流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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 先にヤマトタケルがイヅモタケルの刀をすり替えてだまし討ちを行う説話を取り上げた。そこでは、字の文にたいして挿入された歌は、意味が違っていたのであり、別物の歌が説話に転用されたと考えられる。このような例は神武天皇記の歌にもあって、奈良県の宇陀の地で罠に鯨がかかったという奇妙な歌詞があり、これも転用である。
 そして、ミヤズヒメの歌の場合も、景行天皇の時代の説話であるかのように理解されているが、これも後の時代の歌であると考えられる。それは、おすいの裾で説明したように、天武期に規定された裾付き礼服を着用する人物の時代である。つまり天武の時代の前後に、朝廷に参列しうる皇女のことである。
 するとヤマトタケルも同様に天武の時代の頃の皇子と考えられる。では、具体的にどのような人物と想定できるであろうか。
 
【1】「高光る日」と「高照らす日」の皇子
 
 この御子(皇子)に対して「高光る日の」あるいは「高照らす日の」と歌う句を持つ万葉歌が、10首ほどある。
45番歌 柿本人麻呂が歌った「やすみししわご大君高照らす日の御子」は軽皇子(文武天皇)。
167番歌 柿本人麻呂が日並皇子(ひなみしのみこ)を「高照らす日の御子(高照日之皇子)」と歌っている。
171番歌 舎人(とねり)の歌として「高光るわが日の御子(高光我日皇子)」とある。日並皇子の宮殿を歌っているとされる。
173番歌 舎人(とねり)の歌として「高光るわが日の御子(高光吾日皇子)」とある。こちらも日並皇子の宮殿を歌っているという。
162番歌 「高照らす日の御子」とあるが、持統が天武のことを歌ったもので対象外とする。
204番歌 置始東人 ( おきそめのあづまひと)の歌に「やすみししわご大君高光る日の御子(安見知之吾王高光日之皇子)とあり、題詞に弓削皇子薨去の際の歌とある。
239番歌 柿本人麻呂は長皇子を「やすみししわご大王高光るわが日の御子(八隅知之吾大王高光吾日乃皇子)」とする。
261番歌 柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子「やすみししわご大王高輝らす日の御子」
3234番歌 「やすみししわご大君高照らす日の御子」と歌われているが作者未詳。
50番歌 藤原宮之役民作歌として「やすみししわご大君高照らす日の御子(八隅知之吾大王高照日乃皇子)」とあるが、皇子の名前は不明。
52番歌 こちらも藤原宮の歌であり、「やすみししわご大君高照らす日の御子」とあるが、作者不明。

 なお「大君」については、天皇だけではなく皇子も意味するものであると考えられている。『古事記』のミヤズヒメは、「多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美(高光る日の神の御子よ、わが大君よ)とうたっていることからも、大君が皇子を歌っていると考えてよいと思われる。
 そうすると、「高光る」「高照らす」と歌われた皇子は、軽皇子、日並皇子、弓削皇子、長皇子、新田部皇子、作者不詳となる。名前がわかるのは、みな天武天皇の皇子ということである。では、残りの作者不詳はどうか。同じ天武の子で壬申の乱で活躍した高市皇子は対象とならないであろうか。
 
 日本書紀の持統紀4年に「高市皇子觀藤原宮地」とある。高市皇子は持統紀6年に完成した藤原宮の工事途中に視察に訪れている。ならば、50番歌の藤原宮建設中の作業者が歌う日の御子は、高市皇子も対象となろう。これについては早くに指摘しておられる方がいる。

【2】末田重幸、松本清張らの指摘

 万葉歌50,52番歌は人麻呂の作歌として間違いなく、この二篇「藤原宮之役民作歌」「藤原宮御井歌」は、太政大臣高市皇子へ献歌したものとなる(末田1977『柿本人麻呂と高市皇子』)。
 末田重幸氏は元来、この二作品が高市皇子への献歌であることを指摘した評者を寡聞にして知らない、とされている。

 松本清張は、『清張通史5(壬申の乱)』において、当時の宮廷は、持統天皇による高市皇子暗殺は公然の秘密ではあるまいか。日並皇子(草壁皇子)の殯の宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の長歌167番に付した反歌二首(168・169)は、高市皇子の殯宮の時につくられたものだとしている。明言はしておられないようだが、167番歌そのものの対象を日並皇子とすることを積極的に肯定はされていないようだ。

 169番歌はその本文に「或る本に、件の歌を以ちて後皇子尊の殯宮の時の歌の反と為せり」との付注があることからも、高市皇子への反歌であることも想定できる。

 さらにさきほどの末田重幸氏は、さらに興味深い指摘をしておられる。
3324番 「かけまくもあやに恐し藤原の都」の出だしから、少し後に「いつしかも日足らしまして望月のたたはしけむと我が思へる皇子の命」(挽歌 作者未詳)
 上記の歌で、人麻呂はその皇子がやがて皇位に登る日が近いことを確信していた、とされる。

 以上のことから、作者不詳の日の御子は高市皇子も含まれることがわかる。

 さらに、高市皇子の死を、病死や偶発的なものではなく、周到な戦略にのせられた計画的な犯行によるものであることを推測させるという『日本書紀』の記事を高市皇子薨去の翌月のものから挙げておられる。
 持統十年七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
八月庚午朔甲午、以直廣壹授多臣品治、幷賜物、褒美元從之功與堅守關事。
九月庚子朔甲寅、以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬、幷賜賻物、以顯元從之功。
 8月は品治(ほむじ)が関を守ったことに対する褒賞記事だが、壬申の乱での不破関での功労については、天武期に褒賞されているので、別の功労に対するものとする。それは、高市皇子殺害の報が伝わると、東国で挙兵する集団に対してその進攻を関にて阻止したことを意味するのではないかと。
 同じように、9月の五百瀬(いほせ)も協力したことに対する褒賞とされた。興味深いアイデアと思われる。
 
【3】ミヤズヒメが歌った「高光る日の御子」とは?
  
 さて、この中で誰が『古事記』の日の御子の候補となるであろうか。万葉歌には関係しそうな歌があった。
 それは急逝した十市皇女(とおちのひめみこ)のために高市皇子が歌った156番の挽歌であった。

みもろの神の神杉夢のみに見えつつ共に寝ねぬ夜ぞ多き
三輪の神々しい神杉のようなあなた。夢ばかりに見えながら共寝できない夜が多いことよ。

 高市皇子は、夢に見るだけでいっしょに夜を過ごせないことを嘆くような歌をしたためたのである。   

 十市皇女は壬申の乱で戦った相手である大友皇子の正妻であり、さらに高市皇子は彼女の異母弟にあたるという微妙な関係であったが、二人に恋愛感情があったのは否定できないであろう。
 次は『古事記』のヤマトタケルの歌である。

比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理
ひさかたの、天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、か弱く細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、(鳥の)ツキが出てしまったことよ。

 ヤマトタケルは、ミヤズヒメの細くてしなやかな腕を枕にして寝たいと思うのに、月日が経ってしまったと嘆くように歌っている。思うばかりで実際には会えないことを歌にしたという点で連動しているのではなかろうか。
 そうであるならば、『古事記』の歌の男性は高市皇子のことと考えてよいのではなかろうか。ならばミヤズヒメに当る女性は、天武期に規定された裾付きの礼服を着用した皇女の十市皇女となるであろう。譚に歌の雰囲気が似ているといった程度の、たいへん心もとない思い付きではあるが。
 万葉歌には亡くなった十市皇女を悲しむ高市皇子の歌しかないのであったが、このように考えると、古事記には生前の十市皇女と高市皇子が愛を交わす問答歌(相聞歌)があったということになるのだが、どうであろうか。そうであれば、『古事記』の歌には、後の時代のものが転用されていることを示す事例となるのであった。

参考文献
末田重幸1977『柿本人麻呂と高市皇子』講談社
松本清張1979『清張通史5(壬申の乱)』講談社文庫

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         飛翔するトキ 美しい色の翼に注目! 
      出典HP「パルシステム」(【3/19オンライン企画】『トキを育むお米』)

 前半で、『古事記』のミヤズヒメのおすいの裾とは、天武期の礼服の規定にあるものと指摘した。そして、「月経」は時間の経過を意味していた。では、ヤマトタケルは、どうして衣の裾を見て月(時間)が経ったと思ったのであろうか。

4.ツキは鳥のトキ(朱鷺)のことだった

 先に例で挙げているように、このヤマトタケルに関する説話には、鳥の名前がいくつもはめ込まれているのである。そしてこの場面の「月」や「都紀」とされている「ツキ」は朱鷺(トキ)のことなのだと多ケ谷氏はいう。  
 平安時代以降には「豆支」、または「豆木」(『和名抄』)と表記され、読みはツキであった。日本書紀では陵墓の地名に「桃花鳥」とあり「ツキ」の読みがあてられている。
すなわち意須比之襴にあったのは、鳥のツキ(トキ)の図柄であった。古事記現代語訳に見られる「月の障り」のことではないのである。ここにも言葉遊びが含まれているのであって、そうであるならば次のように理解できる。
 ヤマトタケルはミヤズヒメの衣に描かれたツキ(朱鷺)を見て、時間を意味する月(ツキ)が経過してしまったことに気がついた、あまりに長く待たせたことを申し訳なく思ったと理解できるのではないか。ミヤズヒメの方は、同じように衣の図の朱鷺を時間の経過とみて、とても長い間、あなたを待ち焦がれていましたとの返答をする歌であったのではないか。
 よって、「月経」というのは現代の熟語を意味するものではないのである。ちなみに、「月経」という熟語は16世紀末の『本草綱目』が初見のようである。『古事記』の「月経」はあくまで時間の経過を表しているのである。
 これを、鳥のツキ(トキ)と掛けたことにこの歌謡の醍醐味があったのだ。

 しかしまだ気がかりなところがある。ヤマトタケルは、古代の衣の裾を見て鳥のトキだと判断しえたのであろうかと。

5.ヤマトタケルが衣の裾に見たものはトキの図柄ではなく、色のことだった

 『古事記』の月や都紀を鳥のツキ(トキ)とした場合に、少し気になることがあった。それは、当時の衣の裾の部分に、鳥のトキとわかる図柄が、はたして刺繍などで描かれていたのであろうかと。この点について、鳥そのものではなく、顔などに見られる赤色のことではないか、とのご意見を伺った。トキの漢字が朱鷺で「朱」とあるように、確かにトキの顔は赤い。しかし、雉など他の鳥にも赤色が見られるものがある。さらに鶏は鶏冠が赤い。しかも毎朝欠かさず時を告げてくれる鳥である。するとどうも赤色ではなさそうだ。
 色の名前には、花は当然であるが、動物も特定の色を表現するものとして使われることがある。うぐいす色や燕脂(えんじ)色、聞きなれないが山鳩色もある。そして、朱鷺(鴇)色もあった。
 朱鷺色というのは、漢字に朱があるので、てっきり顔の赤いところを思い浮かべるのだが、実はそうではなく、赤色ではなく淡い桃色のことであった。トキが翼を広げた羽には、見事な色彩が見て取れる。淡紅色とも言われる淡い桃色なのであった。
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            出典HP「新潟県庁」(トキ)
 
 これが朱鷺色といわれるようになったのは江戸時代のこととされている。古代にはトキはツキであった。すると古代では「ツキ」色と呼ばれていたのであろうか。それが『日本書紀』にあった。
 
 天智六年 耽羅遣佐平椽磨等貢獻 
 現在の済州島と考えられる|耽羅《たんら》からの使者の来朝記事がある。さらにその使者への下賜品が具体的に記載されている。
 錦十四匹・纈十九匹・緋廿四匹・紺布廿四端・桃染布五十八端・斧廿六・釤六十四・刀子六十二枚
返礼として けっこう手厚い対応をしている。
 その中の「桃染布」には、「つきそめぬの」との読みが付されているのである。「桃」を「ツキ」と呼んでいたのであり、なんと桃色に染めた布が7世紀にあったのだ。

 さらに万葉集にも同じ表現があった。
2970番 桃花褐浅等乃衣浅尒念而妹尒将相物香裳
(訓み)つきそめのあさらのころもあさらかにおもひていもにあはむものかも
(現代語訳)桃花褐に浅く染めた衣のように、心浅く思って妻に逢うことが、どうしてあろう。

 作者は未詳というのが残念だが、ここでは「桃花褐」との文字で「つきそめ」の衣が歌われているのであった。
 現物の衣は残っていないが、着物に桃色が使われた可能性のある壁画がある。

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        関西大学博物館 高松塚古墳壁画再現展示室
 
 高松塚古墳壁画の女性たちが着用する衣の色はカラフルだが、その西女子群像の着物の色を、緑、黄、紺、朱などとともに桃色と説明している。
 
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        宮廷人の衣装 大阪府立近つ飛鳥博物館
 
 ただ、上図の写真のように女性の衣が薄い桃色で、こちらの方が朱鷺色に近いのではないかと思われる。

 古代ではトキのことはツキと呼ばれ、漢字に豆木、豆枝があてられ、さらには桃花鳥と書いて「ツキ」とする事例が日本書紀や万葉集にあった。羽が桃の花のような色をしていたから、この漢字があてられたことになる。そして後には淡い桃色を「朱鷺色」というようになったのである。
 朱鷺との漢字表記から、てっきり朱の赤色と思ってしまったが、実は鳥のトキは桃色というイメージが古代からあったのである。翼を広げて飛ぶ姿の羽の色の美しさに古代人は注目していたのだ。
 よって、ヤマトタケルはミヤズヒメのおすいの裾の淡い桃色を見て、鳥のツキ(トキ)の色であると判断し、そこから時間を連想して歌に仕上げたということになる。けっして血の色を見たわけではなかったのだ。
 これで、多ケ谷有子氏の月を朱鷺のこととされた解釈に対して、より現実的な説明が可能となったと考える。
 
 それにしても末尾に記載したが、なぜ古事記の現代語訳は、揃いも揃って「月の障り」といった解釈をつけて説明しているのであろうか。
 男性の学者はその方が話としては面白いと考えてしまったのか。本居宣長も月経説を否定していたようだが、そういった先学者の指摘があったにも関わらず、女性の月経を物語にしたものだと思い込んだのは、女性心理を理解できないデリカシーの欠けた男性中心の考えによる誤読の結果だとするのは言いすぎであろうか。

 

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        図はChatGPTによって作成

 遠征を終えて尾張国に帰って来たヤマトタケルは、先に再会を約束したミヤズヒメの家に入った。食膳が用意され、ミヤズヒメが酒をすすめた時に、着ていた襲(おすい)の裾に月経(つきのさわり)のものが付いていたのを見て歌をよむ。ミヤズヒメもこれに答えて歌をよむ。そして一夜をすごした朝にヤマトタケルは剣を置いて伊吹山の神の討伐に向かうという『古事記』の逸話である。
 この説話により、女性民俗学者からも「月経という語が見られる早い例」として取り上げられることも多く、一般の解説でも、女性の衣に経血が付いていたと理解されているのである。
 しかし、これは誤解であったことを、古事記の文章に見られる特徴などから説明していく。なお該当の原文と現代語訳は末尾に掲載させていただいた。
 

1.「月経」は誤解されていた

 古田武彦氏は、『古代史の十字路』で、このヤマトタケルとミヤズヒメの説話にある「月経」について、本居宣長の『古事記伝』も援用しながら、これは別の意味があると説明されている。
 「月立たなむ」とは、十一月から十二月になるというように、次の月になること、新しい月が立つこと。同時に、港の要害の意味の「津城」(つき)とし、(あなたが)港を去って行くことを、かけているという。つまり男のほうが、もうここを、去らなければならない。そう言ったのに対して、女のほうが、もっとあなたに居て欲しい、次の月になっても、もっとあなたに居て欲しいと嘆願している歌だと解釈された。
 そしてこの一節は「地の文」(「月経」文)と「問答歌(「非月経」歌)との接合をはかろうとしたものと捉えられ、地の文は、現代の「月経」を意味すると解釈された。
 だがこれには疑問があった。
 後半の地の文では二人は「御合」したと書かれている。次田真幸等の現代語訳では「結婚した」とややぼかした表現になっているが、これは男女の営みとするのがよいのではなかろうか。すると、問答歌と同じように、字の文の述作者も月経ではないことを想定していたと考えられる。これに関連して、日本書紀景行紀四十年是歳の、ヤマトタケルがミヤスヒメを娶ったという記事に次のようにある。

日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月
淹(ひさ)しく留(とどま)りて月を淹留踰月(へ)ぬ

 日本書紀は、二人が結婚してからの記事としているが、この「月を踰ぬ」が古事記の「月を経(へ)」と同じ意味なのではないだろうか。つまり、長い時間が経過したことを意味していると考えられる。
 さらに問題がある。
 字の文の「其於意須比之襴著月經」、歌の「意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理」とあるように、意須比之襴(おすひのすそ)についての説明が必要と思われる。都紀を津城としても、「意須比能須蘇」との関連が不明なのである。これは、「月」と「都紀」に別の意味があるとした方がよいのではないか。

 では二人とも衣の裾に何を見たのであろうか。その何かがどうして「月を経る」と結びつくのであろうか。これを外国文学と日本の古典との関係を説く多ケ谷有子氏による納得のいく解説があった。

2.言葉遊びや洒落で作られた物語
 
 多ケ谷有子氏は、江戸後期の国学者橘守部の『稜威言別』における月経を否定する見解を踏まえて、古事記に見られる言葉遊びなどの視点から、この月経について興味深い解釈をされている。
 そこで先に、「言葉遊び」の事例をいくつか見ていきたい。
 
 垂仁記のホムチワケの一節は、口がきけなかったホムチワケが鵠(くぐい・白鳥のこと)の鳴き声を聞いて初めてしゃべることができたという逸話だが、このきっかけとなった鳥がなぜ鵠なのかというと、この漢字の偏が告であり、つまり告げるという言葉遊びであった。
 この鳥と関係させる言葉遊びが、ヤマトタケルの説話になるといくつも見られるという。
 ヤマトタケルの元の名は|小碓命《をうすのみこと》であった。兄は大碓命であるが、この碓の字にはある意味が隠されている。この「碓」の偏となる「石」の一画目の「一」を「口」の中に入れると「白」になる。そして「碓」の右側の「隹」は「とり」という字である。ゆえに白鳥となる。最後に白鳥となって飛び立っていくヤマトタケルは、その幼少期の名前に白鳥が暗示されていたのである。
 
 次にヤマトタケルの東国遠征に、|御火焼老人《みひたきのおきな》と歌を交わす一節がある。|吾妻《あづま》の国から甲斐の国まで何日寝泊まりしたのか尋ねると、火をたいていた老人が九夜十日と答えるのである。するとヤマトタケルはこれを褒めて称号を与えたという話なのだが、なぜそれだけのことで老人に称号が与えられるのか疑問である。だがこれも鳥と関係させた言葉遊びなのだという。
 「火焼」の「ひたく」は鳥の名前で漢字では「鶲」で偏が翁であり、これは老人を意味する。つまり、
 火焼 → 鶲 → 火焼翁 → 火焼老人 という言葉遊びであった。
 
 最後に「言葉遊び」ではないが、古事記には歌謡が多く挿入されているが、地の文とは無関係な歌が使われるといった転用がなされている場合がある。その例として、イヅモタケルの謀殺譚がある。ヤマトタケルは、相手の刀をこっそりと刃のない木刀に変えて謀殺したという。そこに歌謡が差し込まれている。
 
「イヅモタケルが腰につけている太刀は、鞘に葛(つづら)をたくさん巻いてあった見かけはりっぱだが、刀身がなくて、ああおかしい。」
 だが、原文は次のようである。
 夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮
 
 この「佐味那志爾阿波禮」(さみなしあわれ)を刀身がなくておかしい、とするのは誤読なのである。
 「佐味那志」は刀身がないということではなく、錆び(佐味)がない刀だと歌っているのである。そして、「あはれ」は「哀れ」ではなく、元来「あっぱれ(天晴れ)」という誉め言葉だという。
 本来は、イヅモタケルの佩く刀は飾りも付けた錆びもない立派な刀だと歌っているのであり、地の文とは様子が違うのである。つまりこれは、『古事記』述作者が、おそらくは引用した歌を誤解して、話の筋に合うと考えて差し込んでしまったということになる。さらには、現代においても、「あわれ」が誤解されたまま、現代語訳として「哀れ」(気の毒)と説明されているのである。
 以上のような点を踏まえて、問題の個所に誤読があったことを説明する。

3. 意須比之襴(おすひのすそ)とは
 
 「意須比之襴」に何かがあって「月を経る」と結びつくことになるのだが、この「意須比之襴」とは何を表しているのであろうか。
 「意須比」はヤチホコ(八千矛)神の妻問いの歌に「淤須比(おすひ)」とあり、頭からすっぽりとかぶるものという説明があるが、それではミヤズヒメが酒を注ぐ場面にふさわしいものではなく、ここでは外套着と考えてよいとする。仁徳記には「波夜夫佐和氣能 美淤須比賀泥」(ハヤブサワケ王の着物のため)とあることからも外套着(外着)で問題ないといえる。
 では「襴」はどう考えればよいであろうか。これについては日本書紀に礼服に関する記事がある。
 天武十三年閏月四月に、朝廷に参集する日は襴(すそつき)の衣を着用するようにと規定している。岩波の注では、「衣服の下部に別のきれでつけるすそで、中国風の服制」とある。
ただ最近では、朝鮮半島の服装をもとにつくられた日本服とも考えられているようだ。
 つまり特別な日のための礼服となる。そうであるならば、ヤマトタケルを食事と酒でもてなす場面に、ミヤズヒメの礼服が経血で汚れている、などということはありえないのである。
 
 では、ヤマトタケルはどうして礼服の襴を見て「月が経る」、すなわち時間が経過した、と思ったのであろうか。「月」と後の歌にある「都紀」の「ツキ」には別の意味が隠れていたのである。 (後半に続く)

 以下に原文と現代語訳を交互に掲載

於是、獻大御食之時、其美夜受比賣、捧大御酒盞以獻。爾美夜受比賣、其於意須比之襴著月經。故見其月經、御歌曰、
 お食膳をさし上げるとき、ミヤズヒメはお杯捧げて|献《たてまつ》った。このとき、ミヤズヒメの着ている|襲《おすい》の裾に月の障りのものがついていた。それで、その月の障りを見て|命《みこと》が御歌に、

比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理
 ひさかたの、天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、か弱く細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、月が出てしまったことよ。

爾美夜受比賣、答御歌曰、
多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 阿良多麻能 都紀波岐閇由久 宇倍那宇倍那宇倍那 岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多多那牟余
 そこでミヤズヒメがこのお歌に答えて、
日の神の御子よ、わが大君よ。年がたってすぎゆけば、月も来て過ぎてゆきます。いかにもいかにも、あなたのおいでを待ちきれなくて、私の着ている襲の裾に月が出てしまったのでしょう。

故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。
そしてご結婚になって、その帯びておられた|草那芸剣《くさなぎのつるぎ》をミヤズヒメのところにとどめて、伊吹山の神を討ち取るためにお出かけになった。


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 覚張隆史 『日本人とは何か 私たちのルーツを巡る700万年の物語』SB新書
 
 近年のゲノム研究の成果によって提唱された「三重構造モデル」を、わかりやすく解説した入門書。
  日本人のルーツが気になる方は、ぜひ本書をお読みいただきたい。  
 
 帯には「日本人の正体」に迫る、「3つの祖先」からできている、「日本人誕生」の新常識、といった謳い文句も誇張ではない。「三重構造モデル」は2021年あたりから言われだしたようだが、これも、古代人のDNA情報の分析が増加した成果による。
三重構造
 上の図は、別の資料(金沢大学HP)のグラフだが、日本人の遺伝子の時代ごとの変遷を示したもの。古墳時代にほぼ現在の日本人と同じゲノムの構造になったという。
 ご覧のように、一人一人の遺伝子は、縄文人の遺伝子に弥生時代の北東アジア祖先のものが加わり、さらには古墳時代に東アジア祖先の「第三の集団」という新たな遺伝子が重なって、現代人と変わらない構成になったのである。
 現代の日本人のゲノムは大きく言って三つの集団の混血で成り立っているのである。そして、この古墳時代に劇的ともいえる大きな変化が起こったのである。いったいこの時代に何があったのかという問題が重要と思われる。
 
 これまでの「縄文系」と「弥生系」という二重構造モデルでは説明できなかったことを、第三の集団の到来で説明されていることが特徴だ。
 この書では、これまであまり触れられることのなかった大陸の草原地帯や牧畜の民、騎馬文化を持つ集団との関係が明らかにされてきたのだ。もちろん、直接列島に入ってきたというよりも、華北から半島を通じての移入が考えられる。
 テレビドラマの「VIVANT」では、テントとも呼ばれるパオ(ゲル)が重要な場面によく登場する。そして、馬やラクダに乗るシーンもある。日本人のはるか遠い祖先にこのような暮らしをする人々がいたのである。これも以前に記事にしているが、島根県では正月の海岸にグロというテントをつくる祭事が残っている。そのグロは中国語で遊牧民のテントを意味する穹廬(きゅうろ)が語源と考えられる。
   
 学べたことなどを少しだけ紹介

・先に、旧人類から新人類の動きが理解しやすいように説明されている。私たちには旧人類のネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子もわずかだが含まれているという。
・ホモ・サピエンスの出現年代は、20万年前から今後の調査結果でさらに更新されていくようだ。
・縄文犬のゲノム解析も進んでいるようで、縄文人の祖先集団の動きと犬の動きがリンクしているというのは、興味深い。
  
・特に注目したのは、縄文人の祖先集団につながる遺伝的特徴を持つ集団はほとんど消滅してしまったが、ネパールに類似のものがあるということだ。前に消えた大陸に縄文人の祖先がいたことを漆を例に説明しているが、海岸線の後退で追いやられた人々の痕跡が、ネパールにあったということになる。

・弥生人もその出自が複数あることも明らかにされた。西遼河地域集団だけではなく、中国の中心地となる黄河流域や周原といった中央平原の集団のゲノムの特徴を持つことがわかってきたという。古墳時代にもこの動きがつながっていくのである。このことからも、古代人のダイナミックな動きが見えてくる。

・長野県飯田市は馬具や馬骨が多数出土する地域。その中の溝口の塚古墳は地域最大級の前方後円墳の人骨のゲノムの特徴。縄文成分と東アジア成文のみ検出。弥生の成分がなく、東アジア系成分と縄文系が直接混血していた可能性。さらにancIBDという手法で血縁関係の近さを推定する方法で、韓国に血族があったことが判明。この男性被葬者と韓国釜山近郊の大成洞古墳群から出土の女性個体との間に、6~7親等程度の血縁関係が存在する可能性があるという。
 これは、加耶の列島との関係を示すものと思われる。騎馬文化などを持つ加耶人が渡来し、縄文系統の女性との婚姻で生まれた子孫が信州方面に進出していることを示すものになりえる。また、加耶人も、大陸の遠方の集団と関係していることも明らかとなる。加耶の王族がローマングラスを所有するようになった道筋の解明にもつながると思われる。

・DNAの断片が同時に存在する。
 現代日本人の一人のゲノムの中に、縄文時代の短い断片、弥生時代の中程度の断片、古墳時代の比較的長い断片が混在している。後続する集団と混合しながら現在まで持続しているということ。

 かねてより、弥生時代の後半から古墳時代、さらには7世紀後半の白鳳時代までに、大陸からの移住の波が、何度もあったと考えてきたものとしては、このゲノム解析の研究がさらに進むことを期待したい。
 それに関連して希望したいのだが、三つ目の集団を古墳時代と限定するのではなく、7世紀末までの人の流入があったことは、説明に加えてほしいと思う。白村江戦後に新羅が半島の統一をすすめる中で、多くの百済人、高句麗人が列島に流入していることは、日本書紀にも明記されている。ただ難しいのは、古墳プラス飛鳥・白鳳時代というのを一言で表す言葉が思い浮かばないが。

 最後に、この「三重構造モデル」を、今の歴史学者、考古学者のみなさんに積極的に受け止めていただくことを望んでいる。騎馬民族説を否定され、一部の渡来人から馬の飼育、技術を学んだ、という理解では、日本人の遺伝子構造を大きく変えた事実を説明できないのではなかろうか。「騎馬民族征服説」では誤解を招くので、私は騎馬遊牧民移住説と考えているが、これはもう避けて通れない問題だとしたい。
 著者は次のように明言する。
 「文化と人の移動は分離できない現象であり、古墳時代の再編は、物質文化と遺伝的構造の双方に痕跡を残した」のである。文化の情報だけが伝播したかのような説明はそろそろ改めてほしいと思う。

 この第三の集団の渡来について、『日本書紀』と『古事記』の記述や、遺跡の遺物などから、関連して説明できる問題などを、今後のところでも取り上げていきたい。

参考
覚張隆史2026『日本人とは何か 私たちのルーツを巡る700万年の物語』SBクリエイティブ株式会社
金沢大学HP『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』
棒グラフの図は 金沢大学HPによる

 
茶臼山古墳
       図は桜井茶臼山古墳の銅鏡の破片 出典橿考研2017図録
 
 銅鐸や鏡がよく破片で出土することがあるが、これは再利用や信仰上の埋納行為と考えられている。しかし、新井宏氏が説明されている経年損傷の一種である応力腐食割れによるものという指摘から、、破鏡といった意図的な破壊といった行為はなかった、という見方がある。しかし、すべてが応力腐食割れによるものとは断定できないと考えられることを説明する。

 
 銅鐸の破片も再利用されていた。

 従来、奈良には「見る銅鐸」がなく、滋賀、東海地域より早くに鏡の祭祀に切り替わったと考えられてきたが、実は奈良地方にも見る銅鐸の破片がどんどん検出されるようになって認識が変わってきている。
 「畿内中心部で「見る銅鐸」の分布が希薄に見えたのは、その最終段階で細片となるような扱いがなされたためであって、本来は畿内地域にかなりの数の「見る銅鐸」が分配されていたと理解するほうが資料の実態に合致しているといえる。つまり、奈良はいち早く銅鐸祭祀が終了した、とはいえないことになる。以前、銅鐸が早くに消滅するのは神武の侵攻によるものといった考えもあったが、実際はそのようなことは言えないのである。
 そして、奈良では祭祀行為の他に、銅鏡などの制作の原料とするために、破砕した可能性もある。
2010年に行われた徳島県立博物館による実験では、復元銅鐸を電気炉を用いて750℃で5分間加熱し、赤熱した状態で金槌で叩くことで容易に破砕できたことが報告されている。
 そうすると・・・この銅鐸の原料は中国からの輸入であったはずで、その銅鐸を原料とした銅鏡にも、中国産の特徴がみられる可能性もある。破片の一部を祭祀用、首飾りにした可能性もある。耳だけ切り取られたものもある。
銅鐸の破壊
            図は徳島県上浦遺跡銅鐸 出典ColBase
 
 ご覧のように、ちょうど絵画が描かれることがある方形の枠内だけを見事に破壊している。目的は定かではないが、意図的な行為であったことは確実である。

 銅鏡は割れた状態で出土することが多いが、平原古墳に見られるように、破砕して埋葬地の片隅に固め置くようなことも見受けられる。これを、信仰上の行為、鏡の祭祀として理解されているが、意図的に破壊されたのではないという否定的意見もあった。
 新井宏氏は、応力腐食割れで鏡に亀裂が入る可能性を指摘している。つまり自然にヒビが入るというのである。しかし、桜井茶臼山古墳に見られるように、粉々にされているものは、応力腐食割れでは説明がつかないであろう。
 
 桜井市茶臼山古墳の検出された銅鏡破片は、103面のうち中国鏡が56面、三角縁神獣鏡26面、国産鏡21面であったという。331点の銅鏡片の多くは天井石上の土砂に含まれていて、石室内に埋め戻された土砂にはごく少量しかなかったという。盗掘者の行為によるものなら、小片が石室内に相当量残るのが自然であるが、1961年の調査報告書によると、石室の両端に若干集中していた程度であった。
「これら破片のなかに周囲に研磨痕が見られるものがあり、それは破片の状態で副葬された破鏡だろう」と今尾文昭氏は指摘している(今尾2009)。
 枚数が103面にものぼるというが、それら全てが小さく破砕されていたという事実は、盗掘者の踏みつぶしということはまず考えにくいのではなかろうか。出土鏡に研磨痕が現実にあるのだとしたら、「意図的な破砕」を示唆するが、魏朝からの下賜鏡をどうして簡単に破砕するのだろうか、という疑問も残るが。
 最初に置かれたものが割れてそのままの状態で検出されたものと、応力腐食割れを起こした鏡片をさらにこまかくして意図的にばら撒いた可能性は残る。それは祭祀行為として破片を特定の場所にばらまいたのであろう。

 また、銅鐸ではその破片を首飾りなどに再利用しているケースがあるが、同様に銅鏡の破片も周囲が磨かれて穿孔がされているものがある。
破鏡
         加工された銅鏡の破片 出典『破鏡と四方転びの箱』 
 
 破断面及び全体が研磨され1ヶ所に穿孔が確認できる。懸垂用と考えられる穿孔は破断面のほぼ中央に穿たれている。シンメトリーを意識したようだという。こういった事例がいくつもある。

 銅鏡に見られる亀裂は、確かに応力腐食割れによるものと考えられるが、その破片の再利用、それをさらに細かく割って、特定の箇所に撒くという行為は否定しがたい。しかもこの破鏡が九州からはじまっていることも注意が必要と思われる。

 また、鏡は簡単に割ることはできないのではないか、力を加えても10円玉のように曲がるだけだ、という意見もあったのでここで説明しておく。
 銅は錫の配合が高くなれば硬度は増すが、脆くなる。10円玉の錫の配合は1~2%。しかし銅鏡は20%から30%となっており、固いが割れやすくなる。実際に、松本清張は自分の所有の銅鏡を落として割ってしまったと記している。銅鏡の鋳造実験で、錫の配合が高いと割れてしまう様子も見ることができる。つまり、ガラスのように割れることはありえるのである。

 完形の鏡にひびが入っているものもよく見かけるが、この場合は応力腐食割れの可能性はある。しかし、細かい破片をまとめて置かれている場合は、意図的に割る行為は否定できないし、信仰上の理由も大いに考えられるのである。


髙橋敏2015『破鏡及び鏡片の再集成と馬洗場B遺跡出土例からみえてくるもの』山形県埋蔵文化財センター研究紀要
新井宏「金属を通して歴史を観る 13.三角縁神獣鏡⑷追論」颯 颯 鰊 - 新井宏(ARAI Hiroshi)のWWWサイト
今尾文昭2009『古墳文化の成立と社会』古代日本の陵墓と古墳1青木書店
橿考研2025『王陵桜井茶臼山古墳』(令和7年度春季特別展)
松本清張2007『遊古疑考』河出文庫

samuneyou

 卑弥呼の遣使は、魏志倭人伝に「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡」とあるが、通説では、公孫淵の滅亡で楽浪郡を魏が掌握したのは景初二年八月なので、六月の遣使は無理であり、景初三年が正しいと理解されている。これに対して、卑弥呼は戦中遣使をしたのであり、その困難な情勢の中で、魏に使者を送ろうとした倭国に感激して、魏は手厚くもてなしたのだという主張がある。戦闘状態にもかかわらず、卑弥呼の英断で魏に使いを送ったというのである。これが物語ならばドラマチックであるが、実際は、景初三年の六月であったことを、景初二年説の主張に対して説明しておきたい。

1.卑弥呼に対しての制詔は明帝崩御後の幼少の少帝では無理だったのか
 
 中国はそれまでも幼年の皇帝が相次いで即位し、皇太后や外戚が政権を牛耳ってきていることからも、卑弥呼への制詔が景初三年では無理という根拠にはならない。
 例えば前漢の第8代皇帝・昭帝(劉弗陵)は、8歳で即位。武帝の遺詔により、大司馬大将军の霍光が政治を補佐(摂政)。昭帝の若年期は霍光がすべての政務を決済し、朝廷の制詔は実質的に彼の意志で下されている。
 また前漢末期、第14代皇帝(平帝の次の皇太子)として、わずか2歳の孺子嬰が擁立される。代外戚の王莽は自ら「摂皇帝」あるいは「仮皇帝」と称し、皇帝の職務を完全に代行している。
 
 以上のような事例があり、明帝の後の少帝の場合も、曹爽や司馬懿が政務を担当しており、倭国の遣使も彼らが対応していたと考えてよい。明帝の崩御後については、三国志小帝紀に「大將軍曹爽太尉司馬宣王輔政」とある。輔政とは政務の補佐であろう。

2. 公孫淵討伐時に密かに海を越えて平定するという記事がある

 景初中、明帝密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を平定す。

 この記事から、6月には二郡が平定されて、卑弥呼の遣使は可能だったとの主張がある。
 だが、この「景初中」の時期は3月から8月と考えられる。6月までに平定とする根拠にはならない。あくまでこの「景初中」は明帝が二郡に派遣をすすめた時期であり、実際に平定したのは6月以降であろう。もし中国側が主導権を6月に把握したとしても、公孫淵との戦闘行為は続いており、そのような時期に、倭の遣使が向かったとしても、楽浪郡の太守が都まで同行するなど困難であろう。
 さらに言うと、この海からの行動は秘密裏に行われたと書かれている。どうやって倭国はこの極秘情報を得たのであろうか?また倭国は魏に遣使を送ろうといつ判断したのであろうか。魏による二郡への制圧行動の情報を得てから、遣使の判断、決定後の準備、さらには楽浪郡までの旅程期間を考えると、とてもではないが6月は無理と考えるのが普通であろう。

3.景初三年は呉の侵略があって遣使は困難だったのか?
 
 景初二年の戦中遣使が正しいとされる意見では、一方で景初三年のほうが遣使は困難だと主張される。その根拠とされるのが次の記事である。
 
 赤烏二年春三月遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡、之遼東、擊魏守將張持、高慮等。虜得男女。

 赤烏二年(239)春三月、呉の孫権は遼東に将軍孫怡之らを遣わし襲撃させ、遼東に駐屯していた魏の守備隊の将である張持、髙慮らが戦死し、男女が捕虜として連れ去られた。

 公孫淵を討伐して平定した遼東が、今度は呉軍に侵略されて、その三カ月後のこととなるのだが、明帝崩御後の混乱に乗じて侵攻したという解釈があるが、「混乱」といった記述はない。
 そしてこの呉の襲撃事件をもって、景初三年の遣使は困難との説明があるが、これもおかしい。この襲撃事件は春三月のこと、しかも、「虜得男女」とあり捕虜はとったが、その後は関連する記事はなく、呉の勢力が半島地域と周辺海域を制圧していたという根拠はなく、一過性の襲撃事件とみられる。よって、景初三年の訪問が困難という理由にはならない。景初三年の遣使が不自然で困難といった主張は疑問である。

4.景初三年と引く『魏志』は別の「類書」のようなもので、間違いが多い、との説

 『日本書紀』・『梁書』・『北史』は『魏志』を引いて「景初三年」としているが、この『魏志』が皇帝の命令によって編纂された「類書」の類いであり、その編纂の性格上、間違いがおこりやすいという理解がある。 (なお、ここでは『魏志』という類書があったとは異論もあるので「類書の類い」としておく)
 この「類書」は原典をそのまま丸写しするのではなく、必要な部分を抜粋・編集(ダイジェスト化)し、その際に前後の文脈が省略されることがある。また後世の知識による修正が起こるという。後世の類書編纂者が「景初二年に公孫氏が滅び、景初三年に明帝が崩御した」という正史の基本知識を持っていた場合、戦闘の最中に朝貢が成立するはずがないという思い込みなどで、良かれと思って「二年」を「三年」に修正してしまうケース(修史の書き換え)が起こり得るのだという。
 陳寿の『三国志』は間違いは発生しないが、「類書」は間違うことがあるというのだが、この論理は疑問だ。陳寿も、それまでの文献、記録を参考にして編集しているのである。その時に思い込みなどで間違いが発生することもあるということも言えてしまうのではないか。しかも「類書」は皇帝の要請で作成されるものであり、間違いが発生しやすいとみなすことには疑問がある。
 
 さらに別の問題だが、邪馬臺国の「臺」も、「壹」としたのは、10世紀以降の版本作成時の誤写と考えられるように、当時の陳寿は景初二年と記していたが、後の写本で景初三年とされてしまったという可能性が高いと思われる。そのような可能性を拒絶して陳寿の『三国志』は間違いが起こらないが、「類書」の類いは間違いが起こるというのは、いささか説得力に欠けるのではなかろうか。
 もし『魏志』が類書の類いであっても、それは、当時の『魏志倭人伝』の記事の「景初三年」を正しく書写したのであって、11世紀以降の『魏志倭人伝』が、版本作成時に景初二年と誤刻したと考える方が妥当である。

5.景初二年説では、中国からの使者の正始元年までの空白の1年半を説明できない
 
 景初三年の倭の遣使に対する下賜品の記事のすぐ後に次のようにある。
 
 正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國。拜假倭王、幷齎詔。賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物
 
 遠方の倭国からの遣使に対して、魏は早速返礼としての使者を倭国に送っているのである。ところが、景初二年の戦中遣使があったとする説を推す主張では、困難な状況の中わざわざやってきた倭の遣使に中国側はいたく感激し、莫大な下賜品も与えたという説明をされている。しかし、感激した中国が返礼としての使者を送ったのは二年後の正始元年のこととなってしまう。これは奇妙だ。どうして、翌年の景初三年に使者を送らなかったのか。この空白の1年半を説明できる根拠は見当たらない。

6.『日本書紀』の「明帝」の景初三年という記述が疑問との見方
 
 明帝は1月1日に亡くなったのに、書紀神功紀の「明帝景初三年」と書くのはおかしいとの意見もあるが、別にこれも不自然なことではない。
 歴史書の記述として「明帝景初三年」とあるのは、「明帝がその年に生きていたかどうか」を指しているのではなく、「明帝が創始した『景初』という時間軸の3年目」という表現をしているにすぎないことで、「明帝と書くのはおかしい」という批判はあたらないのである。中国の歴史においては、同じ元号名が存在することもあり、短期間で改元もされるので、読者も混乱してしまうので、皇帝名を付けて○○年とする慣習があるので、明帝の景初三年に何ら問題はない。

 以上のように、景初二年六月という魏による公孫淵討伐が始まった最中に、卑弥呼がいち早く戦局を見極めて使者を送ったというのは、ドラマチックで、日本人には受ける話だが、現実は二郡を平定して体制としても整ってからの遣使であったからこそ、帯方郡の太守劉夏が対応して使者に同行して洛陽に向かうことができた、というのが自然であろう。

参考文献
古田武彦『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』古代史コレクション22 ミネルヴァ書房
正木裕『「壹」から始める古田史学十二 古田説を踏まえた俾弥呼のエピソードの解釈』ネット掲載他

景初四年丙午
 三角縁神獣鏡の紀年銘に景初四年があることが、景初三年から正始元年への改元を知らずに、渡来した工人が刻んだもので、これが国産説を証明しているなどと言われたりしたが、既に説明したように、この景初四年銘が、逆に国産説が成り立たないことを説明させていただいた。
 森浩一氏は、三角縁鏡の年号銘は、4世紀になってから記念の年号として刻んだものという説を出されたが、それであるならば、4世紀には景初三年の翌年は正始元年と認識されるはずであり、景初四年がこの説が成り立たないことを示している。また、渡来した工人が景初から正始への改元を知らずに刻んだというのも妙である。それならば、なぜ正始元年銘の鏡があるのかも説明できないのである。
 ただ、この銘文については、気になる所があるので見ておきたい。
 景初四年銘は、福知山市の広峯一五号墳三角縁盤龍鏡、兵庫県辰馬考古資料館蔵同笵鏡の2枚が確認されている。銘文には次のようにある。

 景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人之位至三公母人之保子宜孫壽如金石兮

 陳の文字については、左文字になってしまっているが、これも説明したように、自分の名前だからこそ、うっかりそのまま正字で刻んでしまったから起こったことと言える。
 さて問題は「景初四年」に続く「五月丙午」である。これは実際の暦の月日を示しているのではない。景初四年が実際には五月まであったなどということにもならない。これは、工人が取り入れた吉祥句と考えられている。このような例が、碑文や刀、その他の鏡の銘文に以下のようにある。

 ①宇治橋断碑 「大化二年丙午之歳」  
 ②七支刀:泰和四年□月十六日丙午正陽
 ③東大寺山古墳:刀身に、中平□年五月丙午造作支刀
 ④鳥居原狐塚古墳神獣鏡:赤烏元年五月二十五日丙午
 ⑤宝塚市安倉高塚古墳神獣鏡:赤烏七年太歳在丙午
 
①の宇治橋断碑については、金石文としては問題があり、『帝王編年記』によって補った文章によって、「大化二年丙午」という年紀があるのであって、これが実際の橋の建立年を示すものとは確定できないようである。碑文の中にある年紀が建立年を意味するとは断定できないのである。よってこの場合の「丙午」は月日を表すものとは考えにくいのである。実際に残された文面には縦界線などが見られることから、早くても8世紀前半と考えられるという。詳しくは藤田友治氏の論考をご覧いただきたい。

②の七支刀の銘文にある「丙午」およびそれに続く「正陽」は、実際の日付ではなく、鏡や刀剣を造るために太陽の光を最大限受けられる、最も良い時といった意味を持つ吉祥句である。そして、実際の暦で計算すると、この泰和4年(西暦369年など諸説あり)の「〇月16日」が「丙午」になる月はないという。

③東大寺山古墳の刀身の「中平」とは、中国の後漢末期、霊帝の時代の元号で、西暦184年〜189年であり、この「中平元年」から「中平6年」までのすべての年の5月に「丙午」の日が存在する年はないので、「五月丙午」が実在の日付ではないことは確定できるという。
 さらに、後半の銘文の「百練清剛 上応星宿 下避不祥」が、鍛えた刀で災いを避けるといった工人に好まれる吉祥句となる内容からも関連するものと考えられる。

④赤烏元年銘の神獣鏡の場合の「赤烏元年五月二十五日丙午」という月日は、実際の干支(暦)としては正しくないという。中国・三国時代の呉の歴史書『三国志』呉書・呉主伝によると、孫権が「赤烏」へと改元したのは赤烏元年の8月。赤烏元年の5月には「赤烏」という年号が存在していないという。その年の5月はまだ前の年号である「嘉禾7年」なのであった。

⑤安倉高塚古墳神獣鏡の赤烏七年は、西暦244年でこの年の干支は「甲辰」となる。

 以上のように、いずれも工人の好む吉祥句を取り入れたもので、実際の作製月を表すものではないのである。

 このようなことからも、「五月丙午」は景初四年が5月まであったことを示すものではなく、尚且つ国産ではないことを示す貴重な鏡であると言える。

参考文献
藤田友治1988『日本古代碑の再検討 宇治橋断碑について』市民の古代 第10集 市民の古代研究会編
中国の暦に関してはAIなどを参照

古田武彦1987『景初四年鏡をめぐって』『市民の古代』九集 景初四年銘文図を利用

土器編年

         図は 各地(半島東南部・北部九州~東海西部)の併行関係と暦年代案
      クリックして御覧ください。

 これまでの説明の要点などをまとめとしてあげておきたい。まだまだ不十分な点もみられるが、引き続き検討していきたい。

①初期の三角縁神獣鏡は弥生末期から九州の発生期の墳丘墓や古墳から出土している。
 もし三角縁鏡が国産であったと仮定しても、近畿大和から全国に配布されたという主張は看過できないのではないか。

②全国の分布状況は、ヤマト中心ではなく、九州勢力が配布していると見ることができる。
・布留0式(250年頃)の段階に三角縁鏡はないとするのは間違い。久住猛雄氏らの指摘。
藤崎32次1号墓 石棺の周溝部の調査で、周溝下層から布留0式古段階に併行するⅡA期の一括土器が出土。(図を参照)
 この布留0式古段階に三角縁神獣鏡はないという説が一部にあるが、実際は存在することを証する布留0式古相での副葬例が「少ない」のは、まだ舶載され、「配布」された直後だったからと考えられる。
・纏向型前方後円墳は九州に早くから築造され、そこに三角縁鏡が出土していると想定。一方で近畿大和地域の纏向型前方後円墳からの出土事例は皆無。これこそが、三角縁鏡が九州からの配布を示している。ただし、津古生掛古墳以外の九州の古墳の編年観の検討も必要である。

③創作模倣鏡(3~4世紀)の時代に生まれた三角縁神獣鏡           
 漢代400年の間に創出された鏡を3世紀以降は模倣を特徴とする鏡づくりが行われ、この動きの中で三角縁神獣鏡が登場した。過去の中国鏡を模刻するために、左右の逆転や神獣の配置の乱れなどが三角縁鏡以外にも発生。

④「陳是作竟」は、190年頃の洛陽市吉利区出土の画文帯同行式神獣鏡をモデルに和泉黄金塚古墳「景初三年陳是作」画文帯神獣鏡を作成。図像の逆向き、画文帯の反時計回りが発生。一方で三角縁神獣鏡に継承される特徴の、新たに内区の外周線を隆起する鋸歯文に、径を大きくし突起する乳が加わる。
 次に島根県神原神社「景初三年陳是作」三角縁神獣鏡を製作。外区文様、三角縁に改変。図像は同じだが、左右逆転が見られる。つまり神原鏡は黄金塚鏡をベースに外区に三角鋸歯文を取り込んで三角縁鏡とした。よって、黄金塚と神原の景初三年鏡は図像が異なるだけの兄弟鏡といえる。
 陳氏は引き続き、景初四年鏡、正始元年鏡を製作。景初四年の銘文では、「陳」が反転している。自分の名前で漢字を知っているから、うっかり正字で刻印してしまったとも考えられる。

⑤景初四年鏡の存在が、国産説を否定する。景初三年の末に前もって四年と刻印した可能性もある。
・国産説の王仲殊氏も北朝鮮地域の墓碑などに改元を知らずに前の年号を刻んでいた例を指摘。
・森浩一氏などの鏡の銘文の紀年は、後の時代(4世紀)に、記念すべき年号として鏡制作時に加えられた、と解釈されているが、後の時代に年号を入れるのならば、景初4年が存在しないことは知っているはず。さらに景初四年は渡来した工人が改元を知らずに刻んだ、という主張は、ではなぜ正始元年が存在しているのか説明不可ではなかろうか。

⑥官営工房の尚方銘の三角縁鏡が少なくとも10枚存在している。奈良県佐味田宝塚古墳神人車馬鏡(三角縁)21.1㎝の銘文と書体も同じものが、 河南省岳家村30号墓尚方作神獣車馬画像鏡である。他に新山古墳、熊本県葦北城ノ越など。

⑦神岡鉱山の鉛使用による国産説が言われるが、原料の産地と製作地はイコールという確定は出来ない。神岡鉱山で弥生時代後半に鉛を採掘していた根拠はない。周辺に弥生時代の遺跡もない。中国から鉛丹も下賜されているが、法隆寺の壁画での使用まで確認されず、採掘していたなら鉛丹も製造していたのではないか。

⑧国産では説明つかない車馬鏡や時代の合わない仏獣鏡が存在している。
 群馬県北山茶臼山古墳(4C前半)の神人龍虎車馬画像鏡。馬に引かれた馬車が、精密に描かれ、鞭を振る御者、後ろに主人が乗る姿も鮮明。この頃、列島に馬車は存在しない。馬の利用も始まったばかり。

⑨三角縁神獣鏡は葬送儀礼の祭器でランクが低い、という見方について。
 黒塚古墳の例の場合で言われているが、棺外に並べられた葬儀用のレベルの低い鏡という説も成り立たない。
天理天神山古墳画文鏡
        奈良県大和天神山古墳の鏡の副葬状況 (橿原考古学研究所博物館)
 大和天神山古墳では、被葬者を囲むように20面、棺外に3面の鏡があった。内訳は、方格規矩鏡6面、内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面、三角縁変形神獣鏡2面、人物鳥獣文鏡1面である。三角縁鏡だけ低く見ることは出来ない。

⑩その他
・百枚以上あるのも何らおかしくはない。3世紀末まで何度も遣使しており、中国からも使者が来ている。正始元年に下賜品として刀などと共に鏡の記述もある。
・三角縁鏡だけでなく、画文帯神獣鏡、斜縁鏡、方格規矩鏡なども邪馬台国は公孫淵や魏晋から入手した可能

参考文献 
岡村秀典2017『鏡が語る古代史』岩波新書
図の出典は『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』實盛良彦編勉誠出版2019

図1北九州
▲が三角縁神獣鏡の分布

⑴初期段階の三角縁神獣鏡は九州一円に存在する可能性がある。 

・「平塚大願寺方形周溝墓」(同市平塚)からは、三角縁神獣鏡が出土したと伝わる。この鏡は100年以上前から存在は知られていたが、現物の行方は分からず、幻の鏡となっていた。平成30年に市内の旧家から寄贈を受け、同市教育委員会などが調べたところ、三角縁神獣鏡と確認された。同じタイプの鏡は国内から見つかっておらず、初期段階の作例とされる。
・藤崎遺跡:福岡市早良区百道・藤崎所在、室見川河口右岸の湾岸砂丘上の弥生時代~中世に渡る複合遺跡。 三角縁盤龍鏡と素環頭太刀が共伴している。
・福岡市卯内尺古墳:墳長約73~78mの前方後円墳。竪穴式石室と推定された埋葬施設から三角縁神獣鏡、銅鏃,剣等が出土。 
・福岡県石塚山古墳 3世紀半ば? 舶載三角縁神獣鏡6種7面が出土。
・糸島市泊大日古墳(神仙騎獣鏡)  那珂八幡古墳の第二主体より出土。  若八幡宮古墳より出土。
・宇佐地域では川部・高森古墳群の赤塚古墳で舶載三角縁神獣鏡が5面(第1・第2段階)出土している。

⑵久住猛雄氏の鏡の年代観の重要な指摘   『2.3.4世紀の土器と鏡』より

 小郡市津古生掛古墳から出土した方格規矩鳥文鏡は、三角縁神獣鏡の関連鏡群に位置付けられたものとされる。
 三国期の倣古方格規矩鏡で、青龍3年(235)銘の紀年鏡と、264年の円圏規矩鏡との間に位置付けされ、250年前後、すなわち舶載三角縁神獣鏡の制作年代幅と合うという。
 この古墳は布留0式古相段階=ⅡA期のものであり、この段階に三角縁神獣鏡が入る可能性が十分にある。これを裏付けるのが次の藤崎遺跡だ。
 藤崎32次1号墓は、石棺の周溝部の調査で、周溝下層から布留0式古段階に併行するⅡA期の一括土器が出土。この布留0式古段階に三角縁神獣鏡はないという説が一部にあるが、実際は存在することを証する資料となった。布留0式古相での副葬例が「少ない」のは、まだ舶載され、「配布」された直後だったからと考えられる。この布留0式は250年頃となる。

⑶古墳も近畿中心に考えてはいけない。

 片岡宏二氏(2019)のご指摘だが、 実は北部九州にも纏向型前方後円墳が存在しているのである。
その代表が小郡市津古生掛古墳・福岡市那珂八幡古墳・名島古墳である。
 津古生掛古墳は、久住猛雄氏の説明を既に挙げているが、出土土器から庄内式~布留0式土器段階である。
 那珂八幡と名島は時期不明だが、三角縁神獣鏡が出土していること。そして筑紫平野の同時期の古墳は、津古生掛古墳だけではなく、定型化していない墳墓が多数存在している。
 例えば、纏向型や方形周溝墓、前方後方墳、前方後方形周溝墓など以下のようだ。
朝倉市は杷木町外ノ隈前方後方墳(画文帯神獣鏡)
朝倉市平塚大願寺方形周溝墓(三角縁神獣鏡) 
久留米市祇園山古墳外周1号甕棺(画文帯神獣鏡・中心の箱式石棺から三角縁神獣鏡)  
藤崎遺跡や筑紫郡那珂川町妙法寺2号前方後方墳に三角縁神獣鏡がみられる。

 なんでも近畿のヤマトを中心に見てはならない。奈良の古墳が先行しているわけではないのである。三角縁の配布は北九州を中心に開始され、さらに全国のリーダー格の人物の手に渡っていたと考えられ、特に近畿圏には政治的、さらには信仰上の理由から集中して運ばれたと考える方が、筋道がかなっていると思われる。

⑷国産説に関して

三角縁神獣鏡は現在のところ、研究者はいくつかの段階に分けて後半からは彷製との認識が主要なものとなっている。そうすると、国産説を主張してもヤマト中心史観には打撃にならないのである。

例えば黒塚古墳の説明パネルに次のようにある。

「三角縁神獣鏡のモチーフは不老長生の神々である西王母や東王父、さらには虎や龍など神仙世界の霊獣から、鏡が帯びる霊力が強く意識されており、「このような霊力の宿る三角縁神獣鏡を、ヤマト王権が地域支配の一環として列島各地に配布したとする説が有力である。」と掲示されている。

ここでは、三角縁神獣鏡が中国産か国産かといった問題は無関係であり、ヤマト王権を中心に配布されたという説明なのである。この場合も、国産説を主張しても、鏡を配布する中心勢力が近畿にあったという主張に反論できていないのである。九州に楔を打ち込んだといった解釈を放置してはならないと思われる。


参考文献
片岡宏二2019『邪馬台国論争の新視点 遺跡が示す九州説』雄山閣
實盛良彦編2019『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』勉誠出版

中国の景初三年鏡
  景初三年銘のある吾作獣首鏡 左の漢鏡を模倣して作成 出典『鏡が語る古代史』

 国産説では、景初三年の銘文が入った三角縁鏡を特に問題視されるのだが、実は中国にも景初三年銘の鏡があった。洛陽市で発見された景初三年吾作獣首鏡であり、元の永康元年(167)の模倣鏡であった。 
 この模倣された獣首鏡には、景初三年神原神社鏡、正始元年「陳是作」三角縁同向式神獣鏡と共通する銘文が刻まれていた。おそらく「吾作」の工人と陳氏は同一工房か近しい関係と考えられる。

 以上のように中国にも景初三年銘の鏡があったことからも、三角縁鏡の国産説が成り立たないことを示している。森浩一氏などの鏡の銘文の紀年は、後の時代(4世紀)に、記念すべき年号として鏡製作時に加えられた、という主張は矛盾しているのである。それは、景初四年は渡来した工人が改元を知らずに刻んだ、というのが国産説の主張だが、その一方で、後の時代に年号を入れるのならば、その時点では景初四年という紀年は存在しないことを知っているはずであろう。景初三年の次は正始元年のはずであり、なぜ後世に景初四年銘を刻んだのか説明できないのだ。

 顔氏や陳氏の鏡の製作について説明してきたように、中国では既存の鏡の図像を模写して鋳型を作る創作模倣鏡の時代(3~4世紀)があったという。漢代400年の間に創出された鏡を3世紀以降は模倣を特徴とする鏡づくりを行っていたという。この動きの中で三角縁神獣鏡が登場した。顔氏や陳氏の紀年の入った鏡も古い中国の鏡をモデルにして作成したものであった。 
 モデルをそのまま模刻するために、左右逆転や左文字などが発生していたのである。中国においても、このようなミスにはわりと無頓着であったようだ。
 陳氏の場合も、銘文を刻む際には、反転させて刻むはずが、自分の名前の「陳」をそのまま刻んだために、完成品の「陳」が逆になった鏡もある。
反転した陳
           景初四年盤龍鏡の左文字の陳氏銘文 出典『鏡が語る古代史』

 漢字を知っているからこそ陳氏が、ついうっかり自分の名前をそのまま正字で刻印したのであろう。

 このように、3~4世紀の中国において、創作模倣鏡が多数作られるようになり、この動きの中で、三角縁神獣鏡も登場することになったのである。

参考文献 
岡村秀典2017『鏡が語る古代史』岩波新書
實盛良彦編『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』勉誠出版2019

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