先にヤマトタケルがイヅモタケルの刀をすり替えてだまし討ちを行う説話を取り上げた。そこでは、字の文にたいして挿入された歌は、意味が違っていたのであり、別物の歌が説話に転用されたと考えられる。このような例は神武天皇記の歌にもあって、奈良県の宇陀の地で罠に鯨がかかったという奇妙な歌詞があり、これも転用である。
そして、ミヤズヒメの歌の場合も、景行天皇の時代の説話であるかのように理解されているが、これも後の時代の歌であると考えられる。それは、おすいの裾で説明したように、天武期に規定された裾付き礼服を着用する人物の時代である。つまり天武の時代の前後に、朝廷に参列しうる皇女のことである。
するとヤマトタケルも同様に天武の時代の頃の皇子と考えられる。では、具体的にどのような人物と想定できるであろうか。
【1】「高光る日」と「高照らす日」の皇子
この御子(皇子)に対して「高光る日の」あるいは「高照らす日の」と歌う句を持つ万葉歌が、10首ほどある。
45番歌 柿本人麻呂が歌った「やすみししわご大君高照らす日の御子」は軽皇子(文武天皇)。
167番歌 柿本人麻呂が日並皇子(ひなみしのみこ)を「高照らす日の御子(高照日之皇子)」と歌っている。
171番歌 舎人(とねり)の歌として「高光るわが日の御子(高光我日皇子)」とある。日並皇子の宮殿を歌っているとされる。
173番歌 舎人(とねり)の歌として「高光るわが日の御子(高光吾日皇子)」とある。こちらも日並皇子の宮殿を歌っているという。
162番歌 「高照らす日の御子」とあるが、持統が天武のことを歌ったもので対象外とする。
204番歌 置始東人 ( おきそめのあづまひと)の歌に「やすみししわご大君高光る日の御子(安見知之吾王高光日之皇子)とあり、題詞に弓削皇子薨去の際の歌とある。
239番歌 柿本人麻呂は長皇子を「やすみししわご大王高光るわが日の御子(八隅知之吾大王高光吾日乃皇子)」とする。
261番歌 柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子「やすみししわご大王高輝らす日の御子」
3234番歌 「やすみししわご大君高照らす日の御子」と歌われているが作者未詳。
50番歌 藤原宮之役民作歌として「やすみししわご大君高照らす日の御子(八隅知之吾大王高照日乃皇子)」とあるが、皇子の名前は不明。
52番歌 こちらも藤原宮の歌であり、「やすみししわご大君高照らす日の御子」とあるが、作者不明。
なお「大君」については、天皇だけではなく皇子も意味するものであると考えられている。『古事記』のミヤズヒメは、「多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美(高光る日の神の御子よ、わが大君よ)とうたっていることからも、大君が皇子を歌っていると考えてよいと思われる。
そうすると、「高光る」「高照らす」と歌われた皇子は、軽皇子、日並皇子、弓削皇子、長皇子、新田部皇子、作者不詳となる。名前がわかるのは、みな天武天皇の皇子ということである。では、残りの作者不詳はどうか。同じ天武の子で壬申の乱で活躍した高市皇子は対象とならないであろうか。
日本書紀の持統紀4年に「高市皇子觀藤原宮地」とある。高市皇子は持統紀6年に完成した藤原宮の工事途中に視察に訪れている。ならば、50番歌の藤原宮建設中の作業者が歌う日の御子は、高市皇子も対象となろう。これについては早くに指摘しておられる方がいる。
【2】末田重幸、松本清張らの指摘
万葉歌50,52番歌は人麻呂の作歌として間違いなく、この二篇「藤原宮之役民作歌」「藤原宮御井歌」は、太政大臣高市皇子へ献歌したものとなる(末田1977『柿本人麻呂と高市皇子』)。
末田重幸氏は元来、この二作品が高市皇子への献歌であることを指摘した評者を寡聞にして知らない、とされている。
松本清張は、『清張通史5(壬申の乱)』において、当時の宮廷は、持統天皇による高市皇子暗殺は公然の秘密ではあるまいか。日並皇子(草壁皇子)の殯の宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の長歌167番に付した反歌二首(168・169)は、高市皇子の殯宮の時につくられたものだとしている。明言はしておられないようだが、167番歌そのものの対象を日並皇子とすることを積極的に肯定はされていないようだ。
169番歌はその本文に「或る本に、件の歌を以ちて後皇子尊の殯宮の時の歌の反と為せり」との付注があることからも、高市皇子への反歌であることも想定できる。
さらにさきほどの末田重幸氏は、さらに興味深い指摘をしておられる。
3324番 「かけまくもあやに恐し藤原の都」の出だしから、少し後に「いつしかも日足らしまして望月のたたはしけむと我が思へる皇子の命」(挽歌 作者未詳)
上記の歌で、人麻呂はその皇子がやがて皇位に登る日が近いことを確信していた、とされる。
以上のことから、作者不詳の日の御子は高市皇子も含まれることがわかる。
さらに、高市皇子の死を、病死や偶発的なものではなく、周到な戦略にのせられた計画的な犯行によるものであることを推測させるという『日本書紀』の記事を高市皇子薨去の翌月のものから挙げておられる。
持統十年七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
八月庚午朔甲午、以直廣壹授多臣品治、幷賜物、褒美元從之功與堅守關事。
九月庚子朔甲寅、以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬、幷賜賻物、以顯元從之功。
8月は品治(ほむじ)が関を守ったことに対する褒賞記事だが、壬申の乱での不破関での功労については、天武期に褒賞されているので、別の功労に対するものとする。それは、高市皇子殺害の報が伝わると、東国で挙兵する集団に対してその進攻を関にて阻止したことを意味するのではないかと。
同じように、9月の五百瀬(いほせ)も協力したことに対する褒賞とされた。興味深いアイデアと思われる。
【3】ミヤズヒメが歌った「高光る日の御子」とは?
さて、この中で誰が『古事記』の日の御子の候補となるであろうか。万葉歌には関係しそうな歌があった。
それは急逝した十市皇女(とおちのひめみこ)のために高市皇子が歌った156番の挽歌であった。
みもろの神の神杉夢のみに見えつつ共に寝ねぬ夜ぞ多き
三輪の神々しい神杉のようなあなた。夢ばかりに見えながら共寝できない夜が多いことよ。
高市皇子は、夢に見るだけでいっしょに夜を過ごせないことを嘆くような歌をしたためたのである。
十市皇女は壬申の乱で戦った相手である大友皇子の正妻であり、さらに高市皇子は彼女の異母弟にあたるという微妙な関係であったが、二人に恋愛感情があったのは否定できないであろう。
十市皇女は壬申の乱で戦った相手である大友皇子の正妻であり、さらに高市皇子は彼女の異母弟にあたるという微妙な関係であったが、二人に恋愛感情があったのは否定できないであろう。
次は『古事記』のヤマトタケルの歌である。
比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理
ひさかたの、天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、か弱く細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、(鳥の)ツキが出てしまったことよ。
ヤマトタケルは、ミヤズヒメの細くてしなやかな腕を枕にして寝たいと思うのに、月日が経ってしまったと嘆くように歌っている。思うばかりで実際には会えないことを歌にしたという点で連動しているのではなかろうか。
そうであるならば、『古事記』の歌の男性は高市皇子のことと考えてよいのではなかろうか。ならばミヤズヒメに当る女性は、天武期に規定された裾付きの礼服を着用した皇女の十市皇女となるであろう。譚に歌の雰囲気が似ているといった程度の、たいへん心もとない思い付きではあるが。
万葉歌には亡くなった十市皇女を悲しむ高市皇子の歌しかないのであったが、このように考えると、古事記には生前の十市皇女と高市皇子が愛を交わす問答歌(相聞歌)があったということになるのだが、どうであろうか。そうであれば、『古事記』の歌には、後の時代のものが転用されていることを示す事例となるのであった。
参考文献
末田重幸1977『柿本人麻呂と高市皇子』講談社
松本清張1979『清張通史5(壬申の乱)』講談社文庫

















