流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2023年09月

消された天皇

 古事記の下巻の仁徳記の前に、次のような記述がある。 
    起大雀皇帝盡豐御食炊屋比賣命凡十九天皇 
 仁徳(オホサザキノスメラミコト)から推古(トヨミケカシキヤヒメノミコト)まで十九の天皇、だとされている。ところが、実際の記事は十八代で一人少ないのである。これについては、履中天皇の孫の飯豊(イヒトヨ)が顕宗天皇の即位するまで、天皇だったのではないかと言われている。   
    五年春正月、白髮天皇崩。是月、皇太子億計王、與天皇讓位、久而不處。由是、天皇姉飯豐靑皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、自稱忍海飯豐靑尊
  即位前の顕宗(弘計ヲケ)と仁賢(億計オケ)が譲り合ったために、飯豊が臨朝秉政(みかどまつりごと)とある。天皇の代行ということで、正式に天皇に即位したとは書かれていない。そもそも、当初は天皇だったが、あとから天皇という記述にはしなかったという理由もわからない。天皇という表記は消されたのであろうか。
 消された天皇の候補は他にもいる。それはこの飯豊と兄弟である弘計(ヲケ)・億計(オケ)の父親である市邊押磐(イチノヘノオシハ)である。彼は履中天皇の子であり、妹の飯豊は天皇の代行を務め、息子の弘計・億計は二人とも天皇に即位している。本来ならば天皇になってもおかしくないが、雄略天皇に狩りの場で弓矢で射殺されてしまう。その際、二人の兄弟は、播磨国に逃げる。後に山部連小楯(ヤマベノムラジヲダテ)が宴の席で見つけることになるのだが、その場で弟の顕宗(ヲケ)は次のように唄う。
      於市邊宮治天下 天萬國萬押磐尊御裔 僕是也 
   自分の父であるイチノヘノオシハが治天下(あめのしたしらしし)としているのである。これが消されたもう 一人の天皇ではなかったか。即位前の雄略が天皇を殺したとあるのは具合悪いので、後の編集で天皇であること を消した可能性がある。なお、播磨国風土記には「市辺天皇命」とあり、そのものずばりである。 
 まだ、ほかに気になる人物がいる。菟道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)は、早くに応神天皇から日嗣の指名をされている。そして、太子となって活躍したようで、応神二十八年には、高麗の朝貢の上表文の表現に怒って、破り捨てるという逸話も記されている。だが、応神亡き後に、大鷦鷯(オホサザキ・仁徳)と皇位を譲り合い、急死してしまう。実際には、在位していた可能性も見えてくるのではないか。

 以上のようなことからも、古事記や日本書紀の万世一系という神武から持統までの皇統という記述には、いろいろと編集されている状況が見え隠れしていると考えられるのである。

九州年号一覧表を掲示

◇九州年号一覧表   (倭国年号とも表記) 
 701年からの大和朝廷の「大宝」以前の517年より、九州王朝によって作られた年号。 

 九州年号については、後世の偽作といった論調がありますが、例えば聖武天皇は神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、 「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」(続日本紀と紛れもなく九州年号にふれられている。この聖武天皇の言葉を無視していいのでしょうか?

・日本書紀では、「大化」(50年繰り上げて記載)「白雉」(2年繰り上げて記載)「朱鳥」(元年のみ記載で九州年号朱鳥と同一年)以上三つがあり、表では天皇の紀年と同列に記載した。

・年号の訓みは、その多くは推測であることをお断りしておく。

 また九州年号とは別に以下の年号がある。

・「法興」:591622「法皇」としての法号で、多利思北孤一人に属する「法号」を用いた仏教上の年紀で、「大王」としての年紀である九州年号とは「住み分け」されていた。(正木裕)

 法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(六二一年)とある。

・「聖徳」:629634 法興年と同様に利歌彌多弗利の法号年紀と考えられる。

・「中元」:668671 九州王朝の系列の近江王朝の立てた年号。天智七年戊辰(六六八)の天智「即位」年を元年とし、「崩御」する天智十年(六七一)まで四年間続くもので「天智の年号」と考えられる。
・「大長」も詳細は不明。
     ※図は画面では少し不鮮明ですので、クリックして御覧ください。

九州年号一覧


    
            









狭穂彦王のセリフ、「枕を高くして百年を終える」という現代語訳の疑問 不自然な年数のある説話も、二倍年暦で自然に理解できる。(その3)

3. 狭穂彦王のセリフ、「枕を高くして百年を終える」という現代語訳の疑問  
 次は、日本書紀の垂仁天皇紀の狭穂彦王と妹の狭穂姫が、天皇殺害を企てるも果たせずに自分たちの身を亡ぼすという顛末の説話。妹に対して、狭穂彦王の次のような台詞がある。
  「必與汝照臨天下、則高枕而永終百年、亦不快乎」
 垂仁天皇の后で自分の妹である狭穂姫に、狭穂彦王は「お前と一緒に天下に臨むことができる。枕を高くして百年でもいられるのは快いことではないか」(宇治谷孟現代語訳岩波文庫)と天皇暗殺をせまるセリフがある。しかし百年もいられるとはどうでしょうか。もし妹が上沼恵美子のような女性なら、「あんたぁ!いつまで生きる気やねん」と突っ込まれるでしょう。さらに小学館日本古典文学全集の現代語訳でも、「必ずお前とともに、天下に君臨できるならば、枕を高くして、長らく百年も時を過ごすことも、また快いことではないか」とあるように、百年という時間を過ごすというセリフになっているが、それはちょっとありえないのでは。この場面は兄妹で謀議を図るたいへんシリアスな場面であり、冗談が入る余地のないところだ。
 この百年は二倍年暦と考えられるかもしれない。実際は五十年とすることが適切と言える。あと五十年、枕を高くして寝よう、ということではないか。ただ、自分たちの余命を台詞とするのはどうもしっくりいかない気もする。他に二倍年暦で単純に考えられないのではないかという事例がある。
 この「百年」は、日本書紀ではもう一カ所登場する。それは天武の台詞で、壬申の乱となる挙兵を決意した際に次のような言葉がある。 
 「獨治病全身永終百年」 
 岩波の現代語訳では、「ひとりで療養に努め、天命を全うしようと思ったからである。」と百年を天命と意訳されている。小学館でも「病を治して健康になり、天寿を全うしようとしたからにすぎない」とここでは百年は天寿の意味とされている。百年が人間の一生を表す言葉として使われ、しっくりくる意訳となっている。同じような例が、三国志にもあった。
 「魂而有霊,吾百年之後何恨哉」(三国志・魏書一・武帝紀)
 曹操の台詞だが、現代語訳として「霊魂というものが存在するならば、わしの死せるのちもなんの思い残すことがあろうか」(『正史三国志』今鷹真・井波律子訳 筑摩書房)と、この百年が寿命の意味に使われている。
  そうすると狭穂彦のセリフも枕を高くして百年生きよう、という意味でなく、残りの人生を安心してすごそう、という意訳のほうが現実的と考えられるのではないか。
 訳された方が、天武の場合は百年を人生という意味で解釈されているのに、どうして狭穂彦の台詞は年数を表す百年とされたのかはよくわからないが、この場合も残りの人生といった意味の台詞にした方が良かったといえる。また古語としての「百」にはたくさん、といった意味でも使われている。残りの人生という言い方は、やや否定的にも感じられるので、多くの時間を有意義にすごそう、といった意味合いにしてもいいかもしれない。
 では、ここでは二倍年暦は全く関係ないのであろうか。現代は、保険会社などのキャッチコピーで、人生百年時代とよく言われている。しかし、古代の場合は長寿もいたであろうが、多くは百年も生きられなかったであろう。当時は五十年が寿命の目安と考えられ、それが二倍年暦で百年となるので、そのまま百年が人生の意味になった、とは考えられないか。わずかな可能性を残しておきたい。

三十年も泣いてばかりいる誉津別命(ホムツワケノミコト)  不自然な年数のある説話も、二倍年暦で自然に理解できる。(その2)

 2. 三十年も泣いてばかりいる誉津別命
  日本書紀の垂仁天皇二十三年秋九月の記事。天皇暗殺をもくろんだ狭穂彦(サホヒコ)の妹で垂仁天皇の皇后である狭穂媛が生んだ皇子の誉津別命は、三〇歳にもなっているのに髯も長いのに泣いてばかりいてしゃべれない。困った天皇が配下の者に解決策を問うのだが、ある日皇子は白鳥を見て言葉を発したことから、その白鳥を捕らえ遊び相手にするとしゃべれるようになったというお話。しかし、いくらなんでも天皇は息子が30歳になるまでじっと待っていたのであろうか?だいたいその歳で泣いてばかりでしゃべれないというなら、あきらめて彼に世話をするものを付けて、適当なところに幽閉してしまうのではないか。しかしこの疑問も次のように考えられる。三〇歳は年齢が立ちすぎており、これを二倍年暦だとすると十五歳となる。この歳なら髭も生えてくる。またこの記事は垂仁紀二十三年の記事であるのだが、そうすると子供が三〇歳だということになると垂仁天皇が皇位につく7年も前に生まれたことになるが、実際は皇位についてからの誕生となるので辻褄は合う。古代では成人儀礼は15歳前後であろうと考えられるので、息子の成人儀礼を控えてなんとかしたいと天皇は苦慮したということであろう。

 不自然な年齢、年数も二倍年暦で理解できるが、なかには、微妙なケースもある。(つづく)

 

天皇の言葉を信じて八十年も待った女性の説話の意味  不自然な年数のある説話も、二倍年暦で自然に理解できる。(その1)

 古事記や日本書紀では、天皇の年齢が百歳を超えるといった記述がいくつもあり、古代の天皇は長寿だったのか、などと言われますが、それはありえないといえるでしょう。これも魏志倭人伝の記事と同様に、古田武彦氏の提唱された二倍年暦とすると不自然な年齢ではなくなります。ところが、これがなかなか受け入れられず、無視されたまま、辻褄が合わないような、無理な解釈がされ続けている。
 例えば、天皇の年齢以外にも次のような説明がある。林屋辰三郎氏の「日本史探訪」(角川書店1975)では、「日本書紀で見る限り、景行天皇は六〇年間にわたってたいへんな勢いで国の統一をやるわけです。」60年も各地の制圧に奮闘されたというのは、事実ならかなりエネルギッシュな天皇といえるが、それはとても考えにくいことだ。これも60年は二倍にされたものなので、実際は30年とすれば無理なことではない。
 このように、二倍年暦と考えたほうが不自然でなくなる説話が記紀にはいくつも存在している。

⒈古事記の雄略天皇の赤猪子の説話
 雄略天皇は三輪川での遊行の際に、川で洗濯をしていた赤猪子(アカヰコ)という美しい少女を見初めます。そして「ほかの男に嫁がないように。今に宮へ招くから」と声をかける。その少女はじっと召されるのを待っていたのだが、とうとう八十年たってしまう。その女性はもはや召されることはないとあきらめますが、これまでの待ち続けた気持ちを天皇に伝えたいと思い、直接宮中に参上し、天皇に説明します。すっかり忘れてしまっていた天皇は、おわびにたくさんの品々を賜ったというお話です。なんとも罪作りな天皇ですが、その言葉を信じて待ち続けた赤猪子にも感心します。しかし、八十年も待つとはちょっとおかしくないでしょうか。
 この箇所に関して、次田真幸氏の全訳注『古事記』(講談社学術文庫)では次のような解説がされています。
「ここで八十年待ったとあるが、八十年とはまたおそろしく長い年月待ったものだと思う。赤猪子はすくなくとも九十何歳かになっているし天皇も同じく年をとるわけで、百歳あまりであろうか。とするとむしろ滑稽で、この八十というのは、八十神(ヤソガミ)、八十氏人(ヤソウジビト)、八十伴緒(ヤソトモノオ)、八十島、八十隈、八十日、八十国というような、数の多いことを表現するための言葉で、数学的な実数を表したものではないのであろう。」
 実に滑稽な解釈ではないか。これを二倍年暦で、半分の年数でみると10歳の頃に声を掛けられて、40年待って50歳の頃に天皇に会いに行く。その天皇も20歳頃に声をかけたとすると60歳であり、不自然なことにはならない。まあ、しかし、それでも40年待ったというのは長すぎであり、やや誇張のはいったお話かもしれない。
 二倍年暦でとらえれば不自然でなくなる説話を、他にも紹介したい。(続く)

f字型鏡板付轡+剣菱形杏葉の馬具セットの出現

馬f字轡

  古墳時代の馬具の研究が着々と進んできている。ある研究者は三燕初期(前燕337-370年)の鑣轡(ひょうくつわ)や装飾金具が間髪を入れず、四世紀前半の半島南端に到達したことに驚かされるという。馬文化が列島に入るラインが早くに出来ていたようだ。
  桃崎祐輔氏は各地の馬具類などの出土品や遺構の分析から、「従来、その導入契機は好太王碑に記す高句麗好太王軍に対する敗戦と考えられてきたが、論証は困難である。当初から舶載鏡板付轡・環板轡を上位とし、鑣轡を下位とする大まかな階層差が窺えるが、どの馬具も類例が乏しく、規格性が窺えない。一方、鑣轡と鍛冶具の共伴は、馬具導入の当初からの、鑣轡や鞍・鐙の生産を物語る。騎馬技術の王権による独占は認められず、全国の有力首長に、騎馬・馬飼・馬具制作技術を持つ渡来系集団の分配を余儀なくされる状況が推定される。・・・・・ところが五世紀中葉以降は状況が変化する。・・・f字型鏡板付轡+剣菱形杏葉のセットが出現し、・・・同一形状馬具の素材差は、騎馬武人の階層的編成を物語」るとされている。その担い手の中枢部を近畿であろうヤマトとされるのは残念だが。古代の馬と言えば河内の牧が筆頭に挙げられるが、実は同時期に長野県伊那地方でも飼育が始まり、連続して甲斐や群馬にまで広がっているのだ。写真の長野県佐久市の馬埴輪には、やや誇張されているが、f字形の鏡板付轡をはめられた様子がしっかり表現されている。馬の導入時に多元的な展開があり、途中から王権による推進の傾向がみられる。
  柴田博子氏は継体紀の筑紫国の馬の記事や欽明紀の馬の供与記事、仁徳紀の田島が精騎連ねて新羅軍を撃った、などいくつも挙げて、馬に関して九州島はきわめて重要な拠点であったはずだと述べている。筑紫馬飼に着目する研究者もいる。馬具に関する研究がすすむほど、近畿中心史観ではなく、多元的にとらえる歴史観が必要となるのではないだろうか。

参考文献
桃崎祐輔「日本列島における馬匹と馬具の受容」川尻秋生編「馬と古代社会」八木書店 2021
柴田博子「古代の九州と馬」  々 

馬の犠牲は文化の受容では説明できないのでは?

 
馬犠牲
 日本には馬を去勢する習慣がなかったから騎馬民族は来なかったという主張は、去勢をしない習慣であった北方民族の存在からも成り立たないのである。逆に、馬の犠牲行為が馬の導入とともに早くから行われていることが、多数の騎馬遊牧民の移住を示していると考えられないだろうか。
 千葉県佐倉市大作(おおさく)31号墳では、馬の首が一刀両断にされて埋葬されているという。こういった事例は数多く確認できるという。馬の飼育開始と同時に、馬の犠牲埋葬も行っていると考えられる。だが、ここでふと思うことがある。初めて馬の飼育を学んだ農耕民だった人たちが、犠牲のやり方も学んだのだろうかと。 
 白石太一郎氏を筆頭に、騎馬民族説の再評価という点での説明がされている。(こちら)それはあくまで日本側が、渡来人から騎馬文化を受容したのだと繰り返されている。しかし、はじめて伝授された側は、王の埋葬の為に生贄の用意を指示されて、なんのためらいもなく、手塩にかけて愛着を持って育てた馬の首をスパッと切り落とせるであろうか。生贄という行為も受容したのであろうか。これは馬とともに暮らしてきた人々のなかで生まれた信仰による文化的土壌の中でできることではないか。大陸では千年以上の馬犠牲行為の伝統がある。馬の生育から騎馬としての活用、そして信仰上の行為も含めた騎馬文化は、日本に移住してきた集団とその末裔たちによって持ち込まれて、継続して行われた文化と見なければならないのではないか。
 先にふれた(こちら)山口博氏によるスサノオの奇妙なふるまいの説明にあるように、馬の皮を剥いで天井の穴から投げ入れる、という行為が在地の人には乱暴狼藉の行為としか見られなかったことも、新たにやって来た集団の習慣であったことを示すことになるのではないか。文化の受容では、馬犠牲の説明はできないのではないだろうか。

去勢の有無で騎馬民族は否定できない。司馬遼太郎氏に一本とられた佐原真氏

大日山古墳埴輪

 佐原氏の『騎馬民族は来なかった』では、騎馬民族説の江上波夫氏に、馬の去勢の有無で反撃を試みている。秦始皇帝陵の馬俑は去勢を示す形状になっており、東アルタイパジリク古墳の殉葬馬も六十九頭完全に去勢であったという。確かに、日本では去勢の慣習はない。その例として秀吉と摂津丹生(にふ)山の淡河弾正(おうがのだんじょう)との一戦で五百余の騎馬に対し、五、六十匹のメス馬が放たれ、それによって豊臣軍のオス馬は興奮し混乱して敗北を喫するという話が紹介される。確かに面白い歴史エピソードだが、これが騎馬民族説の否定につながるのだろうか。佐原氏は騎馬民族の習慣などを具体的に述べて、特に日本に馬の去勢をする習慣のないことが決定的と言いたいのだろう。後に司馬遼太郎氏は佐原との対談で、「もし江上さんの説がツングースというか、旧満州にいた騎馬の狩猟半農民だったらどうでしょう。モンゴル人からちょっと下に見られているツングースが日本に来たとしたら別ですな。去勢もしていない・・・」と述べておられる。さすが、オホーツクなど北方文化をよく見聞されているゆえの鋭い指摘だ。
 何故、日本に持ち込まれた馬には去勢がされなかったのか。そもそも大陸では野生馬が存在していたが日本ではゼロからのスタートだ。そこに困難の付きまとう船での運搬で少数の貴重な仔馬や成馬が運ばれる。とにかく早く育てて増やす必要があったのだ。とても去勢などさせられない。仔馬の輸入や牧場の開拓が各地で進み、一定の期間で多数の馬が飼育されるようになったにちがいない。日本書紀の顕宗紀二年十月には「馬、野に被(ほどこ)れり」(馬は野にはびこった)との記事があり、正確な年代は不明だがおよそ5世紀の後半には各地で繁殖がすすみだしたのだろう。さらに司馬氏の指摘にあるように去勢にこだわらない民族の存在もあったと考えられる。後に本人も認めたようだが、去勢の有無で、騎馬民族の存在の有無を判断はできないのである。
 もちろん佐原氏の『騎馬民族は来なかった』は、絵馬なども含めた、様々な馬にまつわる事例紹介や、内臓占い、血を飲む民俗習慣など興味深い話題が多くあることを、付け加えておきたい。

 参考文献
『騎馬民族は来なかった』佐原真 日本放送出版協会1993
『騎馬民族の道はるか 高句麗古墳がいま語るもの』森浩一 日本放送出版協会1994