流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

古代大和史研究会主催 講演会 2024.12/24(火)13:30~16:30
会場:浄照寺(奈良県磯城郡田原本町茶町584)近鉄田原本駅から東に徒歩5分
「天皇はいつから天皇になったのか」服部静尚氏
「聖徳太子の半島出兵は無かった」正木裕氏
「大国主が落ちた穴と宇陀の血原の本当の意味」大原重雄  参加費は500円(資料代)です。お気軽にご参加ください。

迫力があってわかりやすい、観音塚考古資料館の展示パネル

 
並ぶパネル
 群馬県高崎市観音塚考古資料館の展示の様子。巨大パネルが連なった圧巻の展示ディスプレイです。
観音塚kパネル

 観音塚古墳は石室そのものは、あの巨大な墳丘を持つ奈良県見瀬丸山古墳を少し小さくしたものではあるが、たいへん立派な巨石が使われた石室を見に行ったのですが、蚊の襲来でそそくさと引き上げて、資料館に足を運びました。
馬具パネル
観音鞍金具
 この資料館の展示室の展示品の説明パネルに感激しました。ショーケースの始まりから端まですべて、壁面を最大限使った巨大なパネルには圧倒されます。観る者にはすごいインパクトとなって、引きつけられます。展示する側の意図、陳列品の何がすごいのか、どこを見てほしいのかが大変よくわかります。
 館長さんと少しお話が出来ましたが、この展示は、前任の女性館長さんのアイデアだとか。あまり、男女の区別はどうかと思いますが、この場合はやはり女性ならではの感性で工夫されたと言えるでしょうか。
 どこの施設の関係者のみなさんも、いろいろと工夫されているかと思いますし、予算の厳しい中、苦労を重ねておられるところが多いかと思います。見学者は、そのへんも気が付けるように見て回りたいですね。
観音巨石パネル
 通路にもいかにも手作りの巨大ポスターで、巨石をどこから運んだかがよくわかります。
 
 
鶏頭太刀

 
鶏頭柄
 銀装鶏冠頭太刀柄頭 鳥のトサカのようにも見えるが、これは扇形に広がるヤシの葉のようなパルメット文様か。
 はるか西方文化とのつながりがわかる貴重なもの。
銀装唐草

 承台(うけだい)付銅碗や豊富な馬具装飾品やなど、とにかく大陸とのつながりを実感できるものばかり。
 観音塚古墳の解説パネルに、「渡来人を配下に編成して地域経営を行った東国有数の首長像が推定できよう」とあるが、これはどうであろうか。そもそもの渡来人は、どうやって列島に渡って来たのだ。リーダーがいて、いっしょに渡来してきたのではないか。「配下に編成」するというようなことは、同じ信頼できる渡来の実力者でないとできないのではないか。よって、丸山古墳との類似から倭国王権にも関与した騎馬遊牧民の末裔のリーダーの副葬品と理解できる。首長も渡来人としてこそ説明がつくのではなかろうか。
               24.6.9

ヨロイを着けた古墳人と、縄文土器、埴輪も見ごたえありの「発掘情報館」

甲展示
 群馬県埋蔵文化財調査センターにある発掘情報館は二度目の訪問だったが、前にはなかったヨロイを着けた古墳人のレプリカの展示には驚いた。
鎧人アップ
甲足から
 渋川市の金井東裏遺跡のものだが、今まで背中のヨロイだけが姿を見せている写真しか知らなかったのだが、ここでは、その背中側のヨロイが上に持ち上げられるようにして、中の人骨の様子がリアルに見れるようになっているのだ。ひざまづいてそのまま前のめりに倒れ込んだようにして、火砕流に埋もれてしまったような状態がとてもよくわかる。鎧兜を身に着けて、怒れる火山を鎮めようと祈っていたのであろうか。
小札パンフ
 着けていた甲は、小札(こざね)甲というもので、1800枚もの鉄製小札をつなげたものというのもすごい。さらに兜と一緒に鹿角製の小札の頬当てや、鉄鉾の柄の上端に直弧文を刻んだ鹿角製の飾りも出土している。
 この小札甲については、大阪府高槻市今城塚古墳の武人埴輪とも関係しそうである。
鹿角パネル

 周辺の金井遺跡から出土している、ガラス製装飾品もその由来が気になるところである。彼は、いったいどこからやって来て、どのようなつながりを持っていたのだろうか。
土器全体

         縄文土器は、たっぷり見られます。
土器2列
引き出し石器
引き出しその2

 引き出しにも芸術的遺物がいっぱい。引き出しはたくさんあるので、わくわくしながら引っ張り出します。

埴輪集合
                埴輪も大集合!

弥生守り
              弥生の守墓神でしょうか。

 
収蔵展示
 
収蔵庫縄文
 収蔵展示室が別にあって、すべてを見せてもらえます。他の博物館もこうなったらいいんですが。
収蔵庫巫女
 勾玉の付いた首飾りの巫女さんは、首が苦しくないのかな。

とにかく、群馬に寄られたら必見の博物館です。ぜひお立ち寄りください。 2024.6.7

不思議な群馬県の八角形倉庫  伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館の八面甲倉

八面倉庫模型
 群馬には、八角形古墳が複数見られるのだが、古代の建物にも八角形がある。伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で、解説パネルと復元模型を見ることができる。
 
八面子供
 伊勢崎市三軒屋遺跡から、礎石があったと判断される柱穴と、その前にも掘立柱式の八角形倉庫が見つかったという。その周辺は、40棟以上の掘立柱建物、15棟の礎石建物が確認され、史跡上野国佐位郡正倉跡に指定された。
八面パネル
 解説によると、「上野国交替実録帳」(役人の引継ぎ文書のようなもの)の佐位郡正倉項には「八面甲倉」(はちめんこうぐら)との記述があるという。甲倉は校倉と同じ意味で、米や宝物の保管するもの。復元建物の説明には、飢饉対策の米を保管する施設とするための工夫もされたとのことだが、さて、米の保管にわざわざ八角形の建物をつくるのであろうか。直径70cmという太い柱を44本も使って礎石も据えるという建物であることから、確かにコメなどの重量物を保管するためと考えられなくもないが、それならば、ほかに倉庫と考えられる礎石建物が多数見つかっているので、そこで事足りるではないか。役所のシンボル、といった解説もされているが、それは何のためなのかはよくわからない。
 難波京の八角殿も、象徴的な建物で内裏の荘厳建築といった同様の解釈があるぐらいで、建物の性格について定まったものはないようである。また、熊本県には鞠智城があるのだが、この場合は、中心にも浅くはあるが柱穴が見つかっており、韓国の二聖(イーソン)山城との類似から、塔のような建物が想定できるので、八角形鼓楼として三階建ての建物が復元されている。これについては、中国や韓国の八角形遺構の例から、祭祀に関わる遺構(上野邦一2016)との指摘もある。
 ではこの八面甲倉はどうであろうか。やはり倉庫とかシンボルといった以上の意味、目的があったと考えていいのではないか。この群馬における渡来人集団の存在からして、韓国の八角形遺構との関係をさらに検討していただきたいと思う。

 この赤堀歴史民俗資料館では、他に、注目したい展示品がいくつもある。
鹿角埴輪赤堀

 これは、衣笠型埴輪とされているものだが、以前に取り上げたが、七支刀にもつながる鹿角をデザインしたものだ。欠損部が多いのが残念だが、大変貴重な埴輪ではないだろうか。

赤堀鶏
 赤堀茶臼山古墳の鶏型埴輪だが、出張中でパネル展示であったが、けっこうリアルな作りになっており、残念だった。またの機会に。いろいろと面白いエピソードなどのある埴輪だが、詳しくは、他のHPを見てください。

赤堀椅子
 ここでは、写真の掲示だけで、実物は東京国立博物館にある椅子型埴輪で、背面(背もたれ)から撮ったもの。直接見たいものだが東京にあるというのはなんともです。この椅子は、騎馬遊牧民の折りたたみ椅子の胡床をデザインしたものと考えられもので、今後のところで取り上げていきます。  

 縄文土器については、別項で取り上げたいと思います。


参考文献
上野邦一「鞠智城の八角形遺構について」古代学(奈良女子大学古代学学術研究センター)2016ネット掲載

岩宿博物館の誤解を招くような展示

岩宿土器

納豆自転車
 相澤忠洋氏の採集した旧石器の数々を見る事ができる。土地を自分で購入して調査を行うといったエピソード、納豆売り用の自転車の展示など、並々ならる苦労をされたことが知れる博物館だが、中には、少し気になる展示品もあって、たまたま菱形のように割れただけの自然石のような気がした。
 
D
 それは岩宿遺跡D地点のものなどが、どう見ても人が加工したように見えなかったからなのだが、そこで館内のスタッフにお聞きすると、石器ではないものもありますと返ってきた。
 4万年以前のローム層から採集されたというのだが、これは、素人が見ても加工して刃をつくったように見えないのだが。「よくわかりましたね」と、褒められて?しまったのだが、これは喜んではいられない。説明パネルには「人口品であるのかないのか評価が分かれている」と、小さく書かれているだけである。この博物館を訪れる多くの「専門外」の見学者には、この目立たない説明文に気が付かない限り、本物の石器と思って見てしまうのではないか。これらのものが、同じように展示されていていいものかと思ってしまった。しかも展示室に入った正面の展示ケースにあるのもどうであろうか。岩宿遺跡の石器の出土地層面の展示もあるが、そこには3.7万年以降のものとされている。
 
岩宿地層
 これについては、誰も何も言わないのかと思い、ネットを見ると次のような記事があった。
『史跡ナビ』というHPで、「岩宿遺跡|岩宿博物館で見る、日本列島における旧石器の変遷」 (2024/01/14  最終更新日時 :2024/01/16 跡ナビ編纂室)に以下のようにある。「岩宿遺跡でも立川ローム相当の地層よりも下から、石器と見られる石が発見されました。しかし、これは石器ではなく、石同士がぶつかってできる自然礫だと見る研究者が多く、前期旧石器時代の石器とは認められていません。このような石器は偽石器(ぎせっき)と呼ばれます。」
 そう、これは「偽石器」であろう。明治大学博物館には、青森県北津軽郡金木「遺跡」の「石器」は「偽石器」と表示して陳列されている。
 岩宿博物館は「評価が分かれている」として、展示を続けるのであれば、もう少し、見学者にわかるような解説は必要であろう。もう少し大きな字で、疑わしい石器である旨を明示すべきと思う。
 このD地点以外にも、4万年以前の地層とされるところから採集されたとするものが、約4.5万年前の桐原遺跡、山寺山遺跡、約5.5万年前の不二山遺跡などのものが展示されている。他に、権現山遺跡のものもあるが、これについては、縄文時代の石器との指摘がある一方で、あの旧石器捏造事件で毎日新聞のスクープのお膳立てをされた竹岡俊樹氏などの肯定的な意見もあるようだ。

4万年以前、より正確には3.8万年以前となる旧石器は列島に存在するのか。
旧石器一覧
 現在のところ、図にあるような遺跡で、旧石器が見つかったと言われている。この中には、岩宿遺跡、相澤氏収集のものは、記されていない。もっとも古いものは、島根県砂原遺跡の12万年前のものとのことだが、事実だとすると、人類以前の旧人類を示すものとなるのだが、どうであろう。これらのものも自然石とされる意見は多いようで、現在のところ4万年を遡る確実な資料は見られない、というのが大方の判断のようだ。研究の進展と新たな資料の発見を待つしかないようだ。

 
ツメ形
 縄文土器などの展示もあります。縄文時代初頭の草創期の爪型文土器の破片が展示されており、いかにも人の爪を押しあてた土器の破片である。他にも1階にみどり市の歴史と文化財の展示室があって、縄文土器を多数見る事ができる。
 少し不満は述べたが、ぜひお立ち寄りいただきた博物館である。
ギャオス土器
でべそ土器
                         2024.6.8訪問

群馬県西部に最初に現れたイノシシのついた縄文土器

安中イノシシアップ
 安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。
 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まるで鳥のように見えてしまう。
安中イノシシタワー
安中イノシシ1列

  このイノシシの顔が付いた獣面付土器の破片が、大量に展示されている。(獣面把手ともいう)
 イノシシタワーと言う人もおられるが、可愛らしく見えるイノシシの顔が所狭しと並んでいる。鼻と口だけ見えてニコニコマークのようにも見えるものもあるが、いちおう写実的なイノシシ顔ではある。ただ、牙の表現がないことから、ウリボウか牙の目立たないメスを造形したものと考えられている。そこで、早くにイノシシを飼育していたのではという説もある。

安中四隅イノシシ
 四隅に配置したイノシシは、まるで四天王のような、縄文人の守り神としたものだったのか。それとも狩猟の成果を願う器だったのか。四隅に蛇表現がある土器も、祭祀のためであったのだろう。
安中蛇文

 このイノシシについてのパネルの説明に注目した。
「誰が獣面付き土器をつくったの? それまでの日本列島に具象的な造形物がないことから大陸からやって来た渡来系縄文人が作りはじめたものかもしれません」とあった。あくまで推測のような口調だが、このような考えをお持ちの方があるということが、私には大変興味深いことであった。以前からふれているように、縄文時代の文化の変遷を、あくまで列島内の自生的な発動による変化と見られる方が多い。しかしここでは、渡来系縄文人によるものとされているのだ。四隅に獣面を表現するというそれまでにない画期的な土器の出現を説明するには、こう考えるしかないのではないか。このお考えの方の論考がわかれば読んでみたいのだが。
 彼ら異文化をもつ渡来縄文人がやって来たとすると、他にも独特なものを作っていたのではないか。この中野谷松原遺跡は、大規模な集落遺跡だったが、縄文前期後葉の諸磯b式期には、直径110mの典型的な環状集落が形成されたという。通常の竪穴住居以外に大型掘立柱建物や大型住居も存在し、中央広場には土坑墓群が存在しており、この遺跡から大量の諸磯b式土器が出土している。

安中人面
 顔がけっこう立体的に表現された、いわゆる出産土器のようなものもある。その後ろに、三角壔形(側面が三角形で横に長い立体)土製品のその文様が、蕨手文の対称形になったものも注目。
日の字土器

 漢字の「日」、または「目」とかのように見える文様が、他に、群馬県みなかみ町の月夜野町郷土歴史資料館でみられる。
安中球体

 各種装身具に、丸い玉があるが、よくここまで球体状に磨ぎあげたことだと感心する。でも、身につけると重たくて邪魔な気もするが。
 
 『総覧縄文土器』には、特殊例として、イノシシの獣面把手の頭部に切れ込みを入れ、上面から見るとカエルに見えるよう表現した「二重獣面把手」が中野谷松原遺跡などに存在する、とあるが、写真を見返してもわからない。調査報告書の図版をみても、それらしいものを確認できない。
 縄文土器だけでなく、弥生・古墳時代なども、興味深い物ばかりだが、残念ながらこれぞというものがピンボケが多く、落ち着いて撮影すべきだったと反省。

参考文献
『総覧縄文土器』刊行委員会アムプロモーション2008
群馬県立歴史博物館「縄文文化の十字路・群馬」1998
2024.6.9撮影

三津屋古墳は平面だけでなく立体的にも八角形がわかる貴重な古墳

三屋全景
 北群馬郡吉岡町にある全国にもめずらしい正八角形墳であり、その姿を内部まで間近に見る事ができる。
 この八角墳は全国に10基あまり、東日本に5基で、その中に伊勢塚古墳(不正という但し書き付きだが)、吉井町の一本杉古墳、多摩市稲荷塚古墳、山梨県一ノ宮経塚古墳がある。
 他にない見事な八角形墳 
 それまでは外護列石の様子から平面的に八角形と判断されていただけなのが、この三津屋古墳の墳丘全体の調査で、土層断面の様子も把握できたうえに、墳形についても葺石と稜角の状態から、立体的にその姿を明らかにできた意義のある古墳となっている。
三津屋図面
 墳丘は石室奥壁前面を軸に同心円を描き、その中に各段の八角形がぴったりおさまるように見事に設計されている。墳丘各段の一辺の規模は第一段が約9m、第二段が約6m、この数値を唐尺で換算すると概ね30尺、20尺になる。周堀一辺の推定規模に当てはめると40尺 八角形の各一辺が40・30・20という割合で設定されるという。また検出できる列石の稜角は3カ所あって137度になるという(瀧野巧1997)。 数学上の正八角形の角度は135度だから見事というしかない。
三屋稜角
 稜角は大きな川原石が縦にまっすぐ積まれ、八角形であることを強調しているようだ。

  八角形墳と天皇陵の関係
 天皇陵と同じ八角形とされる解説もあるが、これには異論を持っている。
 「7世紀中ごろ前後から8世紀初めにかけての歴代の天皇の古墳であることから、この時期、天皇の古墳だけが八角形を採用するようになった可能性が白石太一郎さんによって指摘されている(右島和夫2018)」であるのに、どうして群馬で見つかったのかと、問題を投げかけるかのように書かれている。ただこれでは、八角形墳は天皇陵以外に存在するのは正常ではないかのようなとらえ方になるのではないか。
 舒明天皇押坂内陵、天智天皇山科陵天武・持統の檜隈大内陵、他に、牽牛子塚古墳は斉明天皇、明日香村の中尾山古墳は文武天皇と言われているものの、ほとんどの天皇陵は円や方の丘陵などであり、八角形は天皇陵のなかでごく一部存在するだけであり、決して八角形墳は天皇のものとはならない。そして、私は、7世紀までの日本書紀が描く天皇は、本当の天皇とは考えておらず、各地の実力者に過ぎないと考えている。群馬県で八角形の墳墓が出ても、不思議ではないのであり、相当の実力者が、この地にもいたと考えてよいのではないか。現に、天武10年3月の記事には、日本書紀の編纂のメンバーと考えられる人名の中に、上毛野君三千の名が見られることからことからも、古代の群馬に中央と関わる重要人物が存在したことは間違いない。
 さらに言うと、舒明天皇は押坂陵の治定が正しいとすると、晩年に百済宮に移られて、その翌年に百済宮で崩御されている。これは、舒明と百済に何らかの関係があることが考えられ、八角形もそこに起因する可能性がある。つまり、八角墳の天皇とされている人たちの出自が、八角形を好む思想と関係していると考えられるのだ。
 
  古墳だけではなく、古代にみられる八角形
 この八角形については、古墳だけでなく、法隆寺夢殿や、大津京、難波京、熊本の鞠智城などにもみられるが、伊勢崎市でも八角形総柱式高床倉庫跡が見つかっている。詳しくはあらためて紹介していきたいが、この事例からも、この地には、道教や仏教思想などによる八角形にこだわる渡来系の集団が存したことがうかがわれる。

  版築による土層面
三屋内部
三屋版築
 石室は破壊されていたが、内部と壁面断面を見学できるように整備されており、何層もの版築による盛り土の様子を見る事ができる。何度も繰り返して、平たい用具を地面に突くように固めている。ここでも渡来の技術が見られるのである。 


参考文献
瀧野巧「三津屋古墳の八角形墳丘」月刊考古学ジャーナル414 1997
梅澤重昭「東日本の八角形墳丘古墳の性格と出現の画期」月刊考古学ジャーナル414 1997
右島和夫「群馬の古墳物語下巻」上毛新聞社2018
図面は、「群馬文化238」群馬県地域文化研究協議会1994
2024.6.7撮影


それは見事な模様積みの伊勢塚古墳 群馬県藤岡市 

ise 模様と天井
 群馬に古墳見学をされるなら必見の、西日本ではお目にかかれない芸術的な石室であり、それは飛白(かすり)模様とか水玉模様ともいわれる。
伊勢塚全体
 6世紀代の東日本で最大級、全長145mの前方後円墳である七輿山古墳のトイレを兼ねたパネル展示室のある駐車場に車を停めて、北へ徒歩10分のところにある古墳で石室は開放されている。
伊勢塚パネル
伊勢入り口
伊勢玄室全体
 いよいよ中へ。玄室への入り口の手前は低いので、頭を打たないように!私はおでこを打ってしまいました😿
模様積み

伊勢側面
 近くの鮎(あい)川でとれるという川原石の大きな石の周りに、棒状の平たい石をぎっしりと詰めて側壁を作っている。大変な手間であったのではないか。このような模様積みのある古墳は、藤岡市から隣接の埼玉県児玉郡にかけて分布しているという。藤岡市では霊符殿(れいふでん)古墳や平地(へいち)神社古墳、堀越塚古墳などを、ネットでも見る事ができるが、やはりこの伊勢塚古墳がもっとも秀逸なものであろう。
ise 羨道側壁
 玄室だけではなく手前の通路である羨道の側壁も同じように積まれており、細長い石が詰め込まれている様子がよくわかる。
伊勢塚天井石
 天井石は巨大な岩が載せられている。
 それにしてもなぜこのような積み方がされたのであろうか。ネットに中学二年生の研究レポートがアップされている。『模様積み石室大全』(こちら)を感心しながら読ませていただいたが、その中で、水玉模様が、茨城県の虎塚古墳の壁画に描かれた円文と同じようなもので、「埋葬者を守る聖なる空間」とされている。自分の中学生の頃を思うと気恥ずかしくなるが、そのレベルの差にただただ恐れ入るばかりだ。
伊勢塚八角
 また伊勢塚古墳の形状は、不正八角墳といわれている。完全な八角形と言い切れないのが残念だが、この八角墳については、あらためて三津屋古墳のところでふれたい。
伊勢石室図
 そしてこの玄室は、胴張り型石室と言われるように、玄室を上から見ると弧を描くかのような曲線になっている。九州をはじめとして全国に見られるようだが、これらにどのような関係があるのだろうか。
 なぜこのような形を石室設計プランに導入したのであろうか。八角墳について、その背景に道教や仏教思想を指摘される研究者もおられるが(梅澤重昭1997)、模様積みや胴張り型も、仏教などの当時の外来思想と関係するのではないかと想像する。単なる思い付きだが、この胴張も、ひょっとするとあの法隆寺のエンタシスの柱と同じ考え方で編み出された形ではないだろうか。
 
伊勢塚青海波
 採集された須恵器には波状文、円弧叩きが見られるが、その中に青海波(せいがいは)のような文様のものが見られる。こういったことからも、海外文化の特徴が強く見られる古墳と言えるだろ。
この水玉のような模様積みが、この地で生み出されたものなのか、それとも大陸に淵源があって表現されたのか、それは仏教思想と関係するのか、などを考えていきたい。
  
参考文献
右島和夫「群馬の古墳物語(上下巻)」上毛新聞社2018 (石室実測図引用)
志村哲「伊勢塚古墳の八角形墳丘プラン」月刊考古学ジャーナル414・1997(平面図と須恵器図を引用)
梅澤重昭「東日本の八角形墳丘古墳の性格と出現の画期」月刊考古学ジャーナル414・1997

2024.6.6撮影

前二子古墳などの前橋市大室古墳群

前二子全体
前二子山
 群馬県前橋市大室古墳群は、長径が1㎞にも及ぶ大室公園として整備されている。その中の6世紀初頭の前二子古墳は墳丘長が94mでその周囲を堀や外堤が取り巻く。全体がベンガラで塗られた横穴式石室で、ここが吉永小百合さんのポスターになっている。副葬品には、青色ガラス製や水晶製の丸玉、金環、銀製空(うつろ)玉などの装身具、金メッキの馬具の飾り金具など。屍床の手前の床に祭祀の須恵器が置かれており、それが石室内に復元されている。
前二子石室
 床面には凝灰岩製の敷石が前面に敷かれるというのは、めずらしい事例となっている。福岡県久留米市日輪寺古墳など6世紀前半以降見られるが、以前は不明。部分的に敷く例は、5世紀後半熊本県重盛塚古墳、肥後型と言われる5世紀後半の岡山千足古墳にある。
吊り金具
綿貫観音幕イメージ
 この二子古墳の石室に鉤状金具が約20点見つかっている。(写真の金具と石室内イメージは綿貫観音山古墳のもの)棺の周囲に幕などを吊るすためと考えられている。他に、高崎市綿貫観音山古墳、八幡観音山古墳、奈良県藤ノ木古墳に事例があり、そして半島では、百済武寧王陵、慶尚南道松鶴同洞一号墳、全羅南道長鼓峯古墳(前方後円墳)からも出土している。実は柳澤一男氏の指摘だが、前二子古墳の横穴式石室の形と、松鶴洞、長鼓峯の石室の形が似ているという。また武寧王陵の獣帯鏡の同笵鏡が綿貫観音山古墳より出土している。このように、半島と密接なつながりが見えてくるのである。二子古墳の被葬者は、半島からやってきた移住民のリーダー的存在であったのではないか。まさにエキゾチックな文化を持つ地域であろう。

 以下に、中二子、後二子古墳のパネルを載せておきます。(ちょっと見にくいですが)
中二子
後二子

 なお、後二子古墳の剣菱形杏葉の文様と、大阪府四天王寺宝物館の人の乗る馬形埴輪のものとそっくりなのだという。四天王寺のものは「伝群馬」とされており、実際に二子古墳のものが群馬から運ばれてきたようだ。それにしても、どういったいきさつがあったのか知りたいところです。
 
四天王寺杏葉
 後二子古墳からは、親子猿の小像がついた円筒埴輪、また前二子古墳からは、線刻の人面のある円筒埴輪、他に盾持人型埴輪など、ユニークなものが多く見られます。
人面円筒

縄文も古墳も見ごたえあり。エキゾチック古代群馬

DSC_0806
 古墳の石室を見る吉永小百合さんをモデルにされたJR東日本のポスター。これは2020年に企画されたキャンペーンのもの。群馬の博物館などに今も掲示されています。関西ではあまり見かけないものですが、博物館で初めて見ました。小百合さんがモデルとなれば、やはり絵になります。昭和世代のおじさんたちには、いつまでもとても気になる存在です。
 観音塚考古資料館の学芸員さんから、話を伺いましたが、撮影当日は、人が押し寄せても困るので関係者以外には内密で行われたようです。この石室の古墳は、群馬県前橋市大室古墳群の中の前二子古墳なのですが、実は、小百合さんの写真像は、少し縮めて貼り付けたものだそうです。それを聞いて合点行きました。石室の羨道などは、とても低いものですが、なのに彼女は通路に余裕で立っておられるので、違和感がありました。まあこれは、やむを得ない演出ですね。なので、実際に石室に入られる場合は、頭を打たないようにお気を付けください。
 あと残念だったのは、このキャンペーンの始まりがコロナ渦と重なってしまったこと。せっかくの素敵なポスターも、力を発揮できなかったのが惜しまれます。ここは、ぜひもう一度、群馬の遺跡をアピールするキャンペーンを進めてほしいところです。
 このポスターに次のようなキャッチコピーがあります。

『「歴史」とは、学ぶものではなく、旅するものかもしれません』

 小百合さんご本人の言葉かどうかわかりませんが、なかなか深い意味のあるセリフだと思いました。歴史の、特に古代の遺跡、遺物などの文化は、その土地だけのものではなく、全国のすぐれた文化が、遠方にもたらされることが多々あります。なかには、中国どころか、もっと西方の文化の片鱗も見られることもあります。これは、歴史的文化が、旅をしているのだとも言えますし、また、博物館や遺跡に足を運んで、その文化に触れることが国内のみならず世界を旅することにつながる、ということかもしれません。あくまで自己流の解釈ですが。
  特に、群馬県は、九州や近畿に負けないものや、渡来の文化が多くみられます。そういったものをこれから随時紹介していきます。JRの回し者ではないのですが、そんなエキゾチック古代群馬に興味を持っていただき、実際に旅していただいたらと思います。

百済王の孫が倭国に持参した七支刀

衣笠と七支刀
 七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。

1.銘文の一般的な解釈
表  泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□□□□作
裏  先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
なお、泰和の和は、始・初   百練の銕は、鋼・釦 侯王の□□□□作は、永年大吉祥
済が慈   聖音が聖旨  旨造がうまく造る 伝示後世が傳不□世  などの諸説あり。
①年号について
 日本書紀では、神功52年の記事で120年の繰り下げで西暦372年と考えられている。また古事記は応神の時代の記事になるが、ここに肖古王とあるので、即位期間の346~375年のこととなる。東晋の泰和4年が369年なので妥当なところとなる。泰始、泰初の年号はいずれも3世紀となるので無理であろう。
なお泰和四年(369)については、百済が東晋に朝貢したのは372年なので、その3年前に中国の元号が使用されることに疑問もあるが、朝貢開始以前より何らかの交流はあったと考えられる。また七支刀を制作したのが百済に来た中国、もしくは旧楽浪郡の漢人であれば、年号を銘文に入れても不思議ではない。中国からの文化人、工人などの技術者、僧などが、倭国にもやって来たことは疑いえない。江田船山古墳鉄剣銘文の張安、漢籍を多用した武の上表文、倭の五王讃の司馬曹達なども考えられる。
②侯王とは?
 様々な解釈があるが、その中で上田正昭氏が侯王に着目され、百済王が「侯王」となる「倭王」に与えたものとの説がある。南斉書百済伝に弗斯侯などがみえるのだが、古田武彦氏は南斉書の扱う時代が5世紀前後であることから、疑問視され侯王どおしの対等の関係とされる。ただ私見では、対等とも少し違う関係を想定していることを、後に述べたい。
③百済王世子奇生聖音は人名か?
 「寄」という百済王の世子(世継ぎ)が倭王に贈ったとの理解が一般的だが、早くに複数の研究者から、奇生が貴須、聖音を王子の発音のセシムの転化とし、ゆえに王子の貴須(近仇首王)のこととされている。注1 この「奇生聖晋」が近仇首とはできないとしても、372年当時の百済王世子は貴須であり、彼が倭王のために作ったというのは妥当な解釈となろう。近仇首王(貴須)は近肖古王(346~375)の治世に、王子として七支刀を倭王のために作ったとなる。

2.書紀の七支刀記事と孫の枕流(とむる)王
 次は、日本書紀の神功皇后紀の七支刀の記事である。
五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。
 『久氐(くてい)らは千熊長彥に従ってやってきた。そしてななつさやのたち、ななつこの鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。(中略)この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と申し上げた。そして孫の枕流王に語って、「今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いて我が国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない」』
 久氐らが七支刀などを献上する記事であるが、ここで久氐が「聖朝に奉る」と述べた後に、孫の枕流王に語るのであるが、これは妙である。久氐「等」とあるので、久氐以外に数名の同行者があったと考えられ、その中に枕流王もいたということになろうか。なぜ最初から名前を出さないのかという疑問もあるが、さらに「孫」と記されている。久氐が枕流王の祖父とは考えにくい。枕流王は近肖古王(照古王)の孫にあたるので、久氐なる人物の言葉は、実は当時の百済王である近尚古王の言葉だったのではないか。「死んでも悔いはない」という台詞は、死期が近づいていることを自覚したものの言葉と考えられる。3年後に尚古王は亡くなっているのだ。この場に百済王がいたわけではないので、事前に、おそらく半島の百済国の中で、出立の際に孫に語った言葉ではないだろうか。そうすると、この一節の冒頭にある、七支刀の献上記事は、久氐が倭の千熊長彥に渡したのではなく、百済の地で、斤尚古王が、孫の枕流王に、倭国で活躍するように念じて、その助けとなる霊剣を持たせたのではないだろうか。そして、枕流王は久氐らといっしょに、七支刀などを携えて、倭国にやって来たのではないだろうか。
 この「孫」に語った内容をみると、助けてもらっている貴国のために「汝當善脩和好」、よくヨシミをおさめるようにと語っている。この「脩める」は、百済から送られる王子(後に質(むかはり)とも呼ばれる)への言葉として何度も登場する。枕流王は百済が送った最初の質となる人物であったと考える事ができよう。百済王は孫によく脩めるようにと語っているのだが、この「脩める」は、支配とまではいかないが、統治、管理の意味である。列島に渡って、おそらく倭王権に入り何らかの役割を担うこととなったのである。この点については、今後の武寧王に関する記事で、説明していきたい。
 
3.百済と倭の通交開始から七支刀までの記事への疑問
神功紀の記事の中間に魏志の引用があり、その後になにやら付け足されたかのように百済との修好の記事がある
神功46年 卓淳国が斯摩宿禰に、百済人の久氐らが貴国との通交の意のあることを伝える。
     さっそく斯摩宿禰が遣使を百済国に送り、百済肖古王は歓待した。
  47年 百済の貢物が新羅に奪われたとして、千熊長彥を新羅に派遣
  49年 荒田別ら、兵を備えて新羅を撃破 七つの国を平定。さらに忱彌多禮(とむたれ)を百済に賜う。
      千熊長彥と百済王が辟支(へき)山、古沙山に登り盟約。
  50年 皇太后多沙城を賜う。
  51年 千熊長彥に百済王父子は額を地にすりつけて拝み、感謝の意を述べる。
  52年 久氐らが来訪。七支刀、七子鏡など重宝を献じる。聖朝への誓いを述べた後に孫の枕流王への言葉。
 このあとには、百済王、皇太后の甍去記事などで終わっている。
 以上のように神功皇后紀の後半は、百済一辺倒の記事になっており、しかもその内容は疑問だらけなのである。
 まず、通交の始まりから不自然と思われる。百済の方が倭と交流したい意思を発しているのである。そうであるのになぜか、倭国の方がさっさと遣使を百済に送るというのが妙だ。また百済への遣使を即決しているようにみえる斯麻宿禰とは何者なのかもよくわからない。
 翌年47年にはなぜか新羅といっしょに朝貢している。そして百済はその新羅に自分の貢物を奪われたという。
次の49年では、新羅を討って七国平定というのが疑問。さらに忱彌多禮も百済に譲ったというのだが。額面通りに事実と受け止めるのは無理であろう。倭が戦い取った国を、国交を開始して3年目の百済にやすやすと賜うとは、全くもって理解できないのではないか。
 さらにこのあとに、千熊長彥と百済王の二人が、山に登り誓いをたてる。百済が倭のために朝貢を続けるという辟支山の盟約だが、本当なら百済王が倭国に行って誓わなければならないのでは。中国の泰山封禅の儀と同じで、立場が逆になるのではないか? 50年も同様で、なぜ倭の領土を譲与するのか?
51年はさらに奇妙。辟山盟約に続いて、今度は百済王親子が、地面に頭をつけて千熊長彦に拝むという。どこまで百済は卑屈になっているのか。52年の七支刀の記事は上述した通り。
 以上のように、この神功紀の後半は疑問が多く、一定の事実を扱うもかなり造作されて差し込まれた記事ではないかと考えられる。製作されたのが369年なのに倭国への献上が3年後の372年というのも妙であり、本当は、作られてすぐにもたらされたのかもしれない。注2 
 百済が枕流王を送り込んでいることからも、もっと早い時期から、記事にはないだけでいくつものやりとりがあったのではなかろうか。神功皇后紀前紀には、新羅討伐の記事があるが、新羅敗北によって、様子をうかがっていた百済と高麗の二王が、倭に服従するといった潤色と取れる記事が登場し、貴国に通交の意思を語る神功46年の記事と矛盾するのである。この箇所も額面通りに受け取れないであろう。
 百済と倭国との知られざる関係の中で、百済王が、王子や孫を倭国に派遣するという慣習が、七支刀を携えた枕流王から始まるのではないか。つまり、七支刀の倭国への献上品というのは書紀の筆法であったと考えられる。それは献上されたものではなく、また対等の立場で百済王が倭国の王に贈与したということでもない。七支刀はやや奇抜な刀の儀器であり、これが単に百済から倭国に贈られても、どのように扱ってよいものか困惑するであろう。よって、七支刀はその霊力を招く霊剣の御加護を受けるために、倭の地で好を修める枕流王が持たされて渡って来たと考えたい。もちろんその霊剣は、倭国で祭祀に関わるものが預かったであろう。やがては、その七支刀は物部氏の管理することとなって石上神宮に保管されるようになったのではなかろうか。

注1.佐伯有清氏は、西田長男氏や三品彰英氏の説を挙げながら「百済王世子貴須王子」とされる。
注2.田中俊明氏は、「伽耶と倭」で久氐と千熊長彥の往来が多すぎることから、神功49年に出発して、52年に続くとされる。つまり作られた七支刀をもって、すぐに倭に渡ったと考えられる。3年のブランクは解消する。

参考文献
佐伯有清「七支刀と広開土王碑」吉川弘文館1977
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」(コレクション20)ミネルヴァ書房 2014
東潮「倭と伽耶」朝日新聞出版2022   
河内春人「倭の五王」中公新書2018
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024
川崎晃「古代学論究―古代日本の漢字文化と仏教」慶応大学出版2012
鈴木勉・河内國平「復元七支刀」雄山閣 2006 
田中俊明「伽耶と倭」(古代史講義海外交流編)ちくま新書2023