流砂の古代

古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ移住民、騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。古代史に関わる誤解や誤読、近畿一元史観ではなく古田史学の多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

ise 模様と天井
 群馬に古墳見学をされるなら必見の、西日本ではお目にかかれない芸術的な石室であり、それは飛白(かすり)模様とか水玉模様ともいわれる。
伊勢塚全体
 6世紀代の東日本で最大級、全長145mの前方後円墳である七輿山古墳のトイレを兼ねたパネル展示室のある駐車場に車を停めて、北へ徒歩10分のところにある古墳で石室は開放されている。
伊勢塚パネル
伊勢入り口
伊勢玄室全体
 いよいよ中へ。玄室への入り口の手前は低いので、頭を打たないように!私はおでこを打ってしまいました😿
模様積み

伊勢側面
 近くの鮎(あい)川でとれるという川原石の大きな石の周りに、棒状の平たい石をぎっしりと詰めて側壁を作っている。大変な手間であったのではないか。このような模様積みのある古墳は、藤岡市から隣接の埼玉県児玉郡にかけて分布しているという。藤岡市では霊符殿(れいふでん)古墳や平地(へいち)神社古墳、堀越塚古墳などを、ネットでも見る事ができるが、やはりこの伊勢塚古墳がもっとも秀逸なものであろう。
ise 羨道側壁
 玄室だけではなく手前の通路である羨道の側壁も同じように積まれており、細長い石が詰め込まれている様子がよくわかる。
伊勢塚天井石
 天井石は巨大な岩が載せられている。
 それにしてもなぜこのような積み方がされたのであろうか。ネットに中学二年生の研究レポートがアップされている。『模様積み石室大全』(こちら)を感心しながら読ませていただいたが、その中で、水玉模様が、茨城県の虎塚古墳の壁画に描かれた円文と同じようなもので、「埋葬者を守る聖なる空間」とされている。自分の中学生の頃を思うと気恥ずかしくなるが、そのレベルの差にただただ恐れ入るばかりだ。
伊勢塚八角
 また伊勢塚古墳の形状は、不正八角墳といわれている。完全な八角形と言い切れないのが残念だが、この八角墳については、あらためて三津屋古墳のところでふれたい。
伊勢石室図
 そしてこの玄室は、胴張り型石室と言われるように、玄室を上から見ると弧を描くかのような曲線になっている。九州をはじめとして全国に見られるようだが、これらにどのような関係があるのだろうか。
 なぜこのような形を石室設計プランに導入したのであろうか。八角墳について、その背景に道教や仏教思想を指摘される研究者もおられるが(梅澤重昭1997)、模様積みや胴張り型も、仏教などの当時の外来思想と関係するのではないかと想像する。単なる思い付きだが、この胴張も、ひょっとするとあの法隆寺のエンタシスの柱と同じ考え方で編み出された形ではないだろうか。
 
伊勢塚青海波
 採集された須恵器には波状文、円弧叩きが見られるが、その中に青海波(せいがいは)のような文様のものが見られる。こういったことからも、海外文化の特徴が強く見られる古墳と言えるだろ。
この水玉のような模様積みが、この地で生み出されたものなのか、それとも大陸に淵源があって表現されたのか、それは仏教思想と関係するのか、などを考えていきたい。
  
参考文献
右島和夫「群馬の古墳物語(上下巻)」上毛新聞社2018 (石室実測図引用)
志村哲「伊勢塚古墳の八角形墳丘プラン」月刊考古学ジャーナル414・1997(平面図と須恵器図を引用)
梅澤重昭「東日本の八角形墳丘古墳の性格と出現の画期」月刊考古学ジャーナル414・1997

2024.6.6撮影

前二子全体
前二子山
 群馬県前橋市大室古墳群は、長径が1㎞にも及ぶ大室公園として整備されている。その中の6世紀初頭の前二子古墳は墳丘長が94mでその周囲を堀や外堤が取り巻く。全体がベンガラで塗られた横穴式石室で、ここが吉永小百合さんのポスターになっている。副葬品には、青色ガラス製や水晶製の丸玉、金環、銀製空(うつろ)玉などの装身具、金メッキの馬具の飾り金具など。屍床の手前の床に祭祀の須恵器が置かれており、それが石室内に復元されている。
前二子石室
 床面には凝灰岩製の敷石が前面に敷かれるというのは、めずらしい事例となっている。福岡県久留米市日輪寺古墳など6世紀前半以降見られるが、以前は不明。部分的に敷く例は、5世紀後半熊本県重盛塚古墳、肥後型と言われる5世紀後半の岡山千足古墳にある。
吊り金具
綿貫観音幕イメージ
 この二子山古墳の石室に鉤状金具が約20点見つかっている。(写真の金具と石室内イメージは綿貫観音山古墳のもの)棺の周囲に幕などを吊るすためと考えられている。他に、高崎市綿貫観音山古墳、八幡観音山古墳、奈良県藤ノ木古墳に事例があり、そして半島では、百済武寧王陵、慶尚南道松鶴同洞一号墳、全羅南道長鼓峯古墳(前方後円墳)からも出土している。実は柳澤一男氏の指摘だが、前二子古墳の横穴式石室の形と、松鶴洞、長鼓峯の石室の形が似ているという。また武寧王陵の獣帯鏡の同笵鏡が綿貫観音山古墳より出土している。このように、半島と密接なつながりが見えてくるのである。二子山古墳の被葬者は、半島からやってきた移住民のリーダー的存在であったのではないか。まさにエキゾチックな文化を持つ地域であろう。

 以下に、中二子山、後二子山古墳のパネルを載せておきます。(ちょっと見にくいですが)
中二子
後二子

 なお、後二子山古墳の剣菱形杏葉の文様と、大阪府四天王寺宝物館の人の乗る馬形埴輪のものとそっくりなのだという。四天王寺のものは「伝群馬」とされており、実際に二子山古墳のものが群馬から運ばれてきたようだ。それにしても、どういったいきさつがあったのか知りたいところです。
 
四天王寺杏葉
 後二子山古墳からは、親子猿の小像がついた円筒埴輪、また前二子山古墳からは、線刻の人面のある円筒埴輪、他に盾持人型埴輪など、ユニークなものが多く見られます。
人面円筒

DSC_0806
 古墳の石室を見る吉永小百合さんをモデルにされたJR東日本のポスター。これは2020年に企画されたキャンペーンのもの。群馬の博物館などに今も掲示されています。関西ではあまり見かけないものですが、博物館で初めて見ました。小百合さんがモデルとなれば、やはり絵になります。昭和世代のおじさんたちには、いつまでもとても気になる存在です。
 観音塚考古資料館の学芸員さんから、話を伺いましたが、撮影当日は、人が押し寄せても困るので関係者以外には内密で行われたようです。この石室の古墳は、群馬県前橋市大室古墳群の中の前二子古墳なのですが、実は、小百合さんの写真像は、少し縮めて貼り付けたものだそうです。それを聞いて合点行きました。石室の羨道などは、とても低いものですが、なのに彼女は通路に余裕で立っておられるので、違和感がありました。まあこれは、やむを得ない演出ですね。なので、実際に石室に入られる場合は、頭を打たないようにお気を付けください。
 あと残念だったのは、このキャンペーンの始まりがコロナ渦と重なってしまったこと。せっかくの素敵なポスターも、力を発揮できなかったのが惜しまれます。ここは、ぜひもう一度、群馬の遺跡をアピールするキャンペーンを進めてほしいところです。
 このポスターに次のようなキャッチコピーがあります。

『「歴史」とは、学ぶものではなく、旅するものかもしれません』

 小百合さんご本人の言葉かどうかわかりませんが、なかなか深い意味のあるセリフだと思いました。歴史の、特に古代の遺跡、遺物などの文化は、その土地だけのものではなく、全国のすぐれた文化が、遠方にもたらされることが多々あります。なかには、中国どころか、もっと西方の文化の片鱗も見られることもあります。これは、歴史的文化が、旅をしているのだとも言えますし、また、博物館や遺跡に足を運んで、その文化に触れることが国内のみならず世界を旅することにつながる、ということかもしれません。あくまで自己流の解釈ですが。
  特に、群馬県は、九州や近畿に負けないものや、渡来の文化が多くみられます。そういったものをこれから随時紹介していきます。JRの回し者ではないのですが、そんなエキゾチック古代群馬に興味を持っていただき、実際に旅していただいたらと思います。

衣笠と七支刀
 七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。

1.銘文の一般的な解釈
表  泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□□□□作
裏  先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
なお、泰和の和は、始・初   百練の銕は、鋼・釦 侯王の□□□□作は、永年大吉祥
済が慈   聖音が聖旨  旨造がうまく造る 伝示後世が傳不□世  などの諸説あり。
①年号について
 日本書紀では、神功52年の記事で120年の繰り下げで西暦372年と考えられている。また古事記は応神の時代の記事になるが、ここに肖古王とあるので、即位期間の346~375年のこととなる。東晋の泰和4年が369年なので妥当なところとなる。泰始、泰初の年号はいずれも3世紀となるので無理であろう。
なお泰和四年(369)については、百済が東晋に朝貢したのは372年なので、その3年前に中国の元号が使用されることに疑問もあるが、朝貢開始以前より何らかの交流はあったと考えられる。また七支刀を制作したのが百済に来た中国、もしくは旧楽浪郡の漢人であれば、年号を銘文に入れても不思議ではない。中国からの文化人、工人などの技術者、僧などが、倭国にもやって来たことは疑いえない。江田船山古墳鉄剣銘文の張安、漢籍を多用した武の上表文、倭の五王讃の司馬曹達なども考えられる。
②侯王とは?
 様々な解釈があるが、その中で上田正昭氏が侯王に着目され、百済王が「侯王」となる「倭王」に与えたものとの説がある。南斉書百済伝に弗斯侯などがみえるのだが、古田武彦氏は南斉書の扱う時代が5世紀前後であることから、疑問視され侯王どおしの対等の関係とされる。ただ私見では、対等とも少し違う関係を想定していることを、後に述べたい。
③百済王世子奇生聖音は人名か?
 「寄」という百済王の世子(世継ぎ)が倭王に贈ったとの理解が一般的だが、早くに複数の研究者から、奇生が貴須、聖音を王子の発音のセシムの転化とし、ゆえに王子の貴須(近仇首王)のこととされている。注1 この「奇生聖晋」が近仇首とはできないとしても、372年当時の百済王世子は貴須であり、彼が倭王のために作ったというのは妥当な解釈となろう。近仇首王(貴須)は近肖古王(346~375)の治世に、王子として七支刀を倭王のために作ったとなる。

2.書紀の七支刀記事と孫の枕流(とむる)王
 次は、日本書紀の神功皇后紀の七支刀の記事である。
五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。
 『久氐(くてい)らは千熊長彥に従ってやってきた。そしてななつさやのたち、ななつこの鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。(中略)この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と申し上げた。そして孫の枕流王に語って、「今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いて我が国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない」』
 久氐らが七支刀などを献上する記事であるが、ここで久氐が「聖朝に奉る」と述べた後に、孫の枕流王に語るのであるが、これは妙である。久氐「等」とあるので、久氐以外に数名の同行者があったと考えられ、その中に枕流王もいたということになろうか。なぜ最初から名前を出さないのかという疑問もあるが、さらに「孫」と記されている。久氐が枕流王の祖父とは考えにくい。枕流王は近肖古王(照古王)の孫にあたるので、久氐なる人物の言葉は、実は当時の百済王である近尚古王の言葉だったのではないか。「死んでも悔いはない」という台詞は、死期が近づいていることを自覚したものの言葉と考えられる。3年後に尚古王は亡くなっているのだ。この場に百済王がいたわけではないので、事前に、おそらく半島の百済国の中で、出立の際に孫に語った言葉ではないだろうか。そうすると、この一節の冒頭にある、七支刀の献上記事は、久氐が倭の千熊長彥に渡したのではなく、百済の地で、斤尚古王が、孫の枕流王に、倭国で活躍するように念じて、その助けとなる霊剣を持たせたのではないだろうか。そして、枕流王は久氐らといっしょに、七支刀などを携えて、倭国にやって来たのではないだろうか。
 この「孫」に語った内容をみると、助けてもらっている貴国のために「汝當善脩和好」、よくヨシミをおさめるようにと語っている。この「脩める」は、百済から送られる王子(後に質(むかはり)とも呼ばれる)への言葉として何度も登場する。枕流王は百済が送った最初の質となる人物であったと考える事ができよう。百済王は孫によく脩めるようにと語っているのだが、この「脩める」は、支配とまではいかないが、統治、管理の意味である。列島に渡って、おそらく倭王権に入り何らかの役割を担うこととなったのである。この点については、今後の武寧王に関する記事で、説明していきたい。
 
3.百済と倭の通交開始から七支刀までの記事への疑問
神功紀の記事の中間に魏志の引用があり、その後になにやら付け足されたかのように百済との修好の記事がある
神功46年 卓淳国が斯摩宿禰に、百済人の久氐らが貴国との通交の意のあることを伝える。
     さっそく斯摩宿禰が遣使を百済国に送り、百済肖古王は歓待した。
  47年 百済の貢物が新羅に奪われたとして、千熊長彥を新羅に派遣
  49年 荒田別ら、兵を備えて新羅を撃破 七つの国を平定。さらに忱彌多禮(とむたれ)を百済に賜う。
      千熊長彥と百済王が辟支(へき)山、古沙山に登り盟約。
  50年 皇太后多沙城を賜う。
  51年 千熊長彥に百済王父子は額を地にすりつけて拝み、感謝の意を述べる。
  52年 久氐らが来訪。七支刀、七子鏡など重宝を献じる。聖朝への誓いを述べた後に孫の枕流王への言葉。
 このあとには、百済王、皇太后の甍去記事などで終わっている。
 以上のように神功皇后紀の後半は、百済一辺倒の記事になっており、しかもその内容は疑問だらけなのである。
 まず、通交の始まりから不自然と思われる。百済の方が倭と交流したい意思を発しているのである。そうであるのになぜか、倭国の方がさっさと遣使を百済に送るというのが妙だ。また百済への遣使を即決しているようにみえる斯麻宿禰とは何者なのかもよくわからない。
 翌年47年にはなぜか新羅といっしょに朝貢している。そして百済はその新羅に自分の貢物を奪われたという。
次の49年では、新羅を討って七国平定というのが疑問。さらに忱彌多禮も百済に譲ったというのだが。額面通りに事実と受け止めるのは無理であろう。倭が戦い取った国を、国交を開始して3年目の百済にやすやすと賜うとは、全くもって理解できないのではないか。
 さらにこのあとに、千熊長彥と百済王の二人が、山に登り誓いをたてる。百済が倭のために朝貢を続けるという辟支山の盟約だが、本当なら百済王が倭国に行って誓わなければならないのでは。中国の泰山封禅の儀と同じで、立場が逆になるのではないか? 50年も同様で、なぜ倭の領土を譲与するのか?
51年はさらに奇妙。辟山盟約に続いて、今度は百済王親子が、地面に頭をつけて千熊長彦に拝むという。どこまで百済は卑屈になっているのか。52年の七支刀の記事は上述した通り。
 以上のように、この神功紀の後半は疑問が多く、一定の事実を扱うもかなり造作されて差し込まれた記事ではないかと考えられる。製作されたのが369年なのに倭国への献上が3年後の372年というのも妙であり、本当は、作られてすぐにもたらされたのかもしれない。注2 
 百済が枕流王を送り込んでいることからも、もっと早い時期から、記事にはないだけでいくつものやりとりがあったのではなかろうか。神功皇后紀前紀には、新羅討伐の記事があるが、新羅敗北によって、様子をうかがっていた百済と高麗の二王が、倭に服従するといった潤色と取れる記事が登場し、貴国に通交の意思を語る神功46年の記事と矛盾するのである。この箇所も額面通りに受け取れないであろう。
 百済と倭国との知られざる関係の中で、百済王が、王子や孫を倭国に派遣するという慣習が、七支刀を携えた枕流王から始まるのではないか。つまり、七支刀の倭国への献上品というのは書紀の筆法であったと考えられる。それは献上されたものではなく、また対等の立場で百済王が倭国の王に贈与したということでもない。七支刀はやや奇抜な刀の儀器であり、これが単に百済から倭国に贈られても、どのように扱ってよいものか困惑するであろう。よって、七支刀はその霊力を招く霊剣の御加護を受けるために、倭の地で好を修める枕流王が持たされて渡って来たと考えたい。もちろんその霊剣は、倭国で祭祀に関わるものが預かったであろう。やがては、その七支刀は物部氏の管理することとなって石上神宮に保管されるようになったのではなかろうか。

注1.佐伯有清氏は、西田長男氏や三品彰英氏の説を挙げながら「百済王世子貴須王子」とされる。
注2.田中俊明氏は、「伽耶と倭」で久氐と千熊長彥の往来が多すぎることから、神功49年に出発して、52年に続くとされる。つまり作られた七支刀をもって、すぐに倭に渡ったと考えられる。3年のブランクは解消する。

参考文献
佐伯有清「七支刀と広開土王碑」吉川弘文館1977
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」(コレクション20)ミネルヴァ書房 2014
東潮「倭と伽耶」朝日新聞出版2022   
河内春人「倭の五王」中公新書2018
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024
川崎晃「古代学論究―古代日本の漢字文化と仏教」慶応大学出版2012
鈴木勉・河内國平「復元七支刀」雄山閣 2006 
田中俊明「伽耶と倭」(古代史講義海外交流編)ちくま新書2023

  
 

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           『加耶』2022年度国際企画展示 歴史民俗博物館図録より
 
 欽明天皇の時代に滅んだはずの任那に関する記事が、半世紀以上あとの推古天皇の時代に登場するといったことが他にもある。
推古8年2月に新羅と任那の交戦記事がある。天皇は任那救援の指示を出す。そして、任那を救うための新羅への軍事行動がはじまる。そこに「五城(さし)を攻めて抜く」とある。この箇所に、岩波注が興味深い記述をされている。「この五城というのは、継体24年9月条、新羅が攻め取った任那の五城から思いついた数ではあるまいか」とされている。継体紀と何らかの関連があると気づかれたのであるが、継体紀24年とは530年、推古紀8年は600年であり、70年ほど昔の記事である。記事の年代移動など念頭にない人には、「思いついた」という解説が精一杯であったのだろう。
 この推古8年(600)の60年前は欽明元年(540)となる。そこに、どれぐらいの軍の規模なら新羅を討てるかと、天皇が側近に問うと、物部大連尾輿が、新羅は任那四県の百済への割譲の件で恨んでいるので、安易に考えて攻めてはいけないと意見するのだが、その後どうなったかの記事が見当たらない。ところが60年後の推古8年に、境部臣が大将軍、穂積臣は副将軍、一万あまりの兵を率いて新羅に向かう、とあり、物部大連の提言で兵力を整えて、まずは継体紀24年(530)に新羅に略奪された五つの城を攻略している。ここで五城によって、欽明元年の後に推古8年の記事が見事につながるのである。
 欽明紀の大将軍男麻呂と推古紀の雄摩侶と同じように、継体紀に新羅が五城を奪った記事が60年の移動を証明しているのである。
 この推古紀の時代があわない任那記事をめぐって、は次のような解釈もある。「推古8年・・・新羅と任那の王が貢調して服属を誓ったが、将軍を帰還させると、再び新羅は任那に侵攻したとある。しかしながら、征討将軍→遣使→進調→新羅による再侵攻という一時的な任那復興は『三国史記』(朝鮮の史書)には記載がなく、不自然な記載であり、この記事はそのままでは信用できず、潤色の可能性が高い」(仁藤敦史2024)
 説明がつかないので、結局は「潤色の可能性」とされている。だがここは、もう一歩すすめて、年代移動という操作がされているという視点が必要となるのだ。

 ただ、推古紀以降の任那の記事がすべて、時代が動かされたのかというと、そうとは言えない記事がある。
 この推古8年の記事に続いて、10年に来目皇子を新羅討伐の将軍にするも、本人が病気で死亡してしまう。次に兄の当摩皇子が将軍となるも、妻が亡くなったので討伐は中止になったという。これは奇妙な記事である。正木裕氏は、出征のポーズの記事は、記事の繰り下げを隠す詐術、と喝破される。まさにこれこそ潤色の記事となろう。
 しかし、中には時代移動とも潤色とも言い切れない任那の記事がある。
 推古18年には、新羅と任那の使人の筑紫への来訪記事と、彼らを丁重にもてなす記事があり、そこに秦造河勝の名前も登場する。そして、翌年にも、新羅と任那の貢納記事がある。やはり任那は存続していたのであろうか、と思えてしまう。この点についても、正木裕氏からの明確な説明がある。
「新羅が半世紀前から支配下に組み込んでいた任那(実際は伽耶諸国)の代表を伴って来朝するのは不自然でない。そもそも推古19年の任那の使者の「習武大舎」は新羅の官職(17階の12)だから「新羅が併合し臣下にした任那地域の代表」であることを示している」とのことだ。
 加耶諸国の実体がすべて消えてしまったわけではないので、この地の運営は新羅が認める代表に任されていたのだろう。後のことだが、白村江戦の敗北で百済は消滅したが、列島へ避難して百済王国を作っているというケースもあるのである。
 このように、記事の情報量が少ないものが多く、干支年に合わせて動かされたと機械的に判断できない問題も含まれていることは留意が必要となる。
 この、任那の出現する朝貢記事などは、孝徳期まで続くが、これらについても見ていきたい。

参考文献
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024

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 型吹亀甲文紺色坏 慶州天馬塚 6世紀 類例は4世紀頃の東地中海から黒海周辺、南ロシアなど広く分布しているが、東アジアでは唯一の出土例とのこと。 『ユーラシアの風新羅へ』より

 日本書紀は、古代の情報が豊富に綴られた重要な書物である。しかし、その記述には、様々な、操作、筆法といったもので組み立てられているので、これを、解きほぐさなければ、正しく古代史を知ることが出来ない。
 最大の問題は、天皇の万世一系の記述であり、さらには、近畿に古代日本の中心があったかのような近畿一元史観で作られていることである。それに伴って、多数の記事を、主語を替えたり、年代を操作するなどの改編が行われている。この年代移動については、説明しても納得されにくい場合も多い。そのため、随時、書紀が施したトリックのような手法などを説明していきたい。

 まずは手始めに、推古紀の任那についての記事からはじめたい。この任那は、欽明紀23年(562)に新羅によって滅亡している。その後、しばらくは、滅んだ任那を復活の試みを始める記事があるのだが、それはかなわなかった。ところが、不思議なことに、半世紀も後の推古紀に、任那のために新羅を討伐するといった記事が登場する。さらには、推古以降の舒明、孝徳の時代にも任那が出てくるのである。これらは、干支一運60年繰り下げた記事があると考えられるのだ。
 正木裕氏の指摘によるものだが、60年ずらして、それをうまく?隠そうとしていることが丸わかりの記事があるという。
 欽明紀23年に新羅が任那を滅ぼすという記事がある。その後に、天皇の新羅への怒りの言葉が延々と続く。だが、新羅討伐の準備をすぐに始めるといった記事がないのだ。そして翌月には、大将軍紀男麻呂が兵を率いて哆唎(栄山江の東側あたりか)から出発するとある。新羅討伐部隊の布陣も説明がないが、そもそも、いきなり半島の哆唎から出発とはどうゆうことなのか。実はこの前段の記事が、動かされて推古紀にあるという。同じ干支年壬午の欽明紀23年(562)が60年下がって、同じ壬午の年の推古紀に移されたのだ。注1
 推古紀31年(岩崎本は30年)には、任那滅亡から半世紀も経過しているにもかかわらず、新羅が任那を討ったという記事があり、早速、新羅討伐の準備を進めているのだ。岩波注には、「新羅が再び強固となり新羅領内における日本の旧任那の地に対する権益を犯したものか」というやや苦しい説明をされている。だが、ここに次のような人物がみえる。大徳境部臣雄摩侶を大将軍とする記事があるのだ。漢字が異なるが同じヲマロであり、書紀の編者は同一人物であることを隠したつもりなのだろうか。こうして、推古紀で、新羅討伐の為の軍が編成され、半島に渡る所まで描写される。その後に、本来の欽明紀に、半島の哆唎を出発する。このヲマロが偶然同じ名前になっただけとは考えにくい。60年動かすことで、いや、正確には元に戻すことで話がつながるのである。
 
注1. 岩波など一般の日本書紀は天理本が使われているが、小川清彦氏『日本書紀の暦日について』の指摘で、該当箇所の干支に間違いがあり、岩崎本の推古紀30年の壬午が正しいとされる。

参考文献
正木裕『繰り下げられた任那防衛戦と任那滅亡記事』 古代大和史研究会講演2024.5  など

俀
 隋書の倭が俀と表記されていることについて、これは倭国のことではなく、俀国という別の国があったという解釈が繰り返されている。だが、一般的には俀は倭に修正されて記述されている。岩波文庫も『隋書倭国伝』である。図書館で「隋書俀国伝」と検索しても出てこないところが多いのではないか。この俀の字は異体字の類いと考えられる。この点について述べてみたい。

1. 俀と倭は同じもの
①俀奴国は倭奴国と同じ。
 隋書では「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國」とある。ここは後漢書の引用であり、当時は倭は「イ」と発音。奴は「ヌ」であるので、「イヌ」国が妥当。注1 もしこの俀奴国が別の国とされるなら、関係する他の漢籍資料と出土した金印の文字と齟齬が生じる。後漢書では「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀」とある。この年代が57年であり、光武帝から賜与された金印に刻された委奴国であり、これは真印であるならば倭奴国と同義だ。北史では「安帝時又遣朝貢謂之倭奴國」であり、はじめから倭になっている。北史は隋書の内容をほぼ踏襲しているが、誤字などは訂正している。さらに他に多利思北孤の北は比としているが、この点については後述する。舊唐書では「倭國者古倭奴國也」とあり、倭国がかっては倭奴国であったと説明されている。宋史(至正5年1345)でも「日本國者本倭奴國也」とされて、日本国はもともと倭奴国であったと記しているのである。そして通例として倭国と称されている。よって隋書倭国伝と称されて何の問題もない。
 さて、俀が別の国だとする方は、この俀奴国はどう訓むのであろうか。タイヌ国とするのであろうか。やはり俀は倭に変えてイヌ国と訓むのが自然だ。そして5世紀以降の俀国は、ワ国と訓む。

②俀の字は、卑字、弱弱しい国といった蔑む表現でもない。
 俀を弱いの意味で使用したのは後世の可能性が強い。例えば倭も中国側が蔑むような卑字といった説明を見聞きするが、これも疑問である。隣接する半島の国々の名はどうなのであろうか。高句麗や新羅、百済に蔑むような意味はない。なぜ、倭国だけ貶められるのか、その根拠はない。隋は高句麗を三度も攻めたが、勝てずに甚大な被害を被っている。唐も新羅に対し、半島統一の為に多大な援助をしたのにもかかわらず、裏切られてしまった。それでも国名表記は変わらない。俀がタイと訓まれることから、大倭がタイイなので俀に変えたというのも成り立たないのではないか。ちなみに、古田武彦氏も当初は俀を別の国とされていたが、後に大倭国の意味に変えておられる。

③俀は倭の異体字と考えられる。
 中国側は隋書に関しては俀の字を倭に書き換えている。そして百済伝の倭の表記の後に校注(注釈)を入れている。
 其人雜有新羅高麗倭等 「倭」原作「俀 」。按:古從「委」和從「妥」的字,有時可以通用。如「桵」或作「㮃」,「緌」或作「綏」。「 俀 」應是「倭」字的別體。本書煬帝紀上作「倭」。本卷和他處作「 俀」者,今一律改為「倭」

 つまり、倭と俀の違いは、この漢字の右上の禾(ノギ)が爪(ツメ)となっていることである。同じような例として、㮃(ズイ、ニ、イ)が桵となり、緌(ズイ)が綏となっているのを、「禾」のある漢字に訂正しているのだ。このように爪(ツメ)を禾(ノギ)に訂正しており、俀、桵、綏の三つは同音同意の異体字として、本来の字に戻されているのである。執筆者、もしくは転写をした人物が、これら異体字を同義の漢字として使っていたのだが、これを他の人物も間違いではないのでそのままにしたということではないか。
 漢籍には異体字といったものが、いくつも存在している。たとえば、三国志には高句麗と高句驪という表記がある。この場合も、別の国であったなどと言えるのであろうか。俀国も実は倭国と同じで漢字が違うだけにすぎない。俀国とあってもワ国と読むのである。

2. 多利思北孤の北は比の誤記の可能性
①異体字だけでは考えにくい誤記が多数存在する隋書
 「漢籍電子資料庫」で「原作」で検索すると膨大な数の漢字の修正が検出される。異体字もあるが、その多くは、同音による書き違えや、文脈や他の漢籍を参考にしての書き換え、単純な書き間違えの修正など様々である。隋書で少し例を挙げてみる。
「建」原作「達」、 「預」原作「頂」、 「如」原作「加」、 「刃」原作「刀」、 「夕」原作「名」、
「政」原作「正」、 「導」原作「遵」、 「大」原作「六」、 「斗」原作「升」、 「干」原作「于」、 
「紐」原作「細」、 「爟」原作「權」、 「官」原作「宮」、 「瑞」原作「端」、 「人」原作「入」、 
「寇」原作「冠」、 「冶」原作「治」、 「勒」原作「勤」、 「州」原作「川」、 「巨」原作「臣」
 以上はほんの一部である。その中に、火を犬注2とした間違いもあれば、比を北としたタリシヒコの例もあるのである。このような事例は隋書に限らず、多数の漢籍で同様の状況がある。

②間違われやすい北と比 
           ヒコ
 現在は、北という漢字の一画めの横棒と二画めの縦棒が交差することはないが、古代においては、ほとんど、横棒に縦棒が貫くように書かれている。魏志倭人伝もすべて北は、二画目が突き抜けている。これが比の字と間違う要因になるかもしれない。先ほどの修正の中にも、「比」原作「北」の例が、後漢書に一カ所、宋書は二カ所、舊五代史に一カ所、金史に一カ所、宋會要輯稿は五カ所も存在するのである。また逆に、晋書と舊唐書では、比を北に改める例も一つずつ存在する。
 このように比と北は、お互いに誤記される可能性が非常に高いのである。

③古田武彦氏も「比」は否定されていない。
 いうまでもないことだが、ヒコは彦、比古、日子、毘古などと王、貴人の名前として使われている。魏志倭人伝にも卑狗がある。ホコという名前があっても、それは特殊な事例ではないか。
先ほどの付録の隋書読み下しでは、「南史ママ(北史)では多利思比孤とする。『北』は天子の座するところであるから、多利思比弧という当人が、敢えてした『誇称』がこの『多利思北孤』であったのかもしれぬ。」とされている。これはつまり、古田氏も本来の名がヒコと認めていたということではないか。
 ちなみに後漢書には次のような訂正がある。『東夷倭奴國王遣使奉獻 按:「王」原作「主」』この箇所では主が王の書き間違いであることは明らかだ。これをもって倭奴国に主という人物が遣使を行った、などとは言わないであろう。隋書は日本では語られないことが記された貴重な資料ではあるが、上記のような問題も含んでいる書であることは踏まえなければならないと思われる。
 
 ただ、俀については問題は残る。使用例が極めて少ない漢字だが、 舊唐書には、吐蕃が700年に阿那史俀子をテュルク国に派遣するとの記事がある。この俀子が倭子であったのかどうか、また、史記には魯の宣公俀が君主となる記事もある。そうなると、俀は、ほとんど使用されなかった独立した漢字として存在していたが、その一方で、異体字として、倭と同義で使われたとも考えられるが、このあたりは、今後、要検討としておきたい。

注1.正木裕氏のご教示による。五胡十六国以降は「(‐a)ゥワ」でそれまでの古代は「(‐i)ヰ、イ」と発音。
注2.「犬を跨ぐ」は、およそ犬での事例は見られず、日本と世界には多数の火に関わる婚姻儀礼が存在すること、火を大と誤記した事例もあることから、火を犬と誤認する可能性もあり、ここは「火を跨ぐ」が適切。

縄文刀子
        縄文後期住居跡から出土した青銅製の刀子 (山形県遊佐町三崎山遺跡)
  詳しくは、文化遺産オンライン(こちら)をご覧ください。
刀子図
 縄文時代に青銅器などあり得るのか、とお思いの方も多いはず。研究者の中には、当初、戦時中に中国から持ち帰ったものでは、などという見方もあったが、遺跡からの出土物で間違いないようである。破損しているが柄の端は環であった可能性がある。この形を真似た内反りの石刀が60点余り出土している。
 冒頭の図は、大野遼氏によるアルタイ山脈の西方の平地のアルタイにあるオビ河上流の遺跡、ジプシーの丘遺跡の刀子と三崎山の刀子の比較写真である。不鮮明な点はお許し願いたい。氏は中国殷代の青銅器にも見られる内反りの刀子であり、その起源は北方の牧畜民によるとのお考えだ。上図写真の類似性からも想定できるものだ。
遼寧省青銅器
                 遼寧省王崗台遺跡  2,5が近い形
 縄文時代の晩期に作られた石刀の中に、この青銅刀子に酷似した例があるという。中部地方から北海道にかけて、多数の石刀が見つかっているが、当然ながら、物を切るためではなく、それは、弥生時代の銅剣、銅戈と同様に祭祀のために作られてものであろう。氏は、「日本海を経て、大陸から伝わったものであり、当時の大陸の青銅器文化に対して、縄文文化の中に、いわば青銅器模倣文化というべき影響を与えたと考えられる」とされているのだが、私はこういった説明には異論をもっている。文化の影響といったものではなく、この青銅製刀子を携えてやってきた大陸からの移住民が、銅製品などつくれないこの列島の地で、代替えとして石刀を作り祭祀を行ったのであって、やがて、その子孫たちが列島の各地に広げていったのであると考える。
 縄文時代は長期にわたって閉鎖された空間で、独自の文化が育まれた、といった捉え方が根強いが、実際は、弥生時代の前から次々と移住民によって渡来文化がもたらされているのである。以下に、主だったものを列記していく。

①三内丸山遺跡の円筒下層式土器
 6000年前の東北地方に十和田湖火山の噴火後に移住した人たちによって築かれた。大陸の円筒土器が消滅した頃に出現しており、台湾でも農耕民の移住が始まった時期と符合する。
②刻文付有孔石斧(山形県鶴岡市羽黒町中川代遺跡)
 甲骨文字と類似はあっても一致するものはない。金属器で線刻との指摘。『王』を意味するとする説もあるが。石斧本体も見事な加工がされ、実用品ではなく、威厳を示すものか。大陸の馬家浜文化あたりのものとされるがそうするとおよそ6000年前になる。文字は後世につけられたものか。
③青銅刀(山形県遊佐町三崎山遺跡、縄文後期住居跡) ※同記事のもの。  他に、成興野型石棒がシベリア南部に起源をもつ、鈴首のついた青銅剣に原型があるとする西脇対名夫氏の説もある。
④鬲状三足土器(青森県今津遺跡、富ノ沢、虚空蔵)
 袋状の足をもつ鬲は龍山文化(4500年前)から。今津、虚空蔵のものは朱彩され祭祀用か。
⑤漆塗り彩文土器(山形県高畠町)
 ルーツは仰韶文化の彩陶土器 漆の木そのものも山東省付近が原産地で運ばれた。
⑥玦状耳飾り(富山県極楽寺遺跡、新潟県大角地遺跡、長野県阿久遺跡など
 福井県桑野遺跡はその他の出土装身具も中国遼寧省査海遺跡のものと一致することから渡来集団の墓と指摘。
さらにはウラジオストックの北東地域の遺跡を始原とする考えもある。
 他にも長大な石斧の埋納,土偶の象嵌など指摘されている。また研究者の指摘はないと思われるが、異形の石板や土器の文様に青銅器との類似が見られる。こういった事例についても、今後のところで取り上げていきたい。

参考文献
大野遼氏「北の時代の幕開け 日ソ合同調査計画スタート」窓 1987-09 ナウカ出版 ※刀子写真掲載
浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002
小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010
高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010
松本圭太「草原地帯における青銅武器の発達」(ユーラシアの大草原を掘る)草原考古研究会 勉誠出版 2019  ※青銅剣写真掲載

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 図はDNA分析から日本人の成り立ちの研究をされる篠田謙一氏作成の4万年前の海岸線と人類の移動ルートを表したものである。
 この三つのルートが、ほぼ定説のようになっているが、よく見るとこの図には気になる点がある。それは現在の海岸線とともに、氷期の海水面の低下で露呈した地表面の推定の海岸線も描かれている。黄海は丸ごと陸地となり東シナ海もその大部分が海ではなくなっている。②と③のルートの中間に大きく広がる大陸棚のエリアは、およそ1年に2cmほどの海面上昇でゆっくりと後退し、およそ6千年前までに完全に沈んでしまう広大な陸地があった。河岸や海岸線もあるこの温暖な領域に早くから人類は当然の如く居住し、文化を発展させていたであろう。そして、この②と③の中間のエリアから列島へ渡海した人々もあるのではないかと考える。

1.DNAで説く縄文人の由来
 先ほどの篠田謙一氏はmtDNA(ミトコンドリアDNA)のハプログループの研究から「縄文人は旧石器時代に大陸の南北双方の地域から流入した集団が、列島内部で混合することによって誕生」と考えられるとされる。さらに「そもそも縄文人は由来の異なる人々の集合によって列島内で誕生した」ならば「外部に形態の似た集団がいないのも当然のことと解釈できる」とされる。中国大陸に類似の集団がいないからということだが、ここを私は、本来いたはずの集団が移動してしまったので確認できなくなったと考えたい。
 氏はハプログループM7があって三つに分かれ、M7aが主として日本、M7bが大陸沿岸から中国南部地域、M7cが東南アジア島嶼部で、4万年以上前に生まれ、各グループに分かれたのは2万5千年ほど前だという。その起源地は、先ほどの海岸線の後退により「大陸に沈んでいる地域」と言及されている。よってM7aが日本にしか見つからないことになる。
 また北海道の旧石器時代の遺跡から出土する細石刃という石器は、シベリアからの伝播で①のルートと考えられていたが、北海道の縄文人のmtDNAのハプログループはすべてアジア起源であり、北東アジアでの文化的な接触により学んだアジア系の人たちが北海道に到達したとされる。また氏は、日本人のかなりの部分をしめるハプログループのD4aについて、誕生は1万年前ほどで、「この時代は大陸との往来はそれほどなかったと思われますので、このハプログループは弥生時代になって日本に入ってきたと考えるのが自然。」とされる。私はここに異論がある。縄文時代は人の渡来がなかったとの思い込みがあるのではないか。
 
2.あまり考慮されていない露出していた大陸棚と氷期以降の海進
 現生人類は今までのところではアフリカで誕生し、何度も移動が試みられ本格的な移動は4万8千年前に一度にユーラシア大陸に広がったという。そして3万8千年前には列島にも進出する。いずれ新たな発見で変更もあるだろうが。そして、2万3千年前には、海水面マイナス136mとなるが、その後、1万5千年前には海水面の上昇が始まる。1万1千6百年前に突然気温が7度上昇して海水面がどんどん上昇したという、そして7千年前に現在の海水面になる。ところが6千年前に、さらに海水面上昇する。いわゆる縄文海進がはじまるが、5千年前に変動もしながら徐々に海水面は低下していく。現在の海水面に戻るのは古墳時代にはいってからのようだ。
 以上のような変遷だが、縄文海進にあたる中国での表現としては、王・汪氏が後氷期の海進を巻転虫(Ammonia)海進と提唱されているようだ。マレー半島からインドシナ半島の大陸棚で広がった陸地はスンダランドと呼ばれているのだが、この東シナ海に広がっていたエリアの呼称は不明だ。不思議なことに中国の先史を含めた歴史解説書には、縄文海進に該当するような事象が取り上げられていない。
 氷期末には日本の本州ほどにもなる面積の地域をここでは便宜上大陸棚地としておく。縄文時代はおよそ1万6千年前から始まるとされるが、そのころはまだ大陸棚地が広がっていたのであり、それが1万年のもの時間にわたって徐々に海水面が上昇、すなわち海岸線の後退が続いたのだ。
 李国棟氏は、一万年前の前後に外越の人々が上陸し縄文の主役となったとし、早くに大陸棚の人々に注目した。古越人という表現もあるが、越人と言い切れるかどうかの問題はあるが、この現在は消えた大陸棚地から、縄文人となる人々が、少なからず渡来してきたのはあり得ることではないか。大陸棚地からの移住と考えられる事例をあげてみる。

3.海を渡って来た人類
 現生人類の各地への移動は、陸地がつながっているところだけを行き来したのではない。当然歩いては渡れない大河がいくつもあった。そして、各地の様々な海峡、沿岸域を船で渡っている。
 東ヨーロッパの金属器をもつステップ地帯の牧畜民は西へ進出し、既に海峡のできていたブリテン島に四千五百年前に最短でも34キロの海を渡り、大量の移住でストーンヘンジを作った先住民と完全に入れ替わっている。 
 アメリカ大陸への移動は、足止めされていた氷河が後退し無氷回廊ができる1万三千年前が定説であったが、南米のチリのモンテ・ベルデ遺跡が1万4千年前と判明。そして、新たに1万6千年前には北米の沿岸の一部が海水温の上昇で無氷状態になったことがわかり、早くに海岸伝いを船で移動していたと考えられるようになった。
 台湾の農耕民は4千年前にフィリピンに到達し、3千3百年前以降にニューギニアへと渡っている。さらに時代は下がるが、1千3百年前には、フィリピンから9千キロのアフリカ沖マダカスカルに達しているという。
 そしてこの日本でも、対馬ルートも完全に陸地化することはなく、海を渡っているのだ。中国では浙江省跨湖橋遺跡で8千年前の丸木舟が発見されている。列島に船で渡ってくることは、十分可能な事であった。次のような事例がある。宮崎県本野原遺跡の土器の圧痕から、中国南方産のクロゴキブリの卵鞘が見つかったという。4千3百年前より以前に大陸からの移住民の食料にまぎれて広がったものではないかと考えられる。確実に、大陸から、人はやって来たのだ。

4.特異な文化を持つ上野原遺跡の集団
 新東晃一氏は南九州一帯には、他地域と比較して多種多量の「第一級」の草創期遺跡が存在したという。一般的には縄文文化は東日本ばかり目立って、西日本は低調だったという思い込みがあるがそうではなかった。その代表となるのが上野原遺跡であり鹿児島県霧島市東部の台地上に約9千5百年前に定住の村が作られた。その遺跡や出土遺物のいずれもが際立った特徴を持つものだ。まずは貝殻文系筒型土器。縄文土器に四角はめずらしい。また筒形は九州では例がなく、世界的に北方系の土器に多い特徴だという。優れた技法で作られており、現代の陶芸家も「なぜこの時代にこのような技術があったのか」と感嘆する。北方系という点では竪穴住居も特徴的だ。他地域と異なる直径3~5mとやや小さく、回りを垂直に掘られた柱穴が取り囲んでいる。しかも竪穴の外側に建てるという際立った違いがある。また木材を上方で湾曲させて中心に束ねる構造。これはシベリア、アメリカ先住民、モンゴルのパオと類似する。土器も住居も北方系という共通点があった。
 土器に戻ると極めて異例の壺型土器が出現している。調理用でなく穀物などの貯蔵器として使われていたもので、それは稲作が始まる弥生時代の遺跡からしか出土しなかったものが登場したのだ。
 さらには連結土坑という一つの穴で火を焚き、もう一つの穴から出る煙で魚や肉の燻製などをしていたものも多数見つかった。同じものが三重県鴻ノ木遺跡、静岡県中道遺跡、そして千葉県舟橋市飛ノ台遺跡などで見つかっており、黒潮に乗って移動した人々が同じような調理をしたのだろう。この燻製が保存食として大移動に携行されたのではないか。
 装飾品では耳たぶにはめ込む耳飾り(耳栓状土製品)が見つかる。これは中期と考えられていた定説を見直すものであり、しかもいきなり直径12cmのものが出現しているのだ。はめ込み式耳飾りは最初は小さなものを耳たぶを穿孔して装着する。そして徐々に大きなものに付け替える。やがて、飾りを外した時の耳たぶはイカクンのようにだらりと垂れるようになる。こういうことをこの地で突然思いついてはじめるとは考えにくいのではないか。そしてこの耳飾りにはS字や渦巻の文様が施されているのだ。
 石器類は用途に応じた多様な石斧や石鏃、石皿、磨り石など大量に見つかっている。
 「定説を打ち破る新資料続出で、南九州に早咲きの華麗な縄文文化」と説明されているが、そこには大陸文化を持つ移住民の存在は全く考慮されていない。同じ時代の全国の他地域では尖底土器を作っているのに、南九州では貝殻文の円筒形平底の土器を使用していたのは異質で独特な発達という解説でいいのだろうか。
 

5.佐賀県東名遺跡の「奇跡」の技術
 佐賀市佐賀平野の吉野ケ里遺跡の南西方向にある8千年前の遺跡。居住地、墓地、貝塚、貯蔵施設など集落の構成要素がセットで確認される稀有な事例とされる。
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              図は佐賀県東名縄文館、大型編み籠
 編組製品が大量に出土したのも特徴の一つ。ドングリなどを入れていたようだが、全国の縄文遺跡で見つかったものの六割をしめ、しかも最古のものなのだ。ござ目や六つ目といった編組技法のほとんどの種類が存在するという。完成された技法を持った人々が、この地で最初から多種多様な編み籠を作っているということだろう。
 ここからは仮面習俗をおもわせる板状木製品が出土している。5か所の孔があり紐を通して顔に装着していたようだ。縄文早期に仮面の儀礼があったなら、これも最古のものとなる。
 さらにオオツタノハ製貝輪も列島最初の事例。後の富山県小竹貝塚のものは東名からの可能性がある。この貝は伊豆諸島南部以南と大隅諸島、トカラ列島など南洋の限られた島にしか生息しない。問題はこのような貝を重視する南洋の人々がいたのではないか。また列点文を施した鹿角製装身具は他に大分県国東町成仏岩陰遺跡、滋賀県石山貝塚の二例。
 東名遺跡も上野原遺跡も、九州の縄文時代早期の異例の完成された文化の突然の登場なのだ。

6.大陸棚地の流浪の民
 内陸部とはちがって海岸にも面する大陸棚地に早くから北と南の人々が移住し、定着しては独特の文化を発展させ、やがてはこの中心地で水田づくりも始めたと考えられる。漁業も盛んだったはずだ。1年に2cmほどの海面上昇はわずかでも、子供の頃の海岸線が大人になると変化していることにやがて気が付く。そして大潮と大雨や台風が重なったときに深刻な被害を受けることになる。その度に移動を繰り返し、土地の開発や新たな地で祭祀を行った。しかし徐々に海岸線は後退し、山東方面に北上するものや逆に南下するなどの移動を始める集団がでてくる。大陸棚地が完全に水没する6千年前には台湾で突然に水田耕作が始まる。これは行き場のなくなった農耕集団が南下したからと考えられる。さらには台湾から南洋諸島にも進出していく。
 対馬海流は8千5百年ほど前に始まったという説がある。すると大陸棚地がまだ広がっている時には、潮流の弱い穏やかな海面が広がっていたのではないか。船で日本と行き来するのはさほど困難でなかったかもしれない。そうすると、一度や二度でなく、かなりの頻度で、大陸沿岸と日本とを渡りあう海の民もいたであろう。漁民の中には海の東に大きな島があることを先祖から聞いたり自分で確認するものもあったはずだ。1万年前に意を決して九州島にむかった集団もいたであろう。
 上野原遺跡、東名遺跡の事例は、その完成された文化の状況が、持ち込まれたものであることを示す。じりじりとせまる海水面の上昇により移動を余儀なくされ、遂には大移動を開始し、日本に集団で移住するものもあった。適地をみつけて、これまでに培ってきた文化、信仰を継続していったのだ。
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 佐賀県神埼市の各地では「シェーとり祭り」といった汐とり行事が行われている。秋の満潮時に、川辺で榊を川に浸して鉾先につけた天狗面に振りかける、天災除けの祈願だ。東名遺跡の仮面をこれと関連付ける説明もあるが、私はこの汐とり祭りに似たものを大陸棚地でも行っていたのではないかと考える。大陸棚地の海岸は遠浅で、干満の差が激しく、高潮による被害に悩まされて、水の祭祀をかかさず行ったのではないか。
 縄文時代の解説書では『縄文海進』は漁場が豊かになるなどと解説され、そこにはマイナスイメージはない。しかし大陸棚地の沿岸に居住していた人々には、深刻な事態であったのだ。彼らは内陸部の集団とは軋轢を生み、命がけで海を渡り安住の地を探す流浪の民だったかもしれない。
 
 まとめ
①現生人類は3万8千年前に海を渡って列島へ移住し、しかもそれは一度きりでなく何度も行われ、また既成概念の単線ルートではなく大陸棚の広がった各地から渡っていった可能性がある。
②なおも海岸線の後退の中、列島への移住や南下する集団もあった。また対馬海流が始まるまで、容易に移動はできたと思われ、その集団たちが特に九州島で特筆すべき早期縄文文化を咲かせていった。
③6千年前の大陸棚地の消滅と、さらなる海進によって渡海を余儀なくされた集団が各地に拡散した。
④日本人のルーツや縄文時代の文化も、列島の各地に渡って来た移住民の存在を考慮しなければならず、決して日本の中だけで単一の文化が続いたわけでなく、弥生、古墳時代と同様に多元的に見ていかなくてはならない。

参考文献
篠田謙一「新版日本人になった祖先たち」NHK出版2019
篠田謙一「DNAが語る列島へのヒトの伝播と日本人の成立」平成27年度大阪府立弥生文化博物館図録
柳田誠・貝塚爽平「渤海・黄海・東海の最終間氷期以降の海面変化に関する最近の中国における研究」1982
小林達雄「縄文時代 日本発掘ここまでわかった日本の歴史」朝日新聞出版2015
新東晃一「上野原遺跡と南の縄文文化」熊本歴史叢書古代上編熊本日日新聞社
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡!東名遺跡」 山田康弘「縄文時代の歴史」講談社現代新書2019
李国棟「稲作文化にみる中国貴州と日本」雄山閣2015
ディヴィッド・ライク「交雑する人類」NHK出版2018

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           (写真は、新潟県長者ヶ原考古館の説明パネル)
 弥生時代のみならず、1万年あまりの縄文時代も移住者が自分たちのエリアを開拓しては、既存の集団と交流をし、文化を発展させていった。こういったことは当たり前のようであるが、研究者の多くには不思議と考慮がされていない。この理解が弱いために、縄文時代の独特の文様の土器などを理解の超える4次元の文化などと称することになり、あげくに、よほど自信がないからか岡本太郎を何度も引き合いに出して説明するという愚を続けておられる。
 ヒスイに関する説明もその典型だ。加工の容易でないヒスイ製品がなぜ作られ全国に広まったのか。これについて小林達雄氏は、「どれほど感性に訴えたとしても物理的に不利な条件(ヒスイの加工の困難さ)を簡単に払しょくすることは…できない。それをこえさせたものとは一体なんであろうか。具体的な理由をはっきり知ることはできないけれど、縄文人が辿ってきた長い歴史、経験の蓄積から醸成された総合力の意外な表れとしか言いようがない」と述べられるのだが。
 マラソンレースの例えにあるように、あくまで列島内での自生による文化の発現とされるのだ。氏は中国大陸の良渚文化の見事な玉製品を全く理解しておられない。日本でヒスイ製品が登場する縄文中期に大陸では玉文化は花盛りだったのだ。その技術をもった集団が北陸に移住し、糸魚川市姫川の海岸もしくは川沿いで理想的な透き通るような石を発見し、ヒスイ製品を大量に製造し交易をしたのだ。あわせてヒスイ以外の高度な文化をも広げていった。そのように考えた方が現実的であり、雲をつかむような「縄文人の総合力」とするのでは説明にならない。
 また最古期の縄文土器については青森県の大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡の16000年前のものとされているが、工藤雄一郎氏は、長崎県佐世保市福井洞窟の土器も同じ時期と指摘し、しかも細石刃石器群との伴出で、東日本とは異なる文化的背景の中で土器の使用がされたと指摘。これによって土器は日本列島で多元的に出現したのか、と自問される。縄文時代も多元的に考えなければならないと指摘されだしているのだ。マラソンコースは単純な1本ではなく、何本ものコースがあったといえる。
 小林達雄氏の論調は、縄文一元論と言えるのではないか? 現実を直視せずに、既定の考えにはめ込んで説明する点において、それは、珍しい遺物が出れば何でもヤマトと結び付けて説明しようとする、かたくなな近畿一元論とも共通するように思える。

参考文献
浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002
小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010
高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010
工藤雄一郎「後期旧石器時代から縄文時代への移行期の再検討」(再考!縄文と弥生)吉川弘文館2019

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