流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2023年10月

勾玉
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 当ブログのタイトルの背景写真に使わせていただいたブルーのガラスの勾玉は、島根県出雲市大津町「出雲弥生の森博物館」の展示品。隣接する西谷(にしだに)墳墓群史跡公園の西谷3号墓の第一主体からの出土である。隣り合う第4主体が王墓とされ、二重の木棺からはガラス管玉が出土し、その在質はローマ製ガラスを使ったソーダ石灰ガラスで、他に第一主体と2号墓からも発見されているが、列島ではここだけのガラス製品だという。そしてコバルトブルーの輝く鉛バリウムガラスの二つの勾玉も特に珍しいものだそうだ。この第一主体の埋葬者は、第4主体の王の后と考えられている。
 これらのガラス製品は、小寺千津子氏によれば朝鮮の楽浪郡で手に入れたという仮説を提示されたとのことだが、大陸や半島のどこかで手に入れた渡来の王とその集団が持ち込んだものではないかと想像する。
 先ほどの小寺氏の『ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き』(吉川弘文館2023)に、西晋の詩人潘尼(はんじ)の「瑠璃碗賦」の詩が引用されている。
 「流沙の絶嶮なるを済(わた)り、葱嶺(そうれい・パミール)の峻危たるを越ゆ。その由来疎遠なり。」
 ガラス碗がはるばるパミールの峻嶮を越え、中央アジアの流沙をわたり、中国本土にもたらされたことが詠まれている。同様に、中国からさらに列島にもはこばれてきたのであろう。そのはるか遼遠のユーラシア文化の、古代日本への影響や痕跡が少しでも見つけられたらいいかと思っている。

参考文献
渡辺貞幸『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」新泉社2018

青銅器変遷

【1】大陸、半島から列島につながる燕国の遼寧青銅器文化
 秦王の殺害を企てた燕国はおよそ紀元前十一世紀の春秋戦国時代から、北京あたりで金属器文化を持つ勢力であった。それは遼寧青銅器文化とも呼ばれている。北朝鮮の龍淵洞遺跡から多量の燕の鋳造鉄器や、燕国で流通していた明刀銭の出土で、半島への影響が見られそれは列島にまで広がっている。野島永氏によると弥生文化における二条の突帶を持つ鉄斧は九州から関東にまで及んでいるが、燕の鋳造鉄斧と共通し燕国から直接伝わったという。唐津市鶴崎遺跡出土の有柄銅剣は紀元前五、六世紀の河北省燕山付近のもののようだ。博物館の説明にも、この有柄銅剣は、吉野ヶ里の有柄銅剣を含め、弥生時代の国内出土の銅剣とは全く形態が異なっており、中国における戦国式銅剣に系統を求められる国内唯一の資料とされる。また列島最古の武器形木製品は、福岡市の比恵遺跡で出土した遼寧式銅剣形のものであり、青銅武器が入る前からこの武器形木製品で祭祀が行われていた。
 小林青樹氏は佐賀吉野ケ里の青銅器工房で出土した燕国系の鉄製刀子から、青銅器の制作への燕国の関りを示唆される。熊本県八ノ坪遺跡では多数の初期弥生青銅器の鋳型が発見され、同時に遼寧で見られるような鋳銅用の馬形羽口もあった。
 さらに図にあるように、遼寧式銅戈もおよそ紀元前四世紀に半島に渡り、大型化と細形化をへて細形銅戈が誕生し列島に入っていったという。吉武高木遺跡の木棺内から出土した細形銅戈がその代表例である。

【2】燕国からの子孫が、燕国の荊軻の説話を語り継いだか
 以上のように、燕国の金属器技術を持つ集団が半島に入りやがて列島にもやってきたと考えられる。山海経巻十二の海内北経に「蓋国は鋸燕の南 倭の北に在り 倭は燕に属す」とある。ここでいう「倭」は、列島ではなく、やがて列島に移動する半島のこととも考えられるが、上記の青銅器などの出土状況が、半島から列島への深い関係を示していることを疑う余地はない。燕国は紀元前500年頃には、燕山を越えた遼西西部や半島への領域拡大がはじまったようだ。燕国の墓制はその副葬品に西周前期の青銅器を模したものが見られ、これは燕国の西周への回帰を示すもののようだ。のちには始皇帝に追われた燕国の人々が、半島や列島にまで逃避してきたことも間違いないのではないか。その人たちの秦王への恨みは、遠い子孫にまで伝えられ、それが入鹿殺害の説話に使われたのかもしれない。燕国の滅亡と乙巳の変では時代が随分離れていることに疑問を持たれる向きもあろう。しかし中国少数民族のイ族は、祖先が三星堆から秦によって追われ、さらには諸葛孔明によっていっそう山深い地に追いやられたことを今でもシャーマンが歌にして語り継いでいる。
 正木裕氏は弥生時代の倭奴国や邪馬壹国が、周の官制を用いていたことを明らかにされている。魏志倭人伝に登場する「泄謨觚(せもく)、柄渠觚(ひょごく)、兕馬觚(じまく)」などの官位は儀礼で使われる青銅器と関係しているという。すると西周王朝の侯国から発展した燕国の青銅器儀礼の官制や文化が、影響している可能性も考えたい。
 なお青銅器の倭国への流れでは、斉国との関係も示唆されているので、今後の研究の進展も注視したい。


参考文献
楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017
小林青樹「倭人の祭祀考古学」 新泉社 2017 
正木裕「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」(古田史学論集第二十四集卑弥呼と邪馬壹国)明石書店 2021
林俊雄「ユーラシアの石人」雄山閣 2005

【1】入鹿はどうして刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか?
 次は入鹿が自分の剣を預けて座につく場面の一節。
「中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座」
 用心深い入鹿は常に帯刀しているので、鎌足の策略で俳優を使って入鹿に近づく。すると入鹿は見事に「咲って」相手に自分の剣を渡す。
 入鹿殺害の顛末が、秦王殺害未遂の件と大きく違うところがある。それは、俳優を登場させて、入鹿が自分の刀を預けさせていることである。相手の反撃にあってはならず、殺害計画を成功させるためには、入鹿の帯刀を解かなければならない。しかしどうやって用心深い相手に不信を持たれずに刀を受け取れるのか。そのために鎌子は方便(巧みな手立て)を考えついて俳優を仕向けたのだ。

【2】妖艶なアメノウズメに油断した入鹿  
 ではその俳優とはどのような人物で、いかにして疑い深い入鹿の刀を解くことができたのか。この俳優は一般的には道化師などと理解されている。だがそれでは入鹿は信用しないのではないか。ここには具体的な行為やどのような言葉をかけたのかは全く描かれていない。だがそれを解くヒントはある。日本書紀にはこの俳優が二か所の異なる場面で登場する。一つは、海幸山幸の兄弟の説話だ。最初に横柄な態度であった兄が、最後には弟に屈服して俳優(ワザヒト)になってしまう。だがそんな人物では役不足であり、相手の刀を手にすることはできないであろう。もう一人の俳優が天岩戸神話に登場するアメノウズメだ。
アメノウズメ
 天鈿女命、則手持茅纒(ちまき)之矟(ほこ) 立於天石窟戸之前、巧作俳優(たくみにわざをきす)
 彼女は天岩戸の前で巧みに振舞って、アマテラスを岩戸から引き出すことに成功する。その実績のあるアメノウズメは天孫降臨の道を阻むかのように立つサルタヒコに対しても、天岩戸の時と同様の仕草を行い、彼の名を明かさせる。得体のしれぬ相手に堂々と立ち向かうアメノウズメこそ、入鹿を欺く役回りとしてふさわしいであろう。岩戸が開くようにアメノウズメはたくみに神事の仕草や踊りを行う。それを見て八百万の神がどっと咲ったという。入鹿も相手に刀を渡すときに咲っている。だがここでの咲いは可笑しくて笑っているのではない。この俳優は女性なのだ。しかもアメノウズメのような妖艶な女性であろう。おそらくこの俳優は、なまめかしい姿で胸元をやや広げて入鹿に近寄るのだ。そして彼女は「刀は後で私が直接お渡しいたします」などとささやいたのではないか。この時、入鹿が鼻の下を伸ばしたかどうかはわからないが、笑ったというより、ニヤついたのであろう。油断をして大事な刀を彼女に渡してしまったのだ。こうしてまんまと入鹿を丸腰にすることが出来たのだ。ただこれは史実ではなく、あくまで日本書紀の編者が想定した筋書きを想像したものだが。
 計画遂行のために秦王の反撃にあうという同じ轍を踏まないように、乙巳の変ではアメノウズメのような俳優を登場させて、入鹿を丸腰にさせたのだ。その奸計をすすめたのが鎌足であり、中臣氏の遠神(とほつおや)である天児屋(あまのこやね)命が重要な役割を果たす天岩戸や天孫降臨神話を参考にしているのは示唆的である。
 それにしてもこの乙巳の変の物語では、鎌足は事を成就させた立役者として描かれている。しかも弓は構えたが自分の手は汚していない。これは後の藤原氏の祖である鎌足が、蘇我氏の横暴であやうくなった皇統を、知恵と努力で守った存在として美化するために、この暗殺事件を利用したと考えたい。

荊軻暗殺未遂
【1】秦王(始皇帝)暗殺未遂を描く画像石                         
 石材に図像を彫刻したものを画像石と呼び、築かれた古代の墳墓の装飾品としておかれる。その画像の題材に秦王の暗殺未遂事件を描いたものがよく使われた。なぜこの場面が死者を葬る墓室に飾られるのか。荊軻が投げつけた匕首が柱に突き刺さる。崑崙山を象徴する柱を射抜き、今まさに昇仙の資格をえたかのように描かれる。  
 前漢末から三国時代にみられるもので、墓主の高徳を称揚しその魂の安寧を願った制作者による義士の英雄化と神仙化、という意図的な構図の再構成とされる。  
 上図は後漢時代の頃の四川省合川県の皇墳堡画像石墓。匕首が刺さった柱を挟んで、その左右に荊軻と秦王を相対させるという基本構図を踏襲している。この図では画面左で取り押さえられる荊軻のみが三山冠を被っている。注1.これは東方絶海の三神山を象徴するものとして、西王母の伴侶である東王公に特有の冠、さらに荊軻の左方に三足烏と九尾狐を従えた被髪有翼の神仙がいる。左手には彼に差し出す袋をもつ。それは不死の仙薬の薬嚢で、西王母の命により荊軻に永遠の生命を与えるために訪れた場面とされる。
 燕国の暗殺者荊軻は伴として秦舞陽(シンブヨウ)を同行させ、咸陽宮(カンヨウキュウ)で秦王に謁見する。途中で秦舞陽が恐怖のあまり震えだしたため危うく事が露見しそうになるが、荊軻がこれを言いつくろい、どうにか事なきを得る。そして、手土産に持参した燕の領地の地図を広げると事前に仕込まれた匕首で、秦王の袖を掴み右手で突き刺すのだが秦王に手元にあった刀で反撃され、匕首を投げかけたが銅柱に突き刺さった。荊軻は目的を果たせず逆に切り殺されてしまう。怒った秦王はその荊軻を何度も切りつけたという。画像石の右側には荊軻に対して刀を振りかざそうとする秦王が描かれている。
 この事件は未遂に終わったものの、荊軻は人々に英雄化され、柱に突き刺さった刀子が神仙への導きとされるようなシンボルとなり、この構図が多くの墓室に使われるようになった。

【2】乙巳の変と荊軻の秦王暗殺未遂事件
 司馬遷はこの事件の全容を細部にわたって記している。そこに次の下りがある。秦王との謁見の際に荊軻と同行した秦舞陽は恐怖から全身が震え始め、不審に思った群臣が尋ねると荊軻は「北方の田舎者故、天子の前にて恐れおののいています」とごまかした、とある。これに似た話が日本書紀にある。
 乙巳の変では、上表文を読み終わろうとする倉山田麻呂は子麻呂がなかなか出てこないので恐ろしくなり、声も乱れて震えた。それを蘇我入鹿が怪しんでとがめると、「天皇のおそばに近いので恐れ多くて汗が流れて」と言い訳をする。この様子の描写が似ているという指摘は、ネットブログにもあるが、他にも刀子を持ち込むために献上する地図に巻いていたのが、乙巳の変では箱に入れられている。どうも日本書紀の乙巳の変の主要な部分は、この秦王暗殺未遂から取り込んだようである。すると入鹿殺害の描写は、重要人物の殺害はあったとしてもその多くが作り話とも考えられる。中大兄は長い槍をもって待ち構え、鎌足も弓矢を持っているなど、どうして宮中でできるのだろう。子麻呂等は水をかけて飯を飲み込むも吐き出すというが、これから人を斬りつけようとする直前に食べ物を口に入れるなど考えにくく、緊迫感を演出するためだったのか。
 それにしてもなぜ秦王の暗殺未遂事件を参考にしたのか。これは蘇我入鹿の殺害を企図した側が、当時絶大な権力を持って憎まれていた秦王のイメージと重ねていたのではないか。この事件を契機に秦は燕を滅ぼすことになる。そして燕の人々は迫害されて倭の地に逃げ延びた祖先の末裔かもしれない。乙巳の変の場面は、この秦王暗殺未遂の説話だけでなく、より完全な物語にするための工夫をしている。書紀の岩波注にも類似が指摘されているが、蘇我馬子が崇峻天皇の殺害を目論んだ際に、東国調(あづまのみつぎ)をでっち上げている。「馬子宿禰、詐群臣曰(まえつきみをかすめていわく) 今日、進(たてまつる)東國之調。乃使東漢直駒(やまとあやのあたひこま)(しい)于天皇』。これを利用して、入鹿を招くために三韓調(みつのからひとみつき)なるものを設定したのであろう。さらには入鹿殺害を失敗させないために、神話も参考にされているようだ。
三角帽古墳壁画
ユーラシア三角帽

 注1.三山冠 福岡県五郎山古墳絵画の人物に、頭に荊軻の三山冠と同様のものが描かれ、  右手を大きく上げて、左は腰に当てているので、相撲力士の表現にもとれるが、頭に三本角冠帽ともいわれるものが表現されている。突厥の石人などにも見られる。
参考文献 楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017

高松塚絵画
⑴日本書紀の打毱(だきゅう)
 2022年7月末の新聞報道に、日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性がある木球の記事があった。奈良市の平城宮跡で約三十五年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性があることがわかったという。直径4.8~5.3センチで、直径約3センチの平らな面もあったという。分析した奈良文化財研究所の小田裕樹主任研究員は「当時の貴族に流行した遊びを復元する貴重な資料になる」とのことだ。共同通信によるものでいずれもこの記事以上の説明などはない。しかし、この打毬が実際に行われていたとするなら、気になる問題が生じる。
 記事では「打毬」だが日本書紀では漢字が異なり、「打毱」とされ「まりく」と訓みがふられている。そしてこの「打毱」は日本書紀には皇極紀の一か所に登場するだけだ。その箇所は、かの中大兄と中臣鎌足が懇意となるシーンである。すると飛鳥時代にはこの遊戯があったのだろうか。だがそれでは中大兄は馬に乗ってポロをしていたことになるが、書紀の記述からはそのようには考えにくい。この打毬にはポロだけではなく、ホッケーのような意味もあるようだ。高松塚古墳の壁画の男子像にはこのホッケーのストックを持つ人物(右端)が描かれている。関西大学博物館の解説では「鞠打ち遊技の毬杖(ぎっちょう)」とある。遊戯を楽しむために、被葬者といっしょにお伴が用具を持って遊行に出かけるところを描いたのかもしれない。中大兄も打毱というホッケーを楽しんでいたところに、ちょうど居合わせた鎌足が、飛んできた履(くつ)を拾ったということであろうか。だがこれはどうも他の説話を参考にした創作のようである。

⑵新羅王の説話が参考にされた乙巳の変
 書紀に書かれた乙巳の変の多くの記事が史実ではないとの疑問や指摘は早くからあった。注1 この中大兄と鎌足の場面は新羅武烈王である金春秋が蹴鞠を楽しんでいた際の説話からのようだが、ここでいう蹴鞠は、全国の神社の祭事などで行われる空中に蹴り続ける蹴鞠ではなく、サッカーに近い対抗戦式の球技であったようで、それは中国で始まったもののようだ。この蹴鞠に興じていた際に、配下の金庾信はわざと金春秋の衣の紐を踏み破って、すかさず自分の襟の紐を裂いて裾を縫わせる。しかし先に姉に頼んだが本人が辞退したので妹に縫わせる。それが縁で後に金春秋は妹の文(ぶん)姫(き)を后にする。一方、鎌足の発案で中大兄は蘇我石川山田麻呂の姉を娶るはずだったが、誘拐されてしまったので代わりに妹を娶ることになる。金春秋は孝徳紀に人質として来日しており、その記事によく談笑する、とあるので、この后とのきっかけの話は酒の席などで語られていたのだろう。それを書紀編者は利用したとも考えられる。だがこれは蹴鞠であって打毬ではない。日本でいつから雅な蹴鞠が始まったのか定かではなく、サッカーのような蹴鞠があったのかもわからないようだ。日本書紀では、露骨に新羅の説話を丸写しにするのを憚って、繕うことを断った姉の話が誘拐されたとしたり、当時の日本に先に伝わっていた打毬にしたのではなかろうか。

⑶原文改定された誤った解釈
 鎌足の伝記である『大織冠伝』は、その多くは日本書紀に沿って著述がされているが、この中大兄が興じていた打毱は、蹴鞠とされている。これはホッケーのような球技では履は飛ばないと考えたのであろう。そして日本書紀の現代語訳の宇治谷孟氏なども、ここを蹴鞠とされている。だがこれは恣意的な原文改定である。そしてこの場面の蹴鞠は、現代の共通認識としての雅な蹴鞠とされる。新羅の説話の蹴鞠はあくまでサッカーのようなものだが、伝記の作者である藤原仲麻呂はおそらく、毬を空中で蹴り続ける雅な蹴鞠こそ履が飛ぶことになると考えたのではないか。現代では、この雅な蹴鞠で中大兄の履が飛んだと当然のように説明され、まことしやかなイラストも描かれている。だがこれは史実でも何でもない。雅な蹴鞠は八世紀頃からと考えられている。乙巳の変にかかわる説話の多くが作り話であることの一端を示すものであるのだ。
  (「古田史学の会『九州王朝の興亡』2023」掲載のものを一部改定したものです)

注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。

参考文献
「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
塩見修司「『万葉集』古代の遊戯」 『唐物と東アジア』所収 勉誠出版2011
山田尚子「黄帝蚩尤説話の受容と展開」『東アジアの文化構造と日本的展開』所収 北九州中国書店 2008
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997
図 「高松塚古墳壁画」のイラストは関西大学博物館壁画再現展示室

市民古代史の会京都 秋の講演会のお知らせ  済 ありがとうございました。
2023年11月3日(金)祝日の日です。12時40分開場 13時開始
 服部静尚さんは、「王朝交代の真相」の講演です。平城京の大和朝廷は、7世紀末の前王朝にとってかわったものなのです。この歴史の真実をぜひお聞きください。ブログ主は火打石をテーマに話をします。お気軽にご参加ください。
11.3京都

  隋書倭国伝(岩波文庫)に記された婦が夫の家に入る際に犬〔火〕を跨ぐ、とあることについて、犬の可能性について検討(1)してきたが、現在も世界の各地で報告されている火に関わる婚姻儀礼とすることがやはり妥当であり、さらにこのことが九州の地を裴世清が見聞していたことを示すものであることを論じる。

【1】各地に見られる火を跨ぐ婚姻習俗
 日本各地には、入家儀礼で火を跨ぐといった事例が最近まであったとする記録などがいくつも残っている。 民族学の江守五夫氏によれば、茨城県行方郡では手伝いの人が婿の庭でかがり火をたき、嫁がそれを跨ぐや、埼玉県では婚家の門口でかがり火を跨ぐ。東京都多摩市ではニュータウンの開発前まで同じ習俗があったという。入り口前で少年少女が藁の松明に火をつけ左右より差し出すと、嫁はその松明を跨ぐのだという。福岡県粕屋郡粕屋町では、嫁が婚家の門口に近づくと藁火が焚かれ、嫁は裾を手繰り上げ藁火を跨いで入るという習わしが100年前まであったという。また、提灯によって嫁を迎える儀礼もあったようだ。
 そしてこの儀礼と同様のものが、半島、大陸にも存在している。江守五夫氏は、火を跨ぐ習俗は中国北方諸民族や韓国の慶尚北道の両班(ヤンバン・支配階級の身分)階層にあったものという。中国満族の結婚式の当日、新婚夫婦の部屋に向かうと、花嫁は部屋の前に置かれた「火盆」を超えてゆく。神聖な火で邪気を払うという。北京では火鉢を跨ぎ、山東省では火を少し焚いてその上に馬の鞍を置き、嫁に跨がせる。江蘇省の場合は稲わら一束が燃やされ、それを夫が踏み分けて婚家に入る。
 さらに同じく民俗学の大林太良氏によれば、世界的にみて、東は日本、西はヨーロッパにかけて、主として内陸アジアの遊牧民文化とその周辺に分布していると指摘している。そこには、跨ぐだけではなく、花嫁が婚家の炉のまわりを三回まわるという習俗も伝統的に行われていた。
 江守氏は福岡県遠賀郡水巻町に炉辺三廻りの婚礼儀礼や、熊本県阿蘇地方、大分県での馬上で三廻りする事例からも、この遊牧民文化との密接な関係に言及している。

【2】分布図が示す火の婚姻儀礼の特徴
 江守五夫氏の著作の分布図によるとこのような日本の習俗は、特定の地域に密集して分布していることがわかる。図で網目状に見えるのは、密集していることを示す。
日本の婚姻 火の儀礼
 図①を見ると、分布の濃密な地域は、関東、長野、九州西北部である。福岡県糟屋郡粕屋町や同県筑後地方、背振山地以南の佐賀全県、熊本県阿蘇地方や八代市などに分布することから、その流入経路は九州の玄界灘であるとも推定している。
  江守氏などによればこういった習俗は、中国の北方諸民族、特に内モンゴルのオルドスのモンゴル族などで見られることなどから、遊牧民に由来する可能性があり、中国の北方諸民族に受容され、周辺へと伝わったとされる。私見では「受容」ではなくその文化を持った人たちの移住によって広がったと考える。この集団が古墳時代に北九州に入り込んできたのであろう。信州から関東、そして東北への分布は、東日本において馬飼育の集団の広がりを、また馬具を伴う大型古墳、前方後円墳の広がりとも一致し、特に熊本などに集中する装飾古墳の関東への広がりとも重なるのである。さらに石室の形状なども肥後と東国に類似がある。屍床を仕切り石で区画する仕切石型。四周を石障で囲んだうえで、仕切石により屍床を区画。屍床を石屋形で囲む石屋形型。石枕のみを置いた石枕型などが、茨城の大師唐櫃古墳、山梨甲府丸山塚古墳、宮城山畑10号横穴墳などに見られる。常陸地域陸奥東南部の横穴墓も共通するという。この肥後型は羨門をアーチ形長方形にし、周縁を2~3段に彫りくぼめた飾り縁をつける。羨道は短く、玄室は方形又は隅丸方形などの特徴がある。
 一方でこの儀礼が希薄であったところは、図②にあるように嫁の出立の際に火を跨ぐ、松明の間をくぐる、藁火を焚いたり、行列に松明を携行するなどの儀礼が、図①とは対照的にみられるのである。少し異なる文化を持つ集団が瀬戸内海を通り、近畿に上陸して中部にまで到達するという、移住の広がりを見ることが出来る。嫁の入家儀礼とは異なる習俗もあったのである。
 裴世清は九州に到着すると、肥前、肥後の火の国の地も訪問して、「必先」と強調するぐらいだから、一度ならず何度か火を跨ぐ儀礼を目撃したのかもしれない。合わせて阿蘇山の見聞も行った記録を残したのであろう。中国では唐の時代以降に北方民族の流入でこういった儀礼が広がりだしたから、裴世清は珍しい儀礼として特筆したのであろう。

【3】火の字を犬と間違える可能性の検討
 犬が関係する習俗が中国のみならず、ユーラシア大陸に広く見受けられるのは間違いない。サハリン島の北部から隣接の大陸側にかけてニヴフ民族が居住していたが、彼らの半地下式家屋の新築儀礼に、犬を殺して頭を敷居の下に埋めて悪霊から家を守護することがあったという。こういった事例もあるが、婚姻における入家儀礼で犬を跨ぐといった事例はまったく確認できないのであり、この隋書の記事は火が適切であろう。では何故、火を犬と書き違えたのであろうか。これについて以下検討したい。
 隋書俀(倭)国伝には、犬と火の漢字が一カ所ずつあって普通には間違えるようなことはないが、それでもまったく異なる形状とは言い切れない。原本の筆記者、もしくは後の書写をした人物に書体の癖があって、火を犬と見まがうようなことがあった可能性は皆無とは言えない。
火と犬
  図③で新書源の例をいくつか挙げたが、各時代の書体の一覧にも、火をうっかり犬と理解しそうな書体があるのではないか。そして実際に「漢籍電子資料庫」では、犬ではないが大の字を火に、また火を大に修正している例がある。
 宋會要輯稿では火を大に改めたものが2カ所ある。火を犬に間違える事例はないが、可能性は皆無とは言えないのである。他にも、「大」を「六」に、「太」を「大」に、「天」を「大」に、「文」を「大」にといった誤字があり、舊唐書でも「岱」を「大」、「伏」を「大」にしている例がある。
  現在の中華書局版の隋書は「犬」とされているが、ツングース文化を論じる劉永鴿氏等のように、火の婚姻儀礼と考える中国研究者は少なくないのだが、一方で古来の習俗に犬の関係する事例が多く存在するので、あえて修正されていないのかもしれない。
 以上から、犬ではなく火を跨ぐ婚姻儀礼が九州の肥前、肥後である火の国に集中して存在し、さらに阿蘇山の記事からも、裴世清が直接この地を見聞したことによって火を跨ぐと記した、とすることが妥当としたい。
 また、婚姻儀礼に限らず火の関わる祭祀などは全国にあって、九州には今も奇祭と称される祭事も見られる。こういったことも視野に含めて古代史を見ていくことも重要であろう。

注1.大原重雄『隋書俀国伝「犬を跨ぐ」について』古田史学会報144号
参考文献
江守五夫「日本の婚姻―その歴史と民俗」日本基層文化の民俗学的研究Ⅱ 弘文堂 1986
劉永鴿 王辰「ツングース文化と日本文化との比較研究」アジア文化研究所研究年報/ 東洋大学アジア文化研究所 編 (50):2015 
丹菊逸治「ニヴフ民族のくらしと火」火と縄文人 (ものが語る歴史 ; 34) 同成社 2017
大林太良「古代の婚姻」日本女性史論 集吉川弘文館 1998







六本柱
  三内丸山遺跡のシンボルのような存在となっている大型掘立柱建物(通称六本柱)は、復元にあたっては異論もあって、結局は妥協の産物とでもいえるような屋根のない床三層の違和感のある建物に落ち着いた。報告書や解説本を見る中でいくつか疑問点が浮かび、その後の検討の結果、この復元には無理があったことを述べたい。

【1】巨大なクリの木の木柱は、直径一mなのか?

 岡田康博氏執筆の同遺跡の解説文注1では、「一九九四年六月 太さは一mほどで、これまでの発掘調査で出土していたどの木柱よりも一回り大きかった」 「特に大型で、直径約一mの」 「さらに柱穴の中には直径約一m」と書いておられる。ここでは「ほど」「約」と記されているので、必ずしも一mきっかり、もしくは一mを越えるとは明言しておられない。一m未満だがそれを例えば九七㎝とかにすると細かいことになるので、おおよそで一mと表記したというようにも受け止められる。
 ところが、初期の頃の報告書や解説本、新聞報道では異なる数字が記されているのである。一九九六年の国松俊英『いまよみがえる縄文の都』(注2)には三八頁に「直径八〇㎝」とあり、この中で引用されている朝日新聞の一九九四年七月一六日夕刊の記事にも「直径約八〇㎝の木柱三本と柱穴六個」とある。翌日の毎日新聞も大きな見出しで「直径八〇㎝」と打ち出している。

 その後の二〇〇七年の調査報告書『三内丸山遺跡34』(注3)では、この残存していた木柱についての調査図と数値が掲載されている。(末尾に図を掲示) 四つのピットで「確認された木柱は残存状態が良好で、中でもピット2の木柱は最も太く」、とある。それぞれの残存長径は、八五,八六,七六,七七cmである。また残存短径は七六,七九,五三,七一㎝。残存高は四五,五〇,四二,六一㎝となっている。すなわち最大で直径八六㎝であり、残りはそれ未満である。そしてこの四本を平均すれば八一㎝なのである。八一㎝を約一mとするのは、間違いとはいえないが、やや不正確ではなかろうか。本来ならば約八〇㎝が適切な表記ではないか。現在のホームページや関連の記事もみな約一mとされているのだが、これはある事情によって、意図的になされたものではないだろうか。令和三年度の「研究紀要」(注4)に掲載の図の解説パネルに「柱は直径七〇から九〇㎝ほど」とある。表現に使い分けがされているのかと思ってしまう。
 この点について遺跡センターに問い合わせると、「表面の腐食による目減りがあったことと、さらに、木製品は、乾燥とともに収縮したりします。なので、木柱は、調査・取り上げの過程で少しづつ劣化していきます」との説明であった。これはおかしい。出土してから一五㎝も木材が縮んだというのか。木材を乾燥させるにはかなりの時間がかかるはずで、発掘調査でもし木製品が出土したら、取り上げるまで濡らした布で覆って保護しておくのが常識ではないか?もし実際に小さくなったとするなら、どうして展示物に発掘出土時より一五㎝小さくなっています、といった但し書きをしないのか。奇弁ではなかろうか。 

【2】不可解な地耐力調査

 二〇〇二年の『青森県史別編』(注5)は、岡田康博氏も執筆担当をされているが、遺跡の概括や、高さ二〇mという六本柱建物の復元の妥当性について説明されている。先に「柱の直径が一m近くもある大型のものを大型掘立柱建物と呼んでいる」とされてから、「大型の柱穴が六基が検出された。さらに柱穴の中には直径約一mのクリの巨木を利用した木柱が一部であるが残存していた」という。そして直径だけでなく長さも二〇メートルを超えるクリの巨木であったと説明される。その裏付けとなるような土木工学的な調査が行われたという。それは、土の密度や支持力を調べることで、巨大木柱をささえていたその下層の地耐力を「標準貫入試験」という方法で分析したという。一九九五年にボーリング調査が行われた結果、地耐力はかって一㎡あたり六ないし一〇トンの荷重がかかっていた。「これらから木柱の直径を平均一mとすると、最小で一四m、最大で二三mの高さの木柱が立っていた可能性」と記している。ここでは「平均一m」となっているが、それならば六本柱のいずれかの直径は一mを越えていたということになるのではないか。  
 さらに、平均八一㎝と一mではその数値計算におおきな誤差が生まれるのではないか。また、この地耐力検査は、周辺の大きな木柱のあったところでも、比較サンプルとして実施されたのであろうか。これらの点に関しても三内丸山遺跡センターに問い合わせたところ、行っていないとの返事であった。比較することもなく、どうして妥当な数値と言えるのか。そもそも四千年あまりも前の地層の地質を現代の建築物の耐震の判断と同じように考えるのは無理ではないか。この調査は直径一mの六本柱を二〇mもの巨木で屹立していたことにするまやかしではなかろうか。

 【3】巨木が2度傾いていた「内転び」とする解釈

 復元されている六本柱は、実はよく見ると垂直に立てられているのではなく、すべて傾斜させて立てているのである。現地ではなく写真などでしか知らないものには言われないと気が付かないことだが、ではなぜ傾けているのであろう。

 先ほどの地耐力に続いて、木材の設置方法についての説明がされている。「木材そのものは互いに向かい合うように少し傾き(内転び)、柱穴に木柱が入る位置は柱穴の中央ではなく、北側の列は北壁に接するように、南側の列は南壁に接するように固定されていた」とあり、さらに四五一頁には「内側へ2度弱ほど傾斜」で「内転びともいえるような工法」と記されている。岡田康博氏は自著(注1)でも「ひとつの柱穴(ピット2のこと)に二カ月以上要する調査を行い、結局わずかではあるがお互い向かい合ったように傾いている、内転びと判断した」と述べておられる。私はこの点についても、この「二か月以上」の調査の具体的にわかる記載、例えばどのように角度を計測したのかなどの説明された報告書はどれのことか問い合わせたが、該当する報告書は不明との回答であった。つまり報告書にはないということだ。この点については、遺跡復元プロジェクトの大林組が判断したもののようだが、この点を大林組に尋ねると発掘担当者の同意のもとに判断したとのことだ。遺跡センターの説明では青森県の発掘調査報告書は自前で調査したものを記載し、他組織の分析事例は、基本的に記載しません(業務委託をしたものを除く)、との少し妙な回答であった。四千年以上も前の巨木の根元に近い部分が、数学上の円柱のように底面から垂直に立ち上がる形状をしているなどとはありえないことだ。残存していた高さが五〇㎝ほどの木柱を見てもどうやって2度傾斜の判断をしたというのか。

 そもそも内転びという技法が縄文時代にあったとは考えられないが、どうしてこのような説明をされたのか。この傾斜する木柱から、これは高層の構造物を安定的に支えるためであり、構造物のない木柱だけが直立する復元案を否定するものと考えられたのではなかろうか。縄文研究ではお馴染みの小林達雄氏は、建物ではなく、巨木だけが直立するものとの自説を強く唱えられていたからであろう。

 既に他の縄文遺跡では、巨大な柱穴と残存痕から、直立の木柱だけを建てた復元が石川県の真脇遺跡などにある。だいたい、柱穴は出土していても、地上にどのような構造物があるのかは誰もわからないのである。そして、信州には縄文からの祭りの名残ではないかともいわれる諏訪の御柱(おんばしら)の事例もあり、柱だけを直立させていた可能性が窺えるのである。一方で福島県宮畑遺跡では巨木の柱穴に掘立柱建物の復元がされているが、これについてはあとで記したい。

 先の朝日新聞の記事には「建造物であれば吉野ケ里遺跡より二千数百年古い時代に、規模で吉野ケ里の楼閣をしのぐ、高さ二〇mを越える大きなものであった可能性が出ているという」とある。これは記者が岡田氏などに取材しての内容であり、記者が自分の吉野ヶ里に関しての知識などから判断して書いたものではなかろう。これは多少のリップサービスがあったとしても、岡田氏自身が吉野ケ里の楼閣(物見櫓)を越えるものを想定していたのではないか。すなわちこの六本柱は単なる直立の柱ではなく、高さで吉野ケ里を越えなければならない構造物であったとしたい願望から、直径を一mにし、内転びや地耐力調査を利用したのではないだろうか。この願望は、本人だけでなく、観光目的による行政からの強い意向もあってのことかと思われる。

 【4】復元されたクリの巨木の疑問

 復元された木柱は、当然発掘されたクリと同種の材木が使われている、と思われている。私もそのように思っていた。ところが、現在の日本には、直径一mものクリの木で高さが二〇mになるものは容易に確保できないのであった。クリの巨木は各地に見ることが出来るが、それは、杉の木のように直立したものではなく、ねじれたり途中で枝分かれしているのである。クリの木は耐久性にすぐれ、枕木や建物の土台に使われるが、高層の柱になることはない。そのため海外に求めることとし、ロシアのソチから「ヨーロッパグリ」が輸入されたという。お値段は一本千百万円という。驚きの価格だが、それでも平城京本殿の復元に使われた檜は一本二千五百万円という。何本使われたのか知らないが、六本柱の木は半額以下でお安いのかもしれない。さらに奇妙なことがある。

 岡田康博氏のブログ「縄文悠々学」の二〇一〇年の記事に「先日、三内丸山遺跡に復元されている大型掘立柱建物の太い柱が腐食しているとの報道がありました」とあるのだ。復元されて一四年目のことだ。高価なクリの木が、そんなに早く腐るのか。これに関しては、青森県会議員がブログでこの点について疑問を呈している。ロシアの木材が本当にクリであったのか、柔らかいナラの木ではなかったかというのである。(注6)クリの木ではなかったのなら早期の腐食も理解できるが、結論は不明のままだ。世界にも真っ直ぐなクリの巨木はなかったということではないか。これが縄文時代の日本にはあったとは、とても言えないであろう。しかも、そのロシアのヨーロッパグリも、高さ二〇mを越える理想的な巨木はなかったようで、実際の復元では高さ一五mとなっている。次に同じような巨大木柱跡が出土して話題となった福島県宮畑遺跡の復元の場合をみることにする

   宮畑

【5】巨木を柱にした建物を復元した宮畑遺跡

 一九九八年に巨大柱穴跡が確認された宮畑遺跡は、検出された住居の半数ほどが意図して焼かれていたという謎をもつものであった。多数検出された竪穴住居以外にも掘立柱建物跡もあって、その中に直径九〇㎝の柱痕があった。そこに高さが七mほどで高床一段の壁のない吹きさらしに屋根を付けた掘立柱建物が復元されている。使われたクリの木は樹齢百六年のものとのこと。それが使われた柱をよく見ると、整った円柱状の柱ではなく、ふくらみや歪みが見られるものであった。(注7)これがクリの巨木の実体を示しているのではないか。いくら直径が大きくても、だからといって高層の楼閣のようなものを想定するのは無理なのである。このような材木の形状から2度もの傾斜が判断つくのかも疑問となろう。さらに二〇mあまりの巨木を縄文人がどのように立てたのかについても合理的な説明はできていない。この点で、宮畑遺跡の建物の復元は無難なものかもしれない。

 実は、三内丸山では六本柱だけでなく、別の箇所より、直径八五㎝の柱痕が見つかっているのである。(注8)これは六本柱と同格のものであるにもかかわらず、重視されずに、他の掘立柱建物跡と同じ扱いにされて、特記されることもないというのも不思議である。

   真脇チカモリ

【6】石川県真脇遺跡の木柱列は寄木で一本の柱をつくった。

 真脇遺跡の場合は、縄文晩期の環状木柱列で、直径約七mの真円配置に十本の柱が立ち、残存する木柱痕の幅は六八~九八㎝で蒲鉾状に半割にされていたという。使用したクリの木の直径は一mを越えている。このようなクリの木は入手困難なため、六〇㎝前後の栗木を使い寄木し、出土した木柱根に合わせて柱の長さは七mとした。寄木は木造船制作の技術で、接着剤を使うものであり縄文時代にはありえない。これは高さに無理があっての復元であった。同じ石川県のチカモリ遺跡では、復元されたのは高さ一mほどのもので、これこそ縄文時代当時の復元に妥当なものであったかもしれない。こういったところからも、栗の木での復元には大きな問題が内在していることを物語っているのである。

 【7】吉野ケ里遺跡の物見やぐらの柱穴のサイズも虚構だった。

 先にもふれたように六本柱の復元にあたって意識したと思われる吉野ケ里遺跡の楼閣、物見やぐらについても問題があった。佐原真氏は以下のように述べている。(注9)「柱の痕跡は残っていなかった。沢村仁さんは『現地の調査員に聞くと直径二五㎝ほどだという。それなのに復元された建物の柱の直径は五〇センチもあった。』と書いている。しかし七田忠昭さん(吉野ケ里調査担当)に改めて確かめたところ、この数値は、外壕の外にあった倉の柱のもので、物見やぐらの柱の太さは、やはり分からなかった、ということである。」そして、他の事例から直径六〇㎝と「判断」したというのだ。この物見櫓そのものも、都合のいいように柱のサイズを想定して作られた虚構の復元であった。それに対抗心?をもって吉野ケ里の物見櫓の高さ一二mを越えんが為に、直径一mで高さ一五mのクリの巨木の高層建築物を創造したのである。これは、虚構に虚構を重ねたものと言わざるを得ない。

まとめ

 以上のように、直径一mでの地耐力調査の疑問、傾斜2度という謎の測定、栗の木に二〇mで柱に使える巨木の存在の困難さ、さらには他の遺跡の復元事例といったことから、きわめて無理のある復元であることを説明した。巨大柱穴が発見された当初は、その高層の建物の姿、用途について様々な意見が交わされた。魚群や潮目、来訪者を監視する物見説、国見を行う望楼説、祭祀のための高楼説に天文台説、司馬遼太郎氏の灯台説も注目されるなど盛り上がったのであるが、そもそもの高層の巨大木柱の構造物という大前提がミスリードされたものであったのだ。世界遺産になった縄文遺跡の中で、特に六本柱の建造物はシンボルともいうような存在として、メディアにもよく掲載されている。一般人だけでなく世界中の古代史を研究する人びとが、これを実際に存在したものと受け止め、各自の研究の判断材料にされる、といったことのないように願うものである。とにかく、これに限らず古代史の復元は問題が多くあり、はなから信じるのではなく冷静に見ていくことが重要であろう。


注1.岡田康博『日本の遺跡48三内丸山遺跡改訂版』同成社2021

注2.国松俊英『いまよみがえる縄文の都』佼成出版社 1996125日第1

注3.青森県教育委員会『三内丸山遺跡34掘立柱建物編』平成19年度

注4.三内丸山遺跡センター『特別史跡三内丸山遺跡研究紀要3』令和3年度

注5.青森県史編纂考古部会編集『青森県史別編三内丸山遺跡』平成143

注6.哘清悦『子孫のために美田をのこすブログ』ブログ記事

注7.福島市公式ユーチューブ「ジョーモピア宮畑」より

注8. 岡田康博『日本の遺跡48三内丸山遺跡改訂版』同成社2021 「199211月中期の直径85cmのクリの巨木を使った大型掘立柱建物跡が発見された」とある。

注9.佐原真『吉野ケ里と三内丸山 物見やぐらと空想建物』月刊考古学ジャーナル417.1997

 

参考 

佐々木藤雄『北の文明・南の文明-虚構の中の縄文時代集落論-第1回目』ブログ記事

鈴木克彦『考古学倫理を考える』2018 自主出版

 

以下参考図 六本柱柱穴柱痕データー

三内丸山ピット

※この記事は、古田史学会報№175(2023.4)掲載を一部改定したものです。 

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