⑴ 白鳳とは九州年号
日本には517年より、九州王朝による年号が制定されていました。(こちら)九州王朝にかわって実権を握った大和王権は日本書紀においてこの九州年号をほとんど消してしまい、「大化」「白雉」「朱鳥」だけ部分的に記載されているのですが、これらはいずれも本来九州年号であって、ヤマト王権による元号制定は九州王朝からの王朝交代後の701年の大宝年号からはじまるのです。
この年号については現在の研究者は、これを私年号などとして、ヤマト王権の前の王朝の年号とは認めようとはしていません。しかし、否定的な研究者たちも、反論できない問題があります。それは日本書紀には記されていない、白鳳、さらに朱雀について、後の聖武天皇の神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、 「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」(続日本紀) と記されており、紛れもなく九州年号にふれた記事が存在しているのです。つまり、7世紀の後半に白鳳、及び朱雀という年号もあったのです。一般的には否定されているのに、その一方で、教科書や博物館では、白鳳文化、白鳳時代と言った表現が当然のように使われているのも、実に奇妙な話です。さらには、當麻寺のように、寺社関係の資料には、この九州年号が関係する数多くの記載が存在しているのです。
⑵ 當麻寺の創建年代は? 下図の年表をご覧ください。
『建久御巡礼記』の記載より、「白鳳九辛巳年」とある。後に天武天皇即位10年(681)としたのは、『扶桑略記』に天武天皇2年=白鳳元年と説明されていることによります。ただし、白鳳10年を681年とする諸書などもあるので、掲示にあるような異なる表記が生まれる要因になったのかもしれません。しかし実際の九州年号では白鳳九年は669年己巳となる。そうすると11年もの誤差が生じる。これについては以下のように考えます。
『建久御巡礼記』の筆者、もしくは後の書写作成者は、白鳳元年を天武2年とする『扶桑略記』にならって、白鳳9年は天武10年と判断したのであろう。この天武10年である681年の干支は辛巳(シンシ)になります。本来の白鳳9年(669)は己巳(キシ)なので、己を辛の間違いと考えて、天武10年で良しと判断した可能性もあります。
また『日本帝皇年代記』には、 庚午白鳳十(年)「鎮西建立観音寺、建立禅林寺、俗曰當麻寺」とあり、庚午は翌年の670年ですが、この1年のずれは工事開始の年か完成年かの誤差とも考えられます。
さらに『上宮太子拾遺記』に当麻寺縁起が引用されています。「推古天皇御宇定光二年麻呂子親王、被聖徳太子之教訓」 定光は定居(ジョウゴ)で612年。つまり、当麻寺の前身はこの頃に始まったことになります。こちらも九州年号で理解できるのです。
以上のように、九州年号を史学研究者の消極的な認識により、実際に存在する九州年号の記された資料の解釈に錯誤、混乱が生じてしまっており、当麻寺の創建年も、異なる解釈がされてしまっていると考えます。
実際の創建年(資料上の)は、本当の九州年号である白鳳九年己巳の669年であり、九州の観音寺と同じ時期に始まったと言えるのです。ぜひ、この年代につきましての再検討、見直し、もしくは、異説としての付記をご考慮いただくことを、當麻寺の関係者の方々にお願いしたいと思います。