流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

古代大和史研究会主催 講演会 2024.12/24(火)13:30~16:30
会場:浄照寺(奈良県磯城郡田原本町茶町584)近鉄田原本駅から東に徒歩5分
「天皇はいつから天皇になったのか」服部静尚氏
「聖徳太子の半島出兵は無かった」正木裕氏
「大国主が落ちた穴と宇陀の血原の本当の意味」大原重雄  参加費は500円(資料代)です。お気軽にご参加ください。

任那日本府は、日本国(倭国)の出先機関などではなく加耶の組織だった。

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 任那日本府については、一般的に思われているイメージと、唯一の出典でその根拠となる日本書紀の欽明紀の記述とに大きな隔たりがあるように思われる。
 最近では次のような理解になっている。「日本書紀で半島南西部の『任那』を当然のように支配地と見る見方は、今日では韓国の考古学的な多くの発掘調査結果を受けて、『伽耶』独自の歴史的展開のなかでとらえ直されてきている」(佐藤信2023)ということだ。  
 教科書においても、関連する事項に問題は残しつつも注1、かってのような任那日本府の直接的な記述はなくなっている。ここではこの日本府が、加耶の人物たちによるものであることを説明したい。

1.極めて限定的な日本書紀にみえる「日本府」の記事

 日本書紀における日本府の記事は、一カ所を除いてすべて欽明紀の中にしか存在しない。ただ唯一の例外の記事が、雄略紀八年の「日本府行軍元帥」(やまとのみこともちのいくさのきみたち)という記述である。欽明紀の記事とは直接の関係はないが、日本府の性格を理解する点では共通のものがあると考えられる。新羅が高句麗の侵攻に対して救援を要請するのだが、次のようにある。
 伏請救於日本府行軍元帥等。由是、任那王、勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅
 任那王が膳臣(かしわでのおみ)斑鳩らに出動を指示する形になっており、そこに倭国の介在はない。この日本府の責任者は任那、すなわち加耶の王と考えられるのである。ここに欽明紀の記述と同じ状況が見えてくるのである。

 欽明紀に進むが、ここでは34回も日本府が記されるが、それも欽明紀32年間のうち、出現する期間はわずか10年ほどの間にすぎなかった。2年が7回(4月が2回と7月が5回〈そのうち安羅日本府が2回)、4年が2回、5年が21回、6年が1回、9年が2回、13年が1回である。以上のようにきわめて偏在した出現状況であり、一時のなんらかの組織体のように見える。そして、その百済の聖明王の長々と続く台詞などに、日本府が倭国の支配下の組織と読める記事はなく、独立した存在として、新羅とも交渉する様子が描かれているのである。さらに重要なのは、その組織の構成メンバーに、任那、すなわち加耶の王族の姿が見られるのである。

2.日本府の佐魯麻都(さろまつ)は、加耶の王族だった。

 河內直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都・印岐彌(いきみ)などが日本府の一員として登場するが、特に移那斯・麻都のセットで11回、麻都は単独での記事も合わせると15回と頻出している。いったいこの人物は何者なのか。
 5年3月「移那斯・麻都は身分の卑しい出身の者ですが、日本府の政務をほしいままにしている。」
 5年3月「韓国(韓腹)の生まれでありながら、位は大連、日本の執事と交じって、繁栄を楽しむ仲間に入っています。ところが今、新羅の奈麻礼の位の冠をつけ」、とあるように百済は麻都を非難しているが、これには歴史的な因縁があると思われる。
 欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背(なかんだかふはい)」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀の末尾にある。紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されるとある。この河内直が那干陀甲背の末裔ならば、欽明紀の佐魯麻都も任那左魯の末裔と考えられるところから、加耶の王族の重要な人物と考えられる。「卑しい身分」との表現は書紀の筆法であって、麻都は新羅から冠位を授かる人物であった。加耶の人物が新羅の冠位をもつことについては、次のような事例がある。  
 「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。近仇亥はその食邑の旧都(鳳凰台土城)に埋葬されたのであろう。金官加耶の王族はのちの金庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)つまり新羅に投降した加耶の王族の末裔が、後に上層部に入り込んでいるのである。新羅は、支配地の王族を迫害するような扱いをしなかったように、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。
 なかには、「佐魯麻都が韓腹と称されているのは、父が倭人であったために殊更に母方の出自について強調した記述であろう」(河内2017)との見方があるが、父が倭人とする根拠の説明はない。おそらく、日本府の官人だから母は違っても父は倭人だとの思い込みではないか。佐魯麻都は倭(日本)人ではない。なお、現代語訳にも注意が必要。岩波の宇治谷訳では、5年3月「安羅の人は日本を父と仰ぎ」とあるが、原文は「日本」ではなく「日本府」であり、意味が全く違ってくるのである。
 同じような例として、敏達紀の日羅の記事がある。先述した「百済を敵視する日羅の歴史的背景」と同じく、父親と考えられる人物が、任那の王族なのである。だから、どちらも百済に対して反抗心があったのである。
 以上のように佐魯麻都は、父が百済に殺害されるなど百済とは歴史的因縁のある伽耶の人物であって、本人も百済とは対立し新羅とは接近するものの、あくまで加耶の独立を望む加耶の王族たる人物であったと考えられる。
 任那日本府は、その為に作られた組織と考えてよいのではなかろうか。そして、その後の新羅の侵攻によって、欽明紀13年以降には消滅してしまったと考えられる。

 任那日本府については、そこに「日本」の文字があることから、列島の日本国(倭国)の組織とする先入観が生まれて、様々に誤解されるものになったと思われる。「日本」は書紀編纂時つけられたものと思われる。このような時代の異なる用語が使われる事例は、多数存在している。最近の研究でも明らかにされつつあるが、倭国の統治する出先機関といったものではなく、日本府は加耶の組織であって、欽明紀の前半の記事は百済と新羅の間で存続をかけて腐心する加耶勢力が描かれており、書紀の記事は、そこに百済視点での粉飾がされていると考えたい。

注1.教科書では、512年に「任那四県」が百済に「割譲」されたという記述は「承認」という表現にかわったが、「倭が領有あるいは倭がその地を支配していたという認識にかわりない」(東2022)状況である。しかし、これは日本書紀の筆法であって、実際には、百済の韓半島南西部への侵攻を、倭から承認があったかのように描いているだけなのである。

参考文献
佐藤信「古代史講義」ちくま新書2023
田中俊明「加耶と倭」(古代史講義所収)ちくま新書2023 
門田誠一「海からみた日本の古代」吉川弘文館2020
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024

シュメル神話と保食神(ウケモチノカミ)の語呂合わせ  シュメルと記紀神話⑴

シュメル神話
 大いなる女神(左)に拝謁する若い植物女神(右) 山型の椅子に座るニンフルサグ女神は両肩から植物が芽生え、手に穀物の穂を持つ。(円筒印章印影図 アッカド王朝時代BC2334~2154)

 シュメル神話について書かれた『シュメル神話の世界』には、日本の神話との類似が見られる。既に指摘されているものもあるが、いくつか紹介したい。

1.『エンキ神とニンフルサグ女神』 シュメルの「楽園神話」

 大地・豊饒の女神であるニンフルサグ女神が病めるエンキ神(深淵・知恵の神)の治療を行うのだが、病んだ各々の患部から神が生み出される。その部位と生み出された神の名の一部が、しゃれ、すなわち語呂合わせになっているのである。

頭頂部(ウグ・ディリム)→アブ神
毛髪(パシキ)     →ニシンキラ神
鼻(キリ)       →ニンキリウトゥ女神
口(カ)        →ニンカシ女神
喉(ズィ)       →ナズィ女神
四肢(ア)       →アジムア女神
肋骨(ティ)      →ニンティ女神
脇腹(ザク)      →エンザク神
 
 頭部のウグとアブで韻を踏んでいるのかわかりにくいが、これは日本語表記に変換するために少し似ていないようになるのかしれないが、他はみな合っているといえる。筆者はシュメル人の遊び感覚とされているが、いつの時代にもこういった駄洒落を楽しむことが行われていたということであり、それが神話の制作過程で折り込まれているのも興味深い。
 実は日本の神話でも同じようなケースで、語呂合わせと考えられるものが指摘されているものがある。それが、保食神の穀物、魚類、動物の生成譚となる神話である。月夜見尊(つくよみのみこと)は、天照大神に命じられて保食神のもとを訪れる。保食神はおもてなしにと、食べ物などを用意するのだが、その食べ物を口から出す様子を見て、汚らわしいと月夜見尊はその場で剣で撃ち殺してしまう。それを知った天照は怒って、月夜見尊とは会わないと宣言する。これが太陽と月が離れて住むようになったという原因譚であるが、その後に天照は、使いの者に保食神の様子を見に行かせると、死体各部から穀物などが生えていたというのである。

 「保食神實已死矣、唯有其神之頂化爲牛馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆。」
 (その神の頭に牛馬が生まれ、額の上に粟が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部に麦と大豆・小豆が生じていた。)

 岩波注には、「これらの生る場所と生る物との間には、朝鮮語ではじめて解ける対応がある。以下朝鮮語をローマ字で書くと、頭(mɐrɐ)と馬(mɐr)、顱(chɐ)と粟(cho)、眼(nun)と稗(nui)、腹(pɐi古形はpɐri)と稲(pyö)、女陰(pöti)と小豆(p`ɐt)とである。これは古事記の場合には認められない点で、書紀編者の中に、朝鮮語の分かる人がいて、人体の場所と生る物とを結びつけたものと思われる(金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究)」とある。シュメル神話の場合は神の名前の一部を対応させているのだが、遊び心の語呂合わせという点で共通しているといえる。

2.清張も注目した日本書紀にある朝鮮語の語呂合わせ
 
 松本清張氏は『古代史疑』の「スサノヲ追放」の所で、書紀の朝鮮語の問題でこの箇所を取り上げている。そこで清張氏は、上記の注の説明のところで、次のように指摘されている。「朝鮮語の分かる人がいた、という以て回った言い方よりも、朝鮮人じたいがいた、というべきだろう。『記・紀』の編纂には、漢字のわかる朝鮮渡来人がかなり関与していたのである。」おっしゃるとおりである。
 古墳の渡来系遺物の説明でも、実に持って回った言い方、すなわち、半島と交流のある人物が受容したものといったお決まりの説明が繰り返されていることを、以前から指摘している。ただ、清張氏は、朝鮮人の関与した資料が各豪族の記録の作成に挿入されて、それらが後に、日本人文官が朝鮮語の意味が分からずに、或いは分かっていても、そのまま使ったのであろうとされているが、私見では、書紀や古事記の編者には、渡来人やその末裔が直接かかわっていると考えている。
 なお、ご存知の方も多いであろうが、清張氏にはこの保食神をプロットに、古代史マニアも登場する推理小説『火神被殺』がある。

 一方で、この保食神の語呂合わせについては、岩波注では、古事記には認められない、とされている。だがどうであろうか。古事記の場合は保食神ではなく大氣津比賣(おほげつひめ)が口や尻から食物を取り出すので、これも書紀の月夜見尊と違って、スサノオが汚らわしいと殺してしまう。
 「所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。」
(殺された神の体から生まれ出たものは、頭に蚕が生まれ、二つの目に稲の種が生まれ、二つの耳に粟が生まれ、鼻に小豆が生まれ、陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた)
 ここには、たしかに語呂合わせは見られないようだが、書記の場合と比べて部位も生じるものも少し異なっている。
 なぜこのような組み合わせなのか、なんらかのこだわりがあったのか、朝鮮語以外の言葉の可能性も含めて解明できたらおもしろいのだが。

 ところが古事記には、動物と土地の神の語呂合わせで物語がつくられたとの指摘がある。神武記の熊野山の神は熊に「化」り、景行記の足柄坂の神は鹿に「化」り、同じく景行記の伊服岐能山の神は猪に「化」るのが、熊野のクマ、足柄のシカ、伊服岐能山のイ(ヰ)という音通の語呂合わせによって生まれた動物だという。  
 熊、鹿、猪という格好の野獣を登場させるための、格好の音通の地名と考えざるを得ないとのことだ。(川副1981)

 そうであるならば、記紀の説話には遊び心たっぷりの語呂合わせや、なんらかの仕掛けがある逸話がまだまだありそうである。

参考文献
岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中央公論新社2008
松本清張「古代史疑」文芸春秋1974
川副 武胤 「古事記の研究」至文堂1981
図 「シュメル神話の世界」より

百済を敵視する日羅の歴史的背景  日本書紀のなかにある加耶

伽耶マップ加工
  上図の韓半島の地図は5世紀後半から6世紀初めの加耶の範囲を示したもの。

 古代の韓半島には、金官加耶、安羅、大加耶といった複数の国々をまとめて加耶と呼ばれる国がありました。百済と新羅の挟撃に遭い、6世紀半ばには新羅によって滅亡してしまいます。
 日本書紀では、任那と表記されることが多かったために、その実像がわかりにくくなっていますが、この加耶諸国は、古代の日本との関係は深く、加耶の人物と思われる記事がいくつも登場します。ここでは、その一例として、百済に渡った倭国の官人とされる日羅について紹介します。

1.百済への攻撃を提言する日羅(にちら)
 敏達紀12年に、天皇は、先代の欽明の時代に滅んだ任那の再建をめざす韓半島政策の検討のために、百済から逹率という百済官位の第二位という高位の官人であった日羅を招き寄せる。彼は求めに応じて倭国の為に提言を行うのだが、その内容に不可思議なところがある。そこには、彼が長きにわたって百済に仕えていたとは思えないような、百済対策を口にするのである。
 「百済人は謀略をもって、『船三百隻の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。百済がそこで国を造ろうと思うのなら、きっとまず女・子供を船にのせてくるでしょう。これに対して、壱岐・対馬に多くの伏兵をおき、やってくるのを待って殺すべきです。逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」(宇治谷1988)といった。
 百済が先に送り込む女、子供を待ち伏せして殺せというのは、感情的なまでに百済憎しと取れるような驚くべき提言である。倭国側は、日羅が反体制派のような人物であると承知の上で招いたのか。それとも予想外の強固な姿勢に躊躇したのであろうか。自分の発言によって身に危険が迫るとは思わなかったのかどうかは不明だが、この百済攻撃の主張が漏れ聞こえたのか、日羅はやがて百済の随伴者によって殺害されてしまう。
 この百済官人とは思えない自滅的な日羅の言動は、一見不可解であるが、これも見方を変えてみると説明がつくと思われる。

2.書紀に登場する二人のアリシト
 日羅は宣化天皇の世に、大伴金村大連によって半島に遣わされた火葦北國造刑部靫部(おさかべのゆけい)阿利斯登の子だという。これ以上の情報はなく、彼がどのような目的で派遣されたのか、そこで百済を恨むような仕打ちがあったのかもわからず、百済側も日羅を手放したくないような様子であったので、とくに問題があったとは考えにくい。では、日羅の百済憎しの動機となるものはなんであったのか。
 ここで一つの仮説を提示したい。日羅の父親である阿利斯登は、先の継体紀23年と24年に登場の阿利斯等と同一人物ではないかと考えられる。漢字一文字が異なるだけで別人とは言い切れない。日羅は、大伴金村を「我君」と呼んでいる。そして、継体紀の任那王である己能末多干岐(このまたかんき)が、大伴金村に救援を求めているが、その人物は阿利斯等だと注記しており、大伴金村との接点からもここに同一人物と想定できるのである。 
 継体23年(529)の阿利斯等が仮に30歳として、この歳に日羅が生まれたとすると、敏達12年(583)に日羅は50歳となり、無理なく妥当な年齢となるのではないか。
 継体紀の阿利斯等は、任那王と記されているが、これは加耶諸国のいずれかの王であり、新羅に恨みをもってはいるが、百済に対しても憎悪を産むことになる事件が継体紀24年に記されている。
 「百濟、則捉奴須久利、杻械枷鏁而共新羅圍城、責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。」
 毛野臣の所業に怒った百済は、阿利斯等が送った使人の奴須久利を捕虜にして、手かせ足かせ首くさりをつけて、新羅軍と共に城を囲み、阿利斯等を責めののしって、「毛野臣を出せ」と言ったのだ。
 逃れた毛野臣は対馬で絶命するのだが、阿利斯等のその後の記述はない。どのような経緯があったのかは不明だが、加耶をめぐる新羅と百済の争乱の中、列島に移住してきたのであろう。子の日羅には、父親から百済の残忍な仕打ちを繰り返し聞かされていたのではなかろうか。
 日羅の提言の背景には、父親の百済との歴史的因縁があったからとできるのではないだろうか。一般には日羅は百済に仕えた日本人といった説明がされているが、彼の出自は加耶であるからこそ、百済憎しの提言が理解できるのである。
 余談だが、二人のアリシトは同一人物と想定したが、書紀の崇神紀に記された「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」についても、関連はあると思われるが、またの機会としたい。

 日本書紀の記述は、「任那」が乱用されているが、その実態は加耶であり、百済と新羅の狭間の中で独立を維持しようとしつつも、6世紀半ばに滅亡を余儀なくされた王国だったのである。
 加耶諸国の存在という視点が、日本書紀にある半島と関係する難解な説話の理解の鍵となると考えたい。

 参考文献
宇治谷孟「全現代語訳日本書紀」講談社1988
図は、「加耶―古代東アジアを生きた、ある王国の歴史― 2022年度国際企画展示」(国立歴史民俗博物館)2022より。

「カチカチ山」に描かれた火打金と火打石  火打金とポシェット⑵

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1.火打石どうしを打っても発火させるのは困難
 まずは、用語の説明をさせていただく。一般的には、火打石を叩いて発火させるものだとされるのだが、これでは少し不正確なのである。火花が出るのは、火打金とされる鉄に焼き入れをして炭素を含ませた鋼が硬質の石との打撃で削られた鉄紛が火花を発生させるのである。火打石の方から火花が出るわけではない。
 その火打石も、メノウや、石英(チャート・フリントなど)といった硬度が高いものが適しており、前回述べたように黒曜石でも火花を出すことはできる。
 さらに、火花を発生させるだけでは火は起こせない。火口(ほくち)という、繊維やシイタケなどを干してほぐしたものに火花で発火させるものが必要となる。そして、これらのセットのことや打撃式発火法を、便宜上、火打、ということにする。この火打は建築用語にもあるのだが、それは発火とは無関係だ。
 この火打を、火打石どうしを打ち合わせることで火花が発生すると思っている人が意外に多くいる。かくいう私も、小学生の時からそのようなイメージを持っていた。はるか昔のことだが、クラスに理科の得意な男子がいて、ある時、火打を持ってきて、教室内で実演して見せてくれることがあった。その時に飛び散った火花を見て驚いたことは記憶にあるのだが、彼が両手にそれぞれ持っていたものが、石と思われるものを打ちあったようにしか理解しておらず、間近でその石を見せてもらったはずが、まったく覚えていないのだ。この不鮮明な記憶もあって、石と石をぶつけて火花を出すものと思い込んでいたのである。
 このような誤解が、絵本の中にも表されている事例がある。民話の「かちかち山」の絵本には、両手に石を持った兎さんが描かれていることがある。冒頭の図にあるように、戦前の絵本には、吉井の火打金と思われるものをリアルに描いているものや、戦後にもきちんと火打金と火打石を区別して描かれたものは多くあるのである。
 さて、火打は石どうしではないと説明してきたが、実は、石どうしでも火花を出すことができる場合があるのである。その石とは、黄鉄鉱である。

2.アイスマンは黄鉄鉱で火を起こしていた。
 今から5300年前ほど前の、イタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷に横たわっていたアイスマンの所持品(埋葬による副葬品との説もある)には注目すべきものが数多く見つかっているが、その中に着火道具があって、腰に付けていたと考えられる袋から、硬質のフリントにキノコを乾燥させた火口もあった。そして少し離れた場所から、黄鉄鉱が見つかっている。このアイスマンが腰に付けていたであろう袋については後述したい。米村でんじろう氏のYouTubeでも、黄鉄鉱を使った発火の様子がアップされている。火花は、打撃と摩擦による鉄紛の溶ける際の反応であるから、黄鉄鉱でも可能なのである。さらにでんじろう氏は、石どうしの打撃でも発火させることは難しいが、火花は発生させることができるという実験も行っておられる。
 それにしても、はるか古代の人たちは、どうやって黄鉄鉱による着火を発見したのであろうか。石器人は、石を叩き割って斧や鏃などを作製する。様々な種類の石を試して、用途にかなう石材を見つけていったのであろうが、その際に、火花が出る石があることに気が付いて瞬く間に広がっていったのであろう。その前には、摩擦式発火法があったと考えられるが、人類はかなり早くから黄鉄鉱による着火法を駆使していたかもしれない。戸外を動き回っていた狩猟採集民にとっては、雨のこともあるから、摩擦法よりは打撃法による着火は便利であったと考えられる。アイスマンの時代よりもっと早くからこの黄鉄鉱が利用されていたかどうかはよくわからない。  
 また火打金の方も、ベルギーで出土した紀元前400年頃のものが世界最古となっているが、それまではなかったとは言い切れない。見つかったのは、あくまで、加工して整えられたものであり、古代の製品化された火打金の原型となるものであって、異なる形での鉄片を火打金として使っていた可能性は否定できない。鍛冶職人たちは、早くから鉄を打てば火花が出ることはわかっていたはずだから、ベルギーの例よりも古くから火打金があった可能性の否定はできない。ただし、鋼となる焼き入れ工程がいつから始まったのかという問題はあるのだが。鉄の発見はヒッタイトによるものが起源とされているが、さらに時代を千年も遡る見解も出されてきており、そうなると、アイスマンの時代から少し後に、火打金による発火を行う人々も混在するようになったかもしれない。

3.シュメル神話に登場する火打石
 世界最古の神話であるシュメル神話には、いくつも興味深いものがあり、火打石も登場している。
 「ルガルバンダ叙事詩」には、エンメルカル王の王子であるルガルバンダの物語が描かれている。まつろわぬ都市アラッタの征討に出かけたが、途中で病に襲われて、山の洞窟に置き去りにされる。やがて回復したルガルバンダは、腹ごなしにパンを焼く場面が描かれている。
 「野営地で兄たちや従者がパンを焼いていたことを思い出したルガルバンダは、洞窟に置いてあった袋から火打石や炭を取り出して、何度も失敗しながらようやく生まれて初めてたったひとりで火を起こし、麦紛を水でこねて丸めて、パンを焼いてみた。」(岡田・小林2008)
 アイスマンと同じように袋に着火道具が入っていたのである。炭もあったというのが面白い。これならパンでも肉でも料理ができる。だが、ここには火打石とあるだけだから、それが、火打金なのか、それとも黄鉄鉱であったのかはわからない。この神話に登場するウルク第一王朝第二代王エンメルカル王の時代はおよそ4800年前となる。アイスマンから500年ほど後の物語となるので、黄鉄鉱と考えたほうがよさそうである。
 だが、火打石がもう一つ登場する「ルガル神話」に困惑させる記事がある。これは戦いの神であるとともに農業神であるニンウルタ神が、山に住む悪霊であるアサグを退治のために配下の「石の戦士ども」を打ち負かす物語だが、そこに、次のような記載がある。
「一方で、火打石はニンウルタに敵対したことから次のように罰せられる。
 私はお前を袋のように裂くだろうし、人々はお前を小さく割るであろう。金属細工師がお前を扱い、お前の上で鏨(たがね)を使うだろう。」
 ここでは、火打石はその名の通りに角を付けるように割られている。また、鏨が現代と同じ炭素鋼であるならば、火打金となる鏨を打つ火打石となる。火打金がシュメルで使われていたと考えられるのではないか。
 神話世界のことであり、史実とは見なしがたいという判断が大方のところであろうが、わずかな可能性を留保しておきたい。

参考文献
J. H. ディクソン「氷河から甦ったアイスマンの真実」日経サイエンス2003.08
藤木聡「発掘された火起こしの歴史と文化」宮崎県立図書館 ネット掲載
岡田明子・小林登志子「シュメル神話」中公新書2008
図は『カチカチ山』 富士屋の家庭子供絵本 昭和2年刊 オークファン様のブログより

神功皇后の喪船と空船による策略の謎

エジプト曳航船
    セティ1世王墓壁画 王の喪船を曳く従者

 古事記仲哀天皇記の押熊王の反乱という説話では、神功皇后が危険を予知し、御子が亡くなったとの偽情報を流し、喪船を用意して出航して敵に臨むという一節がある。敵を欺くための皇后による策略であるが、実はこの箇所が古来より見解の分かれる所となっており、そこで、ここに一つの解釈を提示したい。

1.理解しにくい「赴喪船將攻空船」(喪船におもむきカラ船を攻める)の一節(※空はウツホ、などの訓みあり)

於是、息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之「御子既崩。」如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而、思將待取、進出於斗賀野、爲宇氣比獦也。爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、堀其歷木、卽咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船將攻空船。爾自其喪船下軍相戰。

 「息長帯日売命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)が、反逆の心を抱いているのではないかと、人々の心が疑わしかったので、棺を載せる船を一艘用意して、御子(後の応神天皇)をその喪船にお乗せして、まず「御子はすでにお亡くなりになった」と、そっと言いもらさせなさった。こうして大和へ上ってこられる時、忍熊王は、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、そのとき喪船に向かってその空船を攻めようとした。そこで皇后は、その喪船から軍勢を降ろして相戦った。」   
 「喪船に向かってその空船を攻めた」という箇所は、喪船と空船は同一のものか、それとも別の船なのか議論の分かれる所であった。しかし、喪船にむかってその無人の船を攻めた、と解釈するのは奇妙であろう。その喪船には御子を乗せて、さらに皇后の軍勢も乗せていたはずである。しかし敵はその喪船を攻めるのだが、実は空船だったとするのは奇妙である。襲撃前に途中で降りたので襲撃しようと近づくと無人の船であった、とでもしないと話が通じないのではないか。
 この空船については以下のような注釈がある。「からの船、人の乗っていない船、と解釈されてきたが、ウツホフネと読んで、母子神がうつぼ船に乗って、海浜に出現する、という古代信仰に由来すると見たい」(次田真幸1980)とある。だがここは戦闘の場面であり、事前に皇后は策略として、皇子は亡くなったとの偽情報を流して喪船を用意するという周到に準備された話であって、それを空船が信仰と関係するという考えでは説明にならないであろう。
 国文学者尾崎知光氏は、喪船と空船は別の船として捉え、喪船は攻めないとする想定にはまって、別の空船を攻撃したところ、不意打ちをくらわされる、という流れが自然だとする(2016)。そのように説明されながら尾崎氏は、「赴」を告げるという意味で解釈されている。

2.船が二隻であったとすることの意味。
 日本書紀持統紀七年二月に「來赴王喪」(まうきて王の喪をつげまうす)といった用例から、この「赴」を告げるという意味にとらえ、神功側が喪船と告げたので空船を攻めたのだという。これから戦闘になるという段階で、近づく敵にどうやってこの船が喪船であると相手に知らせたのであろうか。船に棺が積まれて、葬送儀礼としての飾りが施された船ならば、遠くからでも喪船であると認識できるはずではなかろうか。よってこの解釈は無理があろう。
 一方で島谷知子氏は、尾崎氏の説にふれながら、喪船と空船を同一とみない立場は、訓みの面で問題を残すとされている(2014)。   
 「喪船に赴き攻めむとするも空船なりきと訓む」のが穏当な解釈とされるのだ。だがこれだと、皇后側の兵士がどこから現れたのかという説明がつかないのである。喪船と空船は同じ一隻なのか、それとも別々の二隻であったのか堂々めぐりとなってしまうが、ここは以下のように考えたい。
 この箇所は、いささか言葉足らずであったので、決着のつかない表現になったのではないか。私見では、喪船と空船をセットで考えれば問題は解決すると考える。つまり、空船とは、喪船を曳航する動力船で、喪船はいわばバージ船となる。敵は、喪船には棺に入った遺体しかないと思い込んでいたからこれは無視して、喪船を曳航する空船を攻めたのではないだろうか。
 このようにとらえれば、喪船に近づいて空船を攻めるという表現で問題はなくなる。もちろんこの場合、曳航する空船は全くの無人ではなく、最小限の漕ぎ手は搭乗して船を走らせているのである。古代においても別の船が曳航するという事例がいくつか見られる。

3.喪船が陸地だけではなく、水上でも曳かれていた可能性
 仁徳記には、皇后が酒宴の準備で、御綱(みつな)柏(かしわ)を採って御船に積んで戻る時に、天皇が八田若郎女(やたのわきいらつめ)を娶ったと聞いて怒り、御船の御綱柏を全て捨てて山代国に戻る一節がある。

卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。
すなわち宮に入りまさずて、その御船を引き避(よ)きて堀江に泝(さかのぼ)ぼり、河のまにまに山代に上り幸(いでま)しき。

 注釈では、「引き避けて」は、船を綱で曳いて皇居を避けての意、とされている。つまり皇后の乗る御船は、曳航されていたのである。
 隋書倭国伝には、「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす。」とあるように、喪船を引く習俗があったことが記されている。
喪船移動復元
 奈良県巣山古墳では、喪船と考えられる板材が見つかっており、被葬者の棺を載せた喪船を修羅で古墳まで曳いたと考えられていた。ただ残念ながら現在は準構造船などとの解釈がされているのだが。さらにこの喪船が、どうやら河や海で別の船に曳かれていた事例も見つかっている。ピラミッドの脇から見つかった二隻の太陽の船である。
 「船の舳先が二隻目のものも西側向きだった、帆柱と帆布見つかった、帆柱を受ける留め金(ブロンズ製)も見つかった。そしてオールを漕ぐのに使う金属の留め金が見つかっている。・・・このことで何が解るのかと言うと、東側の第一の船と今回発見された西側の第二の船はつながれて航行するということだ、しかも二隻が縄でつながれていたため、前方の船が引っ張る役目、すなわち動力船で、後ろが神や王が乗る客船ということになる。これは王家の谷などで太陽の船が描かれる時こういう形がとられているのだが、今までほとんどの人が気づかなかった・・。」(吉村作治2018)と説明されている。
 つまり、太陽の船は喪船であってもう一隻の船で曳航されるのである。曳航される船は、現代ではバージ船と呼ばれて通常の船では運搬しにくいものを運ぶ特殊な形状の船のことである。阿蘇ピンク石の石棺を運ぶ実験でも、石棺の運搬方法を検討して、棺を別の筏のようなものに載せて、「海王」が牽引するという方式が採用されたのである。まさに喪船を曳くイメージとなる。

4.残る問題、兵士はどこに潜んでいたのか?
 以上のように、問題の箇所は喪船とそれを曳航する空船というセットで捉えることで理解は進むのだが、まだ疑問は残る。それは何故、押熊王側は喪船ではなく、牽引する船を攻めたのかということである。牽引する船は、漕ぎ手は数人いたとしても、空船とされたようにそこに皇后や主力の兵士の姿は見えなかったはずなのだが、彼らがこの船にいると考えたから襲撃したのである。
 ところがそこに相手はいなかった。一方で喪船には兵士が多数潜んでいたのであるが、押熊王側は気が付かなかった。棺を積んだ船であるが、その棺を囲むような部屋を作って、そこに待機したとするなら、かなり大きな構造物を上に載せないと無理であり、それでは敵に怪しまれてしまう。では大勢の兵士は喪船のどこに潜んでいたのであろうか。
沈没船
 地中海では紀元前1300年前のウルブルン沈没船が発見されて復元図がつくられた。そこには、船底に船倉があって、大量の交易品が積まれていたのである。このタイプの構造船であれば、お宝の代わりに大勢の兵士を潜ませる事ができる。そう考えれば空船を攻めたのも、外見上は漕ぎ手しか見えないが、中に皇后や兵士が潜んでいると判断して、喪船には目もくれず攻め込もうとしたのではないか。そして、喪船の方は、棺が積まれているだけであったが、実は甲板の下の船倉に大勢の兵士が待機していて、期を見計らって出陣したのであろう。
 このように考えると、皇后の策略が分かり易くなるのではないか。だが当時の日本に、兵士を潜ませるような構造船があったかどうかは不明であり、実際に喪船で敵をごまかすことなど困難であろう。これは、作者があくまでそのように考えたとするだけのつくられた話であって、史実といったものではないのである。

5.トロイの木馬のプロットが使われた古事記の説話
 難解な「赴喪船將攻空船」(喪船に赴き空船を攻める)も、同一の船ではなく、牽引船と喪船のセットであって、しかも両船とも大勢の兵士を潜ませる船倉を持った構造船であったと解釈できるが、言葉足らずで、解釈の落ち着かない説話になってしまったということではないだろうか。
 神功皇后の策略は、トロイの木馬に似ているといわれている。兵士がこもった喪船が木馬に相当するのであろう。喪船には誰も乗っていないと考えてしまったために、まんまと敵地に入り込めたのである。実は、トロイの木馬は、誤訳であって、実際は馬の飾りを着けた船であったという説がある。先端が馬頭であしらわれた大型船に兵士を潜ませて台車に載せて敵の城へ置いたとするなら、まさにこの古事記の一節とより近い話となるのではないだろうか。トロイの木馬のプロットを応用してこの物語はつくられたと考えられ、さらに、この箇所の作者は兵士が隠れる空間を持つ大型船を理解している人物であったのではないか。このように記紀の説話には、日本古来の伝承が採録されたという以外に、中国のみならず西方の文化の情報をよく知ったものが、その作成に関わったと考えられるケースが存在していると考えられるのではないか。
   ※「トロイの木馬と神功皇后の戦略」もご覧ください。

 参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
島谷知子『息長帯比売命と品陀和気命の伝承』学苑879号昭和女子大学2014
尾崎知光「古事記讀考と資料」新典社2016
吉村作治「太陽の船復活」窓社2018
ブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」

喪船の図はYouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」より
エジプト絵画は河江肖剰氏のエジプト考古学YouTube「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7」より
ウルブルン沈没船の図はブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」より

伊勢遺跡の柱穴が示す三内丸山6本柱の虚偽説明

 
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新しく立てたトーテムポールに集うカナダのハイダグワイの村人たち(上村幸平氏撮影) 
 
 三内丸山遺跡の巨大な柱穴と木柱痕から、高層の六本柱の建造物を想定することには無理があり、復元されてシンボルタワーのような存在になっている構造物が虚偽であることを明らかにしているが、今回は新たに、古代人の巨大木柱の柱立てという視点で、六本柱の高層建築物が成り立たないことを説明する。六本柱の問題についてはこちらをご覧ください。
 
【1】滋賀県伊勢遺跡の巨大建物の柱穴跡
 発見当初は卑弥呼の時代と関係する遺跡として注目されたが、その後の研究で、100年あまり遡るものであったことが明らかになっている伊勢遺跡ではあるが、その謎の多い建築物の様子から、祭祀に関係する弥生時代後期の重要な意義を持ったものであることは間違いない。さらに、現地では大型建物の柱穴が保存されて、強化ガラスの床面を通して、観察することができる。
 
伊勢柱穴
 
柱穴パンフ
 その柱穴の掘り込みから、古代人がどのように巨大な木柱を立てたのかというやり方を知ることになったのである。図のようなイラスト付きの説明がされているが、柱穴といえば、丸い穴がぽっかりと開いたものと思ってしまうが、実はそれだけではない。細い柱ならともかく、太くて長い木柱を立てるには、それなりの工夫が必要であることがこの柱穴で判明したのである。
 この柱穴は丸ではなく縦長であり、底面に向かって傾斜するように掘り込まれている。最初は不思議がられていたが、やがて大型建物の柱を立てるための工夫として、柱を予定した箇所に導くための掘り込みであったことがわかったのである。柱を持ち上げようとする場合、底面になる突端部は柱の重量が直接かかるので、柱穴の側面にあてて固定するようにしないと、ずれてしまって予定の柱穴の中心に立てられないのだ。
 これを知った時にふと疑問がわいたのである。では三内丸山の場合、その存在を肯定している人たちは、あの太柱をどのように立てたと考えておられるのであろうかと。

【2】三内丸山遺跡の柱立ての方法の信じがたい説明
三内丸山ピット
6本跡
 六本柱をどのように柱立てしたのか、という方法も明確ではないとする疑問の声は早くからあった。これに対し、大林組プロジェクトチームは次のように説明している。
 「長さ16.5m、径1~0.7mの木柱の体積は9.36㎥であり、比重0.7で試算するとその重量は1本が6.55トン」になる巨大木柱である。これを立てるには、「建設予定地点に深さ2m、径1.5mほどの穴を掘り込んでおき、ここへ基部を落とし込むのである。・・・・
 主綱を引く力を一人あたり30キロとすると、これに130人ほどが必要となるだろう。さらにトラ綱(控え綱)を引っ張る人員や下から柱を持ち上げる人員など20~30人が必要となるだろう。もちろんこれだけの員数が一斉に一時に行動するわけだから、これ以外に指揮・指導する者もいたはずである。」
  そうすると、およそ200名ぐらい必要となろうか。果たしてこれは妥当なのであろうか。
「径1.5mほどの穴」としたのは、発掘調査で確認された柱穴が1.5mだからで、このサイズを変更はできない。
 そして、「下から柱を持ち上げる人員」とあるが、どうやって巨木の根元を持ち上げるというのだろうか。
 伊勢遺跡のような掘り込みをせずに、円筒形になっている柱穴に柱を立てるには、困難な問題が起こる。頭部を持ち上げられたとしても、底面となる根元の太い柱を、どのように柱穴に導いて、角度を調整しながら、底部の中心に着地させられるというのか、しかも相手は6トン余りの巨木の根元だ。これが大変困難なことは想像つくことではないか。大林組様、ぜひ、クレーンや重機を使わずに社員さん200人の人力で同じ柱を立てていただきたいものである。
 次に、岡田康博氏の解説だ。「工法も検討された。建て方は現在行われている御柱のような建て方が推測でき、柱穴に一端を落とし込み、✕状に組んだ木を移動させることによって、少しずつ立ちあげる方法である。トーテムポールも同様の方法で建てられている。さらに盛り土や木組みなどの足場を組むことを想定した。」(岡田康博2021)とされる。ここで重要なのは、御柱もトーテムポールも同様の方法とされているところだ。岡田氏は、御柱やトーテムポールの立て方を直接見ておられたのだろうか。ではこの両者の柱立てを見てみよう。

【3】御柱もトーテムポールも、同じ工法で立てていた。
 柱立ての様子を撮影したものは多々あるが、柱穴の形状がわかるものは、解説書などには見当たらなかったが、諏訪郡富士見町高森神社の御柱祭のブログで見ることが出来た。
御柱前
御柱横
八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々のブログ「御柱祭 2 (高森神社)」より 
柱穴は、まるで古代の埋葬の墓穴のように縦長に掘り込まれて、寝かせた柱がはまるようになっており、しかも斜めに掘られている。これは伊勢遺跡の柱穴と同じなのだ。さらに注目すべきことがある。ちょうど柱穴の側面にそわすように長い板材を立てて差し込んでいるのが分かる。これで、柱の底部を板面に当てることで柱穴の側面の土層に食いこむことを防ぎ、さらに円滑に柱を落とし込むためのものであろう。
 次に、トーテムポールだが、これも撮影されたものがあった。写真は、上村幸平氏のブログでカナダ太平洋岸の孤島、ハイダグワイでの、ポール・レイジング——新たなトーテム・ポールを建てる日の光景だ。
 「チーフ(族長)たちはレガリア(ハイダ族の民族衣装)に身をつつみ、子供たちは久々の晴天のもとではしゃぎ回っている。見晴らしのいい丘の上にはエルダーたちの席が設けられ、長老らがみなを見守っている。」御柱と同じような祭りの雰囲気で立てられているようだ。
トーテム2
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 ここでもトーテムポールは縦に掘られた穴に斜めに入り込んでいる。さらに、その柱穴となる側面にポールの底部が当たる所に板が差し込まれている。まったく御柱と同じやり方でトーテムポールは立てられているのだ。
 六本柱の柱穴はすべて円柱状に掘られている。縦に伸びるような土坑状の跡は見られないのである。岡田氏は、御柱やトーテムポールと同じと断言されたのだが、柱穴の形状などはご存知ではなかったようだ。
 それにしても、御柱もトーテムポールも柱穴に長い板をたてて、柱の先端が当たるようにして、柱穴底面まで円滑に収まるように工夫しているのは注目できる。また、カナダの民族衣装のデザインなどはどことなくアイヌの文様と似ているのも興味深い。日本とカナダの基層文化に共通するものが見えてくるのである。注1.
 余談だが、柱立ての際に板を柱穴に立てるのは、伊勢遺跡でも行われていたと考えられる。よってその説明に細長い板を柱穴側面にあてることを、説明に加えていただくことを検討していただきたい。

【4】伊勢遺跡の工法の事例は、他にもあるのではないか?
 伊勢遺跡の柱立てから、三内丸山の六本柱の巨大建物が虚構であることを重ねて明らかにしたが、一方で、この古代の工法が、他にもあるのではないかと思われた。そのひとつが、三本の木柱を束ねて宇豆柱としたあの出雲大社である。有名な三本の柱が検出された写真はよく見かけるが、実際に柱穴はどうなっていたのか、さらに御柱と違って三本束ねた柱をどのように立てたのかという疑問が湧いてくる。
うずばしら「
 以下のような図面があった。そこには、柱穴の底面が傾斜していることが見て取れるのである。
出雲上から

出雲断面
 奈良文化財研究所の報告書によると、柱の立て方は、A―A´の断面図を見ると、「柱穴が南から北に緩やかに下るスロープを持つことから、南方から搬入して、柱立てを行った」 
 重要な指摘だが、何故スロープ状なのかについての言及はない。伊勢遺跡と同じような方法の柱立てであったと考えられる。また、この三本組の柱は、別々に立てて、後から束にした様子が確認できるのだそうで、三本を束ねてから立てたのではないようだ。さすがに、あらかじめ三本に組んだ巨大な柱を立てるのは困難であろう。 
 なお、大林組プロジェクトは、この大出雲大社の復元においても、柱穴そのものは何の考慮もせずに、架空の巨大神殿建築の工事の説明をしている。  
 これは余談だが、斧の一種である鉄製の釿(ちょうな)が2点、柄を抜いた状態で埋置されていた。バチ状のものだが、先ほどのトーテムポールでも同じような形状のものが、手に持たれているものが投げ込まれる。上村幸平氏の記事には、「トーテム・ポールを建てるのに先立ち、会場にいる人びとに小さなコパー・シールド(銅の盾)が手渡される。ポールの根本に投げ込めという。コパー・シールドはハイダ族にとって重要なモチーフの一つで、建築やアート、アクセサリーなどによく取り入れられている。」これも、出雲との共通の習俗を感じさせるものでとても興味深い。注2.
 他にも、検討が必要な遺構があるかもしれない。いずれにしても、6本柱の柱穴跡はきれいな円形になっており、縦の掘り込みは見当たらないところからも、縄文人がその高層の巨木を立てるなどはしていないことは明らかであり、やはり巨大建築物なるものは虚構の復元であったことを示している。できるだけ早く撤収していただくことを望む次第である。

注1.トーテムポールの始まりは、おそらく家の中の装飾された柱に起源をもつものとされるが、現在に見られるようなものは、18世紀以前のものは今のところ確認できないようである。トーテムポール以外の柱立ても同様の方法で行っていた可能性はある。
注2.細井忠俊氏による、次のような記述もある。ガラスのビーズがまかれたという記述の後に、以前は、深い穴が掘られ、そこに主催者がなにか高価なものを投げ込んだという。絵や彫刻が施された仮面、コッパ―と呼ばれた家族の紋章を描いた銅板紋章でもよかったという。さらには昔は奴隷が殺されて投げ込まれたという。宗教的な意味合いではなく、主催者が高価なものを気前よく手放すことを村人に見せつける行為だった。とされる。ただ、何でもよかったというのは疑問もあり、一定の考え方はあったと考えたい。

参考文献
大林組プロジェクトチーム『三内丸山遺跡の復元』学生社1998
岡田康博『三内丸山遺跡』(日本の遺跡48)同成社2021
奈良文化財研究所第6章 八足門前の調査②(近世以降の遺構) ネット掲載
細井忠俊「トーテムポールの世界 北アメリカ北西沿岸先住民の彫刻柱と社会」彩流社2015
伊勢遺跡公園解説パンフレット

写真
特別史跡「三内丸山遺跡」HPより(柱穴) 
島根県立出雲古代博物館HPより(宇豆柱)
八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々のブログ「御柱祭 2 (高森神社)」より
上村幸平氏のNOTE「トーテム・ポールにいのちを吹き込む」【ハイダグワイ移住週報#15】より ご提供いただきました。  ※上村幸平氏は大阪出身の若者で写真家。カナダに移住して現地の文化を紹介されるなどの活動を行っておられます。よろしければぜひご覧ください。こちら☛ https://lit.link/en/siroao

高崎市吉井町の火打金のルーツ 火打金とポシェット⑴

吉井のレン
 群馬訪問の目的の一つに、火打金について新たな情報を得たいという思いもあったが、高崎市吉井郷土資料館では、関係する展示品をいくつも見ることが出来た。
購入火打

 そこで火打金のセットを2000円で購入した。これはネットで注文するよりもお得だったかもだが、これはカスガイ型火打金というそうだ。火打石は、おそらく石英であろう。火花をつけて火種にする火口(ほくち)もついている。
 早速、試しに火打石に火打金を打ち付けてみた。石の鋭利なところにこするように打つのだが、少々コツがいるが、うまく打ち付けると、かなりの火花を飛ばせるので、何度でもやってみたくなる。いや、癖になって外でカチカチやってたら通報されます。
石英火打
 実は、ある文献に黒曜石も火打石になるとあって、そのことを人に話したことがあるのだが、はたして火花を出せるのか気になっていた。火打石は硬度が高くないと発火させられないのだが、黒曜石は叩くと鋭利な刃物になるように割れるガラス質のものだ。火打ち金を打つと火花が出せずに欠けてしまうだけではないかと心配だった。
黒曜石火打
 そういうこともあって、以前に別の博物館の売店で購入した黒曜石でも火花が出るか試してみた。勢いは劣るが、それでも使えないことはないとわかって、人に説明していたので安堵した。ただ、火打石に向いているとは言えないようだ。

 日本では摩擦式発火法は弥生時代以降、打撃式発火法は古墳時代以降多く確認されている。中世の鎌倉からも「火切り板」が出土しているが、火打石の出土事例も多く、中世以降、摩擦式発火法は次第に打撃式発火法に取って代わられていったと考えられている。
平安江戸火打
 この資料館では、平安時代の火打金をみることができる。その後、江戸時代に入って何故か群馬の吉井町で作られるようになって普及するようになった。
 
火打販売
 吉井の火打金は特に評判を呼んでお寺詣の旅人たちが買い求めたそうで、この火打セットを携帯できるよう巾着のような袋に入れることもあったようだ。その現物も展示されている。
 
火打袋
 また旅先だけでなく、家での利用も普及したが、その背景には火事の予防として、常火の禁止によって、容易に火を起こせる手段が求められたことにあるといわれている。いちいち摩擦で火を起こすのはけっこう大変です。
 資料館の解説では、武田信玄配下の子孫であった近江守助直(おうみのかみすけなお)という刀鍛冶が火打金伝えたという。一方で、京都明珍でも作られていたのだが、私の興味は火打金が、大陸からどのように伝わったのか、また、どのような人々が江戸時代まで継承させていたのか、といったところである。
「火打金は、北方アジアの遊牧民や狩猟民の野外行旅の携帯品であって、火おこし自体が非日常的なものである以上、通常、各住居に備えられた日常用具とは考え難い」(森下惠介2020)という。また火打金は、「7~9世紀にほぼ同時に東は日本から西は東欧までの広大な地域に出現した。残念ながらどこが起源でどのように広まっていったのか、という問題については、今のところ説明不可能と言うしかない。ただその普及に長距離移動をすることもある遊牧民が関与したであろうことは想像に難くない。」(藤川繁彦1999)と述べておられる。
 列島に火打金がもたらされたのは、騎馬遊牧民が関与していると考えられるのであるが、実態はよくわからないようだ。
 騎馬遊牧民は、江戸の旅人のように火打セットをポシェットなどに携帯(火打金を腰帯に直接吊るすものもある)して使っていたようだが、それがどのように渡来して使われるようになったのかを、少しでも解明できればと思う。また、火打金にまつわる説話などもみていきたい。なお、火打金は関東の方では火打鎌といわれているようだが、ここは火打金と表記させていただく。

参考文献
藤川繁彦編『中央ユーラシアの考古学』同成社1999 

あぐら座りの男子埴輪  綿貫観音山古墳⑵

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1.三人童女埴輪
 後円部墳丘西側から前方部くびれ方向に向かって、人物埴輪の一団が置かれていた。三人童女埴輪をあいだにして、対座するように、合掌する男子と祭具を捧げ持つ女子埴輪という構図の埴輪群を、祭人像グループとも呼ばれる(大塚2017)
 古墳の前に立てられた解説パネルに、三人の女子が弦楽器を爪弾く、といった説明があるが、どう見ても演奏しているように見えないのだが、残っていないだけで、本来は弦楽器があったというのである。右側の童女の右腕にひものような表現が見えるのが決め手だそうだが、ハープのように立てて引く弦楽器があったのであろうか。
 他の事例では、楽器を弾く人物は、膝に楽器をおいていることからも、それはやや無理な解釈のようで、三人そろって祈りを捧げているようにしか見えないのだが。しかも、三女子は背中に鏡を二つずつ付けているのだが、楽器演奏とどう関連するのであろうか。   
三女子背中
 それにしても、どうして同じ横長の座面に座らせるという三人セットのような表現なのであろうか。これが、田心姫神(タゴリヒメ)、湍津姫神(タギツヒメ)、市杵島姫神(イチキシマヒメ)とういう宗像三女神のような巫女さんを表しているとしたら面白いのだが。

2.あぐらを組む男子埴輪
双脚帽子
     男子埴輪の頭部を上から腕を伸ばして撮影
 あぐらを組んでいる男子も、気になることがある。それは頭部の鍔のある帽子で、この形が、九州の装飾古墳や、近畿などの埴輪にも見られるいわゆる双脚輪状文の冠帽だ。ただし、烏帽子のような表現は、他の埴輪を参考に作られたものだそうだ。

双脚輪状文埴輪
       和歌山県立紀伊風土記の丘資料館

双脚輪状文パネル
 パネルにあるように、この文様は、九州から北関東まで、きわめて偏在した分布であり、特定の集団が好むものであったようだ。九州では、石室に描かれていた文様が、近畿や群馬などでは埴輪として作られているのは面白い。それにしても、この形は何を意味しているのか。スイジガイを表しているとの見方があるが、はたしてどうであろうか。

 他にも、この人物埴輪には気になる所がある。あぐらを組んで坐っているのだが、これは、左足の先端部以外は、復元時に「後補」されたもので、着衣の裾の形状からあぐらを組んでいたと判断されたようだ。他の事例で、あきらかに足を組んでいるとみられるものもあるので、問題はないと考えられる。では、この人物はどうしてアグラすわりで手を合わせて合掌をしているようなポーズをとっているのか。
 隋書には、次のような多利思比弧(タリシヒコ)の記事がある。倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という。あぐらをかいて日の出まで公務を行っていたのだろうか。このあぐらは原文では跏趺坐とあり、それは、あぐらよりきつい足の組み方で仏教の座法である。あぐらをして手を合わせているのであれば、公務というよりは、瞑想にふけるかのようにとれてしまう。
 タリシヒコは7世紀前後のちょうど聖徳太子の時代にあたる倭国の王と多元史観では考えているが、この人物埴輪も腰に装飾の付いた大帯をしており、この地の王と考えられる。同じような意味の表現がされたものであるならば、この埴輪の祭人像グループは、無事に日の出が上ることを祈っているのであろうか。
 

参考文献
大塚初重・梅澤重昭「東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳」新泉社2017
藤田富士夫「珍敷塚古墳の蕨手文の解釈に関する一考察 一中国漢代羊頭壁画との比較から一」ネット掲載
加藤 俊平「双脚輪状文の伝播と古代氏族」同成社2018

二段目に作られた切り石を積み重ねた巨大石室  綿貫観音山古墳⑴

綿貫全景
綿貫パネル
 群馬県高崎市綿貫観音山古墳の横穴式石室は未盗掘のため豊富で豪華な副葬品を持つものであったが、その石室そのものも巨大で、見ごたえのあるものであった。
綿貫入り口
 壁石材は四角に加工されたブロックを積み重ねて作られているというのも見事。中に入れば感動もので、スカッシュができそうな?空間があるのだ。
 
綿貫石室全景
 この玄室の長さは約8.3m、幅は奥で約3.9m。このような幅の広い石室は例がなく、それまでの最大のもので2.1m前後だという。見学の当日は、気温30度近くで蒸し暑かったが、室内には温度計があって20℃だったので快適であった。
綿貫温度計
綿貫出口
 右島和夫氏によれば「この幅の大差は注意する必要がある。石室の長さは、石を継ぎ足していけばいくらでも長くできる。ところが、幅はそうはいかない。なぜかというと、天井に載せる石の幅は継ぎ足しがきかない・・それまでの天井石の幅の2倍のものを載せた」(右島2018)のだという。言われてみたらその通りでこの説明には納得だ。持ち送り技法でだんだんと上部をせばめていくドーム、穹窿(きゅうりゅう)型の石室があるが、それは、デザインのこだわりと共に、大きな天井石を載せなくて済むという合理性もあったかもしれない。この点、綿貫の場合は限界に挑戦した石室だったと言える。
綿貫石組み
 この綿貫観音山古墳の石室は、切り石を積んだ壁に最大幅の天井石を載せた画期的なものであった。しかもところどころに、L字形に切り込みを入れてはめるように積んでいるところもあり、この技術はどこから来たのかと感心する。天井石は三つ載っているが、最大のもので22トンだという。イナバの100人どころではないのだ。
 この立派な石室が2段目に作られているが、大抵の横穴式石室は墳丘の1段目にあることから、作業にかなりの手間がかかったと思われる。そして気になったのは、巨大な天上の岩をささえる石積みの足下はどのようになっているのか、ということだった。床面には大きめの砂利が敷き詰められており、いったい、最下段の石積みはどうなっているのか、幅が広くて厚めの石が据えられているのかなど気になった。

綿貫図面
 後日、調査報告書の図面を確認した。調査時には、左側の壁が崩れ落ちていたそうだが、最下段の積石を見ても特にかわった施工を施しているわけではなく、同じように積まれた石が側面は2段目まで、正面は1段分が地面下に埋まっているだけだった。よくこれで支えられているものだと感心した。その床面の土は突き固めて平らにしておかなければ崩れる危険もあるわけで、大変な作業であったと思われる。なぜ気になったかというと、大阪府高槻市の今城塚古墳は、3段目の墳丘に石室を築いたとのことで、発掘調査で、その石室の土台の強化のための石室基盤工が検出されたというのである。それが、綿貫の場合はそのようなものがなく、固めた地面の上にそのまま載せていたという違いがあったからである。今城塚については、埴輪列のモデルとなるものなど、群馬の古墳に関連するものが多くあるので、あらためて考えていきたい。


参考資料
綿貫観音山古墳Ⅱ 石室・遺物編 群馬県教育委員会1999
右島和夫「群馬の古墳物語下巻」上毛新聞社2018

おしゃれを競い合っていたかもしれない縄文女性の耳飾り 『万物の黎明』から思うこと

耳飾り

  伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館 縄文晩期釜の口遺跡の土製耳飾
 
1.耳飾りの美に感嘆する。
 写真は、直径5センチは下らない縄文のピアスの耳飾り。もちろん粘土細工だが、器用な縄文人が作りだした芸術作品のようであり、今でもこのようなデザインの装飾品があっても通用するような見事な作品だと思う。前回に群馬に訪れた際に、榛東村耳飾り館も見学したが、そこで、現在でも大きなサイズ(10cmはありそうな)の耳飾りをする中国の少数民族などにあることを知った。最初は、小さなものから、だんだんと大きなサイズのものに付け替えていくのだが、当然、耳たぶには大きな穴が開いていく。それをはずすと、まるでイカクンのように細長くなった耳たぶが垂れ下がる。その様子にはちょっと引いてしまうのだが。
 
耳飾り館
      耳飾り館はチケットだけ撮影

綿貫観音
  群馬県立歴史博物館 桐生市千網谷戸遺跡縄文晩期土製耳飾

月矢野耳飾り
 月夜野郷土歴史資料館 群馬県利根郡みなかみ町月夜野矢瀬遺跡後期から晩期
 
 各地の博物館に耳飾りはよく陳列されているが、中には、同じ人物の作品かと思うような、あるいはコピーしたかのような、類似のデザインのものが、少し離れたところからも見つかる。ほかの物品と一緒に、この装飾品もやり取りがされていたのかと思われる。
 それにしても、多様な形状、ユニークなデザインのものがどうして作られたのであろうか。これは、現代と同じように縄文の女性もおしゃれを楽しんでいたということだろう。もちろんピアスをする男性もいたであろうが。
 競い合ってより粋なデザインのピアスを求めては、おしゃれを楽しんでいたのではないか。新作が完成すると、みんな集まって感想を言い合っていただろう。また、耳飾りだけでなく、顔料を使ってボディペイントなどもいっしょに描いていたかもしれない。

2.耳飾りも女性の賭けの対象だったかもしれない、というお話。
 老いぼれた頭にはかなりきつい重厚な大作の『万物の黎明』は「人類史をくつがえす」というサブタイトルが付いているが、その内容については今後も参考にしていきたいと思うのだが、その中に次のような一節がある。
「女性のギャンブル 多くの北アメリカの先住民社会において、女性は、根っからのギャンブル好きだった。隣接する村々の女性たちは、サイコロ賭博やどんぶりと梅花石を使ったゲームをするために頻繁に集まっては、一般にはシェルビーズなどの身の回りの装飾品を賭けの対象とするのだった。民俗誌の文献に通じた考古学者ウォーレン・デボアは、大陸の半分を占めるさまざまな遺跡で発見された貝殻やその他のエキゾチックな物品の多くが、きわめて長時間をかけて、この種の村落間でおこなわれた賭博ゲームで翔られたり巻き上げられたりしたあげく、そこにいたったのだろうと推測している。」(P29)
 現代では、普通に男女がギャンブルを楽しんでいるが、古代の女性も装飾品を賭けの対象にして楽しんでいたというのは面白い。そうすると、縄文時代においても、腕輪や首飾りなどと同じように、賭けをして勝った女性が、一番出来の良い素敵な耳飾りを手に入れる、などということもあったかもしれない。
 もう30年も前のヒット曲だが、シンディ・ローパーさんの『Girls Just Want to Have Fun 』は、女の子だって楽しみたい、というメッセージソングだが、同じように縄文時代の女の子だって楽しんで日常を過ごしていたのではないか。そのように考えると、縄文時代の祭祀のためなどと説明されることの多い遺物から、いろいろと異なる想像もできるのではないかと思う。

参考文献
デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロー「万物の黎明」訳酒井隆史 光文社2023