流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

古代大和史研究会主催 講演会 2024.12/24(火)13:30~16:30
会場:浄照寺(奈良県磯城郡田原本町茶町584)近鉄田原本駅から東に徒歩5分
「天皇はいつから天皇になったのか」服部静尚氏
「聖徳太子の半島出兵は無かった」正木裕氏
「大国主が落ちた穴と宇陀の血原の本当の意味」大原重雄  参加費は500円(資料代)です。お気軽にご参加ください。

大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑴ 

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   写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型

 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。

1. 落し穴猟の底にある杭の目的は?

 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想されている。しかも単発的でなく、同じエリア内に連続的に落し穴を設けている状況が見てとれる。一つや二つの落し穴では、獲物はかかってくれないからだろう。博物館には、よく上図のような落し穴に落ちてしまった獲物が描かれる。先端を尖らした杭が落し穴の底部に差し込まれており、そこに落ちた獲物の胴部に突き刺さって仕留めるというという様子の再現だ。やや残酷とも思ってしまうのだが、ただこの場合、仕掛けをしたあとに人は待機せずに放置して、動物が落ちた後に確認して確保するやり方だ。実際に、縄文時代の落し穴を調査すると、底部に1カ所から複数の杭跡のような穴が見受けられる。そこから、獲物が落ちた瞬間この先がとがった杭に刺さるというものだが、これについては異論が出されている。
 「一見、槍のような殺傷目的を思わせるが、なかには深く地面に刺さり込んでいない例もある(中略)槍が機能した場合に、血のにおいを嗅ぎつけた他の動物に狙われる可能性があるので落し穴にむかない。開口部の覆いを下から支えるための棒あるいは、陥し穴にかかったシカが坑底に脚がついた場合跳躍して逃げるのを防ぐため、体を宙にうかす可能性」(大泰2007)があるという。
 納得できる指摘であろう。たしかに、落ちた獲物が尖った杭に刺さって出血したら、カラスや他の肉食獣などが真っ先にやって来るだろう。殺傷の為ではなく、落ちた獲物の自由を奪うためであり、杭によって脱出できなくなった獲物は、すぐに殺傷してから穴から引き出すことになる。そして、罠にかかった獲物は死んでしまったらすぐに処理をしないと、体温を持つ内臓がすぐに傷みだし、さらに血液も影響して肉がまずくなってしまう。
 だから、仕留めた獲物はまずは血抜きをして、さらに肉と内臓を分ける解体作業を手早く行わなければならない。よって、先を尖らした杭を底に立てた罠を作って、いつかかかるだろうと放置しておくことはありえないと思われるので、博物館の展示にあるような解説には見直しが必要ということになるのではないか。
 
2.落し穴猟は、待ち伏せではなく、追い込み猟
 獲物の対象となる猪や鹿などは、大変敏感な生きものであり、人間が掘った穴などもニオイで察知すると思われる。茅野市尖石縄文考古館HPには、「放置しておき動物が落ちるのを待つ罠猟」との説明があるが、これでは獲物の確保は難しいかもしれない。
 落とし穴は単にケモノ道やその近隣に設置しただけでは、人が造ったという不自然さとヒトの気配を容易に察知され、簡単に避けて通り過ぎられてしまうと思われる。イノシシは移動中も掘り返し行動を伴いながら餌を探しているため 、地表面の変化には特に敏感だという。
 縄文人は、獲物の集まりやすい草原を作るために火入れによって、自然環境を変えてきたという。火入れによって生み出される草原的植生は、シカ・イノシシが嗜好する餌植物を多量かつ集中的にもたらすのだという。
 そこで、樹林帯と草原帯の狭間に落し穴をめぐらし、合わせて間伐材などで誘導柵も設置しての追い込み猟があったと考えられている。罠にかかってもらうためには、餌を用意したり、犬を使ったり、また松明の火も利用して追い込んでいったのであろう。
 ただ気になることがある。この落し穴猟は旧石器から縄文時代に見られるものであって、弥生時代以降は検出されていないというのが、通説になっている。だが弥生時代になっても、みんながみんな米作りだけ行っていたわけではなく、狩猟採集を生業とする人々もいるはずだ。しかるに弥生時代にみつかる数多くの土坑は、貯蔵の為の土坑と説明されている。
 東京国立博物館HPには、「綾羅木郷遺跡(山口県)からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。」という説明がある。いささか微妙な説明だが、落し穴猟は皆無ではないと考えられてはいるのだろう。実は古事記や日本書紀には、落し穴猟との関係をうかがわせる記事が見受けられる。(続)

稲荷山鉄剣銘文の杖刀人は呪禁(じゅごん)者との解釈

稲荷山古墳
  埼玉県稲荷山古墳復元礫郭 2015撮影 現在、礫郭はパネルになっているようです。

 杖刀人については『山陽公載記』の記述に従って「刀を杖つく人」とする説など、複数の解釈はあるが、いずれにしても杖刀人とは武官であって、大王に近侍する親衛隊、宮廷警備の武人といった解釈である。ここに、まったく異なる見解が早くに出されていることを知ったので、その紹介とその解釈から、銘文全体の意味をとらえなおしたい。(末尾に銘文を記載)


1.杖刀という霊剣を扱う呪術者

 田ノ井貞治氏は『杖刀人と典曹人』において、中国の戦国時代からある宗教の道教によって解明されようとされた。『令義解』の記述から杖刀人を杖刀を扱う人の意のことだという。『令義解・巻八・医疾令第二十四』に「呪禁(じゅごん)生は呪禁して解忤持禁(じきん)する之法を学べ」とあり、その謂に「持禁者は杖刀を持ち呪文を読み・・」とある。この杖刀は東大寺献物帳に、「御太刀壱佰口」が三つの櫃に分納され、第一の櫃には五十八口、第二は四十口、第三に杖刀二口とある。二口の杖刀だけが一つの櫃に大切に保管されていたとある。さらにこの二つの杖刀は鞘の装飾が立派であるが、刃渡りは鞘の長さの半分以下となっていることからも、武人の持つ刀ではないことがわかるという。
 また『令義解』には「凡医生・・・呪禁生は世習を取れ」とあり、鉄剣銘の「世々杖刀人首」が、代々世襲する意味を理解できる。道教では、「七祖父母、自然の生道、登仙南極宮」が、自分の祈願と並んで、七代前までの先祖の魂も救われるように祈願すれば南極宮(仙人の住むところ)に登り、永遠の命を得られるといった思想があり、これで、7人の祖先名を記した意図が明確になる。
 杖刀人である呪禁者は、病気を癒すだけでなく、戦争の勝ち負け、戦術に参画して功を為したので、誇らしげに「吾、天下を佐治す」と記したのである、とする。
 以上のようなことから、田ノ井氏は、杖刀を持って呪禁を唱える呪禁師で、雄略天皇の全国制覇を助けた人なる。獲○○鹵大王を雄略天皇とすることには従えないが、この杖刀人の『令義解』と道教を示しての解釈は納得できるものであり、ブログに引用された阿部周一氏や中村通敏氏と同じく賛意を表するものである。ちなみに、江田船山古墳の典曹人についても、「海運業に携わる人の親分」とされているのも考慮に値するものと考える。
 さらに、田ノ井氏は、道教が5世紀に列島に伝わったとするのは早すぎるのではといった意見については、渡来人の存在から、その可能性を論じておられる。この点を含め、以下に銘文の解釈に関してふれていきたい。
 
2.古代の刀剣信仰

 古代ユーラシアでは、金属器の武器の誕生とともに、刀剣を神剣・霊剣とする信仰がつくられ、武器そのものとともに広がっていった。
『魏書』巻一〇三高車伝には「埋羖羊燃火拔刀女巫祝說,似如中國祓除」とあり、女巫が刀を使って呪術を行っている。大林太良氏は「アルタイ系諸族のシャマニズムのなかに、・・・・戦神としての剣と関連を示す諸要素が現れている」とされる。注1 これは騎馬遊牧民の信仰なのである。
 神武紀においてタケミカヅチがタカクラジを介してイワレヒコに渡した韴霊(フツノミタマ)も霊剣の一種であろう。
また阿部周一氏の指摘だが、「武」の上表文には「歸崇天極」、「白刃交前、亦所不顧」とあり、これは「道教」を通じて「南朝皇帝」に対して臣従する意と、「北斗」を剣に書くとどんな敵にも負けないという「道教」にもとづく信仰のようなものの存在を示唆するとされている。注2 すなわち、杖刀人を道教との関連で捉えることは時期的に早すぎるものではないということであろう。
 群馬県金井東裏遺跡の火山噴火に立ち向かった甲を着た古墳人も、おそらく霊剣を持って呪禁を行った杖刀人と近い存在であったのかもしれない。この人物の所有と思われる鹿角製の装飾の付いた鉄矛と鉄鏃が出土しているのだが、どうであろうか。他に、霊剣と類するものに七支刀や四寅剣、蛇行剣などがあろう。七支刀は銘文の「百兵」を「辟」けることができるというのは、道教的禁呪を表しているとの指摘もある。

3.銘文の解釈に関して

⑴稲荷山と江田船山の銘文の共通点
 一般的解釈のワカタケルに対し、古田武彦氏は、至今獲 加多支鹵 というように、「今獲て」として、カタシロと読むとされる。ちょうど、形代、潟代で神霊の宿るところの意となり、王の名にふさわしいという。注3
 しかし、なぜ獲と加で分けるのか。来至という熟語があると説明されている。ただ一方で、「今に至る」は否定されてはおられない。また、今獲(えて)と動詞で読むのかの説明では、上位のものに信任を獲る、といった解釈なのだが、いささか無理があるように思える。
 既に指摘されていることだが、この稲荷山と江田船山双方の銘文には共通点が見られる。どちらにも「奉事」があり、「七月中」に対して「八月中」、「杖刀人」に対して「典曹人」、「百練」に対して「八十練」などよく似た語句が用いられている。これが両者の同時代性を推測させるとの指摘はもっともだ。他にも治(台)天下がある。また人名に「利」や「弖」が使われている。
 稲荷山の場合は獲は6カ所使われているが、そのうちの5カ所は人名であることは明白であろう。すると、大王の名にも獲が使われていてもおかしくない。この箇所だけ動詞として読むことの方が不自然ではないか。
 そうすると、獲加多支鹵大王と獲□□□鹵大王も共通との推測も可能だ。獲は人名を表す文字と考えるのが妥当であり、そうするとワカタシロ、となるであろうか。
 江田船山古墳鉄剣銘については、鈴木勉氏が、王権からの下賜刀ではなく、顕彰刀と主張されている。注4 実は東大寺宝物庫の100本の刀剣のうち、短い銘文が入ったものは2本だった。橿原考古学研究所保管の約300本の刀剣のX線調査では、1本も銘文は検出されなかったという。銘文入り刀剣が王権による下賜刀であるならば、もっと多くの銘剣が見つかってもいいはず。数が少ないことからも、銘剣が特殊な事例であり下賜刀とはできないであろう。すると、稲荷山の場合も顕彰刀として本人、もしくはその家族や周辺のものが作成させたとみることができる。
 
⑵百済との関係での検討
 犬養隆氏は『古代の文字文化』で、半島の銘文による指摘がある。百済の都が置かれた韓国の扶余・陵山里寺址出土の6世紀木簡 城下部対徳疎加鹵 とあり、官位と人名が記されているもので、「□城下部」は所属名、「対徳」は官位、「疎加鹵」は人名と考えられる。加・鹵という共通する文字が使われている。
 また伝加耶出土鉄刀銘では  ・・・不畏也□令此刀主富貴高遷財物多也 と、刀剣銘に吉祥句を記す点、象嵌の技法、書体に類似を指摘されている。
 さらに七支刀との類似も挙げている。「丙午正陽造百錬」という共通する表現がある。
 以上から、鉄剣銘には、七支刀がそうであるように渡来、特に百済との関係が見え隠れしている。なお、名を表す利も半島、特に百済に見られるものだ。また阿部周一氏は、百済から七支刀とともに「呪禁」を職掌とする立場の人物もやって来たとみておられる。

⑶杖刀人が呪禁師であるならば、佐治天下の意味も変わってくる。
 古田氏は佐治天下について、「中国の古典に用例を持つ慣用語とし、合わせて卑弥呼に対応する男弟の例から、天子、もしくは王が幼少、もしくは女性などの時、これに代わって、その国家の統治行為を行う」注5、との意味とされる。また「卑弥呼はいわば宗教的な巫女、これに対し、倭国の実際の行政をやっていたのは、『男弟』の方、佐治というのは実質上の行政権者」とも書かれている。
 しかし、杖刀人が宗教的な役割を果たす人物であるならば、統治行為とは考えにくい。実は「治」には、祭る、斎き祭る、という解釈もある。するとここは、大王の統治行為に対して祭りをして助けた、といった意味になるのではないか。あくまで私案だが、〇〇大王の世のシキの宮の時に、杖刀人首として天下の平定に呪術の力で尽力したので、(これを顕彰して、とっておきの)剣を作らせた、といった内容と考えたい。

注1. 大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
注2. 阿部周一「『杖刀人』と『呪禁』」ブログ古田史学とMe
注3. 古田武彦「盗まれた神話」p81 古代史コレクション3
注4. 鈴木勉「線刻鉄刀と象嵌技術」(文化財と技術9号)工芸文化研究所2019
注5. 古田武彦「古代は輝いていたⅡ」p273古代史コレクション20

◆稲荷山古墳鉄剣銘文と江田船山古墳鉄剣の銘文と一般的な読解。
表) 辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比垝 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比
(裏) 其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下令作此百練利刀 記吾奉事根原也
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『カク、ワク』+『カ、クワ』+『タ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」   以上ウキペディア
乎獲居臣の臣については巨でコとし、ヲワケコとの解読もある。
 次に江田船山古墳鉄剣銘文 
台(治)天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖  八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀  服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

参考文献
古田武彦「古代史コレクション2.20.28」その他
江上波夫「騎馬民族による征服説」(騎馬文化と古代イノベーション)KDOKAWA2016
白石太一郎「日本列島の騎馬文化はどのようにして始まったのか」(騎馬文化と古代イノベーション)同上
犬養隆「古代の文字文化」竹林舎2017
井上秀雄氏「実証古代朝鮮」日本放送出版協会, 19923
小嶋篤「象嵌大刀と刀装具の世界」九州国立博物館アジア文化交流センター研究論集 ; 第2集 2021
日高慎「埴輪の世界―畿内との共通性と東国の独自性」(はにわの世界)茨城県立歴史館2013
田ノ井貞治氏『杖刀人と典曹人』東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会, 1999-08
末永雅雄「日本上代の武器」弘文堂 昭和16
大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
吉田修太朗「稲荷山鉄剣の銘文に関する一考察」埼玉県立史跡の博物館紀要第16号 2023
濱田耕策「朝鮮古代史料研究」吉川弘文館 2013
管浩然「『古事記』国譲り神話「治」について」上代学論叢 和泉書店 2019

胴部に穴をあけた土器と𤭯(はそう)の小孔

光15有孔土器
  写真は、光州博物館展示の胴部に大きな穴のあけられた土器

円窓土器
  こちらは、愛知県朝日遺跡の円窓(まるまど)付土器

1.愛知県清須市の朝日遺跡の円窓付土器
 環濠のある弥生集落だが、従来、防御施設といった解釈がされてきたが、こちらで示したように、洪水など、水害対策用の施設などが主な役割と考えられるようになってきている。(こちらでは、高地性集落や環濠集落の意味を根本から見直されつつある状況を説明)
 そこに、胴部にぽっかりと大きな穴をあけた土器が多数出土している。円窓付土器と言われており、弥生中期後葉の時代に尾張地域に分布している。墓域とその周辺などから出土しており、居住域からは少ないようだ。焼成後の体部穿孔や口縁部打ち欠いたものもあるという。「風化痕」と見られる痕跡があり、屋外に放置され、風雨にさらされた状況から、墓に供えられたことの傍証になり、やはり、供献壺と共通のものとなる。
 せっかく完形品を作っておいたのに、わざわざ壺、容器としての役割を損なうような大きな穴をあけるという行為の意味はなかなか理解できないが、同じようなものを韓半島でも制作して、儀礼に用いられていたとするのは興味深い。同じ信仰を持つ集団が、この地に居住したのであろうか。

2.古墳時代の胴部に小孔のある土器
関西大学𤭯
 古墳に供えられた須恵器などに、円窓ほどではない小孔のつけられたものは、数多く存在している。ある図録には、次のような解説がある。
 「𤭯(はそう)とは須恵器の器名で、胴の部分に小さな丸い孔をあけた壺」のことだという。その次に、この孔の役割を説明されている。「この孔に竹などで作った管を挿入し、酒などの液体を注ぐ注器として使われたと考えられている」とのことだ。竹菅を注口になるように差し込むための孔だという説明だが、ちょっと素直には受け取れない。これについては、くわしい説明が、ウィキペディアにあるので(こちら)ご覧いただきたいが、根拠となる事例が、静岡県の郷ヶ平古墳出土人物埴輪で、両手でかかげる様に容器をもっており、そこに注口がついているのである。
須恵器を持つ埴輪
 しかし、よく見ると、これは先端部にかけてすぼまっているような形状である。とても竹管を差し込んだもののように見えないのだが。確かにこの容器の形状は𤭯とされる須恵器と同じ形の表現であり、出土したものに、胴部に注口を最初から付けているものは見られないことからすると、後から竹などを差し込んだということになる。すると、あけた穴にピッタリになるように、表面を削りながら差し込んだのか。同様の胴部に小孔のある須恵器は韓半島にも存在しているが、同じような使い方がされていたのであろうか。

3.栓がされた𤭯や鈴付きの𤭯
栓をした𤭯
 いろいろ疑ってみるのだが、過去に撮影したものを見直していると、吹田市立博物館に、蓋がされて小孔部に栓がつけられた状態の𤭯の展示があった。この場合はお酒でも入れて保存していたのであろうか。さらに、特殊な例もあることに気が付いた。
 
鈴用𤭯
 長岡京市埋蔵文化財センターに、鈴付きの𤭯というものがあって、胴部の下半分に仕切りがあり、そこに小石が入れられて振ると鳴る仕組みだ。底にもちょうど鈴に見られるような孔が付けられている。この場合は、儀礼のために鈴の音を出しながら注いでいたのであろうか。
 ちなみに、縄文時代には、下部というか底面の少し上に小孔のある土器があるが、これは、とても注ぎ口用にあけたとは思えない。この場合は、縄文人の信仰上の意味のあるものであったと思われる。
 古墳時代の須恵器の小孔が、注ぎ口を装着するためというのは、間違いではなさそうだが、その小孔に、竹菅などを装着する際の痕跡などがないのか、などまだまだ資料がほしいところである。鈴の働きを兼ねた𤭯の例など、いずれにしても胴部に穿孔のあるものは儀礼や信仰上のものであることに相違はない。

参考文献
高崎市観音塚考古資料館「観音塚古墳の世界」改訂版2015

冒頭の光州博物館の写真は、松尾匡氏の撮影のもの。
郷ヶ平古墳出土人物埴輪の写真は「文化遺産オンライン」より

銅鐸絵画の人物が持つ工字型器具は、機織り用の桛(かせ)が妥当

光25木べらなど
   光州博物館展示機織り道具 右側が桛(かせ)日本の弥生時代にあたる頃のもの

1.弥生人が持つのは釣り竿なのか?それとも・・

 銅鐸絵画に、工字型(I字型ともいわれる)の器具をもつ人物が描かれている。なかには下図にあるように工字だけ描かれているものもある。これが何であって、何故銅鐸に描かれているのかについては、定説があるわけではない。もっとも、銅鐸そのものについても解明されていないわけだが、その真相に迫るためにも、絵画文様の謎ときも手掛かりとなるものであろう。
桛人物
工字銅鐸

 大方の研究者は、この工字型器具を持つ人物は、漁をする人だとし、手に釣り竿を持っているというのである。
 根拠となるのは、いっしょに魚が描かれているものが一点だけあることぐらいである。しかしこれでは、竿の先端も根元も短い横棒が描かれていることが説明できない。しかも、腰を曲げて脚を伸ばして釣りをするという姿勢もおかしい。春成秀爾氏はI字型とされたのは弓であって、鹿の狩猟を描いたとされたのだが。(春成1990)
 銅鐸の人物が持つ工字型用具を、用水路の止水板(長尾2012)とされた方があったが、関連は不明だが、後の2019年放映NHK「ヒストリア」『まぼろしの王国 銅鐸から読み解くニッポンのあけぼの』で銅鐸絵画に関する新説として、それは「田堰(たぜき)」を開ける姿だったとし、弥生人が畔に腰掛けて田に水を入れるために工字状の用具を引き上げるという場面がある。しかし、これはいただけない。水をせき止めるのは板であって、銅鐸の人物が手にしているのは棒状のものであり、これでは役目を果たせないであろう。しかも腰掛けた態勢で引き抜くというのは不自然ではないか。
 では、この工字型の器具の用途は何であるのか。

2.弥生時代に出土した機織り道具の桛が絵画と相似形
白岩上寺地桛

 静岡県菊川市白岩遺跡より1973年にほぼ完形の桛が、弥生時代の大溝から見つかっている。銅鐸の面に描かれた人物と工字形の用具の比がほぼ同じであり、形態、大きさ等から出土品との共通点が認められるとする。
 
桛比較
 図のように少し加工してならべると、ほぼ同じといえるが、ただ少し異なる所がある。民俗例としての桛は各地に残っており、基本的な形態は同様であるが、相違点は民俗例、沖ノ島出土の模造品、銅鐸絵画の桛がいずれも軸部の棒が突出しておらず、この白岩遺跡のものは軸が突出しているのである。だが、弥生時代に突出していない桛も見つかっている。
 白岩遺跡出土の右側の鳥取県青谷上寺地遺跡から、完形ではないが、銅鐸絵図と同じく、軸が突出していないものである。その後の出土例から現在は、古墳時代以前では腕木貫通式と支え木さしこみ式に分類され、古墳時代以降は支え木さしこみ式となっている。つまり、弥生時代は異なる形状のものがあったのである。
 そして、銅鐸絵図の桛と同じ形状のものが、韓半島にもあったのである。それが冒頭の写真である。弥生時代と同時代の青銅器時代(後期)か、原三国時代(初期鉄器時代)と考えられる馬韓地域(栄山江あたり)の展示物だが、銅鐸に描かれた桛とほぼ同じものであり、同じ古代史の会の方で現地に行かれた方から提供していただいた貴重なものである。いずれも機織用の道具であるが、その右側の桛に接合部が確認できる。日本の白岩遺跡や上寺地遺跡のものは、随分と洗練された加工品であるが、光州博物館のものは、原初的なもののように見える。
 さて、この桛だが、どのように使われていたのかが中世の資料に残っている。
中世の桛

 鎌倉時代の末、奈良の春日神社に奉納された「春日権現験記」と嘉永2年(1849)北村良忠による「農家必用」に載る「木綿かなをかせに懸ける図」に載る桛と紡錘車を扱う絵が、女性が座位で桛を操っているものであり、銅鐸の絵画とよく似ている。左手に桛、右手に巻きとった糸を持ち、桛に図のように糸をⅩⅩ状に巻き取っているのである。

 しかし、桛といった機織道具ではないと主張された研究者もおられる。
 
銅鐸土器人物
 佐原真氏は、桛とする説を否定する根拠に、自説の〇型頭男性、△型頭女性説をもちだしている。銅鐸絵図には、3人の人物が描かれているものがあり、〇型頭の人物が、棒で右側の人物を叩こうとしている。左の人物は助けようとしている。叩こうとする真ん中の頭が〇で男性、両端の△頭が女性だとされる。すると、桛をもって織物をする人物は女性のはずだが、頭が〇型だから男性であり、これは桛をもっているのではない、と主張されるのだ。しかし、わずか一つの事例で、決めつけられることであろうか。弥生土器の絵画には、鳥の姿になった女性シャーマンと思われる人物が複数あるが、頭は△ではない。桛説は否定できないのではないか。
 では、なぜ銅鐸に機織道具をもつ人物が描かれているのか。それは福岡県の沖ノ島祭祀遺跡に桛の模造品があるところから、祭祀と関係することは明らかと思われる。
沖ノ島

3.古代信仰を表す絵図
 
 日本や世界の物語の中には,糸を紡ぐ女性や,機を織る女性などがたびたび登場してくる。アマテラスの説話にも機織女が登場する。「延喜神祇式には伊勢神功の神宝二一種のなかに金銅賀世比がみえる。また『古語拾遺』には麻柄でつくった桛で蝗(イナゴ)をはらったと伝えられるように、桛などの紡織具は呪術的な祭器や幣帛(へいはく:神への捧げもの)としても使用されたのである。(平林1992)また、銅鐸の動物絵画にも宗教的な意味があるとされる。古代中国では、昆虫や魚が呪術的な絵画に描かれており、銅鐸も同様であろう。また杵で臼を搗く様子も描かれているが、この行為も呪術に関係すると言われている。
 日本書紀の景行紀のはじめに、景行天皇は双子が生まれた際に、臼(碓)に向かって叫ぶ記事があるが、注釈にあるように、出産の習俗と関係しているのである。

 以上から、工字型器具は釣り竿などの狩猟用のものではなく、機織りの道具である桛であるとするのが妥当であり、古代の宗教的な意味から描かれたものである。さらに、この機織り技術は半島に同じ形状の道具があることからも、渡来人によってもたらされたものであることは明白であろう。
 
 参考文献
長尾志郎「雷神の輝く日々 銅鐸ノート」風詠社2012
静岡県菊川市白岩遺跡・横地遺跡発掘調査報告書 2015
『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅱ‐1』(「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議)2012
春成秀爾「銅鐸絵画の原作と改作」ネット掲載1990
東村純子「古代日本の紡織体制 ―桛・綛かけ・糸枠の分析からー」 福井大学リポジトリ2014
平林章仁「鹿と鳥の文化史」白水社1992
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017 

冒頭の織物道具の写真は、松尾匡氏の撮影のものをご提供いただいた。
 

なぜ昔話の主役に老人が多いのか?

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1.大塚ひかり氏の『昔話はなぜお爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社2015)のご紹介    

 著者は古典エッセイストとして活躍。ユニークな切り口で古典を語っておられる。ここでは、昔話の主人公に見られる特徴から、古代社会の問題を浮き彫りにされている。

 柳田国男によると、派生的なものを除いた日本の昔話106話のうち、動物、竜、神しか出ないものは16話、老人が主人公となるのは28話、何らかの形で老人が登場するのは19話だという。老人が主人公となる28話のうち貧しさが強調されたのは5話、働く老人は17話、共働き4話となり、金持ちだった老人の話はないそうだ。
 著者は、生産性の低い弱者であるはずの老人が、昔話ではなぜ重要な役割をはたしているのか?と、問いかける。
 健全な老人は尊敬・愛着の対象、しかしいったん老人に心身の衰えや、老衰・痴呆などの症状が現れ始めると、彼らは社会のお荷物となり、冷たくあしらわれることになる。移動を繰り返す狩猟採集民族には、動けなくなった老夫婦が家族と離れ姿を消すなどの事例もあった。
 縄文時代研究の山田康弘氏も、遺跡に残るその扱いから高齢者は排斥されたというのが実態と指摘されている。
 天明の大飢饉では牛や馬を食い尽くしたら、死人の肉を食っていたという。江戸時代の高山彦九郎の『北行日記』には、「死骸を私にください、その代わり私の母親が餓死したら差し上げますから」という記録もあるという。現代に生まれていて、ホントに良かったと思ってしまうが。
 遠野物語には、姥捨て山の話もあり、以前の映画だが、「楢山節考」の老人を背負って、谷に向かうシーンはあまりに強烈で哀しくなったものだ。
 昔話に登場したのは、高齢者が少なかったからではない。そこには平均寿命という錯覚がある。子供の出生率が高いと平均寿命は下がる。逆が今の日本なのだ。
 61歳まで生きた者の平均寿命は男74.3、女74(1675~1776)だったようで、ヨーロッパでも平均寿命40~45歳だったが60歳を超えると長生きしているとのことだ。鎌倉時代、藤原貞子(北山准后)は1196~1302の 107歳だった。
 45歳で隠居などというのはごく一部のことであっただろう。また律令以降、古代の役人の定年は70歳だったとか。持統紀には年八十以上に稲を賜うといった記事もあり、長寿の存在が見過ごせないほど存在していたのだろう。
 また老人遺棄については、定住していない採集民や狩猟民、さらに遊牧民に多く見られるという。老人みずから、家族から姿を消すこともあったようだ。

2.考えさせられる昔と現代の老人問題のギャップ

 著者は昔話の老人について次のようにまとめている。
  1.昔話では子や孫のいない老人が大半
  2.昔話の老人はたいてい貧乏
  3.子や孫がいても、捨てられるなどの「冷遇」を受けていること 
   が多い。
  4.「良い老人」「悪い老人」などで表現され、過酷な「生存競  
   争」の世界がある。
 以上からその特徴は「貧困と孤独と嫉妬」だという。
 つまり昔話に子のない老人が多いのは、ひとつには社会の最底辺ともいえる貧しい者たちが金持ちになるというギャップの面白さを狙っている。もう一つは実際に前近代には「子供のいない老人」、独身のまま年を重ねる老人が多かった現実があるのだと。
 ぜひ一読をお勧めしたいのだが、これは過去の話ではなく、現代の日本の超高齢化社会の問題を考えることにもつながると思われる。現代の高齢者は、その多くは、昔に比べればはるかに恵まれていると言えるだろう。高齢者を守る意識、施策は充実してきているが、ややもすればそのことに甘えてしまっている状況も見えるように思う。一方でそれが、若者たちへの負担になるという、アンバランスな状態が深刻化しつつあることを危惧したい。今の若い世代は、将来、同じ条件で高齢化を迎えることができるとは、誰も思っていないのではないか。
 太古、老人は「社会のお荷物」だったようだが、現代でも違う意味で、若者たちの本音としてお荷物と言われる状況があるのではないかと考えてしまう。ボケてしまうまでは、できるだけ若い人たちに迷惑をかけないようにつつましやかに、生きることを心掛けたい。

参考文献
山田康弘「老人と子供の考古学」吉川弘文館2014
図はイラストACよりダウンロード

「禅位」が示す倭根子天皇から文武への王朝交代

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     写真は、奈良の歴史イベントでの服部氏の講演

 古代史の通説では語られることはないが、多元史観では、701年に王朝交代があったとする視点での議論がされてきている。ここでは、古田史学の会の服部静尚氏の王朝交代論を簡単に紹介したい。

1.日本書紀の最後は次の記事で終わっている。

 (持統)十一年八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子
 禅天皇位はクニサりたまふ、との訓みが付せられているが、要は皇太子に禅位した、とする。宇治谷孟訳では、「天皇は宮中での策(みはかりごと)を決定されて、皇太子(文武)に天皇の位をお譲りになった」とされる。すなわち、生前譲位と説明されている。これは平成天皇から令和天皇への譲位と同じイメージになる。
 しかし、漢字をよく見ると、この箇所は譲位ではなく、「禅位」とされている。この「禅」は、「天位を譲り与える」という意味であるが、中国の孟子は、「天子の位を子に伝えずに賢なる人に伝える」こととしている。その賢なる人とは、姓が異なり王朝名が異なる有力者なのであり、決して孫などの血縁者ではないのである。また、生前譲位と同じ意味ではなく、あくまで禅位は、生前・薨御後に関わらず、異なる姓の異なる王朝の有力者に天子の座を譲ることとなるのである。
 中国の場合、例えば隋の建国も、北周からの禅譲ですが、隋書には、「周帝詔曰『禅位於隋』」とあるように、王朝交代なので「禅位」としている。
 するとこの記事の皇太子である文武は、異なる姓、異なる王朝の天皇から「禅位」されたとなる。すなわち、これは王朝交代を意味することとなる。ただ、ここで疑問がわくのは当然です。祖母である持統から譲位されたのではないのかと思われますが、実は次の続日本紀の記述が、別の人物が禅位したことを示している。

2.前王朝からの「禅位」を示す文武天皇の即位宣命文
 
 日本書紀の最後にある「禅位」された文武は、次の史書である続日本紀の即位宣命文に「大八嶋国をお治めなされる倭根子天皇が、お授けになり」と述べている。この倭根子天皇は持統天皇のこと解釈されている。また、続日本紀では持統のことを太上天皇としている。そして崩御の際には、大倭根子天之広野日女尊という諡(おくりな)を奉ったという。日本書紀の持統の諱(いみな)、すなわち生前の名は高天原廣野姬とされている。諡とは死後の名前であるから、これは奇妙なこととなる。
 通説の解釈では、文武はまだ生存している持統を倭根子という死後の名前で呼んでいることになるが、このありえない解釈に、これまで誰も指摘がされなかったのである。日本書紀では、持統のことを倭根子とはしていないが、後の続日本紀ではこの倭根子は天皇の自称として、元明天皇以降に用いられることになる。つまり、文武の即位宣命文の倭根子は前王朝の別の人物を意味しており、王朝交代を遠回しに宣言したものなのである。
 だがここで疑問がもたれるのではないか。日本書紀には、持統が天皇だとされているのではないかと。しかし、日本書紀には、よく見てみると、矛盾するような記述があり、別の天皇の存在を示しているのである。
 
3.持統は真の天皇ではない
 
 朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱(称)制
 天武の崩御によって皇后は、即位をせずに政務を執られた、とある。「称制」とは、中国で天子がいるのに、幼い等の事情で代わって執政することである。ところが、書紀持統紀には、持統が正式に即位する前から天皇が存在していることを示す記事がある。
 元年八月天皇、使直大肆藤原朝臣大嶋・直大肆黃書連大伴、請集三百龍象大德等於飛鳥寺、奉施袈裟人別一領
 天皇は藤原朝臣大嶋らに使いして袈裟を施すという記事だ。他にもある。
 三年春正月甲寅朔、天皇、朝萬國于前殿
 天皇は諸国の代表を正殿に集め、元旦の朝拝を行われた、という。
 しかし、天武の後に皇后が即位したのは翌年の持統四年である。ということは、ここに政務を執れる別の天皇が存在していたのに、持統は称制で政務を執っていたという奇妙なことになる。
 また、持統が即位した年は690年とされるが、これも額面通りには受け取れない。この年に中国では則天武后が皇帝即位しているのである。書紀は、これにならって造作したと考えられるのである。
 日本書紀以外にも、疑念がもたれる記事がある。『懐風藻』葛野伝には、高市皇子崩御後に「皇太后」が誰を「日嗣」にすべきか群臣に相談したとあり、持統を天皇ではなく「皇太后」としている。また、『扶桑略記』では、持統は不比等の私邸を宮にしていたと記し、即位していなかったことを匂わせている。
 日本書紀は、神武から皇統が途切れずに続く万世一系の史書として描かれているが、実際には、前王朝、すなわち九州王朝の史書を利用して、年代移動や漢籍の挿入などによって造作されたものである。別の人物を、天皇であったかのように描いており、持統の場合も、鸕野讚良(うのさらら)という別の人物を天皇にあてているのである。
 例えば、乙巳の変の記事もかなり作り込まれていることは既に説明しているが(こちら)、九州王朝の問題などもおいおいふれていきたい。

4.消された真の天皇から禅位されたのが文武天皇だった
 
 持統8年(694)に藤原京に遷都したという記事があり、これは前王朝であった九州王朝の都であったと考えている。文武の死後に即位した母の元明天皇の即位宣命文には、藤原宮御宇倭根子天皇から文武に授けられた天下を治めたとある。この場合も、倭根子は持統のことではなくその実体は消されているのである。この倭根子天皇は、藤原宮、すなわち藤原京にそれまでの都であった前期難波宮から遷都してきたばかりだったのである。ただその翌年には高市皇子が崩御している。死因は不明だが、何やらきな臭い動きが起こっていると考えられる。そしてその翌年に、文武に禅位がされているのである。
 以上のように、7世紀の末に前王朝から文武への「禅位」とされるという王朝交代が行われ、前王朝の九州年号(こちら)も大化(日本書紀では50年ずらされて記述されている)で途絶え、701年から大宝という新元号に改元され、ヤマト王権が始まったのである。
 
 以上は、かなり省略した説明であるので詳しくは、服部静尚氏の次の論考をぜひお読みください。「王朝交代の真実―称制と禅譲」(古田史学会誌第25集「古代史の争点」所収)明石書店2022
 また、ユーチューブでも講演内容を見ることができます。
服部静尚@三種の神器と王朝交代⑤~中国正史に見る王朝交代記事@20220625@布施駅前市民プラザ@26:23@DSCN9517  他にも多数ございます。
 さらに、服部氏は八尾で毎月講演会も開催されており、古田史学の会のフェイスブックにも、随時今後の講演会の予定や内容の動画をアップしておりますので、チェックしてみてください。  

前橋市山王金冠塚古墳の被葬者は、欽明紀の佐魯麻都か

金冠塚古墳出土_金銅製冠_(模造、J-10296)・金銅製大帯_(J-7886).JPG
   金銅製冠(複製)・金銅製大帯 東京国立博物館展示。
 
 群馬県の山王金冠塚(二子山)古墳は、6世紀後半の前方後円墳。大正4年に金銅製冠が金銅製大帯、馬具類、鉄製甲冑、刀装具類などと共に出土した。金銅製冠は、新羅系のいわゆる出字型金冠であり、これを由水常雄氏は「樹木型王冠」とされている。新羅では、金冠、銀冠、金銅冠といった素材の違いで身分の違いを示すなどの独特の制度があったが、新たな位階制の導入で衰退していったようだ。
 このため、容易に手に入れられるものではないことから、右島和夫氏は、「(冠を)どうして入手することができたのか、新羅の支配者の証しであること等を考えると、直接手に入れたことも十分考えられる。」(右島2018)と述べておられる
 私見では、この被葬者は日本書紀欽明紀にある日本府の主要メンバーである佐魯麻都ではないかと考えており、以下にこの点について説明したい。

1.欽明紀の佐魯麻都(サロマツ)
  
 欽明紀の3~11年に、佐魯麻都という日本府の中心人物が登場する。「佐魯」は、書紀では佐魯麻都の表記で3カ所、麻都という表記で12カ所も登場する異例の人物と言えるが、その彼の出自をうかがわせる記事がある。注1.
 欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀3年の末尾にある。
 「百濟國、殺佐魯・那奇他甲背等三百餘人」とあるのは、紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されたというのである。
 欽明紀の佐魯麻都は、この顕宗紀の任那左魯の末裔ではないかと考えられる。任那左魯がこの事件があったと考えられる5世紀末に任那(加耶)の別の国に避難しそこで子供が生まれたとすると、年齢も合うので父子と考えても良いであろう。父親の百済への怨みを子が引き継いで、日本府の中で百済と反目する人物になったと理解できる。
 彼は、日本府のもとで大連の位であったが、新羅側に寝返った人物のように記されている。この佐魯麻都は、「奈麻礼冠(なまれのこうぶり)」をつけていたとあり、この奈麻礼は新羅十七等官位の第十一位とのことだ。新羅では、法興王7年(520)に官位制が定められている。東潮氏はここで、群馬県二子山古墳(現前橋市金冠塚古墳)出土の金銅冠が新羅系の出字形冠であることにふれている。(東潮2022)東氏は、なにも直接の関係を示唆されているわけではないが、この金冠塚古墳が6世紀後半と考えられている点や、出字型金冠が全国でも珍しいもので唯一の関係であること、また藤ノ木古墳と同じような金銅製大帯も副葬されていたことから、この被葬者の候補に佐魯麻都をあげることができるのではないか。
 他に玉村町の小泉大塚越3号墳に同じ冠の可能性のある金銅細片が出土しており、他にも高霊池山洞73号墳のものと似た単鳳凰環頭太刀、馬具や耳環、多数のガラス玉などから、やはり同じ加耶の王族の一員のものではないかと考えられる。共通の金銅冠がある以上、どちらがどうと断定はできないので、こちらが佐魯麻都である可能性も残しておきたい。新羅の侵攻によって6世紀の半ばに列島に逃れた彼ら王族と配下の集団が、この群馬の地までやって来たのではないか。

2.新羅系の冠の出土から渡来の人物と言えるのか?

 これについては、「前例」がある。大阪府高槻市阿武山古墳の被葬者には冠帽が添えられていた。日本書紀の記述には、天智前紀に、百済王豊璋に皇太子が織冠を、天智紀8年に藤原内大臣に大織冠を授けている。豊璋は白村江の戦いで行方不明になったので、残る内大臣なる鎌足が、この阿武山古墳の被葬者とする根拠となっている。もちろん、後の伝承なども検討されてのことだが。ただし、私見ではこの古墳の墳墓の形状や副葬品には渡来系の特徴が顕著であることからも、書記では鎌足とされた百済の豊璋と考えているのだが。
 佐魯麻都の場合も、日本書紀に新羅の冠を保持しているとの記述と、列島では先に挙げた2カ所でしか見られない冠であること、さらには、加耶の滅亡が6世紀半ばであり、古墳の年代が6世紀後半であることも符合するのである。
 よく古墳の豪華な出土品から、その被葬者像を、ヤマト王権からその副葬品は受容されたとか、半島と特別な関係を結んでいた地元の実力者、といった苦しい説明が後を絶たない。(こちら参照)どうして列島に渡って来た人物と考えることを避けるのであろうか。  
 欽明紀が記す任那滅亡、すなわち加耶国への新羅と百済からの侵攻から逃れた加耶の王族と配下の集団が、かなりの規模と頻度で移住してきたと思われる痕跡が、特に群馬方面には、数多くみられるのである。注2

3.なぜ、加耶(任那)の王が新羅の王冠を持つことができたのか。
 
 実は新羅は、加耶を制圧しても現地の王に位を授け統治を任せたという。「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。金官加耶の王族はのちの近庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)このようなことから、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。この問題は、加耶滅亡後も、書紀に登場する「任那の調(みつき)」が、新羅に支配されてからも一定の独立した扱いを受けていたという理解につながるのである。ただ、佐魯麻都の場合は、百済のみならず新羅にも反発があって、列島に渡来したのであろう。
 さて、この新羅の出字型冠は身分を表すものであったが、520年以降の新たな位階制の導入によって、王冠の役割は変化してやがて消滅していったようである。日本では、奈良県藤ノ木古墳の金銅製冠や茨城県三昧塚古墳の金銅製馬形飾付冠などは、身分を示すというよりは、被葬者の為の副葬品に変わっていったものと考えられる。
 佐魯麻都の場合も、渡来してからは身分表示としての意味はなさなかった王冠だが、それは貴重なものでありかっての王の証しとして副葬されたのではなかろうか。

まとめ
 佐魯麻都は、書紀では新羅側についた厄介な人物のように描かれているが、それは百済側の視点による記述にすぎず、彼は、百済と新羅の挟撃の中にあって、加耶の独立の為に動いていたのであろう。この麻都の記事が途絶える欽明紀11年(550)に、さらには、日本府の記述の途絶える13年あたりで、日本に移ることになって群馬の地までやって来たのであろうが、どのような経過があったのか記事からは判断しにくく謎はつきない。加耶の滅亡で同じ頃に、数多くの王族とその配下の者たちが渡来してきたのは間違いない。被葬者の特定できない古墳が多数である現状の中、日本書紀の中で日本府と関係する人物が、群馬の古墳に葬られているとするならば、大変興味深いこととなろう。
 以上のように、山王金冠塚古墳と小泉大塚越3号墳の出字型金銅冠をもつ被葬者は、欽明紀の加耶の王族と考えたい。そして前者の古墳の可能性は高いが、いずれかが佐魯麻都の墓だったのではなかろうか。

注1.任那日本府は列島の倭国の出先機関ではなく、その構成メンバーも日本人ではなく、加耶の王族や官人たちであった。(こちら
注2.高崎市剣崎長瀞西遺跡の金製垂飾付耳飾りは、加耶のものと酷似しており渡来者であると考えられている。もちろん、真っ先に渡来する地となる九州にも多くの加耶の遺構が見られる。これらについては別途扱いたい。

参考文献
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
右島和夫「群馬の古墳物語上巻」上毛新聞社2018
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001
吉村武彦ほか「渡来系移住民―半島・大陸との往来」岩波書店2020
玉村町歴史資料館「小泉大塚越3号墳と小泉長塚1号墳」平成20年度特別展

写真はウィキメディア・コモンズでFile:金冠塚古墳出土 金銅製冠 (模造、J-10296)・金銅製大帯 (J-7886).JPG

任那日本府は日本書紀の誤読だった

加耶馬レプリカ
  写真は、群馬県前橋市大室古墳群の公園内大室はにわ館展示の個人の作品

 任那日本府とは、加耶の王族らによる組織であって、けっして、日本の倭国の出先機関でもなければ、軍事組織でもない。日本府が登場するのは、日本書紀だけであり、しかもその中の欽明紀のわずか10年ほど間に記載されているにすぎない。また、雄略紀には、「日本府行軍元帥」という日本が冠された言葉が一度だけ登場するが、これも、任那王が窓口となる組織であった。(こちら参照)日本府の構成メンバーに日本の地名などと同じ名前の人物も見られるが、だからといって列島の日本人とできないのである。
 日本書紀が描いた日本府の記事は、その内容表現が煩雑なこともあって誤読、誤解による拡大解釈がされてきたと言える。以下に、日本府が登場する欽明紀の記事から説明していきたい。
 
1.記事から見えてくる実体
 この日本府が絡む記事は、百済聖明王とその配下のものによる口語文が延々と続くという冗長で読みづらい箇所となっている。書紀編者もミスを犯したようで、2年の「秋七月」が重出しており、岩波注が「集解」は翌年7月と修正していることにふれている。最初の秋七月が長文であることが要因かもしれない。この聖明王の長すぎる言葉は、同席した書記官が忠実に記録したものとは考えにくく、一定の史実をベースに造作されたものと考えてもよいのではないか。少し長くなるが、記事の特徴など指摘できるところを述べていく。注1

①任那日本府の設立に関するものなどの説明は皆無である。
 ただし、所在を推測できそうな記述がある。それは二度登場する安羅日本府だが、別のものとする理解もあるが、ここは日本府の所在地が安羅国内であるとの表現と見てよいのではないか。
 欽明紀(以下省略)4年12月「河內直・移那斯・麻都等猶住安羅、任那恐難建之」(かわちのあたい、えなし、まつらが、いつまでも安羅にいるならば、任那再建は難しいでしょう)とあるように、日本府のメンバーは安羅に常駐していたことからも判断できる。

②日本府が倭国の領地を示す記事などはなく、逆に倭国とは独立した存在であることを示す記事がある。
 13年5月「高麗と新羅と連合して臣の国と任那とを滅ぼそうと謀っています。」(救援軍の要請を受けて)天皇は詔して、「百済の王・安羅の王・加羅の王・日本府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた、任那と共に心を合わせ・・・」とあることからも、任那諸国と同列の存在であった。

③日本府は半島の勢力の中で主導権をもつ存在としては描かれていない。
 任那諸国と同列の存在として描かれ、そこに上下関係は見いだせない。いわゆる任那復興会議の構成メンバーとして描かれている。また、半島における倭国の代行者でもパイプ役でもなく、その役割は常に百済が行う。
 2年4月、百済に安羅、加羅、多羅、日本府の吉備臣ら集合し、聖明王が天皇の言葉を伝えている。
 2年7月、百済は新羅に行った任那の執事を呼びつける。他に5年3月など、百済リードで進められる。

④一方で、百済の指示に忠実というわけではない。
 4年12月、5年1月には、任那も日本府も百済からの招集に神祀りを口実に応じないことがあった。なかには、百済が加耶地域に進出するための先発隊の組織と言った解釈もあったが、それは成り立たないと言える。

⑤百済は文物の供与で懐柔することもあった。
 2年4月「(聖明王が)物贈る。みな喜んだ」 6年9月「呉から入手の財物を、日本府の臣ともろもろの旱岐にそれぞれに応じて贈った」とある。手ぶらでは百済の思惑で動く相手ではなかったのではないか。

⑥百済は、倭国を上位の国として扱っているようでありながら、都合の悪いことは従わないこともあった。
 4年11月、倭の津守連が百済に詔。「任那の下韓(あるしからくに)にある百済の群令(こおりのつかさ)、城主(きのつかさ)は引き上げて日本府に帰属させる。」
 しかし、百済にとって任那進出の戦略的拠点であることから、百済は倭国の要請には従わず、むしろその正当性をアピールしている。天皇を引き立てているようで現実問題では従順ではない。

⑦5年11月の聖明王の提案する任那復興の戦術の言葉に、軍事支配の意図が見える。
 「新羅と安羅の国境に大きな河があり、要害の地。敵の五城に対して、吾はここに六つの城を作ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、わが兵士を合わせて、新羅人に耕作させない・・・」
 ここでは、百済の主導で倭兵を用心棒なような扱いで利用しようとする姿も見られる。

⑧百済による反新羅の主張が繰り返される。
 2年7月「新羅が任那の日本府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである」と、聖明王は日本府に語り、新羅に取り込まれることを警戒する。ここは、日本府は新羅との接触が見られることへの百済側の危機感の表れと言えるのであって、当の百済も伽耶を虎視眈々と狙っているのである。

⑨任那も日本府も、新羅を直接に訪れて和平交渉も行っている。
 2年4月「前に再三廻、新羅とはかりき」 2年7月「安羅に使いして、新羅に到れる任那の執事~」

⑩遅れて登場する印岐彌(いきみ)については奇妙な一節がある。
 5年11月「日本府印岐彌謂在任那日本臣名也既討新羅、更將伐我」(日本府のいきみがすでに新羅を討ち、さらに百済をも討とうとしている)は、百済聖明王の言葉であるが、日本府の官人の印岐彌は、新羅・百済のいずれも討とうとして、任那を守る立場で行動しているといえる。

⑪天皇は、任那や日本府に積極的に強力な働きかけを行ってはおらず、終始一貫して「任那を建てよ」と繰り返しているだけである。「建任那」は21件登場するも、日本府の記事がある期間は、なんら軍事的行動が見られないのである。

⑫百済は日本府構成員の一部の排除を要求している。
 5年3月「阿賢移那斯・佐魯麻都は悪だくみの輩」と、百済は彼らを非難しているが、以下のように「倭国に帰れ」とはいっていない。
 5年3月「移此二人還其本處」5年11月「移此四人各遣還其本邑」
 つまり、彼らは、新羅に統合された狭義の任那である金官加耶国、さらには百済が侵入した下韓あたりから安羅に移った王族や官人ではなかろうか。さらに、百済からの麻都らの排除要請にも関わらず、倭国が対応することはなかったようである。
 百済本記からの引用で、5年10月、「所奏河內直・移那斯・麻都等事無報勅也。」(百済が奏上した三者の排除については返事がなかった)、とあることから、そもそも倭国に権限などなかったことになろう。

⑬日本府は欽明紀13年(552)までには消滅か
 欽明紀12年には百済は高麗を討って漢城を回復し平壌も討ったとある。しかし翌年には放棄し、新羅は漢城に侵攻する、とある。この前後に新羅は攻勢をかけて、おそらく加耶へのさらなる支配を強めたと考えられるので、その際に日本府も機能を停止したと考えられる。加耶そのものも欽明紀23年(562)に滅亡となる。

2.「日本府」という呼称について
 どうしてもその呼称からは、列島に進出した倭国のなんらかの機関、政庁のようにとらえられそうであるが、その実態は、日本書紀では任那と記される加耶の組織であったのである。
 日本府の主要メンバーの一人である佐魯麻都は加耶の高位の人物であって、おそらくは、新羅や百済の侵攻にあった金管加耶国とその周辺域から逃れて来た王族と考えるが、彼らが安羅に任那諸国の調整役としてのなんらかの連合体、亡命政府といった短期間の組織が造られたのではないかと考える。
 ここで「府」を名乗っているが、その用語には政庁以外の使用例もあったのではなかろうか。顕宗紀の記事には「官府」がみえる。
 顕宗3年是歳、紀生磐宿禰、跨據任那、交通高麗、將西王三韓、整脩官府
 「紀生磐宿禰が任那から高麗へ行き通い、三韓に王たらんとして、官府(みやつかさ)を整え自らカミと名乗った」
 他には神功紀に「封重寶府庫」、仁徳紀に「宮殿朽壞府庫已空」など「府庫」という倉と理解された記述がある。
 また、垂仁記には「阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也」とあって、任那のアラシトが倭からもらった赤絹を自国の群府(くら)に収めたが新羅に奪われたことで、それが両国のいがみ合いの始まりとされる。つまり顕宗紀や垂仁記などの例から、任那国内に役所などではない施設の意味での「府」の表現があったと考えられる。
 そもそも、「日本府」については、書紀編集時の造作と考えられる。その当時に存在して使用されたとは考えにくい用語などが使われている例がいくつもある。たとえば、欽明紀の韓半島記事の中に、聖明王による仏教伝来に関する記事が見られるのだが、書記の岩波注には、8世紀初めに中国で翻訳された『金光明最勝王経』の文が用いられており、明らかに書紀編者の修飾があるとされている。   
 こういったことから、日本ではなく○○府といった別の呼称があったと考えられる。雄略紀の「日本府行軍元帥」も、おそらく同じような事情のものであろう。

3.任那日本府の記事が示すもの
①「君父(きみかぞ)」の国
 最後に、執拗なまで「任那を建てよ」という言葉が繰り返された意味について述べてみたい。同じ欽明紀23年正月に、新羅が任那を滅ぼすとの記事があり、その年の6月に天皇が新羅への怒りの言葉を述べている。そこに「報君父之仇讎、則死有恨臣子之道不成」(君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう)との言葉を発している。「君父の仇」とはどういうことであろうか。これは、滅ぼされた加耶と倭国との実際の関係を表しているのではない。加耶は、倭国の領地といったものではない。
 これが意味するのは、天孫降臨の出発地が、加耶の地域であることを示しているに他ならない。半島の倭人を中心とする勢力の一部が列島に移住して建国をすすめたということではないか。だから、加耶である任那が君父の国であったということになろう。
 だが、本当に任那を建てる(再建)ことを願っていたのは、現地の加耶の人々であったはずである。つまり、日本府の構成メンバーや加耶王の佐魯麻都こそ、任那を建てろ、と最も切実に繰り返し訴えていたのではないだろうか。 

②欽明紀の日本府を含む前半の記事は、なぜそのように書かれたのか?
 日本府に絡む記事は、読みづらく迷宮に入るがごとくの難解なものである。まずは、任那や日本府が、倭の領地、半島支配の出先機関といった観念を一旦除いて読解する必要がある。注2
 そして、書紀の記事は、百済本記からの引用が多くなされているように、百済側の意向が強く反映した記事であること。そこには反新羅が繰り返し描かれ、その新羅に対抗して加耶諸国の支配を目論む百済の正当性が描かれている。百済は、倭国の天皇の「任那を建てよ」との詔を受けて、百済自身も任那への侵攻を目論んでいたことは表面には出さずに、任那の安羅や日本府に繰り返し訴えるなどの努力をしてきたが、なかなか言うことをきいてくれない状況の中、ついには戦闘に敗れ横暴な新羅によって支配されてしまった、という百済の弁明の記事であった。
 書紀の編集には、渡来系の人物が多く関わっていると考えられ、百済系の人たちは、滅亡した母国から大量に移住して、この地で生き抜くために、故国のプライドを捨てて、ヤマトを上位にして、古来より百済は献身的に尽くしてきたというストーリーを作り上げた。一方で、先進的な文化、技術、仏教などを百済が持ち込んだという史実を盛り込んだのではないか。日本書紀には、そのような編集も加えられていると考えたい。
 また、加耶は倭国から独立した存在であり、百済と新羅の挟撃に遭いながらもあくまで独立を維持しようと抵抗していたのである。このような視点で見直すと、聖明王の冗舌な言葉の真意など難解な半島関係記事を理解できるのではないだろうか
 さらには欽明紀のみならず列島関連記事の多い継体紀なども見直せば、新たな理解も得られるのではないかと考える。また、日本の場合も同様だが、半島の地名の同定や人名の問題などまだまだ見直さなければならない課題は多く、さらなる検討は必要であろう。 

注1. 参考にさせていただいた中野高行氏の『古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉』のまとめとされている主なものは次のようである。
①倭が恒常的な軍事基盤を任那に保有していたことを示す記事はない。
②日本府の官人が関与したのは外交のみであり、任那諸国の内政への発言権も持っていない。
③任那諸国の王や貴族代表とする「合議体」が恒常的に存在したことを示す記事はない。
④日本府は朝鮮三国、任那諸国に対しても倭国の公的な代理機関ではなかった。
⑤倭王権が日本府を設置したとか、その構成員を任命したとか、派遣したとかの記事はない。
⑥原史料の「在安羅諸倭臣等」に「府」の字はなく、日本府を官庁とする根拠はなくなる。その実態は任那に居留する在地性の強い倭人集団である。(中野2023)
注2. 古田武彦氏は、任那日本府そのものについては、九州王朝に属するものと言った見解を繰り返されているが、欽明紀の記事を踏まえて日本府そのものを分析し論じられたものは見当たらず(百済本記の資料の性格について、河内直に関して触れられている程度)、さらには、任那と日本府を混同されて表記されている。

参考文献
佐藤信「古代史講義」ちくま新書2023
田中俊明「加耶と倭」(古代史講義所収)ちくま新書2023 
前田晴人氏「朝鮮三国時代の会盟について」(纏向学研究第9号2021)
武田幸男「広開土王碑との対話2007」白帝社 2007  
門田誠一「海からみた日本の古代」吉川弘文館2020
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
河内春人「倭の五王」中公新書2018
河内春人「古代東アジアにおける政治的流動性と人流」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 3 号 2017年
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024
末松保和「任那興亡史」1949

田道間守の非時香菓、橘はナツメヤシのデーツだった

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 垂仁天皇は田道間守(タヂマモリ)を常世(とこよ)の国に遣わし,非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせた。しかし、手に入れて戻った時には天皇は亡くなっていた。田道間守は泣き叫んでその場で命を絶ったという。そしてこの非時香菓は古事記、日本書紀とも今の橘であると記している。しかし小学館の古事記の注釈にも、タチバナは古くは柑橘系の総称だが、これが現在の何にあたるかは未詳とされる。魏志倭人伝に記されている橘も今と同じものかどうかはわからない。現在の橘は酸味が強く食用ではない。これが他の食することができる種類の柑橘系や果物類だとしても、はるか遠方からだと持ち帰るのは無理であろう。では古事記や日本書紀の記述に対応できる非時香菓はどのようなものか、以下に論じたい。
 記紀の該当する箇所の原文は最下段に記す。

【1】記紀にある田道間守の説話
 古事記では彼は常世国に到っている(遂到其國)ことから、実際に存在した地域であったと考えられる。縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)は書紀では八竿八縵と前後入れ替わっているが、同じ意味であろう。天皇と大后に半分にして献じているが、この箇所については後でふれたい。
 タジマモリは天皇の墓の前で泣き叫んで殉死している。書紀も同様の記述がされ、さらに古事記では大后の時に、石祝作(いわきつくり)が墓室づくりの役で、土師部が祭祀用の器物受け持つもので、葬送の儀礼を行う部民を定めたとすることからも、この橘は葬送儀礼に関係していると考えられる。

 古事記の「登岐士玖能迦玖能木實」は日本書紀では「非時香菓」と記されている。その漢字が、意味を示す文字をしめしているかどうかはわからないが、非時は時を定めない、常時あるものの意。これを年中絶え間なく実ができる木と考えることはないであろう。葉が落葉しないものは多くあるが、これは保存可能な木の実ととらえていいであろうか。香菓はその漢字から香りの良いものと思ってしまうが、この場合の訓みの「カク」は古事記の注では輝くさまを表すのだという。小学館の書紀注では黄金色に輝いていることとする。太陽光線で照り返すようなものは考えにくいが、黄金色なら候補はあるであろう。この点についても後述する。
 田道間守は、泣きながら、常世の国がはるか遠くの地で、人がとても容易にたどり着けないところだと語っている。古事記と違って書紀は常世国の特徴をくわしく記述しており、その場所をおおよそ推測できそうである。漢籍の転用も考えられたが、『書紀集解』には関連するような漢籍の例文はあっても直接引用されたものは認められず、何らかの伝承を漢文にしたのではないかと思われる。田道間守は天命を受けて、「遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水」とてつもない遠方で、弱水を渡るとある。その弱水については検索すると多数の用例が見られる。

【3】中国の古典に多数見られる弱水
『晋書』列伝には「跨弱水以建基」とある。ここでは跨ぐとあるので、弱水は河のことであろう。
『旧唐書』列伝第五十四は「娑夷河,即古之弱水也」とあって、娑夷河がかっての弱水であったとしていることからも河川名であろう。そしてその場所を表した記事もある。(注1)
『三国史』魏書の注釈には「弱水在條支西、今弱水在大秦西」
『漢書』西域傳では「安息長老傳聞條支有弱水」 この條支は西アジアあたりの国と考えられるので、弱水は中国からはるか西方の河と考えられる。
『史記』大宛列伝「或云其國西有弱水、流沙,近西王母處,幾於日所入也」中国からは日の入る所とされるはるか西方にあって、しかも、流沙は砂漠地帯のことであり、そこを流れる河が弱水で間違いないであろう。
『漢書』金城郡「西有須抵池,有弱水、昆侖山祠」 さらに
『漢書』西域傳「昆侖之東有弱水」とあることから、昆侖は伝説上の山とされる。書紀では神仙のかくれた国と記しており、神仙思想の表現も取り入れられていることから、書紀の弱水と同じものと考えられる
 すなわち漢籍に見られる弱水は、河の固有名詞であり、日本書紀はその弱水を渡っている。それがはるか西方の地であることから、西王母や神仙思想とも関連付けられたと考えられる。
 なお漢書司馬相如伝下の顔師古注に「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」とある。ここに「毛車」が登場するが、唐の時代までの漢籍にはほかには見当たらない。私はこの「毛車」を、砂漠を渡るのに欠かせないラクダのことではないかと考えた。帰国の際の峻瀾(高き波)は当然海を渡って帰ったことを示している。
 天皇がわざわざ使いを出して求めたということは、近隣にはない珍しいものとなろう。さらに王が所望するものは不老不死につながる場合が多い。またそれは美味なものとも考えられる。以上から探し求めた非時香菓は、はるか西方の砂漠地帯の樹木の育っている地域、すなわちオアシスにあるものではなかろうか。そこに育つ代表的なものがナツメヤシであり、その実をデーツという。
 
【4】最古の栽培植物、そして聖樹であるナツメヤシとその実のデーツ 
 北アフリカからペルシャ湾岸地域で生育する常緑で高木のヤシ科植物である。メソポタミアでは紀元前6000年頃より栽培がされたようだ。今でも砂漠の中のオアシスで青々と茂っている。単茎で通常基部以外では分枝はせず、葉の全体の形は羽に似た形状である。人工授粉で栽培を行っており果実は多数が房状に結実する。この果実はデーツと呼ばれ、ビタミンや糖分を多く含み、黒糖のような甘味がありそのまま食べたり、料理や加工して菓子としても利用されている。干した実は保存がきき、遊牧民やオアシスで暮らす人々にとって欠かせない食料となる。
 健康食品に関心のある人以外には、日本人にあまりなじみのないものだが、実はオタフクのお好み焼きソースなどに早くから使われているようだ。さらに薬効としても期待された。果実から蜜を取って酒もつくる。樹幹は建材になり、葉は籠やむしろ、編み籠、マット状の敷物や屋根を葺く材料にもなる。さらに団扇や箒にもなる。
 栄養価の面で優れている。銅・鉄・亜鉛などの栄養素は貧血予防や抗酸化作用も期待できる。さらに甘みがあっても血糖値の上昇度合も低いようだ。マグネシウムや食物繊維も豊富で、古代においても大変貴重な木の実であった。この特徴から、王が美味で不老不死の食べ物と考えて求めさせたのは無理もないことなのだ。しかも熱帯地域以外では育たないから、近隣に求めることはできなかった。
 デーツは保存がきき、生で食べられることから遊牧民やオアシスの人々の欠かせない食料源であったことから、非時がいつもあることとつながるのである。香実はかくのみで、香りではなく輝く実という意味と解釈されている。デーツは熟せば飴色、まさに輝くような黄金色になるのである。シュロ 植木市場の写真
 よく混同される棕櫚(シュロ)はミャンマーや中国中央部にみられるヤシ科シュロ属のヤシであり、耐寒性がある。これが日本では棕櫚という用語でヤシ科全般を指す用語になってしまっている。聖書に出てくる樹木を本当はナツメヤシところを棕櫚と訳出してしまったことも混同の一因とされるが、あくまでキリストと関係するのはナツメヤシである。パルメット文様の元もこのナツメヤシと考えられている。

【5】八竿八縵の意味
 さて、解釈の定まっていない八竿(ほこ)八縵(かげ)、古事記は逆で縵八縵・矛八矛である。小学館の注釈では、竿は串刺しにしたものの助数詞、縵は葉のついたままのものの助数詞とある。だが岩波の注では縵は干し柿のようにいくつかの橘を縄に取り付けた形状とされる。以上の説明ではわかりにくいがオタフクデーツの様子、これもナツメヤシに実るデーツの状態を見れば理解は可能である。一本の軸から枝分かれして紡錘状にたっぷりの実がついている。その一本に実が連なるような状態は、干し柿をつるしているかのようだ。また軸から離して乾燥したものを袋に詰めた状態も考えられる。みたらし団子のように串に刺した可能性もある。
 どちらが竿か縵かわわからないが、これは商品売買の際の単位といったものではないだろうか。シルクロードの商人たちのデーツ販売形態を表現したものと考えたい。古事記では大妃に四縵・矛四矛を分けたというのも、これで理解しやすくなろう。

【6】はるか古代から聖樹とされたナツメヤシ
 現代でも、ムスリムの慣習として、赤ん坊が最初に口にするものであり、また断食明けの食べ物としてこのデーツが使われる。アヌビス神古代よりナツメヤシは人々の信仰、儀礼と結びついている。
 枯死した葉の落ちたところから新しい葉が出てくるナツメヤシは、不老の象徴であった。エジプトでは葬儀の際にはナツメヤシの葉を携えて行列し、ミイラやそれを納めた棺の上に置いたという(注2)。ギリシャ神話では、太陽神アポロンは、デロス島のナツメヤシの元で生まれ、その木がアポロンにささげられて聖樹となった。古代ローマでは、死者を冥界に送る儀式を司る神アヌビスは、1世紀のローマのイシス神殿の祭壇浮彫に、左手に壺とともにナツメヤシの葉を手にしているところが描かれている。
 また、ティグラネ墳墓璧の厨子の図像には、女神がナツメヤシを両手に持ってかざすものがあり、これは死者を守護していることを意味している。ミイラ守護初期キリスト教会は、キリスト教徒が迫害された際の、死に対する勝利の象徴とした。絵画の中で殉教者の持ち物として、またイエスの洗礼の背後にナツメヤシが描かれている。    
 以上の内容は、聖樹であるナツメヤシを持ち帰った田道間守が垂仁天皇の後を追って殉死することと符合する。ナツメヤシの葉をかざして死者を守護する構図ともなるのではないか。さらには古事記にある、石棺や石室を造る石祝作、埴輪や祭器を作る土師部を定めたという記事も葬送儀礼の点でも重なるのである。

【7】デーツと類似点のあるナツメ
 よく混同されるものにナツメ(クロウメモドキ科、落葉高木)がある。地中海沿岸から中国まで見られ、乾果は生食できる点などナツメヤシとの共通点も多い。中国、朝鮮では古来、冠婚や正月に欠かせないものであった。奈文研ブログに「ナツメのはなし」が掲載されているが、漢方薬としても使われ、神仙とも結びついていたという。九州糸島の平原古墳でも出土している方格規矩四神鏡や三角縁神獣鏡の銘文にこの棗(なつめ)が見られる。「尚方作竟眞大巧 上有仙人不知老 渴飲玉泉飢食棗」(上に仙人ありて老を知らず、渇えば玉泉を飲み、飢えばなつめを食し)
 また、平城京の長屋王邸跡からも棗と書かれた木簡が出ている。中国では一日一粒で百歳まで老いないと考えられたので、長屋王も棗を所望したのであろうか。ナツメヤシのあるオアシスが神仙の地と考えられたことと類似する。
  
まとめ
 日本書紀の記述から非時香菓は、中国のはるか西方の弱水の地を渡った砂漠の中のオアシスに生息するナツメヤシと考えられる。保存が出来て栄養もある木の実のデーツが、王が求めたものとしてふさわしいものであろう。さらに葬送儀礼と殉教に関わる聖樹信仰の点でも、殉死後もナツメヤシを持って天皇の墓を守護する田道間守の説話の構図と重なるのである。
 田道間守が実際に砂漠のオアシスに行ったとは考えにくい。おそらくは西方で語られた説話がシルクロードの民を経て氏族の祖先譚として記紀に取り入れられたと考えられる。書紀も古事記も橘と記しているのは気になる問題であり、古代の地名や人名などの点から検討していきたい。
 なお、田道間守はお菓子の神様として祀られているが、甘みがあってお菓子の材料となるデーツと関係するならば、あながち無関係とはいえないかもしれない。
    

注1.「オクサスの南北」というブログに弱水を娑夷河とするなど、田道間守と関連させて論じられる記事がある。
注2.ここで関係するのが天若日子の葬儀の行列である。河雁をきさり持ちとし、鷺を掃持(ははきもち)とし、・・・  とある。この掃持は箒を持つのである。その箒は葉で作られたものであるが、元はナツメヤシの葉からきていると考えられる。現在でも西アジア方面ではナツメヤシの葉が箒として使われている。ちなみにナツメヤシの葉はホウスという名で呼ばれている。

【古事記垂仁記原文】
天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。

【日本書紀垂仁紀原文】
九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歲。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。
明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流淚也。田道間守、是三宅連之始祖也。

参考文献
前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」金沢大学考古学紀要巻 25ページ 64-73発行年 2000-12-25 ネット掲載
甘粛人民出版社「シルクロードの伝説」濱田英作訳 サイマル出版会 1994
岡田温司監修「聖書と神話の象徴図鑑」ナツメ出版 2011
遠山茂樹「歴史の中の植物」八坂書房 2019 
石山俊・綱田浩志「ナツメヤシ アラブのなりわい生態系2」臨川書店 2013
中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」文教大学 言語と文化 題27号 ネット掲載
北村泰一「タクラマカン砂漠の幻の海」(「タクラマカン砂漠の幻の海」古田史学HP)
韓永大「古代韓国のギリシャ渦文と月支国」明石書店 2014     
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001

ナツメヤシの写真は、Zeynel Cebeci氏のDate tree - Phoenix sp..jpg (クリエイティブ・コモンズ
シュロの写真は、植木市場様のHPより
アヌビスとミイラ守護の図は前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」より。

※本稿の初出は2022年10月6日に豊中研究会にて発表、古田史学会報№173掲載のものを一部改定したものです。ブログ掲載後、修正し改めて投稿しました。

人類進化に多大な影響を与えた「火」の使用 火打金とポシェット⑶

図1

1.火の使用が決定的だった

 人類にとって、火の利用が重要であったことを改めて認識させられる書がある。従来の農耕や初期国家についての定説を覆すような問題提議がなされた『反穀物の人類史』に、初期人類における火の使用が多大な自然環境への影響、食物利用の飛躍的拡大、人類そのものの進化をもたらしたという、たいへん有意義なものであることが特筆されている。
 わかりやすい例として、南アフリカで発掘された洞窟からの調査があげられる。もっとも古い層に火の使用を示す炭素堆積物はなかった。そこには大型ネコ科動物の全身骨があって、他には、ヒト科の一種であるホモ・エレクトスを含む動物の骨片が歯形を残して散らばっていたという。もっと上の時期の新しい層には、炭素堆積物があって、ホモ・エレクトスの全身骨格があって、様々な動物の骨片が散らばり、大型のネコ科動物の骨もあって、かじった痕跡があるという。すなわち、火の使用を境に、洞窟の主、食う側が変わったことを示しているという。
 ただ暖を取るとか、夜行性動物からの安全対策だけではなく、火のパワーの効能は計り知れないという。最古の火の使用は40万年前だということだが、自然の景観を大きく変える役割も果たし、火によって、古い植生が焼き払われ、人間にとって利用しやすい種子やナッツなどが実り、そこにこれも獲物となる小動物も集まったのだ。さらに、初期の人類は火を使って大型の獲物を狩ることもしていたという。弓と矢が登場するずっと前(約2万年前)には火を使って、動物の群れを崖から追い落としたり、象を穴へ突き落したりしていたという。
 また調理をすることも人類の進化に多大な影響を与えている。加熱して消化しやすい食べ物をとることで、腸の長さがチンパンジーの三分の一ほどになったという。さらに動物の肉の殺菌などで、利用できる動物種も拡大し、栄養摂取も改善し、そういったことで脳のサイズは急速に拡大した。このように、火の使用こそがホミニド(ヒト科総称)の未来を変えたといえるのだという。

2.映画『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンの問題
 
 以上のような意義あるものなのだが、人類史における火の使用は、これまで過小評価されてきたようだ。そのわけは、火の活用による影響が数十万年に渡って広がったものであり、これを行ってきたのが「未開人」すなわち「文明以前の」人々であったからだという。実は、このような人類にとっての火の使用の意義が、当たり前すぎて重要視されてこなかったことが、著名な映画にも表れているのではと思ったりしている。
 今も語り継がれるキューブリック監督のSF映画の傑作『2001年宇宙の旅』だが、その中の冒頭の場面には、類人猿の集団どおしの争いで、謎のモノリスからの示唆?で骨を武器に使って相手を打ち負かし、やがて、空高く放り投げられた骨が宇宙船に変わるという名シーンが描かれる。
 だが、先ほどから述べてきたように、火の使用が人類進化にとって決定的なものであるならば、このシーンでは、モノリスは初期人類に、火を使いこなせるように、発火法を伝授?したとするほうがよりリアルではなかったかと思うのだがどうであろう。
 類人猿の集団の前に突然現れた物体モノリスによって、彼らは、火を起こすことができるようになる。板切れに、棒状の木を繰り返しこすりつけ、やがて煙が生じだすと、獣毛などを火口(ほくち)としてそこに近付け、そっとやさしく息を吹きかけて炎が上がるようにする。初期人類が、火を自ら生み出すことができた感動の瞬間だ。だがはたして、これは映画としてはどうであろうか。モノリスの前でしゃがみこんで、ちまちまと板と棒を使って発火作業を行う様子など、はっきり言って絵にはならないかもしれない。もし、発火シーンのアイデアがあったとしても、キューブリック監督は、骨を武器にした戦闘シーンこそ映画にふさわしいと、差し替えたであろう。
 武器という道具を発明することも画期的ではあったと思うが、それ以上に火の使用は、自然界にも多大な影響を与える重大な意義あるものであった。

火起こし体験
 写真は、大津市歴史博物館の火起こし体験 真剣取り組む子供たちだが、このキリモミ式発火法は13名挑戦したが、成功者はいなかったという。慣れないと難しいようです。

3.発火法のはじまりの謎

 モノリスは作り話としても、さて人類は、どのようにして発火法を生み出したのか。それは、摩擦法だけではなく、黄鉄鉱を火打金として使うことも、早くから見出していたのであろうか。アイスマンが、5300年前に黄鉄鉱を使っていたとするなら、それよりももっと早くから利用していた可能性はある。また白鉄鉱も火打金になるようだ。初期人類は、石器の作成過程で、早くから火花が出る石があることに気が付いていたであろう。火打金のほうは、鉄の生産がはじまってからなのでずいぶん後のこととなろうが。
 前回にも述べたが、戸外で過ごす狩猟活動の際に火は欠かせない物であったが、そのために打撃法による発火がけっこう行われていたのではないだろうか。摩擦法のキリモミ式よりは、火打の方が戸外では便利だったのではないか。縄文時代には落とし穴と思われる遺構が無数に発見されているが、縄文人も、獲物を火を使って追い詰めることもしていたかもしれない。落とし穴を用意して、じっと獲物が罠にはまるまで待つだけではなかったはずだ。この縄文時代に黄鉄鉱や白鉄鉱などが火打ちとして使用されたものが見つからないのであろうか。また、古代の火打石の方も、資料が少ないようだ。 
 「各種チャート、頁岩、黒曜石、長石、サヌカイトなど、旧石器・縄文時代に各地で選択された石材が、当時から火打石として使われた可能性は考えられないであろうか」(小林2015)として、発掘担当の方々に、火打石としての利用の認識を求めておられる。今まで見過ごされていたものが、再発見されていくことを期待したい。

 参考文献
ジェームス・C・スコット「反穀物の人類史」立木勝 訳 みすず書房2019
小林克「火打石研究の展望」考古学研究62-3 2015

冒頭の映画シーンは、YouTube 
2001: A Space Odyssey - The Dawn of Man Art Historyより
火起こし体験は、大津市歴史博物館ブログより