2023年09月
◇九州年号一覧表 (倭国年号とも表記)
701年からの大和朝廷の「大宝」以前の517年より、九州王朝によって作られた年号。
九州年号については、後世の偽作といった論調がありますが、例えば聖武天皇は神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、 「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」(続日本紀) と紛れもなく九州年号にふれられている。この聖武天皇の言葉を無視していいのでしょうか?
・日本書紀では、「大化」(50年繰り上げて記載)「白雉」(2年繰り上げて記載)「朱鳥」(元年のみ記載で九州年号朱鳥と同一年)以上の三つがあり、表では天皇の紀年と同列に記載した。
・年号の訓みは、その多くは推測であることをお断りしておく。
また九州年号とは別に以下の年号がある。
・「法興」:591~622「法皇」としての法号で、多利思北孤一人に属する「法号」を用いた仏教上の年紀で、「大王」としての年紀である九州年号とは「住み分け」されていた。(正木裕)
法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(六二一年)とある。
・「聖徳」:629~634 法興年と同様に利歌彌多弗利の法号年紀と考えられる。
・「中元」:668~671 九州王朝の系列の近江王朝の立てた年号。天智七年戊辰(六六八)の天智「即位」年を元年とし、「崩御」する天智十年(六七一)まで四年間続くもので「天智の年号」と考えられる。
・「大長」も詳細は不明。
※図は画面では少し不鮮明ですので、クリックして御覧ください。
日本書紀の垂仁天皇二十三年秋九月の記事。天皇暗殺をもくろんだ狭穂彦(サホヒコ)の妹で垂仁天皇の皇后である狭穂媛が生んだ皇子の誉津別命は、三〇歳にもなっているのに髯も長いのに泣いてばかりいてしゃべれない。困った天皇が配下の者に解決策を問うのだが、ある日皇子は白鳥を見て言葉を発したことから、その白鳥を捕らえ遊び相手にするとしゃべれるようになったというお話。しかし、いくらなんでも天皇は息子が30歳になるまでじっと待っていたのであろうか?だいたいその歳で泣いてばかりでしゃべれないというなら、あきらめて彼に世話をするものを付けて、適当なところに幽閉してしまうのではないか。しかしこの疑問も次のように考えられる。三〇歳は年齢が立ちすぎており、これを二倍年暦だとすると十五歳となる。この歳なら髭も生えてくる。またこの記事は垂仁紀二十三年の記事であるのだが、そうすると子供が三〇歳だということになると垂仁天皇が皇位につく7年も前に生まれたことになるが、実際は皇位についてからの誕生となるので辻褄は合う。古代では成人儀礼は15歳前後であろうと考えられるので、息子の成人儀礼を控えてなんとかしたいと天皇は苦慮したということであろう。
不自然な年齢、年数も二倍年暦で理解できるが、なかには、微妙なケースもある。(つづく)
流沙の古代
歴史の定説の疑問に思うところを記していきます。多元的な見方、大陸からの影響といった視点で古代史を見ていきます。
京都出身
ヒデチャコ