以下は、文献の引用と若干のコメント。
『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』日本考古学協会編 雄山閣2018
『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』日本考古学協会編 雄山閣2018
「騎馬民族説はどうなったのか
戦後、江上波夫(東洋考古学者)の日本の国家形成に関する学説
古くは中央ユーラシアに源を発した遊牧騎馬民族のうち、東アジアで高句麗を打ち立てた北方ツングース系扶余族が半島に南下して支配を広げ、4世紀には九州に到来、5世紀には近畿に入って在来の勢力を圧倒し、それと合同しながら征服王朝をつくったことが日本国家の起源となった。
騎馬民族征服王朝説。この説の本質は機動的な遊牧集団が、定着的な農耕集団を征服することによって、国家や王朝を生み出すという、国家形成のパターンとして古典的に受け入れられたシナリオを、日本にも当てはめようとした点にある。
『騎馬民族』の物証とした馬具などの大陸系文物も、列島と朝鮮半島との交渉の中で授受されたり、「渡来人」によってもたらされたりなど、彼我の人々の主体的な行為選択の結果と理解されるようになった。
このような理解の一例として、白石太一郎は、この時期に馬具や馬埋葬などの文物や習俗が日本列島に姿を現したのは4世紀後半に本格化した高句麗の南下政策に対抗してそこと敵対する百済や加耶諸国の援助を受けながら、倭の政権が取り組んだ騎馬関連技術の充実策の結果にほかならない。
現在の古墳時代研究では、こうした考え方が騎馬民族説を受けての穏当な理解とされる。」
↑↑ 昨今の馬具や関係する文物の出土に、無視することはできなくなったが、それでも、あくまで文化の受容という『穏当な』解釈なのである。
これについては、早くから批判がある。
江上波夫『騎馬民族は来た!?来ない?!』小学館1990
「国際関係がますます世界的になり、経済・文化が一国単位では全く成り立たなくなった現代、世界の歴史を科学的に説明できる時代になってなお、日本一国中心主義で考えていくというのは、やはり一種の皇国史観。皇国史観は悪い悪いといいながら、実際には皇国史観を執っている。自ら狭く封鎖した日本だけで歴史を解決しようというのですから、国史の学者がそれをするならまだわかるが、唯物史観を世界に普遍的な歴史理論観として唱える人が、それではおかしいと思ったのです。
東アジアの中の日本を説きだしたが、・・・・その場合も日本があくまで主体、周辺から文物を自主的に摂取したという立場。」
↑↑ 30年以上前の指摘だ。
上田正昭『古代の祭式と思想』中西進編 角川選書1991
「日本の学界は、渡来の文化は認めます。だけど渡来集団は認めない」「人間不在の文化論はおかしいではないか。多紐細文鏡は中国にない。遼寧省や吉林省、北朝鮮でも鋳型が出土している。鏡だけが海を渡って流れ着いたわけではない。」 ※多紐細文鏡は、鏡背面の文様が幾何学文で,2~3個の鈕をもつ銅鏡
↑↑ 文化・知識は伝達されたが、集団の移住は認めないのだ。
「騎馬民族王朝征服説」という名称は、やはり誤解も招きやすい。騎馬民族だけが列島にやってきたわけではないし、大陸には騎馬民や遊牧民の様々な集団がいたのだが、かといって適切な言葉が浮かばないので、仮に「騎馬遊牧民移住説」とでもしておきたい。この場合も、王朝への関りが全くないわけではなく、集団の中には、当時の王権、政治体制に、深く関係する人たちもいたと考えたい。