流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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 縄文土器には、把手なのか、文様なのかよくわからない眼鏡状とか、橋状とも言われている双環突起がついています。土器によっては、そこに腕のようなものが伸びていたり、蛙や蛇の頭のような表現ともとれるものもあります。そして、いわゆる出産文土器にも少し大きめの双環突起が口縁部についています。
 この奇妙な突起の意味を、あくまで想像ですが、出産と関係あるものと考えました。note版流砂の古代 こちら にアップいたしました。ひょっとすると、人体の骨格と関係しているのでは? ぜひご覧ください。


風土記の天皇

 図は各風土記に登場する天皇名を表にしたもの。 
以下は、各風土記の中に登場する天皇とその地名を抽出したものである。記載された天皇名は、漢風諡号ではないのだが、現在に通用している解釈の天皇で分類した。
 皇極、斉明は同一人物となる。
 欠史八代の天皇は既述なく表からは消している。
 応神天皇は、播磨国風土記では多数登場するので一部だけ記載した。
 出雲国風土記は、ほぼ完全本であるのに、天皇が3名しか登場しないのも面白い。独自の世界が描かれているということだろうか。
 また、日本書紀では天皇ではない人物が風土記では天皇の扱いになっているものが倭武天皇など数名あり、各風土記の末尾に記載した。さらに、同じ天皇を日本書紀とは異なる天皇名で記してあることも多くあるのは興味深い。
 もともと、持統天皇の記事があるのかが気になったのでチェックをしたのだが、やはり登場していない。もちろん、他にも登場しない天皇はあるが、推古から天武までは何らかの風土記に記載されているのに、日本書紀最後の天皇の記述がないのが、気になるところである。あくまで参考程度の資料です。

◆播磨国風土記
(仲哀)穴門豊浦宮:赤石郡印南浦、   帯中日子:赤石郡大国里、
(神功)息長帯日女:赤石郡大国里、  息長帯比売:餝磨郡因達里(韓国平)、  大帯日売:揖保郡言挙阜, 宇須伎津、宇頭川、 息長帯日売:揖保郡御津、萩原里、讃容軍中川里(韓に渡る)、
(応神)品太:賀古郡、餝磨郡麻跡、賀野里、幣丘、安相、(以下略) 
(景行)大帯日子:賀古郡日岡、赤石郡益気里、酒山、  大帯日古:小嶋、 大帯比古:琴坂、
(成務)志我高穴穂宮:賀古郡、
(仁徳)難波高津御宮:含藝里、 大雀天皇御世:餝磨御宅、 難波高津宮天皇:栗栖里、揖保郡佐岡、讃容郡弥加都岐原、 難波高津宮御宇天皇之世:賀毛郡猪養野
(履中)大兄伊射報和気命:賀毛郡美嚢郡、美嚢郡志深里、
(雄略)大長谷天皇御世:餝磨郡胎和里、
(顕宗・仁賢)意奚・袁奚:玉野村、美嚢郡志深里
(安閑)勾宮天皇之世 越部里、
(欽明)志貴嶋宮 餝磨郡大野里   志貴嶋 少川里
(孝徳)難波長柄豊前:揖保郡石海里、宍禾郡比治里、難波豊前於朝庭 讃容郡、
(斉明)小治田河原天皇之世 揖保郡大家里、
(天智)近江天皇:讃容郡中川里、船引山、
(天武)浄御原朝廷:讃容郡中川里、
息長命(帯比売弟):賀古郡、
宇治天皇之世:揖保郡上筥岡、
市辺天皇命:美嚢郡志深里
聖徳王御世:原の南、

◆出雲国風土記
(景行)纏向檜代宮御宇天皇:出雲郡
(欽明)志貴嶋宮御宇天皇御世:意宇郡舎人郷、神門郡日置、
(天武)飛鳥浄御原宮御宇之御世:意宇郡安来、

◆豊後国風土記
(景行)纏向日代宮御宇大足彦天皇:総記、日田郡、日田郡鏡坂、 纏向日代宮御宇天皇:直入郡祢疑野、大野郡海石榴市、海部郡、大分郡、速見郡、国埼郡、
(欽明)磯城嶋宮御宇天国拝開広庭天皇之世:日田郡靫編郷
(天武)飛鳥浄御原宮御宇天皇:日田郡五馬山、

◆肥前国風土記
(崇神)磯城瑞籬宮御宇御間城天皇:総記
(景行)纏向日代宮御宇天皇:総記、基肄郡、養父郡、日理郷、神埼郡、神埼郡三根郷、三根郡米多郷、同船帆郷、同蒲田郷、松浦郡大家嶋、同値嘉郷、杵島郡、同嬢子山、同託羅郷、彼杵郡、同浮穴郷、高来郡 
 大足彦天皇:神埼郡琴木岡、同宮処郷、松浦郡賀周里、
(神功)気長足姫尊:松浦郡(新羅征伐) 同逢鹿駅(新羅征伐)同登里駅(男装)、彼杵郡周賀郷、
(応神)軽嶋明宮御宇誉田天皇之世:鳥樔郷
(宣化)檜隈廬入野宮御宇武少広国押楯天皇:松浦郡鏡渡、
(推古)小墾田宮御宇豊御食炊屋姫天皇:三根郡物部郷
(日本武尊)巡幸:佐嘉郡 小城郡(不明の天皇あり)、

◆常陸国風土記
(崇神)美麻貴天皇馭宇之世:新治郡、 美麻貴天皇之世:筑波郡、久慈郡、 新貴満垣宮大八洲所馭天皇之世:行方郡香澄里、 初国所知美麻貴天皇之世:香島郡、
(垂仁)伊久米天皇ノ世:行方郡白鳥里、
(景行)大足日子天皇:信太郡、行方郡香澄里、
(成務)斯我高穴穂宮大八洲照臨天皇之世:多珂郡
(神功)息長帯比売天皇之朝:茨城郡(多祁許呂は品太誕生まで仕える) 息長帯日売皇后之時:行方郡田里
(孝徳)難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世:総記、行方郡、多珂郡  難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世:行方郡
  難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世:香島郡、 難波天皇之世:香島郡、 
(倭武天皇):総記、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡、久慈郡、多珂郡、
(継体)石村玉穂宮大八洲所馭天皇之世:行方郡
(天智)淡海大津朝:香島郡、 淡海大津大朝光宅天皇之世:久慈郡、
(天武)飛鳥浄御原大宮臨軒天皇之世:行方郡麻生里、 飛鳥浄御原天皇之世:同板来村

◆逸文
(神武)宇祢備能可志婆良宮御宇天皇世:摂津国土蜘蛛、 神倭石余比古之御前立坐:山背国  神倭磐余彦:伊勢国
(崇神)美麻紀天皇御世:越国  大倭志紀弥豆垣宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(垂仁)巻向珠城宮御宇天皇:尾張国、陸奥国、
(景行)大足日子天皇:常陸国河内郡、 巻向日代宮大八洲照臨天皇:常陸国、 巻向日代宮御宇天皇時:陸奥国、大帯日子天皇:伊予国、
(倭武)日本武命:尾張国、 日本武尊:陸奥国(征伐東夷)、美作国、  倭健天皇命:阿波国 
(仲哀)帯中日子天皇:伊予国
(神功)息長帯比売天皇世:摂津国風土記、 神功皇后時:摂津国(美奴売前神)、 息長帯日売命:播磨国
    大后息長帯姫命:伊予国
(応神)軽嶋豊阿伎羅宮御宇天皇世:摂津国風土記裏書
(仁徳)難波高津宮天皇之御世:播磨国、伊予国、
(雄略)長谷朝倉宮御宇天皇御世:丹後国日置里
(継体)石村玉穂宮大八洲所馭天皇之世:常陸国
(宣化)檜前伊富利野宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(孝徳)難波長楽豊前宮御宇天皇世:摂津国久牟知川、  御宇難波長柄豊前宮之天皇御世:常陸国、 難波長柄豊前大朝撫馭宇天皇之世:常陸国  難波高宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(不明)天皇:備中国、 淡路国、

 既に、『百済本記』に、百済が倭国に王を派遣したといった記事がない、とのご意見に対して、この百済本記には、蓋鹵王から武寧王まで、更には他の多くの王の記事もだが、即位以降の事績しか書かれておらず、即位までどのような活動をおこなっていたのかは、ほとんどわからないのであり、即位前に倭国に渡っていた、というような記事はないのである。
 他にも、百済の王族が倭王であるならば、中国史書は必ず記載するはずだ、とのご意見もあるが、この点について説明する。

1. 中国も周辺国に王子を相手国の王として派遣していた可能性

 倭五王=百済王同一人物説に対する反対意見として、これが事実なら、中国は問題にしないわけはなく、史書にも記するはずだとのご意見に対して、実は中国も同族の男子を他国に派遣しようとする考えがあったことを説明する。
 『三国史記』「新羅本紀」善徳王12年(643)高句麗、百済との戦いに救援を求める新羅の使者に対して、太宗は三策を示し、その一つが次のようなもの。「爾が国、婦人を以て王と為し、隣国に軽侮せらるる・・・・我,一宗枝を遣わし、与えて爾が国守となさん。」
 訳「そなたの国は女を王としているので、隣国に侮られるのだ、・・・我が一族の男子を遣わして王としよう。」
 『冊府元亀』 「爾が国、婦人を以て主と為し、隣国に軽侮せらる・・・我、一宗枝を遣わし、以て爾が国主となさん」と、中国史書にも同様の記事がある。
 使者は返事をしなかったが、翌年唐に特産物を献じ、その功あってか唐は高句麗に使者を送って、新羅を攻撃するなら出兵すると伝えている。
 中国が、周辺国、いわゆる夷蛮の国々の中に、自国の王族を指導者として送るようなことが、実際にあったから、女王の代わりに自分の王子を派遣すると提案したのではないか。百済が王族を倭国に派遣しても、それは特異な例などでないので、特に中国は問題にすることではなかったといえる。

2.倭国にやってきた百済王族の事績の説話 神戸市明要寺  丹生山縁起
 
 縁起によれば、赤石(明石)に上陸した百済聖明王の王子『恵』が一族と明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てたという。 王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」としたそうだ。現在は明要寺の鎮守丹生神社を残すだけだ。ただ、百済の年号としたのは面白いが、この「明要」は九州年号541~551である。九州年号についてはこちら。九州年号を寺院名にしたのはめずらしいものだ。
 恵は百済威徳王の弟だが、昆支王も、自分が関与したかは不明だが、昆支王を祀る飛鳥戸神社がある。百済に限らないが、渡来してきた人々の痕跡はいくつも残されていると言える。

        古代史講演会のご案内です。

チラシ

和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 

 持統天皇の万葉歌の有名な「春すぎて~」は、実はその解釈に疑問がもたれている歌なのです。 また、燃える火を包む袋~、という歌も不思議な歌なのです。謎の歌にふれながら、日本書紀の記述などをふまえて、持統天皇という存在に疑問がもたれる状況があることを説明いたします。
 お気軽にご参加ください。

石の宝殿 中尾山
1.兵庫県生石(おうしこ)神社石の宝殿の謎
 
 播磨国風土記の賀古郡大国の里に「作石、形、屋のごとし  聖徳王御世、弓削の大連の造る石」とある。これが石の宝殿の造営に関係することは間違いなかろうが、ではその年代が明確になるかと言えばそうはいかない。これが石槨であるならば、その製作技法は七世紀のもので、守屋の時代とは合わない。ただ風土記は「守屋」と記しているわけではなく、物部氏は守屋の後も子孫らは弓削の名で残っている。
 正木裕氏は「もう一人の聖徳太子」注1)を論じられ、一人目は阿毎多利思比孤であり、二人目の聖徳太子である利歌彌多弗利の事績の中で629年から634年に聖徳年号があったとされる。これは二中歴の九州年号にはない年号である。仁王元年・623年即位~命長七年・646年崩御すると利歌彌多弗利の治世こそ聖徳の世であった可能性がある。ならば風土記の大石は七世紀の半ばに作られて、何らかの理由で途中で放置されたと考えられるのではないか。そして用途不明とされた石造物は、今では繰り抜き式石槨との考えもある。
 八角形の墳丘から文武天皇陵と考えられるようになった中尾山古墳は、巨大な台石に磨かれた石を組み合わせて石槨にしたものだ。その石槨の全景が、石の宝殿を横倒しにした様と類似していることが分かる。松本清張氏がゾロアスター教の拝火檀と考えた益田岩船も同様の未完成の石槨なのだ。下に向かって石室を彫り、完成後に横倒しにして設置しようとしたのかもしれない。ただし、中尾山の場合は巨大な台石の上に加工した石室を組み合わせて重ねている。横口式石槨ともいわれるが、石の宝殿や益田岩船の場合は、台石を含んだ石室として完成させようとしたのであろうか。

2.現段階での石槨の編年では、少し後になる。
 
 この繰り抜き式石槨も類似の系統があり、寝屋川市の高良大社の敷地の裏の石宝殿古墳が七世紀前半であり、その後、藤ノ木古墳に近い斑鳩町御坊山三号墳、そして有名な鬼の俎板・雪隠の古墳が7世紀半ばとなり、次に牽牛子(けんごし)塚古墳、越塚御門古墳となるようだ。707年崩御の文武天皇の真陵とされるようになった中尾山古墳は時代が8世紀初頭になってしまうが、周辺の遺構から出土する須恵器は7世紀後半とずれている問題はある。牽牛子古墳と隣接の越塚御門古墳は版築で造成されていることや、いずれも横口式石槨であることなど、九州との関係がうかがわれる。播磨や斑鳩の地域、九州式の石槨や版築の古墳などこの点についても聖徳太子との関係がみられるのである。
 問題は、この系統の中に石の宝殿と益田岩船があるとするならば、何らかの理由で工事が中断されたとする時期が聖徳の世の7世紀前半では、少し早いのである。また放棄された理由も推測しづらい。
 ここは横口式石槨の編年を繰り上げるような根拠を見出さないと、石の宝殿は「利歌彌多弗利の聖徳御世」の7世紀前半のものとはできない。これが7世紀後半のものであるならば、途中で作業が停止された要因に壬申の乱や王朝交代時の政変とする要素も検討できるが、この時期に聖徳の世とされた根拠が必要となる。
 つまり、中尾山古墳の石槨が、文武ではなく須恵器の出土から7世紀第4四半期になるのであれば、その前の斉明とされる牽牛子塚古墳が寿陵とした場合に650~660年代となり、そうすれば、益田岩船や石の宝殿が640年代で、利歌彌多弗利の時代と関係するならば、物部守屋の末裔の墓の造営とはなる。ただこれは、恣意的な解釈にすぎず、現段階では、石の宝殿と益田岩船も7世紀前半とはならず、石槨の編年の見直しがされることが重要となるのではなかろうか。

注1.正木裕氏「もう一人の聖徳太子」こちらのYoutubeをご覧ください。

益田岩船
古田史学の会 史跡めぐりハイキングのご案内
行先 飛鳥の古墳と益田岩船、新沢千塚古墳群
2025年4月5日(土)
10時3分(列車到着予定時刻)近鉄飛鳥駅改札口前集合
コース  岩屋山古墳 → 牽牛子塚古墳 → 益田岩船 → 小谷古墳 → (昼食)鳥屋近隣公園 → 桝山古墳 → 鳥屋ミサンザイ古墳 → 歴史に憩う橿原市博物館 → 新沢千塚古墳群 → バスで橿原神宮前駅着解散  
   ※帰りのバスは、古墳群前のバス停「シルクの社」15:53に乗ります。これを逃せば次は2時間後ですので、厳守!
 ※昼食は、近くにコンビニありませんので、必ず事前にご用意ください。昼食の場所は変更する場合があります。
 ※畑や竹林の山道を歩きますので、しっかりした靴でご参加ください。
  お問い合わせは、このブログのコメント欄にしていただいてけっこうです。

・岩屋山古墳 → 見事に加工された切式タイプ 2段築成の方墳  南側に開口した両袖式横穴式石室(全長17.8m)岩屋山式とも言われる 天井石は大きな1枚岩 残念ながら、棺も出土物なく、時代は7世紀半ば?  大阪府叡福寺北古墳(伝聖徳太子墓)との類似も

・牽牛子塚(けんごしづか)古墳 →  復元された外観ではなく、保存されている刳り抜き式の横口式石室をご覧ください。次に見学の益田岩船と関係します。八角形墳が天皇と関係するのかどうかわかりません。鳥取県や群馬県にもあります。棺は夾紵棺で、これは、鎌足とされる高槻市阿武山古墳と同じ。
 簡易トイレひとつあります。
☆外観はあくまで想像の復元です。実際に八角形古墳の形がわかるのは群馬県三津屋古墳。(こちら) これと同じような形だったのではないでしょうか?
三屋全景

・益田岩船 → 山道に入ります。ポツンと大きな岩の塊が見えます。加工された溝の幅が、石の宝殿とほぼ同じ。様々な説がありますが、現在のところは、石の宝殿と同じく、刳り抜き式の横口式石槨の未完成品が妥当。ちょうど、90度動かすと、牽牛子塚や文武天皇の墓と言われる中尾山古墳の石槨と似ています。末尾の図を参照下さい。
 降りる所は坂のある細道です。ゆっくり気をつけて歩いてください。

・小谷古墳 → 墳形不明 両袖式横穴式 岩屋山古墳と類似?  1枚の天井石は石舞台のものより大きいとか。 竜山石の繰り抜き式家形石棺があります。

(昼食)鳥屋近隣公園 → トイレあり

・桝山古墳 → 方墳としては全国で最大規模の古墳である。身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか、身狹桃花鳥坂墓)」崇神天皇皇子の倭彦命の墓に治定されているが・・元々は方形であるが、後世に北東部に前方部が付加されて前方後円形に生垣が巡らされている。あくまで方墳です。

・鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇陵) → 墳丘長138m前方後円墳

・新沢千塚ふれあいの里 → 休憩、お店あります。

・歴史に憩う橿原市博物館 → 縄文から弥生時代の遺物に、千塚古墳群の貴重な装飾品など多数。特に126号墳は注目。 馬の絵などの描かれたガラス皿(本物は東博に) 被葬者は新羅(加耶系?)の女王の可能性。
皇南洞98号トンボ玉
皇南洞98号北墳出土胸飾り装飾品類のトンボ玉
新沢千塚トンボ玉
新沢千塚126号墳のトンボ玉 当博物館には陳列されてません。
       
 由水常雄氏は『ローマ文化王国ー新羅』で、新羅の皇南洞98号双墳から、緑地に黄色縞目文のトンボ玉が、126号墳の2点と同一であることに、強い関連を指摘されています。王妃と考えられる両者の古墳の被葬者に特別な関係があったのではと考えられます。
 シルクロードを通じてやって来たガラス製品や、見事な金製の装飾品などをご覧ください。
 115号墳の五鈴鏡は関東にはよくあるものですが。
弥生土器では、鳥装のシャーマンを見てください。この周辺に「鳥屋」という地域名があるのは関係するかも。
ユニークな縄文土偶もあります。

弥生鳥装のシャーマン
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・新沢千塚古墳群 → 400基もの密集した古墳群 その一部を散策します。

・バス停シルクの社、乗車 樫原神宮駅前に向かいます。  お疲れさまでした。
  
 下の益田岩船、石の宝殿の図もご覧ください。

益田岩船石槨

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⑴記事の内容についての問題点

自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統
 
 倭国が、合計126国の周辺国を支配していったように書かれているが、これは史実なのであろうか。史実と判断する前に、史料批判、内容の吟味が必要かと思われる。この点について述べていきたい。 
①制覇の時代はいつ頃なのか。倭王武以前ではないのか?
 史実だとされる方の中には、倭武王の事績も含まれると考えられるような説明もあるが、「祖禰」は倭王武を含まないし、さらには、かたじけなくも先緒を胤ぎ、とあることから、倭王武は引き継いだことになる。よって、軍事行動は、倭王武の遣使のあった478年以前のこととなり、栄山江の問題も無関係となる。126国とは、遠い過去のご先祖の言い伝えの累積であろうか?
②「東征」、「西服」の拠点はどこなのか?もし九州であるならば、西の方が国数が多いのは奇妙。または、5世紀後半には、近畿を中心とする倭国があったのか?
③「毛人」とはどこの何を意味しているのか?同様に「衆夷」とはどこの国なのか?中心点を確定できない状態では、憶測しか言えないのではなかろうか。
④「海北」は、常陸国風土記でも使われる用語。行方郡条に、「倭武天皇巡狩天下、征平海北」とある。ここでは「海」は湖を意味する。これを無視してよいのであろうか。海北を韓半島と断定できるのであろうか?
⑤複数の研究者が、史実ではなく外交上表現、「天下観念の表現」(東潮2022)などと説明しておられる。
 また以下のような指摘もある。
「東征」「西服」は、「文章規範に則った表現」(河内2018)とされ、次のような例を挙げている。
『晋書』乞伏乾帰伝 「我が王は神の如き雄大な姿で隴右(西晋)を建国し、東へ西へ敵を打倒し、領土とならないところはない。」
『晋書』陽騖伝 「〔慕容〕皝が王位に即と、(陽騖)は左長史の職に遷り、東西に征伐し、帷幄の中で謀をめぐ
らした。」
⑥東は「征」、西は「服」、海北は「平」、とわざわざ文字を変えて美文調にしている。この三つの用語を各々に意味のある表現で使い分けた、というのは考えにくい。東55国の毛人は征したのであって、西の衆夷は66国みな服従させて、さらには半島では95国はすべて平定したのだ、という捉え方では説明できないと思われる。
⑦上表文作成者は漢文に長けた渡来人。百済上表文と倭王武上表文の漢籍利用の類似点があり、百済にいた中国系知識人による作成と考えられる。「躬擐甲冑,跋涉山川」と少し後の「掠抄邊隸,虔劉不已」は『春秋左氏伝』より。「不遑寧處」は『詩経』から。「臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統」は東晋桓沖の上表文と言い回しが同じという。ほかにも後漢書朱浮伝の「廓土」「百万」などがある。また上表文には「驅率所統」(統ぶる所を驅率し)という一節があるが、江田船山古墳大刀銀象嵌銘には後半に「不失其所統」とある。その銘文の末尾には書者張安とあることから、この人物が上表文にも関わっていた可能性は否定できない。
⑧「海北渡平95国」が半島南部での制圧行為であったのなら、なぜそのような痕跡、史料の記述はないのであろうか。新羅本紀には「倭人」との紛争が数多く記されているが、たいていは撃退しており、占領されて新羅の陣地が後退していったという記事は見当たらない。
⑨宋書には「倭国在高驪東南大海中」とあり、後漢書は「倭在韓東南大海中依山㠀為居」とある。中国に倭の半島支配という認識はない。
⑩そもそも東西海北216国は、478年以降どうなってしまったのか?雲散霧消してしまったのでしょうか?
⑪古墳時代には、争乱の痕跡が見つからないと、早くから言われている。この点について次にのべる。

⑵古墳時代の倭国になぜ山城は造営されなかったのか?
 
 以下は山本孝文氏の指摘である。「半島の三国時代の各国の遺跡の中で、代表的なものは都城関連遺構であり、都城遺跡は必須の調査研究対象である。ところが、一方で日本列島の古墳時代には、各地で首長居館は発見されているものの、中心や周辺の諸勢力が集住し、国家レベルの政治システム運営の舞台となったような都城は存在せず、それが現れるのは飛鳥時代以降となる。社会発展の一つの基準として城郭の出現が重視されている中国・韓半島を含む東アジア諸国のなかにおいて、これはきわめて特殊な状況といえる。
 日本列島の古墳時代に山城のような重厚な軍事施設が築かれなかったのは、拮抗する政体間の長期に及ぶ激しい抗争が、韓半島に比べて極端に少なかったためではないか。逆に、山城築城のような大規模な労働力を必要とする作業がなかったからこそ、古墳築造にコストを投入できたともいえる。」(山本2018)
 以上だが、半島に多数存在する山城が、その同時代になぜ列島には形成されなかったのか、という視点はたいへん重要な指摘といえよう。
 「城の定義と数え方にもよるが、主に高句麗・百済・新羅の三国時代に築造された850カ所に達する城郭が存在」(田中2008)しているとのことだが、この点だけからも、半島の長期にわたる不安定な状態、紛争の絶えない政情であったことがうかがえる。もし、列島内に、次々と他国を制圧するX王国があったとすると、制圧される側の中には、あっさりと降伏するのではなく、抵抗する国も出てくるのではないか。そして、中にはX王国に対し防衛策にでる国もあるはずだ。ならば、なぜ山城などを築くことはしなかったのか。
 山城については、書紀敏達紀に日羅の提言で「毎於要害之所堅築壘塞矣」(すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように)とあり、対馬の金田城など、九州を中心とする各地の山城が、この時期以降に始まったのではないかと考えられる。ちなみに播磨国風土記の神埼郡には、応神の世に渡来した百済人が城を造って住んだとあるが、時代も実体も不明である。私見では、岡山県鬼ノ城は、亡命加耶勢力が縁の深い吉備の定住の地に防衛としての山城を築いたと考えている。

⑶中国側の5世紀の倭国にたいする認識
 
 倭の珍は安東大将軍を求めたが、認められたのは讃と同じ第三品の安東将軍。これは高句麗高璉(長寿王)の征東大将軍、百済の餘映は(毗有王)の鎮東大將軍が上位となろう。
 さらに、済、世子興も安東将軍とかわらず、ようやく武になって安東大将軍と除された。つまり、中国は、倭国を5世紀後半まで、高句麗、百済よりも格下と認識していたのである。後述するが、百済を含めた六国諸軍事の要請のうち、百済をはずしたのも当然といえる。中国側に、半島において95国を制した国という認識はないといえる。繰り返すが、史書の出だしに書かれているように、倭は半島の東南の大海にある国という認識なのだ。
 次に、関連するので、「六国諸軍事」について説明する。

⑷倭の五王の「六国諸軍事」は半島への軍事的支配を意味するのか
 
 この問題に関しても、従来とは異なる認識がすすんでいる。仁藤敦史氏の指摘だが、「481年に、大伽耶と百済が高句麗の侵入に苦しむ新羅に援軍を送ったことは、大きな転機だった(『三国史記』新羅本紀)。これは反高句麗勢力の結集が可能となったことを示している。」(仁藤2024)とあるが、それ以前の高句麗による漢城陥落の直後に、新羅は百済からの援軍要請に応えて百済支援の派兵をおこなったが、これは間に合わなかったのだが、反高句麗の共同戦線の形があることが窺える。そうすると、諸軍事の要求は、百済が本来は主導するものを、倭国が、百済に代わって宋に対して要請したと考えることができる。
 建元元年(479)に加羅の荷知王は南斉へ朝貢し、輔国将軍に除正されている。もし、倭王の要請した六国諸軍事が、軍事的支配を意味するならば、これは、中国側が倭と加羅に対し重複除正をしたことになるが、ともに第三品で授爵されていることにかわりなく、加羅は倭と対等の独立国の扱いだった。つまり、加羅への諸軍事は、実体のない一方的な倭国側の要求にすぎないことを示している。(河内2018)
 同様に次のような指摘もある。「479年に加羅の荷知王が輔国将軍に授爵されているが、それ以前、宋が加羅の宗主国であったことはなかった。加羅は(略)521年にはじめて梁に朝貢している。朝貢関係のない国々の都督権を倭にあたえたのである。宋の国家的利害関係にもとづく専断にすぎない。このことをもって倭が百済を除く諸国の支配権を宋から承認され、あたかも『海北95国』を平らげたというような論はなりたたない。」(東2022)
 研究者は冷静に評価しており、そうであるならば、六国諸軍事なるものは高句麗を敵視し百済に肩入れする倭国の、反高句麗半島諸国同盟といった政治的パフォーマンスといったものではなかろうか。百済と六国は高句麗の圧迫にさらされていることは共通している。倭国が対象国に対し軍事的政治的に支配した、などということを示すものではないのである。

⑸中行説の匈奴へのアドバイス
 
 最後に、新川登亀男氏の中行説(ちゅうこうえつ)に関する記事を紹介しておく。中行説は燕国出身で前漢前の宦官であったが、のちに匈奴の指導者の老上単于の側近として仕えた人物で、「匈奴に対して、「疎記」(箇条書き的な記録)の効能を教え、匈奴の人数や家畜の種類などを記録し、漢の皇帝に送れと助言している。そして漢の皇帝が匈奴に送る1尺1寸(当時の1尺は23cm)に牘(とく)に書かれた尊大な修辞に対抗し、同様な牘に大きな封印を施し、尊大な言辞・修辞を加えた贈り物を漢の皇帝に送ったという。人、動物、種類、単位、数値を箇条書き的に羅列し、実物も送り、それに付随していろいろな修辞・文字で飾り、相手に見せつけ、自己主張しろと中行説は言った」(荒川2016)という。
 倭王武の上表文も、外交文書として最大限の修辞で飾って中国にアピールしているのである。上表文の内容をこのようにとらえる必要があるわけで、書いてあることをすべて鵜呑みにしてはいけないのである。

 以上のように、上表文の一節をもって列島の倭国が東西海北126国を制圧していたなどというのは、史料批判もなく、さらにはエビデンスもない状態で、これを額面通りに受け取ることはできないのである。

参考文献
山本孝文『古代韓半島と倭国』中央公論新社2018
田中邦煕『朝鮮半島の城』土木史研究講演集Vol.28 2008 ネット掲載 
河内春人『倭の五王』中公新書2018  
仁藤敦史『加耶/任那』中公新書2024  
東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022
森浩一「著作集2」新泉社2015年  
河上麻由子『古代日中関係史』中公新書2019 
荒川登亀男『漢字文化圏の成立』ユーロナラジアQ 2016

家ネコ
 よく見させていただいているブログ「考古学のおやつ」2025.1/14の記事に、猫好きには見逃せない内容があった。

「中国で出土した紀元前3500年~数百年前までのネコ科の骨22試料のDNAを分析。中国には600年以降にシルクロードの商人がイエネコを伝え、エキゾチックな動物として愛玩された可能性。野生のネコは5000年前の泉護村で出土している。」

 野性ではなく飼いならされた猫が、シルクロードの商人、すなわちソグド人によってもたらされた可能性があるということだ。ニーズのあるものは何でも調達するという彼らのエネルギッシュな活動を示すものではないか。
 日本にもネズミをとってくれるネコが弥生時代からいたようだが、ペルシャ猫といった愛玩用のネコさんは、ずっと後の時代だろう。

くわしくはこちらをどうぞ 私は日本語訳の画面にして読みました(^_^;)
  図は19世紀の絵画で、同HPのものです。

1.武寧王と銅鏡の関係

 武寧王墓に副葬された中国製の銅鏡に関しての森浩一氏の指摘だが、半島にはあまり見かけない習慣であり、倭人社会からの影響とされている。「王の方の銅鏡は棺外の長軸上に一面ずつ、王妃のほうは頭部付近に一面、という出土状況も日本の古墳の銅鏡出土状況に比すべきもの」(森2015)だという。また、その銅鏡の踏み返し鏡をつくり日本の古墳埋葬者に配布されていることも同様であろう。倭国にいた武寧王こと斯麻は日本産のコウヤマキ製の棺が使われたが日本の銅鏡の扱いにも関心があったのであろう。
 このことから、隅田八幡宮神社人物画像鏡の銘文に記されたように、斯麻が作成させて男弟王に贈ったことも説明がつく。百済王が、銅鏡の制作を指示したというのも、これが列島の有力者のためにというのも異例なのである。百済のみならず半島には、銅鏡を重要視する慣習は多くはないが、倭国に滞在した斯麻はこれを理解していた。綿貫観音山古墳などの被葬者に獣帯鏡のコピーが渡った理由も関連付けられるのである。                     

2.風土記の倭武天皇と大橘比売皇后

 常陸国風土記の倭武天皇が、倭王武のことと考える識者は多いが、そうであるならば、私見では斯麻として倭国にいた武寧王のこととなる。上表文の「渡平海北九十五國」と風土記の「倭武天皇巡狩天下、征平海北」の記述の類似は無関係とは思えない。風土記における倭武天皇の記事は、総記と9カ所ある郡のうちの5郡に登場する。斯麻王は東国エリアもくまなく「巡狩」していたのである。 
 またこの風土記には、倭武天皇の皇后として大橘比売命が記されている。ならば、武寧王陵にともに埋葬された王妃は、この大橘比売の可能性が出てくる。武寧王陵の副葬品は、その多くが中国由来のものだが、その中に王妃の頭部付近に銅鏡が置かれていたというのは注目すべきことであって、まさに倭人の風習を示すものと言える。武寧王の皇后が倭人であり、その人物こそ大橘比売であったと想定できるのである。
 歴代の百済王の夫人が倭人ではないかという説は、既に言われていることであるが、今回、銅鏡の問題、常陸国風土記の記事、武寧王陵における副葬された銅鏡などから、大橘比売が武寧王の后であるとの私見を披露させていただいた。

3.倭の五王の郡太守号の要請を真似た百済王
 
 次は、武寧王ではなく、蓋鹵王に関することである。
宋書の記事に関しての河上麻由子氏の指摘だが、「倭国王は451年にも23人の倭人に対して将軍号と郡太守号を与えるよう求めている。458年には百済も臣下への官爵号の授与を求めた。これ以前に百済王が臣下への授与を要請した事例は見出せない。珍・済の成功に依ったものであろう。」(河上2019)と書いておられるが、これは次のように理解できる。
 蓋鹵王は455年に百済王として即位している。彼が百済で官爵号を求めたのであるが、蓋鹵王が倭王済であるならば、済であった時代の451年に23人の軍郡が認められ、この事例を百済に戻ってからも行ったと捉えることができるのである。


 この武寧王と倭王の問題は、いったん区切りを付けさせていただくが、あらたな知見など得られれば、随時、ふれさせていただきます。

参考文献
森浩一『著作集2』新泉社 2015
河上麻由子『古代日中関係史』中公新書 2019

一言主神社参道
奈良県御所市 葛城一言主神社参道
ワカタケル像
ワカタケル像
一言主神社ワカタケル像掲示板
解説パネル

1.幼少期にワカタケルと呼ばれていたのは斯麻王ではなかったか。

 古事記では大長谷若建命、日本書紀では大泊瀬幼武天皇である雄略は、葛城山で一事主神と出会い、自ら幼武尊と名乗っている。幼い武という名は少し奇妙ではないか。瑞歯別の反正天皇も歯の特徴からついた名前のようだが、雄略は年端も行かぬうちに天皇になったというのだろうか。だが雄略は書紀では62歳であり、在位期間が23年と考えられており、それならば即位時の年齢は39歳であって、これがもし2倍年暦としても、20歳に手が届くころである。 
 ここは書紀の語る天皇でなく、雄略に充てられた実在の人物に幼い武と呼ばれていた人物がいて、その彼が若くして倭国王になった人物を想定できるのではなかろうか。つまり、幼武とは、武寧王となる斯麻のことではないか。
 武寧王は40歳で百済王となっている。少し遅くはないか。40歳までどうしていたのか。百済で活動していたなら、何らかの記録があってもよいのではないか。時期は不明だが幼い時から日本に滞在し、百濟に戻った昆支の後に倭王となって、40歳まで日本で活躍したと十分考えられる。生誕が462年ならば、成長した斯麻は、477年の遣使記事の前年に倭王として即位したとすると、15歳のこととなる。昆支は世子興として倭国滞在中に、幼少からの斯麻を幼武、ワカタケルなどという愛称で見守っていたかもしれない。
 近畿一元論の倭の五王の武の雄略比定説には従えないが、書紀の編者が雄略天皇の創出に、斯麻こと倭の武王を想定したとは考えられないか。もちろん記事には、別の人物の事績も混在していると考えられる。
 稲荷山鉄剣銘文の獲加多支鹵大王が、雄略のワカタケルのことだと言われているが、これも、斯麻王である倭王武の統治の時代を意味すると解くことができる。

2.頭を撫でて百済に送り出す天皇の記事

 雄略23年に百済の文斤王がなくなる。天皇(天王)は昆支王の二番目の子の末多王(東城王)を内裏へよばれ、「親撫頭面、誡勅慇懃」(親しく頭を撫で、ねんごろにいましめて)とあるのだが、これと似たような表現がある。壬申の乱の記事では、天武が戦術の相談の際に、子の高市皇子をほめて、「携手撫背、曰愼不可怠」(手をとり背を撫でて、しっかりやれ、油断するなよ」と言うのも、身内だからこそできる行為といえる。するとこの「天王」は当然のことだが雄略とは異なる。岩波注ではもとはこの個所は「大王」という表記であった可能性も指摘している。
 武寧王の前の百済王である末多王(東城王)を百済に送ったのは筑紫の兵士を500人も護衛として付けるなど破格の対応を遂行できる倭国の高位の人物であり、本人とは親族関係にあることが考えられる。そうすると、東城王を百済に送り出したのは、幼年期を倭国で過ごした倭武王こと斯麻のことなのである。
 この筑紫の兵士が帰還したという記録はない。彼らは、栄山江などの百済の非征服地に送られ、そのリーダーは定着して彼の地で前方後円墳を造り、多数の兵士たちは、これも多数見つかっている倭の特徴をもつ横穴墓に葬られたと考えられる。墳形が方円形で、石室が九州式の特徴を持っていても、副葬品に百済や加耶の特徴も見られ、中には、甕棺の置かれた石室もあるところから、九州勢力の支配を示すものとは考えられない。この特徴ある墳墓がほぼ一代限りであることからも、百済主導の倭系官人の先行的な配置であって、その後は百済の支配が確立していったことを物語っているのである。すなわち、百済に戻った斯麻こと武寧王が、栄山江などの進出を推進したと考えてよいであろう。
 





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