最近では次のような理解になっている。「日本書紀で半島南西部の『任那』を当然のように支配地と見る見方は、今日では韓国の考古学的な多くの発掘調査結果を受けて、『伽耶』独自の歴史的展開のなかでとらえ直されてきている」(佐藤信2023)ということだ。
教科書においても、関連する事項に問題は残しつつも注1、かってのような任那日本府の直接的な記述はなくなっている。ここではこの日本府が、加耶の人物たちによるものであることを説明したい。
教科書においても、関連する事項に問題は残しつつも注1、かってのような任那日本府の直接的な記述はなくなっている。ここではこの日本府が、加耶の人物たちによるものであることを説明したい。
1.極めて限定的な日本書紀にみえる「日本府」の記事
日本書紀における日本府の記事は、一カ所を除いてすべて欽明紀の中にしか存在しない。ただ唯一の例外の記事が、雄略紀八年の「日本府行軍元帥」(やまとのみこともちのいくさのきみたち)という記述である。欽明紀の記事とは直接の関係はないが、日本府の性格を理解する点では共通のものがあると考えられる。新羅が高句麗の侵攻に対して救援を要請するのだが、次のようにある。
伏請救於日本府行軍元帥等。由是、任那王、勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅
任那王が膳臣(かしわでのおみ)斑鳩らに出動を指示する形になっており、そこに倭国の介在はない。この日本府の責任者は任那、すなわち加耶の王と考えられるのである。ここに欽明紀の記述と同じ状況が見えてくるのである。
欽明紀に進むが、ここでは34回も日本府が記されるが、それも欽明紀32年間のうち、出現する期間はわずか10年ほどの間にすぎなかった。2年が7回(4月が2回と7月が5回〈そのうち安羅日本府が2回)、4年が2回、5年が21回、6年が1回、9年が2回、13年が1回である。以上のようにきわめて偏在した出現状況であり、一時のなんらかの組織体のように見える。そして、その百済の聖明王の長々と続く台詞などに、日本府が倭国の支配下の組織と読める記事はなく、独立した存在として、新羅とも交渉する様子が描かれているのである。さらに重要なのは、その組織の構成メンバーに、任那、すなわち加耶の王族の姿が見られるのである。
2.日本府の佐魯麻都(さろまつ)は、加耶の王族だった。
河內直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都・印岐彌(いきみ)などが日本府の一員として登場するが、特に移那斯・麻都のセットで11回、麻都は単独での記事も合わせると15回と頻出している。いったいこの人物は何者なのか。
5年3月「移那斯・麻都は身分の卑しい出身の者ですが、日本府の政務をほしいままにしている。」
5年3月「韓国(韓腹)の生まれでありながら、位は大連、日本の執事と交じって、繁栄を楽しむ仲間に入っています。ところが今、新羅の奈麻礼の位の冠をつけ」、とあるように百済は麻都を非難しているが、これには歴史的な因縁があると思われる。
欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背(なかんだかふはい)」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀の末尾にある。紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されるとある。この河内直が那干陀甲背の末裔ならば、欽明紀の佐魯麻都も任那左魯の末裔と考えられるところから、加耶の王族の重要な人物と考えられる。「卑しい身分」との表現は書紀の筆法であって、麻都は新羅から冠位を授かる人物であった。加耶の人物が新羅の冠位をもつことについては、次のような事例がある。
「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。近仇亥はその食邑の旧都(鳳凰台土城)に埋葬されたのであろう。金官加耶の王族はのちの金庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)つまり新羅に投降した加耶の王族の末裔が、後に上層部に入り込んでいるのである。新羅は、支配地の王族を迫害するような扱いをしなかったように、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。
「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。近仇亥はその食邑の旧都(鳳凰台土城)に埋葬されたのであろう。金官加耶の王族はのちの金庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)つまり新羅に投降した加耶の王族の末裔が、後に上層部に入り込んでいるのである。新羅は、支配地の王族を迫害するような扱いをしなかったように、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。
なかには、「佐魯麻都が韓腹と称されているのは、父が倭人であったために殊更に母方の出自について強調した記述であろう」(河内2017)との見方があるが、父が倭人とする根拠の説明はない。おそらく、日本府の官人だから母は違っても父は倭人だとの思い込みではないか。佐魯麻都は倭(日本)人ではない。なお、現代語訳にも注意が必要。岩波の宇治谷訳では、5年3月「安羅の人は日本を父と仰ぎ」とあるが、原文は「日本」ではなく「日本府」であり、意味が全く違ってくるのである。
同じような例として、敏達紀の日羅の記事がある。先述した「百済を敵視する日羅の歴史的背景」と同じく、父親と考えられる人物が、任那の王族なのである。だから、どちらも百済に対して反抗心があったのである。
以上のように佐魯麻都は、父が百済に殺害されるなど百済とは歴史的因縁のある伽耶の人物であって、本人も百済とは対立し新羅とは接近するものの、あくまで加耶の独立を望む加耶の王族たる人物であったと考えられる。
任那日本府は、その為に作られた組織と考えてよいのではなかろうか。そして、その後の新羅の侵攻によって、欽明紀13年以降には消滅してしまったと考えられる。
任那日本府については、そこに「日本」の文字があることから、列島の日本国(倭国)の組織とする先入観が生まれて、様々に誤解されるものになったと思われる。「日本」は書紀編纂時つけられたものと思われる。このような時代の異なる用語が使われる事例は、多数存在している。最近の研究でも明らかにされつつあるが、倭国の統治する出先機関といったものではなく、日本府は加耶の組織であって、欽明紀の前半の記事は百済と新羅の間で存続をかけて腐心する加耶勢力が描かれており、書紀の記事は、そこに百済視点での粉飾がされていると考えたい。
注1.教科書では、512年に「任那四県」が百済に「割譲」されたという記述は「承認」という表現にかわったが、「倭が領有あるいは倭がその地を支配していたという認識にかわりない」(東2022)状況である。しかし、これは日本書紀の筆法であって、実際には、百済の韓半島南西部への侵攻を、倭から承認があったかのように描いているだけなのである。
参考文献
佐藤信「古代史講義」ちくま新書2023
田中俊明「加耶と倭」(古代史講義所収)ちくま新書2023
門田誠一「海からみた日本の古代」吉川弘文館2020
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024