流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

古代大和史研究会主催 講演会 2024.12/24(火)13:30~16:30
会場:浄照寺(奈良県磯城郡田原本町茶町584)近鉄田原本駅から東に徒歩5分
「天皇はいつから天皇になったのか」服部静尚氏
「聖徳太子の半島出兵は無かった」正木裕氏
「大国主が落ちた穴と宇陀の血原の本当の意味」大原重雄  参加費は500円(資料代)です。お気軽にご参加ください。

九州年号で創建年が書かれた奈良県當麻(たいま)寺

 
本堂

 
當麻寺創建年
 
當麻寺を訪れると、寺の創建年(移築)の説明の掲示が三か所見受けられました。そこに記された年代はいずれも681年となっていますが、それは西暦であって当時の年代表記としては、天皇の紀年や元号、干支で表されているのですが、この掲示板の表記では、西暦は同じでも、三通りの異なる年代で表されています。上記の二つには白鳳年という年号が使われており、残りの天武10年も白鳳10年ともとれそうです。これは白鳳年についての、理解、認識のずれによるものと考えられます。そもそもこの白鳳とは、どのようなものなのか、また681年という年代についても実際の年代と異なっていることを説明していきます。

白鳳とは九州年号
 日本には517年より、九州王朝による年号が制定されていました。(こちら)九州王朝にかわって実権を握った大和王権は日本書紀においてこの九州年号をほとんど消してしまい、「大化」「白雉」「朱鳥」だけ部分的に記載されているのですが、これらはいずれも本来九州年号であって、ヤマト王権による元号制定は九州王朝からの王朝交代後の701年の大宝年号からはじまるのです。
 この年号については現在の研究者は、これを私年号などとして、ヤマト王権の前の王朝の年号とは認めようとはしていません。しかし、否定的な研究者たちも、反論できない問題があります。それは日本書紀には記されていない、白鳳、さらに朱雀について、後の聖武天皇の神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、 「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」(続日本紀) と記されており、紛れもなく九州年号にふれた記事が存在しているのです。つまり、7世紀の後半に白鳳、及び朱雀という年号もあったのです。一般的には否定されているのに、その一方で、教科書や博物館では、白鳳文化、白鳳時代と言った表現が当然のように使われているのも、実に奇妙な話です。さらには、當麻寺のように、寺社関係の資料には、この九州年号が関係する数多くの記載が存在しているのです。

當麻寺の創建年代は?  下図の年表をご覧ください。
 『建久御巡礼記』の記載より、「白鳳九辛巳年」とある。後に天武天皇即位10年(681)としたのは、『扶桑略記』に天武天皇2年=白鳳元年と説明されていることによります。ただし、白鳳10年を681年とする諸書などもあるので、掲示にあるような異なる表記が生まれる要因になったのかもしれません。しかし実際の九州年号では白鳳九年は669年己巳となる。そうすると11年もの誤差が生じる。これについては以下のように考えます。
 『建久御巡礼記』の筆者、もしくは後の書写作成者は、白鳳元年を天武2年とする『扶桑略記』にならって、白鳳9年は天武10年と判断したのであろう。この天武10年である681年の干支は辛巳(シンシ)になります。本来の白鳳9年(669)は己巳(キシ)なので、己を辛の間違いと考えて、天武10年で良しと判断した可能性もあります。
 また『日本帝皇年代記』には、 庚午白鳳十(年)「鎮西建立観音寺、建立禅林寺、俗曰當麻寺」とあり、庚午は翌年の670年ですが、この1年のずれは工事開始の年か完成年かの誤差とも考えられます。
 さらに『上宮太子拾遺記』に当麻寺縁起が引用されています。「推古天皇御宇定光二年麻呂子親王、被聖徳太子之教訓」  定光は定居(ジョウゴ)で612年。つまり、当麻寺の前身はこの頃に始まったことになります。こちらも九州年号で理解できるのです。
 以上のように、九州年号を史学研究者の消極的な認識により、実際に存在する九州年号の記された資料の解釈に錯誤、混乱が生じてしまっており、当麻寺の創建年も、異なる解釈がされてしまっていると考えます。
 実際の創建年(資料上の)は、本当の九州年号である白鳳九年己巳の669年であり、九州の観音寺と同じ時期に始まったと言えるのです。ぜひ、この年代につきましての再検討、見直し、もしくは、異説としての付記をご考慮いただくことを、當麻寺の関係者の方々にお願いしたいと思います。
當麻寺年号

最近の騎馬民族説の見方について

以下は、文献の引用と若干のコメント。

『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』日本考古学協会編 雄山閣2018
 「騎馬民族説はどうなったのか
 戦後、江上波夫(東洋考古学者)の日本の国家形成に関する学説
 古くは中央ユーラシアに源を発した遊牧騎馬民族のうち、東アジアで高句麗を打ち立てた北方ツングース系扶余族が半島に南下して支配を広げ、4世紀には九州に到来、5世紀には近畿に入って在来の勢力を圧倒し、それと合同しながら征服王朝をつくったことが日本国家の起源となった。
 騎馬民族征服王朝説。この説の本質は機動的な遊牧集団が、定着的な農耕集団を征服することによって、国家や王朝を生み出すという、国家形成のパターンとして古典的に受け入れられたシナリオを、日本にも当てはめようとした点にある。

 『騎馬民族』の物証とした馬具などの大陸系文物も、列島と朝鮮半島との交渉の中で授受されたり、「渡来人」によってもたらされたりなど、彼我の人々の主体的な行為選択の結果と理解されるようになった。
 このような理解の一例として、白石太一郎は、この時期に馬具や馬埋葬などの文物や習俗が日本列島に姿を現したのは4世紀後半に本格化した高句麗の南下政策に対抗してそこと敵対する百済や加耶諸国の援助を受けながら、倭の政権が取り組んだ騎馬関連技術の充実策の結果にほかならない。
 現在の古墳時代研究では、こうした考え方が騎馬民族説を受けての穏当な理解とされる。」

↑↑ 昨今の馬具や関係する文物の出土に、無視することはできなくなったが、それでも、あくまで文化の受容という『穏当な』解釈なのである。
 これについては、早くから批判がある。

江上波夫『騎馬民族は来た!?来ない?!』小学館1990 
「国際関係がますます世界的になり、経済・文化が一国単位では全く成り立たなくなった現代、世界の歴史を科学的に説明できる時代になってなお、日本一国中心主義で考えていくというのは、やはり一種の皇国史観。皇国史観は悪い悪いといいながら、実際には皇国史観を執っている。自ら狭く封鎖した日本だけで歴史を解決しようというのですから、国史の学者がそれをするならまだわかるが、唯物史観を世界に普遍的な歴史理論観として唱える人が、それではおかしいと思ったのです。
 東アジアの中の日本を説きだしたが、・・・・その場合も日本があくまで主体、周辺から文物を自主的に摂取したという立場。」
↑↑ 30年以上前の指摘だ。

 上田正昭『古代の祭式と思想』中西進編 角川選書1991
日本の学界は、渡来の文化は認めます。だけど渡来集団は認めない」「人間不在の文化論はおかしいではないか。多紐細文鏡は中国にない。遼寧省や吉林省、北朝鮮でも鋳型が出土している。鏡だけが海を渡って流れ着いたわけではない。」 ※多紐細文鏡は、鏡背面の文様が幾何学文で,2~3個の鈕をもつ銅鏡
↑↑ 文化・知識は伝達されたが、集団の移住は認めないのだ。

 「騎馬民族王朝征服説」という名称は、やはり誤解も招きやすい。騎馬民族だけが列島にやってきたわけではないし、大陸には騎馬民や遊牧民の様々な集団がいたのだが、かといって適切な言葉が浮かばないので、仮に「騎馬遊牧民移住説」とでもしておきたい。この場合も、王朝への関りが全くないわけではなく、集団の中には、当時の王権、政治体制に、深く関係する人たちもいたと考えたい。  


邪馬台国は短里で書かれていた

「卑弥呼の世界 ― 邪馬台国論争に終止符を打つ」 2023年8月26日開催 市民古代史の会・八尾 服部静尚氏の講演がありました。 八尾プリズムホール(大阪府八尾市 近鉄八尾駅下車。中央北出口を出て右へ200m 徒歩5分。)  

◆古代中国の里の長さには、短里と長里があった。
魏志倭人伝の行程の距離の1里は短里で約75m。通説では1里は450メートルで計算されて、邪馬台国の所在地が論じられていますが、魏の時代は短里が使われていました。
それを証明する中国の記事を、正木裕氏(古田史学の会)によって発見されています。
服部講演より


◆庄内式土器の中心は大和ではない。

庄内1

庄内2

◆奈良中心史観では説明できない。
 橋本輝彦氏(桜井市教育委員会) 「纏向遺跡がなくなった後は、雄略の初瀬朝倉宮推定地の脇本遺跡のように、遺跡周辺からは集住は一切確認されていない。4世紀の記紀に表れる天皇の宮が桜井地帯にたくさん伝承地があるが、宮単独で営まれていくという形が飛鳥に至るまで続いていくのかなと考えている。

 ↑↑奈良にずっと中心があったと考えることが無理ということですね。

次回は、2023年9月9日(土)2時開始(1時半開場)
  服部静尚氏 『倭国独立と磐井の乱 屯倉と支配体制』です。  
   ブログ主もミニ講演「イザナギのポシェット」予定です。






近畿一元史観を見直してほしい

 近畿一元史観とは古代史において、なんでも近畿、奈良を中心に説明する歴史観のこと。九州や各地の先進地を軽視して、あいまいな根拠、思い込みで説明されることが多く、奈良県箸墓古墳を卑弥呼の墓だとするのは、その典型。以下、一例を挙げるが、首をかしげたくなるような決めつけの発言が見られる。最後の引用の鈴木勉氏のおっしゃるような指摘が大切ではないか。

『群馬の古墳物語〈上巻〉』右島和夫 上毛新聞社2018
【(序章)東アジア世界の中にあった日本列島  もう一つこの時代の特徴として注意しておくことがある。それは、朝鮮半島さらには中国大陸との関係が密接になり、モノの移動にとどまらず、盛んに人的交流が進められていったことに大いに注目する必要がある。日本文化の出発点は、この古墳時代にあり、その基礎に中国・朝鮮半島の古代文化があったことを知る必要がある。
 当時の中国・朝鮮半島の一挙手一投足が、日本列島にそのまま影響を及ぼしたわけである。中国・朝鮮半島の歴史・考古学資料を抜きにしては、日本列島の古墳時代を理解することは到底できない
なお、列島と朝鮮半島・大陸の間には海が介在しているわけであるが、民間交流の問題はさておき、朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)および加耶、さらには中国古代王朝との間の政治・経済・文化交流上の外交権を独占的に近く保持しようとしていったのがヤマト王権であった。当時、半島・大陸からの最先端をいく各種技術、品々は、畿内地域を介して列島各地に、もたらされるケースが主流であったと考えていいだろう。】 

↑↑ 前半はおおいにけっこうだが、近畿に物資が入ってから各地に配分されるなどとどうして言えるだろうか?

『弥生時代の歴史』 藤尾慎一郎 講談社現代新書 2015
【・・・列島の中央という地の利を活かして、外来物資の流通ネットワークを主導で。九州北部を除いた列島の倭人たちにとっての中心は、まさに近畿。
 人工的にも面積的にも九州北部とは比べものにならないほど大きな世界の中心が近畿である。九州北部は中心になれるはずもなく、またその意志もない。大多数の倭人たちが求めるものを供給できた、またその意志があったのが近畿だった。心を同じくする倭人たちの祭祀的・精神的なシンボルこそ、前方後円墳だったのだ。】
 
↑↑ 九州は中心になる意思もない? 古墳が倭人のシンボルなどと言う根拠はあるのか。あまりに適当すぎる発言だ。とにかくはじめに近畿中心の固定観念がある。

鈴木勉『三角縁神獣鏡・同笵(型)鏡論の向こうに』雄山閣2016
【律令制以前の列島に於いて、技術・工人と政治勢力との関係は、直接的な主従関係になく、パラレルな相互関係であって、工人は技術を携えて各地を移動し、間接的に政権や王権の影響(注文・相談など)を受けながら各地で制作にあたったと考える・・・・ 
 筆者が三角縁神獣鏡を始めた1998年の頃、日本古代史は良い意味でまだ混沌としていた。いま若い研究者達はこぞって「前方後円墳墳体制論」を支持するよう王権論を書き続けている。そうすることが唯一考古学に於ける成功の道であると考えているのかもしれない。
 日本列島の歴史がすなわちヤマト王権の歴史だと考えてしまうことは、考古学であるからこそ避けたいと思う

 ↑↑ 鈴木勉氏に拍手を送りたい。

吉野ケ里遺跡の環濠施設の復元の問題

吉野ケ里環濠                    

環濠の防衛

(1)吉野ヶ里遺跡の環濠施設の復元について
 発掘調査で当時大きな話題となった物見櫓については、環濠の突出部と関係していると言えないこと、監視するためとは思えない奥まったところにあること、柱穴の確認ができないところにも設置していることなど、その復元に問題が多いが、最近は現地では北内郭の施設の物見櫓は監視の役割とともに祭祀のためもあるといった説明に手直しされている。
 しかし物見櫓以外にも疑問、異論は出されている。その一つに環濠にともなう付属施設として、土塁があげられる。掘削した溝の縁を溝に沿って盛り上げるものだが、久世辰男は以下のような疑義を呈されている。「佐原真氏の熱弁により、弥生時代の環濠は外側に土塁を持っていたとされ」、吉野ヶ里遺跡も土塁を外側に作られている。外壁内濠となるがここには二つの問題がある。「考古学的事実として溝の外側に土塁が実際に検出されることは極めてまれであり、溝の覆土から間接的に類推されるにすぎない。」さらに外側の土塁の設置した場合の機能、効果の問題がある。図にあるように、外側に土塁を築くと防御は不利になるのだ。敵は土塁を登り矢で環濠の手前にいる相手を狙うことができる。吉野ヶ里も本当に防衛施設にするなら、環濠の内側に土塁を盛り上げてこそ意味があると思われる。九州大宰府の水城も広い濠が博多湾側にありその奥の大宰府側に土塁がある。上陸後に攻めてくる敵国の侵入を水を入れた広い濠と高い土塁で阻止するものだ。
 さらにその土塁の上に張り巡らされた柵の復元にも問題がある。

⑵土塁にめぐらされた柵
 佐原氏は千田嘉博氏との対談で、「千田さんからいろいろ教わって弥生時代の戦争について参考にしている」とし、次にその千田氏から「弥生集落の外壁内濠は中世城郭の知見から再検討できるのでは」と注意点を述べておられるにもかかわらず、指摘を無視して持論を展開されている。そんな佐原氏も見直しを考えたものがある。
 吉野ヶ里は環濠に沿った土塁の上に密接式の柵が張り巡らされています。ほとんど隙間のない間隔で杭の壁が作られています。外壁内濠の主張をゆずらない佐原氏も、土塁の上に復元された密接式の柵については、自分にも責任があると述べている。間隔をあけた柵の遺構の出土により、柵を隙間なく作ることはなかった。佐原氏は「すべて間隔を置いた柵に改めるべき」とされるが、吉野ヶ里は遺構の痕跡すら確認できないのに修正するどころか、ますます隙間のない柵で取り囲まれるようになっている。すなわち吉野ヶ里遺跡の復元は、濠の外側に出土していない土塁を盛り上げ、さらにその土塁の上に確認もされず他の遺跡の事例にも反する密接式の柵を張り巡らすという虚構の復元になったのだ。
 吉野ヶ里遺跡は墳丘墓の施設や展示品などたいへん見ごたえはあり価値のあるものだが、環濠に伴う施設の復元には、問題があると言わざるを得ない。
  (本稿は2018年12月古田史学会報149号掲載の「弥生環濠施設を防御的側面で見ることへの疑問点」からの抜粋です。)


参考文献
久世辰男 「環濠と土塁――その構造と機能――」月刊考古学ジャーナル№511
原田幹  「朝日遺跡 東西弥生文化の結節点」 新泉社2013
橋口達也 「弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成」 雄山閣2007
藤原哲  「日本列島における戦争と国家の起源」  同成社 2018
歴博フォーラム 「天下統一と城」 塙書房 2002
佐原真  「戦争の考古学 佐原真の仕事4」岩波書店 2005
佐原真  「弥生時代の戦争 古代を考える稲・金属・戦争」佐原真編 吉川弘文館2002


吉野ヶ里遺跡の物見櫓の復元について

吉野ケ里遺跡公園

【1】弥生時代の環濠に突出部のある遺構
(突出部については張り出しや他に突き出し、造り出しともいわれている)
北内郭、南内郭にはその周囲に濠が巡らされ、数か所の突出部とそこに柱穴が存在することから、物見櫓とされて、復元がされています。現地の説明版には、兵士が見張っています、というお決まりの説明ですが、ホームページでは北内郭について少し異なる説明をされている。「南内郭には4棟の大きな高床建物があります。これらは環壕の張り出した部分に対応するように建てられており、兵士が南内郭への侵入者を厳重に見張っていたと考えられています。」ところが北内郭では、「環壕が外に張り出している部分が4ヶ所あり、ここで見つかった高床の建物です。周囲を見張る役割に加え、神聖な空間である北内郭の性格から、四方を祀る意味も持っていたと考えられています。」北内郭の物見櫓は軍事面と祭祀面の両方の使い方があったというのだ。吉野ヶ里遺跡の復元については異論もあることから、このような折衷案的な説明をされたのであろう。

【2】物見櫓とすることへの問題点
⑴軍事的な物見櫓なら、内郭の中ではなく、外濠の端の見通しのきくところに設置するのが普通ではないか。どこから敵が来ると想定しているのかその効果が不明な配置だ。また復元された北内郭では隣の物見櫓が30mもない間隔というのも不思議。何を見張るのであろうか?私には映画「大脱走」の捕虜収容所の監視塔のように思える。

⑵張り出しと柱穴の位置関係に疑問がある。
ものみ

 図①の南内郭の東側の張り出しと柱穴SB0630の図面では、突出部がなくてもいい位置に柱穴がある。濠に近いと崩れる心配があって張り出した手前に掘ったというのでしょうか。調査の中心メンバーの七田忠昭氏は「倉庫と考えられるもの以外の掘立柱建物跡もいくつか発掘された。内濠が半円形や方形に張り出した部分の内側の位置に存在する掘立柱建物跡ということなどから、観るための高い建物、すなわち物見櫓(楼観)であろうと考えられた」との説明なので、突出部の近くに柱穴があったから物見櫓とされたというのであろうか。
図②は同じ南内郭の西南部のもので、先ほどと違い突出部にめいっぱい入り込む形で柱穴SB1138がある。これなら物見櫓としては納得と思われるが、よく見ると、端の柱穴が濠の斜面にかかって作られている。報告書では、この柱穴と濠の時期は異なり後に濠が作られたようだ。濠の工事の時は建物がなくなっていたかもしれない。そうすると突出部とは無関係に物見櫓は作られていたことになってしまう。

⑶柱穴が確認されていない突出部
図③は北内郭で、四つの張り出しで独特の形をしており、研究者はA字型と表現されたりしている。実は右側の二つの突出部には柱穴があるのだが、左側の二つには柱穴跡は全く確認できない。それなのに復元された北内郭は4か所すべてに建物を復元している。柱穴のない2か所はそのまま突出部として、何らかの祭祀に使われた可能性のあるスペース、といった説明板だけあればよかったのではなかろうか。

⑷南内郭は4か所復元され同時に建物があったように見えるが、時期が異なるようだ。
 西側の2か所は弥生時代後期前半から中頃。東側の2か所は後期後半から終末期のもののようで、前半の物見櫓がいつまで存在したかわかりにくいのだが、東側の2か所は前半にはなかったものだから、同時に4か所存在してはいないということになる。この点でも物見櫓とすることに疑問符がつくのではないか。

⑸研究者からの批判
 物見櫓だけでなくよく見ると他の建物なども疑問の多い復元がされているようです。森浩一は旧石器の捏造事件とからめて、吉野ヶ里遺跡の復元を批判されています。「巨大な見世物的施設をつくることがはやっているが、復元された建物が確かに弥生時代にあったといえるのか、ぼくには答えられません。………(以前は)史跡はできる限り手を加えないで、自然のまま残すということに徹していた。宮崎県の西都原古墳群にいけばわかりますが、博物館は谷間の目立たないところに建てている。だからあそこでは古墳時代の雰囲気に浸ることができる。それが原則だったのです。………ところが日本が不況に落ち込んだころから、お金をつぎ込んで学問的に確かな根拠に基づいているとはいえない見世物的な施設をどんどんつくるように変わってしまった。」
 他にも厳しい意見はある。青谷上寺地遺跡の「楼観」復元にたずさわった鳥取環境大学教授浅川滋男は、漢代と弥生時代に同時代性があるので、漢代の高層建築の構造を弥生集落の大型建物復元の参考にしようとする傾向を疑問とされ、中国の「台」状の構造物とその上に2階、3階の建築物というのは弥生時代には存在しないとされている。西日本を訪れた漢代~三国時代の中国人は、一定の類似性のある構造物を見て、「これは、まぁ、中国でいうところの『楼観』やな」というような判断ではなかったかと述べておられる。妥当な見解ではなかろうか。中国の建築物と同じようなものを想定するには弥生時代では無理ということであり、それはもう少し後の時代になってからということだ。七田氏は自著で中国の城塞の例を出して北内郭の突出部などとの対比もしておられるが、とても同様のものとは見えないのだが。

【3】はじめに物見櫓ありき
 では何故こういった復元がすすめられたのか。発掘調査リーダーの七田忠昭氏は建設工事開始日がせまるなか、なんとか遺跡保存できないか働きかけをされるが、その時の経過を次のように紹介されている。
 2月12日(平成元年)天理大学の金関恕氏は畿内の学者に電話される。「吉野ヶ里はすごい、早く見に行きなさい。」「濠が二重になっていて、濠の張り出し部分には物見櫓の跡がある、あんなすばらしい遺跡を壊しては申し訳ない。できたら保存の方向にもっていくべきではないか。」
そのあと金関恕氏は樋口隆康氏(橿考研)福永光司氏(東大教授)とともに訪れた。  
七田忠昭氏は佐原真氏に電話すると、「吉野ヶ里のことは聞いている。2月21日中には行ける。」
 佐原氏は、マスコミ取材に、魏志倭人伝記述と吉野ヶ里を結び付けての説明、ビッグニュースとなる。
 3月6日 大阪大学の都出比呂志氏は「吉野ヶ里は当時としては世界的にも類例が少ない大規模な環濠をもつ城塞集落であり、邪馬台国による国家統合直前の倭国大乱時代のクニのひとつ。」
 以上のやり取りと地元の熱心な運動の成果で工事中止と保存のための継続調査となったのだが、物見櫓は佐原氏が最初ではないようで、他の大先生によってもう(直接見る前から?)決まっていたようだ。また吉野ヶ里の意義については邪馬台国と直接結びつけた見解ではないことはわかる。しかしマスコミは邪馬台国出現かのような大騒ぎとなりました。これについて佐原氏は後に次のように語っています。「私は一度も吉野ヶ里が邪馬台国だとは言っていないんです。ただ魏志倭人伝に書かれていた楼観と城柵の二つが同時に出てきたのは初めてで、素晴らしい遺跡だと述べただけなんです。それをマスコミの方たちが『卑弥呼が住んでいた集落とそっくり同じものが見つかった』と邪馬台国と結びつけて紹介してくれたわけです。それで大騒ぎになってしまったわけです。でもうまく誤解してくれました。」(NHK プロジェクトX 13)
 以上のように、話がどんどん大きくなって進んでいったのであろう。

 

参考文献
佐賀県教育員会 「吉野ヶ里 本文編」 平成6年
細川金也  「吉野ヶ里遺跡の衣食住」 歴史読本 2013.12
森浩一 「魂を失う考古学界『旧石器捏造事件』」2002論座 朝日新聞
七田忠昭 「吉野ヶ里遺跡 復元された弥生集落」日本の遺跡2  同成社
七田忠昭 「吉野ヶ里遺跡 シリーズ遺跡を学ぶ」2017 新泉社
七田忠昭 「佐賀平野における弥生文化の生成・発展と東アジア」 『佐賀学』 花乱社
浅川滋男 「『楼観』再考 - 青谷上寺地のながい柱材をめぐって」 鳥取県埋蔵文化財センター
小笠原好彦 「弥生集落と史跡整備(総論)」 明日への文化財2018年1月

ソグド人について

ソグド人とは?

以下は、各文献からの抜粋、メモです。

『シルクロード世界史』 森安孝夫 講談社2020
・胡 漢字で蘇理 インドの悉曇文字(ブラーフミー文字)でSuli(スリー) 玄奘の伝える穿利や義浄の伝える速利と語源を同じくしてソグドを意味する。
・印欧語族のイラン語派に属するソグド語を話し、現在のウズベキスタンを中心にタジキスタンにまたがる旧ソグディアナを故郷とする農耕都市民。  特に紀元後の一千年紀の中央から東部ユーラシアで国際商人・軍人・政治家・外交官・聖職者・芸能人などとして大活躍したが、1200年頃までには、ペルシャ語やトルコ語を話す人々の集団に飲み込まれるようにして史上から消えていった。
・新羅、渤海国にもソグド人 黒貂(クロテン)高級毛皮をソグド商人は扱った。
 826年渤海使を迎えた右大臣藤原緒嗣(おつぐ)は渤海使のことを評して「実は是れ商旅」と断じている。

『岩波講座 世界歴史6』 岩波書店 2022
・ソグド商人は、彼らのコロニーに居住する商人で広くても数百キロほどの範囲。
・ソグド人の東方進出 仏教の東伝と期を同じくする。盛んに取り扱ったのが沈香、白檀、丁香。
・6世紀以降、中国内地に移住集落を設置していたが、7世紀には多くの居住ソグド人が仏教に改宗したという。

『ゆーろ・ならじあQ』森安 孝夫 奈良県立大学ユーラシア研究センター事務局編 2022
・胡姫はペルシャ人でなくソグド人の女性 
 胡椒・胡琴・胡紛・胡坐  草原の道沿いにいた遊牧民が仲介
 胡瓜・胡麻・胡桃     農業盛んなオアシスの道に沿って伝来
 元来は、遊牧民を指した胡が、徐々に西域の農耕都市民を中心とする異民族を指すようになる。
 薩宝、以前は薩保(さつほ) キャラバンのリーダー 胡王とも呼ばれた。

『草原の制覇 中国の歴史3』古松崇志 岩波新書2020
・中国にやって来たソグド人は、北朝時代の5世紀後半以降、中国の風習にあわせて出身地別に既存の漢語の姓を選んで名乗るようになった。ブハラ出身ならば安、キッシュ出身は史、サマルカンドは康、タシュケントは石、ソグド姓という。
・ソグド人はみずからの言語を維持しつつ、必要に応じて複数の言語を話すポリグロッド。ゾロアスター教、マニ教、イラン起源の宗教、仏教も。

『ゾロアストリアニズムと奈良』 奈良県立大学ユーラシア研究センター編著 2022
・奈良におけるゾロアスター教。1~3世紀中央アジアからインド北部にかけて、イラン系のクシャン王朝が興り、2世紀半ばのカニシカ王(1世)の時代に最盛期を迎える。その頃使われたコイン多数発見。その中に、表側にオルターを持った王、裏側に様々な神格が描かれたものがある。同じ意匠が法隆寺四天王立像の「多聞天」で、コインに彫られた王と同じように、右手に火の燃えさかったオルターに似た「宝塔」、左手に長い棒の戟(げき)を持っています。
・イラン文化渡来説
 ①法隆寺白檀香木112号・113号(761年伝来)
 ②正倉院、グラスのサーサーン王朝風
 ③東大寺宗教儀礼におけるゾロアスター教的要素  修二会(お水取り)盂蘭盆会
 ④當麻寺のソグド風増長天立像
 ⑤唐招提寺の薬師如来像の左手に埋められた貨幣
 ⑥群馬県内多胡碑 胡、羊
 ⑦万葉集 イラン語詞 巻2の160 持統天皇の和歌の引用 面智男雲(面知日男雲)
  その他 唐代に噴水施設はない。(飛鳥の石造)トカラ人が伝えた。

・(青木健「唐風文化から汎ユーラシア文化へ」) 20世紀後半から、東洋史研究によって「発信源」と見られた隋・唐帝国の文化それ自体が、鮮卑文化・トッケツ文化・ソグド文化・ペルシャ文化・漢文化・仏教文化の混合体で極めて汎ユーラシア的な性格を帯びていたことが明らかになってきています。

『シルクロード 流沙に消えた西域三十六か国』中村清次 新潮社 2021
・わし鼻で深い目、鬚が多いとされるイラン系のソグド人。
・ソグド成功の秘密は、1.シルクロード沿いにコロニー、植民集落を建設。  2.突厥やウイグルなどの遊牧騎馬民族の中に入り込んで、彼らを背後で操ったこと。
 ソグドのキャラバンは、ソグド人の植民集落へ中継方式。

風土記の荒ぶる神が人の半分を生かす意味 半熟卵と半殺し

⑴半分の人を殺す神
 風土記の中には、通行人を半分殺す出雲大神や荒ぶる神が登場する。恐れた人々が神を祀ることでおさまる話だが、類似の内容をもつものが以下のように九カ所ほど存在する。注釈に「荒神が旅人の半数を殺す伝承は各地にあった。」とある。また『古代風土記の辞典』(六一書房)には「この生かされた半数は、荒ぶる神の恐ろしさを他者へと伝えるためにあえて生かされたと解釈できる」との説明だが、これでは複数、例えば二人一緒に通行して、殺されなかった一人は逃げかえった先でその惨状を語らなくてはならないわけだが、そういった話はない。
 荒ぶる神が人間を半分だけ殺すという一節は、どうも私には納得しがたいものなのだ。他にも「往来する人の半分は通行することができ、半分が命を落とす・・・ これは通行の安全を保障すると同時に侵入者を許さないという両面的なこの神の性格を示すものと言える。」(橋本雅之『風土記』2016)さて、このような解釈は成り立つのだろうか。
 以下、小学館の『風土記』の原文と現代語訳を列記する。

①播磨国風土記揖保郡 意(お)此(し)川 出雲御蔭大神 坐於枚方里神尾山 毎遮行人半死(半)生
 いつも旅人の道を遮り通る人の半数を殺し半数を殺さないで通した。
② 同  佐比岡 出雲之大神 在於神尾山 此神 出雲国人経過此処者 十人之中留五人 五人之中留三人
 出雲の国の人でここを通り過ぎる者の、十人のうち五人を引き留め、五人のうち三人を引き留めて殺した。
③ 同 神前郡 生野  此処在荒神 半殺往来之人 由此号生野
 昔此処に荒ぶる神在りて 往来の人を半数殺した。これによって死に野と名付けた。
④肥前国風土記基肆郡 姫社(ひめこその)郷(さと) 有荒神 行路之人 多(さは)被殺害 半凌半殺
 通行する人がたくさん殺され、半数は助かったが半数は殺された。
⑤ 同    神崎郡 昔者 此郡有荒神 往来之人 多被殺害
 昔、荒々しい神に道を行き来する人がたくさん殺された。
⑥ 同    佐嘉郡 此川上有荒神 往来之人 生半殺半
 この川上に荒々しい振る舞いをする神がいて、その道を行き来する人の、半数は殺さないで半数は殺した。 
⑦逸文 摂津の国 下樋山 昔有大神 化為鷲而下止此山 十人往者 五人去五人留
 大神が鷲の姿になって、この山に居着いた。十人通行したら、五人は通り過ぎ、五人はつかまってしまった。
⑧逸文 筑後の国 昔 此堺上 有麁猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神
 昔、国堺の山の上に荒々しい神がいて、行き来の人の半分は通行できたが半分は命を失う有様であった。死亡する人の数はとても多かった。よって命尽くしの神と呼んだ。
⑨播磨国風土記賀古郡 鴨波(あわわ)里 此里有舟引原 昔神前村有荒神 毎半留行人之舟 於是 往来之舟
 この里に舟引原がある。昔、神前の村に荒れすさんだ悪神いて、通行人の舟を半数妨害して通さなかった。

 以上だが、この中では、特に⑧では半分は生き延びたといいながら、死ぬ人はとても多く、人の命が尽きてしまうような荒々しい神だというのだ。これでは半分が生き延びたという表現とくいちがってるのではないか。
 瀧音能之氏は『風土記と古代の神々』で次のような説明をされている。神には、荒々しい要素の荒(あら)魂(たま)と優しくおとなしい要素の人を守る和魂(にぎたま)という二側面をもっているとし、荒魂によって害をなす性格も祭祀を受けて、和魂によって害を及ぼさなくなると。失礼だがこれでは説明にはなっておらず、ご本人もなぜ半分だけ殺すのか不可解なままのようである。これはそもそも半分だけ殺すという理解が違っているのではないだろうか。

⑵「半分煮る」半熟卵の誤解
 夏目漱石の『三四郎』の文中には、温泉宿での滑稽なやり取りが描かれている。天候悪化で阿蘇への登山を断念したあとに宿に泊まった男が、半熟卵を希望するも、それが理解できなかったようなので「半分煮るんだ」と説明した。すると宿の女中さんが、二つは生卵、あとの二つは完全なゆで卵の四つを持ってきたという、まるで落語の小話のような一節だ。当時としては半熟卵が広く知られておらず、やむをえなかったことだろう。
 古典の「半生半殺」はこの笑い話と同じで、半分の人間だけ殺されたというのではなく、全員が半殺しの目にあった、ということではないのだろうか。すなわち、半は人数の半分ではなく、生死の境目のような状態であり、それを後世の訳者が、女中さんの勘違いと同じように、半分生きて、半分殺されたという解釈をしたのだろう。古代には半殺しという言葉がなかったので「半生半殺」や「生半殺半」としたのが誤解につながったのではなかろうか。
④の肥前国風土記基肆郡の姫社郷では、「半ばは凌ぎ」とある。凌ぐとは苦しい状態を切り抜けることであり、半殺しの理解にあった表現がされているのだ。決して半分だけ無傷で助かったのではない。よってこの個所では全員が半殺しの目にあい、その半分は絶命し、残りは何とかしのぐ事ができたとの解釈が自然なのではないか。
 そして⑤では「たくさん殺された」と不要な説明抜きで語られているのだ。
 ②では十人中五人を引き留めたなどと具体的であるが、これは説話を伝える人、または採録者が本当の意味を理解できなくて半分の人数のことだと考えて余分な説明を付け加えたのではないだろうか。その具体的な半分の数字に引きずられて、現代語訳も「半生半殺」の認識で表現され、現代の解説者も思い込みで半分殺す神の解釈をあれこれと広げていったのではないか。荒魂、和魂の二側面などという迷走の解説も生まれたのではないか。
 同様に⑦の鷲に五人が捕まったのも、本当は全員襲撃されたが半分は命からがら逃げることができたというのではないか。⑨も舟は妨害行為を受けたが、半分はかろうじて通ることができたということではないか。
 すなわち、全員が半殺しの目にあい、その結果、死ぬ物もいたが、なんとか助かった物もいた、ということではなかろうか。 

⑶荒ぶる神の残虐性
 世にも恐ろしい荒ぶる神は、その道を通る人々をみんな半殺しにするのだ。半分生かす、というのでは荒ぶる神の獰猛な性格を表すことにならないのではないか。命にかかわるような苦しみを受け、あるものは苦しみながら絶命し、助かる者も長らく苦痛を味わうことになる神の行為に人々は恐怖するのだ。人々は必死に祀ることで神の所業を鎮めようとするのだ。神は人間にとって良いことばかりしてくれるのではないのだ。半分の人間には何も害がないと古代人は思わなかったであろう。かって、伝染病のために全員が苦しみ、何とか半分は生き残ることができたという体験などがあったのかもしれない。
 現代において「半生半殺」は半殺しと同義であり、古代人がどう読んだか不明だが、「半生半殺」を半殺しと同じ意味の言葉として使っていたのだろう。

 以上のように考えると、荒ぶる神の殺害行為の意味をうまく理解できるのではないか。半熟卵を知らなかった宿の女中さんの勘違いと、古典の専門家の解釈とを同列にみるようで大変失礼ではあるが。ただこのような解釈に納得できない人もいるだろう。「あなたの解釈には、半信半疑だ」と。おあとがよろしいようで。

島根県太田市五十猛町のグロは遊牧民の穹廬

グロについてくわしくは上記のサイトへ。

 毎年正月に町民の協力で海岸沿いに仮屋を作る新年の伝統行事で、以前は近くの沿岸に同様のものがいくつもあったそうだが、現在はこの一カ所だけのようだ。
 このグロはモンゴルなどに見られる遊牧民の天幕(ゲル・パオ)と関係しているのではないかと考えている。
 同じ海岸沿いに韓神新羅神社があり、来訪神スサノオとの関係が窺える。書紀ではスサノオの子は五十猛(イタケル)で、いっしょに新羅から出雲国にやってきている。なお五十猛神はイタケルの神と読まれているが、五十猛町がイソタケであり、イソタケノの神であったかもしれない。その妹に大屋津姫、抓津姫がいる。近隣に大屋という地名があり、ツマも浜田市に津磨町、隠岐島に都万がある。神と考えられた実際の移住民の話が語り伝えられたのであろう。
 
 現地の人が「ぐろ」と呼んでいるのは、どうしてであろうか。グロという名の由来は不明だが、新唐書に突厥の巫女が祈ったところが穹廬(きゅうろ)で関係すると考えられる。これを「くろ」と発音され、それが濁って「ぐろ」と言うようになったのかもしれない。中国の漢籍(中国の漢文で書かれた書物)にはこの穹廬は遊牧民のテントの意味で多数出現する。日本海の海岸沿いに到来した大陸からの移住民が、こういったテントを張って、居住をはじめたのではないか。痕跡の残りにくいものなので検出しにくいテントだが、古代に多くあったのではないかと想像している。
 

邪馬台国、魏志倭人伝の陸(おか)で待つ持衰と船に乗る持衰 

船に乗らない持衰
 魏志倭人伝には船の安全のために喪に服す持衰について記されている。ただこの人物を船に同乗させるのか、否かで見解は分かれている。原文の「恒使一人」のところの解釈が異なる。
其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰 
 同乗説では、「使」を渡海する使者のことで、その中の一人が持衰だとされる。しかし「使」は岩波文庫版では「恒に一人をして ~~喪人の如くせしむ」としており、同じ船に乗せているとは記されていない。持衰が出発から帰着まで一緒にいたとは考えにくいのだ。それは次の記述からも考えられる。持衰は髪をとかずに、シラミもわいている。そんな不潔な人物と狭い船の中で一緒に過ごすのは耐えられないのではないか。さらに婦人を近づけないとあるのだが、そもそも船に女性が乗っているならば、近づいたままになるではないか。これは、陸上にいて、道行く女性に目もくれずに喪にふすということであろう。肉を食べないというのも妙な気がする。長い船旅の中で、肉料理などあったのだろうか。猪肉の燻製なら常温で持つかもしれないが。女性も肉料理も、陸上で生活しているからこそ、我慢しなければならない約束事になるのではないか。さらにはもし遭難に合えば殺すというのだが、同じ船に乗っていたらいっしょに命を失うのだ。以上から、魏志倭人伝にある持衰は船には乗らず、帰るまでじっと喪に服す人としたい。
 持衰という言葉は、中国の漢籍にはなく日本独自のものとする説が一般的だ。岩波文庫版の解説には「他人の喪を引き受けたこと」とあるのだが。渡辺義浩の『漢帝国』の中の服喪についての記事の「『儀礼』喪服篇」では、斬衰(ざんさい)が父・天子などが亡くなった場合に三年の喪に服すで、斉衰(しさい)は父の没後の母の場合に三年の喪に服す、」とのことだ。持衰の場合は、衰弱した状態で喪に服す、といった倭製の熟語であろうか。持は特定の期間ではなく、船の往復の期間中にずっと喪を維持するという解釈もできるであろうか。いずれにしても適当な思い付きでしかないが。ただ、魏志倭人伝の記事は日本の中でも特定の時期の特定の地域の話であって、その範囲外のところでは同船させる喪人、シャーマンなども存在した可能性はあると思われる。

同乗したかもしれない持衰
 魏志倭人伝にいう持衰は、その文面からして陸上で待機したと考えるが、その他の地域や国では、同乗する持衰もいたのであろう。古墳時代の土器や墓室壁画に船が描かれているものがあるが、その中には、他の乗船者と様子の違う表現、さらには頭髪がはねたような人物が見受けられる。シラミがついていたかどうかはわからないが、喪に服したようにじっと船の安全を祈る人物を表現したのかもしれない。また大陸からの難を避けて乗船した移住民は片道切符であり、持衰と同様の役割の人物を同船させていたのではないか。それが、壁画に描かれたと考える。
 時代が下がるが、遣唐船においても特定の仏僧に安全祈願をさせていたこともある。はるか古代から船の安全を祈る儀式などが行われ、その後の持衰の登場にもつながったのではないか。
 こういったことがあって船を扱う人々のあいだで、この慣例が変容しながら受け継がれ、現在にも残っているのだろう。丸木舟を制作して初めて水に浮かべるときにも、まずは儀式があったのであり、それが次の一例のように続いていたのではないか。
 
『じんおろし』  (「自然の神と環境民俗学」鳥越晧之 岩田書院) より
「新しく作った船をジン(船の下に敷いてある丸木をジンキという)からおろして海に出す。まず金山様(鉄の神――道具を使って作ったから)を拝む。いよいよ海に下ろすときに、盛装し化粧をした七歳の女の子を一人船に乗せる。特殊な存在、神として乗せるも特別に仰々しく対応してはいない。沖に出て三回回転する。もどって社にあいさつをする。
 牛を手放す場合も飼い主が牛を曳いて神社本殿を左に三回まわらせる民俗事例があるが、古代人にとって事の始まりも終わりも三回まわることに重要な意味をもたせていたのだろう。あくまで想像だが古代においても完成させた船の処女航海の儀式のようなものとしてシャーマンを乗せて湾内を三回まわるなどということもあったかもしれない。」

 上記の少女を乗せる民俗事例の淵源として、古代の持衰に女性がなった可能性も考えられる。古事記の景行記にはヤマトタケルの船が、荒海で進めなくなった際に、オトタチバナヒメが自ら海中に身を沈めると、波はおさまり進むことができたとある。彼女が持衰の役割を果たしたという話になるのかもしれない。