流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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           (写真は、新潟県長者ヶ原考古館の説明パネル)
 弥生時代のみならず、1万年あまりの縄文時代も移住者が自分たちのエリアを開拓しては、既存の集団と交流をし、文化を発展させていった。こういったことは当たり前のようであるが、研究者の多くには不思議と考慮がされていない。この理解が弱いために、縄文時代の独特の文様の土器などを理解の超える4次元の文化などと称することになり、あげくに、よほど自信がないからか岡本太郎を何度も引き合いに出して説明するという愚を続けておられる。
 ヒスイに関する説明もその典型だ。加工の容易でないヒスイ製品がなぜ作られ全国に広まったのか。これについて小林達雄氏は、「どれほど感性に訴えたとしても物理的に不利な条件(ヒスイの加工の困難さ)を簡単に払しょくすることは…できない。それをこえさせたものとは一体なんであろうか。具体的な理由をはっきり知ることはできないけれど、縄文人が辿ってきた長い歴史、経験の蓄積から醸成された総合力の意外な表れとしか言いようがない」と述べられるのだが。
 マラソンレースの例えにあるように、あくまで列島内での自生による文化の発現とされるのだ。氏は中国大陸の良渚文化の見事な玉製品を全く理解しておられない。日本でヒスイ製品が登場する縄文中期に大陸では玉文化は花盛りだったのだ。その技術をもった集団が北陸に移住し、糸魚川市姫川の海岸もしくは川沿いで理想的な透き通るような石を発見し、ヒスイ製品を大量に製造し交易をしたのだ。あわせてヒスイ以外の高度な文化をも広げていった。そのように考えた方が現実的であり、雲をつかむような「縄文人の総合力」とするのでは説明にならない。
 また最古期の縄文土器については青森県の大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡の16000年前のものとされているが、工藤雄一郎氏は、長崎県佐世保市福井洞窟の土器も同じ時期と指摘し、しかも細石刃石器群との伴出で、東日本とは異なる文化的背景の中で土器の使用がされたと指摘。これによって土器は日本列島で多元的に出現したのか、と自問される。縄文時代も多元的に考えなければならないと指摘されだしているのだ。マラソンコースは単純な1本ではなく、何本ものコースがあったといえる。
 小林達雄氏の論調は、縄文一元論と言えるのではないか? 現実を直視せずに、既定の考えにはめ込んで説明する点において、それは、珍しい遺物が出れば何でもヤマトと結び付けて説明しようとする、かたくなな近畿一元論とも共通するように思える。

参考文献
浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002
小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010
高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010
工藤雄一郎「後期旧石器時代から縄文時代への移行期の再検討」(再考!縄文と弥生)吉川弘文館2019

中国ポロ
 天理参考館の中国唐の時代、乗馬ポロを楽しむ女性を描いたもの。おそらく、彼女の右手にマレットが握られていた。このポロが高松塚古墳絵画にも関係している。
高松塚絵画
 同じ古代史の会で奈良新聞の方から、うれしい知らせが届いたので、転載させていただきます。 向かって右側の男性が持つものがポロのマレットだという見解を論証されている。注目は、このポロが、唐にはソグド人が伝えたこと、さらに「大陸に目を向けることで新たな境地が開けるのでは」というところであり、おっしゃる通りである。私も以前に、こちらで少しふれていますので、ご覧ください。
 実は壁画の向かって左側の男性が手にしているのは、折りたたみ椅子の床几である。当時は、誰もが持っていたものではない。これも騎馬遊牧民に関係するもので、これについては、改めてふれていきたい。
 この壁画の問題に限らず、古代の様々な事物も、ユーラシアを視野に入れた検討が必要と思われる。

2024.05.08 奈良新聞
奈良県明日香村、高松塚古墳壁画・西壁男子群像の“杖”「ポロ」のマレット~ 橿考研の中村氏「唐の壁画と共通点」史資料検討し独自見解
 奈良県明日香村の国宝・高松塚古墳壁画(7世紀末~8世紀初め)の西壁男子群像が手にする杖状の持ち物は、ポロのマレット(スティック)ではないか―。中国・唐や中央アジアの壁画と史資料を検討し、そんな説を県立橿原考古学研究所(橿考研)の中村健太郎主任企画員(中央ユーラシア史)が発表した。これまでマレットとみる見解もあったが、証拠を示して論じたのは初めて。
 高松塚古墳壁画の西壁男子群像のうち右端の人物は、先端がL字型をした杖状の持ち物を手にする。従来は権力を象徴する威儀具とみるのが通説となっていた。
 中村さんは近年発掘調査が進む唐の壁画に描かれた、男女の従者の棒状持ち物を調査。男子はポロの毬杖(きゅうじょう=マレット)、女性はT字型やU字型の杖と描き分けていることが分かった。唐時代の出土遺物も調べた結果、毬杖はL字型で高松塚壁画と共通し、中村さんは「高松塚壁画の持ち物もマレットと判断できる」と話す。
 ポロは馬に乗って行う団体球技。ペルシャ発祥で中央アジアを経て唐や日本へ伝わったとされる。
 中村さんは中央アジアの壁画や中国の史料から、唐には7世紀後半以降、当時商人として活躍したペルシャ系のソグド人らによって伝えたられたと指摘する。
 日本では平安時代初期(9世紀前半)にポロが行われた記録があり、5月の端午の節句に行う宮中の年中行事や、外交儀礼で天皇らが権勢や栄華を誇り実施した。
 それ以前の飛鳥―奈良時代には、万葉集に「打毬之楽」の表現があり、平城宮跡(奈良市)ではポロに用いたと考えられる「木球」も出土。ただ日本書紀や続日本紀などの正史には記録がなく、中村さんは「当時は唐から伝わった最先端の娯楽として皇族・貴族が私的に興じたのではないか」とみる。
 さらに高松塚壁画のマレットはやや短く、馬も描かれていないため、「騎馬ではなく徒歩で競技するポロを表現した可能性がある」と語る。唐では徒歩で競技する場合もあったという。
 中村さんは3月20日、橿考研で開かれた講演会「高松塚古墳壁画の系譜―東西交流の視点から―」で説を発表した。「高松塚壁画の研究は国内にとどめず大陸に目を向けることで新たな境地が開けるのではないか。今回の研究はその問題提起になれば」と期待する。  以上

DSC_0228欠状耳飾り
写真は、富山県南砺市埋蔵文化財センターの玦(けつ)状耳飾り 大陸始原の遺物と考えられる。

1.縄文時代が1万年続いたという誤解
 よく縄文時代は1万年以上の長い期間続いたという、世界に類を見ないことだといった表現を目にすることがある。しかしこれは、ちょっと奇妙ではないか。たとえば、江戸時代が260年あまり続いたというのは、徳川幕府の体制が継続していたので問題はないが、縄文時代の場合は、列島全体に一つのまとまった社会的な状態が変わらずに続いていた、などとは考えられないのではないか。単に時代区分として縄文時代と設定したのがおよそ1万年あまりであったと言うだけのことである。同じようなタイプの縄文人が、一つの社会、文化を一律に継続して営んでいたものではないだろう。
 さて、この縄文時代の社会についての認識が変わりつつある。
 古代人のゲノム解析が進む中、「二重構造モデルが基盤とする『全国的に均一な縄文人』という概念は、ゲノムを読むことでより細かい分析が可能になった現在では、棄却すべき前提となりつつある」(篠田2024)という。
 列島の縄文人は、孤立化された空間で独自の発達をとげたということはなく、大陸からの移住民が、新しい文化をもって列島に繰り返し渡って来たと考えられる。しかし、縄文時代の渡来についてはなかなか認めようとされない状況がある。

2. 「大陸との交流」
 三内丸山遺跡の調査に携わった岡田康博氏は異質の文化の登場に次のように解説される。縄文文化は四方を海で囲まれた日本列島の地理的条件や採集狩猟文化として高度に発達した点などから、孤立的に独自の発展を遂げたと考えられていたが、日本、中国、韓国、沿海州など各地の考古学的な情報が増えるにつれ、相互に無縁とは考えられず、環日本海あるいは東アジアの視点で見直す必要に迫られてきた、というのが現状だろうと述べられている。ただ氏の場合、それは「大陸との交流」という表現になる。これについては異論が出ている。
 高山純氏は「日本の考古学者が『交流』という言葉をしばしば使用することに私は多少の違和感を抱いているとし、伝播と違って交流となると思想や文化などの一部にしろ、全部にしろ、それが相互に往来したことを意味する。縄文時代早期の日本からいったいなにが相手の中国に流れたのか、具体的事例が浮かばない」との指摘は的を得ている。では高山氏は渡来を肯定しておられるのかというとそうではなく、縄文人の独自考案、偶然の一致とされる。すべてを偶然で片付けるというのは、いかがなものであろうか。しかしこれは彼だけでないのだ。
 宮本一夫氏は『縄文文化と東アジア』のなかで玦状耳飾りなどの桑野遺跡の例などから「この縄文早期末~前期初頭という時期は、いわゆる縄文海進期の最大高海面期にあたり、地形的には海によって最も大陸との連鎖を閉ざされた時期といえよう。この時期のこうした文化接触によって情報が伝播して制作されていったものと考えるべきであろう。決して日本海を直接人が横断したということは考えられない」と。これが多くの研究者のお考えなのだろうか。
 日本人の祖先はみな海を渡って移住したことや、縄文海進によって大陸の沿岸域の住民は高潮や洪水に悩まされ、日本や東南アジアに命がけで移動したなどという考えには及ばないのであろう。情報だけがどう伝わったというのか。
 他にも、マラソンレースに例えて、列島の中だけで独自の発展をしたと説明される方がいる。

3. 縄文時代をマラソンレースに例えるのならば。
 縄文研究の小林達雄氏は一貫して縄文文化の劇的な変化を、自国の内在的な力で主体的に受容し発展させたと解釈する。 これを氏は、マラソンレースに例えている。そこを小杉康氏の解説で引用する。「1990年代に明らかになってきた南九州の縄文草創期から早期にかけての様相、すなわち貝殻文系の円筒形土器をはじめとして壺形土器や滑車型土製耳飾などの存在は、土器問題にとどまらず、従来の縄文文化観そのものに大きな揺さぶりをかけるものであった。その様相に対して、縄文文化の一体制を強く主張してきた小林は、見解を修正せずさらに強化する。『縄文1万年のマラソンレース』における抜きつ抜かれつの先頭、後続集団の交代劇になぞらえて、・・・縄文革命後の定住の強化は、こうして日本列島内に収まる日本文化の形成を促し、大陸側からの独立を強めるとともに、日本的文化の主体性が確立されたのである。」
「しかも縄文文化における渦巻文様の偏在性の意義や先述のような縄文文化の一体性に一石を投じようとする諸見解に対しては、『結局は縄文文化の地域性の発現に他ならない』と反論」(小杉2010)している。新たな文化を生み出したランナーが次々入れ替わって先頭を走るとお考えなのであろうか。
 もしどうしてもマラソンレースに例えるのであれば、次のように考えられるのではないか。たまにレースのテレビ中継を見ていると、沿道で応援する人々の狭間から、正式な選手であるかのように似たようなユニフォームを着けて、レースに紛れ込む輩を見る事があるが、当然すぐに係員によって排除される。ところが縄文レースでは排除されずにどんどん脇から入ってきて、先頭集団になり、また途中で別の集団が入り込んでは上位をねらう、といったことがゴールまで繰り返されるのではないか。
 縄文レースのスタートでそろった選手も、過酷な環境の中で途中のリタイアがつづく。そこに耳飾りをつけた集団が多数入り込む。見る見るうちに先頭に立つ。また渦巻文様がデザインされたユニフォームの選手も先頭をねらう。仮面をつけた人物も登場だ。蛇をデザインした者も現れる。いつのまにかヒト形の手作りの人形をもつものも増えだした。抜きつ抜かれつを繰り返しながら、やがて最後の縄文晩期区間にはいるや、今度は手に稲穂を持った選手が多数、一気に先頭に躍り出る。おふざけが過ぎるのでこの辺でやめておこう。とにかく以上がマラソンレースの実相ではないだろうか。
 大陸との交流ではなく、大陸からの移住民による新たな文化の広がりが、この列島でも繰り返されていたのである。

参考文献

浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002

小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010

高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010

工藤雄一郎「後期旧石器時代から縄文時代への移行期の再検討」(再考!縄文と弥生)吉川弘文館2019
篠田謙一「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学166 雄山閣 2024

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1.後の加耶の地からやって来た弥生移住民
 最初の弥生時代の移住者は、半島のどこからやって来たのだろうか?それを示す分かりやすい図がある。支石墓、松菊里型住居(住居の形が円形で中央に穴があり、その両脇に2本の柱がある)、丹塗磨研壺、石包丁という渡来の代表的な物質文化の半島と玄界灘沿岸地域との関係性を表したもので、その周辺にいくにつれ薄まっていくグラデーション構造が見て取れる(端野晋平2023)。
 この濃く表された範囲は、まさに古くは弁韓、後の加耶の地となるのではないか。もちろんその当時にどのようなクニが形成されていたかはよくわからないが、やがて魏志倭人伝に登場する狗邪韓国や金官加耶もこの範囲に関係するのではないか。
 対馬との最短距離の地から、何度も大小の集団が渡って行ったのだろう。そのきっかけは、寒冷化や温暖化による洪水などの異常気象と考えられている。このあたりの南江流域の遺跡では、洪水砂によって居住域や生産域などが埋没しているという。彼らは、分散的にやって来たのではなく、「既存のネットワークを駆使して目的的」な渡来であったという。ちょうど天孫降臨説話も、リーダーを筆頭に様々な役割を担う人たちが、組織的にやって来たのである。  
 古事記にあるニニギノミコトの言葉「ここは韓国(カラクニ)に向ひ、笠沙の御崎に真っ直ぐ道が通じて、朝日のまともにさす国」にたどり着くその出発点が、図に色濃く描かれたところであろう。記紀に登場するスサノオやアメノヒボコ、ツヌガアラシトなども、このあたりからやってきたのではないか。もちろん、広い半島の各地からの渡来もあったことは言うまでもない。

2.縄文人遺伝子は半島集団も持っていた。
 弥生時代の渡来については、「主体性論争」というのがあって、少数の渡来者から在地の縄文人がその文化を学んで自分たちが広げ発展させたといった論調がまだ根強くある。糸島市の支石墓で発見された新町遺跡9号人骨が縄文人に似ている、といった例があるというが、最近では渡来系の特徴をもつものと理解されている。
 また昨今のゲノム解析の研究で、以下のようなことが判りだしてきたという。
「渡来系弥生人は五千年前の北東アジアの西遼河を中心とした地域の雑穀農耕民集団に起源すると考えられる・・・興味深いのは韓国人の位置で、朝鮮半島集団の基層にも縄文につながる人たちの遺伝子があることを意味している。初期拡散で大陸沿岸を北上したグループの遺伝子が朝鮮半島にも残っていたためと考えられる。」(篠田謙一2023)
 つまり、弥生渡来人は、縄文人の遺伝子を持っていたというのだ。列島の縄文人のルーツが東南アジア方面からの移動であるならば、その行程の途中に縄文人の遺伝子を持つ人たちが、存在してもおかしくないのである。よって、九州の在地の縄文人による主体的な稲作文化の受容は考えにくいと言える。組織的な集団の列島への移住から稲作文化は定着し、全国に広がったと考えたい。

参考文献
篠田謙一「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学166 考古学とDNA 雄山閣2024
端野晋平「弥生時代開始前夜」季刊考古学 同上

図は、端野晋平氏の「渡来人の故地の推定」

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2024. 6月1日(土)史跡めぐりハイキングのご案内 
JR栗東駅改札口午前10時30分出発
→伊勢遺跡史跡公園(学芸員さんに解説をお願いしています)※雨が降らなければここで昼食 → 皇大神社→大宝神社→JR栗東駅乗車、草津駅経由、手原駅下車→栗東歴史民俗博物館→栗東自然観察の森→和田古墳群→JR手原駅(解散・京都駅周辺にて交流会)
 ※栗東駅前にアルプラあり。  雨天決行ですが・・・伊勢遺跡公園に屋根付き休憩場ありません。雨の場合は、大宝神社の軒先などで済ませます。雨具などご用意を。
  お気軽にご参加ください。参加費は無料です。
 
天井2
◆実は遺跡より展示建物施設そのものの見学者の方が多いとか。    天井の構造は必見! 建築デザインにご興味のある方が多くこられるんでしょうが、でもここで古代史にも興味持ってもらえたらいいですね。
「主構造は鉄骨だが、6パターンの材形状からなる1,180本以上の折線状のスギ無垢材が面剛性の補強材になっている。映像投影面は折線間の段差を無くす3D加工を現場で施し、様々な加工技術を集約させた力強い木の空間を作り上げた。」(tmsd萬田隆構造設計事務所)とのことです。

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〇展示室の遺跡復元ジオラマ これはすごいです! 共同で作業する人々の様子もよくわかります。とても細かく作られています。
 保存会の方々の手作りによる大作です。  業者委託だととんでもない金額に。古代史の研究、普及には、専門家と一般の歴史ファンの人々との連携がとても大切ですね。
◆伊勢遺跡  
・時代は、紀元60~180年頃と推定(森岡秀人氏)  卑弥呼の時代の前でした・・・
焙り土器
・祭祀空間であり神聖な場所  日常品などが全く出土しない!
 「野洲川流域発信の手焙型土器の浸途は、この地域で誕生した火と関わる土器祭祀と儀礼行為の秘儀が着実に伝わっていった証しとも言えよう。その具体的な復元をいま考えつつある(森岡)。
 この地では、現代の感覚では想像しがたい祭祀を、各地から集まった人たちによって繰り返しなされていたのでしょう。
 わずか百年ほどで、すべての柱を抜き去って、新たな地へ移動したようだが、どこに向かったかは不明。この時期は名古屋の朝日環濠集落も同様に洪水などの異常気象への対応に苦労していたのであろうことがしのばれるのである。
〇主な特徴
・5種類の大型建物 独立棟持柱建物など伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目される。
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・斜めに掘られた柱穴にも注目  太くて長い柱を立てるためとか。
円周建物
・円周上に配列された多数の建物    
五角形
・9棟もの五角形住居  日本海沿岸地域に多くみられるとのこと。
レンガ
・国内最大級の超大型竪穴建物  精緻な粘土の焼床(やきどこ) 日本最古の焼レンガ ⇦銅鐸鋳造の工房か?  8世紀の奈良の寺院まで類例なしという。
・受口状口縁部を持つ壺など 近江系土器 全国各地に広がってます。

◆皇大神社  伊勢遺跡と関係する聖地だったのか?
主祭神大日孁貴命  アマテラスでしょうか?
 近くに、以前見学した火祭りで有名な勝部神社があります。
 岩戸神話には、安河が出てきますが、近くに野洲川があります。またそのあたりに物部村が。
 ただ、当地は新開地であり、幕末にこの地に入植した人達が明治初年に伊勢神宮を奉斎して、この里の氏神として皇太神社を創建したもの、とのこと。(守山市HP)

◆大宝神社
 旧名 大宝天王宮    祭神…素盞鳴尊
 当神社は、701年(大宝元年)疫病流行の時、小平井村信濃堂(シナンド)(現在の栗東市小平井)に降臨された素盞鳴尊と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に4月8日ご鎮座。これにより疫病が鎮まったと伝えられる。
 他に松尾芭蕉の歌碑あり
☆地名 「綣」へそのいわれ  説明板あり  7世紀にへそ地名が存在した可能性  異説あり。
万葉歌1-19  額田王が近江京に下った時の井戸王の歌
綜麻がたの林の前のさ野榛(はり)の衣につくなす目につくわが背

◆栗東歴史民俗資料館   無料
 エントランスホール正面には狛坂磨崖仏(複製品)をシンボルとして展示。栗東市南部の金勝山中にある実物と同じ大きさの巨大な石仏がお出迎え

◆栗東自然観察の森 無料 まずはネイチャーセンターへ

◆和田古墳群 6世紀中頃から7世紀 展示施設は休み
 5号墳は、楕円墳。竪穴系横口式石室(8号墳以外すべて)を持つ。羨道には石を詰め込んだ排水溝がある。床には木棺に使われていた釘や鎹(かすがい)。
 8号墳は、玄室から銀装太刀・青銅製馬鈴・鏡板付轡・金銅製空玉・須恵器が出土       以上

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 京都府立植物園のヒトツバタゴです。なんじゃもんじゃ、ともいわれてます。まだ咲きだしたところで、樹齢の高い幹の太いのは、まだこれからのようです。GWの間は、しっかりと楽しむ事ができそうです。
 咲いてる場所はこちらのマップです。
植物園マップ

 次は洛西ニュータウンのラクセーヌの街路樹。こちらもきれいに咲いています。この木だけ、まるで雪が積もっているかのように見えますね。
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 ほかにも、桂川街道の街路樹に、植樹されているところがあって、こちらもきれいに咲いていました。
 まあ、今の時期は、つつじが真っ盛りで、色もカラフルで、それにくらべてヒトツバタゴは、派手さはありませんが、昭和天皇も歌にされた素敵な白い花です。
 ひょっとすると、持統天皇が「白妙の衣」と例えた花かもしれません。こちらをご覧ください。
 各地に咲きだしていると思いますので、ぜひお探しください。
 
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 ヒトツバタゴが目的で植物園にやってきましたが、まあ今の時期は、様々な色の美しい花が見事に咲いています。たまには足を運ぶのもいいものですね。

宝塚船
京大衣笠
 上図は、三重県松阪市の宝塚古墳の船形埴輪、下は京都宇治市の庵寺(あんでら)山古墳の衣笠型埴輪 両者の特徴ある形状には共通点があるという。
 古墳には周囲を取り巻くように円筒埴輪が置かれていることが多いが、その要所要所に衣笠(蓋)型埴輪が据えられていることもある。辰巳和弘氏の指摘だが、宝塚古墳の船形埴輪の船舳の表現と立飾りの形状が似ていることに注目し、これは土器絵画などにある鹿の絵の角の表現ではないかとされた。
舳先形状
 図の左側の船形埴輪の舳先とその右側の三つの衣笠形埴輪の形状は、ほぼそっくりである。古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り古墳の船形埴輪といっしょに展示してある1号墓の船も、その形状が似ているのである。
 
船 衣笠
 まるで鹿の角が左右に広がっているかのように見える。蓋埴輪の羽のようなところも、よく見るとまるで埴輪のゴンドラ船を描いたかのような形状である。やはり、鹿の角をモデルに制作したと考えられる。辰巳氏は鹿角の呪力とされているが、鹿の角に霊力を招くような意味合いを考えられたのだろう。
志賀海
 九州の志賀海神社には、大量の鹿の角が奉納されているが、これも角に宿る霊力にあやかろうと願ってのことであろうか。
 
鹿埴輪
 日本の埴輪のみならず大陸にも立派な角を持った牛や鹿がよく描かれている。
 すると高廻り1号や2号などの船形埴輪も、鹿角の形状をモチーフに描いた祭祀用の形状のもので、決して実用の船でなく、喪船や祭祀用であったということであろう。
博物館の説明
 この衣笠形埴輪の説明に、貴人にさしかける日傘、といった解説があるが、この笠の飾りは葬送儀礼と関係するのであり、生存する王に使われたものかどうか疑問であろう。
 そして、埼玉県には衣笠型埴輪とされる角をモチーフにした埴輪が出土している。
衣笠と七支刀
 これをよくみると、七支刀に何やら似ているのである。古代の刀には、北斗七星の図柄が刻まれたものもあって、七支刀も関係があるとの見解も見られるが、これは鹿の角をモチーフにした霊剣と考えたほうがよさそうではないか。二本の角をずらして重ねると、まさに七支刀のモデルとなるのではないだろうか。霊力をもたらす祭祀用の剣となろう。

※古代船「なみはや」のモデルの船形埴輪が喪船であったことについては、こちらをご覧ください。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社 2011    
掲載図
志賀海神社写真はブログ対馬市福岡事務所レポート
庵寺山古墳衣笠型埴輪は京大総合博物館
生出塚衣笠埴輪は鴻巣市HP


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1.被葬者を送るために船形の飾りのついた冠 
 写真は、滋賀県鴨稲荷山古墳の復元された金銅製冠で、その立飾りの先端は、蝶とか花の形などと一般的に説明されているが、よく見ると宮崎県西都原古墳の船形埴輪と酷似している。舳先の二本の柱、櫂座表現など、これをモデルに細工されたのではないかと思える。
鴨稲荷山冠
 古墳時代には、船形埴輪や土器絵画、装飾古墳などに船が多く描かれている。これは被葬者を他界へ送るための乗り物として描かれたと考えられる。他にも、船がデザインされた冠をいくつか見受けられる
 奈良県藤ノ木古墳金銅製冠はアフガニスタンのティリヤ・テペとの類似が言われるが、実はそこにはないものが描かれている。藤ノ木古墳のものはゴンドラ型の船に鳥が止まっているのである。
藤ノ木舟
 また、小倉コレクションの加耶の冠も当初は花弁とガク(早乙女雅博1982)とされていたが、実は花ではなく船であって、古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り2号墳の船形とそっくりなのである。  
伽耶冠
 辰巳和弘氏は、藤ノ木古墳や鴨稲荷山古墳の金銅製飾履も実用のものでなく、冠の船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとし、すぐに王権との関係などと説明されることの多い傾向に対し、宗教的側面からの検討を全く怠っている、と厳しく指摘されておられる(2011)。
 また船だけでなく、馬の表現が古墳時代によく見られるのは、霊獣であって被葬者の乗り物と考えられていたからであろう。しかしこのことが理解されていない例がTV番組にあった。

2.持統天皇役にかぶらせた間違った冠
持統冠
 先日、前年放映の再放送の歴史番組をみて、ありえない小道具に気が付いた。NHKの「英雄たちの選択 古代日本のプランナー・藤原不比等」という番組だ。そこに持統天皇役の女性のかぶる冠を見て、何か変だと思い、録画をしていたので見直した。
持統アップ
 馬の形に見覚えがあったのだが、この冠は実際に古墳から出土した副葬品を模したものであった。それは茨城県三昧塚古墳出土の金銅製冠で、左右がそれぞれ山形を呈し,全体の長さは約60cm。正面には蝶形の飾金具を二段階配し,上縁には花形と馬形の飾りを交互に配しているというものだ。さすがにこの演出に使われた小道具はいただけない。
三昧塚
 この古墳の時期は5世紀後半とされている。西暦500年以前であるが、持統天皇が活躍したのは700年前後である。番組スタッフは、200年も前の冠と同型のものを持統の冠に仕立ててしまったのである。時代考証はされなかったのか、それとも、されても素通りであったのか。
 もう一つの問題は、前段で紹介したように、古墳からの出土品や図形の表現は、その多くが葬送儀礼のためのものと考えられるのである。被葬者のための霊船、さらには霊獣である馬の形をあしらった冠はあくまで死者を送るための副葬品と考えられる。それを生存中の天皇が頭に飾るなど、とても考えられないのである。
 今後も同様の歴史番組が作られても、このような小道具は使われないようにしていただきたい。

※高島歴史民俗資料館は、各施設の老朽化などによる統廃合のため、令和6年3月閉館し、「中江藤樹・たかしまミュージアム」にて展示品を見ることができます。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
早乙女雅博氏は「新羅・加耶の冠」 (Museum372)
西都原古墳群の船形埴輪の図は HP日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会

なみはや航海
1.失敗だった実験航海
 一九八九年に大阪港から釜山まで、古代船の復元による実験航海を行った『なみはや』だが、後日に漕ぎ手が当時のことを語る記事がある。「大阪市立大学のボート部が、二十六名を八~九名の三班に分け、天保山から牛窓、牛窓から福岡、福岡から対馬の各区間を分担して漕いだ。最後、対馬から釜山までは伴走船にも分乗して全員で行った。 漕いでいても風景が変わらず、前進していないような気分があった。対馬から出航した際には、大揺れで船酔いする者が続出。 八人で立ち漕ぎしたが、力が入りにくく、水を十分にかいていた感覚は無かった。長時間すると手の平の豆が破れた。出航後、早く曳航が来ないかと思ったこともあった。」(OSAKA ゆめネット)
 これを見るに、惨憺たる結果であって、漕ぎ手は精いっぱい頑張ったのだが、そもそもの復元された「準構造船」に問題があったということではないか。齋藤茂樹氏は「現代の船体構造設計者によると、構造的にとても船とは言えない代物だった」とし、「非常に安定が悪く、そのうえ、なかなか進まない。五十センチの高さの波がきただけでもバランスを失う、また喫水が浅く少しの風でも倒れる」ような状態であって、「舟形埴輪と相似形の準構造船は、実際には存在しなかった」(『理系脳で紐解く日本の古代史』)と断言、埴輪の船は「陸地や内海・池で曳かれるだけの喪舟」だったのではないかと指摘されている。祭祀のための船という説にも同意するのだが、私は、この『なみはや』の復元には根本的なところで大きな誤認、勘違いがあったと考えるものであり、この点について、さらに喪船、祭祀のための船について説明していきたい。

2.準構造船という考え方の問題点
 「なみはや」の復元では、アメリカのオレゴン州から直径二m越えの米松をわざわざ取り寄せて、それを繰り抜いて船体に仕立てている。なぜそのような巨木が必要であったのか。 
準構造船説明
 準構造船とは、丸木舟を船底にして、舷側板や竪板などの船材を加えた船、と説明されている。やがて、骨組みと板材によって建造された構造船となるという。だがこの説明だと、準構造船は、船底となる丸木舟の大きさに規制されてしまう。広い幅のある船、二人が横並びで櫂を漕ぐことができるだけの空間のある船はつくれないのである。守山市HPでは、「板材の結合技術が未熟なわが国では、この準構造船は長らく使われ、室町時代まで大型船の主流を占めていました。」と説明がされている。根拠のない決めつけの説明でしかない。この考えに縛られて『なみはや』の場合、幅を広くするためには巨木が必要となったのである。
おもき
 では、幅の広い準構造船はないのかといえばそうではなく、木材の湾曲部分を断ち割って船底部を平板でつなげばよいのである。五世紀中頃には船底を三材組み合わせて横継ぎにし、横幅を二メートルほどに増した横継ぎ組み合わせ式船体の存在も考えられる(福岡市吉武樋渡(ひわたし)遺跡で出土の船体資料)。船底部の丸木を半分に割って「おもき」とし、その間にもう一枚の平板の材(かわら)を挟み込むのである。守山市HPの「板材の結合技術が未熟」という説明は、何の根拠もない。縄文時代には、ほぞ穴のある加工された材木が出土しているのである。紀元前から地中海周辺で作られた構造船の木材の接合技術は、早くに広がっているのではないだろうか。
 以上のように、船底も板をつないだ工法をあったことを検討されずに、一般的に言われる単純な準構造船で復元しようとされたところに問題があることを示したが、さらに『なみはや』の復元にはモデルとした船について大きな勘違いがあったのである。
歴博船
3.モデルにした高廻り二号墳の船形埴輪の姿を見誤った。
 大阪市平野区高廻り古墳の一号墳と二号墳から出土の船形埴輪のレプリカが、大阪歴史博物館にいっしょに展示されている。
 奥が一号墳、手前が二号墳のものだが、この両者をよく見てほしい。なにも目を皿のようにして見るまでもなく、素直に見れば違いがわかる。一号墳は筒型の二つの台の上に置かれており、2号墳号墳は別の船形の上に安置されているように見えるのではないか。上下を一体としてみるとワニの口のように見えるが、実は下あごに見えるのは、上部の船の台を表現したものだ。丸木舟に波除の板の部品を組み合わせて造られた木造の船、と説明される準構造船という代物ではないのではないか。
 あまり言われないことだが、埴輪の多くは、直接地面に置かれることはなく、円筒埴輪を土台にして造形されている。人物も剣や楯も鳥も魚もよく見れば円筒埴輪の上に鎮座しているのである。多くの埴輪は、直接地面に置かれてはいない。なぜ円筒埴輪を台にしているのかというと、埴輪はみな祭器として置かれるものであり、それが地面に直接触れると、地中の邪気が移る、または霊気が吸われてしまうといった観念から、忌避したと考えられる。一号の舟形埴輪だけでなく、三重県松坂市宝塚古墳の立派な装飾のある船も円筒埴輪を台にして古墳の片隅に置かれたのである。二号墳の場合は、その台が船形になったにすぎないのである。
船埴輪の分離
 これをそのままモデルにして復元したから、重心が上がり、とても漕ぎにくい船になってしまったのである。このような誤解が他にもある。

4.同じ轍を踏んでしまった奈良県巣山古墳の喪船の解釈
 巣山古墳で出土した竪板と舷側板などから、当時の広陵町教委文化財保存センター長の河上邦彦氏は、左右二枚の舟形側板の間を角材や板材などでつなぎ、その上に木棺を載せたと推測。葬送用の特別な用具で、修羅で引っ張ったのでは、と説明されていた。
喪船移動復元
 これはまさに、『隋書倭国伝』の「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす」に関連するものであろう。復元図も作画されたが、残念なことに後の復元では、出土物に加える形でワニの下あごや船底などが盛り付けられてしまっている。
巣山復元
 そのようなものは全く出土していないにもかかわらず、いつのまにか修羅に置かれた喪船が、船底部に一本の丸太をくりぬいた丸木舟をくっつけて、上に舷側板を加えた準構造船なるものに鞍替えされたのは理解に苦しむ。
 牽引のための修羅に載せられた船を表現した船形木製品が、弥生後期の京丹後市古殿遺跡から出土している。下あごに小孔があり、ここに綱を通して牽引するものとして作られたのであろう。また東大阪市西岩田遺跡のものは、船形木製品と説明されているが、先端部に、切り込みと、穿孔があり、修羅のようなものにして、この上に別の船の造形物を載せていたのではないか?
修羅模型
 大阪府藤井寺市三ツ塚古墳の修羅の実物も先端部は穿孔があり、上向きに反るように盛り上がっている。
 以上から、高廻り二号墳の船形埴輪も、喪船を円筒埴輪の代わりに船の形をしたものに安置したものであって、それは修羅としても使われるものでもあったととらえたほうがよさそうである。

5.船首の竪板と考えられるものを船内に配置する例
 大阪府八尾市久宝寺遺跡からは、実物の準構造船の船首部が出土したとして、その復元がされている。これによって、竪板と船底部の接合方法も明らかになったというのである。するとこの場合、先端が二股のワニの口のような船があったということになるかといえばそうはならない。
カラネガ
 弥生時代から古墳時代にかけての土器や銅鐸、板絵、古墳絵画に描かれた船絵に、先端がワニの口となった表現に見えるような図があるが、それは、船内の構造物の表現である。京都カラネガ岳2号墳の船絵は、船の前後に、梯子状のものが斜めに描かれている。これは竪板と同じものと考えていいであろう。つまりこれは、船首と船尾の中に竪板を置いているのである。久宝寺の出土した船も、巣山古墳のものと同様に、祭祀用の船であったと考えられる。 
 宮城洋一郎氏は、万葉歌などから祭祀の場が舳先であって、ここには特別な意味があったとされている。海上の守護神である住吉神は船の舳先に祀って安全を祈願するのである。また、天皇への服属儀礼もあったようである。景行紀十二年には、神夏礎媛が、「素(しら)幡(はた)を船の舳にたてて」参向している。舳先が、祭祀や儀礼に使われる、聖なる空間であったのだろう。古代に描かれた船絵には、このようなものも描かれたのであり、それがワニの上あごのように見えたのであろう。
 日本書紀履中三年に両枝(ふたまた)船の記事がある。古事記垂仁記にも二俣小舟とある。研究者の中には、これを、ワニ口の準構造船のことだとされるご意見もあるが、いずれも池に浮かべており、とても海上を進む船とは別のものであろう。なお、記紀のフタマタ船が南洋の事例から、二艘の丸木舟を繋ぎ合わせたものという説がある。いずれにしてもワニの口の準構造船とはならない。
 
6.時空を超えて広がる祭祀船のイメージ
宝塚
 三重県宝塚古墳の見事な造形の船形埴輪は、古墳の墳丘の裾の造り出しとの間の隙間に置かれていたようで、外側からは見る事ができない状態で置かれていた。見せびらかすものではなかったようで、あくまでこの古墳の被葬者の死後の世界の旅立ちのために置かれたかのようである。これは、ちょうど大ピラミッドの太陽の船と同じ状況ではないだろうか。こういった類似は、他にもある。舟の上部に大きく太陽を描いた構図は、九州の装飾古墳に同じモチーフのものが描かれている。
 また、隋書の喪船を引く習俗も、同様のものがある。ピラミッドのクフ王の船からマストや帆は見つからず、12個の大きなパドル(オール)は発見されている。しかしこれらのパドルは巨大すぎて漕ぐものとすることは困難であり、航行の際には「舵を取る」ために使われたと考えられることからクフ王の船は自力で進むことのできる能力はなく、他の船などに牽引されて使用される「バージ船」であったと考えられる。
エジプト曳航
 王墓の壁画には、王の船を従者がロープで曳く光景も描かれている。つまり、実用的な船ではなく、王のための祭祀用の船が別に存在しているのである。日本でも喪船と考えられる出土品が同様のものではないだろうか。

7.埴輪の祭祀船が冠にも表現されていた
船の冠.png
 また各地の古墳から出土している金銅製冠にも船が描かれている。奈良県藤ノ木古墳の場合、鳥と樹木の表現からその出自が論議されているが、よく見れば鳥が止っているのはゴンドラ船の中央の柱である。それが連続するように描かれている。ティリヤ・テペとの類似が指摘されているが、そこには船形の表現はない。
 辰巳和弘氏は、いっしょに置かれていた金銅製の履も実用のものではなく、冠に描かれた船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとする(「他界へ翔る船」2011)。他にも小倉コレクションの加耶冠、滋賀県鴨稲荷山古墳の冠の立飾りには船が描かれており、さらによく見ると、その船の形は、櫂座の表現もみられ、古代船復元のモデルとなった高廻り古墳や西都原古墳の舟形埴輪とそっくりなのである。いずれの冠も葬送用であり、死者を送る祭祀船が描かれているということになる。これらの豪華な副葬品を、ヤマト王権が下賜したものといったありきたりの表現がよくされているが、あくまでこの冠は、死後に棺に添えるものであって、決して生前に王が儀礼の時などにかぶっていたものではないのである。
 以上のように、土器や古墳の副葬品や埴輪に描かれた船は、その多くが死者のための喪船、祭祀船であって、それを復元しても実際に自力で海面をすすめるかどうかはわからないのである。では、渡海できるような船はどのようなものであったのか。舟の絵画には、帆船とおぼしき表現が多数見受けられる。古代の帆船について、世界にある事例なども参考に検討しなければならないだろう。
 繰り返すが、復元された『なみはや』のモデルとなった船形埴輪は、あくまで墓に眠る被葬者のための喪船なのであって、他の博物館などで同じように復元されたものも、祭祀船との説明をして展示してほしいものであって、とても外洋を航行できるものではないということである。


参考文献
齋藤茂樹「理系脳で紐解く日本の古代史」ネット掲載
佐原真「美術の考古学 佐原真の仕事3」岩波書店2005
OSAKA ゆめネット「古代船「なみはや」の解説のお知らせ」ネット掲載
平田絋士「二檣――継体天皇の2本マストを復元する」海上交通システム研究会
角川春樹「わが心のヤマタイ国 : 古代船野性号の鎮魂歌 」(角川文庫)1978
YouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」
宮城洋一郎「船の民俗と神話」月刊考古学ジャーナル臨時増刊№536 2005 ニューサイエンス社
YouTube河江肖剰古代エジプト「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7 」 
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
三重県松坂市市HP 「宝塚古墳船型埴輪」
大阪府藤井寺市HP「高廻り古墳船形埴輪」

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 写真の土器は、京都の比叡山の麓の一乗寺向畑町遺跡のいわゆる注口土器だ。東日本にはユニークな形状や文様のもの注口土器が多くみられるが、この京都の土器は引けを取らない見事なものである。
 肩部がそろばん玉の形をしていて、高さは24.8cmとのことだが、かなりの容量となるから水をいっぱい入れたら、把手がないので両手で抱きかかえるように持って使っていたのだろうか。胴部には二つの帯状のデザインが取り巻いている。
注口合成
 さらに、注ぎ口以外を均等にした三か所に波線が口縁部から中央の帯文様まで描かれている。しかもその波線の両側を小さな円文が並ぶように描かれている。帯状の文様は避けながら描いているので、帯文様の下を潜っているかのようにも見える。
DSC_0936文様アップ

 『京都盆地の縄文世界』(新泉社2012)では、この文様を拡大した図が表紙を飾っている。やはり誰しも気になる文様ということでしょう。
 口縁部のデザインやその中に付加条縄文で飾る帯状の文様が施されるといった洗練されたデザインとなっているおり、この波線の模様はなくてもよかったのではと思えるのだが。しかし、縄文人にはこの文様はどうしても描かなければならない意味のあるものだったのではないか。それは、蛇行状の文様からして水神である蛇神を表したものと考えたい。解説書などには、そのような説明は見当たらないのだが、東日本の中期縄文土器に濃厚に描かれた蛇文様を、シンプルにした線刻で描いたのではないだろうか。そして円文はその蛇が囲む霊気のようなものを表しているのかもしれない。あくまで想像ですが。水田耕作はまだであっても、穀物栽培は行っていたはずであり、水は重要なものであることにかわりはなく、また逆に洪水で苦労するということも多々あったと考えられる。
 荒ぶる水の神、蛇神を鎮めるために、このような蛇文様を描いた注口土器による祭祀が行われていたと想像する。この土器の中にどのような液体を入れていたのか。清水を汲んで祭祀場に注いだのか、それともお酒を入れて、神様といっしょにみんなで飲み合ったのか、もしくはお茶のようなものを作っていたのか。いつか解明されるかもしれない。
DSC_0472志賀里蛇
 このような波線を施した土器が、他にも見受けられる。滋賀県後期の滋賀里遺跡の土器だが、同じように口縁部から垂下するようにジグザクの線が刻まれている。
ひたちなか注口土器
 また茨城県ひたちなか市の注口土器には、線刻ではないが隆帯文で描いた蛇行状のデザインも蛇を描いたと考えられる。
弥生鍵遺跡蛇
 時代は下がるが、弥生時代の唐古・鍵遺跡の土器にも蛇行状の線刻があり、これも水神の意味で描いたと考えたい。こちらにあるように、水神を祀る土器が、多数存在した地域だと考えられるのである。

※この注口土器は、現在、京大総合博物館で見る事ができます。2024年6月9日(日)まで『比叡山麓の縄文世界』企画展が開催中。ぜひ京都、滋賀の縄文土器などをご覧ください。


参考文献
「日本の美術№498縄文土器後期」(至文堂2007)
千葉豊「京都盆地の縄文世界 北白川遺跡群』(新泉社2012)

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