流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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           滋賀県鴨稲荷山古墳復元された広帯二山式金銅冠

 ネットで閲覧できる「令和3年度第2回むきばんだ遺跡土曜講座」に次のような解説がある。
広帯二山式冠分布図

 「広帯二山式冠(ひろおびにざんしきかん)は、国内で出土。花形方形透し文をもつ。
 冠は継体王権の威信財として畿内を中心に分布。 5世紀末~6世紀中頃」とのことだ。気になる所があるので、少し説明したい。

1.葬送儀礼で使われる冠

 まず、広帯二山式冠とされる図が、これでは「二山」としている意味がわかりにくい。この図は滋賀県の鴨稲荷山古墳の冠のスケッチだが、帯を広げてみないと「二山」とは思えないであろう。次の図は左が江田船山古墳、右が茨城県三昧塚古墳のものだが、このように帯を広げると、「二山」であることがわかる。
江田、三昧塚
藤ノ木舟
     藤ノ木古墳金銅製冠 樹木に鳥が停まるゴンドラの船が描かれている

 また「継体王権の威信財」とされているが、はたしてそうと言い切れるであろうか。既にこちらでも説明しているが、鴨稲荷山古墳の冠の場合は、中央についているのは船形埴輪と同じ形状のデザインだ。有名な藤ノ木古墳の冠には、樹木とともに鳥が停まっている船がいくつも描かれている。また茨城県の三昧塚古墳の金銅製冠は馬の意匠が左右対称に4頭ずつ描かれている。これらの馬や鳥、船は、死者を送るためのものと考えられる。日本出土のものは、それぞれ意匠が独特であり、統一的な規格で作られたわけではないので、位階を示すものとは考えにくく、埋葬時に被葬者に供える葬送儀礼用のものであろう。同様に飾り履という歩揺やスパイクが付いたものも、決して実用の履とは言えないと考えられる。

2.栄山江にもあった広帯二山式冠は、日本のオリジナルとは言い難い

 さらに次が重要な問題だ。「畿内を中心に分布」とあるが、だからといって日本独自のものとはならない。実は一例だが、朝鮮半島からも出土している。それが半島の前方後円墳である新徳1号墳である。飾り履や金製耳飾りなど豪華なアクセサリーが副葬されていたのだ。
 そうなるとこれは日本で多数の出土があるのだが、百済からの制作技術の移転、すなわち百済系の渡来工人によって列島で制作されたと考えられる。冠の文様が百済系の飾り履と酷似する亀甲文であることも傍証となり、新徳1号墳の例も百済系工人によって製作された可能性が高い。(高田2019)。
 新徳1号墳は、典型的な北部九州系の石室に、百済系の装飾木棺、そしてアクセサリーなどの副葬品から百済と倭との密接なつながりを読み取れ、その一方で、墓前祭祀に用いられた多量の土器は、現地で制作されたもので、それぞれの社会の複雑な関係性の中で、新徳1号墳が築かれたととらえることができる。広帯二山式冠が列島からの出土がほとんどで、あとの一例が栄山江流域の前方後円墳であるから、これが日本独自のものだとは言い難い。
 以上のことからも、栄山江流域に築かれた前方後円墳が倭王権の支配を示す根拠にはならないのである。

三昧塚列点文
波線の中に点・円文が連続して描かれている

池山洞金銅冠

七観山古墳 金銅製帯金具

           大阪府堺市七観山古墳金銅製帯金具の波状内列点文
 
 なお私見では、先ほどの三昧塚古墳の馬の意匠をもつ冠のデザインには注目すべきところがある。そこには帯の周縁部などに波状内列点文が施されている。図にあるように帯金具などにも施されている。さらに同じような文様が、加耶や新羅の冠などにも多数認められる。すると、この広帯二山式冠には、加耶・新羅の要素も加わっていることになり、さらには藤ノ木古墳金銅製冠のティリヤ・テペの意匠との類似などきわめて国際色豊かな美術品となるのである。
 
 以上のように、広帯二山式冠は、天皇の威信財とは言い難く、また日本の独自の冠ともとらえられない。さらには、栄山江流域の前方後円墳をどうとらえるかという点で示唆的な文物となるものであった。なお、この広帯二山式冠の分布は、継体とされる男大迹(おほど)の勢力と関係が認められる点については、また改めてふれていきたい。

参考文献
辰巳和弘『他界へ翔る船』新泉社2011
高田寛太『「異形」の古墳』角川選書2019
韓永大『古代韓国のギリシャ渦文と月支国』明石書店2014

 宋書倭王武の上表文の記述に
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國
ある海北95国が、倭の勢力の半島支配を示していると考える方々がけっこうおられる。
 その半島支配の根拠として、栄山江の前方後円墳を持ち出されるのだが、それは無理であることを説明したい。すでにこちらでは、栄山江以外の問題を説明している。

①栄山江の前方後円墳は5世紀末から6世紀前半という限定された期間だけの造営
 そうであれば、武の上表文の話は、祖先の業績を讃えているものであり、それは478年以前のこととなるのであって、時代の下がる栄山江はなんの証明にもならない。さらに以下に付け加えていきたい。

②列島の中の渡来文化はどう説明するのか?
外国に前方後円墳があるから、倭国の支配を示している、などと考えるのであれば、列島の中にある半島勢力の特徴が数多くみられる状況は、どう説明するのでしょうか。近畿地域には、片袖式の横穴石室が多数見られるが、それは百済系と言われている。すると、近畿は百済勢力が支配していた、というのでしょうか。

③前方後円墳の配置された場所の問題
 栄山江の前方後円墳と在地の高塚古墳は、排他的ではなく併存するかのように作られていると指摘されている。

④様々な特徴を持つ栄山江の古墳
 栄山江の古墳の埋葬施設の構造、副葬品などは、倭系だけでなく百済系や加耶系、そして在地系の特徴なども見られます。
 例えば、月桂洞1号墳は、石室については、特に熊本に多くある石屋形の埋葬施設であり、他の栄山江の方円墳や円墳も多くが熊本や福岡の古墳の特徴をもっているが、一方で、石棺と共に銀で装飾した釘で組み立てて、環座金具を取り付けた装飾木棺となっており、これは百済の特徴をもっている。
新徳1号墳は、武寧王陵と同じくコウヤマキ製の木棺があったことから、被葬者は百済系と考えられる。そこに百済の金銅製の冠帽や飾り履、金製の耳飾り。また新徳2号墳は百済式の石室になっている。

⑤九州式石室に甕棺が埋葬されている例もある。

横穴式甕棺
 伏岩里3号墳という円墳では、九州式の石室の中に甕棺が4基も埋葬される例がある。倭国の古墳ではありえないことだが、この栄山江流域は6世紀まで連綿と甕棺による埋葬が行われてきたことから、被葬者は在地の人物と考えられる。経緯は不明だが、わざわざ九州式の石室を造らせたのであろう。

⑥墓誌があったから百済王墓とわかった武寧王陵
 栄山江ではないが、一例として。武寧王陵はその出土物の大半が中国系の器物であって、百済系の須恵器などは皆無であったことから、もし墓誌がなければ、被葬者は中国系百済官人、中国系有力者などとされていたかもしれないという話がある。出土物などで出自を判断するにはこういった問題もある。
 
 以上のように、栄山江流域の6世紀前半の古墳の状況はそう単純ではなく、それに伴い様々な説が乱立している。被葬者の性格については,亡命倭人説,倭から派遣された倭人説,土着勢力説,百済が派遣した倭人説、倭人の百済系官人説などが提示されているが,未だ見解の一致をみていない状況である。
 次のようなユニークな説もある。林永珍の馬韓系亡命客説は、百済の勢力拡大で北部九州に移住した集団の一部が、磐井の勢力拡大などで、再度栄山江へ亡命し、現地埋葬で継承無しだという。
私見では、東城王の護衛で渡った倭兵が、引き続き栄山江支配に使われ、そのリーダー格が埋葬されたと考えている。実は、この見方を支持するような見解がある。
 金洛中氏は、栄山江流域における倭系文物には、帯金式甲冑や各種の武器に関連するものが多い。その一方で、日本列島における百済・栄山江流域の文物は、オンドルなどの住居施設や炊事用土器などをはじめ、渡来集団が移住・定着したことを示すものが多い。このような非対称性は、高句麗との緊張関係にあった百済王権が倭の軍事的支援を必要とした状況や、倭人たちが百済に進出し活動した理由が、移住・定着ではなく、比較的短い期間に終えることができる活動(軍事的支援)などであったことを示している、というものである。まさに、九州から護衛を兼ねて渡った倭兵の痕跡が残っているのではなかろうか。

 いずれにしても、栄山江の前方後円墳の存在だけをとりあげて、九州勢力の支配があったなどとはいいきれない。そんな単純な問題ではなく、まだまだ新たな調査研究が必要な課題である。

参考文献
高田寛太『異形の古墳』角川選書2019
金洛中『古墳からみた栄山江流域・百済と倭』(国立歴史民俗博物館研究報告・第217集)弘文社2019

宝剣額写真の出所
 図は、最初に東日流外三郡誌として製本化された市浦村版にある宝剣額の写真である。ここには写真の掲示と簡単な説明があるだけであった。そこには、寛政元年八月に秋田孝季と和田長三郎が祈願したことが記されている。
 しかし、和田喜八郎は、この本の「薦言」で、和田長三郎が寛政2年に神職を嫌って土崎に住んで秋田孝季の長女と結婚、その縁で秋田孝季と調査の旅に出たと説明している。これはおかしい。秋田孝季と和田長三郎の二人は、寛政元年に、奉納しているはずだが、その翌年に孝季の長女との結婚をきっかけ(縁)に調査をはじめた、との説明は食い違っているのである。
 このことだけでも、そもそもがあやしい宝剣額だが、そこに書かれた神社という表記についてふれておく。

 日吉神社があったかどうかではなく、呼称としての「神社」は明治以降のものであった。

 2回連続で取り上げた寛政宝剣額には、「奉納御神前 日枝神社」と書かれている。これについて偽書派は、江戸時代に日吉(日枝)神社は存在していないと指摘し、対して反偽書派は、史料によって実在の証明を行っている。ただここで注意が必要なのだが、偽書派が、日吉神社そのものが存在していないと主張されたのかどうかがわからないが、江戸時代にこの神社の前身となるなんらかの信仰施設があったとしてもそれはおかしくはない。
 しかし次が問題で、そのような信仰施設に対して、〇〇神社という一般的な呼称がはたして江戸時代にあったのかどうかということである。つまり、呼称としての神社は明治になるまでなかったのではないかということで、この点について以下のような説明がある。

 宗教学者の原田敏明氏によると「神社という用語は新しいもので、明治以後のこと『延喜式神名帳』に出てくるのは、何某の神の社であって何某の神社ではない。個々の社号はなかった。出雲国風土記も何某の社となっている。」とのことだ。日本書紀天武13年10月「寺塔神社」は「てらやしろ」との訓みが入り建物の呼称として使われているのだという。
 神社が普通に用いられたのは、明治初期に国家の管理になってから神社の呼称が広まったからであったようだ。
 柳田国男も、「長野県町村誌によると、明治以前の神社には、各地の思い思いの名称が附いていた。そうして村々の小さなものは、大抵は社又はヤシロの名を以て呼ばれていた。それがいよいよ台帳に登録されることになって、村持のものはどんな無各社でも、すべて神社ということになったのだからおお悦びであった。」(全集第11巻)
 つまり、村が神社にしたら、社地が免税になるから大喜びしたのだ。これがきっかけとなって、全国で「神社」という呼称が使われだしたのである。(『神社称呼に関する一考察』米地実· 1972)
 
 つまり、問題の青森県の日吉神社は、古くから実在していたとしても、その呼称としての〇〇神社は明治からほぼ一斉に切り替わったもので、それまでは、〇〇のヤシロ、といった呼称であって、それを江戸時代の奉納額に〇〇神社と書くことはありえない、ということなのである。
 よって、寛政宝剣額の「奉納御神前 日枝神社」は、明治以降から現代に書かれたことを物語っているのである。鑑定結果も、その字体などは現代のものとされている。
 偽書説への反論は、なにか問題のすり替えを行っているように思える。現在の日吉神社が、江戸時代に「山王宮」として存在していた可能性は、史料に拠ってありうるが、〇〇神社と呼称されていたわけではないのである。

 もし万が一、江戸時代に〇〇神社という呼称があって、実際に、青森県の某所でも日吉神社と呼ばれることがあったとしても、それは宝剣額の実在を示す根拠とはならない。
 戦前から額が存在したという証言をする証言者には疑問があること。和田喜八郎が神社にあったものを教育委員会に預からせたという経緯も疑問であること。
 また、最初に記したように、喜八郎の和田長三郎と秋田孝季の出会いの説明に矛盾があること。当神社の宮司が、額が教育委員会の預かりになったことに無関心であったこと。鑑定により、現代人の書いたものであること。東北地方には多数奉納されている宝剣額のなかから、ちょうど「寛政元年」と書かれたものを「調達」して、そこに手をくわえることはすこぶる容易であること、などである。
 
 この奉納額が秋田孝季が祈願をしたという証明にはならないことからも、『東日流外三郡誌』が偽書であることを否定できないのではなかろうか。

 津軽外三郡誌の和田喜八郎は、他人の写真を詐称して自分の著作に掲載し、裁判で慰謝料40万円の支払いを命じられたが、他にも悪用されているものがいくつもあるようだ。
グラビア仏画
 『東日流外三郡誌. 補巻』 北方新社版 グラビア写真最初の図

①降魔弥陀図(天真名井家関係遺品) と記載の図は?
 AIの活用が広がっているが、調べたいものの写真などをかざすと、すぐに、関連品が出てくるというグーグルレンズも便利だ。出所がわからないものを、グーグルレンズで検索すると、その元の情報がわかってしまう。
 この東日流外三郡誌の最初の絵図にかざしてみると、すぐにヤフーオークションでそっくりなものがヒットした。

オークション写真掛け軸
     「江戸時代 釈迦如来 極彩色 仏画 掛軸」だという。
 
 グラビア写真の方は、トリミングがされ周囲が切れているからわからないのだが、実はこれは掛け軸だったのだ。 既に落札済で金額は不明。出品者は青森の古美術商と思われる。それ以上の詳しいことはわからない。
 喜八郎は、この写真をどのように撮影、または入手したかはわからないが、写真をトリミングして「天真名井家」の遺品などとでっち上げたものであろう。掛け軸では具合悪いから写真の加工をしたのだが、あくまで江戸時代の掛け軸だ。

②天之常立鏡という五鈴鏡は そっくりなものがこれもネットオークションにあった。
五鈴鏡
  「江戸期鋳銅製鬼面が鋳抜かれた五鈴手鈴祭祀呪術具」とある。
 
 同じような形状、文様のものがいくつもあるが、こちらが同一のものと思われる。

③和田喜八郎著作の『東日流日下王国』の「石塔山に秘蔵される十三湊ハライト寺の遺物」 
石塔山クリス
   右側が実際の展示品 
 
 こちらも、同じものが福岡県英彦山神社山伏文化財室の展示品に「大日如来クルス」として展示されている。
HP「 SOLO者 英彦山高住神社」より利用させていただいた。

④安東船ならぬ江戸時代の輸送船の絵図 こちらも『東日流日下王国』
 北方新社版と八幡書店では少し異なる。共通するのは元寇とは無関係の江戸時代の菱垣廻船、樽廻船の図だということだ。
 
 安東船北方新社版
北方新社版の安東船

o1310095414570953445 祭訪紀
HP祭訪紀29「みはま山車まつり」より
     このような資料のいずれかを加工したのであろう。

八幡版安東船
      上図は八幡書店版の安東船
樽廻船
  小嶋良一『近世期における日本の船の地域的特徴』より
 
 おそらくこの樽廻船のモデルと類似の図を、船底等に墨をつけるなどの加工をしたと思われる。
 

⑤埴輪が邪馬台の神に・・・・・   
日下王国
     これも『東日流日下王国』八幡書店版より
 あきれてしまう。本人はこれでだませると思ったのだろうか。


⑥レプリカの銅鏡『東日流日下王国』
鏡再利用
      中央が弥生時代の銅鏡のレプリカ

 既に説明しているが、この写真も使い回しされている。石塔山から出てきたという喜八郎の説明を信じた古田武彦の自著にも複数回、この写真が登場している。疑うということをされなかったのか本当に不思議だ。

 喜八郎の創作である石塔山の遺跡に、信憑性をもたせるために、次々とお宝をこの地の出土物、奉納物として、他所からのレプリカや図像を転用してきた。写真が鮮明でないため、同定しにくいものも多いが、石塔山や天真名井と称したものすべて、他の場所からの資料などの転用であろう。古物商からの入手もあったと思われる。
  裁判になった邪馬台城の写真だけではないのである。

 他にも喜八郎の贋物を信じてしまった例を、次回に説明したい。

 


藤本反論書
    藤本光幸の「反証」記事 『「古史古伝」論争』別冊歴史読本1993

 前回、宝剣額は神社に早くから飾られていた、との証言に疑問があることを説明したが、他にも奇妙な点があることを付記させていただく。

⑴宝剣額の発見の経緯は奇妙
 以下は、古田がこの寛政の宝剣額のことを知って、所在を突き止めようとした経緯についての一節である。
 〔藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」(資料②)に付せられた小写真(奉納額)に注目し、わたしと共に八方これを探し、市浦村役場の成田義正さんの御協力をえて、再び陽の目を見るに至ったのである。〕『決定的一級史料の出現』(資料①) 
 ここでは、和田喜八郎の協力者で和田家文書をバックアップする藤本光幸の論文を見て、その存在を知ったようである。そしてついに発見したというのだ。(藤本については、また改めて説明したい)
  
 この経緯を古賀は、次のように書いている。
「昨年八月(中略)に掲載された藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」中に、秋田孝季が山王日吉神社に奉納したとされる額の写真がある。印刷が不鮮明なため正確には読み取れなかったが、「寛政元年八月」「土崎」「秋田」という字が読み取れた。 この額が現存していれば和田家文書真作説の有力な証拠となるはずである。さっそく、藤本氏に問い合わせてみたが、現在どこにあるか不明とのこと。」(資料③)

 ここで藤本氏に問い合わせたが、不明との返事だったというのは妙な話だ。当の藤本は、自分の論文の中で、次のように書いている。
「尋史のための日本全国巡脚は寛政元年(1789)4月1日から始められたことは、十三湊山王日吉神社に誓願のための献額(現存)によっても証明されることである。そのすべての調査が完了したのは、文政六年(1823)のことであった。」(資料②)
 ここで藤本は問い合わせの一年前の文章で(現存)とわざわざカッコに入れて書いているのに、古賀の問い合わせには不明と返事している。この場合、藤本は、以前は某所にあったのだが、確認すると今はないということだった、と普通ならこのような返事をすべきではなかったのか。そして古賀の方も、某所にあったというのであれば、まずはその某所を尋ねれば見つかるのではないのか。なのに「八方これを探し」という説明はどうであろうか。
 さらに奇妙なのは、この宝剣探索の話に、喜八郎は全く出てこないのである。何故、喜八郎に聞かないのか?藤本の次に問い合わせる相手は、喜八郎ではないのか。喜八郎も知らないと言ったのか?
 しかし、探し求めたという経緯は資料①の末尾に書かれたものだが、同じ論文の初めの箇所には、古田の次のような記述がある。
「昭和四十年代の終り頃、和田喜八郎氏がこれを見て、本額の貴重さに気づき、「退色」や「破損」または「盗難」などの災厄に遭うのを恐れて、これを市浦村教育委員会の保存に委ねた、という。」
 これはどういうことであろうか?
 喜八郎が宝剣額を危惧して教育委員会に委ねさせた、という話は、喜八郎本人からではなく、第三者からの説明のようである。宝剣額を発見した際に、保管していた役場関係者から、喜八郎からの依頼で預かった、という話を聞いたというのであろうか。ここでも喜八郎からは直接聞いていないようである。不思議だ。
 また、「昭和四十年代」とあるが、これは、前回にふれたように日吉神社を御一行が訪問した昭和48年のこととなろう。

 以下まとめると。
・藤本は当初、「現存」と書いていたが、翌年の問い合わせに、今はわからないと返事。藤本が、現存と書いた際には、どこにあると認識していたのかは不明。
・その時に、藤本は、和田喜八郎に尋ねてはどうかというような助言はしていないようだ。
・喜八郎に直接尋ねることなく、古田らは「八方探し」て、役場の協力で見つかったという。
・この経緯を書いた古田の論文の前半では、喜八郎が機転をきかせて宝剣額を教育委員会に委ねさせた、と書いている。
 
 なんとも奇妙な宝剣額「発見」のいきさつではないか。さらに、宝剣額については、他にも妙なことがある。

⑵宝剣額をめぐる食い違い 奉納の時期と秋田孝季の調査開始の時期

 藤本光幸は、偽書説への反論文で、宝剣額の奉納の経緯などを説明している。先ほど掲載したものだが、再掲させていただく。
 「尋史のための日本全国巡脚は寛政元年(1789)4月1日から始められたことは、十三湊山王日吉神社に誓願のための献額(現存)によっても証明されることである。そのすべての調査が完了したのは、文政六年(1823)のことであった。」(資料②)
 秋田孝季の全国行脚の開始が寛政元年の4月1日だという。4月? 宝剣額には、元年八月と書かれているのである。何故藤本は「4月」としたのか?また完了は文政6年だという。
 ところが古田の説明では次のようである。
「先ず十三湊山王日枝神社に参拝仕り、剣絵馬を奉納仕り、諸国巡脚の無事たるを祈念し、石塔山に一字の草堂を建立なして旅出でたり。
 『寛政二年より文政五年に到る諸国の安東一族なる歴史は深く、茲に東日流外三郡誌、内三郡誌と題して七百四十巻余の歴書と相成りぬ。』 (『東日流外三郡誌』〈6〉八幡書店、四六〜七頁、北方新社版〈五〉六八一〜二頁)」(資料④)
 ここでは寛政2年から開始としている。これが奇妙なのは、この古田の引用は、東日流外三郡誌の北方新社版1983年12月初版、八幡書店版1989年初版のものからである。
 しかし、グラビア写真が最初に掲載されたのは、市浦村版であり、1976年のことである。早くに登場していたわけだが、不思議なことに、グラビア写真は掲載されたが、本文ではなぜかこの宝剣額についてふれてないのである。その掲載写真に添えられた説明文が「寛政元年 祈願 奉納」としているのだ。
 
宝剣額写真の出所
 寛政元年8月と宝剣額に書かれたが、あくまで奉納で、実際の行動開始は寛政2年との説明にしているのである。すると、藤本の当初の元年4月からの全国行脚との説明は無視されたようだ。
 ところが、古田は、資料⑤の関東の研究会の会誌では、「寛政元年四月」と話しているのである。
 
多元記事
     多元の会のインタビュー形式の記事

 1994年6月の会報(資料①)では、奉納の時期にはふれていないが、多元の会報8月では、寛政元年4月としているのである。しかもここに八幡書店版と明記されているのだ。疑問符が続く。
 だが、翌年の1995年の資料④では、奉納の時期を、現物に書かれた寛政元年八月と記して、全国行脚は「寛政二年より文政五年」との『東日流外三郡誌』北方新社版、八幡書店版の両方に記載としているのだ。
 すると気になるのは、きっかけとなった藤本論文が元年4月とし、古田は八幡書店版として元年4月と述べているが、これは間違いで、古田は、藤本論文から元年4月としたようだ。   
 最後に、喜八郎は、最初の『東日流外三郡誌』市浦版の「薦言」において、和田長三郎は、寛政2年に神職を嫌って土崎に住んで秋田孝季の長女と結婚、その縁で秋田孝季と調査の旅に出たと説明している。結婚したとたん長期の旅に出たというのも疑問だが、喜八郎の最初の説明は寛政2年に二人の全国行脚であったということだが、他所から調達した額には寛政元年と記されている。その為、祈願したのは元年だが、その後に草堂を建てるやらの理由を作り、行脚開始は翌年の寛政2年としたのであろう。次の北方新社版・八幡版では、祈願の翌年の寛政2年より調査という資料④に引用されている記事を入れたのである。

 まとめると、
1974年 和田喜八郎、青山、教育委員会同行で日吉神社へ
1976年 宝剣額写真が市浦版初出でそこに寛政元年祈願とあるが本文に記事無し
1983年 東日流外三郡誌北方新社版第一巻 本文に寛政2年開始の記事
1990年 八幡書店版第6巻に寛政2年記載
1993年 藤本の反論文に「寛政元年4月1日全国行脚開始」
1994年 古田、宝剣額の探索 藤本は今はわからないと返事 6月に発見の記事  8月多元2号に古田、八幡書店版として寛政元年4月に祈願と説明
1995年 古田、宝剣額の実物文字から祈願を「寛政元年酉八月」と説明  全国行脚は寛政二年(北方版・八幡版)との引用文掲載
 
 これで見ると、藤本は、自分が編集者になっている北方新社版が寛政2年としていることを忘れたのであろうか。それとも和田喜八郎が、北方新社で出版するために提出した「資料」には寛政元年祈願のことを忘れて、寛政2年としていたのだろうか。そして藤本も気にすることなく寛政2年で編集した、ということであろうか。
 また古田の方も、当初は藤本に引きずられてか奉納は寛政元年四月としていたが、後に、現物の記載の八月と認識して、さらに全国行脚開始は、東日流外三郡誌北方・八幡版から翌年の寛政2年と説明したのだ。
 
 このようなことから、和田喜八郎は、寛政元年の宝剣額を利用して、最初の出版では、グラビア写真だけで、本文には記事は掲載しなかったが、後に新たな構想で、時期の矛盾を知ってか知らずか、次の北方新社・八幡版で「寛政二年」とする記事を追記した、ということになるではないか。そこで、藤本とは、齟齬が生じてしまったと推測するのだが。
 
 余談だが古田は、多元の会の記事にも見えるが、宝剣額の場所を「絵馬堂」と言っている。これも、前回に述べたように、村長は絵馬の架かっているところ、青山は奥の院、神社宮司は拝殿、喜八郎は仁王像台座と言っているのに、古田は村長の話から絵馬堂としたのであろうか。

 以上、重箱の隅つつきのようであるが、この各人の食い違いは、捏造を重ねていくうちに、齟齬が生じた可能性を説明するためであった。ご寛恕願いたい。
 とにかく、寛政の宝剣額をめぐる証言や発見の経緯など、とても真実を証明するものではないことを、繰り返し述べさせていただいた。


 資料
資料①1994年6月30日 No.1古田史学会報 創刊号
資料②『「古史古伝」論争』別冊歴史読本1993
資料③『秋田孝季奉納額の「発見」』古賀達也 同№1会報
資料④『新・古代学』古田武彦とともに 第1集1995年 新泉社特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊
資料⑤ 多元的古代研究会関東1994.8.3 多元第2号

苫小牧など2
右端の奉納は天保14年とある。

山形不動尊
岩手県
     多数の剣の奉納額がある不動尊が現在も東北には残っている

 宝剣額とは、東日流外三郡誌の著者とされる秋田孝季の実在を証明するものとして喧伝されたものだ。日吉(日枝)神社に奉納された額で、そこに寛政元年や秋田孝季の名が書かれている。しかしこれも、江戸時代の別の人物がどこかの不動尊に納めたものを拝借して、書き足したものにすぎない。写真にあるように、東北地方の不動尊には、多数の宝剣の奉納がされており、その気になれば悪用することは容易なのである。明らかに天保十四年奉納とされているのもあるのだ。
 それにもかかわらず、この宝剣額が強力な証拠となるとし、以前からこの額はあったという証言者を3人も登場させて、自信たっぷりに真作であると古田武彦と古賀達也は主張している。今回の『東日流外三郡誌の逆襲』でも、目次を見るとよほど自信があるのか本文の一番手に置かれている。だが、その証言の内容には疑問点が多く、証言者二人は、確実に喜八郎と接点がある人物なのであり、もう一人にも疑問があることを説明する。
 なお、引用文の出典は煩雑になるので、本文では資料番号を付して、末尾にまとめて掲載した。

⑴元市浦村長、白川治三郎の証言
 
 古賀達也の説明はこうだ。「今春、三月十七日、待ちに待った便りが届いた。元市浦村長、白川治三郎氏からの返報だ。すでに大半については本会報6号(『東日流外三郡誌』公刊の真実)に掲載された通りだが、今ひとつ貴重な証言が記されていたのである。寛政宝剣額についての証言だ。要旨は次の通り。
1. 絵馬は多数雑然とぶら下がっていた。
2. 宝剣額も奉納されていたという記憶が何となくある。」(資料①)
宝剣額写真の出所
 白川村長が関わった東日流外三郡誌のグラビアに宝剣額が説明付きで掲載されている。
 
 先に図を示すが、この宝剣額の写真が、一般の目にふれるようになったのは、『市浦村村史・東日流外三郡誌』のグラビア写真からである。そこには「剣額」として山王日吉神社に筆起を祈願し奉納といった解説がついている。 
 「貴重な証言」と言われるのだが、実はこの白川治三郎こそ、『市浦村村史・東日流外三郡誌』の発刊の言葉を書き、この出版に大きく関わった当時の村長である。それは、藤本光幸の「偽書説への反証」(古史古伝論争別冊歴史読本)に、東日流外三郡誌の編集作業中に、白川村長が訪れて喜八郎の東日流外三郡誌を貸してほしいと直接申し込みに来たという「証言」からも明らかだ。その彼は、当然グラビア写真を発刊前後に目にしていたであろう。本人は否定しても周りはそうは思わない。
 日吉神社に額があったかどうかを尋ねたとしても、ご本人は、額の写真を知っている可能性があるわけで、「記憶が何となくある」と言われても、それは早くからの既知の記憶による可能性が十分にあるではないか。このような人物を証言者にしても誰も納得できないのである。
 しかも、この白川治三郎は、複数の編纂委員(東日流外三郡誌の)とともに和田喜八郎とは、以前からの知り合いで、骨董品のやりとりなどを通してつき合いがあったというのが取材で分かったと斎藤光政著『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』に書かれている。喜八郎とは骨董品仲間という旧知の間柄であったのだ。そのような人物の言葉が、貴重な証言にはなりえないだろう。そして次の人物。 

⑵ 子供の頃から神社で見ていたという青山兼四郎の証言

 資料②には次のようにある。 
1. この額は山王日吉神社に掲げられていたものである。子供の頃から見て知っていた。
2.昭和二八年秋頃、市浦村の財産区調査により測量を行ったが、自分以外にも調査関係者がこの額を見ている。存命の者もいる。
3.当時、関係者の間でも大変古い貴重な額であることが話題になった。
4.「日枝神社」「秋田孝季」という字が書かれていたことは、はっきりと覚えている。

 さらに、額の掲示された場所について、資料③で、「山王日枝神社の奥の院でやや中央より左寄の処だったと思います」と述べている。この点は後でふれる。 

 この青山兼四郎は「東日流外三郡誌は偽書ではない」という一文を寄稿している。この証言の翌年の資料④に掲載されている。
 この中で青山は、東日流外三郡誌の安東水軍や山王坊などの記事を累々と書き連ねている。とても素人の書けるものではなく、東日流外三郡誌を知り尽くしているかのような内容である。文中にもあるように、おそらく地元で古代史研究をしていたからこそ書けるものではなかろうか。この点についても後で説明するが、とにかくこの論文の内容は、東日流外三郡誌を積極的に肯定しておられる。
 青山の論考の結びの言葉だけ紹介しておく。「北奥羽の事実を天下に発表される意気こそ、今髣髴と或いは幻影のごとく目前にちらつく。外三郡誌と両先生の史実発掘の意志に感激しながら、静かにこの稿を捧ぐ。」とても熱い思いをお持ちのようだ。
 そのようなお考えの方に、公平な証言ができるのであろうか。とてもそうとは思えない。
 
 先ほどの白川村長と喜八郎が骨董品仲間であるとの話があったが、東日流外三郡誌に関しての執筆には、この人物も同じ仲間であった気がするのである。実は、宝剣額についての古賀からの問い合わせの返答の中で、青山は次のようなことを返信している。
「私が小学校に入れられた当時、福士貞蔵校長先生と奥田順蔵内潟村長が今泉、相内、十三湖について十三史談会を創設して調査していたので、よく私の家にもきていろいろと話ししていたことなどで『やっと解った頃でした』このことでいくらか知っていた。」(資料③)
 そして、先ほどの青山本人の寄稿文にも、福士貞蔵といっしょに「付近の縄文時代からの石器・土器類を集めていた」書かれている。さらに、福島城や山王坊には数え切れないぐらい往来したと自負しているのである。これこそ貴重な証言だ。だから青山は若いうちから郷土史に興味を持って、論文を書くこともできたのではなかろうか。
 さらにである。斎藤光政の著書には、若き和田喜八郎を知る元地方銀行員の浜館徹の証言が記されている。そこには、喜八郎と浜館の二人は、戦後間もない頃、地元の「飯詰村史」編纂の為に資料収集に走り回っていたとある。二人は先ほどの福士貞蔵という郷土史家の使い走りのような存在であったというのだ。すると福士貞蔵を介して青山兼四郎と喜八郎は早くから接点があってもおかしくはない。それは、新たな問題につながっていく。
 
 古田は次のようなことを書いている。
資料⑤の168頁の注(2)には、「昭和四八年、当額は、『阿吽(あうん)の仁王像の台座に使われていた』という。(和田喜八郎氏〈五所川原市〉による。)このさい、後出の青山兼四郎氏や市浦村教育委員会関係の方々が同道された、という。その後、当教育委員会関係の展示場に当額が出現することになったようである。(和田氏は、右の昭和四八年が当額初見であったという。)
 以上が、当額の写真が『市浦村史史料編(中巻)』に掲載されることとなった経緯である。」 とあるのだ。
 ここで青山の名前が登場している。彼は、和田喜八郎といっしょに日吉神社に行ってこの額を見ているというのだ。この青山と喜八郎は、先ほど述べたように旧知の関係であるからこそ、同行したのではなかろうか。だがこのような事実を、なぜ青山は先ほどの証言のところで語らなかったのか。昭和28年の測量の経緯は話しているのに、教育委員会の関係者も同行というエポックにもなるようなことであったはずが、これは奇妙なことと思える。
 この証言を聞く側(古田)も、昭和48年のことは確認しなかったのかも不審である。不都合なことなのであえてふれないようにしたのではと勘ぐってしまうではないか。さらに奇妙なことに、証言者の言う問題の額の場所が食い違っているのである。この点に関して、もう一人の証言者に登場していただく。

⑶日吉神社宮司の証言
 
 資料⑥は長きにわたって宮司を務めた松橋徳夫の証言となる。
「私が日吉神社兼務宮司に就任したのが昭和二十四年五月ですが、当時すでに当神社拝殿に架かっておりました。」
 以前から額はあったという重要な証言だが、宮司はその額が「拝殿」に架かってあったと証言している。ところが、より詳しく証言が記された資料⑦では、額の場所についての言及はなく、逆に古田の方から「実は今泉の青山さん(青山兼四郎氏)という方から、子供時分から、昭和の初めから(日吉神社拝殿で)これをよく見ておったとお聞きしておりますが、そういうことでございましょうね。」と額の場所についてふれるのだが、宮司はこれについては語らないままなのである。これも奇妙であるが、とにかく宮司は先の証言では「拝殿に架かっていた」としている。
 一方で青山は「奥の院でやや中央より左寄の処」と細かく述べているが、奥の院と拝殿は同じとは思えない。そして、和田喜八郎の場合は「阿吽(あうん)の仁王像の台座に使われていた」との説明を古田は自分の著作の注に記しているのである。
 三者三様の証言ではなかろうか。
 さらにこの宮司の話には引っかかる所がある。一つは、昭和48年に、喜八郎と青山、それに教育委員会の一行が神社を訪れていることについて、青山と同様に全く触れていないことだ。御一行の来訪は、通常の地元民の拝観と違い、宮司は当然、応対するものではないか。それを忘れてしまったとは考えにくい。これも敢えてふれなかったのであろうか。
 もうひとつある。宮司はこの額がとても大切なものだと認識している。だが、おそらく昭和48年の御一行の来訪時か、その少し後かわからないが、喜八郎が歴史的に貴重なものだからと言って、教育委員会で預かるように進言し、実際に教育委員会の手に渡ったのである。しかし、神社にとってもお宝のような貴重なものを、どうして言われるがままに教育委員会に預けてしまったのか。実に奇妙なことだ。
 
 全国の神社では、歴史的な遺物が神社の宝として大切に宝物庫に保管するといったことが多数見受けられる。縄文時代の石製の遺物でも、博物館にはレプリカの展示で、近くの神社に本物は保管されているというようなこともある。額が重要なものなら、なぜ宮司は当社で保管すると言わなかったのであろうか。証言を見ても、資料⑦にある古田の質問「昭和四十年代の終りの頃か五十年代の初めに教育委員会に移ったということのようで」に対して、「そうでこざいますね。私もはっきり記憶はございませんが、昭和五十年頃ではないかと記憶しております。」と宮司は答えている。
 なんと淡々と他人事のように額が渡って行ったと話し、しかもはっきりした記憶がないと。これは明らかにおかしい。神社において教育委員会関係者も同行という来訪は珍しいことであり、それを記憶がないとは。しかも、ためらうこともなく言うがままにお宝になるようなものを、持っていかれたというのか。そもそも当神社に奉納されたもののはずが、外部に運ばれるということを宮司が黙認したのなら、これもまた信じがたいことだ。

 以上のように、宝剣額の証言者の内容は、本物であることを証明するどころか、新たな疑問が生じることになるものであったのだ。明らかに村長と青山は喜八郎とつながりがあり、宮司も宝剣額に対して奇妙な態度であったことから、なにか共同謀議のような気配すら感じる。示し合わせたつもりが、打ち合わせの不徹底で、証言に齟齬が生じたと考えざるをえないのだ。

 なお、もれていたので追加させていただくが、「証言者」の青山兼四郎は、最初の『東日流外三郡誌』となる市浦村史の編纂委員のメンバーであった。いやはや、大変重要な証言者であった。

 古田と古賀には、各人の証言の内容をもう少し突っ込んでみるということはなかったようだ。喜八郎を含む4人の証言者の、とにかく額が昔からあった、という都合の良い部分だけが重要で、これ以外はどうでもよかったのだろうか。魏志倭人伝などについては、事細かく史料批判をされていた研究姿勢と比べて大きなギャップを感じざるをえないのだ。
 くりかえすが、証言者の公平性が疑わしいこと、額の場所の証言者の食い違い、昭和48年の経緯に証言者がふれないこと、額の移動も不審、喜八郎とのつながりといったことについて、明確に説明すべきであった。これを無視して、昔から額があったという各人の証言だけで、宝剣額は本物だなどと言う主張は通らないことを自覚すべきであろう。このようなものではわざわざ編集して新刊として発表しても、「逆襲」どころか、「逆ギレ」にしかならないのだ。
 都合のいい証言だけ取り上げて、和田キヨヱさんの証言は無視するという態度と同様、何をか言わんやだ。

 資料の出典  〔 〕のタイトルの検索で閲覧可能
資料①1995年 8月15日 古田史学会報 No.8〔「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて〕『新・古代学』のすすめ 古賀達也
資料②古田史学会報 創刊号 1994年6月30日 No.1 〔秋田孝季奉納額の「発見」〕「和田家文書」現地調査報告 古賀達也
資料③ 平成・翁聞取帖〔『東日流外三郡誌』の事実を求めて〕古賀達也『新・古代学』古田武彦とともに 第3集 1998年 新泉社研究報告
資料④ 〔東日流外三郡誌』は偽書ではない〕古田史学会報1995年No.6・7・8《特別寄稿》 青山兼四郎
資料⑤『新・古代学』〔特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊〕古田武彦 ※こちらは、文献で直接参照のこと
資料⑥古田史学会報 創刊号 1994年6月30日 No.1 決定的一級史料の出現 〔「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した〕  古田武彦
資料⑦『新・古代学』古田武彦とともに第3集1998年新泉社 研究報告 〔平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて〕 古賀達也

不動明の宝剣写真はHP「珍寺大道場」より利用させていただいた。
参考文献
斎藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』

 既に、縄文時代の遮光器土偶や三内丸山六本柱について述べてきたが、他にも、明治時代以降の知識がないと書けないものが散りばめられた、およそ史書などというものではなく漫画のような創作であることをいくつか紹介する。実際の遺跡、遺物やアイヌ文化などが悪用されているので、きちんと説明しておきたい。

【1】遮光器土偶だけではない、江戸時代には未発見の遺物を悪用
ハート形
東日流外三郡誌第四巻中世編北方新社 昭和60年1985の絵図とハート型土偶
 
 明らかにモデルとわかるハート形土偶は、戦争の始まる1941年、群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)大字郷原で行われた国鉄長野原線郷原駅(現在のJR吾妻線郷原駅)建設工事で、調査を行った際に発見された(郷原遺跡)。土偶は河原石で囲まれた墓と思われる遺構の中から3つに割れた状態で発見され、左足先端部分は欠損していた。戦後の1951年に公式発表され、大きな話題となり記念切手も発行された。
 それが、死神?ダミカムイ? 馬鹿馬鹿しい
                   

【2】和田喜八郎は漫画家としてなら大成できたかもしれない?
虎塚

 茨城県ひたちなか市虎塚古墳で華麗な装飾絵画が発見されたのは昭和49年(1974)のこと。これが掲載された「偽書」はその10年ほど後に出版されている。古墳絵画をヒントに描いたのは明確。しかもほとんどそっくりで、ちょっと露骨すぎる。

ナスカ
 この図は、言うまでもないだろう。少し形は違ってもナスカ地上絵からのパクリであることは明らか。地上絵が発見されたのは1939年だ。
 利用したのは縄文やアイヌ文化だけではなかった。地上絵など、笑ってしまうしかない。阿曽部族の像?シンボルの事か。族長が左右の腕に入れ墨していた?よくもまあ、そんなことを思いつくものだ。すごい想像力ではある。漫画家としてなら手塚治虫と対抗できたかもしれない?(いや手塚さんに失礼だ)

【3】俗称が悪用された縄文の環状列石にある日時計状組石について
環状列石
絵図には、時刻と年暦を占うイシカ と書かれている。左は万座環状列石の石組み
 
 石神と称しているが、これは明らかに環状列石に付随する石組みを真似ている。有名なところでは秋田県大湯環状列石の野中堂の石組みがあり、隣接する万座の環状列石のいずれかを模写したとみて間違いないだろう。
 「中央の立石、これから放射状に延びる細長い石、四方向に丸い石が置かれ、これを繋ぐように石が並べられている」と説明されている。ただこの遺構は昭和7年(1932)に耕地整理の際に発見された。昭和21年(1946)の調査報告書では「いわゆる日時計遺跡・・・・実際に日時計として使ったという学者もいた」とある。
 昭和の初めに明らかになった遺構であり、それを日時計と表することが戦前の昭和の時代にあった。もちろん日時計の機能は全くない。誤解を招く名称ではあるが、他に適当な表現もないので日時計状組石とされているだけだ。
 絵図に添えられた一文は次のようだ。「日高渡島の人に用いられる石神 時刻と年暦を占うイシカと イナオカムイ施置 イシカカムイ塔 」とある。時刻、という言葉が出てくることがそもそもあやしい。アイヌの神にイシカは聞かれない。
 また石はカムイ語では「シコヤ」「シュマ」だ。昭和の初めに、どなたかが日時計と言い出した事をヒントに創作したとしか思えない。また木柱が立てられていたという事実もない。アイヌのイナウは樹木の前に飾られることはあるが、自然石や石造物に立てられる例は確認できない。手前に土器のようなものが描かれているが、調査では実際に土器が出土しており、それを知って描いたのではないか。
 絵図では石の形状や数がやや少なく見える。野中堂と隣接の万座のものが近い感じではある。ただこれも秋田県だ。他にも似たような状態の列石はある。北海道には数か所あるが、あえて似ているとすれば、小樽市余市町西崎山環状列石群だが、これは1965年の調査だ。
 いずれにしても、江戸時代の人物が描いたものではない。縄文遺跡やアイヌ文化を利用してこのようなフェイクを増産したことは、許すべきではない。馬鹿々々しい限りだが、フェイクがこれ以上拡散されたり、信じるようなことがないように願うばかりだ。


建物絵図

この絵図は、三内丸山遺跡の六本柱建物の復元案が発表されてから、和田喜八郎が古田武彦氏に送付したもの。
 
 以前に、三内丸山遺跡六本柱の高層建物の復元が虚構であることを説明していたが、これに関して古田史学の会員の方から、ご質問を受けた。それは、復元された六本柱建物が虚構だと説明されているが、和田家文書(東日流外三郡誌などの関連資料)に建物の図が載っているのは、どう説明するのかといったものであった。和田喜八郎の絵図を信じておられるところからくる疑問であるが、既にこの点については、いわゆる「偽書派」の方々から後出しジャンケンといった批判をあびていたものだが、まだまだこれを信じている方がおられるので、その「後出し」について、詳しく説明したい。
 当遺跡の発掘調査の説明から、まずは絵図のない状態で「石神殿」との関連を主張し、それが無視されたことから、次に「柱六本の三階高楼」の記事が和田家文書にあると主張し、それでもマスコミが取り上げないので、さらに実際の復元では後に不採用になる屋根付き建物の復元案を参考にして作製された絵図を発表し、大方の失笑を買うことになってしまうのである。すなわち、三段階の後出しジャンケンであったこと、さらには後出しのはずが、実際の復元と少し異なることになった理由も併せて以下に説明する。なお末尾に関連する記事を年表にまとめましたのでご参照下さい。
 
【1】「石神殿」は遺跡が出土してから新たな解釈で説明された
 
 1994年7月の六本柱の出土報道後の翌月に、現地で調査員から話も聞かれた古田氏は、その後に次のような一文を書かれている。
「孝季の記録した『東日流外三郡誌』の中の「津保化族伝話」の中には、恐るべき一節がある。
『彼の故土に於て、幾百万なる津保化族栄ひ(へ)、雲を抜ける如き石神殿を造りき(し)あり。』」(括弧 内は、古田:古田史学会報№2・1994年8月)
 「津保化族伝話」の一節の「雲を抜ける如き石神殿を造り」とある記述が、三内丸山の遺跡と関連するというのである。しかし、これは無理なこじ付けと思われる。津保化族の話(実際は作り物)は馬と関係する人々であると書いてあるのである。
 引用された一節の次に、「先兵万里 馬を乗りて駆け、飢(かつ)ゆるなき大草原に鳥獣群を狩り」と記している。なんと、津保化族は馬で狩りをしている、しかも大草原で。さらには、この章の初めにも、津保化族は馬を飼い、狩りや戦いに用いると書かれている。これは大陸の騎馬民族を想起するではないか。とてもではないが、縄文時代とは無関係であろう。
 古田氏は、遺跡発見があって、石神の記述がこれに当たると考えたものであるが、遺跡出土以前には馬の記述があるように縄文文化とは全く結びつかない記事であったはずなのだが。しかしその後、古田氏は、同年11月古田史学会報№3で、「石神殿が三内丸山遺跡の高層木造建築」と主張された。「石神殿」を何の根拠もなく縄文時代の六本柱、しかも高層建築にこじつけた、まさに遺跡出現後の後出しジャンケンの第一段階であった。

【2】第二段階の後出しジャンケン
 
 1995年7月に、古田氏は、三内丸山と和田家文書との関連を取り上げないマスコミを『新・古代学第一集』(新泉社)のなかで非難している。何とか注目されたいという思いがあったのだろう。
 その後、同年8月に遺跡検討委員会より屋根付き三床の六本柱という案が発表される。
 そして翌月の9月16日に『東日流外三郡誌・附書』『丑寅日本国史絵巻』など計七点の和田家文書を和田氏より貸りる、という記事がある。その中に「神像之事」も収録されている『丑寅日本史繪巻・十之巻』もあった。
 さらに翌月の10月に古田氏は、「石神殿」の記述だけでも「驚異」としながら、さらに具体的な記述に出会った、として「此の神像たるは柱六本の三階高楼を築き」と書かれていると発表したのだ。(古田史学会報№3)
 古田氏がこの記事に「出会った」という一文は、前月に借りた『「神像の事」丑寅日本國史繪巻、六之巻。』のことだ。※会報№3の該当記事は現在HPで検索しても見られず、同文が『新・古代学』古田武彦とともに 第2集 1996年(特集1 和田家文書の検証「和田家文書の中の新発見」)にある。
 その資料は、三内丸山遺跡六本柱が屋根付きの三床の高層建物という復元案に決定されたという報道がされた翌月に、古田氏が喜八郎から借りているものだ。つまり和田家文書としては、はじめてここに「柱六本の三階高楼」との表記が登場したことになる。
 最初の東日流外三郡誌には「石神殿」としか書かれておらず、復元案の決定後に、「柱六本の三階高楼」がお目見えするのだ。「神像の事」という一文は喜八郎が、復元案を知ってから作文しているとしか考えられないのである。これが後出しジャンケンの第二段階であった。

【3】第三段階の後出しジャンケンは先出しで失敗だった
 
 古田氏の六本柱と和田家文書を結び付ける主張は、相変わらずマスコミから無視される。そこで登場したのが六本柱の絵図である。「和田家文書の中の新発見」(『新・古代学』古田武彦とともに 第2集 1996年 新泉社)において、遂に高楼建物絵図が登場する。
 古田氏はこれを「逃げざる陵墓」(2001年1月20日古田武彦講演会)において、この資料を入手した経緯を語っている。
「昭和薬科大学を退くときに、和田さんから送っていただいてコピーしていたもの」で、それが『丑寅日本国絵巻』であると説明している。これは、前年(1995)10月に借りたという『丑寅日本國史繪巻』とはタイトルが似ているようで異なるものだ。ならばこの絵図は、最初の東日流外三郡誌には全くない存在しないものであり、前年に借りたという資料にもないもので、いわば突然登場したと疑わざるを得ないものだ。次々と追加作業が行われて新しい資料が登場するパターンである。
 
三内遺跡青森県
 だが、惜しいことにこの絵図は、実際に復元された建物とは大きく異なる所があった。絵図では屋根が葺かれた建物として描かれていたが、復元では屋根なしの中途半端な建築物になっていたのだ。当初は遺跡検討委員会のところで屋根付き建物に決まりかけていたが、縄文研究者小林達雄氏などの強固な反対があり、土壇場で急遽、屋根なしで復元することに決定されたのだ。
 するとこの絵図は予定変更がわからない段階、すなわち1996年6月の復元案変更報道以前に作成されたものとなろう。喜八郎はその決定の前に絵図を作製したわけで、古田氏に送付したのが、1996年3月頃の事であった。これが、絵図では屋根付きに描かれた理由なのである。
 屋根なしの復元に変更されてさぞかし焦ったであろうが、もう手遅れだ。その為、未練がましいことに、後に屋根付きでの復元を求める、といった一文が藤本光幸らによって書かれることになる。
 このように「柱六本の三階高楼」という文章だけでは弱かったので、もっとインパクトのある資料が必要との判断から、新たに喜八郎得意の筆絵が描かれて、古田氏に送られたということになろう。
 この絵図の登場は第三段階での後出しジャンケンであったのだ。だが、最終的には絵図は先出しとなってしまったので、現実と異なる絵になったというオチが付くのであった。
 
 よって、三内丸山遺跡の六本柱の復元は根拠のないもので、絵図にあるものは、発掘後の偽作であって、高層建物が縄文時代に実在したことを示すものではないのである。古代の語り部たちが、縄文の文化を伝え、それを江戸時代の武士が書き残したなどというのは、空想話であり、子供だましの小細工にすぎない。とにかく、信じないようにしてほしいものだ。
 なお、六本柱の高層建物の復元が、虚構であるとの説明は、こちらをご覧ください。
 
関連年表
1994年6月木柱出土(三内丸山遺跡)
   7月東奥日報、朝日新聞の第一報
   8月8日 古田氏は三内丸山訪問 発掘責任者の岡田氏から現地説明
   8月 雲を抜ける如き石神殿を三内丸山の「二〇メートル前後」の木造建築、と発表。(古田:古田史学会報No.2「『東日流外三郡誌』の中の「津保化族伝話」(古田)
   11月 「石神殿」、「今回の高層木造建造物にピッタリの表現三内丸山遺跡の高層木造建築」(古田:古田史学会報3号)
1995年7月 古田氏は、和田家文書との関連を取り上げないマスコミを非難『新・古代学第一集』(新泉社)
   8月 遺跡検討委員会、屋根付きの六本柱という復元案に決定。
   9月16日『東日流外三郡誌・附書』『丑寅日本国史絵巻』など計七点の和田家文書を和田氏より貸りる。『丑寅日本史繪巻・十之巻』に収録されている「神像之事」も含む。
   10月30日 『丑寅日本史繪巻・十之巻』の記事紹介「神像之事 柱六本の三階高楼」(古田史学会報№10)
1996年3月(薬科大学退職の時)和田からコピー送付『丑寅日本国絵巻』ここに建物絵図がある
   6月 週刊朝日、屋根なし復元の報道
   7月「雲を抜けるが如き石神殿」の画の紹介 『新・古代学第二集』(新泉社)
   8月 屋根なし復元を正式決定。
1996年10月『茅葺き屋根三階高楼で復原を』青森県藤崎町 藤本光幸(古田史学会報 No.16)

土偶絵図比較
 左は明治時代に画家佐藤蔀(しとみ)が描いた『考古画譜』の亀ヶ岡遮光器土偶
 右は『東日流六郡誌絵巻』(1986発刊)のアラハバキの神像とされた遮光器土偶の絵図
 和田喜八郎は土偶のレプリカは所有していたが、立体的なものを絵にするのは簡単ではないので左の図を参考に描いたかもしれない。

【1】亀ヶ岡の遮光器土偶                                                
番号説明
 遮光器土偶の絵図が掲載された『東日流六郡誌絵巻』は、江戸時代の武士が作成したかのように装っているが、実は、青森県出身の和田喜八郎が、戦後に、当時の情報、資料などを参考にして描いたものであった。その一例を説明します。

 出土している遮光器土偶はそれぞれ異なる造形であるが、亀ヶ岡のものとよく似ているものに右端の宮城県のものがあるが、それでも体形や頭部など異なっている。                
 絵図は亀ヶ岡出土のものをそっくり写していることを下図に番号も入れて説明する。

①頭部は複雑な形だが、その特徴をよくとらえて書かれている。宮城のものとは形がちがう。
②耳に該当するところのでっぱりが同じ形。
③首飾りと思われるものの首の中央のふくらみも同型。
④肩の弧線を正確ではありませんが三日月のように描いている。
⑤乳首の斜め上の弧線もほぼ同様に描いている。宮城の土偶などにはない。
⑥スカートのような腰回りのラインが微妙にゆがみがあるのも、波打った表現で書いている。
 次が一番の問題。
⑦そして左脚。出土品は最初から欠損している。拡大した下図を見ていただきたいが、筆写されたものの左右の脚を比較すると、筆のタッチが違うようだ。左脚は少し濃く太めになって描かれている。これは、片脚がない状態ではまずいので、慎重に付け足したので筆圧などが異なることになったのであろう。
IMG-8178
 以上から、この絵図の土偶は、亀ヶ岡遺跡で出土した土偶を写したものであることに間違いないといえる。
 
へその記号
 なお、人体文様のような記号めいたものが臍のあたりに書かれているが、これは当然現物にはない。しかし、先ほどの佐藤画伯の絵では、その臍のようなところを、よく見れば「大」のような線が見える。喜八郎はこれを見て、ここに人型の記号を描き、さらに両足の間にも描いた可能性はある。
 
 絵図に付記された説明文に亀岡とあるように、これは亀ヶ岡遺跡から出土したものに間違いないであろう。ところがこの遮光器土偶は、1886年(明治19年)に津軽半島西南部亀ヶ岡の水田下の泥炭層中から、左脚が欠損しているもののほぼ完形で出土したもので、現在は国立博物館に展示されている。
 この絵の描かれた『東日流六郡誌絵巻』は、江戸時代に書かれたものを製本化したというものではないであろう。
 なお、この絵の説明で、この土偶を土型の石神としたあとに、「三千年前に修成されたりと日ふ」とある。
 しかし、縄文時代の年代は戦前まではよくわかっておらず、この遮光器土偶の作られた縄文晩期が三千年前とわかってきたのはそう昔のことではない。戦後の知見で書かれたのは明らかだ。とにかく、嘘に嘘を重ねた贋作の絵図なのである。

【2】アラハバキの神像が遮光器土偶というのは作り話
 絵図に描かれた遮光器土偶が江戸時代に描かれたものではないことを説明したが、これがアラハバキとは無関係であることを、戸矢学氏の著作を参考に説明する。
『アラハバキ・まつろわぬ神 古代東国王権』 戸矢学著・河出書房新社2024
 戸矢氏は次のようにアラハバキの説明をしておられる。
 「アラハバキが、東国に王権を樹立し、ヤマトの覇王スサノヲに反旗を翻してその名を賞賛された英傑であった(中略)、最終的に『まつろわぬもの』として討ち果たされた。その名残が各地のアラハバキ神社に残っているということである。」
 以後、東国の守り神として鎮められたという。
 「ヤマトの覇王スサノヲ」というところは首肯しかねるが、記紀からは無視、或いは削除された神であるとは言えるかもしれない。

 氏は、この中である問題を再三繰り返して述べている。それは、東日流外三郡誌の悪影響についてだ。
 「デマコギーの原因のほとんどは『東日流外三郡誌』なる偽書に由来することは周知であるが、とりわけ誤解誤認を広めたのは、アラハバキという名の解釈と、偽書由来の造形によってであろう。ハバキは脛巾(すねあて)などではないし、姿形造形に遮光器土偶とは何の関係もないと、初めに断言しておこう。(中略)戦後に創作された偽書「東日流外三郡誌」によって、誤った概念やイメージが拡散してしまったために、まともな研究が日の目を見なくなってしまった・・・」 おっしゃるとおりだ。
 
 遮光器土偶が無関係なのは、氏の次のような説明で納得できるのではないか。
 「遮光器土偶が、アラハバキの姿であると捏造したのは、「東日流外三郡誌」の作者である和田某である。彼が勝手に断定した遮光器土偶=アラハバキ説が欺瞞であることは、今や周知のものであるが、それでもまだこの説に拘泥して、あたかも史実であるかのごとく取り扱って、無知な人たちにデマをさらに拡散し続けている罪深い人々が少なからずいるのはまことに残念なことである。」とした上で、「遮光器土偶は女性、アラハバキは阿良羽々岐と書かれるように、神名の末尾が「岐」となっている。これは、伊邪那岐などと同じで、男性神を表している。」
 これは重要な指摘だ。他にも、天孫降臨の瓊瓊杵、百済人の祖神は今木神、など。
 よって、アラハバキは男性神であり、遮光器土偶がその神の姿とは決してならないのである。
 さらに言うと、和田喜八郎は、自分で発掘して手にした土偶を本物と説明しているが、それは怪しい。喜八郎は四柱(ししゃ)神社にご神体として土偶を渡して、鑑定料分の代金を神社側に請求している。しかし埋文センターで鑑定してもらい鑑定料を支払ったと述べているが、博物館等の組織が、持ち込み品の鑑定を有料でもすることはないのである。さらに、喜八郎が、自ら土地を掘って遺物を見つけて所有するということも事実なら違法である。実際は、前に紹介した銅鏡と同じレプリカであった。四柱神社の件など、ぜひ斎藤光政著『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』 (集英社文庫)をご覧ください。

 江戸時代の武士が描いたかのように装った絵図のモデルの土偶は、明治時代に出土したものであった。さらにアラハバキと土偶は何の関係もなく、喜八郎が20世紀の後半に創造したでっち上げにすぎない。和田キヨヱさんの証言にあるように、喜八郎は絵が得意であったから、多数の絵を難なく描くことができた。その中に、子供だましのような絵が多数存在するが、また改めて紹介したい。

生々しい和田キヨヱさんの証言
 古賀達也氏(古田史学の会代表・今回の「東日流外三郡誌の逆襲」の編集主幹)は、偽作説への反論、真作であると主張する論考に、よく誰々の証言、を持ち出される。それが決定的証拠になるとお考えのようだが、その証言者に担ぎ出されている人の中には、どうも第三者的な立場の人というよりも、いわば喜八郎の旧知の仲の人物も含まれる。
 この点に関しては、また改めてふれるが、その一方で、和田キヨヱさんという、もっとも喜八郎をよく知る人物については、なぜか話題にされていない。古田史学の会のHPや古田武彦古代史研究会(こちらは登録さえすれば検索画面は使えます)で「和田キヨヱ」で検索しても、まったく何も出てこない。東日流外三郡誌、和田家文書について、真書として様々に論じられており、特に古田史学の会のHPでは古田氏、古賀氏以外の論考も多数掲載されているにもかかわらず、彼女について取り上げる記事は一つもない。自分に不利な人物の証言については完全にスルーということであろうか。
 今後の説明にも関係する予備知識ともなるので、そんな彼女の証言を、斎藤光政氏「偽書東日流外三郡誌事件」(新人物往来社)の記事から4点掲載する。 途中の私のコメントは黒字にしておく。

和田キヨヱ氏の証言
 【絵が上手だった喜八郎
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P55 和田家の隣に住む和田キヨヱだった。1930年生まれのキヨヱは、和田の父方のいとこにあたり、家庭の事情から十代の後半を和田の家で過ごしていた。『外三郡誌』が「発見」されたとされる和田の家は、三歳年上の和田とともに育ったわが家同然の建物だった。それゆえに、キヨヱが語る『外三郡誌』の世界はあまりにも克明だった。
「喜八郎さんは小さいころから絵を描くのがうまくて、よく家の中で描いていました。特に、凧絵(武者絵のこと)が上手でした。大人になってからは、障子紙に自分で書いたものを天井からつるし、すすをつけてはもみ、古く見せるようなことをしていました。その時は何をやっているんだろうと思って見ていました。最近のことですが、ある人から和田家文書の中の一つだという『東日流六郡誌絵巻』と呼ばれるものを見せられました。その中に掲載されている挿絵を見てやっぱり、と思いました。喜八郎さんが書いていたものと同じだったからです。字も同じでした」

 この写真の襖絵を見て、キヨヱさんと同じように、あっ、やっぱりと思ってしまった。これが動かぬ証拠であろう。
 喜八郎は、それなりに器用なのである。さらに口も達者だから、相手を信じ込ませるのはお手のものだったのであろう。

 【骨董品の工作
P297「喜八郎さんは若いころから、よく物を書いていました。いろりの上にわらじをほすための火棚というものがありましたが、そこについた煤を自分が書いたものにこすりつけて、古く見せるようにしたりしていました。私はその場面を目撃しましたよ。」
 また、和田の親類の一人はこうも語った。「喜八郎さんの父親から聞いた話ですが、喜八郎さんは仏像や陶器を味噌に漬けて土中にしばらく置き、古く見えるようにしては売っていたということです」

 これも生々しい証言だ。こういった具体的な詐欺的行為を知ることができるのは貴重だ。世に骨董品などの偽造は絶えないが、喜八郎も同業者であるということだ。

 【天井からは落ちていない
P306「本当に、はんかくさい(おかしいの意)。私が最初から言っているじゃないですか。すべて、喜八郎さんの作り話だと。もともと、この家には何もなかったんです。古い巻物とか書き物なんか、一切伝わっていなかったんです。それも、よりによって何千巻もだなんて・・・。それなのに、なんで、頭のいいはずの学者さんたちがコロッとだまされたんでしょうか。不思議でしかたがありません。いいですか、聞いてください。古文書が落ちてきたという1947年ごろ、私はこの家に暮らしていましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。原田さんの言うとおり、1947年にはまだ天井板を張っていませんでした。ありもしない古文書が、ありもしない天井板を突き破って落ちてきたなんて。本当にもう、はんかくさい話ですよ」

おっしゃるとおり、「頭のいいはずの学者さんたちがころっとだまされ」てしまったんですね。はんかくさい、残念です。

役小角の墓発見騒動
P214 「盃が見つかった場所から、今度は仏像が出るといううわさが立ったので、飯詰の村人数人が喜八郎さんと一緒に石の塔の山に行きました。その時、一緒に行った人から聞いた話ですが、現地では、あまり土を掘らないうちに仏像が出てきたそうです。でも掘りだしたとたん仏像の首がもげてしまった。村人の一人が、キハチさん首がもげたと言うと、キハチさんは「うん、それは前からもげそうだったんだ」・・・・
 みんなで笑うしかなかった、と言ってました。出る(仏像が)といううわさを広めたのもキハチさん。」 

 確かにこれはもう笑うしかない。油断したのであろうか、ついうっかりホントのことを口走ってしまった。潮干狩りでは、事前に貝を仕込んでおくそうだが、まあそれで参加者の子供たちや家族が楽しめたらよいかとは思うが、この場合は、役小角の墓の証拠にしようとした詐欺的行為であり許せるものではない。旧石器捏造事件の偽装工作と同じレベルのものだ。喜八郎は、このような行為、工作を繰り返していたのだろう。

 この和田キヨヱさんの証言こそ、たいへんリアルであるといえる。もし「逆襲」しようと目論むならば、まずこの証言に別の証拠で彼女の発言はでたらめだ、といった反論する必要があるだろう。しかしそれができないから一言もふれないのではないか。こんなことでは「逆襲」などと言う資格はないであろう。

 参考文献
斎藤光政『偽書東日流外三郡誌事件』新人物文庫(新人物往来社) 2009  冒頭写真も利用させていただいた。

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