「化」と「為」をくっつけて「化為」という熟語にするのは無理がある。するとスサノオは自らが姫に姿を変えたのであり、クシナダヒメを櫛に変えるというのが奇妙な解釈であったことになる。さらに岩波や小学館は、原文を掲載しているが、この該当箇所では、返り点が本文の読み下しとは違っているのである。スサノオ原文返り点この原文の返り点に従えば、スサノオは、姫に変身(女装)して、櫛をつくって、みずらに挿した、と読めるのである。
 次に古事記の場合を見ると、その該当箇所の文面は微妙だ。
爾速須佐之男命、乃於湯津爪櫛取成其童女而、刺御美豆良
 すなはちゆつ爪櫛にそのオトメを取り成して、御みづらに刺して とされている。確かにそのように読める。ここに「取成」があるが、日本書紀には登場しない熟語である。古事記ではあと一カ所、タケミカヅチとタケミナカタの対決の所で2回使われる。
   卽取成立氷、亦取成劒刄
 タケミナカタがタケミカヅチの手を取ると、その手が、つららに変化し、また剣に変化したというのである。取るという漢字にまどわされるが、「取成」は変化、変身するという意味である。
 しかし、日本書紀と同じように、姫を櫛に変身させるというのも奇妙な話であり、この古事記の箇所も、「於」を「…を」とすれば、スサノオは、櫛を、オトメに変身して、みずらに挿した、と読めるのではないか。古事記の場合は、誤字脱字など後の誤写の可能性もあるが、日本書紀では、後の誤読による解釈が広まったと言える。すなわち、ヤマタノオロチは、スサノオの変身である人身御供の女子を前にして、何の疑いもなく気分よく出された酒を飲み干すのである。
 山口博氏は、ここで江戸時代の川柳を紹介されている。
  『神代(かみよ)にもだますは酒と女なり』

【4】何度も使われた相手を欺いて目的を達する手法
 この手法は景行紀にヤマトタケルによる熊襲国の川上梟帥(カワカミノタケル)を殺害する説話にも使われている。酒宴の席に女装してもぐり込んだヤマトタケルを、カワカミノタケルは気に入って横に侍らせて酔いつぶれてしまう。そこをヤマトタケルは隠し持った剣で相手の胸を刺すのである。
 また、女性なのか女装なのかが微妙な事例もある。神武紀の道臣命(ミチノオミノミコト)は、残党を討ち取るために、酒宴を設けて敵を招き入れる。宴もたけなわになると、道臣本人が立って舞うことを合図として一斉に襲撃する。この道臣は神武の頼もしい片腕として行動する武人として描かれている。だが酒に酔った相手に、男が舞っても盛り上がらないであろう。道臣も女性だったのだろうか。この一節の前に、神武が道臣を厳媛(イツヒメ)と名付けているのである。岩波注では、神を斎祀する者を斎主といい、これは女性の役であったから、イツヒメの名が与えられた、というやや苦しい解説になっている。女装して神事を行うというのであろうか。すると道臣は女装していた、もしくは女性として酔った男どもの気を引くような舞を行ったと考えられる。
 さてこういっただましの手法は、似た例が大陸に見受けられる。ヘロドトスの『歴史』によれば、西アジアのメディア王キャサクレス(BC625~585)とスキタイとの抗争で、キャサクレスはスキタイを宴会に招いて酒に酔わせ、彼らの大部分を殺害したという。遊牧騎馬民はこういった相手を欺く戦法をよく使ったようだ。形勢が不利になると逃げるふりをして、追いかけてきた相手に逆襲することがある。逃げながら馬上から振り返りざまに矢を打つことをパルティアンシュートという。彼らにとっては卑怯とかではなく重要な戦法だったのだ。
 こういった文化や説話を持つ集団が倭国にも入り、語り継がれた話を知る記紀の編者がいて、いくつもの説話に応用されたのではないだろうか。

(注2)江戸時代伊勢外宮権禰宜の渡会延佳、江戸国学者白井宗因、高崎正秀(続草薙剣考)
 ※古田史学会報№177掲載のものを一部改定したものです。
参考文献 
山口博「創られたスサノオ神話」中公叢書 2012
林俊雄「スキタイと匈奴、遊牧の文明」講談社学術文庫 2017
千葉慶「近代天皇制国家におけるアマテラス」ジェンダー史学 第2号(2006)
津田左右吉「古代史の研究」毎日ワンズ 2022

男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ(1)

鯰絵アマテラス
              
 記紀の説話にはその解釈に誤解があって、本来の話の真意が伝わりにくくなっているものがあることを、いくつかの事例で説明する。既に多くの研究者によって指摘されていることを利用させていただき、そこにわずかな私見を交えて論じるものであることをお断りしておく。

【1】アマテラスは女性神なのか?
 日本書紀に記された乙巳の変の説話の多くはつくられたものであり、その狙いの一つに藤原氏の祖とされる鎌足を卓越した行動力と才知あふれる人物として礼賛することがあった。たとえば、用心深い蘇我入鹿の刀を預かるために、鎌足の智恵で俳優(わざひと)を近づける。すると入鹿は疑うことなく咲って相手に刀を渡してしまう。俳優がどのように働きかけたのか書紀は全く記していない。岩波の解説では、俳優は芸人などという説明があるだけで、これでは護身用の刀をあっさりと渡す理由にはならない。
 日本書紀にはこの俳優という表現が、海幸山幸の説話と岩戸神話のアメノウズメの仕草に使われている。乙巳の変の俳優は後者のアメノウズメを人物像として想定したのであろう。岩戸にこもるアマテラスに対して、ウズメは妖艶に舞い八百万の神も盛り上がる。そして、外の様子を見ようとしたアマテラスを岩戸から引き出すことが出来た。乙巳の変の場合も、俳優とはアメノウズメのような妖艶な女性であり、意味深に入鹿に近づいて何かを語る。用心深い入鹿も「咲って」刀を渡してしまう。ただこれは史実ではなくあくまで書紀編者がそのように想定したことであって、俳優の役割がこれで理解できるのである。だが、この話はその説得力という点でやや弱い部分がある。それはアメノウズメの相手が女神であることだ。だがこれが男神であれば、たいへんわかりやすい話となるのではないか。

【2】あとから女神にされたアマテラス
 京都の祇園祭の岩戸山の山車にはアマテラスの人形が飾られている。祇園祭のハウツー本にはこの人形が、髭を生やした男性神と当たり前のように説明されている。京都界隈では、アマテラスが男性であったのは常識だったのであろうか。茨城県北相馬郡の布川神社の絵馬にも、髭の描かれたアマテラス像が岩戸の隙間に描かれている。さらには江戸時代の鯰絵にも髭を生やした天照大神が描かれて庶民に出回っている。
 研究者の中にも認識があり、両性具有の神などともっともらしい表現も見られる。既に指摘されていることだが、古事記にはアマテラスが女神であるとは、それをうかがわせる表現はあっても明確なものはない。(注1)日本書紀も客観的な文面には女性神とは書かれておらず、スサノオとのうけいの場面で、彼が「姉」と何度も述べ、彼の悪行の中で「姉田」という表記はある。またアマテラス本人は武装する際に「婦女」と述べる箇所が一度だけ見られる。
 津田左右吉氏は、ウケイの場面では、男を生まば心正し、女を生まば邪(よこしま)なりとあるのは、日の神が女神であれば不適切な詞とされるのはもっともなことであろう。また、同じ方法で子を生むというのも、両者が男神であったからで、女神なら別の方法となるという指摘ももっともだ。
 世界の事例からも元々の太陽神は女性神だけではなく、男性神の場合もあったのであり、このアマテラスも男性と認識されていたこともあったのではないか。古事記では女性と明記しなかったが、日本書紀はアマテラスを女性神にする手直しを施しており、これを、当時の中国の武則天や日本の女性天皇の存在を反映させたとの意見もある。何らかの事情、前王朝の太陽神を否定するような意図も考えられる。日本書紀では女性神とされたが、男性神であるという様々な伝承から、江戸時代には男性神としての認識もみられたのが、これが明治に入ると女性神であることに徹底されたのであろう。
 よって、アメノウズメの意味深な仕草の舞は、男性神に対するものとして想定されたものと考えたい。(2へ)
注1)古事記では、イザナギはイザナミを那邇妹とし、イザナミはイザナギを那勢と呼んでいる。那勢は女性から男性を親しんで呼ぶ語とされており、アマテラスもスサノオを那勢と言っている。