流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

古代大和史研究会主催 講演会 2024.12/24(火)13:30~16:30
会場:浄照寺(奈良県磯城郡田原本町茶町584)近鉄田原本駅から東に徒歩5分
「天皇はいつから天皇になったのか」服部静尚氏
「聖徳太子の半島出兵は無かった」正木裕氏
「大国主が落ちた穴と宇陀の血原の本当の意味」大原重雄  参加費は500円(資料代)です。お気軽にご参加ください。

継体天皇の年齢がなぜ古事記と日本書紀で異なるのか?  つくられた万世一系⑴

天皇在位継体

1.古代の天皇の年齢は二倍年暦によるものなのか

 日本書紀には、神武から天武までの間で、年齢が記載されていない天皇の方が多い。神武からいわゆる欠史八代、さらには応神までは途切れることなく記載されているのに、仁徳から武烈までは不記載が続く。図の書紀の年齢の( )の数字は、後の史料からの転載である。しかも書紀には履中が70歳と記されているが、これは割注によるもので、本文より後からの追記である。その後、武烈のあとの継体で年齢の記載が復活するのである。
 ところが、この継体の年齢が古事記とは大きく食い違っている。古事記は43歳とあるが、書紀は倍に近い82歳となる。この違いを、採用した史料が異なるからだという解釈がある。すなわち、日本書紀の方は、二倍年暦で書かれた史料に拠っているので82歳の高齢となっているというのだ。
 神武から始まる上古の天皇の年齢は百歳を超えることが多く、垂仁に至っては140歳という長寿となっている。これが2倍年齢と考えると、無理のない年齢になるとの考えである。このことから、書紀の編集において参考にされた史料に、古事記とは異なる2倍年暦による記述があるとの説明だ。だがこれには疑問がある。百歳の仁徳よりあとの天皇は、さほど長寿といえない年齢が続くのである。
 
2.書紀は、継体の長寿の年齢によって五世孫との辻褄を合わせた可能性

 古事記の方が、書紀よりは古い伝承を持っていると言われるが、そうであるならば、どうして二倍年暦が書紀よりも早く終わっているのかというのか説明がつかない。さらに、仁徳から武烈まで続いた年齢不記載が、継体になって、本文に「時年八十二」と明確に記述されることになったのはどうしてであろうか。ここは、書紀の編集に恣意的な、何らかの作為があって記載されたと考えるべきではないだろうか。
 それは、継体なる男大迹(ヲホド)の出自に関係するのである。武烈天皇には子がなかった。そこで皇統を絶やさぬよう、応神の五世孫にあたる男大迹に白羽の矢が立ったのである。だがこれについては、こじ付けであるといった疑問が早くからあった。しかし書紀はこれを良しとして、即位までの経緯を詳しく記載して継体天皇を誕生させたのである。そこで、五世孫に合うように継体の年齢を繕う必要があったのではなかろうか。
 古事記では43歳となっているが、それでは応神からかなり年数が離れてしまう。古事記の記事には干支は入ってはいないので、年数は問題にならないが、書紀はそうはいかない。干支によって年数がわかるので、応神の五世孫に合うようにしなければならない。
 表を見ていただきたいが、継体の没年が531年だとすると、書紀の言う82歳なら449年の誕生となり、それは允恭の在位期間に入る。その允恭は応神にたいして四世の天皇である。実際には別の血統であるが、仮定として例えるならば、允恭の子はちょうど応神の五世孫となる。注1)これを男大迹に想定したのではなかろうか。古事記の43歳では差が大きいので、書紀は倍近い年齢に設定した、もしくは、史料の記述から一番長寿となる年齢を採用したということになろう。注2)よって、継体の82歳は、二倍年暦による年齢で、実際は古事記の43歳が実年齢だ、とは言い難いのではなかろうか。

 以上のように日本書紀は、万世一系のために恣意的に高齢の記述にしたと考えられるのである。記紀の天皇の年齢、在位期間などには多くの疑問がある。継体の年齢もその一つだが、その他の事例についても述べていきたい。

注1. 『上宮記』逸文によれば、応神5世の孫とは、①若野毛二俣王  ②大郎子(意富富等王) ③乎非王(おひ) ④ 汙斯王(=彦主人王ひこうし) ⑤乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。
注2.なぜ書紀は古事記の年齢より39年も増やしたのかという疑問について、興味深い解釈をされている方もおられるので、参考のため紹介します。神谷政行氏のHP「天武天皇の年齢研究」の『継体大王の年齢』

図は、古田史学の会の正木裕氏の古代史講演会での史料を利用させていただいた。

倭の五王が日本書紀の天皇に比定できない理由 武寧王と倭の五王⑵

宋比較
 宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿のヤマトに神武より天皇が君臨していたという観念にしばられて、こじつけて当てはめているにすぎない。実際に批判的な通説の研究者もおられるのだ。(河内2018)
 倭の五王が日本書紀の天皇に当てはめられない理由を、私見では細かい問題もあるが、重要なところを二つ指摘しておきたい。

1.書紀が宋書倭国伝を無視していることの説明が必要

 一つ目は、倭の五王の記述が全く日本書紀に記されていないということである。いや、そんなことは言われなくてもわかっている、だから苦心を重ねて各天皇に比定しているのではないか、と思われる方もおられるであろうが、このことが重要な問題なのである。つまり、中国側の史書である宋書倭国伝、他に南斉書、梁書には記されているのに、どうして日本書紀は、その記事を少しでも採用しなかったのか、という問題である。宋に対して何度も遣使を行っていたのであれば、書紀は記事にしたはずであるのに、なぜそうはしなかったのか。
 書紀は、漢籍と言われる中国の史料などを多数引用している。それも、個々の莫大な史料の記事を渉猟して引用したのではなく、芸文類聚などの、記事のテーマごとに採集、編集された便利な資料集を活用して、書紀編者が、その場面に応じてふさわしい一節や熟語を抜き出してはめ込んでいたのである。これによって、潤色といわれるが無味乾燥とした記事に豊かなイメージを与える歴史書に変容させたのである。
 さらに年代を具体的に示す外国史書の引用も取り入れている。例えば神功皇后紀の39年(西暦239)には、景初3年6月倭女王遣使の記事を引用し、さも神功が卑弥呼であるかのように装っているところが見られる。さらに66年(266)にも、中国史書の泰初2年倭女王遣使の記事を記している。ここで神功は、長寿の女王にされてしまっているのだ。また百済の史書からも、百済王の崩御と新王の即位記事を繰り返し記載している。ところが、允恭や雄略に年代が該当するところでは、中国史書の倭の五王の記事は全く無視されているのである。
 それは、書紀にとっては不都合な、本来の倭国を示す中国側の証言集であったからだ。不都合な真実を載せるわけにはいかなかったのだが、通説の一元論では、それが説明できないのである。この点についての説明がないまま、倭の五王についての推論を進めること自体が疑問なのである。

2.書紀の天皇では説明できない世子興
宋書

 二つ目は、これが最大の問題と思われるのだが、宋書の五王の中で、興については「世子興」と繰り返し記されていることである。「世子」とは、世継ぎのことであり、天皇でいうならば太子にあたるのだが、日本書紀には日本の王の世継ぎに世子という表現はない。ただ一カ所、高句麗王族の記事にあるだけである。
 欽明紀7年に高麗内乱の記事 「中夫人生世子其舅氏麁群也」
 この世子には「まかりよも」との訓みが与えられているが、太子のことだと岩波注は記している。
 中国晋書には、「百濟王世子餘暉為使持節都督鎮東將軍百濟王」
 ここでは、辰斯王は、本来の後継者の阿莘王が若かったので代わりを務めたので正式な王ではないとしたのであろうか。また他にも、広開土王碑に「世子儒留王」、さらに七支刀銘文に、「百済王世子奇生聖音」とあるように、半島の王族に使われる用語といえる。書紀に記される日本の天皇の後継者に、このような用語は使われていないのである。世子とされた天皇が存在していたのであろうか。この点についての説明がないまま、興を訓みがコウと共通するところから安康に当てはめるなど、とても学術的な説明とは言えないのである。

 宋書に記された倭の五王は、日本書紀が描いた天皇とは違って、当時実在した倭国王の事績が書かれたものである。これは、後の隋書倭国伝に記された多利思比孤や利歌彌多弗利が、推古や厩戸皇子に比定できないのと同じ事情なのである。よって、倭の五王も、当時は九州に拠点のあった王朝との関係で検討しなければならないのである。

参考文献
河内春人「倭の五王」中公新書2018 宋書と記紀の比較図も同書より
宋書倭国伝の図は、岩波文庫の原文より

武寧王の加唐島での誕生譚は疑問 武寧王と倭の五王⑴


加唐島
図は、YouTube 「Kuwa_Film 絶景とグルメ」様の(佐賀県唐津市の「加唐島」は猫の島)より

 日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐島で生まれたことになっているのだが、どうして肥前国風土記には記さなかったのかという疑問が浮かぶ。書紀には、倭国に渡る前のいきさつなどを詳しく説明するなど、百済王の中でも重要な人物のはずが、何故風土記には記されなかったのか。そもそも武寧王は、肥前国の嶋ではなく他の地域で誕生したのではなかろうか。この点について、唯一の根拠となる日本書紀から考察していきたい。

1.日本書紀の誕生譚

 誕生に至る前段の話はこうである。百済蓋鹵(こうろ・がいろ)王は、弟の昆支を倭の天王に派遣する。その時軍君(コニキシ・昆支)は、蓋鹵王の身重の女性を譲ってもらう。生まれたら帰すようにと言って送り出したが、その女性は途中で出産したという。次に以下のように記されている。
 於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。(雄略紀五年)
 この現代語訳を記すと次のようである。加羅(かから)の島で出産した。そこでこの子を嶋君(せまきし)という。軍君(こにきし)は一つの船に母子をのせて国に送った。これが武寧王である。百済人はこの島を主島(にりむせま)という。秋七月軍君は京にはいった。すでに五人の子があった。(宇治谷孟)
次は武烈紀四年の記事。
 琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。
 昆支は倭に向かった。そのとき筑紫の島について島王を生んだ。島から返し送ったが京に至らないで、島で生まれたのでそのように名づけた。いま各羅の海中に主(にりむ・国王)島がある。王の生まれた島である。だから百済人が名づけて主(にりむ・古代朝鮮語で王の意)島とした。(宇治谷孟)
 ほぼ同じような内容だが、実の兄から女性を譲り受けたが、身重だから生まれたら国に帰せ、というのは奇妙な話である。意図して作られた部分もあるとして、この記事を検討しなければならないだろう。

2.現地調査では、痕跡の確認できなかった加唐島

 赤司善彦氏ら研究者による武寧王伝説の合同調査が現地で行われたことがある。島民への聞き取りなど含め、くまなく調査が行われたようだが、偉い人が生まれた、といった伝承を聞いた人はいるが、武寧王と関連付ける痕跡は見つけられなかったようだ。ただ、壱岐島から糸島半島は視認がしにくく、この加唐島を目安に渡海した可能性はあるようだ。
 そもそも、加唐島と理解されているが、書紀の原文は各羅嶋である。普通ならカクラと訓むが、岩波の補注によれば、国学者西川須賀雄氏の説をひいて、各をカカと訓む事例もあることから、加唐島にあてたのである。ところがその補注には、先に各羅をカワラと訓む事例をあげている。文永一(1264)年または建治一(1275)年に完成した、日本書紀の注釈書(二八巻、卜部懐賢著)である釈日本紀は、「カ禾ラ」と訓みを付けており、明らかにカワラと訓んでいるのであるが、これは採用されなかったのだ。この場合、カワラと呼ばれる地名も検討しなければならないのではないか。
 さらに、地名と関連してまだ気になる所がある。それは、現代語訳にあるように島と解釈されているが、原文は嶋となっているところである。ひょっとすると、カワラ嶋というところがあったのではなかろうか。
 
3.河川付近にある嶋という字地名

 現在確認できる嶋という地名は、4カ所ある。兵庫県西脇市嶋は、加古川のある所であり、鳥取県鳥取市嶋も付近に野坂川がある。静岡県牧之原市嶋は、大きな河は確認できないが、沢水加川があり、付近に倉沢という地名がある。和歌山県紀の川市嶋は紀ノ川の河川敷一体の地になっている。いずれも河川付近に位置し、流水によって運ばれた砂礫の堆積地、砂州といった地形と考えられる。つまり、アイランドの島ではなく、海岸線から離れた場所に嶋があるのである。
 また日本書紀には、嶋の多くは小島を意味するのだが、なかには、「素戔嗚尊曰韓鄕之嶋、是有金銀」とあるように嶋は国を意味する使い方もされているのだ。
 ではその嶋はどこを意味するのであろうか。実は書紀は雄略紀も武烈紀も、筑紫嶋と何度も繰り返しているのである。これは肥前の国の加唐島ではなく、筑紫国の嶋という地域を意味しているのではないか。筑紫には嶋という単独の字名は見当たらないが、福岡県朝倉郡筑前町に四三嶋(しそじま)という地名がある。ここには、オンドル遺構が確認されており、渡来人の居住地があったと考えられている。
 また、「シマ」でいうならば、古代には筑前国嶋郡とあった現在の糸島市志摩に志摩岐志という地名があり、「キシ」は渡来人の称号と言われ、記紀には、和爾吉師や難波吉師などが登場する。このように「シマ」で検討するといくつも候補が浮かぶので、さらに絞り込む必要はある。
 各羅をカワラと読むのであれば、該当しそうな地域がある。高良大社が有名な高良は、今ではコウラであるが、京都の石清水八幡宮の高良社などには、瓦、河原にあてる例があることから、もともとカワラと呼んでいたのであろう。ちょうど久留米の高良大社の北側のふもとを流れる筑後川の対岸にも高良天満神社が所在するところも高良であり、ここも筑後川の砂州の地であった。さらに、福岡県香春町もカワラでありこの地は渡来神伝承の地でもある。

4.嶋王のシマは地名由来

 武寧王は、誕生後に帰国したような記事になっているが、どうであろうか。日本産のコウヤマキで作られた棺に眠っていた武寧王は、副葬品の銅鏡の踏み返し鏡が滋賀県甲山古墳、群馬県綿貫観音山古墳から出土するなど日本との関係が深いのである。さらに、隅田八幡宮人物画像鏡の銘文に記された斯麻が武寧王である可能性も高いと考えられている。ほかにも、日本書紀の継体紀には子の純陀太子崩御記事が記される。その純陀太子の末裔に桓武天皇の母である高野新笠がいる。武寧王は、百済王として即位するまでの40年間は全く不明であり、長く倭国に滞在していたと考えられる。
 その武寧王に名づけられたシマは、嶋や斯麻とされているが、これは具体的な地名を表しているのではなかろうか。だいたい、名前に普通名詞の島を付けるのは妙である。雄略紀には、浦嶋子という伝説の人物もいるが、大方の所は、人の名前や宮名にはその所在場所の固有名詞を付けるのではないか。上述の武烈紀には「今各羅海中有主嶋」とあり、ここを見ると、嶋は海の中の島ととれるが、これは百済人がそのように名づけたとあることから、後から嶋を島のことと解して記述したと考えてよいのではないか。シマ王は、アイランドの島ではなく地域名としての嶋や斯麻と考えられる。その場所が、筑紫の各羅嶋であるとも解釈できよう。
 兄の昆支は、倭国の天王のために渡来したのである。倭国に使えるために配下のものと落ち着いた場所で、嶋王は育ったと考えられる。すると筑紫のカワラ嶋が王宮からは遠くない地域と考えてよいのではないだろうか。それが四三嶋周辺なのか、高良大社近辺か、断定はできないが、当時の倭国の中心地の宮があったところだろう。
 日本書紀欽明紀に磯城嶋金刺宮があるが、『上宮聖徳法王帝説』には志癸嶋、『天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文』では斯歸斯麻宮治天下天皇という記載がある。シキシマという地に宮を設けて統治したということであり、このシマも地域名であろう。
 なお、時代は遡るが、魏志倭人伝には女王国の記事の後に、21国の国名が羅列されており、その最初に「斯馬国」とある。邪馬台国の近隣に「シマ」と名乗る国があったのである。
 武寧王の誕生の地は、様々な可能性が浮かぶが、筑紫の中心地のカワラ嶋と呼ばれた地域も候補の一つと考えられよう。これが佐賀県の加唐島のことではないので、肥前国風土記には記事が見当たらないのではないかと考えられる。筑紫国風土記の方はわずかな逸文以外は残っていないのである。
 ただ加唐島の生誕地を否定しても、渡海の際にはこの島に途中で立ち寄った可能性はあるわけで、そこから、関連する話が生まれた記念の地ではあったかもしれない。日韓の友好に水をさすつもりは決してないのだが、日本書紀を見た限りでは、武寧王の加唐島での誕生の可能性は低いと考えられる。

参考文献
赤司善彦他「加唐島武寧王伝説の調査について」東風西声 : 九州国立博物館紀要 巻号9号 2013年
宇治谷孟「日本書紀 全現代語訳」講談社学術文庫1988

2024.11.12 古代史講演会のご案内 武寧王と天皇

済です。ありがとうございました。
武寧王チラシ
 和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 

 日本の加唐島で生まれたとされる百済の武寧王は、百済王に即位するまでの半生が不明です。どこでどうしていたのでしょうか?ところが、後の桓武天皇の母、高野新笠は、武寧王の子孫だというのです。どうも武寧王は、倭国に長期間滞在していたかのような状況が見えてきます。
 この謎を、倭の五王と合わせて自説を述べさせていただきます。
   お気軽にご参加ください。


頭に蛇を戴く土偶の役割、お産に寄り添う土偶

IMG_0461 (1)蛇土偶正面
      頭部に蛇が描かれている土偶、縄文中期藤内遺跡出土      
        長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古館


 たいていの土偶と同じく、下半身と左手が欠損していたのだが、発見者らが木製の土台に固定させたそうだ。
IMG_0460頭蛇 横から

IMG_0462頭に蛇
 頭に蛇が表現される土偶は大変珍しものだという。

 表記はされていないが、次に紹介する土偶も蛇を頭に表現しているのではないかと考えている。

DSC_0770望月頭蛇
    長野県佐久市立望月歴史民俗資料館 浦谷B遺跡縄文時代後期前半

 顔も欠けてはいるが、目の表現から少し表情が怖い印象をもつ。

DSC_0778望月頭蛇上から
 頭部を見ると、同じような形状で描かれており、蛇と考えてよいのではないか。突き抜けてはいないが、先の藤内の土偶と同様の小孔がある。
 
1.蛇をあやつるシャーマンの土偶なのか?

 民俗学の谷川健一氏は、この土偶を沖縄・奄美の事象と比較して「縄文中期において、巫女は自分の侍女の頭にマムシをまきつけて、それが噛まないことを衆人にみせ、自分の威力を誇示したのであったろう」とされている。はたして縄文時代にこのような呪術を行う巫女・シャーマンがいたのであろうか。いたとしたら、では、何のために蛇を使う巫女を表現する土偶をつくったのであろうか。  
 この左手と下半身が欠けているので全体像はわからないのだが、蛇以外の特徴としては、左目の下に入れ墨、もしくはペイントで2本線が描かれているぐらいだ。この土偶がシャーマンなら、もう少し玉飾りとかの装飾表現があっても良いのではないかと思える。頭には小孔があってそこに鳥の羽を刺していたという表現は考えられているが。どうも私にはシャーマンの姿を造形したようには思えないのだが。縄文の人たちが、なにか具体的な目的を持たせたものではなかろうか。

2.出産に立ち会ってもらう守り神

 土偶の用途については、様々な説が出されているが、決定的なものはない。『土偶を読むを読む』(こちら)にはその全容が時系列にわかりやすく説明されている。そこにも記されているが、土偶にも時代や地域によって共通する要素をもちながらも異なる目的で作られていると考えるしかなく、縄文人の切実な願い、宗教観による呪術的な祭具であったのではなかろうか。とりわけ、この頭に蛇を戴く土偶は、かなり特別なものであったと考えられる。
 そこから、私の単なる思い付きだが、当時の出産の際に助けてもらえる存在としての土偶であったのではと考える。戦前の日本にあった、地域の女性が妊婦といっしょになって、いきんでみせるという習俗のようなものが、縄文の女性たちにもあったのではなかろうか。当時は出産時に母子ともに死亡するような事故も少なくなかったであろう。本人だけでなく、周りの女性たちもいっしょになって安産を祈ったはずである。
 蛇は、古代より出産と密接な関係があることを既に説明している(こちら)。前回紹介した『日本産育習俗資料集成』の分娩の項には、産婦に子安貝、またはたつの落とし子をにぎらせる(和歌山県)、といった安産の為の事例が紹介されているが、なかには、まむしの頭を頭髪にはさんでいるとめまいをしない(福井県)、出産時に蛇の抜け殻を腰につけるとよい(群馬県)といった、蛇を産婦の守護的な存在に見立てている事例がある。
 土偶の目的・用途の説の中には、早くから安産のお守り説があったが、あまり肯定的な評価はない。私見では、単なるお守りではなく、蛇が描かれた土偶も、妊婦を守り、安産で生まれるためのものであり、なかには、妊婦がこのような土偶を握っていきむようなこともあったのではないかと考える。出産の際に一緒に立ち会ってくれるお守り、そばに置かれて、苦痛を分かち合ってくれる存在としたい。
 よって、蛇を頭に戴いた土偶に限っては、出産立ち合い土偶、お産に寄り添う守り神、となるであろうか。ひょっとすると、蛇の表現のない他の土偶にも、同じような使われ方があったかもしれない。あくまで妄想ではあるが。なお実見はしていないが、蛇だけでなく、猪や蛙を頭に載せた土偶もあるという。猪も多産であることが関係するかもしれない。

参考文献
谷川健一「蛇 不死と再生の民俗」冨山房インターナショナル, 2012
望月昭英編「土偶を読むを読む」文学通信2023
写真は、井戸尻考古館と望月歴史民俗資料館にて

臼を担ぐ景行天皇と安産を願って一緒に踏ん張る習俗

産屋
写真は京都府福知山市三和町大原地区、国道173号線沿いの大原神社に隣接の産屋
大原産屋パネル

1、日本書紀にみえる臼を背負う天皇の意味

 日本書紀には、景行天皇の二年に皇后が双子を生む記事がある。大碓(おほうす)皇子と小碓(をうす)
の兄弟の誕生の逸話だが、小碓が後のヤマトタケルである。そこに、次のような一節がある。
 一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓 (双子が生まれ、天皇はあやしびたたまひて、すなわち碓にたけびたまいき)
 現代語訳では、「一日に同じ胞(えな)に双生児として生まれられた。天皇はこれをいぶかって、臼に向かって叫び声をあげられた」(宇治谷孟)
 生まれた双子の命名譚であるが、天皇の臼がどう関係するのか説明不足の記事である。これについては、いくつかの解釈があるが、民俗学の中山太郎氏の栃木県における妊婦の夫が臼を背負って家の周りを回る習俗など、出産と臼に関連があると論じ、これを受けて人類学者の金関丈夫氏は、天皇が二人が生まれるまで重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇が思わずコン畜生と叫んだと解釈されている。
 そう遠くない時代にも残っていた風習が、日本書紀にも記されているというのが興味深い。これは、妊婦の出産時の苦しみを少しでも緩和させようと、出産に立ち会う人が疑似体験をすることだったのであろう。それは、特に古代では切実な安産への願いからくるものであったのだ。

2.みんなで踏ん張れば安産になるという習俗

 妊娠から出産、育児にわたって人々が行ってきた風習などを集めたものに「日本産育習俗資料集成」というものがある。民俗研究者等による全国調査を昭和10年にまとめたものだという。そこに、臼を担ぐ話は見当たらないが、興味深い事例があるので紹介する。
 「分娩」の項に島根県安来市の山間部にある赤屋村のソウヘバリという習慣。ソウは総、ヘバリは力(リキ)む、とかいきむこと。この地方の方言であろうか。戸数12戸の小部落であるが、妊婦が産気づくと直ちに隣家に知らせ、そこから全戸に知らせると、主婦は残らず駆け集まり、産室の隣家で産婦の陣痛が起こるごとに、全員が、うんうん声をそろえ、産婦の呼吸に合せてヘバルのである。すると必ず安産するという。今日多少衰えたがなお行われているとのこと。ただ、「今日」とは調査時の戦前のことであり、現在は行われてはいないだろう。
 それにしても、主婦が総出で妊婦と同じ苦しみを、いきむという行為の疑似行為で共有するというのは、女性たちが同じ苦しみを知っているからこそであろう。このように、臼を背負って踏ん張ることと似たような安産の為の習俗が行われていたのである。同じような行動ではなくても、このような地域の絆、共助の精神が広く全国にあったのではなかろうか。
 
 上記の資料には、産室に力綱という縄を吊るしてあったり、刃物が置かれたり、しめ縄張ったりする事例もあるが、写真の産小屋にも、入り口に鎌が、室内には力綱が吊るされている。
産屋中

 安産の願いに関しては、底なしひしゃくが各地にあったというが、これは現在にも多くの神社で見かけるもので、今も途絶えずに継承されているということだろう。
 他にも、妊娠から子育てまでの様々な習慣、神仏祈願の民俗などが豊富に語られ、なかには堕胎や間引きといったおぞましい内容もあるが、昔の人々の苦労、願いを知る貴重な資料である。
 この『産育習俗資料集成』は国会図書館HPで閲覧できるので、ご興味のある方は是非ご覧ください。

参考文献
恩賜財団母子愛育会編「日本産育習俗資料集成」 第一法規出版株式会社発行 日本図書センター 

縄文の蛇行石剣と古墳時代の蛇行剣

蛇行石剣パネル付き
蛇行石剣
  写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館
  ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。

 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。
  全長30センチメートル、柄部長12センチメートル、柄部幅1.5センチメートル、刀身の厚さは0.8センチメートルを測ります。蛇のようにくねり、丁寧に磨かれています。黒光りして、黄色や緑色の模様のある蛇紋岩でつくられている。
 縄文人はこの石剣を作った目的はなんだったのであろうか。蛇行石剣ではないが、蛇形の杖を使って呪術を行っていたという民俗事例を紹介する。 

「蛇形の杖を以て寝室を打つ」   
 難産の場合に道士をよんで祈祷を頼むと、多数の道士が来て、三室に神を祀り、その中の一人は、蛇形に彫刻した長さ一尺ばかりの木の棒を持ち、呪文を高らかに唱えつつ、産婦の寝室の周囲を打ちつつ幾回となく歩き廻り、他の道士はその打つ調子に合わせて読経し、笛・太鼓・銅羅などではやし立て、出産を見るまでは幾何の時間を要しようとも、耳を聾せんばかりの音をつづけるのである。これは蛇が、その穴に出入りするのが非常になめらかで且つ自由自在になるにあやかって、胎児もそのように安楽に出産させようとするのである。(永尾1937)

 蛇が穴にスムーズに出入りすることにあやかってというのは、後付けの説明のように思えなくもないが、蛇が安産に関わるという点はあり得ることかもしれない。前に、蛇が神となった理由(こちら)に、へその緒が蛇に見立てられたと説明させていただいたが、この蛇形の杖が、無事に新たな生命が生まれるための祭器となるのであろうか。

蛇行剣(全州博物館・金城里古墳) (1)
  写真は全州市の国立博物館の副葬品 中央が蛇行剣
 
 時代は変わるが、古墳時代には、副葬品として鉄製の蛇行剣が見つかっている。話題になった奈良県の富雄丸山古墳からは、長さ2.3mのものが出土したが、他に70余りの古墳から出土している。実は韓半島にも4カ所の倭系古墳から出土しているという。
 では、蛇行剣が古墳に埋葬されたのはどういう意図によるものか。蛇形の杖は、安産を願うものであったが、それが古墳への副葬の場合は、再生を願うシンボルだったのではないか。人々は亡き人の生まれ変わり、再生を願って、この蛇行剣に託したと考えられないであろうか。

 日本書紀の仁徳即位前期には、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が自殺をすると、仁徳となる大鷦鷯(おほさざき)が、胸を打ち泣き叫んで、髪を解き屍体にまたがって、「弟の皇子よ」と三度よばれた、するとにわかに生き返られた、という説話がある。もちろん史実ではないだろうが、死者に対して生き返りを願う行為が行われていたのだろう。そのための信仰の祭器として、生命の象徴のような蛇に見立てた剣が作られたのかもしれない。

遼東蛇行剣
 上図のような蛇に似せた剣は、大陸でも紀元前10世紀以上も前から作られていた。遼東に出現する遼寧式銅剣は、刃の形状だけでなく、柄の部分に蛇のペニスを表現するなど、様々な蛇剣が作られている。刃が蛇行する形のものもある。こういったものが、列島に継承されていったのだろう。

参考文献
永尾龍造「支那民俗誌第6巻」アジア学叢書大空社 1937
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017   
韓国の蛇行剣の写真は、松尾匡氏の撮影によるもの
遼寧式銅剣の図は「倭人の祭祀考古学」より

雄略紀の日本府も任那王が管轄する組織だった

kaya 環頭太刀
            龍鳳文環頭太刀(環頭部)6世紀前半 
            山清生草M13号墳 国立晋州博物館

 任那日本府は、日本書紀の欽明紀のわずか10年ほどの期間に登場する、韓半島における加耶の組織であった。
 だが、任那、とはされていないが、雄略紀八年に「日本府行軍元帥」(やまとのみこともちのいくさのきみたち←音読みで良いと思うが)という記述がある。これは、任那日本府とは異なるものであるが、あながち無関係とは言えない。この点について、同じ古代史の会の方から受けた御指摘への回答も含め説明したい。
 
1. 日本府行軍元帥のなかで指示を出す任那王

 「伏請救於日本府行軍元帥等。由是、任那王、勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅」(日本書紀雄略紀八年)
 この記述を、任那王が膳臣斑鳩らに出動を指示する形になっており、そこに倭国の介在はないので、この日本府の責任者は任那、すなわち加耶の王と考えられる」と記しましたが、
 この点につきまして、以下のような指摘をいただきました。
【「勧」は指示ではないと思いますが日本書紀の粉飾と見るのですか?膳臣(かしわでのおみ)らが新羅に対して、みずからを官軍と言い、天朝に背くなと言っています。これを任那軍・任那王とするのですか?】
 任那王が「指示した」という私の説明に対して、原文の「勧」は、勧告といった使い方で、命令ではないのではとのご指摘です。この点について以下のように考えます。

 この一節では、高句麗に攻められて新羅は救援を求めますが、次のようにあります。
乃使人於任那王曰「高麗王征伐我國、當此之時、(省略) 伏請救於日本府行軍元帥等。」
 ここでは「乃使人於任那王曰」(人を任那の王のもとに使(や)りていわく)、となっています。つまり新羅は、倭国ではなく任那王に救援要請しています。これを請けて任那王が、新羅の為に行動に出ます。
 「勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅」
彼らを救援に行かせますので、「勸」の文字はありますが、本来は指示であったと考えられます。
 ここで、日本書紀の「勸」の使用例をみると、雄略紀即位前期に、
「乃使人於市邊押磐皇子、陽期狡獵、勸遊郊野曰」
 いちのべのおしはの皇子に、使いをやって、いつわりの狩りの約束をして、野遊びをすすめられた、とある。この場合は、やはり、人に〇〇をすすめる、であって命令とはちがう。しかし、強制的な命令と取れる事例もある。
 崇峻紀「蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。」
 馬子が「勧めて」、武田皇子や厩戸皇子ら多数を引き連れて、物部守屋大連を討っているのである。この場合は、とても任意の呼びかけではなく、実質は強制であろう。このような勸の使用事例があるので、任那王が勧めたのも、いわば出動命令となると考えられる。

2.日本の名前のような加耶の同族集団

 任那王から出動要請された人たちは、斑鳩、吉備、難波、というように日本になじみの名前を持っている。
彼らは在韓の倭国人なのであろうか。実はそうではないことを次に説明する。
 彼らが出動し、高麗に勝利してから膳臣が新羅に対し、官軍が救わなかったら助からなかった、今後天朝にそむくな、と新羅に説教をする以下のようなセリフがあり、これを見ると倭国の救援のようにとれる。
 「膳臣等謂新羅曰汝、以至弱當至强、官軍不救必爲所乘、將成人地殆於此役。自今以後、豈背天朝也。」
 ところが、その直前の一節は不可解である。
「乃縱奇兵、步騎夾攻、大破之。二國之怨、自此而生。言二國者、高麗新羅也。」
 膳臣は奇策を練り、挟み撃ちで高句麗軍を大破させます。その結果、高麗と新羅の怨みはここから始まった、記しています。これは奇妙ではないでしょうか。奇策を謀ったのは膳臣のはずですが、それならばなぜ倭国を恨まないのでしょうか。すると膳臣は倭国の兵ではないと言えます。膳臣は加耶・新羅系の人物だったということになるかもしれない。新羅が救援要請した「日本府行軍元帥」は、在韓の倭国駐留軍といったものではなく、任那こと加耶の組織であったのであり、だから任那王が出動の指示をしたのである。
 そして、この争いを機に高麗と新羅の間の怨恨が始まったことからも、倭国が介在はしていないのである、と考えられる。このように、欽明紀の任那日本府のみならず、雄略紀の日本府も倭国の組織ではないといえる。

 人物名に斑鳩や吉備、難波と表記されていると、日本の地名が真っ先に思い浮かんだりするが、これらの名詞は、加耶にも関係するものと考えている。顕宗紀には紀生磐(きのおいわ)宿禰が登場し、これも任那と関係する人物であろう。吉備国、紀国には、加耶の馬具、装飾品といったものが出土している。さらに、斑鳩は、奈良県の場合、藤ノ木古墳が所在し、豊富な副葬品には、新羅・加耶系のものが見られる。また、難波は大阪の場合とすると、難波宮北部地域には加耶の陶質土器が見られる遺跡が多数みられる。つまり、日本にゆかりの名が付された人物であっても、加耶と関係するのである。
 さらに、先ほどの崇峻紀の大連討伐に馬子が引き連れた集団には、難波皇子、紀男麻呂宿禰、膳臣賀拕夫の名があり、厩戸皇子も斑鳩と縁のある人物なのである。加耶の末裔がからむ紛争であったのかもしれない。
 
図は国立歴史民俗博物館2022展示図録「加耶」より

大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑶

ネズミ捕り
5.神武紀に描かれた猟の民俗―宇陀の血原の意味

 神武東征の一場面に、菟田(宇陀)の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を天皇は呼ばれたが、弟だけがやってきて、兄は歓待のふりをして襲撃の準備をしていると報告する。そこで道臣命を遣わして、兄猾を責め立てた。追い詰められた兄猾は、前もって用意していた罠にみずからはまって圧死する。土砂か岩石が落ちるようになっていたのであろうか。原文には「自蹈機而壓死」とある。ここに「蹈(踏む)」とあるのは、古事記の大国主が火攻めから逃れて穴に落ちる場面と同じだが、この場合は、踏むことで仕掛けが動作したのであろうか。
 さらに、次に「時陳其屍而斬之」『其の屍を陳(ひきいだ)して斬る』とある。はさまれた死体を、引き上げて、念のためなのか斬っているのである。すると、血が流れだして、くるぶし(踝)が埋まるほどに血があふれたという。そこで宇陀の血原という地名譚になったのであるが、これは誇張されてつくられた話であろうが、何かの元の話があったのではと考えられる。
 古事記では、「作殿其內張押機」(殿〈との〉を作りその内に押機〈おし〉を張りて)とある。この押機が、具体的にどのようなものなのかは定かではないが、つっかえ棒が外れたら大きな壁のようなものが倒れて、人を圧死させるものであろうか。しかし、自分で罠にかかって死んでしまった後には、「爾卽控出斬散」(ここに即ちひきだして斬り散〈はふ〉りき)とあるところは、書紀と同じで死体を斬っているのである。
 この後に、弟猾は、天皇と兵士のために牛肉と酒の用意をしている。その宴席で天皇は歌を詠む。鴨(しぎ)をとる罠を張ったら區旎羅(くぢら)が掛かったという。注1これらはみな猟に関係する話になろう。牛肉を得るためには、まず屠殺するわけだが、次にこれが重要なのだが、おいしく肉をいただくためには血抜きをしなければならない。牛一頭でもかなりの血が流れ出す。兄猾の死体を引き上げて、わざわざ斬りつけたのは、血抜きをすることを意味しているのではなかろうか。その血が足下にあふれんばかりに流れ出したのであろう。
 このように、落し穴にはまり込んだ獲物は、あばれて危険なので穴の中にいる状態でまず絶命させる。その後、引き上げて、風味が落ちないように血抜きを行い、その場で解体して持ち帰るのだ。
 なお、神武の来目歌には、次のような歌がある。
「来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう」というのがある。だがどうして山椒がこの戦いの歌に出てくるのか。この山椒は、毒流しといった漁法と関係しているのではないかという指摘もある。秋田県ではナメ流しとかナメ打ちと言われ、山椒の木の皮、葉の茎を数日乾燥させて粉にして灰と混ぜる。これをナメといい、それをカマス(俵)に入れ上流で踏むという。魚を麻痺させるためだが、地方によって製法などは違っているようだが、もちろん現在は水産資源保護法で禁止となっているそうだ。(菊池2016)この来目歌も、毒流しという漁法と関係する歌であったと考えられる。注2

 以上のように、記紀の説話には、落し穴猟や獲物の解体といった古代の民俗を参考にしたものが取り込まれていると思われるものが見受けられるのである。縄文時代に活発に行われていた落し穴猟がはたして7世紀まで続いていたのかは、現状では確認しにくい状況であるが、害獣から居住地や畑を守るための周囲に設置する捕獲用の落し穴があった可能性は考えられているようだ。今後の調査で、見直しが進められることを期待したい。(了)

注1.岩波書店の『日本書紀』などこの區旎羅を、鷹等の字をあてて、訓みはくじらとしているが、鷹のことではない。古田武彦氏は、このくじらは鯨のことであって、この天皇の歌の久米歌そのものが、奈良の宇陀のことではないと喝破されている。
注2.宇陀の血原については、この地に水銀鉱床があって地面が赤く見えたからというのがほぼ定説のようである。血抜きの話は先にあった血原という地名からの付会の話とも考えられるので、必ずしも血抜きをしたところを血原となづけたかどうかはわからない。

参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
大泰司統「北日本の陥し穴猟」縄文時代の考古学5 なりわい・食料生産の技術 同成社2007
ジェームズ・C・スコット 「反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー」立木勝 (翻訳)みすず書房2019
菊池照夫「古代王権の宗教的世界観と出雲」古代選書21同成社2016
市毛勲「朱の考古学 考古学選書12」雄山閣1975
山田 晃弘「黒ボク土層・草原的植生・陥し穴猟」近江貝塚研2024.8月例会発表用資料
 ネズミ捕りの図は、「イラストAC」より

大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑵

3.火に囲まれた大国主が落ちて助かった穴の謎
 
 古事記には、スサノオによる大国主への試練の一節に野原で火に囲まれてしまう場面がある。
 鼠來云「內者富良富良、外者須夫須夫」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。
 鼠来て曰く、「内はほらほら、外はすぶすぶ」といひき。かく言う故にそこを蹈みしかば、落ち隠り入りまし間に、火は焼けすぎぬ。(「古事記」次田真幸読み下し)
 鼠が現れて、「内はうつろで広い、外はすぼまっている」と教えた。そう鼠がいうのでそこを踏んだところ、下に落ち込んで、穴に隠れひそんでおられた間に、火は上を焼けて過ぎた。(同現代語訳)
 大国主はその地面を踏んだことで穴に落ちている。なぜ、都合よく野原に人が隠れられるほどの穴があったのだろう。これは、猟の仕掛けとしての落し穴ではないだろうか。火を放たれたのも、古代に火で獣を追い立てる、火入れで植生を変化させて動物が集まりやすくなる環境を作り、そこに柵をめぐらして誘導しやすくする、といった火も使った古代の追い込み猟が説話に取り入れられたのではないか。
 ただ、縄文時代に数万と検出される落し穴は、弥生時代には見当たらなくなる、といわれている。それだと、古事記の落し穴を使った説話は、はるか縄文時代の伝承を参考にしたのかと疑問が起こる。しかし、7世紀にも落し穴猟があったと考えられる記事が日本書紀にある。
 天武4年4月 自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類
「諸の漁猟者をいさめて、檻穽(をりししあな)を造り、機槍の等(ごと)き類をおくことまな」
「漁業や狩猟に従事する者は、檻や落し穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。」(宇治谷孟)
 天武4年とは675年となるが、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食してはならないという期間限定の勅命が下されたのである。ということは、7世紀末後半まで、実際には落し穴猟があったということになるのではないか。注1)そうであるならば、古事記の大国主が落ちた穴も同時代にあった罠猟のものと考えられ、縄文時代の民俗例が千年も後まで語り継がれたと考えなくてもよいのである。
 なお、落し穴の形状には、フラスコ型と言われる上部がせばまったものも見受けられるので、この場合は「内は広く、外はせまい」という鼠の言葉に整合するのであるが、他の解釈は考えられないであろうか。スポンジは、ギリシャ語のスポンゴスに由来しているそうだが、鼠の発した「すぶ」は穴を覆う蓋が海綿のような、スカスカの状態を意味する可能性がないかは検討していきたい。

注1. 天武四年の「殺生・肉食禁断令」は、実は34年動かされた命長2年(641)の利歌彌多弗利による放生会の事績の記事を大和朝廷が消して天武期に移動させたものである。正木裕氏「古田史学会報171号」『「壹」から始める古田史学(三十七)「利歌彌多弗利」の事績』参照 (こちら

4.野原に火を放たれたヤマトタケル

 ヤマトタケルの場合は、大国主とは違って試練といったものではなく、まつろわぬ敵との戦いの中で火に囲まれてしまう。そこで、向火を起こして難を逃れるのだが、ここには落し穴はないが、野原への放火で相手を追い込むのは共通している。この野火によって、植生が変化し、動物が好むような景観がつくられる。ここに意図して罠を仕掛けるのである。火は、植生を変えるためだけではなく、獲物を追い詰めるためにも使われたという。
 初期の人類は、「弓と矢が登場するずっと前(およそ2万年前)に、火を使って動物の群れを崖から追い落としたり、象を穴へ突き落したりしていたことが示唆されている」(スコット2020)そうだ。その後も、火や誘導柵も使って落とし穴に追い込むこともあったのであろう。
 こういった事例から、相手を火で追い込むという話が作られたのではなかろうか。古事記では、沼に凶暴な神がいるからと誘い出された野原で火攻めに遭うのだが、日本書紀では、ヤマトタケルは賊から大鹿がいるからと狩りをすることをすすめられて、野に入ったところで火を放たれてしまう。つまり、火攻めの説話に猟が関係しているのである。(続)

参考文献
ジェームズ・C・スコット 「反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー」立木勝 (翻訳)みすず書房2011