流砂の古代

古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。縄文の話題。近畿一元史観ではない多元的歴史観について。古田史学の会の応援など。

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 CDが登場してから、レコードは聞かなくなって、オーディオも処分してしまっていたが、CDより音がいいという評判の声もよく聞かれるようになって気になっていた。ただ家にはやんちゃな猫さんがいるので、迷っていたが、まあ試しにと安価なプレーヤーを購入してみた。もう30年以上も聞かなくなって屋根裏に放置していたレコードを聴いてみて、巷で言われる通り、音が違うなと実感。その最初に針を落としたのが、喜多郎のシルクロードのテーマのレコードで、少し温かみを感じる音に感激。何度も聞いたはずの曲なのに、新鮮な気持ちで繰り返し聞くようになった。
 そのジャケットの素敵なデザインを眺めていたが、ふと中を見ると、もうすっかり忘れていたのだが、付録が入っていることに気が付いた。
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 広げてみると昔懐かしい初期のランドサット衛星のシルクロードの写真。現代では、グーグルで解像度の良いものを当たり前のように見る事ができるけど、当時としては、とても貴重な40年前の私にとってはお宝のような記録写真の付録だ。
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 その地図を音楽を聴きながらぼんやり見ていた時に、楼蘭の近くにロブ湖とあるのに気が付いた。ロプノール湖と言われている幻の湖が、やがて流砂にうずもれてしまうかのようなか細い姿で写されていた。それでもまだ琵琶湖より広いかもしれないが。さまよえる湖だとか、その存在については議論もされてきた謎の湖だった。消滅したはずが、20世紀の初めに復活していたようだ。その姿をはっきりと見る事ができるのは貴重なものではないか。
 この衛星写真がいつ頃撮影されたものなのかはよくわからないが、レコードの発売が1980年で、ランドサットの最初の打ち上げが1972年なので、70年代後半のものとなろうか。まだその頃には水を湛えていたことになる。(写真の図は着色加工されているので、少し水増しして描いた可能性もあるかもしれない)だが今はグーグルで見ても、ヒトの耳の形のような痕跡を残しているだけだ。復活した湖がまた消えてしまったことは残念だが、これも栄枯盛衰の人の世のはかなさと重なるような気がする。古代に活躍しながらも、やがては新たな動乱で姿を消してしまう集団、民族が無数にあったに違いない。そのような歴史から消えてしまった彼らの痕跡を少しでも見出すことができればと思う。

おたふくナツメヤシ
 垂仁天皇は田道間守(タヂマモリ)を常世(とこよ)の国に遣わし,非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせた。しかし、手に入れて戻った時には天皇は亡くなっていた。田道間守は泣き叫んでその場で命を絶ったという。そしてこの非時香菓は古事記、日本書紀とも今の橘であると記している。しかし小学館の古事記の注釈にも、タチバナは古くは柑橘系の総称だが、これが現在の何にあたるかは未詳とされる。魏志倭人伝に記されている橘も今と同じものかどうかはわからない。現在の橘は酸味が強く食用ではない。これが他の食することができる種類の柑橘系や果物類だとしても、はるか遠方からだと持ち帰るのは無理であろう。では古事記や日本書紀の記述に対応できる非時香菓はどのようなものか、以下に論じたい。記紀の該当する箇所の原文は最下段に記す。

【1】記紀にある田道間守の説話
 古事記では彼は常世国に到っている(遂到其國)ことから、実際に存在した地域であったと考えられる。縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)は書紀では八竿八縵と前後入れ替わっているが、同じ意味であろう。天皇と大后に半分にして献じているが、この箇所については後でふれたい。
 タジマモリは天皇の墓の前で泣き叫んで殉死している。書紀も同様の記述がされ、さらに古事記では大后の時に、石祝作(いわきつくり)が墓室づくりの役で、土師部が祭祀用の器物受け持つもので、葬送の儀礼を行う部民を定めたとすることからも、この橘は葬送儀礼に関係していると考えられる。

 古事記の「登岐士玖能迦玖能木實」は日本書紀では「非時香菓」と記されている。その漢字が、完全に意味を示す文字をしめしているかどうかはわからないが、非時は時を定めない、常時あるものの意。これを年中絶え間なく実ができる木と考えることはないであろう。葉が落葉しないものは多くあるが、これは保存可能な木の実ととらえていいであろうか。香菓はその漢字から香りの良いものと思ってしまうが、この場合の訓みの「カク」は古事記の注では輝くさまを表すのだという。小学館の書紀では黄金色に輝いていることとする。太陽光線で照り返すようなものは考えにくいが、黄金色なら候補はあるであろう。この点についても後述する。
 田道間守は、泣きながら、常世の国がはるか遠くの地で、人がとても容易にたどり着けないところだと語っている。古事記と違って書紀は常世国の特徴をくわしく記述しており、その場所をおおよそ推測できそうである。漢籍の転用も考えられたが、書紀集解には関連するような漢籍の例文はあっても直接引用されたものは認められず、何らかの伝承を漢文にしたのではないかと思われる。田道間守は天命を受けて、「遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水」とてつもない遠方で、弱水を渡るとある。その弱水については検索すると多数の用例が見られる。

【3】中国の古典に多数見られる弱水
『晋書』列伝には「跨弱水以建基」とある。ここでは跨ぐとあるので、弱水は河のことであろう。
『旧唐書』列伝第五十四は「娑夷河,即古之弱水也」とあって、娑夷河がかっての弱水であったとしていることからも河川名であろう。そしてその場所を表した記事もある。(注1)
『三国史』魏書の注釈には「弱水在條支西、今弱水在大秦西」
『漢書』西域傳では「安息長老傳聞條支有弱水」 この條支は西アジアあたりの国と考えられるので、弱水は中国からはるか西方の河と考えられる。
『史記』大宛列伝「或云其國西有弱水、流沙,近西王母處,幾於日所入也」中国からは日の入る所とされるはるか西方にあって、しかも、流沙は砂漠地帯のことであり、そこを流れる河が弱水で間違いないであろう。
『漢書』金城郡「西有須抵池,有弱水、昆侖山祠」 さらに
『漢書』西域傳「昆侖之東有弱水」とあることから、昆侖は伝説上の山とされる。書紀では神仙のかくれた国と記しており、神仙思想の表現も取り入れられていることから、書紀の弱水と同じものと考えられる
 すなわち漢籍に見られる弱水は、河の固有名詞であり、日本書紀はその弱水を渡っている。それがはるか西方の地であることから、西王母や神仙思想とも関連付けられたと考えられる。
 なお漢書司馬相如伝下の顔師古注に「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」とある。ここに「毛車」が登場するが、唐の時代までの漢籍にはほかには見当たらない。私はこの「毛車」を、砂漠を渡るのに欠かせないラクダのことではないかと考えた。帰国の際の峻瀾(高き波)は当然海を渡って帰ったことを示している。
 天皇がわざわざ使いを出して求めたということは、近隣にはない珍しいものとなろう。さらに王が所望するものは不老不死につながる場合が多い。またそれは美味なものとも考えられる。以上から探し求めた非時香菓は、はるか西方の砂漠地帯の樹木の育っている地域、すなわちオアシスにあるものではなかろうか。そこに育つ代表的なものがナツメヤシであり、その実をデーツという。
 
【4】最古の栽培植物、そして聖樹であるナツメヤシとその実のデーツ 
 北アフリカからペルシャ湾岸地域で生育する常緑で高木のヤシ科植物である。メソポタミアでは紀元前6000年頃より栽培がされたようだ。今でも砂漠の中のオアシスで青々と茂っている。単茎で通常基部以外では分枝はせず、葉の全体の形は羽に似た形状である。人工授粉で栽培を行っており果実は多数が房状に結実する。この果実はデーツと呼ばれ、ビタミンや糖分を多く含み、黒糖のような甘味がありそのまま食べたり、料理や加工して菓子としても利用されている。干した実は保存がきき、遊牧民やオアシスで暮らす人々にとって欠かせない食料となる。健康食品に関心のある人以外には、日本人にあまりなじみのないものだが、実はオタフクのお好み焼きソースなどに早くから使われているようだ。さらに薬効としても期待された。果実から蜜を取って酒もつくる。樹幹は建材になり、葉は籠やむしろ、編み籠、マット状の敷物や屋根を葺く材料にもなる。さらに団扇や箒にもなる。
 栄養価の面で優れている。銅・鉄・亜鉛などの栄養素は貧血予防や抗酸化作用も期待できる。さらに甘みがあっても血糖値の上昇度合も低いようだ。マグネシウムや食物繊維も豊富で、古代においても大変貴重な木の実であった。この特徴から、王が美味で不老不死の食べ物と考えて求めさせたのは無理もないことなのだ。しかも熱帯地域以外では育たないから、近隣に求めることはできなかった。
 デーツは保存がきき、生で食べられることから遊牧民やオアシスの人々の欠かせない食料源であったことから、非時がいつもあることとつながるのである。香実はかくのみで、香りではなく輝く実という意味と解釈されている。デーツは熟せば飴色、まさに輝くような黄金色になるのである。シュロ 植木市場の写真
 よく混同される棕櫚(シュロ)はミャンマーや中国中央部にみられるヤシ科シュロ属のヤシであり、耐寒性がある。これが日本では棕櫚という用語でヤシ科全般を指す用語になってしまっている。聖書に出てくる樹木を本当はナツメヤシところを棕櫚と訳出してしまったことも混同の一因とされるが、あくまでキリストと関係するのはナツメヤシである。パルメット文様の元もこのナツメヤシと考えられている。

【5】八竿八縵の意味
 さて、解釈の定まっていない八竿(ほこ)八縵(かげ)、古事記は逆で縵八縵・矛八矛である。小学館の注釈では、竿は串刺しにしたものの助数詞、縵は葉のついたままのものの助数詞とある。だが岩波の注では縵は干し柿のようにいくつかの橘を縄に取り付けた形状とされる。以上の説明ではわかりにくい。オタフクデーツの様子しかし、これもナツメヤシに実るデーツの状態を見れば理解は可能である。一本の軸から枝分かれして紡錘状にたっぷりの実がついている。その一本に実が連なるような状態は、干し柿をつるしているかのようだ。また軸から離して乾燥したものを袋に詰めた状態も考えられる。みたらし団子のように串に刺した可能性もある。どちらが竿か縵かわわからないが、これは商品売買の際の単位といったものではないだろうか。シルクロードの商人たちのデーツ販売形態を表現したものと考えたい。古事記では大妃に四縵・矛四矛を分けたというのも、これで理解しやすくなろう。

【6】はるか古代から聖樹とされたナツメヤシ
 現代でも、ムスリムの慣習として、赤ん坊が最初に口にするものであり、また断食明けの食べ物としてこのデーツが使われる。アヌビス神古代よりナツメヤシは人々の信仰、儀礼と結びついている。
 枯死した葉の落ちたところから新しい葉が出てくるナツメヤシは、不老の象徴であった。エジプトでは葬儀の際にはナツメヤシの葉を携えて行列し、ミイラやそれを納めた棺の上に置いたという(注2)。ギリシャ神話では、太陽神アポロンは、デロス島のナツメヤシの元で生まれ、その木がアポロンにささげられて聖樹となった。古代ローマでは、死者を冥界に送る儀式を司る神アヌビスは、1世紀のローマのイシス神殿の祭壇浮彫に、左手に壺とともにナツメヤシの葉を手にしているところが描かれている。
 また、ティグラネ墳墓璧の厨子の図像には、女神がナツメヤシを両手に持ってかざすものがあり、これは死者を守護していることを意味している。ミイラ守護初期キリスト教会は、キリスト教徒が迫害された際の、死に対する勝利の象徴とした。絵画の中で殉教者の持ち物として、またイエスの洗礼の背後にナツメヤシが描かれている。    
 以上の内容は、聖樹であるナツメヤシを持ち帰った田道間守が垂仁天皇の後を追って殉死することと符合する。ナツメヤシの葉をかざして死者を守護する構図ともなるのではないか。さらには古事記にある、石棺や石室を造る石祝作、埴輪や祭器を作る土師部を定めたという記事も葬送儀礼の点でも重なるのである。

【7】デーツと類似点のあるナツメ
 よく混同されるものにナツメ(クロウメモドキ科、落葉高木)がある。地中海沿岸から中国まで見られ、乾果は生食できる点などナツメヤシとの共通点も多い。中国、朝鮮では古来、冠婚や正月に欠かせないものであった。奈文研ブログに「ナツメのはなし」が掲載されているが、漢方薬としても使われ、神仙とも結びついていたという。九州糸島の平原古墳でも出土している方格規矩四神鏡や三角縁神獣鏡の銘文にこの棗(なつめ)が見られる。「尚方作竟眞大巧 上有仙人不知老 渴飲玉泉飢食棗」(上に仙人ありて老を知らず、渇えば玉泉を飲み、飢えばなつめを食し)
 また、平城京の長屋王邸跡からも棗と書かれた木簡が出ている。中国では一日一粒で百歳まで老いないと考えられたので、長屋王も棗を所望したのであろうか。ナツメヤシのあるオアシスが神仙の地と考えられたことと類似する。
  
まとめ
 日本書紀の記述から非時香菓は、中国のはるか西方の弱水の地を渡った砂漠の中のオアシスに生息するナツメヤシと考えられる。保存が出来て栄養もある木の実のデーツが、王が求めたものとしてふさわしいものであろう。さらに葬送儀礼と殉教に関わる聖樹信仰の点でも、殉死後もナツメヤシを持って天皇の墓を守護する田道間守の説話の構図と重なるのである。田道間守が実際に砂漠のオアシスに行ったとは考えにくい。おそらくは西方で語られた説話がシルクロードの民を経て氏族の祖先譚として記紀に取り入れられたと考えられる。書紀も古事記も橘と記しているのは気になる問題であり、古代の地名や人名などの点から検討していきたい。
 なお、田道間守はお菓子の神様として祀られているが、甘みがあってお菓子の材料となるデーツと関係するならば、あながち無関係とはいえないかもしれない。
    

注1.「オクサスの南北」というブログに弱水を娑夷河とするなど、田道間守と関連させて論じられる記事がある。
注2.ここで関係するのが天若日子の葬儀の行列である。河雁をきさり持ちとし、鷺を掃持(ははきもち)とし、・・・  とある。この掃持は箒を持つのである。その箒は葉で作られたものであるが、元はナツメヤシの葉からきていると考えられる。現在でも西アジア方面ではナツメヤシの葉が箒として使われている。ちなみにナツメヤシの葉はホウスという名で呼ばれている。

【古事記垂仁記原文】
天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。

【日本書紀垂仁紀原文】
九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歲。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。
明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流淚也。田道間守、是三宅連之始祖也。

参考文献
前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」金沢大学考古学紀要巻 25ページ 64-73発行年 2000-12-25 ネット掲載
甘粛人民出版社「シルクロードの伝説」濱田英作訳 サイマル出版会 1994
岡田温司監修「聖書と神話の象徴図鑑」ナツメ出版 2011
遠山茂樹「歴史の中の植物」八坂書房 2019 
石山俊・綱田浩志「ナツメヤシ アラブのなりわい生態系2」臨川書店 2013
中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」文教大学 言語と文化 題27号 ネット掲載
北村泰一「タクラマカン砂漠の幻の海」(「タクラマカン砂漠の幻の海」古田史学HP)
韓永大「古代韓国のギリシャ渦文と月支国」明石書店 2014     
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001

写真のナツメヤシは、オタフク様のHP 「オタフクノート デーツコラム 歴史篇(古代文明)紀元前からの贈り物、デーツ」「知っておきたいデーツ情報~デーツってどうやってできるの編~」掲載のものを使わせていただいた。
シュロの写真は、植木市場様のHPより
アヌビスとミイラ守護の図は前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」より。

※本稿の初出は2022年10月6日に豊中研究会にて発表、古田史学会報№173掲載のものを一部改定したものです。

土版大湯
    秋田県鹿角(かずの)市大湯環状列石後期BC1800頃 高さ5.8cm

 滋賀県のミホミュージアムの土偶展で見た時に、とても小さくてかわいいと思いましたが、これをシャーマンが呪術などに使ったかどうかはわかりません。だがこの土版、小型であっても縄文人がある程度の数字の認識、簡単な算術を駆使していたことを示す重要なものと思われます。
 口が1、眼が両目で2、右胸が3,左胸が4、中央の線(土偶によく見られる正中線)が5,裏側の後頭部の左右の3+3が6と、体の部位が穿孔や刺突点で表されるという、極めてユニークなヒトガタの土版です。なお、中央下部の四角は、東北の土偶によく見られるふんどしや下帯の表現と考えられます。
 特に興味深いのは、裏側の後頭部の左右の3と3で、ちょうど耳を表しています。そうすると、縄文人は、言葉として耳のことを3と3の「ミミ」と呼んでいたのではないかと思ったりします。しかしこの場合は次のような疑問も生まれます。では、口は1だから「ひー」と呼んでいたのか、眼は2だから「フー」と呼んでいたのかと突っ込みが入ってしまいます。よって、耳のことを「みみ」とか「みー」と呼んでいたかは、可能性はあっても断定はできないことになります。

 研究者の中には、他の数字の表現と考えられる刺突点のある土偶などと合わせて論及されておられる方もいます。ただ少し気になることがあります。
『算術する縄文人』で藤田富士夫氏は、この土版のところで、顔面表現である耳がなぜ裏面、後頭部に描かれているのかが疑問だったが、表裏関係の数字資料と見れば疑問は解決するとし、胸と正中線の3+4+5の合計12で、裏面は3+3の6でその倍数が表側の合計の12となるとされます。他の事例も出されながら、これらから2倍数の関係が示されるというのです。ただこれは納得しがたいです。そもそも、耳表現を裏側に回したのは、顔面が目と口があって、これ以上は点を彫り込めなかったからに過ぎないのではとも思えます。だいたい、表側の眼と口の合計3を無視して、2倍数だ、などとはちょっと無理かなと。
 同様に、小林達雄氏は、同じく耳の3+3に関して次のように述べておられます。「6を単純に3と3の分かち書きしただけではなく、整数を二倍することで霊力を倍加させる効果を目論んでいた可能性が高いとみる。」と説明されていますが、これは、先の藤田氏の論考を受けてのものかと思いますが、「霊力を倍加」する意図があったのかどうかはむずかしいところです。さらに気になるのが、続けて「この2倍効果は世界各地の民族誌にいくつもの例をみる通りである」とされて、その付注で、「かって大林太良先生にご意見をおうかがいした所、御賛同を得た」とのお墨付きとなっています。しかし、具体的な世界の民俗事例の紹介はありません。はたして「2倍効果」といったようなことが言えるのでしょうか。
 三浦茂久氏は、和数詞と織物の作業の糸の数に、倍加法が見られるとされています。
「和数詞は、ヒト(ツ)・フタ(ツ)、ミ(ツ)・ム(ツ)、ヨ(ツ)・ヤ(ツ)、イツ・トヲのように音韻を変化させた倍加法によって成りたっている。これは、織物に用いる経糸を整経するとき、糸を指・へら、経箸などに掛けて、滑らしながら引き出し、杭・木釘に掛けて戻る作業に起因する。(中略)そうすると一本の糸は二本に生まれ変わる。三本ならば六本に、四本ならば八本になる。これら倍加法の和数詞は、延ばした糸の名が変化した語である、そして機を織るとき、半数の糸が上糸、残りが下糸になる。古代日本の整数八、八十は糸の四筋八本を一手、四十筋八十本を一升(ひとよみ)とする織物作業の単位であった。たとえば四本の糸を延(は)えて十回往復すれば、八十本一升となる。これらの習俗は中国南部の江南付近から韓半島や日本に持ち込まれたものらしい。かって織物は多くそれぞれの家庭で行う自家生産で、主に女性が機織りに従事していた。」
 織物作業の中で、しぜんと数字の倍加法を駆使するようになったということではないでしょうか。そしてこういったことから、倍数の考え方が、広く使われるようになったというのが、世界の民俗誌にあるのかもしれない。小林氏の民俗誌の例で縄文の2倍効果を判断するというのであれば、織物の例とは異なるようなもう少し具体的な事例を出されないといけないのではと思われます。そうでないと、数字を2倍することが霊力を倍加させるとか、どうしてそんなことが言えるのかと疑ってしまいます。
 小林氏はさらに、三内丸山遺跡の六本柱もまた3本と3本が向き合い、合わせて6本というのが重要で、「縄文に根ざすアイヌ文化において6が聖数であることにつながる」「元を糺せばアイヌの6も実は縄文観念以来の、聖数3に由来し、二つの3の合体を意味するのではないかと考える」といわれるのですが。織物の事例をあげましたが、縄文時代にも編み物による篭などが見つかっています。簡単な機織りも行っていたのではないでしょうか。そうすると作業していた縄文人たちも、自ずと数を倍加法でみることを身に着けていたとも考えられます。そのような中で、おそらく一人の女性が、この3+3を6とする数字を表現した土版を作ったと想像してもいいかもしれません。
 ここは、むずかしく考えずに、縄文人の遊び心による作品として鑑賞すればいいのではと思いますが、もちろん列島のみならず大陸で新たな類似の表現の出土例があれば、数と信仰に関係する研究を深めていただいたらと思います。

参考文献
藤田富士夫『算術する縄文人』 ネット掲載 元は『列島の考古学Ⅱ』所収の「縄文人の記数法と算術の発見」
小林達雄編著『世界遺産縄文遺跡』同成社2010
三浦茂久『銅鐸の祭と倭国の文化 古代伝承文化の研究』六一書房2009

写真は、HP「北海道・北東北の縄文遺跡群」より

※三内丸山遺跡の6本柱の復元の問題点については、こちらで説明しております。

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